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2025年10月

2025年10月30日 (木)

シュロモー・サンド『ユダヤ人の起源』@『労働新聞』書評

61zcff2fuyl_ac_uf10001000_ql80_ 恒例の『労働新聞』書評。今回はシュロモー・サンド『ユダヤ人の起源』です。

https://www.rodo.co.jp/column/208175/

202310月、ガザを支配するハマスがイスラエル領内を奇襲し、1,400人を殺害するとともに240人の人質を拉致した後、イスラエル軍はガザ全域に侵攻し、空襲で多くの建物は瓦礫となり、戦闘は未だに続いている。イスラエル政府はますます強硬になり、ヨルダン川西岸も含めパレスチナとの共存はますます遠のいている。

こういう絶望的な時期にこそ、改めて読み返されるべき大著がイスラエル在住の歴史家シュロモー・サンドによる『ユダヤ人の起源』だ。邦語タイトルは「起源」だが、表紙に書かれた英語タイトルは「The Invention of the Jewish People」である。以前似たようなタイトルの本を紹介したことをご記憶だろうか。本紙24年3月4日号掲載のビル・ヘイトン『「中国」という捏造』だが、その英語タイトルは「The Invention of China」である。つまり、本書は「ユダヤ人という捏造」とも訳せるわけだ。

彼によれば、現在のユダヤ人の祖先は別の地域でユダヤ教に改宗した人々であり、古代ユダヤ人の子孫は実は現在のパレスチナ人である。そもそも、ユダヤ人は民族や人種ではなく、宗教だけが共通点に過ぎない。第二次世界大戦中に約600万人のユダヤ人を虐殺したナチス・ドイツが、ユダヤ人は民族や人種であるという誤解を広めたのであり、イスラエル政府が標榜する「ユダヤ人国家」には根拠がないという。シオニズム運動は欧州で迫害された19世紀末に起こり、「ユダヤ人国家の再建」を目指した。運動の根拠になったのは、ユダヤ人が紀元後2世紀までにローマ帝国に征服され、その地から追放されて放浪の民となったという「通説」だったが、彼は「追放を記録した信頼できる文献はない。19世紀ユダヤ人の歴史家たちが作った神話だった」と主張する。彼曰く、古代ユダヤ人は大部分追放されず農民として残り、その後キリスト教やイスラム教に改宗して今のパレスチナ人へと連なっているのだ。

古代ユダヤで生み出された宗教に改宗した人びとの子孫が、ユダヤ人という人種・民族に属する者として憎まれ、迫害され、虐殺された挙げ句に、その虚構の「血」の論理を自らのアイデンティティとして民族国家を「再建」し、かつてその宗教を生み出した地に永年住み続けて、キリスト教やイスラム教に改宗した人びとの子孫を、異邦人として憎み、迫害し、虐殺するに及ぶ。何という皮肉極まる姿であろうか。殺す側も殺される側も、いずれもユダヤ人であり、いずれもユダヤ人ではないのだ。

最後の第5章には、もともと人種ではなかったユダヤ人の「種族化」を試みる現代イスラエルで流行のイデオロギーが紹介される。そこでは生物学的、遺伝学的なユダヤ人の「特徴」があれやこれやと「発明」されているのだ。そのロジックを振りかざしてユダヤ人の殲滅を図ったナチス・ドイツによってではなく、それによってほとんど殲滅されかけた人びとの子や孫であるイスラエルのユダヤ人自身によって。

2025年10月30日 (木) 書評 | 固定リンク | コメント (2)

2025年10月29日 (水)

欧州労使協議会指令の改正に理事会合意

一昨日、EUの理事会が欧州労使協議会の改正に合意したと発表しました。

https://www.consilium.europa.eu/en/press/press-releases/2025/10/27/strengthening-representation-of-eu-workers-in-multinational-companies-council-greenlights-revision-of-the-european-works-council-directive/

The Council has adopted a revising directive that seeks to make the representation of workers in large multinational companies more effective. This revision will amend the existing directive on European works councils (EWCs) to make the rules clearer, notably as regards howEWCs are set up, their resources and the protection of their members.

欧州労使協議会指令は前史から数えると長い歴史がありますが、1994年に成立し、2009年に改正されていますが、2023年に改正についての労使団体への協議があり、2024年に欧州委員会から指令改正案が提出され、今回ようやく成立に至ったというわけです。

The revising directiveclarifies the scope of transnational mattersto ensure that decisions substantially affecting workers in more than one member state trigger an obligation to inform and consult an EWC, without this being extended to day-to-day decisions or issues that only affect employees in a trivial way.

The revised rules also ensure that information can only bewithheld by the company or treated as confidentialif objective criteria are satisfied and for as long as the reasons justifying these limitations persist.

The directive alsostrengthens provisions on access to justiceand (where relevant) administrative proceedings, including by ensuring that the costs of works councils relating to legal representation and participation are covered.

主な改正点は、国際事項の明確化、機密情報の定義、紛争処理手続等です。

Eulabourlaw2022_20251029092301 本指令の過去の経緯については、2022年に刊行した『新・EUの労働法政策』(労働政策研究・研修機構)に詳述してあります。

2025年10月27日 (月)

中村圭介編『連帯社会と労働組合』

668994 中村圭介編『連帯社会と労働組合』(旬報社)をお送りいただきました。本書は、中村さんが法政大学連帯社会インスティテュートで指導してきた組合役員の学生たちが書き上げた修士論文をベースにした論文集です。

https://www.junposha.com/book/b668994.html

序 編集の目的と方針 中村圭介

第I部 未組織労働者の組織化

第1章 労働教育の現状と連合寄付講座 北條郁子(情報労連)

第2章 オープンショップにおける組織化 槇一樹(自治労 )

第3章 パートタイム労働者の包摂と発言 宮島佳子(UAゼンセン )

第II部 産業別労働組合の機能

第4章 産業別労使協議機構と春闘 平松賢治(基幹労連 )

第5章 格差是正をめざす春闘改革 鈴木崇之(自動車総連)

第6章 中小企業労働組合の指導と支援 大谷直子(JAM )

第III部 労働組合の政策参加

第7章 効果的アウトサイダー戦略 星野裕一(連合本部 )

第8章 中央労福協と連合の連帯 久須美千晶(労金協会 )

第9章 連合地方組織の政治参加 柳浦淳史(情報労連)

第IV部 残された課題と期待 中村圭介

実は、これらの名前を見ると、けっこう懐かしい思い出が広がります。というのは、この各章を執筆している9人のうち5人は、わたしが(連帯社会インスティテュートの隣の)法政大学公共政策大学院で行っていた雇用労働政策研究の講義を受講し、レポートを書いてもらっているからです。

2025年10月27日 (月) | 固定リンク | コメント (0)

2025年10月23日 (木)

管理職の利益代表機関を@『労基旬報』2025年10月25日号

『労基旬報』2025年10月25日号に「管理職の利益代表機関を」を寄稿しました。

周知のように、労働組合法第2条は、「役員、雇入解雇昇進又は異動に関して直接の権限を持つ監督的地位にある労働者、使用者の労働関係についての計画と方針とに関する機密の事項に接し、そのためにその職務上の義務と責任とが当該労働組合の組合員としての誠意と責任とに直接にてい触する監督的地位にある労働者その他使用者の利益を代表する者の参加を許すもの」は労働組合として認められないと規定しており、そのため利益代表者が加入する労働組合は同法による不当労働行為救済制度などの保護を受けられないとされています。この規定ゆえに1960年代から1990年代にかけて企業内管理職組合や企業外の管理職ユニオンの正当性をめぐって議論が闘わされました。1990年代にはセメダインCSUフォーラムという管理職組合に関する労委命令や裁判所の判決をめぐる日本労働法学会の議論は学会誌に残っています。もっとも、東京管理職ユニオンは今日まで集団紛争を装った個別紛争処理システムとして活動を続けていますが、企業内の管理職組合をめぐる話題は近年ほとんど見ることがなくなりました。
しかしながら、日本の労働法制には労働組合による団体交渉型の集団的労使関係システムと並んで、もう一つの集団的労使関係システム(のできそこないのようなもの)が存在しています。それは、労働基準法にその制定以来規定されている過半数代表者という制度です。労働基準法第36条に基づき時間外・休日労働協定を締結する際に、使用者の相手方となるのは「当該事業場に、労働者の過半数で組織する労働組合がある場合においてはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がない場合においては労働者の過半数を代表する者」とされています。同様の規定は、労働基準法第90条の就業規則の作成・変更についての意見聴取手続にも置かれています。「使用者は、就業規則の作成又は変更について、当該事業場に、労働者の過半数で組織する労働組合がある場合においてはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がない場合においては労働者の過半数を代表する者の意見を聴かなければならない」のですが、この過半数代表者についても、長らく法律上に規定があるだけで、それを具体化する下級法令は存在しないままでした。
一方、戦後数十年間に、労働基準法上でも、また他の法令上でも、過半数組合又は過半数代表者との協定や意見聴取を求める規定が多数生み出されていきました。また、この間進行した労働組合組織率の低下のために、過半数組合が存在せず、過半数代表者が当事者とならざるを得ない状況がどんどん拡大していきました。その中で、さすがに何の手当もされていないのは問題ではないかという声が上がり始め、通達や後には省令でその選出方法について一定の制限を加える試みがされるようになりました。
まず、1971年の通達「労働基準法第36条の時間外・休日労働に関する労使協定制度の運用の適正化とモデル36協定の利用の促進について」(昭和46年9月27日基発第665号)は、「労働関係において使用者的立場にある者が締結当事者となっている場合がある等、その選出方法、代表者性等に問題がある場合がある」と指摘し、「過半数代表者の選出方法については、選挙又はそれに準ずる方法によることが望ましく、また、労働者の代表者としては、法第41条第2号に規定する監督若しくは管理の地位にある者は望ましくない」としています。
1987年改正により、各種変形労働時間制や専門業務型裁量労働制等過半数代表制の適用範囲が拡大したときには、施行通達「改正労働基準法の施行について」(昭和63年1月1日基発第1号、婦発第1号)で次のように指示しました。

