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2015年01月

戦後70年を迎えた今年は、いろんな意味で「考えさせられる年」になりそうだ。私は、まさしく70年の「生き証人」でもあり、自分自身の歴史でもある。正確に言えば、戦中派になるのかもしれない。歴史の中の今日も「老人のつぶやき」を通して、時代の流れにしがみついている。

▼1月12日の成人式」には、違和を感じるひとりである。成人式の歴史は浅いが、その昔の男子15歳になった祝い事の「元服式」。女子も大人の仲間入りで、髪型や着物も大人用になった由来から、「小正月」とも言われていた1月15日の成人式が脳裏に滲みついている。

▼半世紀前に、わたしも二十歳の成人式に出て、主催した自治体から祝ってもらった。記念品に何をもらったかは忘れたが、忘れられない「成人検査」を思い出す。話しに聞いていた「赤紙召集令状」での「身体検査」に似た検査方法であった。各地から集まった同年が列をつくり、体型測定の最後は、検査員の前で男性性器を調べられる「性病検査」だった。たぶん「甲種合格」だったであろう。

▼今年は、昭和の元号でいえば「昭和90年」。昭和生まれの年齢が、即、暗算できる便利な年でもある。「明治は遠くなりにける」の言葉通りになった。高齢者の中にも明治生まれはほとんど現存していないと思う。

▼「成人式に騒ぐ」ニュースが、数年前から問題になって来た。二十歳の大人になったパホーマンスであろうが、やっぱり子どもじみている。戦争を知らない、平和になってからの親から育てられた子どもらは、大人になることが分かっていない。15歳で「元服式」を迎えた江戸時代から見ると「幼児化」は、昨今の「お年玉」を貰う年齢層にも現れている。子育て中の30代の親が、祖父や祖母から平気で貰っているという。

▼こんな平和な時間がいつまで続くのかと、歴史の生き証人は「つぶやいている」。

正月の風習に「書き初め」がある。今年2度目の「案内所の当番」をしていた10時半ごろ、サイレンが鳴り響いた。「どっきり」しながら何処で火事かと思った。瞬間、自宅のストーブをしっかり消したか・・・がよぎった。よかった。時ならぬサイレンは、近くの市役所広場で「消防出初式」が始まることを知らせる合図だった。

▼形なりの「書き初め」は、一応済んでいた。「正月三が日」の間に、280字足らずの「般若心経」の写経をなぞりの写し書きをして、そこには今年のささやかな願いも書き添えた。「何事にも無事に過ごせますように・・・」の、欲張りな「願望」だった。

▼正月から北国新聞コラム「時鐘」の「写し書き」を手書きで始めた。「所定のノート」に、全文450の活字を、「写し」、「見出し」を考えて、「感想」もつける。きびしい義務付けがある日課に挑戦した。

▼「コラム」の「写し書き」は、すでに4年目を迎えている。2012年931日から、パソコンでの日課にしている。しかし、「手書き」は敬遠して、楽な方法を選んで継続していた。久しぶりの「写経」をして、手書きの衰えを感じた。書き順を時々間違え、不安になった。脳みそから指先に伝える電線が老化している。

▼「手書きの専用ノートは、原稿用紙の形で一ケ月分が一冊になっている。写すために筆記用具は指定されていないが、わたしは生意気にも「くれ竹筆ペン」を使用した。書き直しができない結果は直ぐにも現れた。一文字枠に 「 」や()の記号を使うことや、送り仮名を書き忘れる。そして、漢字を正確に書けない。なさけない「書きぞめ」のスタートだった。

▼書き直しが簡単なパソコンでの楽な癖が身についている。だが、手書きの長い時代だったにも関わらず、変な自信が裏目に出たことへ愕然としたが、書けない事実にも謙虚に反省もした。


数少ない年賀状に、写真を趣味にしている、元職場が一緒だった友人が、現役を退く節目の「写暦25年記念」の個展を開催することを告知していた。個展会場が小松の「宮本三郎美術館カフェ」。

10年ぶりに、「桜の花見宴会」で騒いだ「芦城公園」に行った。勤務先が公園の近くあったが、現在はその場所の跡地に市役所がある。「寒の入り」の公園は、小雪混じりで寒々としていた。公園を訪れたのではないが、多分その近くにあるだろうと思われる「宮本三郎美術館」の場所が分からない。

▼仕方無しに公会堂の受付に赴いた。旅行者のふりをして、場所を尋ねた。受付の職員は、「おもてなし」が板についている。わざわざ外まで出てくれて、100メートル先に見える赤い看板を指差してくれた。お礼の言葉は方言を使わず丁寧に伝えた。

▼目指す美術館は、小松市松崎町に生まれた洋画家宮本三郎の帰ってきた作品を展示する。2000年に開館したと、パンフレットにあった。開館して15年も経過していたことを初めて知る。美術館は閑散としていた。貸し切り状態で、昭和3040年代に描かれた「女性の美」を中心した力作が展示されていた。

