[フレーム]

感じたまま

日々感じたこと。 外歩きや、見学をしたことを記録しています。

2017年09月

容器文化ミュージアム


表題の博物館を見てきました。

最寄りの駅大崎駅です。
以前は山手線だけの駅であり、周辺はソニーや明電舎などの工場地帯であった。
東京都が1982年に大崎副都心に指定すると緩やかながら再開発
が進み、
2002年12月に埼京線・りんかい線・湘南新宿ラインが利用可能になってからは
開発が加速している。
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目黒川をを渡ります、橋は「御成橋」でした。
御成橋を調べてみましたら10か所もありました。
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こういう桜がありました。
確かに聞いてことはあります。
荘川桜。
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そういう目で見ると何となく立派に見えます。
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東洋製罐グループホールディングさんが運営しています。
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ホールで簡単なレクチャーを受けます。
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タイムカプセル缶作りに使う缶に封印をするとき使う機械。
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約100年前の自動製缶機です。その優れた製缶能力により、缶容器製造の発展に大いに貢献しました。自動製缶機が開発されるまでは、中身を詰める缶詰会社の職人が手作業で缶を作っていました。
インバーテッド ボディ メーカーは国立科学博物館の「重要科学技術史資料(未来技術遺産)」第00093号として登録されています。
国立科学博物館HP
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缶を作る心臓部、説明を聞いたがよく理解できなかった。
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館内入口付近。
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こんな時計が飾ってありました。
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ペット瓶のラベルがむしりやすいようになっているへこみ。
今までこういうことに気が付かなかった、
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缶詰の歴史のコーナー。
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このあたりになると見た記憶があるね。
左側の味の素の缶、懐かしいね。
また右端のコンビーフの缶詰これも懐かしい。
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この看板今でも骨董品としてたまに見かけませんか。
それにしても「ボン」がフランス語の「良い」という意味とは。
ボンカレーの歴史
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ポンプ型の噴霧器。
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容器の歴史が良く解かるようになっています。
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ミュージアムはこのビルの一階、二階にあります
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此処はHPにも出ていますが説明などをしていただかなければ全くフリーで
予約なしで見学ができます。

今回のブログ、内容はむしろこのミュージアムのHPを見ていただいたほうが
理解が早いかな。


西方寺二回目です。

陽光に輝いています。
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観音堂
この西方寺が移転してくる前からこの地を守って下さっている
十一面観音様をお祀りしているお堂です。
ご本尊は写真撮影禁止でした。
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太子殿と読めますがはっきりわかりません。
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此の立派な鉄筋コンクリートつくりの建物。
想像ですが、
注大般涅槃経(ちゅうたいほつねはんぎょう) 奈良時代 国指定重要文化財
本尊阿弥陀如来坐像(定朝様式)(平安時代) 県指定重要文化財
此の二点が厳重保管されているのではないでしょうか。
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本堂を鐘楼のほうから見ました。
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赤い萩の花。
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白い萩の花。
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名前がわかりません。
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ここでも花に蝶が。
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酔芙蓉
赤いものは昨夕、色が赤くなった花でしょう。
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綺麗な色に咲いています。
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道路を隔てて参道を見ました。
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向かい側の園芸店で売っていました。
値段は12800円でした。
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これで西芳寺 彼岸花見物を終わります。
ご案内をしていただきましたMさん、同行の皆さま楽しかった一日を
ありがとうございました。



西方寺に彼岸花を見に行ってきました。

最寄り駅の横浜市営地下鉄「新羽駅」
1993年(平成5年)3月18日
市営地下鉄3号線新横浜駅 〜あざみ野駅間開通に伴い、開業
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島式ホーム2面3線を有する高架駅で、湘南台方面とあざみ野方面は別ホームである。
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駅から数分で西方寺に着きました。
建久年間(1190年〜1199年)に鎌倉の笹目に
創建されたという西方寺(真言宗)。
開山は東大寺別当、醍醐寺座主を勤めた勝賢僧正。
山号は補陀洛山。
鎌倉の笹目から極楽寺山内に移転した後、明応年間(1492年〜1501年)に
新羽の地(現在地)に移転したと伝えられている。
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彼岸花、やや盛りは過ぎていました」。
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酔芙蓉、夕方になると赤くなります。
何故赤くなるのか、花の細胞が赤色のアントシアニンという色素を生合成して
蓄積していくためです。
25°C以上あると作られやすく、特に午後から活発に作られます。
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綺麗な青空と酔芙蓉。
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銀杏の木に銀杏の実がびっしりついています。
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青空に凛とそびえています。
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彼岸花に蝶が止まりました。
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前方に見える山門は(茅葺き)江戸弘化時代の物。
天保の後、嘉永の前。1845年から1848年までの期間を指す
横浜市指定文化財。
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本堂。
横浜市指定文化財、
平成の大修理によって屋根が茅葺きになり江戸時代の創建当初の姿に復元されました。
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鐘楼(茅葺き) 江戸宝永時代の物(1704年から1711年)
横浜市指定文化財
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鐘楼の天井。
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西方寺1/2回目終わります。

