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「さら」名付け親の高梨の兄・寛大さん手記「堂々と挑んだ沙羅を、僕は誇りに思います」

[ 2022年2月6日 05:30 ]

北京冬季五輪第2日・ジャンプ ( 2022年2月5日 国家ジャンプセンター )

15年、伊藤杯シーズンファイナルで妹の高梨沙羅と記念撮影する兄の寛大さん
Photo By スポニチ

高梨の兄・寛大(かんた)さん(29)が妹の3度目の五輪挑戦をテレビで見届けた。妹よりも先にジャンプを始めた寛大さんは元ジャンプ選手で、12年世界ジュニアはそろって日本代表に入った経験を持つ。明大時代まで競技を続け、15年にTBSに入社した兄は、過去2度の大舞台を現地で観戦。スポニチに万感の思いを手記にして寄せた。

沙羅、お疲れさまでした。目標だった金メダルには届かなかったけど、3度目の五輪に堂々と挑んだ沙羅を、僕は誇りに思います。

4年前、沙羅はジャンプをゼロからつくり直すと決めました。今までのジャンプを壊すということは、とても難しいこと。子供の頃からの自分のスタイルは、そう簡単には変えられません。悩みながら、試行錯誤しながら、それをやり通した。相当なメンタルの強さだったと思います。

全体的に力強いジャンプになったという印象です。踏み切る時にしっかりと下(ジャンプ台)に力が伝わっている。空中に飛び出してから前へと進む推進力に、力強さが加わった。レベルアップしていく世界で、勝つことを考えたのだと思います。

14年ソチ五輪。当時は就職活動で忙しかったけど、妹が五輪代表となり、現地まで見に行きました。結果は4位。風も悪かった。一番悔しいのは本人ですが、僕も今までに味わったことのない感情になりました。「どう立ち直ればいいのか分からない」と言っていたと、両親から聞きました。五輪という大きな舞台で、絶対にメダルを獲れると期待される状況は、想像を絶するプレッシャーだったと思います。

TBSに入社し、18年平昌五輪は取材班として現地に行きました。会場で最後の最後までドキドキしながらカメラを回し、震えちゃダメなんだけど震えていた。2回目に沙羅が飛び終えてガッツポーズした瞬間、僕も思わず泣いてしまいました。それと同時にホッとしました。ソチの時みたいに壊れてほしくなかった。それを見るのが、兄として一番つらかったので。

ジャンプを始めたのは僕が先。沙羅はバレエをやっていました。僕がジャンプ選手で父親がコーチ。週末の大会にはみんなで行き、沙羅は自分がやっていないのはつまらないとか悲しいとか思って、競技を始めたんだと思います。やり始めると、自分と同じトレーニングについていこうと必死でした。

「さら」という名前は僕が決めたみたいです。小さい頃で記憶にはないですけど、両親が名前を考えている時に、僕がいきなり「さらちゃん」だよ、と言ったみたいです(笑い)。両親もその響きを気に入って「沙羅」と名付けました。コロナ下で最近はなかなか沙羅と会えませんが、これからも兄として、見守っていきたいと思います。

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