なぜか「絆」がいけ好かない:2011年11月18日で、「絆」という言葉が、現在使われているような肯定的な意味では使われていなかったことを書いた。
上のエントリで述べたのは次のようなことである。
漢語の「絆」にしても、和語の「きずな(きづな)」にしても、もともとは動物(特に馬)を繋ぐ綱のことだった。
それが中国では、足を繋ぐものだったことから「(石などに)つまづく」とか「(足に)からみつく」という意味で使われるようになった。日本では現在と同じような親子・兄弟・夫婦などの繋がりという意味で使われるようになったが、それは仏教的な煩悩や執着の意味を同時にもっており、断ち切るべきものというニュアンスを含んでいた。
それでは、いつから現在使われているような意味になったのだろう。実ははっきりした結論が出ていないが、流行語大賞のトップテンに輝いたのを記念して、分かっている範囲で書いてみる。
現代の日本人は「きずな」に「動物を繋ぐ綱」という意味があることを知らない。この意味が辞書に載っているのは、過去に用例があるからにすぎない。
もし、現在、犬を繋ぐリードのことを「きずな」と言っていたら、そこには「自由を奪うもの」とか「主従関係」いうマイナスのニュアンスが含まれることになる。元の意味が生きていれば、今使われているような「愛」とか「助け合い」といったようなプラスの意味を持つことはなかっただろう。
したがって、現在のように使われるようになる条件として「動物を繋ぐ綱」という意味が消える必要がある。それはいつだろうか。
最初に検索しやすい和歌で探してみたが、歌語として適当でないのか、正徹(1381-1459)の『草根集』にいくつか用例が見られただけである。
二首目以外は「切り捨てよ」とか「切らばや」とあるように、断つべき煩悩とか執着と解釈して問題ないだろう。これは具体的に動物を繋ぐ「絆」ではなく、抽象的な「絆」である。
問題は二首目の「まさきのきづな」である。意味としては「まさきのかづら(テイカカヅラのこと)」という言葉をふまえて、「秋(飽き)に堪えなくなり、これから断とうとする絆を詠んだものだろう。だが、これが鹿を物理的に繋ぐ綱を同時にイメージしているかどうかはちょっと分からない。
正徹の時代に「きづな」が動物を繋ぐ綱の意味を持っていたかどうか、これだけでは判然としないが、抽象的な意味の方が強くなっていた感じは受ける。
続いて『日葡辞書』に当たってみる。こちらは1603年に長崎の日本イエズス会によって刊行された、日本語ポルトガル語辞書で中世の言葉を研究するときの一級資料となっている。
わざわざ「ただし、精神的な事柄にしか用いられない」と書かれていることから、少なくとも中世の終わりには「動物を繋ぐ綱」という意味では、ほぼ使われなくなったのだろう。
これで、「動物を繋ぐ綱」という意味が消えるという条件はクリアした。しかし、この項には用例がなく、もとのポルトガル語のニュアンスもちょっと分からないが、「係累または拘束」に現在のような前向きな意味があるようにも思えない。
最後にビューンと時代を飛んで、近代の用例を挙げてみる。夏目漱石の『彼岸過迄』(1912年)には次のようにある。
「僕と千代子」はいわゆる許婚で、その二人を結びつけているものを「絆」と言っている。かなり現代の意味に近いように思える。しかし、現代では「絆」というだけで強く結ばれているニュアンスがあるのに対し、漱石は「怪しい絆」と言っているように、単に関係をつなぐだけの紐のような意味で使っているようだ。
なにやら尻切れトンボの上に乱暴な論になってしまったが、今まで書いたことをまとめると次のようになる。
1.「きずな(きづな)」「絆」のもとの意味は動物(特に馬)を結びつける綱だった。
