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2006年05月

2006年05月31日

下北沢X物語(605)〜下北沢焼け残りの出版文化(上)〜

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駒場の日本近代文学館に調べものがあって行った。ついでだと思い「北沢川文学の小路物語」を寄贈しようと思った。すると受付の女性は「今日これは届きました」と言う。そうだった、ここの資料は使わせてもらっている。東盛太郎氏が既に送っていた。それでも二部あれば助かるとのことなので寄贈してきた。

調べものの目当ては「航西日記」である。これに関わる文献が読みたかった。北沢文学とは関わらない。が、関わらないわけでもないだろうとも思う。その日記は森鴎外のものだ。彼が留学で独逸に渡る、船で西に赴くときのものである。二十二歳の軍医の風景描写に興味がある。事象を言語で捉える力は鋭いものがある。その遺伝子を受け継いだ森茉莉は倉運荘や代沢ハウスから眺められた光景はあまり書いていない。部屋の中一つ一つのゴミに色合いをつけて描写している。親爺は具象的だった。が、その娘は想像的だったとも言える。事象を捉えて言語で描写するときに彼女風に色づけした光景が主である。

近代文学館は微細なテキストが見られるという点では助かる。時間がかかるだろうと思っていたが案外早くに求めていた資料に行き着いた。時間が余った。それで余りは北沢川文学の方に時間を充てた。、

雑誌「黄蜂」を探すとすぐに検索に次の雑誌がヒットした。
1巻1号 1946年4月 昭和21年4月
2号 1946年7月 昭和21年7 8月
3号 1946年10月 昭和21年10月
4号 1947年12月 昭和22年12月
4巻1号 1949年2月 昭和24年2月

終戦の翌年に「黄蜂」の版元「黄蜂社」は立ち上がった。創刊号の奥付を見る。そこには「世田谷區北澤四ノ三七六」とある。
「黄蜂」の由来については巻頭に記されていた。ギリシャの戯曲家アリストファネスの作品の名だとある。社会諷刺に満ちた作品であるとのことだった。

創刊号の編集後記にはこう記されている。(旧漢字は新漢字に直した)

『黄蜂』は全く素人の集りで一人で編集にあたつてゐる。和辻哲郎、安倍能成、小宮豊隆、久松潜一の諸先生に叱られたり、激励されたりしてともかくもここまで漕ぎ着けたわけである。紙の買溜なぞ一枚もない。

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2006年05月30日

下北沢X物語(604)〜「北沢川文学の小路物語」の発刊〜

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誰に言っても信じてはもらえないだろう。北沢の谷、代田の谷、代沢の谷は言葉で埋まっていた。それぞれの谷はサラダボールである。そこに盛られた野菜、それは言葉サラダだ。その味が異なる。谷によって味が違う。言葉は領域文化を背負っている。

森茉莉世界の淡島は湿地帯には昆虫が多くいた。それを最も嫌っていたのは彼女である。けれども貧乏だった彼女は丘上の代沢二丁目には住めない。彼ら昆虫と同居して住むしかなかった。「蜥蜴!、守宮!、蜘蛛!」とそれらが出るたびに声を上げていたように思う。北沢川の低湿地帯が彼らを育んで文豪のお嬢様を恐怖させた。それが原動力となって文学が生まれた。地霊が醸す文学である。

森茉莉と加藤楸邨は同じ並びで距離も近い。けれども俳人の居住地選択眼は鋭い。彼の回りには季語が多く転がっていた。

崖暮れぬ青蔦いまも暮れにけり 加藤楸邨「雪後の天」より

森茉莉の倉運荘と加藤楸邨宅は百メートルあるかないか位の近さだがもう地味が違う。楸邨は下代田時代に崖というのを入れた句をよく詠んでいる。それは代田七人衆の清水さんか柳下さんの家の崖のことを言う。家は清水さんところの崖の下だ。が、丘にかかっているところで土は乾いている。それで蟋蟀やすいっちょが現れる。その俳句的風土が当人を喜ばせたのだろう下代田では生涯に残る業績を残している。

