今から30年ほど前、地元で生まれ育った彼女がまだ中学生のころ、「五徳庵」の前を登下校で行き来していた。住人のいない雑草で鬱蒼とした屋敷前を、足早に耳を塞いで通ったという。伝承のウワサは「簪(カンザシ)を刺した蛇のお化け」が出るということだった。そんなお化け屋敷の住人になって、もう五〜六年が経ったが、相変わらずの雑草に生い茂った屋敷には、簪をつけた蛇に代わって「白髪蛇」の爺さんが出入りしている。
▼先日、「山口玄蕃首塚碑小公園」に、新しく畳一帖の大きさを横にした「大聖寺城の戦いと山口玄蕃」の顕彰看板がつくられた。毎年8月8日には、地元の有志らによって「首塚供養祭」が行われている。新しく設置された顕彰碑に、「簪を刺した蛇」の由来が記されてあった。
▼玄蕃は豊臣秀吉に才を認められ、小早川秀秋の筆頭家老として仕えた。慶長5年(1600)の関が原の戦いで、秀秋は西軍から東軍に寝返ったが、玄蕃は豊臣家の恩に応え、大聖寺城で1200の兵を率いて徳川方の前田利長の2万5000人の大軍と戦った。玄蕃は同年8月8日、現在の大聖寺新町で自決した。
▼少くない兵士で大軍と戦った城中には、「カンザシ」に戦いの白鉢巻をつけ、城内にとどまった女性たちも戦いに加わって、最期は自決した。その後、城山に月の明かりがさす頃になると、「かんざしを刺した蛇」が出てきたという。
▼大聖寺城「鐘ケ丸」の麓にある、料亭「滝川」(五徳庵)の庭には、老木の大樹に大きな穴がある。その穴には、古くから蛇の棲家になっていたという。この屋敷の住人だった藩医の「竹内家」の子孫「谷渡(たに・わたる)氏」は、『自分史 穴虫の生活』で、地名に相応して裏庭で遊んでいた蛇をよく見かけたという。
▼今年は「巳年」。戸籍は「午年・1942年1月1日生」だが、巳年の「十月十日」母の胎内にいたわが身は、「蛇年生まれ」のつもりで生きてきた。だが、蛇は苦手である。
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