南下浦散策4/4

金田山円福寺続きます。
円福寺の本堂は昭和7年の再建です。
本尊は阿弥陀如来で、厨子の中には運慶作と伝えられる三浦地蔵尊を祀っています
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これで金田山と読むのですね。
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本堂に右手にある大きな蘇鉄の木。
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此のお寺には二体の六地蔵があります。
これは新しいほうの六地蔵です。
六地蔵の石仏は室町時代のころから作られるようになりました。
そして、江戸時代になると各地に広まり、さまざまな形状をしたお地蔵様が
作られるようになりました。
六地蔵とは
地蔵菩薩の6分身をいう。生前の行為の善悪いかんによって,人は死後に,地獄,
畜生,餓鬼,修羅,人,天という六道境涯輪廻,転生するといわれるが,
そのそれぞれに,衆生救済のために配される檀陀,宝印,宝珠,持地,除蓋障,
日光の6地蔵をいう。
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境内の入り口付近で出迎えてくれる、七福神の石像たちです。
本堂に行く階段を登ったりするのが大変なので、ここで参拝を済ませる
方もいるらしいです。
おめでたい七福神といわれていますが、由来ははっきりとしていません。
室町時代末期から福徳長寿を祈って、民間信仰として根付いてきたと考えられています。

七福神は一般的に、恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、
布袋の七神です。
恵比寿はイザナギノミコトの第三子、大黒天・毘沙門天・弁財天はインドの神様、
福禄寿は中国の道士、寿老人は老子、布袋は弥勒。日本、インド、
中国の三ヶ国の神様です。
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大きな木が腐っていました。
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中をのぞくと小さな芽が出ていました。
植物って本当に逞しいね。
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赤でもない、白でもない、ピンクの彼岸花です。
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金田山円福寺を出て海岸沿いの幹線道路を歩きます。
こんな車がありました、ハウストレーラーですね。
タイヤが付いたプレハブ住宅ですね、個人の所有物かな。
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遠く久里浜の発電所の煙突が見えます。
今日は湿気が高く霞んでいます。
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白山神社に着きました。
鎌倉時代の創建と言われ源頼朝に仕えた三浦一族の武将、菊名左衛門重氏によって
加賀国一宮、白山比咩神社を勧請したと言われています。
当時は、山林に鎮座し、白山宮と呼ばれていたとのことです。
鎌倉幕府滅亡後は、荒廃していましたが江戸時代に現在地に社殿を造営し、菊名の
氏神様として、信仰されています。
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小高い丘の上に社殿があります。
この地は、三浦義同が北条軍の侵攻を防いだ城山の跡地とのことです
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社殿の裏側には、白山古墳と呼ばれる横穴古墳があります。
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正式には、「切妻造妻入形横穴古墳」というそうです。
古墳時代の有力者のお墓です。
鎌倉などによくある横穴古墳とは違ってとても丁寧な作りです。
しかも二倍以上の大きさがあり近畿地方の古墳とは比べようもありませんが
この近辺の有力者の墓だと思われます。
大きさは奥行き5,4m幅2,7m高さ1,7mdで、天井は切妻作り風、柱や棟なども
浮き彫りにされ壁には朱塗りを施した跡が見られます。
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これは新しい狛犬。
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その下に古い狛犬がいますが、ひどく傷んでいます。
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白山神社を後にして
正覚山成等院十劫寺に行きます。
十劫寺は正覚山成等院と号す寺で、開基は上宮田の豪族松原新左衛門、開山は江戸の芝、
西応寺の僧厳誉。
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屋根上の家紋。
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屋根上の飾り、こういうものを何と呼ぶのでしょうか。
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浄土宗で、本尊は阿弥陀如来。
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公孫樹の下に「まかせ由緒」の立札が見えます。
「まかせ」とは、鰯漁(いわしりょう)で使う網のことで、一度にたくさんの魚を獲る巻網漁法のことで、その名の由来は大きな網を曳くときに「ヨイトマカセ」の掛け声を上げるということからきているのだそうです。江戸時代、三代将軍家光の時、寛永年間(1624年〜1643年)に紀州和歌山から伝わったというのです。当時上方(かみがた)(大阪を中心とした)で、棉(めん)の肥料として干鰯(ほしか)の需要が増え、漁場を求めて関東へと進出してきたとのことで、浦賀では「干鰯問屋」が栄えていたと言われています。その後、当地と紀州との往来が増し、この地へ来た漁師を網になぞらえて「まかせ」と呼ぶようになったという話です。
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右側にその漁師たちの墓と言われています墓石があります。
その年号を見てみますと、古い順に「元文」「宝暦」「安永」「文化」とあり、
2基は不明で、6基の墓があります。
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さらに、その一区画に、天保15年(1844年)造立の「海上殉難(じゅんなん)
者之霊塔」がありまして、碑文に「海中魚鱗抜苦與楽」の文字が刻まれています。
開眼者は十劫寺の18世寂誉という方の名が見えます。
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笹塚不動。
市の指定文化財の笹塚不動明王像は室町時代の作、木造寄木造り、玉眼嵌入
(ぎょくがんかんにゅう)の座像で、像高76・3センチ、右手に宝剣、
左手には羂索(けんじゃく)(民を救う5色の綱)を持つ通形の姿です。
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ガラスケースが光ってお姿が見えません、残念。
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正覚山成等院十劫寺のすぐそばに岩井口焔魔堂と岩舟地蔵があります。
十劫寺の管理で、境内に庚申群、閻魔堂の右側に三浦ではきわめて珍しい
「岩船地蔵」があります。大きな岩船に乗る地蔵坐像で台石に「石舩地蔵」と
あり、造立年代は不明ですが、この地蔵は漁師が海難に合った時、救ったと
いう伝説があります。
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岩舟地蔵を拝んで上宮田海防陣屋跡」に向かいます
三浦海岸駅前の南下浦市民センターの敷地内に「上宮田陣屋跡」があります。