▼美術館の一角にある「ギャラリーカフェ」は、たしか、以前はレストランがあった場所みたいだ。記憶をたどって、店主?に尋ねたが、15年前のことは知らないという。ふるさとへ帰ってきた「今、浦島太郎」の感じだった。

▼ギャラリーには、「写暦25年」の集大成の作品が20数枚ほど展示されていた。わたしの眼に止まった「千枚田の夕日」は印象的だった。写真家は、ふるさと輪島を離れて40余年。小松に骨を埋めるという。お互いに、遭っていない期間の消息を手短に交わし旧交を温めた。一途な趣味をやり遂げた「団塊世代」の顔は、意気揚々としていた。

▼引退後の余生を暗示する、「ふるさとの祭り」の作品が多かった。まだまだ、夢ある先を見据えて、言葉にも力があった。健闘を祈る。

10年後には、認知症が700万人に増える」。そのために国では対策を考えているという。日に日に自覚している「ボケ症状」の物忘れ現象。いまは、苦笑しているが、10年後は笑顔になっているかもしれない。それとも、無表情かもしれない。明日の状況は未経験で、生まれて初めて体験する日でもある。10年後を考えてもしかたがない。

▼先のことは、先に生まれた人に学ぶしかない。中国でそんなに有名な人でなかった「洪 自誠(こう じせい)」が、書き残した処世訓「菜根譚(さいこんたん)」を、手許に置き読み返している。

▼サブタイトルには、「先行き不透明の時代を生き抜く、40歳からの処世術」。ちょっと遅きに達した年齢で、そんな書き物に出会った。有名な、孔子の「論語」第二為政には、「40歳になれば、惑わない」とある。「聖人君子」の生き方をしていれば、「惑わないという」ということであろうが、わたしはそのころ「惑った」。

▼そして、60歳にして、天命を知った。智恵遅れの老人だと自負している。だが、現代に生きる老人は皆元気である。誰かがむかしの年代からすれば、8掛けの年齢だとも言う。その説から計算すれば、60歳は48歳。孔子のいう「50歳にして、天命を知る」になる。

▼「団塊世代」が65歳を超えたころからの「認知症」が増える予想は、オーバーな考え方でなかろうか。8掛けで換算すれば52歳で、現役では一番油の乗ったときにあたる。

▼昨日の文言に「過ぎたるは及ばざるがごとし」を引用し、自己流の解釈で文中をつなげた。しかし、「菜根譚」では違った。分かりやすい生き方を示していた。「油ぎってギラギラしているのも困るが、されど、枯れすぎてカサカサしているのもどうかと思う。ようは、バランス感覚の問題。枯れているように見えるが、その中に生き生きとした活力を宿しているのが理想」。

▼なってからでは遅い「認知症」。ならないような、活力を宿した老人を目指そうと思う。

平凡な正月を迎えたことに感謝している。何事もないないことが一番の「しあわせ」と感じるようになったのは、つい最近のことである。重ねた年のせいだろうと、つくづく思う。

▼「過ぎたるは及ばざるがごとし」。むかし、「生意気」な時に、言葉に使ったことがあったが、ここ数年まえからそんな「格言」を使ってまでして、問題を片付けたことがなった。正月行事といえば、初詣、雑煮、お餅、お年玉・・・から開放された気楽な正月を迎えている。昨年の反省もことさら無し。だが、正月ならでこその、恒例の風習に、今年の一年を「どう過ごすか」の、希望に満ちた目標を立てる時でもある。

▼「希望」というより「願望」がある。無事が一番。何の変哲もない願望である。もう少し具体的な希望がないかと模索するには、「写経」がいいと思い、一枚書き上げた。用具一式はすでに揃っているから、引き出しから持ち出すだけである。

▼三年前は、正座して文机に向かった。硯で墨を磨り、しっかりとした願い事も書き入れた。2月1日から月末までの28枚を、したためて「お炊き上げ」の儀式を「服部神社」で、「玉ぐし料」を添えてしてもらった。

▼願い事は、身近な欲望でなく、「宇宙的な精神力を授かる」願い事だった。「請願成就」のお知らせは、物や形に現れなかったが、次元上昇?して「安心」という穏やかな気持ちになれた。

▼「二礼二拍手」で、鈴を鳴らし、お賽銭を投じれば叶う「初参り」でのご利益は、そんなに期待していない。悪霊を払い、邪気からの脱却。などなどの神頼みは、筋違いであると思う。自分に宿る神を自覚し、「自分の神との対話」が一番だろう。

▼「色即是空空即是色」は、「般若心経」の中心的言葉。物質現象というものは、全て実体がない。実体がないということは、物質的現象である。・・・やっぱり、永遠の課題である。

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