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2024年07月

ブログ強化月間も今日で終わり。今年もなんとかカレンダーを埋めることができた。

しかし、埋めるネタに使おうと思っていた近所のお地蔵さんは一つしか紹介していないし、他にも書こうと思っていて書かなかったことがあって少々心残りがある。

さて、世間的には今月前半は都知事選挙、後半はパリ・オリンピックがもっぱらの話題だった。

都知事選挙は、現職の3期目で、大きな論点がなく、おまけに暑かったので、それほど盛り上がらないだろうと踏んでいたのだが、これが大ハズレ。とくに石丸氏の2位と、投票率が60.5%もあったのは予想外だった。あれから25日がたち、なんとなくどうしてこうなったかが分かってきた。これについては書くかもしれないし書かないかもしれない。

27日にはパリ・オリンピックの開会式があった。時間が遅かったので通して見てはいないのだが、なかなか物議をかもしている。断片的に見た演出は、どう解釈するかが難しいところではあるが、衝撃的なものだった。

それにしても、パリの観光資源はすごい。僕は一度行ったきりだが、あの開会式の映像で行ったことがある場所がポンポン出てくる。今回は競技会場としても多くの名所が使われるそうだ。

とはいえ、セーヌ川を泳がせるのはどうかと思うけど。

保科恵『言葉で繙く平安文学』(二〇二四年三月・新典社)を読んだ。

言葉で繙く平安文学
保科恵『言葉で繙く平安文学』(新典社):amazon.co.jp


いきなりだが、本書の「はじめに」を引用する。
古典の文章を近代の文章の違いを安易に拡大解釈して、意味が通じないと感じるところを古典の文章の特殊性だと決めつけるべきではありません。言葉としての普遍性を基軸にしたうえで、古典には古典の、近代には近代の文章の特殊性を見て行くのでなければならないのです。

普遍性とはどんな時代・地域でも共通することで、特殊性はその逆である。僕たちは中学・高校で古文を習うが、普遍性は当たり前のことだから授業では扱いが薄くなるしテストにもあまり出ない。かくして、僕たちのノーミソには特殊性ばかりが残ることになる。

しかし、筆者は普遍的な解釈から読んでいくことを提唱する。実は、古典を学習して読む僕たちには、これがなかなか難しいのである。前著『入門平安文学の読み方』(保科恵『入門平安文学の読み方』を読んだ)では特殊性に着目しているのに対し、こちらは普遍性に着目しているといってもよいかもしれない。

例えば「助動詞の表現と効果―「せたまふ」の示す意味―」の章では、副題にあるように「せたまふ」の解釈にスポットライトを当てる。「せたまふ」の意味といえば何を思い出すだろうか。二重敬語の「せたまふ」と、使役の助動詞「す」+補助動詞「たまふ」である。

では最初に思い出したのはどちらか。僕もそうだが、受験勉強なんかで「せたまふ・させたまふは二重敬語」と念仏のように唱えた人が多いだろうから、ほとんどの人が二重敬語の方ではないだろうか。最高敬語は現代ではほぼ使われないから、特殊性の解釈を先に思い出したことになる。

だから天皇や皇后などの行為に「させたまふ」が付くと、二重敬語として解釈することを優先してしまう。場合によっては優先どころか使役の可能性を考えなくなってしまう。しかし、「助動詞の表現と効果」では、従来尊敬で解釈されることが多かったものの中にも、使役として解釈できるものがいくつもあること、その場合どういう解釈になるかを、多くの用例と解釈例を挙げて述べている。

この本は言葉の解釈がテーマだから、他の章でも古典の引用文が多い。読者は引用文を飛ばすことができず、しっかり読み込む必要がある。クソ暑い夏に溶けかかったノーミソで読むのは、これがなかなか辛い。