ロ 労使協定の締結の適正手続
労働者の過半数で組織する労働組合がない事業場における過半数代表者の選任については、次の要件に該当するものであること。
1 過半数代表者の適格性としては、事業場全体の労働時間等の労働条件の計画・管理に関する権限を有するものなど管理監督者ではないこと。
2 過半数代表者の選出方法として、(a)その者が労働者の過半数を代表して労使協定を締結することの適否について判断する機会が当該事業場の労働者に与えられており、すなわち、使用者の指名などその意向に沿って選出するようなものであってはならず、かつ、(b)当該事業場の過半数の労働者がその者を支持していると認められる民主的な手続が採られていること。すなわち、労働者の投票、挙手等の方法により選出されること。

しかしこれらは国民を拘束する法令ではなく、上級行政庁の下級行政庁への通達に過ぎません。これが官報に掲載されて国民を拘束する法令にまで格上げされたのは、ようやく1998年法改正に伴う省令改正によってでした。

第六条の二 法第十八条第二項、法第二十四条第一項ただし書、法第三十二条の二第一項、法第三十二条の三、法第三十二条の四第一項及び第二項、法第三十二条の五第一項、法第三十四条第二項ただし書、法第三十六条第一項、第三項及び第四項、法第三十八条の二第二項、法第三十八条の三第一項、法第三十九条第第五項及び第六項ただし書並びに法第九十条第一項に規定する労働者の過半数を代表する者(以下この条において「過半数代表者」という。)は、次の各号のいずれにも該当する者とする。
一 法第四十一条第二号に規定する監督又は管理の地位にある者でないこと。
二 法に規定する協定等をする者を選出することを明らかにして実施される投票、挙手等の方法による手続により選出された者であること。
2 前項第一号に該当する者がいない事業場にあつては、法第十八条第二項、法第二十四条第一項ただし書、法第三十九条第五項及び第六項ただし書並びに法第九十条第一項に規定する労働者の過半数を代表する者は、前項第二号に該当する者とする。
3 使用者は、労働者が過半数代表者であること若しくは過半数代表者になろうとしたこと又は過半数代表者として正当な行為をしたことを理由として不利益な取扱いをしないようにしなければならない。

このように、労働組合に使用者の利益代表者の参加が許されないように、過半数代表者は管理監督者であってはならないことが明示されたのです。
しかしながら、自発的結社である労働組合とは異なり、過半数代表者は一の事業場に所属する労働者すべての代表という性格があります。労働組合が締結した労働協約は、(一般的拘束力制度によって拡張適用されない限り)原則として当該労働組合の組合員にしか適用されませんが、過半数組合や過半数代表者が締結した労使協定は、非組合員やその過半数代表者に投票しなかった者も含め、事業場の労働者全員に適用されます。ですので、過半数組合や過半数代表者がその過半数を代表している「労働者」には、当然ながら管理監督者も含まれます。ここのところは、あまりきちんと議論されていない領域なのですが、とりわけ自発的結社としては組合員のみを代表しているはずの労働組合が、過半数組合としては非組合員をも代表して彼らの利害に関わることを決定していることについては、労働法の根幹に関わる問題として、もっと熱心に議論されていいはずです。私はこの点について、『ジョブ型雇用社会とは何か』(岩波新書)の最後のパラグラフで、高年齢者雇用安定法における労使協定による対象者限定条項を引いて、その公正代表義務を論ずべきと述べたことがあります。
しかしここでは、過半数組合の問題は一応脇に置いておいて、過半数代表者の制度設計について突っ込んで考えてみましょう。上述の通り、管理監督者は過半数代表者の選出において選挙権はあるけれども被選挙権はないという扱いになっています。ただし、労基則第6条の2第2項を見ると、管理監督者が過半数代表者になれる例外的な場合が書かれています。第1項と第2項の条文番号が羅列してあるのを整理してわかりやすく書き下すと、貯蓄金管理、賃金の一部控除、年次有給休暇の計画的取得及び就業規則の意見聴取については、その事業場の労働者が全員管理監督者である場合に限り、管理監督者が過半数代表者になってよいということです。これら以外はそもそも労働時間に関する規定が適用除外されている管理監督者には関係ないから、過半数代表者を選ぶ意味がないということなのでしょう。これらの規定は、全員が管理監督者というわけではない普通の事業場であっても、管理監督者の労働条件に直接関わる規定です。ですから、管理監督者は過半数代表者にはなれなくても、過半数代表を選ぶことはできるわけです。
しかし逆に考えると、管理監督者独自の利害を代表してくれるような過半数代表は存在しえないということになります。そもそも就業規則は管理監督者についても多くのことを規定しているはずですが、その意見聴取を受ける過半数代表者に管理監督者がなれないということは、その利害が正当に代表されない可能性をもたらします。また、過半数代表システムは今では労働分野の多くの法令で用いられています。その中には、高年齢者雇用安定法に2004年改正から2012年改正までの間存在した定年後継続雇用対象者の選定基準のように、中高年管理職層の利害に大きく関わるようなものも存在しましたし、同法の2020年改正で導入された70歳までの就業確保措置のうち、雇用によらない創業支援等措置に必要な過半数組合又は過半数代表者との合意も、まだ努力義務とはいえ、中高年管理職にとって関心が高いはずです。
現在の過半数代表者の制度設計にはなおいろいろと検討すべきことがありますが、その中でも管理職独自の過半数代表者を創設する必要があるのではないかという論点はかなり重要なものではないかと思われます。実は、似たような発想は労働者層の中の管理職層とは反対側に位置する非正規労働者層について既に実現しています。パート・有期労働法(短時間労働者及び有期雇用労働者の雇用管理の改善等に関する法律)第7条は、パート労働者や有期労働者に係る事項について就業規則を作成・変更する場合は、当該事業所において雇用する短時間労働者/有期雇用労働者の過半数を代表すると認められるものの意見を聴くよう努めることとしています。努力義務ではありますが、非正規労働者独自の利害を代表する必要性が立法上認められていることからすると、同様の必要性が管理職にも認められてしかるべきではないでしょうか。
ちなみに、ドイツでは集団的労使関係システムが企業外の労働組合と企業内の事業所委員会(ベトリープスラート)に二元化されています。労働組合については管理職についての制限はとくになく、それゆえ管理職組合も存在します。これに対して、事業所委員会については管理職員(ライテンデ・アンゲシュテルテ)が適用除外され、選挙権も被選挙権もありません。その代わりに、1989年に成立した管理職員代表委員会法により、管理職員独自の利益代表機関として管理職員代表委員会が設置されることになっています。日本のアドホックな過半数代表者と、ドイツの常設機関たる事業所委員会では制度としてのレベルが違いますが、管理職独自の利益代表システムが必要という点では、参考になる事例ではないでしょうか。

2025年10月23日 (木) | 固定リンク | コメント (1)

2025年10月22日 (水)

労働時間弾力化の雇用システム的根拠

昨日、高市早苗内閣が発足したのと同時に、こういうニュースが流れて、労働界隈に波紋を投げかけたようです。

高市早苗首相、労働時間規制の緩和検討を指示 厚生労働相らに

高市早苗首相は21日、現行の労働時間規制の緩和検討を上野賢一郎厚生労働相らに指示した。新閣僚への指示書に「心身の健康維持と従業者の選択を前提」としつつ「働き方改革を推進するとともに、多様な働き方を踏まえたルール整備を図ることで、安心して働くことができる環境を整備する」と明示した。

2019年に施行した働き方改革関連法は、残業時間の上限を巡り原則として月45時間、最大でも100時間未満、年間では720時間と定める。違反した場合は罰則がある。施行から5年を過ぎた時点で見直すことを定めており、厚労省の審議会で労使の代表による議論が本格化している。今後の見直し論議に影響を与える可能性がある。

7月の参院選で、自民党は公約に「個人の意欲と能力を最大限生かせる社会を実現するため『働きたい改革』を推進する」とうたっていた。

現在労政審労働条件分科会でまさに労働時間規制の在り方が議論されているさなかに外角ギリギリのボールがいきなり投げ込まれてきたようなもので、関係者の皆さんは大変だと思いますが、ここではそういう次元から少し距離を置き、そもそもなぜこういう議論が繰り返しでてくるのかという根っこの問題を、雇用システム論に遡って少し論じておきたいと思います。

284_h1_20251022095701 といっても改めて論じるというわけではなく、1年半ほど前に『季刊労働法』2024年春号(284号)に寄稿した「企画業務型裁量労働制とホワイトカラーエグゼンプションの根拠と問題点」の冒頭部分が、まさにこの「働きたい改革」を訴えてくる社会的基盤を論じているので、それをそのまま引用するだけなのですが。