三好達治は代田一丁目一番、かつて炭屋を営んでいた河野さんの家の角を曲がって路地を入る。緩い角度で坂は下る。新聞売りが通る、牛乳屋が通る、ちょうど勢いがついたところで足音が辺りに響き渡る。昭和期を代表する最大の抒情詩人と言われる彼は耳がいい。寄留先の岩崎方の松の古木と樫の大木に音が反響してよく聞こえる。彼らのそれぞれの年齢を足音で当てたほどだ。

「北沢川文学の小路物語」はそれらのものの集積である。ペダルでの実踏に基づいた物語である。目次には「代と沢と丘の作家物語」とある。「代」は「代田」、「代沢」を言い、「沢」は「北沢」、「代沢」を言う。この地に欠かせないのは「丘」である。丘があって谷があるするとそこに沢がある。その襞に畳まれた土地の物語である。

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2006年05月29日

下北沢X物語(603)〜北沢川川辺の文学と風土(1)〜

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土地の陰影が文学に影響を及ぼす。楽しい面白い観点である。地霊が何らかの影響を及ぼしてそれが文学に反映されるということである。例えば萩原朔太郎旧邸のすぐそばにあった稲荷である。小谷家の屋敷稲荷だったが写真を見ると立派な稲荷様である。代田のひまわり公園の東側にあった。長い石段が斜面にずっと続いている。参道には幾つもの赤い鳥居が建っていて、赤い稲荷幟も何本も立っている。

自分は当時の稲荷の写真を見ながら書いている。現在このお社と長い石段はもうない。駒沢鉄塔下の小谷家の庭に密かに祀られているそうである。

写真を拡大して見る。すると赤地に白で染め抜いた文字が見える。それは鳥居の陰に隠れていて全部は読めない。「納 小谷家」ははっきりと読める。「稲荷大明神」もほぼ読み取れる。何稲荷か、字が半分しか見えない。字形から「最上」と判断できる。最上と言えばこの代田に越してきた斎籐茂吉が思い出される。最上絶唱を歌った後に彼はこの代田に山形から引き揚げてきた。が、本当に「最上」なのだろうか。「最上稲荷」というのは聞いたことがない。一帯で一番多いのは、「伏見稲荷」である。つぎが「豊川稲荷」「笠間稲荷」である。

試みに「最上稲荷」とインターネット検索で入れてみた。するとちゃんと検索にヒットした。岡山最上稲荷総本山である。ホームページには立派な社殿が写真に載っている。その縁起の末尾にはこう記されている。

「不思議なご利益をお授け下さる最上さま」として多くの人々の信仰を集めます。伏見・豊川と並ぶ日本三大稲荷・最上稲荷は1200余年の歴史を通じて仏教の流れを汲んで発展を遂げてきた稲荷

北沢、代田、代沢にある稲荷はほぼ巡り歩いてきた。その中で「最上稲荷」というのは初めてである。読み仮名は、「モガミ」ではなく「サイジョウ」である。大概が伏見、笠間、豊川である。初午のときには赤坂の豊川稲荷にいつもお参りしていましたという地元の人もいた。

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2006年05月28日

下北沢X物語(602)〜森茉莉の代沢湯・斎籐茂吉の代田湯?(下)〜

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歌聖とも言われてあがめられた斎籐茂吉である。その彼が代田居住時代に行った銭湯はどこだろうか。けれどもそんなことは話題にもならなかった。ついこの間、取り壊された代沢湯の場合は森茉莉が入っていたということで騒がれたほどなのに。
「代沢湯に入るのを目当てにして来ていたファンの人もいました。それから、家に来て、代沢湯の話すると、『じゃあ、これから入りに行ってきます』という人もいたわね」
「邪宗門」の奥さんが、そんな話をしてくれた。けれども斎籐茂吉が入っていた風呂屋のことは一回も話題になったこともない。それは「宮前湯」という。宮というのは「代田八幡宮」である。斎籐茂吉の家とその八幡宮は近い。孫をよく連れて行っていた。こういう歌がある。

代田なる八幡宮の境内にわれは来りてまどろみゐたり 歌集「つきかげ」
斎藤茂吉全集 第三巻 岩波書店 昭和49年

「宮前湯」は今はもうない。そこは環状七号線脇で車整備工場の敷地となっている。「ガリバー世田谷代田店」である。この店の前は六車線の道幅の環七が通っている。が、斎籐茂吉が代田にいた時代はこの道はなかった。堀の内道という旧道があるだけで渡るに苦労はない。そのときは彼の代田の家からは簡単に行けた。