そういう人には、まずその章の最後の二段落ぐらいを先に読むことをオススメする。そうすると、着地地点が分かって読みやすくなる。

ただし、これはいちばん最初の章「順を追って読むこと」に反することになるけど。

引っ越しして2ヶ月あまり、なんだか前に住んでいた昭和の住居が貴重なもののように思えてきた。そこで、これまで16年間僕が住んできた昭和のマンションの写真をお目にかける。

まず、スペックから。1980年1月建築の築44年のSRC(鉄骨鉄筋コンクリート)で11階建て。総戸数は39戸。住んでいたのはその9階で、約50平方メートルの3Kである。3Kなんて最近じゃあまり聞かないが、6畳の和室が2部屋と5畳くらいの洋室が1部屋、それに狭いキッチンがある。

こちらがそのキッチン。もういろんなものが昭和。蛇口はひねるやつ。右の空いたスペースに冷蔵庫を置く。居間と違いコンセントは下に付いているのでホコリがたまる。利点は横に長いので意外に使いやすいことと、右側に大きな窓があるので夏でも熱がこもらないことだ。
キッチン
リビングが存在しないので、和室の一部屋をリビングに使っていた。そのリビングからキッチンを見たところ。ガラス戸が泣かせる。左の壁に何やら貼ってあるのは、僕が手をついて穴を開けてしまい、DIYで補修したところ。退去時に唯一弁償したのがこれ。16年も住んでいたのでほかは全部経年劣化ということで済んでしまった。
ガラス戸とキッチン
一時期、弟・従兄弟・妻の姪が別々の場所で同じ9階に住んでいたんだけど、眺めはうちがダントツだった。理由は近くに高い建物がないから。旗竿みたいなのは隣のマンションの避雷針。さすがにここに雷が落ちたことはない。
窓からの景色
ベランダは幅が細いけど角部屋なので回り込んでいて使い勝手が良かった。南に面しているので、夏は洗濯物がものすごい勢いで乾いた。
ベランダ
寝室。居間と同じなんだけど居間がガラス戸なのに対し、なぜかこちらは入口がふすまになっている。
寝室
僕の仕事部屋。机と本棚を出したら意外と広くてびっくりした。西向きなので、夏はむちゃくちゃ暑くて冬は寒い。もちろんエアコンなんてものはない。
仕事部屋

キッチンのところにも写っているが、もともと壁の中に水道の配管があったのだが、2010年の夏に水回りの工事があり水回りが露出配管になった。中国を自転車で走って、帰ってきたらこのありさま。風呂がなんだか現代アートみたいになってた。ユニットバスではないし、もちろん追い焚き機能もない。
露出配管
玄関。鉄扉で扉のスキマや郵便受けから風が入りまくり。そもそも鉄なので内にも外にも熱を通しやすい。
玄関

前にも書いたが(昭和の家から平成の家へ:2024年06月23日参照)、昭和の住居と平成の住居では設計思想が180度違う。風通しをよくする昭和の住居に対して、平成の住居は気密・断熱を宗とする。

今、暑い夏を迎えてその違いに戸惑っている。エアコンの効いた部屋は快適だが、風の通る部屋で昼寝する気持ちよさはもう味わえない。
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#家
#住居

アニメ『葬送のフリーレン』を観た。ついでに原作漫画もちょっと(あくまでちょっと)読んでみた。

葬送のフリーレン

舞台はどこの国でも時代でもない、ちょっと雑な設定のファンタジー世界。登場人物は全員低血圧で、よく分からない旅やバトルをする。だから、これがつまらないと感じるのは理解できる。

では雰囲気だけの作品かというとそうではない。これは解釈を必要とする作品である。低血圧な登場人物のセリフと行動からその意味を読み取ることができれば感動できる。『葬送のフリーレン』みたいな作品の評価が高いのは、まだまだ捨てたもんじゃないなと思った。

この作品は人間関係、とりわけ師弟関係の描写がいい。ファンタジー世界の旅をするのは、エルフのフリーレン、人間のフェルンとシュタルクの三人(一時的にザインが加わり四人になる)。このうちフリーレンとフェルンは魔法使いとしての師弟関係で、シュタルクはかつてフリーレンの仲間だったアイゼンの戦士としての弟子である。