1 労働時間弾力化の雇用システム的根拠
労働時間弾力化政策については、私はこれまで主として賃金制度との関係で論じてきました。労働基準法の労働時間規制は、管理監督者という労働者の機能に着目して適用除外規定を設けていますが、労働基準法第4章には物理的な労働時間規制とともに第37条の時間外・休日労働の割増賃金という賃金規制も含まれており、この残業代規制の適用除外も物理的労働時間規制の適用除外と同一の範囲とされているために、管理監督機能は有さないが処遇においては管理職と同水準の者に対する賃金規制としては不合理と感じられる結果をもたらしているという問題です。1977年2月28日のいわゆるスタッフ管理職通達(基発第104号)は管理監督者の拡大解釈を行い、これは今日の解釈通達にも受け継がれています。企画業務型裁量労働制やホワイトカラーエグゼンプションについても、私は基本的にこの延長線上で理解し、「現在アメリカのホワイトカラー適用除外制を導入すべきか否かという形で提起されている問題は、実は戦後労働基準法施行規則第19条によって封印された戦前型の純粋月給制を復活すべきか否かという問題に他ならないことがわかります。従って、その是非の決め手も、労働時間規制のあり方如何などというところにあるはずもなく、賃金法政策として、ワークとペイの全面的切り離しをどこまで認めるのかという点にあるはずです」*1と論じてきました。この点については、今日なお相当程度正鵠を得ていると考えています。
しかしながら、それではこれら制度を導入すべきと論じられる際に決まって持ち出されてくる「裁量的な働き方」とか「自律的な働き方」とか「自由度の高い働き方」といった言葉は、残業代を払いたくないという本音を覆い隠すための空疎な飾り文句に過ぎないのかといえば、必ずしもそうとばかりは言えません。日本の非管理職労働者の働き方それ自体の中に、これらの形容詞が該当するようなある性質が含まれていることも確かだからです。この点については、石田光男の諸業績が明確に描き出しているので、彼の近著『仕事と賃金のルール』*2に基づいて簡単に説明しておきましょう。
同書は、第I部「賃金のルール」で、日本の人基準の賃金と英米の仕事基準の賃金(ジョブ型賃金)を対比させた上で、第II部「仕事のルール」では、両者の仕事の進め方の違いを浮き彫りにしていきます。欧米の労働アーキテクチャーは「計画と実行」が分離し、キャリアが階層的に断絶し、経営層における専門職とワーカー層におけるジョブという社会的に合意された職域区分が企業内の階層としてはめ込まれているのに対し、日本ではそうした職域区分がなく、仕事のガバナンスは事業計画の達成に必要なPDCA(Plan(計画)、Do(実行)、Check(評価)、Action(改善)の4つのプロセスを繰り返し、業務効率を改善するフレームワーク)が全階層に浸透します。これを図示したのが同書p162の図です。一言で言えば、欧米モデルでは、経営層や専門職だけがPDCAサイクルを回し、一般労働者層は決められたジョブを遂行するだけで自らPDCAサイクルを回したりしないのに対して、日本モデルでは、経営層から一般労働者層に至るまで、それぞれのレベルでPDCAサイクルを回すという点に特徴があります。
ここで石田が経営管理論的観点から描き出した事態を、私はかつて労働者のキャリアの観点から次のように描写したことがあります*3。筆致は大変異なるとはいえ、描かれている戦後日本雇用社会の姿は同一のものです。
ビジネススクールやグランゼコールを卒業したエリートの若者は、その資格によって就職した瞬間からエグゼンプトやカードルといわれる高給の管理職であり、労働時間規制が適用除外されます。一方、普通の大学や高校等を卒業した若者はインターンシップ等で苦労してようやく就職しても、ずっとヒラ社員のままであり、管理職の募集に応募して採用されない限り管理職に自動的に昇進するということはありません。つまり、管理職の存在形態がまるで違うのです。日本における管理職をめぐる様々な労働問題の根源は、つまるところここに由来します。
なぜそうなったのかといえば、戦後日本社会が戦前日本社会と異なり、また戦後欧米社会とも異なり、エリートとノンエリートを入口で区別せず、頑張った者を引き上げるという意味での平等社会を作り上げてき(てしまっ)たからです。男性大卒は将来の幹部候補として採用され、十数年は給料の差もわずかしかつきませんし、管理職になるまで、全ての人に残業代が支払われます。誰もが部長や役員まで出世できるわけでもないのに、多くの人が将来への希望を抱いて、八面六臂に働き、働かされています。欧米ではごく少数のエリートと大多数の普通の人がいるのに対して、日本は普通のエリートもどきしかいません。

Asahishinsho2 この論点をさらに深めて、戦後日本における管理職の存在形態の推移と絡めつつ論じたのが、来月刊行予定の拙著『管理職の戦後史』(朝日新書)ですので、この問題をまじめに根っこから考えてみたい方は是非お買い求めいただければ幸いです。

(追記)

ちなみに、ジョブ型に関わる話は概ねその傾向がありますが、ザイン(である)の話を全てゾルレン(すべし)の話として受け止められてしまう方には、私の議論がこのように聞こえてしまうようですが、

日本の場合、賃労働者であっても裁量が欲しい、もっと働きたい、という層が存在して、そういうのはおかしい、ヨーロッパ並みにジョブ型雇用にすべきだと濱口桂一郎しなんかは昔からブログで主張しておられますが、信奉者以外には響いていいるようには思えません。過労死防止を鮮明にする位しか。。

いや、私はそんなえらそうに「かくかくするべし」と説教しているわけではなく、事実として、たかがヒラ社員如きがマネージャー意識に満ち溢れて猛烈に働くというのは、戦後日本型平等社会の特徴であって、欧米社会では一般的ではありませんよ、と指摘しているだけです。それをどう価値判断するかはもちろん人により様々でしょうが、自分の脳内の価値判断セットを万古普遍のものと思い込まない方がよいという程度のサジェスチョンにはなっているかと思いますが。

それにしても、こうやっていつのまにか、私は「ジョブ型」の「教祖様」に仕立て上げられ、その「信者」とやらがぞろぞろいることにされてしまうわけですな。呵々。

2025年10月22日 (水) | 固定リンク | コメント (0)

2025年10月21日 (火)

「ワークライフバランス」は変な言葉? 単純化される、働く人の現実@朝日新聞

本日、朝日新聞のWEB版で、わたくしのインタビュー記事「「ワークライフバランス」は変な言葉? 単純化される、働く人の現実」が掲載されました。インタビュワは田中聡子記者です。

「ワークライフバランス」は変な言葉? 単純化される、働く人の現実

「ワーク・ライフ・バランスという言葉を捨てます」。自民党総裁選での高市早苗氏の発言に対し、様々な意見が出ました。中には「ワーク・ライフ・バランス」を重視する社会へのいらだちが垣間見える声も。労働政策研究・研修機構労働政策研究所長の濱口桂一郎さんに、日本の「ワーク・ライフ・バランス」の現在地について聞きました。

――高市氏の発言をきっかけに「ワーク・ライフ・バランス」に注目が集まりました。

「ワーク・ライフ・バランス」って、実は変な言葉ですよね。この言葉は「ワーク」と「ライフ」が対立を起こしているというイメージを与えます。

でもフェミニズムの中で家事や育児が「アンペイドワーク(無償労働)」と言われてきたように、「ライフ」は「ワーク」でもあるわけです。同時に、「ワーク」とされるものは「職業生活」という「ライフ」でもある。どちらも「ワーク」であり、「ライフ」でもあるのです。

――明確に境界線があるわけではないのですね。

一般的に、ワークは「マスト(やらねばならない)」の世界、ライフは「ウィル(やりたい)」の世界であると考えられています。でも実際は、家事・育児を誰かが「やらなければならない」ように、仕事も面白さややりがいなど「やりたい」からやるということもあります。働く人はそれぞれの状況下で、「マスト」と「ウィル」のバランスをどう取るか考えています。 ・・・・・

2025年10月21日 (火) | 固定リンク | コメント (0)

2025年10月20日 (月)

令和7年度労働関係図書優秀賞に吉田航『新卒採用と不平等の社会学』

41vtgqs3cyl JILPTが毎年やっている令和7年度労働関係図書優秀賞に吉田航さんの『新卒採用と不平等の社会学』(ミネルヴァ書房)が選ばれました。

https://www.jil.go.jp/award/bn/2025/index.html

版元のミネルヴァ書房のサイトの説明は以下の通りです

https://www.minervashobo.co.jp/book/b657928.html

社会学における不平等研究は、当人が選択できない範囲で財や資源の獲得機会が不均衡に分布する「機会の不平等」を中心的に扱ってきた。本書は、企業の採用行動を「機会の不平等を生成・維持する重要な契機」と位置づけたうえで、大企業による新規大卒者採用を対象に、ジェンダーや学校歴・障害の有無に関する観点も踏まえつつ独自に構築したパネルデータを用いて分析。日本企業に特徴的な雇用慣行が不平等の生成・維持に寄与する、そのメカニズムに迫る。

[ここがポイント]
にじゅうまる 「機会の不平等」が生じるメカニズムをより経験的かつ直接的に観測するために、独自の問題設定、パネルデータを用いて分析することで従来の研究に一石を投じる。
にじゅうまる 女性登用やダイバーシティ、ワークライフバランスなど、現在議論されている諸問題についても視野を広げて検討する。

なお、受賞の言葉と講評は、『日本労働研究雑誌』12月号誌上に掲載予定です。

2025年10月20日 (月) | 固定リンク | コメント (0)

