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2010年03月

これまで、ブログには書かなかったが、ここ一月ほどエレベーターが停止していた。老朽化でエレベーターを新しくするためである。

その間、非常階段を使うことになった。下りでは目が回り、上りでは息が切れる。少しはダイエットになるかと思いきや、たいして体重は減らない。

よく考えてみると、上り下りはせいぜい一日一回である。高校の書道教室は、たいがい一番高い階か低い階にあるので、通算すればそちらの方がたくさん階段を上っている。9階までの一往復が増えたって疲れるばかりで、体重に変化があるわけがない。

それでも、一気に9階まで上がるのと、何度かにわけて上がるのとでは大きな違いだ。特に疲れて帰って来て、これから9階まで上がらなきゃいけないと思うと、帰るのがイヤになってくる。一階で忘れ物に気づいて、もう一度部屋に戻るなんてことは間違ってもしたくない。

三月の半ば以降は、学校の授業も減って家にいることが多くなった。当然ひきこもりがちになったが、今度は工事の音がうるさくてしょうがない。

宅配の人は気の毒だなと思ったら、かならず電話をかけて、いるかどうか確認してから来るようになった。新聞の勧誘なんかは、面倒くさいのか誰も来ない。これはありがたい。

なにしろエレベーターが老朽化するぐらいだから、住んでいる人も老朽化している人が多い(失礼!)。お年寄りの中には一月間だけ引っ越した人もいるそうだ。荷物を持っていたら手伝ってあげようと思ったが、あまり階段では会わなかった。そりゃそうだ。同じ方向に上がっていくのだから。

そんなこんなで、エレベーターは新調された。エレベーターのありがたみはよく分かったが、ひきこもりがちなのは変わらない。

ところで、話は変わりますが、ちょっと出かけておりますので、今年のエイプリルフールスペシャルはありません。あしからず。

昨日、ある人の個展に行ってきた。人物をテーマにした、具象的な油彩と水彩が中心だった。

その先生は、もともとキュビズム(ピカソのアレ)の手法で描いていた。ところが、これを究めれば究めるほど描けなくなってきてしまった。今は具象的な作品になった。別にそうしようと思ったわけではないが、結局ピカソと同じ道をたどることになったのだという。

リスペクトすると、同じような道をたどるというのはよくある話だが、僕はこれを思想の問題だと思った。

芸術には、まず思想がある。この思想は、一見観念的に見えるが、作家にとっては「これはこうだからこう表現しなければならない」という、きわめて論理的な思想なのである。

作品には「これはこうだから」の説明はない。聞いたところで作者にもうまく説明できなかったりする。作者は作品で表現するものだからである。これを言葉で表現するのは評論家の仕事である。だから、享受する側からすると、作者の思想は観念的に見える。

僕が学生時代、書道の先生の言うことが、人によって全然違うことに当惑し、理解できなかった。結局僕は、「先生のいうことなど聞くに値しない」という、とんでもない結論を出したのだが、今考えてみると、これは思想の違いだったのだ。

話をもどすと、芸術の思想は論理的な思想だから、誰かの思想を採用すると、同じ結論にいたりやすい。ピカソの思想で描いたらピカソと同じ道をたどるのは当然なのである。

思想はなんらかの形で表現しなければ芸術ではない。そのために必要なのが、技術である。技術は「上手い」「下手」で語れるものだ。どんな思想でも技術がないと形にならない。逆に技術だけでは、単なる職人である。

もう一つ重要なのはアイディア。簡単にいうと「思いつき」のことである。

これがないと、独自性のある表現にならない。しろまるしろまる派とかいっても、人によって作品が違うのは、それぞれにアイディアがあるからである。そして、アイディアは煮詰めていくと新しい思想になる。

思想・技術・アイディアの三つが揃っているのが、本当の芸術なのである。
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#芸術
#美術
#書道

実は今月もあっちこっち行ったんだけど、これ!っていうのがないなあ。

というわけで、40過ぎてもウダツの上がらん僕と、これをご覧のウダツの上がらん皆さんのために、ウダツの上がった壁紙をどうぞ。

うだつ(1024x768)

川越のうだつ(1024x768)
川越のうだつ(1280x1024)