設定上重要なのはエルフの寿命は千年以上あるということだ。つまり、フリーレンの10年20年は人間の1・2年にしか当たらない短い時間ということになる。ある課題にたいし半年以上かけるフリーレンにたいして、フェルンが不満を述べるシーンがある。そこからフリーレンはエルフと人間の時間の違いに気づくようになる。

しかし、これは何も10倍以上の寿命差があるエルフと人間に限ったことではなく、実際の人間同士の師弟関係でもよくあることである。一日でも早く一人前になりたい弟子にとって、師匠は千年以上生きるフリーレンも同然なのだ。逆に師匠は一人前になるには時間がかかることが分かっている。なるべく時間をかけて自分の知識や技術を伝授したいと思うものだ。

これに気づかず、弟子を飼い殺しにしてしまう人がいる。もちろん、どうしても時間をかけて修行しなきゃいけないこともある。しかし、弟子の時間は師匠の時間とは違うということを、師匠になる人は理解しなければならない。

これは師弟の年齢が近い時に起こりがちだ。この作品でもフリーレンとフェルンは年齢的には千歳ほど離れているが、見た目や言動はフリーレンの方が若く見えるのは、それを描いているのだろう。

アイゼンとシュタルクの師弟では、アイゼンはドワーフで人間ほど短命ではないがエルフほど長命ではない。シュタルクを弟子にしたときに、アイゼンはすでに一戦を退いている。見た目もそうだが、師弟に年齢差がある場合に似ている。

アイゼンは成長したシュタルクを追い出してしまうが、シュタルクは追い出されたのではなく自分が師匠のもとから逃げたと思っている。アイゼンからすればシュタルクはもう一人で成長できる実力があると思っているから追い出したのだが、シュタルクからすれば未熟なまま師匠のもとを逃げたことになる。だからシュタルクには自信がない。しかし、シュタルクは師匠のアイゼンが死ぬ前に、自分が一人前になったところを見せたいと思っている。

『葬送のフリーレン』では、ほかにもフランメ(人間・魔法使い)とフリーレン(エルフ・魔法使い)、ハイター(人間・僧侶)とフェルン(人間・魔法使い)など、いろいろな形の師弟関係が出てくる。これがいちいち既視感があるのだ。

師匠になったことがないので師匠の心理は分からないが、弟子の心理は分かる。僕の場合はアイゼンとシュタルクの関係に近かった。残念ながら僕は師匠が死ぬ前に一人前になれなかったけど。
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#アニメ

実家の生け垣の葉刈りをした。

ビフォー。
左の方だけやたらと伸びているのは、6月にその手前まで刈って、雨が降ったのでやめたから。その時よりも伸びているので、結局全体を刈ることになった。
ビフォー
アフター。
アフター
これは午前中で、午後家の反対側の黄楊の木を刈ったのだが、刈っている最中に謎虫に刺されて意気消沈。写真はなし。

あまりに暑くて疲れたので、今日はこんなところで失礼します。
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#葉刈り

僕はレンタカーのヘビーユーザーなのだが、コロナ禍以降近所の営業所がどんどん減ってしまい、現在では電車で一駅行かなければ借りられなくなってしまった。営業時間も短くなっていて、昔のように24時間営業の営業所は皆無になった。これは返却時間を考えなければならないから煩わしい。

というわけで以前からカーシェアを検討していたのだが、月会費が必要だというので使わなかった。月に一回以上乗れば会費のもとは取れるようになっているようだが、今までの経験上、一回も使わない月が多そうなのだ。

ところが、最近月会費無料のカーシェアがあると知った。会員になるだけならタダなので、とりあえず会員になって使ってみた。

会員になったのは三井のカーシェアーズである。当時はまだカレコという名前だった。これにしたのは会費無料コースがあるのと、僕の家の近所や実家の近所にステーションがあるからである。