代田の家に風呂があったはずなのになぜ「宮前湯」という銭湯に斎藤茂吉は行ったのか。
それは燃料がなかったからだ。このことについては茂吉の長男の茂太が書いている。

燃料は青山の病院の焼跡から防空壕の廃材を運んで来て、それを割って使っていた。コールタールがぬってあるのでよく燃えた。
塀は、木の板塀であったらしいが、前の住人がとっくに燃料に使ってしまっていて、外から家の中がまる見えに見えた。
近所の小川にかかっている木の橋は、人が少しずつはがして持って行くので、とうとう丸木橋のようになってしまい、危険で通行不能になってしまった。
斎藤茂太 「茂吉の体臭」 岩波書店 昭和三十九年

この一文は「代田時代」と書かれたものである。したがって文中にある「近所の小川」というのは北沢川のことである。

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2006年05月27日

下北沢X物語(601)〜森茉莉の代沢湯・斎籐茂吉の代田湯?(中)〜

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自転車での荏原の谷巡行は行けば行くほど情報が集まる。点線上に情報拠点があってそこへ行くと、「あれはあれだった」と教えてもらえる。代々木一丁目の紀伊国屋酒店の岡本國男氏もその一人だ。彼の店のある山谷地域は小田急沿線第一次文化人居住地域である。一帯は甲武鉄道の代々木駅に近くであった。武蔵野が濃厚に残っている地域で景観がよく、それに惹かれて文学芸術が集まった。田山花袋、菱田春草、高野辰之などである。明治の文化人たちが居住した。
「今はこういうふうにビルがありますけどね、前はなにもなくて山手線の電車が見えましたよ。親爺が言ってましたけどね、大正のことですよ。道もなにもなくて付近はただの野っぱらですよ。駅に行くときはそこの細い路地を行ってものですよ」
駅へと行く細い路地と聞くと、惹かれる。そこを辿った。確かに面影がある。古い石の門柱、地形の沿った道の曲がり具合、時代を経た道には趣がある。

第一次文化地域から第二次文化人居住地域へ向かった。上原大山も宗教、文学、芸術が伏在する地点ではある。下北沢鉄道交点の外縁と考えて置こう。つぎの情報拠点は下北沢一番街の大月商店である。
「御殿山小路に住んでいたのは黒田清輝の奥さんじゃないみたいだね。末裔みたいだわね」 その末裔の金子さんを紹介されてはいるがまだ行っていない。
「あのね、下北沢風月堂に近いお風呂屋さんは、あずま通りの方が近いかもね。『萊亭』の南側にマンションあるでしょう、あそこが銭湯だったのよ。宝湯だったかな寿湯だったかな。名前を忘れちゃった、あの近くの自転車屋さんで聞くといいわよ。」と大月商店の若い方の女主人が言う。

そういう情報を手に入れると一刻も行ってみたくなる。すぐに自転車にまたがって一番街を東に向かう。そして、三本目の路地を右に曲がる。そこが栄通だ。やがて左角に和菓子の『青柳』が見えてくる。ここにかつて『風月堂』があった。森茉莉がよく通って来ていた喫茶店だ。

その青柳のところで路地を左に曲がる。真っ直ぐ行くと小田急東北沢5号踏切だ。今は警報機と遮断機があるがかつてはなかった。そこで遮断機に引っかかることなくすんなりと渡れた。少し行くとあずま通りに出る。むかしの二子道である。路地がその道にぶつかったところに中華の『萊亭』がある。「江戸っ子ラーメン」がうまいと大月さんに教えられたので、ちょうどお腹も空いていたので店に入った。
細い麺の上にキムチを載せたこの店独特の名物だ。細麺の歯触りとキムチの食感と味、そして、スープはうま味があっておいしい。全部食べてしまった。

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2006年05月26日

下北沢X物語(600)〜荏原の里自転車漂流紀行〜

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朝から都市漂流への自転車旅に出た。この頃は荏原の里をはみ出て豊玉の里にまで遠征することが多い。目黒川を遡って、一枚の大きな谷を越え渋谷の宇田川に出た。そして、国木田独歩旧居のある坂を上った。この近辺の谷は南北に横たわっている。独歩旧居のある丘続きに代々木公園はある。

