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10月20日のエントリの続きのようなもの。

最近、河出書房新社から日本文学全集が出ている。

日本古典文学全集 全30巻:河出書房新社

日本文学全集というと、近代文学と古典文学で分かれているのが普通だが、この全集は半分近くを古典が占めている。ただし、古典は現代語訳で、訳者の多くは古典文学の専門家ではなく、小説家が〈訳して〉いる。

現在、サンプルとして、町田康氏の「奇怪な鬼に瘤を除去される」(『宇治拾遺物語』より)が全文読めるようになっている。なお、この原典は、『宇治拾遺物語』の第三話「鬼に瘤取らるる事」である。

町田康訳「奇怪な鬼に瘤を除去される」(『宇治拾遺物語』より):河出書房新社

さて、これを古典の現代語訳と言っていいのか、はなはだ疑問ではあるが、翻案としてはアリだと思う。これを読んで、忠実な現代語訳だと思う人はいないだろうから、原文を尊重せよなどと野暮なことを言うつもりはない。だが・・・残念ながら、ちっとも面白くない。

やたらとこねくり回しているが、原典の面白さを超えていないのである。あまりこねまわすものだから、まるで中学生が昼休みに書いたオモシロ小説みたいになっていて、これなら元のものをそのまま現代語訳した方がよほど面白い。

例えば、鬼の描写を見てみよう。

その姿形たるやはっきり言ってムチャクチャであった。まず、皮膚の色がカラフルで、真っ赤な奴がいるかと思ったら、真っ青な奴もおり、どすピンクの奴も全身ゴールドというど派手な奴もいた。赤い奴はブルーを着て、黒い奴はゴールドの褌を締めるなどしていた。顔の造作も普通ではなく、角は大体の奴にあったが、口がない奴や、目がひとつしかない奴がいた。かと思うと目が二十四もあって、おまえは二十四の瞳か、みたいな奴もおり、また、目も口もないのに鼻ばかり三十もついている奴もいて、その異様さ加減は人間の想像を遥かに超えていた。

原典ではこうなっている。
おほかた、やうやう、さまざまなる物ども、赤き色には青き物を着、黒き色には赤き物をたうさぎにかき、おほかた、目一つある物あり、口なき物など、おほかた、いかにもいふべきにもあらぬ物ども、百人斗おしめきあつまりて、火をてんのめのごとくにともして、我が居たるうつほ木の前に居まはりぬ。おほかた、いとど物おぼえず。

一見して、町田氏の方が具体的に描写されているのが分かる。鬼がやたらとカラフルになってるし、「二十四の瞳」だの「目も口もないのに鼻ばかり三十もついている奴」だのは原典には出てこない。描写を盛ることによって、鬼の異様さを描いているのだろう。

原典のはずっとシンプルだが、「おほかた」という単語が四回も出てくるのが目に付く。この「おほかた」は「大体」みたいな意味だが、こんなに連発されるような言葉ではない。わざわざ対句風に作られ、リズミカルなはずなのに、「おほかた」を挟むことによって、なんとも不自然な、たどたどしい文章になっている。しかし、これによって、名状しがたい鬼の奇怪さと、翁の恐怖が伝わってくるのである。

このあと、鬼の宴会が人間のそれと何ら変わりがなかった・・・という描写に続いていくのだが、原典では先に鬼の恐ろしさをしっかりと描いているから、鬼の宴会の楽しさが生きてくる。町田氏の翻案のように、鬼の描写で笑いを取ってしまえば、宴会の面白さとのコントラストが甘くなる。

このように、町田氏訳はあまり印象のいいものではないのだが、ひとつだけ関心した部分がある。瘤を取られた翁が、妻にこの顛末を喋った場面である。
お爺さんの顔を見て驚愕した妻は、いったいなにがあったのです? と問い糾した。お爺さんは自分が体験した不思議な出来事の一部始終を話した。妻はこれを聞いて、「驚くべきことですね」とだけ言った。私はあなたの瘤をこそ愛していました。と言いたい気持ちを押しとどめて。

原文ではこうなっている。
妻のうば、「こは、いかなりつる事ぞ」と問えば、「しかじか」と語る。「あさましき事かな」と言ふ。

町田氏訳の、妻は瘤のある翁を愛していたというのは付け足しである。だが、原文での妻の反応は、驚くほどそっけなくて、妻になんらかの理由があることを伺わせる。ここに気づいたのは、さすが芥川賞作家というべきだろう。

「瘤取り」といえば、太宰治『御伽草子』である。こちらは、完全な翻案だが、やはり妻の反応の薄さに注目しているようだ。
家に帰るとお婆さんは、
「お帰りなさいまし。」と落ちついて言ひ、昨夜はどうしましたとか何とかいふ事はいつさい問はず、「おみおつけが冷たくなりまして、」と低くつぶやいて、お爺さんの朝食の支度をする。
「いや、冷たくてもいいさ。あたためるには及びませんよ。」とお爺さんは、やたらに遠慮して小さくかしこまり、朝食のお膳につく。お婆さんにお給仕されてごはんを食べながら、お爺さんは、昨夜の不思議な出来事を知らせてやりたくて仕様が無い。しかし、お婆さんの儼然たる態度に圧倒されて、言葉が喉のあたりにひつからまつて何も言へない。うつむいて、わびしくごはんを食べてゐる。
「瘤が、しなびたやうですね。」お婆さんは、ぽつんと言つた。
「うむ。」もう何も言ひたくなかつた。
「破れて、水が出たのでせう。」とお婆さんは事も無げに言つて、澄ましてゐる。
「うむ。」
「また、水がたまつて腫れるんでせうね。」
「さうだらう。」
結局、このお爺さんの一家に於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかつたわけである。