これは埼玉県の川越で撮ったもの。いわゆる蔵づくりの家(商店)で、うだつとしては控えめな感じがいい。

でも、やっぱり季節感みたいなのも欲しいよね。

というわけで、この季節、憎いあいつをどうぞ。こちらは、群馬県の箕郷梅林にて。

梅の写真?あるけど、もう季節外れでしょ。

スギの花(1024x768)

スギの花(1024x768)
スギの花(1280x1024)

あー、鼻がムズムズしてきた。
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#うだつ
#蔵づくり
#川越
#スギ花粉

僕は子供のころ五右衛門風呂に入ったことがある。

いつだったかはよく覚えていない。小学校に上がる前のことだと思う。母方の祖父の田舎(滋賀県)に祖父といっしょに行ったときのことだ。

薪で炊いていて、それ自体埼玉に住んでいた僕にとっては珍しかったのだが、父の田舎(滋賀県)もそうだった(こちらは五右衛門風呂ではない)ので、それよりも円形の風呂にヘンな風呂だなと思った。

びっくりしたのは二日目に入ったときである。祖父はなぜか風呂の蓋の上に僕を立たせたのだ。

風呂の蓋は浮いていて、僕はさながらヘタクソなサーファーのようにそのぐらぐら揺れる蓋の上に立たされたのである。ひっくり返りそうになって思わず叫んだ。

祖父は蓋の上から僕を下ろし、自分の足で蓋を沈めて風呂に入った。何がしたかったのか聞いてみたら、祖父は僕で蓋を沈めようとしたが、体重が軽すぎて沈まなかったらしい。

では、一日目はなぜそのまま入れたのか。これはずっと後に聞いたのだが、この五右衛門風呂には底のほうにツメがついていて、中で浮き蓋を回転させると引っかかるようになっていたそうだ。二日目は一番風呂だったので、浮き蓋が浮いたままだったのだろう。

『東海道中膝栗毛』の弥次さん喜多さんが、小田原で入ったのはこの風呂である。弥次喜多が下駄を履いて入ったので、五右衛門風呂はそういうものだと思っている人がいるが、これは弥次喜多が江戸の人でこの風呂の入り方を知らなかったからである。

『膝栗毛』の本文には
すべて此のふろには、ふたといふものなく、底板うへにうきているゆへ、ふたのかはりにもなりて、はやくゆのわくりかた也。湯に入ときは、底を下にしづめてはいる。

とちゃんと説明している。 『膝栗毛』によると、上方にはやる五右衛門風呂という風呂で、薪が少なくてすむ画期的な風呂だったそうだ。

今日は祖父の命日なので、覚えている限りで一番古い祖父との思い出を書いてみた。
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#東海道中膝栗毛
#五右衛門風呂

何にでも教訓を求めるのはおかしいのだが、毒餃子事件から中国製品は信用できないという教訓を得るのはどう考えてもおかしなことだ。

2008年4月のエントリでもこのことを話題にした。

ニュースの読めない人たち

この時点で、毒餃子の農薬は残留農薬ではなく、故意に入れられたものだと分かっていたのだが、それでも中国製品が危険だとか、中国政府を批判する人が多かったのにはあきれた。

そして、二年後の今日事件は解決した。
「正社員になれず」毒ギョーザ事件、動機供述:YOMIURI ONLINE
中国製冷凍ギョーザ中毒事件で、警察庁は27日、中国公安省からの情報として、逮捕された製造元「天洋食品」(中国・河北省)の臨時工・呂月庭容疑者(36)の周辺から2本の注射器が押収され、日本で中毒を起こした製品に混入していたのと同じ有機リン系殺虫剤「メタミドホス」が検出されたことを発表した。
中国公安省は、天洋食品の食堂の管理人をしていた呂容疑者が容疑を認めているとした上で、動機について「長期間、臨時工として勤務しても正社員にしてもらえなかった」と供述したと説明しているという。

呂月庭容疑者が真犯人なのかとか、犯行の状況はどうだったかは別として、中国製品自体の問題ではないことは判明したわけだ。

ところがこれはどうしたことか。

「中国製」ぬぐえぬ不安、管理強化求める声も

こういう事件は一人いればおきてしまう。「管理強化」にこしたことはないが、どこの国かなんて関係ない。

犯行の動機が「長期間、臨時工として勤務しても正社員にしてもらえなかった」という理由ならば、むしろ日本製品の方が心配になってくる。

まさか、日本人は絶対にそんなことしないなんて思ってないだろうな。一人いればできちゃうんだよ。こんな犯罪は。
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#毒餃子事件
#中国製品