近現代の歴史が埋まっているのが代々木公園である。今日は日和がよく小学生が大勢いてかくれんぼをしたり鬼ごっこをしたりしていた。その子供たちの間を縫って走る。この間うちからここに何度も来ていて見つからないものがあった。「十四烈士の碑」である。ところが今度は難なく見つかった。管理事務室で聞いたら地図をくれた。そこに載っていた。何度か走ったたことのあるサイクリングコースの脇にあった。それは実際木陰に眠っていた。「大東塾十四烈士自刃之處」である。その碑文にはこうある。

昭和二十年八年八月二十五日早暁 元代々木練兵場の一角なる此の處に於て 塾長代行影山庄平翁以下十八歳の少年に至る十四名大東塾々生徒 古式に則り 一斎に壮烈極りなき割腹自刃を遂げ 以て大東亜戦争終戦の大難に殉じ 祖國再建の尊き人柱と立つ

刻まれた言葉がそのときの情景を思い起こさせもする。我々の歴史を刻んでいる地点である。その地点から西を見るとちょうど谷を挟んで代々木八幡の丘が見える。そこにはこの地を練兵場に奪われた明治の農民達の嘆きが刻まれた燈籠がある。

この代々木練兵場は「日本航空発始の地」だ。明治四十三年十二月十四日に日本で初めての飛行機がここで地上を飛んだ。近代文明発祥の地でもある。

その代々木練兵場は戦後になって進駐軍のキャンプ地となった。それがワシントンハイツである。ゆるやかな丘陵が青い芝生でおおわれている。そこに白いペンキ塗りの瀟洒な家々がゆったりと取られた敷地に点在していた。その脇道を行くのはダッヂなどのアメ車やジープである。家々からはジャズが流れていた。貧しい日本にとっては憧れのアメリカンスタイルであった。その生活のスタイルが近隣の日本人に大きな影響を与えた。上原、大山、そして、下北沢周辺はワシントンハイツがあることによってアメリカ兵が多く住んだ。それを目当てにした女性、そして、闇屋も横行した。儲け話のあるところには当然テキ屋も集まってくる。下北沢駅前市場には闇物資が異常にあふれかえっていた。米兵相手の女性も多かった。絹の靴下をかがる店まであった。米兵がたむろする下北沢には産婦人科が増えたほどである。

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2006年05月25日

下北沢X物語(599)〜森茉莉の代沢湯・斎籐茂吉の代田湯?(上)〜

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昨日のことである。蛇崩川、目黒川、そして三田用水沿いに荏原の町々を自転車巡行した。そして、代田「邪宗門」にたどり着いた。ちょうどそこへ図書館へ本を返却に行くという東盛太郎氏が店に入ってきた。止めてある自転車を見つけたのだろう。またしばらくすると伊藤文学氏が出版社の編集者と共に店に現れた。

文学氏は近著の打ち合わせだったと言う。その本のデザインとタイトルで悩んでいるようだった。月刊「薔薇族」休刊後、いっとき元気がなかったようだがこのごろ本の執筆で忙しいようでこれで二冊目だと言う。

天気は予報通り雨となった。雨音を聴きながらの四方山話となった。文学氏がふぃと前の奥さんとの馴れ初めを話し始めた。
「七夕で仙台に汽車で行くときに彼女と逢ったんだよ。昔の汽車は混んでいてね......」
前の奥さんを文学氏は亡くしている。その彼女は教員をやりながらバレエでの先駆的な試みをしていた。雑誌のグラビアにもなっていてそれを前に見せてもらたこともある。