2.日本では比較的早くから、仏教的に人間同士の関係を繋ぐ意味で使われるようになったが、それは同時に煩悩を意味していた。
3.中世後期から「動物を繋ぐ綱」という意味ではほとんど使われなくなり、専ら2の意味で使われるようになった。
4.明治・大正時代には、現在とほぼ同じ意味で使われるようになったが、「絆」単独で強い結びつきを意味するものではなかった。 (追記) (追記ここまで)
上のエントリで述べたのは次のようなことである。
漢語の「絆」にしても、和語の「きずな(きづな)」にしても、もともとは動物(特に馬)を繋ぐ綱のことだった。
それが中国では、足を繋ぐものだったことから「(石などに)つまづく」とか「(足に)からみつく」という意味で使われるようになった。日本では現在と同じような親子・兄弟・夫婦などの繋がりという意味で使われるようになったが、それは仏教的な煩悩や執着の意味を同時にもっており、断ち切るべきものというニュアンスを含んでいた。
それでは、いつから現在使われているような意味になったのだろう。実ははっきりした結論が出ていないが、流行語大賞のトップテンに輝いたのを記念して、分かっている範囲で書いてみる。
現代の日本人は「きずな」に「動物を繋ぐ綱」という意味があることを知らない。この意味が辞書に載っているのは、過去に用例があるからにすぎない。
もし、現在、犬を繋ぐリードのことを「きずな」と言っていたら、そこには「自由を奪うもの」とか「主従関係」いうマイナスのニュアンスが含まれることになる。元の意味が生きていれば、今使われているような「愛」とか「助け合い」といったようなプラスの意味を持つことはなかっただろう。
したがって、現在のように使われるようになる条件として「動物を繋ぐ綱」という意味が消える必要がある。それはいつだろうか。
最初に検索しやすい和歌で探してみたが、歌語として適当でないのか、正徹(1381-1459)の『草根集』にいくつか用例が見られただけである。
世世を引くこれもきづなか野山にも春は霞の思ひはなれぬ
妻恋の外山を鹿や出でざらんまさきのきづな秋にたえずは
切り捨てよ見る目は何のとがかあらむ人に心を盡くすきづなを
忘らるるこのたび世世のきづなまで切らばや玉の緒をも知らずで
二首目以外は「切り捨てよ」とか「切らばや」とあるように、断つべき煩悩とか執着と解釈して問題ないだろう。これは具体的に動物を繋ぐ「絆」ではなく、抽象的な「絆」である。
問題は二首目の「まさきのきづな」である。意味としては「まさきのかづら(テイカカヅラのこと)」という言葉をふまえて、「秋(飽き)に堪えなくなり、これから断とうとする絆を詠んだものだろう。だが、これが鹿を物理的に繋ぐ綱を同時にイメージしているかどうかはちょっと分からない。
正徹の時代に「きづな」が動物を繋ぐ綱の意味を持っていたかどうか、これだけでは判然としないが、抽象的な意味の方が強くなっていた感じは受ける。
続いて『日葡辞書』に当たってみる。こちらは1603年に長崎の日本イエズス会によって刊行された、日本語ポルトガル語辞書で中世の言葉を研究するときの一級資料となっている。
Qizzuna キヅナ (絆)
係累または拘束。ただし、精神的な事柄にしか用いられない。(邦訳『日葡辞書』・岩波書店)
わざわざ「ただし、精神的な事柄にしか用いられない」と書かれていることから、少なくとも中世の終わりには「動物を繋ぐ綱」という意味では、ほぼ使われなくなったのだろう。
これで、「動物を繋ぐ綱」という意味が消えるという条件はクリアした。しかし、この項には用例がなく、もとのポルトガル語のニュアンスもちょっと分からないが、「係累または拘束」に現在のような前向きな意味があるようにも思えない。
最後にビューンと時代を飛んで、近代の用例を挙げてみる。夏目漱石の『彼岸過迄』(1912年)には次のようにある。