説明板によると、弘化4年(1847年)徳川幕府が当時異国船渡来におびえて、急ぎ江戸湾防備に着手したとき、三浦半島の警備を命ぜられた彦根藩主井伊掃部頭直弼が、赴任に当たり上宮田に三浦郡・鎌倉郡の軍政の本拠を置いたところから「海防陣屋」と呼ばれました。浦賀千代ケ崎、鶴崎、千駄ケ崎、箒山、大浦山、剣崎、安房ケ崎、荒崎、八王子山(腰越)の9カ所に砲台を構築し、また、三崎の城山と原に分営を設けて警備にあたりました。嘉永6年(1853年)に長州藩が交代し、さらに安政5年(1858年)には熊本藩にかわり、佐倉藩を経て、その後浦賀奉公に移管されました。この20年間にわたって、領地の行政官庁もここにありました。明治維新の改革に献身した人々がこの海防陣屋にきていわれ、木戸考充は桂小五朗といったころの21歳、伊藤博文は俊輔といったころの16歳、共にこの海防陣屋に衛士として勤めていました。ことに伊藤博文の将来あるのは、この陣屋からとまでいわれています
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海防陣屋址の碑。
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これで4回にわたりました南下浦散策を終わります。
ご案内と解説をしていただきました「厨子ボランタリーガイド倶楽部」の皆さん
同行の皆さん楽しい一日をありがとうございました、お世話になりました。



南下浦散策3/4

岩浦山壽福寺を後にして三浦義村公の墓に向かいます。
急な階段を登ると茂みに埋もれて墓があります。
よく見ると何かおかしな形ですね、説明によれば、この三浦義村の墓は、
1923年(大正12年)の関東大震災で、ここから崖下の海へと転落してしまった
そうで、破損した残石を積み上げなおしたとの事です。
そのため、ヘンな形をしているのですが、三浦義村の旧墓として保存されています。
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ここは福寿寺の塔頭で南向院跡でもあるそうです。
上の写真のさらに奥に有志によって建てられた新墓(供養碑)があります。
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義村の墓の奥には八坂神社があります。
昔は神仏混交であったために神社も祀られていました。
ですからこの八坂神社は南向院の鎮守だったのかもしれません。
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何時頃作られたのか、彫ってある文字は読めませんでした。
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壁面。
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蘇鉄でしょうか。
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金田漁港に着きました。
此処で昼食休憩を取りました。
此処の朝市は有名です。
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のどかな、静かな海.
暑くもなく、寒くもなくいい日和です。
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休憩を終わり
金田山清伝寺に行きます。
清傳禅寺の寺号標の上部には、臨済宗建長寺派と、
三浦観音第八番と書かれてありました。
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開山は建武年間(1334年〜1335年)、桃源宗悟禅師の建立とされています。
本尊は聖観世音菩薩です。

清伝寺には、カッパの証文の伝説が残されています。
寺の脇を流れている川は「すずの川」といいます。
昔はこのあたりまで潮がさかのぼり、川でスズキ(鱸)が釣れたので「すずき川」と
呼ばれていましたが、いつしか「すずの川」と呼ばれるようになりました。
伝説の一端を見ても、昔から現在に至るまで、三浦半島は隆起しているというのが
わかりますね。

