[フレーム]

2016年03月

旧大聖寺川沿いに「イロハ・モミジの植樹」を民間団体が行ったという新聞記事が載った。植樹完成式典には、加賀市の副市長をはじめ、加賀商工会議所の専務理事や大聖寺活性化メンバーが参列。「歴町センター大聖寺」が独自で企画実施する偉業に敬意を表するとの記事の内容だった。

▼春には満開の桜、季節ごとにアヤメ・チューリップ・アジサイ・バラなどの花が見られる大聖寺川の沿岸に、秋には紅葉が見られるようになる。大聖寺を訪れる観光客や市民の憩いの場所で四季を彩る景色を楽しんでもらえるようにと、植樹するモミジ樹を募金で賄うという計画である。

▼3月16日に新聞記事が載った翌日には、さっそく県内外から募金したとの申し込みがあった。大聖寺で生まれ育った人が、嫁ぎ先から、もういない実母の名前で寄付したいとの「ふるさと」への想いを込めての話に、事務方の瀬戸氏も感動したという。

▼当日の「植樹祭の式典」には参列できなかったが、それでも一口寄付させてもらった。来年には色づくモミジの28本のどこかの一本に、私の名前札を探すのがたのしみでもある。

▼「大聖寺川流し舟」が4月1日から運航する。土手には桜の花が咲きだすころである。舟からの眺めはまた一段の景色であろう。川面には名も知らぬ渡り鳥が、食事に来してきている。だが、野鳥の生態や名も知らない舟を漕ぐ「船頭さん」というわけにはいかないと、野鳥の勉強に、日本に3ケ所しかないという、加賀市の「鴨池観察館」に教わりに行くという。そんな船頭さんたちと観光案内所のメンバーとして同行した。

▼野鳥に関しては門外漢でもあるが、野鳥といえば日本で「野鳥の会」を発足させた「中西悟堂」という名前を思い出した。121年前に、金沢で生まれた著名人でもあった。今では、その道の人しか知られていないだろうと思うが、若いころ、旅先の軽井沢の「星野温泉ホテル」ロビーのテレビで、2代目館長の星野氏と「中西悟堂」が対談している映像を見ていた。・・・この続きは、明日号。

今年の元旦から祝日には揚げている。国旗掲揚の日だった「春分の日」は、翌日の「振替休日」にも国旗掲揚をする日だった。前日、迷った末にネットで調べて教わった。路地裏の「五徳庵」にも、2日間、国旗が春の日差しを浴びていた。

▼半世紀まえの学校では、国旗と国歌は当然の如くだったが、いつの頃からは記憶にないが、学校で国旗を「日の丸」と「君が代」という呼び名になって、式典に掲揚と斉唱をやるところとやらない学校があった。「軍国主義」の復活であるという、先生方の反対で実施されなかったという。

▼平成11年に法制化されても、煤ぶっていた記憶がある。今では、そんなニュースも聞かれなくなったが、「祝日の国旗」も町中には掲げる家も少なくなっている。だが、国際的なスポーツ大会には、欠かせない国旗掲揚と国歌斉唱がある。一致団結の選手やコーチ陣が胸に手を当てて勝利に向かっている姿を見ると、ジーンとくるものがある。

▼「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」。古代の短歌であることは知っていたが、歌の意味や歴史を正しく知っているかと問われると・・・。すらすらと答えられない。天皇陛下の長寿を願いながら、これからも日本国が長く幸せでありますようにしか答えられない。

▼戦中のナショナリズムの影響を受けている時代に生まれているから、半分「国粋主義者」かもしれない。戦後経済成長を目の当たりに知っている者からすると、日本は「神の国」ということを実感していた。若いころ「日猶(日本・ユダヤ)同祖論」の歴史ロマンに浸っていたことがあった。

▼大和言葉と古代ヘブライ語には、3000語の「同音同義語」がある。「君が代」をヘブル語が分かる人が聞くと、「立ち上がれ、神を讃えよ!神の選民であるシオンの民は、選民として喜べ!人類に救いが訪れ、神の予言が成就した。全地あまねく述べよ伝えよ!」と、聞こえるという。昨日の事は忘れても、昔のことはしっかり記憶にある。老人になった証拠と言える「戦中生まれのつぶやき」が、時折鮮明に思い出される。

♬「ハッピーバースデートウ ユー ハッピーバースデートウ ユー」の曲を弾けるように・・・。覚悟はしていたが、ウクレレに奮闘している。毎日の練習で引けるようになると聞かされているが、一向にうまくならない。新しいものへの挑戦は「ボケ防止」になると、自分から進んで始めたが、早くも一つ目の坂道で大息をついている。

▼初めてのことにトライしながら上達してきたものは、中途半端な吾が人生にも数え切れないほどある。「ノドもと過ぎれば熱さを忘れる」の言葉もよぎる。当たり前になると、人はその時の辛さや世話になったことへの恩を忘れる。

▼耳の痛い言葉だが、一番に思うのは「親への恩義」を忘れていることだ。もうすでに、墓籍簿に入っている両親に、せめてもの感謝の気持ちをと思い、まだ寒い春風が吹く「お彼岸」に、墓参りに行ってきた。