最近書いた覚えのない本がやたらに・・・

最近、書いた覚えのない本がやたらに引用されるという経験が増えているのですが、またまた書いた覚えのない本が出てきました。

リベラリズムの寄生構造という不都合な真実

このnoteの中に、連合を批判する文脈でこんな一節が書かれているのですが、

しかく 2:労働運動とリベラル政治の堕落
戦後労働運動を主導してきた日本労働組合総連合会(連合)は、設立当初(1989年)こそ「働く者の福祉国家」を掲げた。
しかし21世紀以降、組織維持を優先する官僚化が進み、政策的にも企業寄りの中道路線へと傾斜した。
とくに外国人労働者の受け入れ拡大政策(2018年入管法改正以降)に対して、
連合は表向き「労働者保護」を主張しながら、実際には人手不足対策として容認姿勢を取った。この立場は、「労働者の権利保護」よりも「雇用流動性の維持」を優先する結果を招いた。

労働社会学の分析(濱口桂一郎『日本の労働組合』岩波書店, 2019)でも、連合が「正規雇用中心主義」を温存したまま非正規・外国人労働の問題に踏み込めていない点が指摘されている。

こうして"リベラル労働運動"は、社会正義を掲げながら、実際には労働市場の需給調整装置として体制に組み込まれた。
理念を掲げつつ構造に従属するこの姿は、まさにリベラリズムの寄生的形態である。

いやまあ、この方がこういう考え方を書かれること自体は別にいいのですが、その中に、濱口桂一郎『日本の労働組合』岩波書店, 2019という、全く書いた覚えのない本が「引用」されているので、私はそんな本は書いていないし、別の本の中でもそんなことは書いていないと、これは声を大にして訴えておきたいと思います。こういうのがこんどはAIに拾われて、ネット上の[事実]としてまとめ記事の中に知らない間に入っていたりすると、ますます困ったことになりますからね。

2025年10月20日 (月) | 固定リンク | コメント (1)

第一芙蓉法律事務所『社員が逮捕されたときに読む本100問100答』

_ 第一芙蓉法律事務所『社員が逮捕されたときに読む本100問100答』(労働開発研究会)をお送りいただきました。経営法曹として有名な小鍛冶広道参を中心に、元裁判官の弁護士3人も加わっての力作です。

https://www.roudou-kk.co.jp/books/book_list/13228/

〜平時にこそ知っておくべき!万が一の基礎知識〜

「もし、自社の社員が逮捕されたら」
社員が逮捕されるという事態に直面したとき、企業には迅速かつ適切な対応が求められます。業種や業態を問わず、どの企業にも起こり得る可能性があるからこそ、何も起きていない今のうちに備えておくことが重要です。事前に必要な知識を身につけておくことで、万が一の際にも落ち着いて対応でき、人事トラブルの回避やレピュテーションリスクの低減につながります。
本書は、企業側の立場で多くの労働事件に対応してきた弁護士と、元刑事裁判官であり現在は企業法務を専門とする弁護士による、実務に役立つ必携の一冊です。

はしがきに曰く、

・・・その中でも特に、社員の不祥事、とりわけ社員の逮捕に関する相談が後を絶ちません。正直に申し上げると、毎日のようにクライアント企業から「社員が逮捕された」とのご一報を受け、これに対する対応についてアドバイスをしているのが実情です。

そうなんですか、毎日ね。

特に重要なのは、Q8の「社員が逮捕されたときの初動対応」です。

情報収集、マスコミ対応、ステークホルダー対応、社内説明、懲戒処分等の人事上の対応、被害者対応等々、その詳細がそれ以下に詳しく説明されています。

2025年10月20日 (月) | 固定リンク | コメント (0)

2025年10月19日 (日)

ブルーピル資本主義

U42198829beff30_0 例によって、ソーシャル・ヨーロッパから興味深い記事を紹介します。ヘニング・マイヤーの「From Surveillance To Sedation: The Rise Of Blue Pill Capitalism」(監視から鎮静へ:ブルーピル資本主義の興隆)というエッセイです。

https://www.socialeurope.eu/from-surveillance-to-sedation-the-rise-of-blue-pill-capitalism

We are witnessing a disturbing evolution in digital capitalism—from harvesting our data to trapping us in fantasies that profit from our isolation.

私たちは、データの収集から私たちの孤立から利益を得る幻想に私たちを閉じ込めることへのデジタル資本主義の不穏な進化を目撃しています。

ブルーピル資本主義ってどういうことでしょうか。

We may be witnessing the start of a profoundly uncomfortable shift in the nature of capitalism. There is a compelling case to be made that we are transitioning from "Surveillance Capitalism" to what might be called "Blue Pill capitalism", a reference to the movie The Matrix, in which taking the blue pill meant choosing comfortable illusion over harsh reality.

The evolution has become increasingly clear: surveillance systems that once merely gathered personal data are now weaponising that information to trap users in carefully constructed fantasy worlds, force-feeding them algorithmic content designed to maximise engagement at any cost. This represents not just an intensification of existing practices but a qualitative shift in how digital capitalism operates....

私たちは、資本主義の本質における、深く不快な変化の始まりを目撃しているのかもしれません。「監視資本主義」から「ブルーピル資本主義」とも呼べるものへと移行しつつあるという、説得力のある主張があります。これは映画『マトリックス』に由来するもので、ブルーピルを服用することは、厳しい現実よりも心地よい幻想を選ぶことを意味していました。

この進化はますます明らかになっています。かつては単に個人データを収集していた監視システムが、今ではその情報を武器として、ユーザーを綿密に構築されたファンタジーの世界に閉じ込め、どんな犠牲を払ってでもエンゲージメントを最大化するように設計されたアルゴリズムコンテンツを強制的に提供しているのです。これは、既存の慣行の強化だけでなく、デジタル資本主義の運営方法における質的な変化を表しています。・・・

The term "Blue Pill Capitalism" captures something essential about this moment in time. In The Matrix, taking the blue pill meant choosing comfortable ignorance over difficult truth. Our digital economy increasingly offers us the same bargain: surrender your agency, accept the algorithmic feed, find solace in synthetic relationships, and above all, keep consuming. The real world, with its complexities, conflicts, and demands for genuine engagement, becomes something to escape rather than transform.

「ブルーピル資本主義」という言葉は、この時代の本質を捉えています。映画『マトリックス』では、ブルーピルを飲むことは、困難な真実よりも安らぎの無知を選ぶことを意味しました。私たちのデジタル経済はますます、私たちに同じ取引を突きつけています。主体性を放棄し、アルゴリズムによるフィードを受け入れ、人工的な関係に慰めを見出し、そして何よりも消費を続けることです。複雑さ、対立、そして真の関与を求める現実世界は、変革をもたらすものではなく、逃避の対象となってしまいます。

確かに、最近の政治の動きを見ていると、支持者の皆さんだけでなく、政治家自身までややもすればブルーピルの摂取過剰ではないかと思われるような言動がまま見られたように思われます。

2025年10月19日 (日) | 固定リンク | コメント (0)

2025年10月18日 (土)

書いた覚えのない「名文」で「名著」と褒められる書評

Asahishinsho_20251018094701 「年間500冊読書するアラサー営業マン」と自称する「よねさんの読書ナビ」で、書いた覚えのない文章でもって妙に褒められてる「書評」があったのですが、

書評していただけるのは有り難いのですが・・・

その「よねさん」がさらに3回連続で、引き続き拙著『賃金とは何か』を「書評」していただいているのですが、さらにさらに輪をかけて、わたくしが書いた覚えのない文章をやたらに「引用」して、妙に褒めちぎられてしまっていて、一体喜んでいいのか怒るべきなのか、頭が混乱の極みに達しております。

まずもって、「「同一労働同一賃金」は本当に公平なのか――『賃金とは何か』が照らす"平等"という幻想」というnoteで、

「同一労働同一賃金」は本当に公平なのか――『賃金とは何か』が照らす"平等"という幻想

同一労働同一賃金の理想を実現するには、まず「違いを認めたうえで、納得できる差を作る」という成熟が必要です。
それは、制度の正しさではなく、社会の誠実さの問題です。

真の公平とは、「誰もが、自分がなぜそう評価されているのかを理解できる状態」である。

『賃金とは何か』は、この視点を私たちに突きつけます。
賃金とは単なる「報酬」ではなく、社会が人をどう扱うかを映す鏡なのです。

そのまま読むと、いやあこの『賃金とは何か』って本はええこと言うてるやないか、と思わず感心してしまいそうになりますが、いやいやこの本にそんな一節は存在しません。書いた本人が言うんだから確かです。

次の「年功序列が「悪」だとは限らない――『賃金とは何か』に学ぶ、戦後日本の"見えない合理性"」では、

年功序列が「悪」だとは限らない――『賃金とは何か』に学ぶ、戦後日本の"見えない合理性"

しかし、濱口桂一郎氏の『賃金とは何か――職務給の蹉跌と所属給の呪縛』(岩波新書)を読むと、この見方がいかに浅いかがわかります。
著者はこう語ります。

「年功序列は、単なる企業文化ではなく、戦後日本社会そのものの"合理的な制度設計"の一部だった。」

つまり、「年功序列=悪」という単純な図式では語れないのです。

いやあ、いかにもこの濱口桂一郎という奴がほざきそうなセリフですが、ところがところがこの本のどこを探してもこんな気のきいたセリフは見つけられません。

年功序列は、もはや現代の経済環境には合わないかもしれません。
しかし、それは単なる"ぬるま湯"ではなく、社会を支える合理的なインフラだったという事実を忘れてはいけません。

年功序列は、雇用の安定・生活の安心・社会の秩序を同時に維持するための「時代の最適解」だった。

『賃金とは何か』は、そんな制度の裏にある"社会の知恵"を見つめ直させてくれる一冊です。

「制度の裏にある"社会の知恵"を見つめ直させてくれる一冊」などという究極の誉め言葉におもわず舞い上がりそうになりますが、残念ながらそんな台詞はでてこないのです。書いた本人に身に覚えがないのですから間違いありません。

最後に、「すぐ会社をやめる若者は悪か――『賃金とは何か』が教える、"辞めない世代"と"辞める世代"の合理性」では、

すぐ会社をやめる若者は悪か――『賃金とは何か』が教える、"辞めない世代"と"辞める世代"の合理性

でも、本当に"すぐ辞める=悪"なのでしょうか?
そして、"辞めない=美徳"は普遍的な価値なのでしょうか?