昔はこの付近は深い森に囲まれた寂しいところで、すずの川にはカッパが住んでいました。夜となく昼となく、里人をだますいたずら好きのカッパで困っていました。
ある日、農夫が馬を引いて川に下り、杭に手綱をつないで馬を洗い始めると、いつの間にか手綱が解けていました。結びなおしても解けてしまうので、カッパのいたずらだと気が付き、杭を固く縛ってカッパを捕まえてしまいました。
普段からいたずらに困っていた里人たちは、よってたかってカッパを懲らしめていると、騒ぎを聞きつけてやって来た住職が見兼ねて止めに入り、カッパを助けてあげました。その代わり、人をだますような悪さをしないように良く諭したとのことです。
非を悔いたカッパは、詫び証文を書いたといわれています。
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お寺の境内に笠森稲荷があります。
大阪府高槻市にある稲荷神社と、そこから勧請された神社である。
笠森稲荷神社、笠森神社(かさのもりじんじゃ)とも呼ばれる。
笠の訓読により、(かさ、かさぶた)平癒の神として信仰された。
理由は分りませんが三浦半島では、神社仏閣に関係なく、稲荷社が祭られています。
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荒れ果てていますね。
今は瘡の人が少ないからお参る来る人も少なくなっているのかな。
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境内に有った蓮の実。
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何か曰くののありそうな鐘ですが良く解かりません。
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寺のすぐわきに河童伝説のスズキ川が流れています。
伝説によればここまで海水が上がってきたといいます。
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清伝寺を後に走湯神社に向かいます。
走湯神社と書いて、「そうとうじんじゃ」と読みます。
ついつい、「そうゆじんじゃ」と読んでしまいますね。
走湯神社は、地元では「金田の権現様」と呼ばれています。
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水盤舎。
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建立は、寛政12年11月とありました。
調べたら西暦1800年です
傷みが激しく、顔の鼻の部分がかけていました。
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実際に使われいた物かどうかは、わかりません。
常夜燈ですが、こちらは昭和16年に納められたと読めました。
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祭神は天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)です。
一般的には、水田などの農耕の神様です。
寛治元年(1087年)伊豆国加茂の金田走湯神社から分祀されました現在の社殿は
大正14年(1925年)に改築されたものです。
毎年、7月20日と、7月21日、夏の例大祭が行われます屋台が地区内を回り、
見せ場では屋台を豪快に引き倒します。
屋台にはそれぞれ五穀豊穣、天下泰平、国家安泰、大漁萬作、家内安全
などの願いが込められています。
3月14日には祈年祭の春祭、10月14日には例祭の新嘗祭、
12月14日には秋祭が行われるみたいです。
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この神社にも庚申塔が何体かありました。

一番右は青面金剛ですね。
この青面金剛も、右手に女性をぶらさげています。
この女性はショケラって言われています。

真ん中は文字碑です。
この写真では見えませんが、この庚申塔にも上部に日月が掘られています。
非常に彫りが浅いので、見えづらいです。
明治三十五年と書いてあり何とか衛門と読めます。
調べると西暦では1902年です。

一番左の庚申塔は、修復しています。
上から漆喰を塗りなおしてあるようです。
主尊の青面金剛が合掌しています。
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続いて金田山円福寺に行きます。
三浦七福神巡りで、恵比寿様のお寺です。
とくにここの恵比寿様は、金光恵比寿(きんこうえびす)と呼ばれています。
山門前に鎮座しています。
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浄土宗のお寺で、金田山円福寺といいます。
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遠い昔のある夜のこと、金田湾の海上に光るものを通りがかりの漁師さんが
見付けました。
これを怪しんで舟を寄せて拾い上げたところ、黄金に輝く恵比寿像でした。
大漁満足の瑞兆と喜んで、持ち帰って草庵を建ててお祭りしました。
そしてその草庵には、村人がこぞってお参りにきました。
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大銀杏や槇の古木を見ながら進みます。
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階段を登ると左側に平成8年落慶の鐘楼堂が見えます。
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南下浦散策3/4回目終わります。