とにかく僕と千代子の間には両方共物心のつかない当時からすでにこういう絆があった。けれどもその絆は僕ら二人を結びつける上においてすこぶる怪しい絆であった。二人は固より天に上る雲雀のごとく自由に生長した。絆を綯った人でさえ確とその端を握っている気ではなかったのだろう。僕は怪しい絆という文字を奇縁という意味でここに使う事のできないのを深く母のために悲しむのである。
「僕と千代子」はいわゆる許婚で、その二人を結びつけているものを「絆」と言っている。かなり現代の意味に近いように思える。しかし、現代では「絆」というだけで強く結ばれているニュアンスがあるのに対し、漱石は「怪しい絆」と言っているように、単に関係をつなぐだけの紐のような意味で使っているようだ。
なにやら尻切れトンボの上に乱暴な論になってしまったが、今まで書いたことをまとめると次のようになる。
1.「きずな(きづな)」「絆」のもとの意味は動物(特に馬)を結びつける綱だった。
2.日本では比較的早くから、仏教的に人間同士の関係を繋ぐ意味で使われるようになったが、それは同時に煩悩を意味していた。
3.中世後期から「動物を繋ぐ綱」という意味ではほとんど使われなくなり、専ら2の意味で使われるようになった。
4.明治・大正時代には、現在とほぼ同じ意味で使われるようになったが、「絆」単独で強い結びつきを意味するものではなかった。 (追記) (追記ここまで)
コメント
コメント一覧 (13)
が、古代中国―正徹―日葡辞書だけで物をいうのはあまりにも、なので...。
和名抄に、「紲」を「岐都奈」と訓んでいるので、このことばが存在していたのは間違いないのですが、同時代以前の実例を知りません。
平安朝の用例としては、梁塵秘抄に「御厩の隅なる飼猿は、絆離れてさぞ遊ぶ...」というものがあるので、この頃には物理的な「綱」の意があったと思われます。
平家物語に、「妻子は、無始曠劫より以来、生死に輪廻する紲なるが故に、仏は重う誡め給ふなり」(維盛の入水の事)とあります。
これは明らかに、抽象的な「絆」の意味です。「憂き世の紲」(維盛都落の事)も同じですね。
(それ以外にも何例かあるようですが、全部を探す気力はありません。恐らく、同様の用例でしょう。)
ただし、名語記(13世紀中頃)には「頸綱也」とあるようなので、物理的な「綱」の意味が無くなったわけではなさそうです。
口頭語・俗語としては物理的な意味で使われるけれども、文章語としては抽象的な「絆」の意味でしか使われなかった、ということなのかもしれません。
二首目は、「まさきのきづな」が絶えないで鹿が外山を出ない、というのですから、明らかに「綱」の意味でしょう。
ただし、妻への思い(=抽象的な「絆」)を断ち切ることができない、という意味が掛かっていることを否定するものではありません。むしろ、その方が、主要な意味でしょう。
他の三首は、抽象的な「絆」と考えて良いと思いますが、「引く」「切り捨てよ」「切らばや」と使われていることから、物理的な「綱」のイメージが、完全に無くなっているわけではないと思います。
つまり、「きづな」は抽象的な意味が主だけれども、物理的な「綱」のイメージが残っている、ということではないでしょうか。
なお、日葡辞書の「ただし、精神的な事柄にしか用いられない」という注記は、ちょっと意味深です。
何故、わざわざそんなことを注さなければならなかったか、ということは、気に掛かります。疑う余地のまったくないことは、敢えて注記しないのがふつうです。
蛇足。
> もし、現在、犬を繋ぐリードのことを「きずな」と言っていたら、そこには「自由を奪うもの」とか「主従関係」いうマイナスのニュアンスが含まれることになる。
それは、どうでしょう?