濱口桂一郎氏の名著『賃金とは何か――職務給の蹉跌と所属給の呪縛』を読むと、
その答えは意外にも、「どちらも合理的」というところにあるのです。

そんなこと書いたかなあ、と書いた本人が首をひねりながら読み進めていくと、

『賃金とは何か』を通して見えてくるのは、
社会がどう変わり、個人がどう適応してきたかという"働き方の進化の物語"。

そして私たちが今すべきことは、
過去を否定することでも、未来を盲信することでもなく、
「お互いの合理性を理解しあうこと」。

"辞めない"も、"辞める"も、どちらも社会の鏡なのだ。

いやいや、本人が書いた覚えのない気の利いた「名文」を山のように捏造された挙句に「名著」と褒め称えられるというこの状況は、一体喜ぶべきなのかそれとも怒るべきなのか、私はいま底知れぬ悩みのさなかにあります。

2025年10月16日 (木)

最低賃金の設定基準とEU最賃指令

本日の朝日新聞に、「最低賃金は「賃金の中央値の6割」 政治介入抑制へ、高知で指標導入」という記事が載っています。

https://www.asahi.com/articles/ASTBH41V9TBHULFA006M.html

今年度の最低賃金改定で、高知の地方審議会が新たに「一般労働者の賃金における中央値の6割」という目標を導入したことがわかった。相対的貧困ラインを念頭に、欧州連合(EU)が最低賃金の設定に用いる水準で、厚生労働省によると国内で導入は初とみられる。引き上げを求める政治介入が常態化する中、客観的なデータで公労使の合意を得る狙いだ。
高知の審議会は8月末、県内で12月から適用される最低賃金を現在の952円から71円引き上げて1023円とすることを答申した。改定後の高知の最低賃金は、沖縄、宮崎と並び全国最低額だが、審議会がまとめた見解に「セーフティーネット水準として、賃金の中央値の6割を注視することを公労使で共有した」と初めて盛り込んだ。
県内の一般労働者の賃金の中央値は、厚労省の2024年の統計から残業代や賞与を含めて1822円で、その6割である1093円を目標額として設定。審議会は来年度までの2年間で実現する方針だ。・・・

半世紀にわたり中央最賃審でランク別の「目安」を示し、それに基づいて各地方最賃審で地賃額を決めるというやり方が、昨今の政治介入で混迷化しつつある中で、新たな試みとして注目に値します。

ここでは、このEU最低賃金指令の関係条文を紹介しておきましょう。

欧州連合における十分な最低賃金に関する欧州議会と理事会の指令(最低賃金指令)
Directive (EU) 2022/2041 of the European Parliament and of the Council of 19 October 2022 on adequate minimum wages in the European Union
第2章 法定最低賃金
第5条 十分な法定最低賃金の決定手続き
1 法定最低賃金を有する加盟国は、法定最低賃金の決定及び改定の必要な手続きを設けるものとする。かかる決定及び改定は、まっとうな生活条件を達成し、在職貧困を縮減するとともに、社会的結束と上方への収斂を促進し、男女賃金格差を縮小する目的で、その十分性に貢献するような基準に導かれるものとする。加盟国はこれらの基準を国内法、権限ある機関の決定又は政労使三者合意における国内慣行に従って定めるものとする。この基準は明確なやり方で定められるものとする。加盟国は、各国の社会経済状況を考慮して、第2項にいう要素も含め、これら基準の相対的な重要度について決定することができる。
2 第1項にいう国内基準は、少なくとも以下の要素を含むものとする。
(a) 生計費を考慮に入れて、法定最低賃金の購買力、
(b) 賃金の一般水準及びその分布、
(c) 賃金の上昇率、
(d) 長期的な国内生産性水準及びその進展。
3 本条に規定する義務に抵触しない限り、加盟国は追加的に、適当な基準に基づきかつ国内法と慣行に従って、その適用が法定最低賃金の減額につながらない限り、法定最低賃金の自動的な物価スライド制を用いることができる。
4 加盟国は法定最低賃金の十分性の評価を導く指標となる基準値を用いるものとする。このため加盟国は、賃金の総中央値の60%、賃金の総平均値の50%のような国際的に共通して用いられる指標となる基準値や、国内レベルで用いられる指標となる基準値を用いることができる。
5 加盟国は、法定最低賃金の定期的かつ時宜に適した改定を少なくとも2年に1回は実施するものとする。第3項にいう自動的な物価スライド制を用いる加盟国は少なくとも4年に1回とする。
6 各加盟国は法定最低賃金に関する問題について権限ある機関に助言する一またはそれ以上の諮問機関を指名又は設置し、その機能的な運営を確保するものとする。

2025年10月14日 (火)

石破首相、連合大会でストライキを論ずる

000182308 去る(昭和100年)10月10日に、公明党が連立離脱するという激震が走り、同日には石破首相の戦後80周年所感が公表されるという騒ぎの中で、もはやほとんど忘れられつつありますが、10月7日の連合定期大会に石破首相が招かれて挨拶をしていて、その中で最低賃金だけではなくストライキの話をしていたんですね。

https://www.kantei.go.jp/jp/103/actions/202510/07rengou.html?s=09

・・・私は三島由紀夫という小説家がすごい好きで、学生の頃からよく読んでいたのですが、『絹と明察』という小説を御存じの方もあるかもしれません。昭和30年代の小説です。1954年、昭和29年に、近江絹糸の労働争議というのがありました。ここは初めての人権争議というものでございました。この争議において、女子従業員の方々が外出、結婚、教育の自由がないというような労務管理が行われとったわけでありますが、この是正、そういう方々の待遇改善、そういうものを組合が求めて全面的に勝利したというのを描いておるのが、三島の『絹と明察』という小説でございます。新潮文庫で出ていますから、どうぞお暇があればお読みください。
昔の話だよと、今は関係ないんだよと、いうことかもしれません。ですけれども、私は昭和54年に学校を出て、とある銀行に入りましたが、高校に入ったのは昭和47年のことでございました。ストライキのピークは1974年、昭和49年です。私、高校3年生でした。そのときにストライキというのは5,200件あったんだそうです。参加した人は362万人いたんだそうです。1週間学校休みになりました。じゃ、直近去年2020年はどうであったかというと、ストライキは何件があったか、27件です。全国で、ピークの0.5パーセント。ストライキに参加した人は何人だったか、935人。ピークの0.03パーセントということであります。
それはそれでいいことだと、いろいろな労使の協議というのがあって、ストライキとかそういう手段に訴えなくても、いろいろなことが改善していく、社会生活もきちんと安定する、それはそれですばらしいことでありますが、日本国憲法に団結権、団体交渉権、団体行動権、労働三権というのが明記をされておるわけでございまして、これが労働者の大切な権利であるということは何ら変わりはございません。

連合の組織内議員のいる政党ではなく、その政権をひっくり返そうと運動しているはずの自民党政権の(自民党のではなくても)トップから、「君たち、自分たちにはストライキ権という大事なものがあるってことを忘れるんじゃないよ」と教え諭されているかのようで、これもまたなかなかじわじわくるものがあります。

(追記)

ちなみに、この近江絹糸人権争議については、本ブログで、本田一成さんの本を紹介したことがあります。

本田一成『写真記録・三島由紀夫が書かなかった近江絹糸人権争議』

9784794811189 本田一成さんより、『写真記録・三島由紀夫が書かなかった近江絹糸人権争議 絹とクミアイ』(新評論)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.shinhyoron.co.jp/978-4-7948-1118-9.html

昭和二九(一九五四)年、一〇六日間に及ぶ日本最大級の労働争議「近江絹糸人権争議」が発生し、国民の目を釘付けにした。その一〇年後、三島由紀夫がこの争議を題材とする長編小説『絹と明察』を世に出している。ところが、関係者に取材をしたはずの三島、なぜか争議の詳細を作品に書き込まなかった。集団就職で工場に勤めた中卒労働者たちと本社の一流大卒エリートたちが見事に一致団結して経営者に立ち向かったこの比類なき争議を詳しく調べていくと、実に興味深い人間と社会の実相が浮かび上がってくる。労働組合を一貫して敵視し続けた経営者。やがて自殺者まで出るに至る凄絶な緊張感。会社側に肩入れする不可解な警察の介入。解放されたはずの若者たちを襲った「もう一つの争議」等々、そこにはいくつもの特異性と謎がある。この争議について記した文献のほとんどは彦根工場における活動を中心に描いているが、実は大阪、大垣、富士宮、東京など各地同時多発の全国規模の争議であった。また、一口に争議といっても、ストライキ、ロックアウト、ピケッティング、乱闘、セスナ機からのビラまき、製品ボイコット、不当労働行為、オルグ合戦、募金活動、銀行や省庁への陳情、政治家の動員、真相発表会、裁判闘争などなど、労使双方が多様な戦術を繰り広げ、マスコミ、警察、暴力団、国会すらも巻き込む総力戦であった。そして各地の現場には、仲間を守って闘い抜いたヒーローたちがいた。争議を経験した若者たちもいまや八〇歳を超えている。筆者は存命のヒーローたちにお会いして、当時の写真を前に心ゆくまで語ってもらった。するとお話を聞くうちに、写真の中から被写体が飛び出してきて、この事件の謎を解きはじめた!――まるでタイムスリップである。争議勃発から六五年が経過し、平成が終わりつつある現在、働く人びとや経営者が本書を読んで(見て)何を感じるか、ぜひ知りたい。そして、叶うことなら二〇〇点を超える未公開写真を掲載した本書を、三島に見せびらかしてやりたい。