こちらは妻(お婆さん)の無関心としている。ずいぶん引き伸ばしたものだが、最初から翁を社会からも家族から疎外されている人として設定しているので、「あさましき事かな」というただ一言を作品全体のテーマにしているとも考えられる。これにより、太宰の「瘤取り」は原典の面白さとは違う面白さを書くことに成功している。

古典を改変して壮大に失敗するのを何度も見てきたが、結局原典をどれだけ尊重しているかがポイントなのだと思う。慢☆画太郎の『罪と罰』ぐらい豪快に改変している人のほうが、案外原典を尊重しているのである。

古典というものは、何百年、何千年という長い時間を生き抜いた作品である。小手先の改変で面白くなるようなものではない。
(追記) (追記ここまで)
タグ :
#説話
#現代語訳

コメント

コメント一覧 (5)

    • 1. ホシナ
    • 2015年10月25日 20:37
    • 「おほかた」、面白いですね。意味もなく繰り返しているのは何なんでしょうか?

      「あさましき事かな」...説話の登場人物の驚き方なんて、『おおかた』そんなもんなんじゃないでしょうか。翁が鬼を見て思ったのも「あさまし」なわけですから、十分驚いてるんじゃなかろうかと。

      町田訳、頗る面白くないですね。
      特に、最後の教訓がつまらない。中途半端というか...。
      僕がこういう「超訳」を嫌いだ、ということを抜きにしても、どういう人に、どういうふうに読んで欲しくてこうしたのか、まったく見当が付きません。
    • 2. 中川@やたナビ
    • 2015年10月25日 23:09
    • >「おほかた」、面白いですね。意味もなく繰り返しているのは何なんでしょうか?

      『宇治拾遺物語』の作者はこの語が好きだったらしく、他の説話にもよく出てきます。
      こんなに連発されているのはここだけですけど。
      やはり、翁視点で、おろおろした感じを出そうとしてるんじゃないでしょうか。

      >「あさまし」なわけですから、十分驚いてるんじゃなかろうかと。

      本来そうだと思います。
      ただ、現代的な視点でみると、そっけなく見えると。

      >特に、最後の教訓がつまらない。中途半端というか...。

      なにしろ、『宇治拾遺物語』の教訓が、「物うらやみはすまじき事なりとぞ。」と、実にシンプルですからね。
      もともと、話が面白いんだから教訓なんかいらないんですけど、〈訳〉である以上は入れなきゃいけない・・・書きすぎて中途半端ってな感じでしょうか。
    • 3. 薄氷堂
    • 2015年11月02日 09:46
    • 古典の現代語訳はいくつか読みましたが、たいていはつまらないですね。

      たとえば手元に石川淳『新釈雨月物語』というのがあります。天下の石川淳だから、文章はさすが手慣れたもので、格調もけっして低くはない。けれども原文よりずっとつまらない。失礼ながらあくびをしたくなります。

      これでは、たとえ七割程度しか理解できなくとも、注釈をたよりに原文の調子を直接味わったほうがずっとマシというものです。

      ああ、石川さん、なんでこんなことをしたのだろうか、手元不如意だったから仕事を引き受けたのかしら(笑)、といいたくもなります。

      意味は伝わっても音や調子は伝わらないという、外国語の翻訳と共通の問題を感じますね。いっそ自由な翻案のほうがよさそうにも思えるのですが、作品によっては、どうしても原文にとらわれすぎてしまいますから、事はそう簡単ではなさそうです。

      太宰は『新釈諸国噺』の「凡例」に、

      古典の現代訳なんて、およそ、意味の無いものである。作家の為すべき業ではない。

      と書いています(これ本音でしょうね)。

      だから西鶴の原作をもとに「私の空想を自由に書き綴り」としているのですが、正直いって『諸国噺』は成功していないと思います。文章がぎこちなくて、とても「自由に書き綴」っているようには見えないからです。彼の傑作『お伽草子』に比べれば数等劣っているといっても、反論する方は少ないと思います。

      結局古典は手ごわいということでしょうか。
    • 4. 中川@やたナビ
    • 2015年11月03日 23:57
    • 『新釈雨月物語』は読んでいませんが、『諸国噺』は文章硬い印象がありますね。
      秋成にしても、西鶴にしても、とんでもない文豪ですから、相手が悪いです。

      古典の翻案というと、芥川龍之介ですが、当時まだほとんど読まれなかった説話集に注目し、絶妙に手を入れたのが成功したのだと思います。
      それでも、ときどきヘンなのはありますけど、傑作とされているのは、あまり原典に手が入っていないのが多いように思います。

      >意味は伝わっても音や調子は伝わらないという、外国語の翻訳と共通の問題を感じますね。

      外国文学だと、逆に諦めがつくかもしれません。
      それ以前に、政治と宗教という、日本人が一番苦手なものが伝わりませんからね。
    • 5. 十須賀
    • 2025年04月05日 05:19
    • >古典は現代語訳で、訳者の多くは古典文学の専門家ではなく、小説家が〈訳して〉いる。
      書籍検索サイトでざっと検索してみたら平成初期あたりまで小説家が訳した古典文学全集が結構出てたみたいだ
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