使い方は、スマホアプリかサイトから予約をし、時間になったらステーションへ行ってスマホアプリで解錠して乗る、終わったらスマホアプリで施錠して終了という流れになる。初めてのときは少々戸惑ったが、慣れてしまえばレンタカーを借りるよりよほど手軽で簡単だ。

時間貸し駐車場(三井のリパーク)の一角がカーシェア専用のスペースになっていて、そこに車がある。車種は場所によって違っていて、アプリから確認できる。

ガソリンは半分以下になったら、車内にあるカードを使って入れることになっている。ガソリン代は払う必要はないし、入れると次回乗車時に安くなるクーポン(たしか400円)がもらえる。半分以下になっていなければそのまま返せばいい。

料金は10分単位で課金される。一番やすい「ベーシック」だと180円である。6時間以上だと6時間パックで5280円とお得になる(12時間・24時間もある)ものの、今度は1km22円の距離料金が課金される。

実際どのくらいかかるかは使ってみないと分からない。これまで何回か使ってみたが、結論からいうとこれはレンタカーの代用にはならないようだ。

レンタカーの場合、6時間・12時間のような区切りでしか借りることができないが、ちょっと遠くへ行くと12時間ぐらいはすぐに経ってしまうのでそれで問題ない。一方、カーシェアは距離料金のせいで12時間借りるとレンタカーよりもかなり割高になってしまう。

逆に言えば6時間未満ならカーシェアの方が安い。基本ガソリンを入れて返さなくていいので、時間も有効に使える。距離料金がネックなので、乗っている時間より降りている時間の方が長いという使い方なら、6時間以上でもカーシェアのほうが得かもしれない。

まとめると、カーシェアは車で近所に行く場合には便利だしお得だが、ちょっと遠くへドライブに行くような用途ならレンタカーのほうがよさそうだ。これはカーシェア会社も意識しているようで、三井のカーシェアーズの場合、会員は24時間利用の場合ニッポンレンタカーを割安で借りられるようになっている。とにかく使い分けが必要らしい。

料金のことはおいておいても、空いていればすぐに借りられるのと24時間使えるのは魅力である。会員になるだけならタダなので、レンタカーヘビーユーザーのあなたには、とりあえず会員になっておくことをおすすめする。
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#カーシェア

小学館から『日本国語大辞典』第三版がアナウンスされた。

日本国語大辞典第三版:小学館

『日本国語大辞典』といえば日本最大の国語辞典で、調べ物では「とりあえず日国」といわれるような辞典である。そんな辞典の改訂なので当然注目される。

ニュースの見出しに「第二版から30年ぶりの改訂」とあったので、もうそんなに経つのかとびっくりしたが、第二版は2000年刊行なので現在はまだ24年である。しかも公開予定は2032年なのできっかり30年ではなく32年ぶりとなる。読んでいるうちに何だかよく分からなくなってきたので、重要な情報をまとめてみる。

1. 第三版の公開は2032年を予定
明日にも出そうな勢いだが、公式サイトには「日本国語大辞典はじめます」となっていて、これから制作を始めるという意味である。公式サイトのスケジュールによれば、今年から環境構築に2年、編集・校正に6年、合計8年かけて2032年に完成するとなっている。

2.デジタル版優先
『日本国語大辞典』は会員制の辞書サイトJapanKnowledgeでデジタル版を使うことができるが、第三版はこちらで公開される。

3.紙媒体は未定
紙媒体は公式サイトによると、「書籍版は、2034年からの発売を検討する」となっている。この書きぶりは、まだ検討段階で出すかどうかも未定と考えていいだろう。

4.段階的に公開される
編集委員の近藤泰弘氏(@yhkondo)のポストによると、2032年の完成時に一気に公開されるのではなく、ソフトウェアのバージョンアップのように段階的に公開され、古い版も閲覧できるようになる。

日国大第3版は、完成するまで、ソフトウェアのバージョンアップと同じく、2.1、2.2のように、途中版もジャパンナレッジで公開されることになる予定です。また、辞書ですので、古いバージョンも参照可能な形で残ることになります。 https://t.co/CbodkBKsv5