近江絹糸の人権争議と言えば、戦後労働運動史に燦然と輝く労働組合側が全面勝利した争議の一つです。それゆえ、それに関する本も多いのですが、今回の本は主としてチェーンストアの労使関係やパートタイマーを研究してきた本田さんが、カタカナのゼンセンになる前の「全繊」、つまり繊維産業の産別組合だったころの話に手を伸ばしています。

まえがきに、本書出版に至る経緯が書かれているのですが、本田さんが前著『オルグ!オルグ!オルグ!』を書く際に、チェーンストアを組織したゼンセン同盟がむかしは全繊同盟で、近江絹糸人権争議なんてのもあったと触れるために1枚の写真を使わせてもらうために、争議の指導者のひとりであり、争議に関する本を書いている朝倉克己さんに手紙を書いたところ、100枚以上の写真を段ボールに溢れるような資料が届き、会いに行ってしゃべっているうちに「写真記録をベースにした本にしますが、よろしいですか」と打診しタラ、朝倉さんの顔が輝いたんだそうです。

というわけで、本書は200ページ余りのうち半分近くが当時の写真で埋めつくされています。当時の日本のにおいがプンプン漂ってくるような写真です。そのうち見開きを2枚ほどアップしておきますが、憎き夏川社長の墓碑銘(法名 釋畜生餓鬼童死至 俗名 那津川蚊喰児)を書いてみたり、なかなかワイルドです。

Ohmi1

Ohmi2

2025年10月14日 (火) | 固定リンク | コメント (2)

政治のデリバルー理論

Andresvelasco150x150 ひさしぶりにソーシャル・ヨーロッパから、政治評論のエッセイを。ポピュリズムが荒れ狂っているヨーロッパがもはや対岸の火事ではなく他山の石ですらなく、当の日本でも炎上しつつある今日、改めてじわじわとくるものがあります。

The "Deliveroo" Theory of Politics

ちなみに、デリバルーとは、日本ではやってませんが、ヨーロッパではウーバーイーツと並ぶフードデリバリーの大手企業です。英語の「deliver」(成果を出すと言う意味がある)とかけているわけです。

Why are citizens of free countries increasingly disenchanted with democracy and tempted to vote for populists and authoritarians?

Peruse the press or spend an afternoon with recent academic literature, and you will find that one answer stands out: democracies have failed to deliver. Call it the "Deliveroo theory of politics," after the popular app that delivers a meal to your door in record time.

Maybe economies have not grown enough, wages have stagnated, inequality has risen, or leaders have been corrupt and self-serving. The list of possible factors is long, but they all point in the same direction: voters are so fed up with a lack of tangible benefits that they turn to populists who, despite their clownish and crass behavior, come across as different from the political elite – more decisive and able to get things done.

The upshot of the Deliveroo theory of politics is that "getting democracies to deliver" is the key to preventing populism and democratic backsliding. It is the kind of argument you hear from left-leaning reporters, reform-minded politicians, and well-meaning NGO leaders. It sounds plausible. But is it true?・・・

なぜ自由国家の国民はますます民主主義に幻滅し、ポピュリストや権威主義者に投票したくなるのでしょうか?

新聞を熟読したり、最近の学術文献に午後を費やしたりすれば、一つの答えが浮かび上がるでしょう。民主主義は期待に応えられなかったのです。記録的な速さで食事を玄関先まで届けてくれる人気アプリにちなんで、「政治のデリバルー理論」とでも言いましょうか。

経済成長が不十分だったり、賃金が停滞したり、格差が拡大したり、指導者が腐敗し利己的だったりするのかもしれません。考えられる要因は山ほどありますが、どれも同じ方向を指しています。有権者は目に見える恩恵の欠如にうんざりし、道化的で粗野な振る舞いをしながらも、政治エリートとは一線を画し、より決断力があり、物事を成し遂げる力があるように見えるポピュリストに目を向けるのです。

デリバルー政治理論の結論は、「民主主義に成果を出させること」がポピュリズムと民主主義の後退を防ぐ鍵であるということです。これは、左派の記者、改革志向の政治家、そして善意のNGOリーダーたちからよく聞かれる類の議論です。もっともらしく聞こえます。しかし、本当にそうでしょうか?・・・

いやいや実は、ポピュリストが権力を握る前の政権の方がちゃんと結果を出していたのだ。そして、ポピュリストが権力を握った後は、大体において悲惨な結果しか出していないのだ。筆者のアンドレス・ヴェラスコはその実例を一つ一つ挙げていく。

So, it is far from evident that "failure to deliver" is the main reason behind voters’ frustration. Of course, well-paid and well-fed constituents with access to outstanding schools and hospitals are more likely to be satisfied (other things being equal) with the functioning of democracy. But why, in so many cases of apparently adequate delivery, do voters turn to populist authoritarians and continue to vote for them even after they underperform?

Politicians like Trump and AMLO are unconcerned with the capacity to deliver. Their appeal is to a much darker and identity-obsessed corner of the human soul. You won’t see them looking sheepish if the economy falters or fails to create jobs, because they can always claim to have restored national pride, while blaming economic failure on someone else – whether foreign migrants or local elites.

したがって、「政策の不履行」が有権者の不満の主因であるというのは、決して明らかではない。もちろん、高給で十分な食料を与えられ、優れた学校や病院に通える有権者は、(他の条件が同じであれば)民主主義の機能に満足する可能性が高い。しかし、なぜ有権者は、一見十分な成果を上げているように見えるにもかかわらず、多くの場合、ポピュリスト的な権威主義者に目を向け、実績が芳しくない後も彼らに投票し続けるのでしょうか?

トランプ氏やAMLO氏のような政治家は、成果を上げる能力など気にしていません。彼らの訴えかけるのは、人間の心の奥底にある、はるかに暗く、アイデンティティにとらわれた一面です。経済が停滞したり、雇用創出に失敗したりしても、彼らが恥ずかしがる様子を見ることはないでしょう。なぜなら、彼らは常に国家の誇りを取り戻したと主張しながら、経済の失敗を外国人移民や地元エリートなど、他の誰かのせいにできるからです。

あらためてじわじわきます。

2025年10月14日 (火) | 固定リンク | コメント (2)

2025年10月13日 (月)

連合切れ斬れ症候群

少し前まで、連合切れ斬れ症候群は立憲民主党の主観的には中核支持者である左派系思想的支持者層に(とりわけ連合会長が共産党を批判するたびに定期的に観察される)顕著に見られる現象だったけれども、最近急に膨張した国民民主党の新参のしかし主観的には中核支持者である右派系思想的支持者層にも、ほぼ同種の現象が顕著に見られるに至ったことは、政治心理学的に見て大変興味深い現象ですね。

多分そうした主観的中核的支持者の脳内では、エコーチェンバーで自分の眼に入ってくる自分好みの見解だけがこの社会の圧倒的多数派に見えているので、連合などというたかが利益集団に過ぎぬ労働組合如きに政策が引っ掻き回されるのが我慢できないのでしょうが、まあ確かに組織率も低迷し続けて力が弱っているとはいえ、それこそたかがメディアやネットの吹き抜ける風の勢いだけで膨らんでみただけのふわふわした「中核的支持者」に比べれば、はるかに頑丈な票田であることも確かなのであって、そういうふわふわしたトルービリーバー諸氏の「連合切れ斬れ」ってのは、実は自分の二本の脚を一生懸命のこぎりで「切れ斬れ」って言ってるのと変わらないってことは、さすがに幹部諸氏はわかっているはずなんだが、とはいえ、魔法使いの弟子よろしく、「手取りを増やす」という最強の呪文でもって自分が呼び出してしまったおおまじめな主観的中核的支持者の皆さんを下手に怒らせるわけにもいかないし、というのが深い悩みのもとなのでしょう。

2025年10月13日 (月) 雑件 | 固定リンク | コメント (4)

2025年10月12日 (日)

これは何の法則というのだろう

3n9yijwa_400x400 polipoliさんのつぶやきで、こういう風に引き合いに出されたんですが、

ノビーってたまに良いこと言う。9割方ダメだけど、1割はうまいこと言うので侮れない。hamachan先生は逆に9割方正しいこと言うけど、1割で変なことを言う。

そうか、1割は変なこと言ってるのか、気をつけなくちゃ。

それにしても、この9割と1割って、何の法則と呼べばいいのだろう。

2025年10月12日 (日) 雑件 | 固定リンク | コメント (0)

2025年10月11日 (土)

『管理職の戦後史』最終校了

Asahi2 来月『管理職の戦後史』(朝日新書)が刊行されます。

はじめに
序章 雇用システムと管理職
1 管理職とは何か
(1) 職業分類における管理職
(2) アメリカのO*NETにおける管理職、専門職、事務職
(3) 日本のjob-tagにおける課長と事務員
2 日本社会における「管理職」
(1) 「部長ならできます」
(2) 戦後経営秩序における管理職
第1章 労働組合のリーダーから経営側の尖兵へ
1 終戦直後の労働運動と管理職
(1) 管理職がリードした労働運動
(2) 旧労働組合法における「使用者の利益代表者」
(3) 1949年改正労働組合法
2 経営権の確立と職場闘争
(1) 経営側の尖兵としての「職制」
(2) 職場闘争の時代
第2章 管理監督者と管理職の間
1 労働基準法の「管理監督者」
(1) 労働基準法制定以前の状況
(2) 労働基準法の制定過程
(3) 管理監督者と深夜業
2 金融機関管理監督者通達
(1) 金融機関の管理職昇進事情
(2) 地銀連の申告闘争
(3) 1977年金融機関管理監督者通達
(4) 1988年通達
第3章 管理職問題の時代
1 経営側の管理職論
(1) 『管理職の職務給』
(2) 『管理職-活用と処遇-』
(3) 『新時代の管理職処遇』
2 学者とメディアの管理職論
(1) 役職者割合の推移
(2) 岩田龍子の管理職論
(3) 週刊誌に見る「管理職受難」
(4) 松岡三郎の管理職組合結成論
第4章 管理職組合の挑戦
1 企業内管理職組合
(1) 東洋交通管理職組合
(2) 青森銀行管理職組合
(3) セメダインCSUフォーラム
2 管理職ユニオン
(1) 管理職リストラの時代
(2) 管理職ユニオンの活動
(3) 個別労働紛争解決制度における管理職
第5章 年俸制と企画業務型裁量労働制
1 年俸制
(1) 年俸制の流行
(2) 年俸制の状況
2 企画業務型裁量労働制
(1) 専門業務型裁量労働制の出発
(2) ホワイトカラーの労働時間制度をめぐる議論
(3) 裁量労働制をめぐる諸見解
(4) 裁量労働制研究会
(5) 企画業務型裁量労働制の創設
(6) 2003年改正
第6章 名ばかり管理職とホワイトカラーエグゼンプション
1 名ばかり管理職問題
(1) 日本マクドナルド事件判決と名ばかり管理職問題
(2) 2008年適正化通達とチェーン店通達
2 ホワイトカラーエグゼンプション
(1) ホワイトカラーエグゼンプションを求める声
(2) 労働時間制度研究会
(3) 労政審答申
(4) ホワイトカラーエグゼンプションの蹉跌
第7章 女性活躍と高度プロフェッショナル制度
1 女性管理職の時代
(1) 戦後経営秩序における女性
(2) 男女雇用機会均等法
(3) 労働基準法女子保護規定の指揮命令者
(4) 女性活躍推進法の管理職
2 高度プロフェッショナル制度
(1) ホワイトカラーエグゼンプションの再提起
(2) 高度プロフェッショナル制度という帰結
第8章 管理職はつらいよ
1 働き方改革の忘れ物
(1) 時間外・休日労働の上限規制
(2) 放置された管理監督者
(3) 管理職のための間接的労働時間規制
(4) 管理監督者の労働時間規制へ?
2 パワハラに気をつけろ
(1) パワーハラスメントの問題化
(2) 何でもハラスメント時代の管理職
3 管理職の代表機関を
(1) 過半数代表者と管理監督者
(2) 管理職の過半数代表者?
おわりに

2025年10月10日 (金)

ワークはライフ、ライフはワーク、ワークワークバランスでライフライフバランス

最近はもっぱらワークライフバランスという言い方が定着してしまっているれけれども、かつては職業生活と家庭生活の両立っていう言い方をしていたんだよね。

ワーキングライフとファミリーライフのバランスってわけで、ワークとライフを対立させる言い方をしていたわけじゃなかった。

ワークライフバランスのワークもライフだし、ライフもライフだ。

一方、ワークライフバランスのライフって、別に趣味で好き勝手なことを堪能しているわけじゃなくて、家庭の中でやんなくちゃいけないことをやってるわけであって、それも一種のワークでもある。ってか、アンペイドワークって言い方は、まさにそういう趣旨の言葉だろう。

ワークライフバランスのワークはペイドワークであり、ライフはアンペイドワークであるとすれば、どっちもワークということになる。

ワークライフバランスのワークもワークだし、ライフもワークだ。

というわけで、ワークライフバランスはワークワークバランスであるし、ライフライフバランスでもある。

で、内閣総理大臣(予定は未定にして決定に非ず)というワークと夫の介護というワークのワークワークバランスは、信念に燃えて政治活動をするというワイフと麗しい夫婦愛というライフのライフライフバランスでもある、という話は、あまりにも生々しすぎるので、この辺でやめておきます。

2025年10月10日 (金) 雑件 | 固定リンク | コメント (3)

2025年10月 8日 (水)

是川夕『ニッポンの移民』

G2pvn0fbiaiomze 本日、連合の第19回定期大会のレセプションに顔を出した後(ちなみに、現下の政治情勢下で、各政党の代表がどんな挨拶をするか楽しみにしていたのですが、それはなしになったようです。やっぱりね)、書店で是川夕さんの『ニッポンの移民——増え続ける外国人とどう向き合うか』(ちくま新書)と、移民の特集を組んでいる『世界』11月号を買って、さっそく読ませていただきました。

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480077103/

是川さんの本は、外国人問題を努めて冷静に、客観的にとらえようとする姿勢が一貫しており、とくにこれまで「移民政策の不在」とまで言われてきた日本の外国人政策について、結果としてむしろかなりいい線を言っていたのではないかという積極的な評価をされています。

実を言えば、結果的にかなりうまくいったという評価にはそれほど異論はないのですが、それを積極的に評価できるかという点では、いささか、というかむしろかなりの違和感があります。

わたしは外国人問題の論者が言うような意味での「移民政策の不在」というよりも、統一的統合的なマクロ外国人労働政策が不在であったのではないかと思いますし、そこにこそ日本の外国人政策の問題があったのではないかと思っています。

日系人や技能実習生が結果的にこの間の日本の労働市場において必要とされる労働需要を満たす労働力となったことは確かでしょうが、それがそういう観点から設計されたものではなかったこともまた明らかであって、結果オーライだからそれでいいじゃないかというわけでもないのではないかと思います。

このあたりについては、来年早々にも私自身の著書『外国人労働政策の正体』(仮題)を刊行する予定ですので、その時に詳しく論じるつもりですが、2018年に特定技能という正規のフロントドアが設けられるまでは、日本の労働市場のマクロ的状況からこの産業で人手不足になるからこれくらいの外国人を入れる必要がある云々といった仕組みは全く存在しませんでしたし、実は特定技能制度も法律の文言上はそうなっているとはいえ、実態としては法律ができる前に関係業界が業所管官庁を通じて官邸に陳情して決めるということになっていたわけで、国民の眼の前で透明な形で、労働市場の状況から外国人労働者の導入を正々堂々と論じるという、本来あるべきプロセスはなされていなかったのです。

本書の最初と最後で、是川さんは、最近の排外主義の傾向に対して大変危機感を露わにしておられます。その気持ちは共有するところは多いのですが、でもこの問題に今まで関心を持ってわざわざ調べようと思うような奇特さを持ち合わせていない一般国民からすると、おれたちの知らないところで、何やら怪しげな連中が勝手にこそこそと外国人を入れやがって、という風に見えてしまうのも、全く不合理とばかりは言えないのではないかと思われるのです。

その意味で、わたしは日本の外国人労働政策は、統一的統合的なマクロ外国人労働政策が不在であったし、そのことが様々な問題の原因になっているという意見です。なぜそうなってしまったかという「謎解き」は、上記書籍で詳しくやる予定ですので、ご期待ください。

Middle_32bedbe341734d5d936b8563417bc3b5 その意味では、一緒に買った『世界』の小井土彰宏さんの「移民政策の「失われた三〇年」を超えて」は、やや私の考えに近いと感じました。

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2025年10月 7日 (火)

育児時間はなぜ女性しかとれないのか?@WEB労政時報

WEB労政時報に「育児時間はなぜ女性しかとれないのか?」を寄稿しました。

本ブログの読者には言わずもがなですが、このタイトル真っ正直に受けないでくださいね。「なんで育児時間は女しかとれないんだ!?男もとれるようにしろッ」とイキっている文章ではもちろんありません。

https://www.rosei.jp/readers/article/89735

労働基準法第67条には「育児時間」の規定が置かれています。
(育児時間)
第六十七条 生後満一年に達しない生児を育てる女性は、第三十四条の休憩時間のほか、一日二回各々少なくとも三十分、その生児を育てるための時間を請求することができる。
2 使用者は、前項の育児時間中は、その女性を使用してはならない。
これを見て、育児休業は男女両方がとれるのに、育児時間の方は女性しかとれないのはおかしいのではないかと思った人はいませんか?実は・・・・

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2025年10月 6日 (月)

書評していただけるのは有り難いのですが・・・

Asahishinsho_20251006224401 昨年出した『賃金とは何か』(朝日新書)に対して、2300字を超える字数の長大な書評を書いていただいていること自体には大変有り難いことであると思っております。肯定的であれ否定的であれ、書評していただけること自体がうれしいということに偽りはありません。

とはいえ、この書評を読み進んでいくと、正直申し上げてもやもやするものが湧いてきて、有り難いでは済まないように感じます。

年収=あなたの価値? その誤解を解く――『賃金とは何か』が教える、"お金と人の価値"の本質

SNSを開けば、「年収1,000万円」「FIRE」「高収入の人が選ぶ仕事」など、お金で人を測る言葉があふれています。
でも、それを見てモヤッとしたことはありませんか?
「自分の年収は、人としての価値を表しているのか?」
「努力しても給料が上がらないのは、自分のせいなのか?」
そんな疑問に真正面から向き合うのが、『賃金とは何か――職務給の蹉跌と所属給の呪縛』(濱口桂一郎著)です。
本書は、明治から現代までの賃金制度の歴史をたどりながら、お金のもらい方が人の意識をどう形づくってきたかを描き出しています。
つまり、「年収=あなたの価値」という思い込みは、実は長い歴史の中で社会全体が作り出した"幻想"なのです。・・・・・

わたくしの本を引用しながら、この考えを説明していく・・・という文章が続いていきます。

が、

その先にわたくしの著書からの文章として「引用」されているのは、こういう文脈なのですが、

大切なのは、"評価"と"価値"を混同しないことです。
評価は、あくまで制度の中での相対的な位置づけ。
価値は、あなた自身が何を生み出し、誰にどんな影響を与えたかという絶対的な意味のものです。

本書の視点を借りれば、


「賃金とは、その人が社会のどこに位置づけられているかを示す"構造的な値"であり、人格や人間的価値を表すものではない」

賃金とは何か 職務給の蹉跌と所属給の呪縛 (朝日新書)

ということになります。

いや、拙著にはこんな箴言めいた名文句はありません。書いた覚えはありません。本書を書いた本人が言うのだから間違いありません。大体、引用の形をとりながら、何ページからという注釈がありません。ないはずです。そんな台詞は拙著のどこにも存在しないのですから。

この地の文の「評価と価値を混同しないこと」云々というのが書評者御自身の見解であるように、このあたかもわたくしの著書からの引用であるかのように「引用」されている文章も、書評者御自身の見解であって、その部分の知的財産権はいかなる意味でもわたくしにも属していません。

その先にも、わたくしが書いた覚えがないし、自分で書くことはありえないであろうような気の利いた(効き過ぎた)一句が「引用」されています。

年収を上げることは悪いことではありません。
でも、それが「自分の価値を証明する唯一の手段」だと思い込むと、人生の幅を狭めてしまいます。

『賃金とは何か』は、そうした「お金と価値の関係」をほどきながら、私たちにこう問いかけます。


――あなたは、"いくらもらうか"より、"どう生きるか"で、自分を測れているか?

賃金とは何か 職務給の蹉跌と所属給の呪縛 (朝日新書)

この「書評」を読まれて、濱口桂一郎というのはこんなにも思想的に深みがありそうな哲学的めいた箴言を語る奴であったのか、と思われてしまうと、現物はとてもそんな代物ではありませんので、ぜひとも誤解を解いていただきたく存じます。

というか、ここまでくると、ほとんど捏造の域に達しているようにも思われますが。

高市政権は過半ソーシャルかも知れない

本ブログではこれまでも何回も書いてきたことですが、安倍政権以後の自民党は小泉政権時の全面リベラルから、その側面を維持しつつ徐々にソーシャルの傾向を強めてきていました。安倍首相辞任時に書いたこれがそれを端的にまとめていますが、

半分ソーシャルだった安倍政権

本日突然安倍首相が辞意を表明しました。政治学者や政治評論家や政治部記者のような話をする気はありませんが、労働政策という観点からすれば、14-13年前の第一次安倍政権も含めて、「半分ソーシャル」な自民党政権だったと言えるように思います。半分ソーシャルの反対は全面リベラルで、第一次安倍政権の直前の小泉政権がその典型です。(本ブログは特殊アメリカ方言ではなくヨーロッパの普遍的な用語法に従っているので、違和感のある人は「リベラル」を「ネオリベ」と読み替えてください)

安倍政権は間違いなくその小泉・竹中路線を忠実に受け継ぐ側面があり、労働市場の規制緩和を一貫して進めてきたことは確かなので、その意味では間違いなく半分リベラルなのですが、それと同時に、一般的には社会党とか労働党と呼ばれる政党が好み、労働組合が支持するような類の政策も、かなり積極的に行おうとする傾向があります。そこをとらえて「半分ソーシャル」というわけです。今年はさすがに新型コロナでブレーキを掛けましたが、第1次安倍政権時から昨年までずっと最低賃金の引き上げを進めてきたことや、ある時期経営団体や労働組合すらも踏み越えて賃上げの旗を振ったりしていたのは、自民党政権としては異例なほどの「ソーシャル」ぶりだったといえましょう。・・・

今回の自民党総裁選をこの視角から見ると、小泉進次郎は(今回はその側面をできるだけ隠そうとしたとはいえ)ソーシャルからリベラルへの再転換指向が強かったのに対し、高市早苗は(世間的には国粋右翼的側面ばかりが注目されたとはいえ)ソーシャルをより強化する方向性が垣間見られ、実はそれも意外な勝利の一つの原因になっていたのではないかと思われなくもありません。

自民党・高市総裁 病院・介護施設の経営改善 補正予算で対応へ「診療報酬改定の効果を待てない状況」

自民党の高市早苗総裁は10月4日の記者会見で、「物価高対策」に速やかに取り組む考えを表明した。高市総裁は、医療・介護問題に言及し、「病院、介護施設は、いま大変な状況になっている。病院に関しては7割が深刻な赤字。介護施設の倒産も過去最高になった。診療報酬改定まで待っていられない」と強調。物価高・経済対策を柱とする補正予算で対応する考えを表明した。

政策論としていろいろ問題のあるところでしょうが、高市早苗という政治家を見る際に、安倍晋三よりももっと国粋右翼で参政党に近いといった側面だけに注目するのではなく、すでにかなりそうであった安倍晋三よりももっとソーシャル寄りであるかも知れないという面もきちんと見ておかないと、"リベラル"な皆さんは判断を間違う可能性があるのではないかということです。

(参考)

ある介護職員の方のつぶやき:

ぼくが一番注目したのは、 高市早苗さんのこの言葉。 「秋の臨時国会で診療報酬を改定し、引き上げる。...介護報酬も前倒し改定を考える」 介護報酬を「上げる」と、 しかも「前倒しで」と言い切った。 これって、 介護現場にとってはめちゃくちゃ大きい。 だって、本来なら数年後の改定を待たなきゃいけないのに、今の厳しい状況を見て「先にやる」と言ってるわけだから。 ・・・・【 介護報酬も前倒し改定 】 この一言が実現するかどうかで、 介護業界の未来は大きく変わる。 現場で働いてきて、 報酬アップがただの数字じゃなくて、 「人が辞めない理由」になり、 「続けられる理由」になることを知ってる。 この約束が本当に実行されるのか。 本当に注目です。

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2025年10月 5日 (日)

連合股裂け再び?

昨日の自民党総裁選で大方の予想を裏切り、高市早苗総裁が誕生しました。さっそくワーク・ライフ・バランス発言も飛び出していますが、今後の動きとして何より注目すべきは、連立相手に国民民主党が出てきたという報道です。

国民民主の玉木代表「基本政策の一致点はかなりある」...高市氏との連携前向き、連立入りにも含み

国民民主党の玉木代表は岐阜市内で「エネルギーなど基本政策の一致点はかなりある」と指摘し、高市氏との連携に前向きな姿勢をみせた。連立入りに関しても、「(打診が)来た時に考える。(高市氏の)方針をしっかり見定めたい」と含みを持たせた。

恐らく大方の予想は、小泉進次郎が総裁になり、維新の会と連立するというシナリオだったのでしょうが、それなら労働規制緩和について牽制するコメントを出しておけばいいと思っていたであろう連合は、突如(でもないですが)自らの支持政党2つが与党と野党に分裂してしまうかもしれないという事態に、頭を抱えているのではないかと想像されます。

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2025年10月 1日 (水)

東京新聞の論壇時評でも取り上げられました

61ptq8z6jkl_sy425__202509250954_20251001155701 朝日新聞の論壇時評で谷口将紀さんに取り上げていただいたことはすでに報告しましたが、東京新聞の論壇時評でも中島岳志さんに取り上げていただきました。『世界』10月号の「女性『活躍』はもうやめよう」です。

〈論壇時評〉「主婦的なるもの」と参政党 リベラル政党のズレ 見える 中島岳志

・・・同じ『世界』10月号に掲載された濱口桂一郎「女性『活躍』はもうやめよう―働き方の普通を変える」は、女性管理職を増やすことが女性活躍のメルクマール(指標)とされることに疑問を呈する。女性も男性と同様に猛烈に働いて、管理職への昇進を目指すことが、本当に望ましい「女性活躍」の姿なのか。

近年、「ワークライフバランス」(仕事と生活の調和)という言葉をよく聞くが、戦後の日本社会において、男性正社員は、ワークは無限定でライフは限定がデフォルトだった。一方女性は、ワークは制限付きで、ライフは無制限だった。しかし、1997年の改正男女雇用機会均等法以後、総合職女性はワークもライフも無限定という状況に追い込まれた。難易度が高すぎてクリアできないゲームを「無理ゲー」というが、女性活躍社会とは多くの女性にとって「無理ゲー」にほかならない。

鈴木の論考と合わせて考えると、あまりにも過酷な条件を課された女性たちに対して、グローバルな競争社会を批判し、ケアの倫理に基礎づけられた「専業主婦的なもの」の重視を説いた参政党が、魅力をもって受け入れられた可能性が見えてくる。そして、この苦しみに向き合うことのできていないエリート中心のリベラル政党のズレが見えてくる。・・・

同じ号に載っている鈴木彩加さんの「主婦的なるもの』の政治性―参政党現象から考える」と絡ませて、参政党現象やらリベラル批判やらにつなげられて論じられているようです。書いた当人はそこまでの射程は考えていなかったので、ちょっとドッキリしました。

2025年10月 1日 (水) | 固定リンク | コメント (3)

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