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2022年12月

いよいよ2022年も終わり。個人的には大きな問題がなく、淡々と過ぎていった一年だった印象があるが、そんな中、僕にとって一番大きな出来事は、松本寧至先生と石川忠久先生が亡くなられたことである。

石川忠久先生が亡くなられたらしい:2022年07月12日
松本寧至先生が亡くなられた:2022年07月27日
松本寧至先生と僕:2022年07月30日

松本先生は直接の師匠である。教えてもらった先生はみな師匠と言ってもいいのかもしれないが、文字通りのカバン持ちまでしたのは松本先生だけだ。学問に対する考え方は、すべて松本先生に教えてもらったといっても過言ではない。

忠久先生には直接教えていただくことはなかったが、住んでいた湯島聖堂の理事長として、また学位論文の審査員としてお世話になった。自転車で中国を走ったり、やたナビTEXT『唐物語』『蒙求和歌』などの翻案作品を入れたりするのは忠久先生の影響だろう。

二人とも九十歳をこえていて、いつその日がきても不思議ではないと覚悟はしていたが、まさかほぼ同時にお別れの時が来るとは思わなかった。悲しいというよりも寂しい。なんだか急に自分が年取った気がする。

さて、最後にやたがらすナビの話。先ほど述べた『唐物語』・『蒙求和歌』に加えて、『唐鏡』の電子テキスト化を進めている。三皇五帝から晋までの中国史を、『大鏡』のような鏡物の体裁にしたもので、イマイチ文学的とはいい難いのだが、これがなかなか面白い。これに関してはいずれ詳しく書くつもり。

というわけで、今年もお世話になりました。命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。

12月というものはそういうものと言ってしまえばそれまでだが、なんだかやたらと忙しいまま、今年も残すところ一日となってしまった。忙しいといっても、締切りに追われるようなことはほとんどなかったが、やることがやたらと多かった。

例年、十二月一番のイベントは二学期の成績を出すことである。今年はとくに面倒だったのは、二学期を通して休む生徒が多かったからである。

理由はお察しの通りコロナである。感染したり濃厚接触者になったりして休むのは出席停止だから、欠時数にはカウントされないのだが、後遺症だのなんだので出席停止でない欠席も多い。そしてなぜか遅刻も多い。1年生はそれほどでもないが、2年3年と学年が上がるにつれて欠席や遅刻が増えてくる。一歩間違えると、欠時オーバーで単位が出ないこともあるので、管理するのが大変だ。

「たるんでいる」と言ってしまえばそれまでだが、そうなっちゃう気持ちは分かる。

今年の三年生は、入学した当初から6月までまともに授業が始まらず、体育祭や文化祭、遠足、修学旅行など、ほとんどの学校行事が正常には行われなかった。彼らは前の世代が経験した高校生活を送れていないのである。

ボウリングでもゴルフでも何でもいいが、ゲームの序盤で大失敗して、後半どうやっても盛り返せない状況、それに近い感じだろう。もう高校生活はどうでもいい、進路さえ決まればあとは卒業できればいいという気持ちになるのも理解できる。

コロナ禍もはや三年目が過ぎようとしている。われわれには三年なんてあっという間だが、若い人には十年ぐらいに値する。貴重な三年がメチャクチャになったのは仕方のないことだが、せめて彼らに同情ぐらいしてあげてほしい。そして同情できるなら、将来彼らが社会に出たときに「コロナ世代」みたいなくだらないカテゴリに入れるのだけは慎んでほしい。

網膜剥離一周年(その3)の続き。

手術の様子や入院生活のことは、去年書いたので繰り返さない。タグ網膜剥離を参照してほしい。

目玉の手術をするのは怖かったが、入院そのものは一週間程度だし、忙しい十二月に合法的にゴロゴロできてよかったなぐらいに思っていた。しかし、実際に入院してみると、これが思った以上に苦痛だった。

短期間だから自分へのお見舞いなんかは来なくても寂しくはない。しかしお見舞いが来ないのは僕だけではない。病棟にいるのは医者か看護師か患者だけだということになる。なんだか外界から切り離された感じがする。

昔と違って(コロナのせいかもしれない)、常にベッド間のカーテンが閉められていて、自分の病室にどんな人がいるのかイマイチ分からない。プライバシーの点ではこちらの方がいいのだが、患者同士しゃべるなんてことはないから、寂しいことこのうえない。