現代日本語としての「リード」にマイナスのニュアンスはないでしょう。もし、愛犬家に「リードは『絆』だ」と教えてあげたら、「あぁ、やっぱり私とヴァスティちゃん(仮称)は絆で結ばれてるのね!」と喜ぶに違いありません。
ですよね〜。
>口頭語・俗語としては物理的な意味で使われるけれども、文章語としては抽象的な「絆」の意味でしか使われなかった、ということなのかもしれません。
なるほど、そうかもしれません。
>日葡辞書の「ただし、精神的な事柄にしか用いられない」という注記は、ちょっと意味深です。
これは僕も考えたんですよ。
ただ、この注記も本来ポルトガル語で書かれているので、そのための注記と考えた方がいいんじゃないかと思います。
例えば、英語のbondには物理的な意味と、精神的な意味の両方があります。
http://ejje.weblio.jp/content/bond
>もし、愛犬家に「リードは『絆』だ」
ああ、犬嫌いがこういうところに出るのね〜。
ニュースになれば、中華圏にも報道されるんですが、あちらの方ではどんな印象なんでしょう?
高校の教科書でも習った、有名な杜甫の曲江七律では、ほだす、あんまり良い意味の字ではないですよね。
杜甫もどこかから典故として引っ張ってきた表現かもしれません。
ええ、我ながら先見の明というかナンというか・・・
>ニュースになれば、中華圏にも報道されるんですが、あちらの方ではどんな印象なんでしょう?
かなり奇妙な感じなんでしょうね。
このへんは「久遠の絆」ファンサイトの浦木さんに聞いてみたいところです。
もともと、このエントリを書いたのも、蒲田の商店街に「絆」と書かれた旗がたくさんかかっていて、ちょっとキモいなと思ったからなんですが・・・。
震災の直後ぐらいでしょうか?
そこまで伝わっているとは・・・
人民網
http://p.tl/ayzi
「"絆"字在日語中寓意着紐帯、連系。」
だそうです。
わざわざ、見出しにも書いてありますね。
ケータイだと化けるのか、全体がみられないのか、億劫で最近勉強不足ですわ。
季咸氏が最近、清の碑を読まれたのですが、その詞の部分に、繋魍魎兮縻蛟ダ(留+黽)。こいつも、どっちかて言うと、メーワクなやつを拘束する意味かなぁ。
千字文だと好爵自縻、これは好い意味かな。
ほだす、って、杜甫の詩依頼、自分じゃほとんど聞いたこと使ったことがなく、情にほだされる、って言葉とも無関連に思っていました。
なんとなく、頑なな心をほどく、みたいに...
(情が綻びる、みたいな漠然とした印象)
いま調べたら、全然違うじゃないか。
あ〜あ良かった。
管理人さんありがとうございます。こんな機会がなければどアホのまんまだったわ。
大勝軒系列のお店です。直営、暖簾分け、孫店...
Tシャツに麺絆なんて書いてあるっす。
以前から色紙や、Tシャツ見ると、なんだか複雑というか恥ずかしいというか。
管理人さんとは違う恥ずかしさか、なんなのか、よく分かりませんが。
絆創膏だか絆纏だか、
大陸です。人民日報の記事です。ケータイだと無理でしょうね。
>情にほだされる、って言葉とも無関連に思っていました。
実は僕もそうでした。
情に「ホ・出される」かと・・・。
あと、杜甫の曲江が二つあるのも知りませんでした。
>以前から色紙や、Tシャツ見ると、なんだか複雑というか恥ずかしいというか。
「一麺入魂」とかですね。
僕はあれをラーメン屋文学と呼びたいと思います。
コンセプトラーメン屋にみられる、筆文字も最近の流行りのやつで、目にすると赤面ですわ。
あれ、なんでしょうね。
店に入って、異常に声がでかいのも、なんかイヤだ。
とはいえ、ぼそぼそと「ニンニク入れますか」とか言われるのもイヤなんですけどね。
筆文字もなぜか同じような字なんですよね。
ラーメン屋書道とでもいえましょうか。
たまーに店主が自分で書いているのもあって、ラーメン書道に必死に似せようとしているのがまたイヤ。
普通に書けばいいのに。