南下浦散策二回目です。



千光山福泉寺の続きです。
前回、此のお寺は花木が多いと記しました。
あまり広くない境内ですが様々な草木があります。
この花はユリの仲間だと思いましたら、なんと彼岸花の仲間だとか。
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交通安全祈願の地蔵さん。
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緑の中に静に彼岸花が咲いていました。
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福泉寺は水上特攻隊、岩館部隊が本部にしていた場所であり、
この碑は平成17年5月27日に建立された。
なお、碑の前には昭和53年5月に植樹された海軍特攻隊記念樹がある。
碑高105cm、幅167cm、厚さ15cm、台石26cm
碑文
「第56震洋特別攻撃隊岩館部隊の碑
太平洋戦争の末期、物量豊かな米軍の前に 精鋭を誇った帝国海軍も幾多の艦船、
航空機 を失い戦況は本土決戦の様相となった。
そのころ海軍部では米軍の本土上陸に備え 空中・水上・水中の特攻兵器を開発、
生産に 追われていた。
その中の水上特攻兵器が「震 洋」と名付けられた特攻艇で、〜〜〜略
〜〜〜
部隊本部が福泉寺に、下士官搭乗員は四軒 の民家に分宿、特攻基地は江奈湾に置かれた
江奈湾を挟んだ東西岸壁に壕が掘られ、東側 三、四艇隊、西側に一、二艇隊の震洋艇が
格 納された。
訓練は敵機の発見を避け夜間に行 われた。士官搭乗員五名、下士官搭乗員五一 名、
基地隊・整備隊員一二七名、併せて一八 一名の部隊だったが、一人の戦死者もなく
終 戦(昭和二十年八月十五日)、それぞれの故 郷に生還する事ができた。
わずか二ヶ月余りの短い期間、第五六震洋 特別攻撃隊岩館部隊がこの地にあった
事を、 碑文として後世に残し、終戦六十周年を機に 戦争のない、
世界の平和と繁栄を願うもので ある。
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門前に新しい六地蔵が祀られています。
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福泉寺を後に金田漁港方面に向かいます。
広々とした気持ちの良い所です。
正面のタンクはこの地域に給水する上水のタンクです。
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金田湾。
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先ほど見えたタンクは上水道のタンクでした、水が5千屯も入るそうです。
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こんな道を下りました。
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のどかな景色。
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此のスイカは何でしょうか。
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金田の漁港が見えてきました。
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ソバナに似ているがどうでしょうか。
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岩浦山壽福寺
壽福禅寺の変額。
開山は1200年頃、三浦大介義明の孫である三浦義村が創建したとされています。
この岩浦の里は父祖伝来の地であり、菩提寺とし自身も近くの台地に祀られています。
現在のお堂は平成元年(1999年)に再建されたもの。
コンクリート造に改装されるお寺の多いなか、このお寺は完全木造にて改修
されました。
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本堂内
本尊は 聖観世音菩薩。
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西堀栄三郎植村直巳多田雄幸の顕彰碑。
夢の文字は御住職筆 平成6年建立。
故植村直巳さんもよくこのお寺を訪れ、御住職と語り合ったそうです。
金田のお寺で、こうした大冒険家の名前を目にするとは不思議な感じでした。
此の冒険家の方々はどのようなご縁でご住職とお知り合いになられたのでしょうか
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慰霊の観音様。
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出来たばかりの鐘楼。
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未だピカピカの鐘。
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札所となっている地蔵尊はこの「勝軍地蔵」のことと思われます。
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お寺の擁壁に埋め込まれたタイル。
何の鳥でしょうか。
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此のお寺の参道にも庚申塔がありました。
いずれも宝永から明治初期の珍しいものです。
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岩浦山壽福寺を後に金田漁港に向かう途中にあった、長屋門?と
思われる建物。
もし本当に長屋門ならもったいないね。
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南下浦散策二回目を終わります。


南下浦散策に行ってきました。


写真は4回に分けて貼ります。
今日は一回目です。


今日の散策の集合場所京急の三浦海岸駅です。

1966年(昭和41年)7月7日
- 久里浜線の終着駅として開業。

計画時の駅名は地名に基づく「上宮田駅」であったが下浦海岸にちなむ
この名称とし、延長区間を三浦海岸線と呼びPRにつとめた。

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当駅から小松ヶ池公園までの線路沿いで、毎年春に「三浦海岸桜まつり」が

開催される。
これを記念して2014年から、桜まつりの開催期間中は駅正面の駅名看板を桜色に
変更している。
粋なことをやりますね。


バスで剣崎に向かいます。

剱崎
剱崎


剱崎(つるぎざき)三浦市南下浦町松輪神奈川県、三浦半島東南端に位置する岬である。
かながわの景勝50選に指定されている。
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私はこの地名を「ケンザキ」と言っているが
当地の呼称については、漢字表記に「剱崎(埼」「剣崎(埼」「劔崎(埼」が、

読みに「つるぎき(つるぎき」と「けんき(まれに「けんき」)」があり、
名称の表記・呼称に関して情報が交錯していることが知られている。
本岬に由来する軍艦の場合、給油艦「剣埼」や剣埼型潜水母艦
「剣埼(のちの空母「祥鳳」)のように「劍崎/劍埼(つるぎざき)」を使用している。

周辺にある地名を冠した建物等もこの内のいずれかが使われており統一されていない。

漢字、及びその読みについてどれが正しいのかについても確たるものがなく
これについて、昭和55年に地元の町内会から三浦市に対し、表記・呼称の統一の
陳情があった。結果、表記は「剱埼」、呼称は「つるぎざき」に統一されていく
模様である。
実際に、灯台の名称は「剱埼(つるぎざき)灯台」となった。