スマホがあるのが唯一の救いだが、片目が見えないので長い文章は目が疲れて読めない。無料WiFiはあるのだが、病室では使えないから動画も見られない。

さらにダメ押しで、病院の窓から自分が住んでいるマンションが見える。近いといっても徒歩で15分ぐらいあるので、普通は見えない距離なのだが、たまたま間に高い建物が一つもなくはっきりと見える。これがよくない。手術が終って3日目ぐらいで、すでに帰りたくなってきた。

たいした日数いたわけでもないのに、退院したときには、「やっぱり、娑婆の空気はうまいぜー」という感じである。入院中は髭が剃れなかったので、こんな感じになっていた。
退院直後
その後、何度か通院し今に至る。今のところとくに問題はない。
タグ :
#網膜剥離

網膜剥離一周年(その2)の続き。

網膜剥離と診断が出た次の日(12月14日)の午前8時ごろ、自宅から徒歩十分ぐらいの昭和大学東病院に向かった。

入院を覚悟して行けと言われていたので覚悟はしていたが、ちょっと覚悟が足りなかった。なんだかんだ言っても目以外は健康そのものだし、その目にしたって左目は何の問題もない。すっかり忘れていた。今がコロナ禍の真っ最中であることを。つい最近まで、祖母や義母のお見舞いに行くのに一苦労していたのに、自分が入院するとなるとどうなるかは考えもしなかったのだ。

まず、入ってから紹介状を渡し診察の手続きをする。診察までの間、PCR検査がある。PCR検査が終ったら退院まで一歩たりとも外には出られないホテル・カリフォルニア状態。せめてタバコ一本吸ってから入ればよかった。

当然入る方にも制限があり、見舞いはもちろんのこと、差し入れも直接患者に渡すことはできず、職員に渡して病室に持ってきてもらう。病院内にコンビニがあってそこでたいがいのものは売っているのだが、パンツだのシャツだの、すでに持っているものを買うのもアホくさい。

そんなこんなで、診察である。視力検査に始まり、様々な目の検査、入院・手術を前提としているので血液検査もある。そのたびに待合室と診察室を何度も何度も往復する。待合室にはこんな額がかかっていた。
養心研学
立派な書で文句なくうまいが、落款にある石原忍が誰だか分からない。スマホで調べてみたら、前橋医学専門学校(現在の群馬大学医学部)の初代校長で、あのつぶつぶで書かれた文字を読む色盲検査を開発した人だった。

石原忍「色盲検査表の話」:青空文庫

ちなみに2003年以降、小学校で色盲検査は行われておらず、「あのつぶつぶで書かれた」とか言っても、若い人には通じない。

それにしても、眼科というものは独特の雰囲気がある。診察室は薄暗く、検査のためのいろいろな機械がある。さすがに目はカメラと同じ構造だというだけあって、CanonだのNiokonだのTOPCONだのLeicaだの、一部の人にはおなじみのブランド名が見える。なぜか内科ではよく見るオリンパスはないようだ。

中でもひときわ目を引くのが、みんな大好きカール・ツァイス。機械の横の面に例のツアイスマークがでかでかと描かれている。
Zeiss_logo
眼科検査の満漢全席だったから、このツアイスの機械も使った。さすがはツアイス、すごかった。

どういう仕組みか知らないが、眼底の様子がカラーで地形図のように立体的に撮影できるのだ。黙って見せられたら、どこかの火山を写した衛星写真だと思うだろう。実際は自分の目玉の奥の地形なのだが、どこに穴があいていてどこが剥がれているか、一目瞭然である。

すべての検査が終わったのは四時過ぎだった。手術は次の日の午前中と決定した。

つづく。
タグ :
#網膜剥離

網膜剥離一周年(その1)の続き。

かくして行きつけの眼科に行った。これが月曜のことである。事前に電話したものの予約していないのと同じなので、診察までにものすごく時間がかかる。診察そのものもやたらと時間がかかる。時間がかかるだけでなく、上を見よ、下を見よ、右を見よ・・・と疲れることこの上ない。すべて終わったときには8時近くになってた。月曜は授業が6時間あるのでクタクタだし腹もへった。