— yhkondo (@yhkondo) July 25, 2024

デジタル優先になるのは時代の流れだろう。段階的に公開というのも、古い版も見られるというのも、デジタルの利点を生かしていていてよい。とはいえ、紙媒体には紙媒体の利点があるので、書籍版の刊行にも期待したい。
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#辞典

先日、昼食で焼きそばを作ろうとして、キャベツに包丁を入れたら、バキっと音がして急に手応えがなくなった。見ると包丁がキャベツに食い込んだまま、バッキリ2つに折れている。
折れたヘンケルス
この包丁は十六年前に、三徳包丁・ペティナイフ・パン切り包丁・料理バサミ・ナイフブロック(差し込むやつ)のセットで買ったものである。ヘンケルス謹製で揃いでいくらだかは忘れてしまった。

キャベツなんてそんなに固いものではないし、ステンレス製だから錆びてもいない。たぶん繰り返し使ったことによる金属疲労だろう。何度も研いだので、かなり刃が減っている。僕は使い込んだ道具が好きなので、「だいぶ迫力が出てきたな」と思っていた矢先に折れてしまった。よもやこんな壊れ方をするとは思わなかった。

まだペティナイフは生きているが、一番使う三徳包丁が一日でもないのは不便である。というわけで、急遽武蔵小山パルム商店街の丸清へ行って買ってきた。

今回買ったのは木屋のNo333。ヘンケルスのペティナイフはまだ使えるが、ついでに同じ木屋のNo.170を購入。お値段は三徳包丁が12100円、ペティナイフが4400円。ちょっとお高いが、長く使うものをケチってはいけない。

木屋 No.333 三徳包丁 (鎌型) ステンレス
買った木屋
というわけで、この日は夕食当番(週二回僕の当番になっている)だったので、早速使ってみた。

やはりよく切れると気持ちがいい。この時は魚を料理したのだが、前と比べてきれいに切れる。きれいに切れると料理していて楽しくなってくる。

切れ味以外に気づいたのは、以前使っていたものよりも軽いことだ。包丁の重さなんか考えたこともなかったが、軽いと取り回しがしやすい。

この包丁は以前使っていたものと比べると柄がかなり細い。僕は手が大きく包丁を握り込むくせがあるので、これがちょっと使いにくい。まあいずれ慣れるだろう。もっとも、この包丁は手の小さい妻が使うことが多いので、こちらのほうが使いやすいと思う。
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#調理器具
#包丁

奈良県立大学が寄贈を受け入れた植物標本を間違って捨てちゃったらしい。1万点というから、なかなかゴーカイな間違いだ。

40年かけ集めた植物標本1万点を誤廃棄 希少種も 奈良県立大:毎日新聞
民間の研究者が40年近くをかけて採集し、奈良県内ではもう見られなくなった希少種も含む植物標本約1万点を、県立大(奈良市)が誤って廃棄していたと判明した。2001年6月に県が寄贈を受け、専用ロッカーで保管してきたが、校舎の取り壊しに伴い、23年10月に処分された。22日に記者会見した県立大の尾久土正己学長は「学内で意思疎通や適切な引き継ぎがされていなかった。誠に申し訳ない」と陳謝した。
タイトル書いていて、最近似たような記事を書いたのを思い出した。

奈良県立民俗博物館の資料廃棄処分:2024年07月12日

「また奈良県か・・・」といいたくなるが、これを価値のあるものを軽視していると見るのは、間違っていると思う。

民俗博物館の方は、何でもかんでも「民具」を受け入れたため、資料がキャパオーバーしたことが原因である。では今回の奈良県立大学の件はどうか。

調べてみると、奈良県立大学は人文系の学部しかなく、生物学の専門家がいないようだ。それは学長の言葉にも出ている。
尾久土学長は「担当分野の教員が管理に関わらないと資料の価値は伝わらない。今後、人文系の県立大で範囲外の寄贈を受ける際は慎重に判断したい。」

