今、騒がれている佐野研二郎氏の東京オリンピックエンブレム盗作問題の報道を読んでいて、これは盗作か否か、似ているか否かが問題ではなく、作風の問題だと思った。
個人的には、似ていることは似ているが、パクリではなく偶然の一致だろうと思っている。単純に幾何学的な形を構成すれば、似たものがでてきても不思議はない。デザインの優劣で言うなら、東京オリンピックの方がはるかに洗練されているとすら思う。
しかし、問題はそこではない。
法的なことは別にして、デザインが芸術であるならば、似ているかどうかよりも、作者と作品がリンクしていること、つまり、作者の作風で作品が作られているかどうかの方が重要である。
何も作品を見て即座に作者が言い当てられる必要はない。作品を見て、作者名を聞いて、「ああ、なるほど、これは佐野さんの作品だ」と感じられればよいのだ。言葉を替えて言えば、これが佐野さんにしか作れない作品でなければならないのである。
作者と作品がリンクしていれば、たとえ先行するそっくりの作品があったとしても、偶然の一致であるという意見に説得力が出てくる。作者の作風に強烈な個性があれば、先行する作品の方が作風をパクったすら言える。そうでなければ、たとえ偶然の一致であったとしても、パクりの疑念を払拭することは難しい。
実際に佐野氏の業績を見てみると、どうも東京オリンピックエンブレムに類似したものを見出し得ない。僕はデザインについては素人なので、プロが見ればどうなのか分からないが、少なくとも彼の名前で検索して出てくるような、ユーモアあふれる作風と、東京オリンピックエンブレムが同一人物の手になるものとは思えないのである。例えば、「東京オリンピックエンブレムの作者は佐藤可士和です」と言われても、騙されてしまうだろう。
もっとはっきり言おう。作品としてつまらないのである。せっかくのオリンピックという大舞台なのに、あっと驚くような物が何もない。作品として、オリンピックにおもねっているのが見え見えなのである。
あまりに良く出来ている、1964年東京オリンピックの亀倉雄策を意識しすぎたのかもしれない。クライアントの意向もあるかもしれない。いずれにしても、佐野研二郎氏が自分の作風を殺してしまった結果、現在の問題が起きていると僕は考えている。 (追記) (追記ここまで)
個人的には、似ていることは似ているが、パクリではなく偶然の一致だろうと思っている。単純に幾何学的な形を構成すれば、似たものがでてきても不思議はない。デザインの優劣で言うなら、東京オリンピックの方がはるかに洗練されているとすら思う。
しかし、問題はそこではない。
法的なことは別にして、デザインが芸術であるならば、似ているかどうかよりも、作者と作品がリンクしていること、つまり、作者の作風で作品が作られているかどうかの方が重要である。
何も作品を見て即座に作者が言い当てられる必要はない。作品を見て、作者名を聞いて、「ああ、なるほど、これは佐野さんの作品だ」と感じられればよいのだ。言葉を替えて言えば、これが佐野さんにしか作れない作品でなければならないのである。
作者と作品がリンクしていれば、たとえ先行するそっくりの作品があったとしても、偶然の一致であるという意見に説得力が出てくる。作者の作風に強烈な個性があれば、先行する作品の方が作風をパクったすら言える。そうでなければ、たとえ偶然の一致であったとしても、パクりの疑念を払拭することは難しい。
実際に佐野氏の業績を見てみると、どうも東京オリンピックエンブレムに類似したものを見出し得ない。僕はデザインについては素人なので、プロが見ればどうなのか分からないが、少なくとも彼の名前で検索して出てくるような、ユーモアあふれる作風と、東京オリンピックエンブレムが同一人物の手になるものとは思えないのである。例えば、「東京オリンピックエンブレムの作者は佐藤可士和です」と言われても、騙されてしまうだろう。
もっとはっきり言おう。作品としてつまらないのである。せっかくのオリンピックという大舞台なのに、あっと驚くような物が何もない。作品として、オリンピックにおもねっているのが見え見えなのである。
あまりに良く出来ている、1964年東京オリンピックの亀倉雄策を意識しすぎたのかもしれない。クライアントの意向もあるかもしれない。いずれにしても、佐野研二郎氏が自分の作風を殺してしまった結果、現在の問題が起きていると僕は考えている。 (追記) (追記ここまで)
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