▼「マッチを擦ればおろしが吹いて 線香がやけにつき難い・・・・」の、まだ「吾亦紅」が咲いていない、「ただあなたに 謝りたくて 山裾の秋ひとり逢いに来た・・・」。お盆の込み合う季節と違って、静かに手を合わすことができた。

▼昔は、松林で覆われていた共同墓地も、成育する松の根が墓を倒壊させることで伐採された。松林の中の墓地だったところで、親戚の墓参りの際、目安にしていた松の木がなくなって、場所が分からず手間取る墓地になっている。

▼「ハッピーバースデー」の曲も弾けない者が、手を合わせながら・・・。数年後には、「吾亦紅」の曲にも挑戦したいと思った。そして、誰もいない墓の前で弾いていたら、墓標に刻まれた92歳の父と98歳の母が驚き、グラッと動くのではないかと、おかしな想像もしてみた。

▼シベリアからの帰還兵として、抑留中の体験談も聞かせずに、戦後の苦しい時を愚痴も言わずに、家族を養ってくれた父や母のすごさを、今にして思うと感謝せずにはいられない。

「春分の日」を挟んだ4連休を有意義に過ごしたい。半分現役をこなしながらの毎日だからこそ、休日の予定がたのしみである。たまには、ボーとした無計画の休日もある。今回の連休も日曜の観光案内所の当番はあったが、音楽鑑賞や、気になっていた部屋の掃除や庭仕事など、思いつくままの気ままな休日を過ごす予定である。

▼一進一退の春を迎えるなかで、桜の開花を待ちわびる列島で九州福岡から、開花の便りも報じられてきた。日を追って、4月になれば大聖寺川を上り下りする「流し舟」からの満開の桜並木を見ることができる。桜をはじめ、名も知らない草花や木々にも花芽がつき始めている。

▼そんな中に、まだ、咲いている花に出会った。初冬に開花する「柊(ヒイラギ)」の新芽についた花だと知った。白い小さなクリットした花だった。あの、とがった葉っぱがなかったから、想像も出来なかった「魔除けの柊」に、こんなのもかわいい花がついていたとは知らなかった。

▼花言葉は「用心深さ」・「先見の明」・「保護」だと教わった。そんな花言葉が、今のわが身にぴったりの神様から啓示の言葉であると悟った。甘い香りの柊は、葉にトゲのあることから、むやみに美人には近づかないことだという。「用心深さ」を肝に銘じることで、「保護」されるということらしい。だから、失敗しない「先見の明」がある人物だと言われるらしい。

▼しかし、花言葉は万人向けに考えられた言葉でもある。色気の消滅した老人に適した言葉だとは思わない。「色ボケ老人」が近づく美人がいても、相手をしてくれないから困ったものだ。それよりも、階段の登り降りには、必ず「手すり」を持つ「用心深さ」に心掛けること。「転ばぬ先の杖」の「先見の知恵」を多方面に活かすことが、老体の「保護」につながる毎日でもある。

▼テレビ消す「よし!」。ストーブ「よし!」。換気扇「よし!」。照明「よし!」。ゴミ出し「よし!」と、出勤前の「指差し」を励行しながらの毎日が、時々、移動途中から確認のため戻っている。

先日まで残雪の塊が庭の隅にあった。それが無くなった庭には、「春の匂い」がしてきた。地面から草花の新芽が出てきている。先日、石油ストーブの暖気で温まった居間に蜘蛛が出てきて床を這っていた。「朝クモは、殺すな。夜クモは殺せ」という古い言葉を思い出した。しばらく迷ったが、昼時だからテッシュで包んでゴミ箱に入れてしまった。

▼「三寒四温」の繰り返しで春が来るとも言われている。木の芽時には、人間もおかしくなる時で、「躁(そう)と鬱(うつ)」のリズムが動き出す時期でもある。長年の腰痛持病も先日から、いつもより強く感じるようになってきた。

▼市庁舎の清掃作業にも、春を感じる。床には、土の足跡を見つけるようになってきた。窓ガラスには冬にはなかった汚れが目立つ。そして、正面玄関の隅には、小さなピンクの梅の花びらが春風で吹き溜まりを作る。

▼先日も、総合案内のカウンターを叩き、大声で罵声を挙げているご老体を目にした。「お門違い」の苦情をぶつけに来ている「躁」症状の「クレマー様」らしい。そんな市民にも、言葉遣いを丁寧に、涙顔をこらえながら対応している案内嬢の、立派な仕事ぶりに感心した。

▼「春は、出会いと別れの季節」。まもなく真新しいスーツを着た若者が列になって庁舎を行き来する。そして、各部署からは、花束を抱える見慣れた職員が去ってゆく。そんな「春の風物詩」にも何度か出会ってきた。

▼また、迎えられた新年度には、慣れた仕事とはいえ、新たな気持ちで取り組みたいと思っている。高齢化が進む中、健康に感謝しながら、清掃作業に励むシルバー軍団は、新人も勇退者もいなが、やる気満々の猛者ばかり。

▼春だけど、頭は白くシワの顔。着ているものは使いこなした古着だが、洗濯したてのものばかり。話の中身はテレビから、見ていた番組みな同じ。時々、話はカラまわる。

↑このページのトップヘ

traq

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /