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000182308 去る(昭和100年)10月10日に、公明党が連立離脱するという激震が走り、同日には石破首相の戦後80周年所感が公表されるという騒ぎの中で、もはやほとんど忘れられつつありますが、10月7日の連合定期大会に石破首相が招かれて挨拶をしていて、その中で最低賃金だけではなくストライキの話をしていたんですね。
https://www.kantei.go.jp/jp/103/actions/202510/07rengou.html?s=09
・・・私は三島由紀夫という小説家がすごい好きで、学生の頃からよく読んでいたのですが、『絹と明察』という小説を御存じの方もあるかもしれません。昭和30年代の小説です。1954年、昭和29年に、近江絹糸の労働争議というのがありました。ここは初めての人権争議というものでございました。この争議において、女子従業員の方々が外出、結婚、教育の自由がないというような労務管理が行われとったわけでありますが、この是正、そういう方々の待遇改善、そういうものを組合が求めて全面的に勝利したというのを描いておるのが、三島の『絹と明察』という小説でございます。新潮文庫で出ていますから、どうぞお暇があればお読みください。
昔の話だよと、今は関係ないんだよと、いうことかもしれません。ですけれども、私は昭和54年に学校を出て、とある銀行に入りましたが、高校に入ったのは昭和47年のことでございました。ストライキのピークは1974年、昭和49年です。私、高校3年生でした。そのときにストライキというのは5,200件あったんだそうです。参加した人は362万人いたんだそうです。1週間学校休みになりました。じゃ、直近去年2020年はどうであったかというと、ストライキは何件があったか、27件です。全国で、ピークの0.5パーセント。ストライキに参加した人は何人だったか、935人。ピークの0.03パーセントということであります。
それはそれでいいことだと、いろいろな労使の協議というのがあって、ストライキとかそういう手段に訴えなくても、いろいろなことが改善していく、社会生活もきちんと安定する、それはそれですばらしいことでありますが、日本国憲法に団結権、団体交渉権、団体行動権、労働三権というのが明記をされておるわけでございまして、これが労働者の大切な権利であるということは何ら変わりはございません。
連合の組織内議員のいる政党ではなく、その政権をひっくり返そうと運動しているはずの自民党政権の(自民党のではなくても)トップから、「君たち、自分たちにはストライキ権という大事なものがあるってことを忘れるんじゃないよ」と教え諭されているかのようで、これもまたなかなかじわじわくるものがあります。
(追記)
ちなみに、この近江絹糸人権争議については、本ブログで、本田一成さんの本を紹介したことがあります。
本田一成『写真記録・三島由紀夫が書かなかった近江絹糸人権争議』
9784794811189 本田一成さんより、『写真記録・三島由紀夫が書かなかった近江絹糸人権争議 絹とクミアイ』(新評論)をお送りいただきました。ありがとうございます。
http://www.shinhyoron.co.jp/978-4-7948-1118-9.html
昭和二九(一九五四)年、一〇六日間に及ぶ日本最大級の労働争議「近江絹糸人権争議」が発生し、国民の目を釘付けにした。その一〇年後、三島由紀夫がこの争議を題材とする長編小説『絹と明察』を世に出している。ところが、関係者に取材をしたはずの三島、なぜか争議の詳細を作品に書き込まなかった。集団就職で工場に勤めた中卒労働者たちと本社の一流大卒エリートたちが見事に一致団結して経営者に立ち向かったこの比類なき争議を詳しく調べていくと、実に興味深い人間と社会の実相が浮かび上がってくる。労働組合を一貫して敵視し続けた経営者。やがて自殺者まで出るに至る凄絶な緊張感。会社側に肩入れする不可解な警察の介入。解放されたはずの若者たちを襲った「もう一つの争議」等々、そこにはいくつもの特異性と謎がある。この争議について記した文献のほとんどは彦根工場における活動を中心に描いているが、実は大阪、大垣、富士宮、東京など各地同時多発の全国規模の争議であった。また、一口に争議といっても、ストライキ、ロックアウト、ピケッティング、乱闘、セスナ機からのビラまき、製品ボイコット、不当労働行為、オルグ合戦、募金活動、銀行や省庁への陳情、政治家の動員、真相発表会、裁判闘争などなど、労使双方が多様な戦術を繰り広げ、マスコミ、警察、暴力団、国会すらも巻き込む総力戦であった。そして各地の現場には、仲間を守って闘い抜いたヒーローたちがいた。争議を経験した若者たちもいまや八〇歳を超えている。筆者は存命のヒーローたちにお会いして、当時の写真を前に心ゆくまで語ってもらった。するとお話を聞くうちに、写真の中から被写体が飛び出してきて、この事件の謎を解きはじめた!――まるでタイムスリップである。争議勃発から六五年が経過し、平成が終わりつつある現在、働く人びとや経営者が本書を読んで(見て)何を感じるか、ぜひ知りたい。そして、叶うことなら二〇〇点を超える未公開写真を掲載した本書を、三島に見せびらかしてやりたい。
近江絹糸の人権争議と言えば、戦後労働運動史に燦然と輝く労働組合側が全面勝利した争議の一つです。それゆえ、それに関する本も多いのですが、今回の本は主としてチェーンストアの労使関係やパートタイマーを研究してきた本田さんが、カタカナのゼンセンになる前の「全繊」、つまり繊維産業の産別組合だったころの話に手を伸ばしています。
まえがきに、本書出版に至る経緯が書かれているのですが、本田さんが前著『オルグ!オルグ!オルグ!』を書く際に、チェーンストアを組織したゼンセン同盟がむかしは全繊同盟で、近江絹糸人権争議なんてのもあったと触れるために1枚の写真を使わせてもらうために、争議の指導者のひとりであり、争議に関する本を書いている朝倉克己さんに手紙を書いたところ、100枚以上の写真を段ボールに溢れるような資料が届き、会いに行ってしゃべっているうちに「写真記録をベースにした本にしますが、よろしいですか」と打診しタラ、朝倉さんの顔が輝いたんだそうです。
というわけで、本書は200ページ余りのうち半分近くが当時の写真で埋めつくされています。当時の日本のにおいがプンプン漂ってくるような写真です。そのうち見開きを2枚ほどアップしておきますが、憎き夏川社長の墓碑銘(法名 釋畜生餓鬼童死至 俗名 那津川蚊喰児)を書いてみたり、なかなかワイルドです。
2025年10月14日 (火) | 固定リンク
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親戚が大垣にいたので、80年談話の際の大垣空襲の話もあって、大垣づいているなと思いました。
かつては、大垣駅の北側にオーミケンシの広大な敷地が広がっていました。コンクリートの高い塀が囲っていて、知らない人が見たら刑務所か何かと思うような威容がありました。ストリートビューでぎりぎり2012年まで遡ると見ることができます。後年は女子寮を守るためと思いますが、閉じ込めるためだったことも噂で聞いた記憶があります。
大垣は、名古屋のベットタウン化が進んでいますが、ドン・キホーテの創業者の出身地だったり、イビデン、西濃運輸の本社があったり企業研究として面白い土地でもあります。
投稿: 通りすがり | 2025年10月15日 (水) 07時33分
別のところで書きましたが、やっぱり石破さん、キリスト教社会主義者ですね。
三島由紀夫が近江絹糸人絹闘争葬儀について書かなかったのは大蔵省に入るくらいのエリートの子弟と言うブルジョア階級の意識に従ったと言う事でしょう。
三島の晩年の憂悶と自殺は大蔵省を退職して小説家になるという、エリートにあるまじき人生行路を歩み、自尊感情を傷つけられたがゆえなのかもしれません。
もちろん石破さんも世襲議員の一人であり、エリートの子弟のはずですが、古き良きプロテスタンティズムを継承していたためにキリスト教社会主義者になることが出来たと言う事ではないでしょうか。
投稿: balthazar | 2025年10月14日 (火) 18時53分