しかし、長く親しまれた施設、例えば幼稚園などの教育施設などの名称は、
今後も改訂しない模様である
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このバスで移動しました。
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バスを降りて旧道にに入ります。
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今回の散策は道祖神、庚申塔がたくさん見られました。
道路の変更、宅地開発などでたくさんの物がこのように集められたのでしょうね。
制作年号は文化、文政、嘉永、安政、文久等が多いようでした。
たまたまだろうが慶應の物はありませんでした。
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間口漁港、恵奈湾です。
此の干潟には様々な生き物がいます。
この付近では「子網代の森」が有名ですね。
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恵奈湾のワイド写真。
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アオサギでしょうか、エサがたくさんあるので住み着いたか、または森から来たか。
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漁港の入り口にあるお堂のような建物をガイドさんがいきなりドアを開けたのに
びっくり、ここがキリシタン灯篭が安置されている場所でした。
石灯籠は十字架をかたどっていて、マリア像が刻まれています。
これにまつわる記録や伝承は全く残っていないようです。
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この写真では解り難いですが上部には卍(カギ十字)その下にはマリア像が
刻まれています。
それにしてもこのがらくた何とかならないのでしょうかね。
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右の道路が新道左の坂道が旧道。
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この道の際にもたくさんの庚申塔があります。

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私は農業の経験がないので定かではありませんが大根だと思います。
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このあたりの高台からケンザキの灯台が望遠されます。
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いったいこの付近だけでどれほどの数があるのだろうか。
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福泉寺
本尊は聖観世音菩薩。
「新編相模風土記」によると「千光山」と号す、臨済宗鎌倉建長末、
本尊正観音、開山賓溟、元徳元年三月十四日卒とありますが、
開山の名前は「賓溟誉禅師」だということです。
開山の亡くなられた1329年(元徳元年)を歴史的にみると鎌倉時代の最終末で、
2年後には「南北朝時代」になっています。
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山門の変額。
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本堂。
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本堂の扁額。
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ご本尊。
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三界萬霊塔。
この世のあらゆる生命あるものの霊を、宿らせ供養するためのものです。
施餓鬼会においては、連綿と続いている御先祖様のおかげで、
今の私たちがあることに感謝して、合掌しましょう。
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此のお寺の植物の多さは大船の植物園より多いと聞きましたが。
これはバナバの実だと思いますが。
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南下浦散策一回目を終わります。

南極・北極科学館3/3回目


南極観測の草創期、犬橇(いぬぞり)隊として活躍した犬たちを、
一頭ずつご紹介しています。
南極観測では、隊員が南極に留まり越冬することが計画の要となっており、
この越冬隊が入れ替わることで昭和基地での観測活動が維持されます。
しかし悪天候のため、第二次越冬隊を乗せた観測船は昭和基地まで行くことが
できず、犬たちの回収も不可能な状況でした。
そして観測隊はやむを得ず、犬たちを南極の地に置き去りにすることを
余儀なくされたのでした。
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犬の名前と顔の色は毛並みの色でしょう。

犬たちの生存が絶望的とされた中で、一年後、観測隊は再び南極へ赴きます。
そこで、2頭の犬と再開を果たすことになります。これがタロとジロという兄弟犬
でした。
第3次越冬隊によるヘリコプターが降り立つと、この二頭は操縦士に向かって
駆け寄ってきたそうです。
タロとジロは、繋がれていた鎖を抜け出し、自力で食糧を調達し、
厳しい南極の地でも生き延びていたのでした。

南極に置き去りにされたにも関わらず、再び生きた姿を見せたという
センセーショナルなエピソードは、日本中に大きな感動を呼びました。
この印象的な出来事は、1983年に『南極物語』として映画化されています。
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これが当時1956年頃に使われて犬橇です。
材質は籐だといいます。
現在では条約により犬を使うことは禁止され、すべて雪上車に置き換わっています。
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南極点到達雪上車(KD604,KD605)
雪上車KD604とKD605は、わが国の南極観測史上、最初で最後となる第9次南極観測隊の
極点往復プロジェクトで、1968年(昭和43)12月19日南極点に到達した雪上車3台の
うち2台である。
この行程は往復約5200km、調査期間約5カ月に及んだ。
これらの車両は極低温や、南極特有の細かい上下方向に柱状の凹凸のある雪面環境に
対応するため、小松製作所(当時)で試行錯誤の末、開発された。

操縦も比較的容易であったという。
また、これらは後に世界初の南極隕石発見にも貢献し、後継機が開発されるまでの
約10年間、南極内陸調査の主役となった。
外板の黒塗装は、太陽熱を少しでも吸収する目的で行われ、この措置もあってか、
内部では普通の室内のような服装で過ごせたという。

これらが見せた極限での車両設計・運転実績を引き継いだ雪上車は、
わが国が当時世界最多の南極隕石保有国となるという、世界の南極観測史上に
残る成果を側面から支えた。
極点旅行で使用された残りのKD603は極点からの往路にエンジンが故障し、
修理不能と判断され、放棄された。
KD605はこの後も使用され、わが国が南極で使用した雪上車としては最長の
総走行距離17000kmを達成している
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この中で隊員は寝泊まりして極点を目指したのですね。
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認定書。
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観測船の模型。
しらせ。

しらせ は、文部科学省国立極地研究所の南極地域観測隊の輸送・研究任務のために
建造された南極観測船。
建造費は文部科学省の予算から支出され、艦の運用は海上自衛隊により行われている。
艦番号AGB-5003。初代「しらせ」後継艦として2009年に就役した。

