現代文の授業で太宰治「富嶽百景」を読んでいる。
以前からひっかかっていたのが、冒頭のこの部分。
やたらと細かい数字が出ていて、違和感がある。そうは思っていたけれど、別に解釈に影響を与える部分ではないので、今まで調べたことはなかった。
よもや太宰が分度器で計ったのではないだろうとは思っていたが、やはり出典があった。もちろん、僕が発見したのではなく、指導書に書いてあったのである。この出典、太宰の専門家にとっては常識らしい。
ほとんどパクリといっていいほど似ている。しかし、それよりも面白いのは、この『富士山の自然界』の著者「石原初太郎」なる人物である。この人、『富嶽百景』で見合いの相手である石原美智子、つまり太宰の奥さんの父親なのである。
いかに、自分の義父とはいえ、ずいぶんと図々しいことである。なにしろベストセラーの『斜陽』では、愛人の日記を小説にしたぐらいだから、こんなのなんともないのだろうなと思って、もう少し調べてみたら、なんと石原初太郎氏、太宰と美智子が結婚した時にはすでに亡くなっていたらしい。
指導書によると「これに対して「太宰」は、「おやじなら文句は言えまい」と言ったという。」とあるが、おやじ以前に死んじゃってたら文句は言えない。
もっとも、石原初太郎が生きていれば、太宰との結婚なんて許さなかっただろうから『富嶽百景』もずいぶん違うものになっただろう。 (追記) (追記ここまで)
以前からひっかかっていたのが、冒頭のこの部分。
富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度くらい、けれども、陸軍の実測図によって東西および南北に断面図を作ってみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。広重、文晁に限らず、たいていの絵の富士は、鋭角である。頂が、細く、高く、きゃしゃである。北斎に至っては、その頂角、ほとんど三十度くらい、エッフェル鉄塔のような富士をさえ描いている。けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと広がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。
やたらと細かい数字が出ていて、違和感がある。そうは思っていたけれど、別に解釈に影響を与える部分ではないので、今まで調べたことはなかった。
よもや太宰が分度器で計ったのではないだろうとは思っていたが、やはり出典があった。もちろん、僕が発見したのではなく、指導書に書いてあったのである。この出典、太宰の専門家にとっては常識らしい。
試に画家の筆に成る富士山を吟味するに、其頂角が実際を表はすものは殆んどない、凡て鋭に過ぐるのである。例へば広重の富士は八十五度位、文晁のは八十四度位で、秋里籠島の名所図会中の図は各地の画家のスケツチに依るものであるが何れも八十四、五度で、大概の図は此の位に角度に描かるるのである。けれども陸軍の実測図により東西及南北に断面図を作つて見ると、東西縦断は頂角が百廿四度となり、南北は百十七度である。故に南又は北から見るときは東又は西から見るときよりは幾分鈍であるべきで、之を平均するときは百廿度卅分で、八面から撮つた写真の頂角を測ると丁度此の角度を示す。
(石原初太郎『富士山の自然界』大正14年・宝文閣)
ほとんどパクリといっていいほど似ている。しかし、それよりも面白いのは、この『富士山の自然界』の著者「石原初太郎」なる人物である。この人、『富嶽百景』で見合いの相手である石原美智子、つまり太宰の奥さんの父親なのである。
いかに、自分の義父とはいえ、ずいぶんと図々しいことである。なにしろベストセラーの『斜陽』では、愛人の日記を小説にしたぐらいだから、こんなのなんともないのだろうなと思って、もう少し調べてみたら、なんと石原初太郎氏、太宰と美智子が結婚した時にはすでに亡くなっていたらしい。
指導書によると「これに対して「太宰」は、「おやじなら文句は言えまい」と言ったという。」とあるが、おやじ以前に死んじゃってたら文句は言えない。
もっとも、石原初太郎が生きていれば、太宰との結婚なんて許さなかっただろうから『富嶽百景』もずいぶん違うものになっただろう。 (追記) (追記ここまで)
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