色香の話からか、雨夜の品定め風になって、森茉莉の話となった。そこから取り壊された代澤湯の話となった。森茉莉がふだん行っていた代澤湯である。
「代澤湯の籐かごは、必要な方お持ち下さいという貼り紙がしてあってみんなに分けていたようだよ。建物の方は壊されている最中けっこうみんな写真を撮っていましたよ」
東盛太郎氏がそう言う、撮っているのは自分でも見かけた。男が多かった。
「代澤湯の女湯の入り口の『女』というで字が浮き出ている磨りガラスはこうなると貴重ですね」と作道氏が言う。北沢川文化遺産保存の会が手に入れた文化財である。
「森茉莉がよく入ったということで代澤湯のことが話題になりますが、斎籐茂吉も確か代田にいるとき銭湯に入っていますが、茂吉の入った銭湯はどこかっていうのは全く話題になりませんね。」
「いやぁ、茂吉の代田の家は確か内湯があったはずだよ」と文学氏。
「でも、歌集『つきかげ』に銭湯のことを歌ったものがあったはずですよ、息子の北杜夫が書いていましたから。」
自分にはそういう記憶があった。
「あそこでお湯に入るとすればどこだろう?」
「東さん代田湯じゃない?」
そんな冗談を自分で言った。けれどもこれは面白いことである。茂吉が入った銭湯は全く話題になることがなかった。森茉莉とは対照的である。

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2006年05月24日

下北沢X物語(598)〜地域コミュニティ活性化支援事業情報交流会〜

世田谷区地域コミュニティ交流会 「北沢川文化遺産保存の会」は世田谷区地域コミュニティ活性化支援事業の支援を受けている。その援助によってパンフレットを作製した。表紙は既に印刷されて配布している。中身は今月末にできあがる。世田谷区の広報部でも配布日程などをメディアを通して知らせてくれるはずである。現在その予約が約400部ほどあるがそれは優先的に配布することにしている。

昨日の夜、世田谷区区民会館集会室で「地域コミュニティ活性化支援事業情報交流会」が開かれた。これの支援を受けている53の団体が集まっての情報交換会である。

六時半からの開催である。その開式前に当会の廣島文武氏が区長にわたしを紹介してくれた。それで名刺を交換し、その際に代沢小学校空き教室を利用しての文化遺産の展示を区長の熊本哲之氏に要望した。

区長の挨拶の後、各地域に別れてそれぞれの団体がプレゼンテーションを行った。当方遺産の会はレジメを作っていっておおよそつぎのようなことを説明した。

「北沢川文化遺産保存の会」の活動
地域コミュニティ支援授業が求めているつぎの点に当会は当てはまる。
・住んでいるまちを魅力的にしていこう
・まちのことを知らせていこう
しろまるねらい
町の再認識と町の文化価値の発信
居住している町の魅力を発見し全国に発信するというもの。
会の調査によって代田、代沢が昭和文学が凝縮している地点であることを発見した。
質の高い、レベルの高い文学者が密集して北沢川沿いに大勢住んでいた。
例を挙げると、歌聖と言われた斉藤茂吉 詩聖と言われた萩原朔太郎
小説の神様とも言われた横光利一が居住していた
彼らの多くが北沢川沿いを散策していた。
それだけではなく相互の交流があった。
しろまる支援事業を受けて行ったこと
地元地区住民に対しての講演、広報活動 昨年暮れ 12月
文学散歩の実施 今年度1月
しろまる印刷物の発行
パンフレットを作製した
地図上に文学者の住まいをマークした、それのみならず近隣のあらゆる文化財を網羅した。お稲荷様、庚申様、教会仏閣神社など。それは「下北沢周辺地域の文化地図」となっている。これを作製し地域に発信した。大きな反響があった。
*エピソード

・当会発行の地図は区で発行しているのかと思った人がいて、実際に区の地域センターに地図をもらいに行った人もいた。
・地図を作製しての発信、これによって地域の住民から、地図に載っていない情 報が多数寄せられた。 一枚の地図が地域を活性化しつつある。そういう手ごた えをつかんでいる。

しろまるしめくくり
痛感していることは地域の文化が次第に記憶から薄れつつあることだ。これを記録しておくことは近現代の文化史にとっても重要であると考える。これからは広報活動としての講演、また、連続的な地域講座としての公開授業、これらの開催を予定している。さしあたっては来月13日、代沢小学校家庭学級主催による「北沢川文学の小路」についての講演と文学散歩を行う。

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rail777 at 20:48|PermalinkComments(0)TrackBack(0)││学術&芸術

2006年05月23日

下北沢X物語(597)〜武蔵野近代風景雑感〜

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人は自分にとって目に優しい風景を選ぶ。

自転車で武蔵野をあてもなくさまようときがある。世田谷北部や渋谷区、ときに多摩川まで行くこともある。目当てはない、けれども結局は色を求めている。緑である。新緑の季節は終わった。が、落ち着きのある緑もなかなか味がある。