つまり、奈良県立大学はもともと受け入れる資格のある機関ではなかったのだ。では、なぜ県立大学に寄贈したか。この経緯は寄贈した奈良植物研究会の声明に書いてある。
故岩田重夫氏の植物標本廃棄についての要望書の提出について:奈良植物研究会
また本会は、この間自然史研究教育の分野で関連する諸団体と共に、奈良県に自然系博物館を設立するはたらきかけをして参りました。その流れの中での第一歩として、貴重な植物標本の散逸を防ぐために県が適切に保存するとの奈良県知事との覚書に基づき、本会の元会長であった故岩田重夫氏の植物標本 (岩田コレクション)が2000年8月に県に寄贈されました
これによると、将来的に自然科学系の博物館を設立するのを前提で奈良県に寄贈されたということになる。ようするに寄贈された奈良県が県の学術機関である県立大学に保管させたということなのだろう。

しかし奈良県立大学には専門家がいないため整理されず、ナゾのロッカーに入れたまま20年以上経って何だか分からなくなり、校舎の取り壊しと同時に廃棄してしまったということらしい。いくら専門家がいないとはいえ、1万点もあるものを何の疑問も持たず捨ててしまうのはお粗末にほどがあるが、それ以前にどう考えても受け入れが適切でない。

民具も植物標本も、資料である以上同じである。それらを適切に扱うことのできる機関が受け入れなければ、どんな貴重な資料でもゴミになってしまうのである。

パリオリンピックで活躍が期待されていた体操の宮田笙子選手が、未成年者であるにもかかわらず喫煙・飲酒を行ったことが判明し、代表を辞退することとなった。これについて賛否両論あるが、否の方、つまり煙草くらいで代表辞退は重すぎるんじゃないかという方は、気持ちはよく分かるが時代錯誤である。

喫煙者なら気づいていると思うが、世の中の喫煙に対する風当たりは年々強くなっている。とくに都会では、喫煙できる場所を探すことが難しい。それだけでなく、喫煙に対する意識も変わってきている。

煙草に対する意識は分かりやすくいえば違法薬物に近づいている。当然、若い人たちにとって、僕たちが思っている以上に縁の遠いものになっている。ある意味で違法薬物よりも縁遠いものかもしれない。

値段は昔よりずっと高くなっているし、昔みたいに吸っていてカッコイイとも思われない。違法薬物のように気持ちよくなるわけでもハイになるわけでもない。ただ煙草くさくなって人に嫌われるだけなので、喫煙は若い人にとって何のメリットもないものになっている。

一方でスポーツと喫煙はなぜか相性がいい。僕は職業柄体育科教員との付き合いがあるが、昔は体育科教員の喫煙率が非常に高かった。喫煙室では体育の先生数人と僕だけが煙草を吸って雑談しているなんてことがよくあった。はるか昔に教員採用試験を受けた時などは、明らかに体育科の試験会場の前の灰皿だけが山盛りになっていた。自分のことは棚に上げて「保健を教えるのに、これでいいのか?」と思ったものだ。

しかし、今は学校も校内での喫煙が禁止になり、だれがいつどこで煙草を吸っているのか分からない。たぶん、体育科教員の喫煙率も下がっているだろう。スポーツと喫煙の組み合わせは昔のことと思っていた。

そんな中でこのニュースを聞いたので驚いた。どのように発覚したのか分からないが、よもや好奇心で人からもらって一本吸ったら、たまたま見つかったというわけではないだろう。やはり置かれていた環境で喫煙・飲酒が常態化していたとしか考えようがない。いまだにスポーツの世界と喫煙の親和性が高いらしいことが不思議である。

実のところ僕はオッサンだから、「未成年とはいえ19歳だし、辞退までせずとも」という気持ちもないではない。しかしそれは喫煙が身近な時代の価値観である。しかも彼女は順天堂大学スポーツ健康科学部に在学している。「健康科学部」で喫煙では、出場辞退はやむをえないだろう。

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