リナックス型宗教を普及したい:優しい唄歌い
正直、上の文章には何一つ賛同できないのだけど、Linuxと宗教は似ていると思った。「宗教みたい」という言葉はしばしば侮蔑として使われることがあるが、ここではそういう意味ではない。
Linuxの元になったのはUnixというOS(厳密にいうと違うが)である。そのころ、Unixはワークステーションとかサーバーなどに使われていた。それらのコンピュータは個人で買える代物ではく、限られた人だけが使うOSだった。宗教で言うと、ユダヤ教やバラモン教である。これらの宗教は、それぞれユダヤ人・アーリア人のための宗教で、三大宗教のベースとなった。
パソコンの性能が上がるにつれ、自分のPCでUnixを動かしたいという人がでてきた。しかし、Unixのライセンス料は高い。そこでヘルシンキの大学生リーナス・トーバルズ君はUnixと同じ動きをするOSをUnixのコードを見ないで作った。これがLinuxである。リーナス君はこれを誰でもライセンス料を払わずに自由に使えるようにした。
これはキリスト・マホメットがユダヤ教から、釈迦がバラモン教から出てきたことに喩えられよう。本来限られた民族の宗教だったユダヤ教・バラモン教が、彼らの登場によって世界的に広まる契機になったのである。リナス君の登場でUnixが広まったように。
ただし、これはあくまで契機にすぎない。登場したときのLinuxもそうだった。最初は Solarisなどの商用OSこそが本物のUnixで、Linuxはまがいものという感じだったのである。将来、LinuxがこれらのOSを駆逐し、スパコンのOSにまで使われるとは、教祖のリーナス君自身思わなかっただろう。
先ほど「Unix同じ動きをするOS」と書いたが、リーナス君が作ったのはカーネルと呼ばれるOSの心臓部だけである。宗教でいえばキリストの新約聖書、マホメットのコーラン、ブッダの仏典(仏教はちょっとややこしいが、ここではとりあえず仏典としておく)である。
このリナース君の作ったカーネルをもとに、様々な人たちによって様々なOSが作られた。それらはLinuxカーネルという「経典」は共通しているが、考え方や用途が違う。Linuxというのはそれらを総称した名前である。ちょうど、宗教が経典の解釈や時代、社会情勢によって分派したように。
仏教で喩えるなら、真言宗がFedora、天台宗がDebian、使いやすさをモットーにDebianから分かれたUbuntuは鎌倉新仏教である。FedoraもDebianもUbuntuも、考え方は違うがすべてLinuxである。真言宗も天台宗も鎌倉新仏教も仏教であるのと同じように。
修行を要するSlackwareはチベット仏教で、Linuxを使っていると感じさせないandroidは正月の初詣みたいなものだ。お寺で柏手を打つ女子高生を見たことがあるが、あれはたぶんiOSと区別がついていないのだろう。「それ、iPhoneじゃなくてGARAXYだよ」と教えてあげたくなるが、イヤなオッサンになりたくないので我慢している。
宗教の話にもどすと、長い伝統を持つ宗教は、歴史の波にもまれてあらかたバグ取りが終っている。問題を起こすのは、たいがい伝統的な宗教からフォークされ、宗教本来の姿に立ち返るのを口実に、バグまで戻しちゃった宗教である。これを原理主義という。 (追記) (追記ここまで)
正直、上の文章には何一つ賛同できないのだけど、Linuxと宗教は似ていると思った。「宗教みたい」という言葉はしばしば侮蔑として使われることがあるが、ここではそういう意味ではない。
Linuxの元になったのはUnixというOS(厳密にいうと違うが)である。そのころ、Unixはワークステーションとかサーバーなどに使われていた。それらのコンピュータは個人で買える代物ではく、限られた人だけが使うOSだった。宗教で言うと、ユダヤ教やバラモン教である。これらの宗教は、それぞれユダヤ人・アーリア人のための宗教で、三大宗教のベースとなった。
パソコンの性能が上がるにつれ、自分のPCでUnixを動かしたいという人がでてきた。しかし、Unixのライセンス料は高い。そこでヘルシンキの大学生リーナス・トーバルズ君はUnixと同じ動きをするOSをUnixのコードを見ないで作った。これがLinuxである。リーナス君はこれを誰でもライセンス料を払わずに自由に使えるようにした。
これはキリスト・マホメットがユダヤ教から、釈迦がバラモン教から出てきたことに喩えられよう。本来限られた民族の宗教だったユダヤ教・バラモン教が、彼らの登場によって世界的に広まる契機になったのである。リナス君の登場でUnixが広まったように。
ただし、これはあくまで契機にすぎない。登場したときのLinuxもそうだった。最初は Solarisなどの商用OSこそが本物のUnixで、Linuxはまがいものという感じだったのである。将来、LinuxがこれらのOSを駆逐し、スパコンのOSにまで使われるとは、教祖のリーナス君自身思わなかっただろう。
先ほど「Unix同じ動きをするOS」と書いたが、リーナス君が作ったのはカーネルと呼ばれるOSの心臓部だけである。宗教でいえばキリストの新約聖書、マホメットのコーラン、ブッダの仏典(仏教はちょっとややこしいが、ここではとりあえず仏典としておく)である。
このリナース君の作ったカーネルをもとに、様々な人たちによって様々なOSが作られた。それらはLinuxカーネルという「経典」は共通しているが、考え方や用途が違う。Linuxというのはそれらを総称した名前である。ちょうど、宗教が経典の解釈や時代、社会情勢によって分派したように。
仏教で喩えるなら、真言宗がFedora、天台宗がDebian、使いやすさをモットーにDebianから分かれたUbuntuは鎌倉新仏教である。FedoraもDebianもUbuntuも、考え方は違うがすべてLinuxである。真言宗も天台宗も鎌倉新仏教も仏教であるのと同じように。
修行を要するSlackwareはチベット仏教で、Linuxを使っていると感じさせないandroidは正月の初詣みたいなものだ。お寺で柏手を打つ女子高生を見たことがあるが、あれはたぶんiOSと区別がついていないのだろう。「それ、iPhoneじゃなくてGARAXYだよ」と教えてあげたくなるが、イヤなオッサンになりたくないので我慢している。
宗教の話にもどすと、長い伝統を持つ宗教は、歴史の波にもまれてあらかたバグ取りが終っている。問題を起こすのは、たいがい伝統的な宗教からフォークされ、宗教本来の姿に立ち返るのを口実に、バグまで戻しちゃった宗教である。これを原理主義という。 (追記) (追記ここまで)
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