診断は予想通り網膜剥離。写真を見せてもらったら、でかい穴が二箇所もあいている。網膜はカメラでいうとフィルムで、ようするにフィルムに穴があいて剥がれた状態である。レンズを通った光は上下逆さまに結像する。だから僕のように視野の欠損が下に見えるということは、実際の穴は上の方にあるということになる。これがヤバいらしい。

この穴から眼球内の液体が入ってさらに網膜が剥がれるのだが、重力は下にかかるので、上に穴があると網膜が全部剥がれて失明ということになる。眼科医は明日朝イチで入院の準備をして大学病院に行けという。さらに、道中絶対に転ぶなと言われた。

ここからが問題である。まだ二学期の成績を出していなかったのだ。さらに、提出しなければならない原稿もあった。成績の材料は揃っていたが、これを計算して5段階にしなければならない。翌日に授業のある定時制が病院の近くだったので、帰りに直接行き事情を話し、授業を休むこととメールで成績を送ることを了承してもらった。もう一校の方も電話で許可を得た。

家に帰りPCの電源を入れる。検査のために散瞳剤を使っていてるので瞳はガン開き。白い部分が晴天時の雪原を見ているみたいで、眩しいことこの上ない。サングラスをかけてみたが今度は暗すぎる。ディスプレイの輝度を最低に下げても、青みが強く目に刺さる感じがする。

我慢して使っているうちに、ふとディスプレイにブルーライトカットモードなるものがあることを思い出した。青みが強いならブルーライトをカットすればいいんじゃないか。白が赤っぽくなって変な色になるので使っていなかったが、かなり楽になった。

ディスプレイの問題はクリアしたが、計算は自分でしなければならない。成績と原稿をメールで送り、すべての仕事を終えたときには午前3時を回っていた。明日は早起きして大学病院に行かなければならない。ちょうど妻が留守だったので、入院の準備なんざ全くできていない。「まあ、入院になっても、妻になんとかしてもらえばいいか」などと安易に思っていたのだが・・・。

その3へつづく。
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#網膜剥離

成績を付ける作業をしていて去年の網膜剥離のことを思い出した。幸いその後はとくに問題なく過ごしている。大したことではないのだが、記録しておけば何かの役に立つかもしれないので、一周年を記念して書いておこう。

発端は十二月の始めである。玉ねぎをスライスしようとして、スライサーで右手の親指をスライスしてしまった。ケチった末、玉ねぎとのチキンレースに敗れたのだ。思えばそのひと月前にも、左手を自らバーナーで炙って火傷をする(墓参りの必需品を買って、ぷくー:2021年11月23日参照)という、間抜けなケガをした。どうやら呪われていたらしい。

僕の親指は一ヶ所だけ直線的になり、そこからちょっとびっくりするほど血が流れた。絆創膏ぐらいでは血は止まらない。心臓より上に指を上げれば止まるんじゃないかと思って手を上げたが、すぐにくたびれてしまう。そこで布団に仰向けに寝て手を天井に向かって上げるという画期的な方法を思いついた。

仰向けだから天井の照明が見える。するとなぜか右目に透明なクラゲのようなものがフワーッと浮かんで見えた。きらきら光ってなかなかきれいだ。
網膜剥離直前
網膜に穴があいたのはこのときらしい。しかし、今問題なのは指の出血である。目は痛くも痒くもない。たぶんショックで変なものが見えるのだろうと思って、そのまま放置した。

やがて、指の出血はおさまった。出血以前にナゾのクラゲもすぐに見えなくなった。後で眼科医に聞いたところによると、この時点で病院に行っていれば、入院しなくてもすんだかもしれないという。ちなみに指詰めと網膜剥離は何の関係もないらしい。

二・三日して右目の視界の下の方に黒い影が出現するようになった。フワーッと動く例のクラゲと違い、視界に固定されている感じでとても邪魔くさい。写真を撮るときにレンズに指が入っちゃった感じだと思ってもらえればいい。
網膜剥離発症
最初はすぐに消えることを期待していたが、数日経ってもこの影は消えない。ネットで調べてみると、網膜剥離のときにこんな症状がでるという。

さすがにやばいと思って眼科に電話すると、すぐに来いという。その日は授業があったので、授業が終わり次第眼科に行った。これが、例のクラゲが見えてから一週間ほど経ってからである。

その2へつづく。
タグ :
#網膜剥離

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