僕の書作品には500万円の値が付いたことがある。はがき大の書でこれほどの値が付いたのは日本広しといえども僕ぐらいなものだろう。
これは、冗談ではない。実際500万円の値札が付いたのだ。
もっとも、値札を付けたのは僕である。もちろん売れるはずはない。
ときどき「
○しろまる○しろまる展にも出品している有名な
○しろまる○しろまる先生に習ったのだが、
○しろまる○しろまる先生の作品はいくらで売れるか」と聞かれることがある。どういうわけか、有名なというわりに、聞いたことない作家であることが多い。
こういう場合、「あなたは親愛なる
○しろまる○しろまるセンセイの作品を売り飛ばすつもりですか。売るなんて考えずに、大切に持っていればいいじゃないですか」と答えることにしている。
どうも、市場経済というものがわかっていない人が多いようだ。書作品だって商品だから、値段は需要と供給で決まる。
僕の作品を例にとると、500万円の値をつけても需要がないから売れないのである。だが、この時、僕はこの作品を500万円未満で売る気はなかった。だから、この作品に500万円の値が付いたというのはウソではない。
日本人には家に絵(画家が書いた本物の・・・である)を飾る習慣がない。まして、書となれば、せいぜい床の間ぐらいなものである。
絵を飾る壁のない家はないが、床の間のある家は少ない。たとえあったところで、レプリカか、どこかの坊さんの書、もしくは骨董品の書が飾ってあるぐらいで、書家の書が飾ってあるのはまず見ない。
つまり、現代の書家が書いた作品には需要がないのである。だから、
○しろまる○しろまる先生の作品の価値なんてないも同然だ。
それでも、私の作品はいくらで売れるとか自慢する人がいる。そういう場合どうするか。僕の方法では「いくらで売った」とは言えても「いくらで売れた」とはいえない。それでは需要をどうするか。
答えは簡単。弟子に買わせるのである。弟子にとってはお布施みたいなもんだし、尊敬するセンセイの作品だから、喜んで買う(かならずしもそうでもないみたいだが・・・)。これで見事商談成立。センセイの作品に値が付いたわけだ。
こんなわけだから、センセイの書にいくらの値が付いたといっても、センセイから弟子以外にはまず売れない。
演歌歌手比喩法でいえば、せいぜい森進一クラスでないと、美術品としては売れないか二束三文である。
もう一つ大事なポイントは、この流通の方法では、センセイが死んだら値が下がるということである。
本来、美術品は一点ものだから、作家が死ねば供給が止まるので値は上がるはずだ。ところが、書の場合(ほかの分野は知らないので)はちょっと違う。
弟子がセンセイの作品を買うのは、純粋にセンセイの作品がほしいからだけではなく、いろいろと下心があるからである。死人に下心はかなえられない。つまり、センセイが死んでしまえば、下心の分だけ安くなるのである。
そもそも、僕の経験では「いくらで売れるのか」という質問をされたことはあっても「いくらで買えるのか」という質問をされたことがない。売り手ばかりで、買い手がいない証拠である。
ちなみに、最初に書いた500万円の作品だが、友達にタダで上げてしまった。500万円相当の作品をタダであげちゃうなんて、なんと気前がいいんだろう、オレ。
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