文部科学省では「南極観測船」と表記しているため報道でも「南極観測船」や
「砕氷船」と呼ばれることが多いが、防衛省では「砕氷艦」と表記している。

海上自衛隊が運用し所属艦の証しである自衛艦旗を掲げており国際的には軍艦に
分類されるが、外務省では「軍艦ではなく、定期的な南極調査隊用の船舶である。」
との見
解を表明している。
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しらせ。
三代目のしらせ、二代目は「ふじ」。
上の写真はこのしらせの後継艦。
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二代目の南極観測船「ふじ」。
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日本初の南極観測船となった「宗谷」。
元々は南極観測のために建造されたものではなく、ソビエト連邦が川南工業松尾造船所
(昭和12年より香焼島造船所に社名変更)に発注した3隻の耐氷型貨物船のうちの
1つで、1938年(昭和13年)に建造されました。

その後、宗谷は奇跡的に無事に、終戦を迎えました。
そして引き揚げ船として改装を受けて引き上げに従事し、1950年(昭和25)
からは海上保安庁の灯台補給船として活躍。
そして、1956年(昭和31年)から1965年(昭和41)年まで、
海上保安庁の南極観測船として第1次〜第6次南極観測に従事します。
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海南丸。
開南丸(かいなんまる)は、白瀬矗南極探検に使用された木造帆船
命名は、海軍元帥東郷平八郎伯爵による。
船主旗の図案は三宅雪嶺の考案。
トン数 199t(一説に204t)
全長 33.48m
幅 7.85m
深さ 3.89m
軸出力 18馬力
だいたい現在の125ccのスクーターバイクに相当し出入港の補助にしか使えない。
(現在の同じ大きさの船は200〜2,000馬力くらいのエンジンを装備する)

よくこの程度の船で南極まで行ったね。
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隊旗。
船主旗の図案は三宅雪嶺の考案。
[画像:R-P9122469]

これが当時使われた旗。
今でもかすかに図柄が見えますね。
[画像:R-P9122470]

科学館の見学を終わり、向かい側にある立川市役所に行きました。
[画像:R-P9122486]


市役所の食堂を利用させていただきました。
立川市役所はこのように吹き抜けになっています。
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一階ホールでミニコンサートが行われていました。

  • 此の市役所の建物が賞を、受賞しました。
    [画像:R-P9122482]

  • これで南極・北極科学館の見学を終わります。
  • 此処はどちらかと言えば大人向けのは博物館のような気がしました。
  • 昭和記念公園からも近いので一緒の見学をするのもいいかもしれませんね。

  • 南極・北極科学館2/3回目です。



    岩石採取の道具。
    多い時には一回でで60Kgも採取するそうです。
    クリノメーターやGPSも携帯するのですね。
    クリノメーターとは、地質調査に用いる、地層面・断層面などの走向傾斜
    測る道具である。
    ルーペハンマーと共に、地質調査の三種の神器とも
    呼ばれる。間縄測量などの簡単な測量にも使える。
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    南極たいりくの地図。
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    南極の氷の深い所を振るためのドリル。
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    右側が先端、ドリルのあるほうですが長さは10m以上もあります。
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    南極大陸の模型400万分の1 高度強調30倍。
    日本列島との大きさ比較がわかります。
    写真では平たんに見えますが、大陸の凹凸が良く解かります。
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    防寒ブーツ
    左がD型、右がF型でウールの二倍は温かいと言われるテビロン綿を使い
    つま先や靴底は二重構造でマイナス50°Cにも耐えられます。
    右側のF型は室内でも靴を脱がない欧米型の習慣に対応して靴ひもで編み上げて
    固定するタイプです、どちらも日本製でF型は外国の調査隊のために日本が
    作ったものです。
    テビロン綿とはポリ塩化ビニール繊維とも言われ、塩ビと呼ばれる樹脂を
    紡糸して糸にしたものです。日本ではテイジン(株)からテビロン
    言う商標で販売されてます
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    こんなコーナーがありました。
    本当に南極の氷かなと疑っている人、南極観測では、観測船「しらせ」で物資を
    運びます。
    観測隊の食糧などをおろして空になった冷凍庫には、研究用の氷試料のほかに
    越冬隊が採取した南極北極科学館で展示する氷も詰めて持ち帰っています。
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    特に変わった物ではありませんが「南極の氷か」と思って触ってみました。
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    氷や雪はトケマスが字はどういう字を当てるのでしょうか。
    こんなパネルがありました。
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    南極は隕石が沢山採れます。
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    南極で隕石の発見が多いメカニズム。
    南極の隕石が何故貴重か、ここ「南極隕石」を見てください。
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    ここでは日本で唯一のオーロラシアターがあり、毎日オーロラが見られるのです。
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    シアターの内部は撮影禁止です、表のモニターで同時に映しています。
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    オーロラ観測用全天撮影カメラ、魚眼レンズカメラのような物でしょう。
    これは1970年〜1908年まで昭和基地で使われた物で400フィートの
    白黒フイルムに1分毎に記録しました。
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    左のパネルが隊員の役割と出身組織。
    右が「しらせ」と「海鷹丸」の活動地域と、日本からの航跡を表わしています。
    なお「第58次南極地域観測隊」についてはここに詳しく出ています。
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    活動、研究の記録をパネルで紹介しています。
    R-P9122442