これを読んで思ったこと。

日本に蔓延する「努力教」 無理な努力は人を苦しめるだけ:ニュース2ちゃんねる

努力ってのは「必ず結果が出る努力」と「結果が出るかどうか分からない努力」の二種類あって、これを混同すると「努力しているのに努力が足りないと言われる」なんてことになるんだと思う。

例えば、試験勉強なんてのは「必ず結果が出る努力」で、何もしないよりはした方が点数は上がる。同じ人間で、努力しないのとしたのを同時に比較することができないから、「努力したのにイマイチだった」ってことにもなるが、それでもしなければもっと点数は低いだろう。

逆に就職活動なんかは「結果が出るかどうか分からない努力」である。本来、就職活動なんて、結果が出る努力でなければならないはずだが、試験の成績よりも、いかに面接員(役人じゃないので官とは書かない)に好感を持ってもらえるかとか、コネとか、年齢とか、性別とか、努力ではどうにもならない部分―もっと分かりやすく言えば〈運〉―の占める割合が多い。これは多分日本の特殊事情だろう。

ことほどさように、「結果が出るかどうか分からない努力」では、努力だけではダメで〈運〉がないと結果がでないわけだが、どういうわけだか〈運〉の割合が高い奴ほど、自分の努力の結果だと思いたがる。本当に実力で結果を出した奴は〈運〉を強調するものだ。

だから、「努力が足りない」というのはたいてい「〈運〉の割合が高い奴」である。言葉を換えて言えば、「努力がかならず結果を生む」と思っているメデタイ奴なのである。そんな奴の言葉は無視してよい。

特に、僕たちよりも二世代ぐらい前の人たちは「必ず結果が出る努力」と「結果が出るかどうか分からない努力」の区別がついていない人が多い。日本の経済が右肩上がりだったから、努力すればそれなりに結果がでたのである。その時代に生まれたのも〈運〉なのだが、彼らはそれにも気づいていない。

とりあえず、僕たちができることといえば、この二種類の努力を区別して、「必ず結果が出る努力」を続けて〈運〉を待つしかない。〈運〉のないときに「結果が出るかどうか分からない努力」に力を注いでも無駄である。
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#努力
#運

NHKの大河ドラマ『龍馬伝』はちゃんと見ていないのだが、昨日の「暗殺指令」はたまたま見た。なんだかやたらと「書」がでてきたのだが、あれはちょっとないな。

この回は、龍馬が土佐勤王党に入るという場面から始まる。ここには「土佐勤王党」と書かれた軸のようなものがあるのだが、まず、どうにも幕末らしくない書である。

[画像:土佐勤王党]


まるで、現代の書道家が書いたような字だ。この時代、こんな書が書かれていたとは到底思えない。

それ以上に気になったのが、「党」の字で、これは「黨」とあるべきだろう。書道字典などでざっと調べてみたが、「党」と作るものはない。

もちろん、これだけではこの時代に「党」と書かなかったとは言えないが、大事な看板を書くのにこんな略字?を書くとは思えない。それにしても、こんな軸の垂らし方をするのだろうか。

その後、龍馬は久坂玄瑞の元へいくのだが、ここにも何やらたくさんかかっている。久坂玄瑞が書いたものという設定らしいが、それがことごとく弄りすぎの現代風味で幕末感がない。

[画像:久坂玄瑞]


こういうのは気にならない人には気にならないのだろうが、僕には時代劇のセリフで外来語を聞くような違和感を覚える。誰が書いたのか知らないが、大河ドラマは作品発表の場ではない。ちゃんと幕末の書を参照して書いてほしいものだ。

NHKも周星馳を見習って欲しい。書があれば時代劇になると思ったら大間違いだ。
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#書道
#龍馬伝
#NHK

花粉症持ちにはイヤな季節になった。去年もいろいろ試してみたが、今年はNosefilterなるものを試してみた。

Nosefilterとは、鼻に突っ込んで花粉をシャットアウトするものである。人工鼻毛とでもいえようか。

[画像:nosefilter]


プラスチック製で、白い部分は不織布。ここがフィルターになっていて、花粉を濾過するという寸法だ。

真ん中でつながっているので、一見、新種のヌーブラみたいだが、引っこ抜くときはここをつまんで抜く。ここが目立つと、牛の鼻ぐりみたいになっちゃうのだが・・・

[画像:nosefilter(装着)]


