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【コラム】金子達仁

日本サッカー界の成熟を見たU―17日本代表への熱量

[ 2023年6月29日 10:00 ]

調べてみたら06年の9月3日から16日だったというから、もう17年も昔の話、ということになる。

「見ました?」
「見ました!」
「凄くないですか?」
「凄い。あれは本物でしょ」

現役、元選手、メディア関係者、ファン。いろんな人とこんな会話を交わした記憶がある。わたしは興奮していたし、相手もそうだった。何に興奮していたかと言えば、17歳以下のアジアカップであり、大会のMVPに選ばれた柿谷曜一朗について、だった。

いまはJ2徳島でプレーする柿谷が傑出した才能の持ち主だったことを、わたしはいまも疑ってはいない。ただ、令和5年から17年前の自分を振り返ってみると、滑稽にも思えてくる。

今週月曜日、17歳以下の日本代表がW杯本大会の出場権を獲得した。チームとしてはもちろん、個々の顔ぶれを見ても魅力的な選手が揃(そろ)っている。本大会でも上位に進出する可能性は十二分にある。

出場権獲得を告げるホイッスルが鳴ったあと、選手、スタッフは抱き合って喜んだ。昔もいまも、アジアを制するのは簡単なことではない。重圧は相当なものがあったのだろう。17年前のわたしであれば、目を潤ませながら余韻を楽しんでいたかもしれない。

嬉(うれ)しくなかった、というわけではない。ただ、17年前とは比べ物にもならないぐらい、淡々と勝利を受け止める自分がいた。17年の間に、わたしの中の世界大会についての感覚や、若い世代に対する見方は、完全に変わってしまったらしい。

柿谷たちがアジアを戦ったのは、06年の9月だった。ドルトムントで中田英寿が涙を流したW杯惨敗の印象が、強く残っていた時期の大会だった。

日本はまだW杯に3回しか出場しておらず、本大会で勝利をあげたのは地元開催の02年のみ。大会終了後、日本人選手をブンデスリーガに送り込んできた代理人は「これでしばらく日本人選手に対する興味は冷え込むだろう」とため息をついた。明るい未来を思い描くのが、簡単ではない時期だった。

あのころの日本は、世界大会で勝つことが「普通」ではなかった。欧州のトップリーグでプレーすることも「普通」ではなかった。大人のサッカーでは、欧州や南米に勝てない。そんな先入観があったからこそ、純粋無垢(むく)な少年たちに過剰な期待を寄せていたのだといまになって思う。

若年層の強化は、その国の未来を決定づける極めて重要な取り組みである。ただ、そこでの結果にA代表と同じように狂喜したり絶望したりするのは、極論すれば、弱小国の特徴だった。

この齢(よわい)になって、やっとわかってきた。

サッカーとは、才能のスポーツというより、環境のスポーツであるらしい。

どれほど豊かな才能も、磨かれなければ消える。逆に、17歳の時点では石ころに見えた選手が、適した環境に身を置くことにより、ダイヤの輝きをまとうこともある――日本人の場合は、特に。

17歳時点での輝きは、必ずしもその後の成功を約束するわけではない。韓国での本大会に出場した06年のU―17日本代表21人のうち、A代表までたどりつけたのは6人でしかなく、柿谷を含め、誰一人としてA代表の中核とはなりえなかった。

今回、U―17日本代表の戦いぶりを伝える情報量、熱量は、決して高いとは言えない。選手たちには申し訳ないが、わたしはそこに、日本サッカー界の成熟を見る。(金子達仁氏=スポーツライター)

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