    隊員の活動記録を動画で見せてくれています。
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    南極・北極科学館2/3回め終わります。



    表題の南極・北極科学館を見学してきました

    写真は3回に分けて貼ります。


    最寄りの立川駅にありましたかわいい「くるりん」くん。
    立川駅周辺は来る、たびに新しい店が出来ているね。
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    立川北口2番乗り場「大山団地方面ゆき」→立川学術プラザ下車で徒歩1分
    バス停「立川学術プラザ」の真ん前にある「国立極地研究所」

    国立極地研究所は南極大陸と北極圏に観測基地を持ち、その観測と研究を進めている
    施設で南極観測隊を送り出している機関です。
    それにしても大きな建物ですね。
    勿論他の大学等の研究機関もは入っているのでしょうね。
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    国立極地研究所の一階フロアーに展示してあった計算機。
    手回し式計算機タイガーの昭和26年制です。
    ×ばつB=の場合AをB回足していくやり方だと思ったが
    今の電卓も同じ考え方だと聞きました。
    感違いでしたらごめんなさい
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    「統計的制御趣味レーション装置」た書いてあり、パソコンを改修したと
    書いてありました。
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    リムーバブルディスク。
    直径が40Cmくらいありました。
    リムーバブルディスクとはコンピューターが稼働中でも着脱可能な
    記憶媒体のことです。
    USBメモリーなどがそうですがこれは昭和49年の物ですが容量が
    書いてありません。
    想像するより小さなものだと思いますよ。
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    一階に図書館があり、覗いてみましたら「名誉教授執筆監修図書」と
    書いてあります。
    どんな人が読むのかな。
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    アデリーペンギンのはく製が飾ってありました。
    手前が孵ったばかりの雛、左が幼鳥、奥が成鳥。
    南極大陸で見られるペンギンで成長は70〜90cmです
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    白い血の魚「クロスイショウウオ」

    透明な血液を持つ魚
    南極大陸周辺の海にすむ無色透明な血液を持つ、アイスフィッシュ(コオリウオ)と
    いう魚がいる。


    透明な魚ならば、グラスフィッシュや、グラスキャット、ウナギの
    幼生レプトケファレスなどがいるが、最大の特徴は、脊椎動物で唯一、
    血液中にヘモグロビンをもたず、血液が無色透明で赤くない。
    このため、他のほとんどの魚の鰓(えら)は、ヘモグロビンによって赤色や
    ピンク色をしているが、コオリウオ科の魚の鰓だけは、クリーム色をしているという。


    ご存じの通り、ヘモグロビンは肺や鰓で酸素と結合して、体内に運ぶ働きをする。
    なぜコオリウオ科の魚がヘモグロビンをなくしたのか分かっていない。
    コオリウオ科の魚は大きな心臓を使って全身に大量の血液を送り、その
    液体成分(血しょう)に酸素を溶かして運んでいること、さらに、鰓だけでなく
    体の表面からも酸素を取り入れていることだ」という。

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    国立極地研究所の一階を通り抜けると中庭と言うのか広場に
    南極・北極科学館が見えます。
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    1983年に放映された、南極観測隊が悪天候に阻まれ、やむなく南極の地に
    置き去りにしてきた十五匹のカラフト犬の生への闘いと、観測隊員たちの姿を描い
    た映画をご覧になった方も多いと思います。
    以前は東京タワーの下にいましたが、2013年秋、ここ極地研究所に
    お引越ししてきました。
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    これは何でしょうこれはと、近寄ってみたら、極光と名付けられた記念碑。
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    白瀬矗(のぶ)を隊長とする、南極点を目指した探検隊。
    明治43年(1910年)11月29日、木造帆船「開南丸」で東京の芝浦を出発。
    明治45年(1912)1月16日に南極大陸に上陸、同月29日に南緯80度5分、
    西経156度37分の地点に到達。
    食糧の不足などから前進は困難と判断、同地を「大和雪原(やまとゆきはら)」と
    命名して引き返した。
    同年6月20日、芝浦に帰還。

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    科学館入り口においてある「黒雲母片麻岩」
    なんでこんなに穴が開いているのか、入場してみましたら答えが
    書いてありました。
    この穴は風化でへこんだそうです。
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    入口ドアーに貼ってあるプレート。
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    中の展示は「第58次南極地域観測隊」に関係するものが多くありました。
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    小さなお土産コーナーもあります。
    このパネルとカレンダーは売り物です。
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    南極・北極科学館1/3回目終わります。

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