お見苦しいものをお見せしました。毛穴が汚れているとか、鼻毛らしきものが見えるとかは気にしないように。この写真でも分かると思うが、ほとんど目立たない。実際、つけて人前に出てみたが、言うまで誰も気づかなかった。

実は下から見た写真も撮ったのだが、これはさらに見苦しいので止めておく。下から見ると、鼻の奥に白い何かがあるのが分かる。鼻の穴をのぞかれることはそんなにないが、フィルターを黒にしてもらえるとありがたい。

装着感は、思ったよりも悪くない。なにしろ鼻の穴に突っ込むのだから、かえってくしゃみが出るんじゃないかと思ったが、そんなことは全然ない。息苦しさも全くなく、本当に効くのかかえって心配になるほどだ。

装着すると、若干鼻息の音が大きくなる。特に、鼻から強く息を出すと、スースーと音がする。これは少々気になる。

マスクとは違い、眼鏡をしても曇らないし、匂いもないのがいい。女性だと、化粧崩れがないのが利点だそうだが、化粧崩れと牛の鼻ぐりのどちらを選ぶかは究極の選択である。なお、説明書によると、数回は洗って使えるそうだ。

問題は効き目である。装着して外に出てみたが、それなりに効果はあるようだ。しかし、やはりマスクにはかなわないように感じる。もちろん目には何の効果もない。あと、どうしても鼻をかみたいときに、いちいちはずさなければならないのがちょっと面倒。一回間違えて鼻をかんでしまい使えなくなってしまった。

値段は、近所のドラッグストアで、1000円(お徳用10個入)だった。毎日つけるとなると、ちょっと高いかも。
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#ノーズフィルター
#マスク

気がついたらまた一週間経っちゃったけど、3月7日のエントリの続き。
中川美術館をあきらめて、鞆の浦へ行った。

かつて、鞆の浦は瀬戸内海の潮の分かれ目となる場所で、潮の流れが変わるのを待つ潮待ちの港として栄えた。

鞆の浦


鞆の浦2


鞆の浦は、すでに『万葉集』に見える。『とはずがたり』では、後深草院二条が厳島へ行く前に立ち寄り、元「遊女の長者」の尼と出会っている。1月23日のエントリで書いた、『雨月物語』「吉備津の釜」の遊女袖は鞆の遊女である。

坂本龍馬の「いろは丸」が沈没したのも鞆の浦沖で、いろは丸展示館なるものがある。最近では、ここで宮崎駿が『崖の上のポニョ』の構想を練ったことでも知られる。

江戸時代までは、港町として繁栄したが、公開技術の発達とともに潮待ちの必要がなくなり、さらに交通機関が発達して、港としての重要性を失い、現在のような古い町並みが残ったらしい。

鞆の浦の町並み


鞆の浦といえば、鞆の浦埋立て架橋計画問題である。たしかに道幅が狭く、車で通るには難儀した。だからといって、景観を破壊したら元も子もない。

鞆の浦港湾整備事業の看板


さて、ずいぶん時間が経ってしまったが、岡山・広島旅行の写真をPicasaにUPした。ひまだったら見てちょうだい。



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#鞆の浦
#とはずがたり
#万葉集
#雨月物語

昨年12月の終わりに、中国地方を旅行したことはすでに書いたが、行ったのにまだ書いていないところがあった。鞆の浦である。

そこで、鞆の浦の写真・・・といきたいところだが、倉敷から鞆の浦に行く途中に中川美術館という所へ行ったので、まずはそこから。

僕と同じ名前であるにもかかわらず、存在すら知らなかったのだが、この美術館、現代中国美術専門の美術館だそうだ。

中川美術館

これがまた、ちょっとした山の中にある。なかなか着かないので、もういいかげんUターンしようかと思ったら到着。

中川美術館の看板


隠れ家美術館らしい。
あっと目を見張るらしい。
世界最大級の端渓硯があるらしい。
大きいのか小さいのかわからんけど1/10スケールの天安門があるらしい。
これは胸が高鳴る。いろんな意味で。ところが・・・

中川美術館


門は無情にも閉ざされていた。この門はただの鉄柵。天安門だったらよかったのに。

看板を見ると毎週火曜日と水曜日と1・2・8・12月は休館・・・って、休みすぎだよ。
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#中川美術館

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