世田谷城址公園は多くの木々に覆われている。それが眺められる地点に立ち止まってしばらく魅入ったほどだ。一昨日は晴れていて風が強かった。降り注ぐ陽光に初夏の緑が風に揺られていた。木々の葉が風に翻る。白い葉裏がさわさわとそよぐ様は見ていて飽きない。目に優しい風景である。

自転車でふらつくときも結局は緑を求めている。そのときも北に向かっていたがふぃと西の方に太い欅の葉の塊が見えた。武蔵野のペダル巡行からするとそういうところには何かがある。たいがいが神社、寺院、公園、旧家である。予想通りだった、旧家である。表札を見ると「大場」とある。世田谷の郷土博物館は大場家代官屋敷である。その縁戚の家だろうか。

武蔵野のかつての風景は緑であり、林であった。

昔の武蔵野は萱原のはてなき光景を以て絶頂の美を鳴らしていたように言い伝えあるが、今の武蔵野は林である。林は実に今の武蔵野の特色といってもよい。
国木田独歩 「武蔵野」岩波文庫 2006

明治の昔、武蔵野は人家、農家が緑の中に点在していた。けれどもそれらはほとんどが切り払われて林は今わずかに点在しているだけだ。屋敷林は相続税を支払うために切り売りされて消滅しつつある。また、銀行などが所持していたグランド、寮などの敷地が負債整理のために売り払われる。そこに巨大なマンションが建つ場合も少なくない。

この十数年の間に武蔵野の空の風景も変わった。建築規制が取り払われ高層マンションが建てられるようになった。それで丘に登るとあちこちに高層ビルが竹の子のように生えているのが見える。異風景である。おおよそ自分の生とは無縁な建物である。すっくりと建った巨大な建物がわれわれを睥睨しているように見える。威圧感すら覚える。自分にとってはまるで異郷である。都市は異郷化しつつある。

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2006年05月22日

下北沢X物語(596)〜下北沢野屋敷小路を訪ねて(下)〜

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古い地図はイマジネーションを掻き立てて想像への旅心を煽りもする。

昨日の日曜日は世田谷区の「郷土博物館」へ行った。質問項目は次の一点だけに絞った。
「昭和九年の『北澤三丁目』の地図には、野屋敷の南北の通りに小路名が付けられています。その中で『御殿山小路』と言うのがありますが、この御殿山という名称はどこから来たものでしょうか?」
郷土資料館は地域資料が閲覧できる。そこにある幾つかを当たったが分からない。それで聞いた。すると受付の係りの人はまず辞典を調べてくれた。それには品川の御殿山の例しか載っていない。それで別の人に聞いてくれた。それでもよく分からない。また三人目の人が出てきた。
「抱え屋敷関係ですか。野屋敷にあった薩摩藩はどうだったか分かりませんが、他の例で言うと、屋敷みたいなものは建てないのですよね。むしろそこから取れる材などを重宝していたようですね。だから抱え屋敷の御殿というのは考えにくいと思いますが」
薩摩藩抱え屋敷があったことから「御殿」の名称は来ているのではないかと自分では思っていた。「御殿山小路」のすぐそばに「野屋敷稲荷」とある。これについては世田谷区民族調査第八次報告「下北沢」(世田谷区教育委員会、昭和63年)にはこうある。

元来、松平藩薩摩守の屋敷内にあったが、松平氏が引きあげた後、野屋敷と新屋敷の人たちが祀るようになった。薩摩稲荷または野屋敷稲荷と呼ばれる。

このことからすると稲荷だけがあったとは考えにくい。御殿ほどのものではないが何らかの建物があった。その隅に祀られていた屋敷稲荷であろうと思われる。
「『御殿山小路』と言われる付近に偉い人が住んでいてそう呼ばれたということもあるかもしれませんがどうでしょうか?」
二番目の人、多分学芸員であろう、彼がそう言う。
「ええ、確かに、この野屋敷には聞いたところによると軍関係では大佐以上の人が住んだといわれます。また、著名な人も多く住んでいました。」とわたし。
「ああ、それじゃないですかね。昭和九年のことですから、お偉いさんがいて、そういうふうに名づけたのかもしれませんね」
「郷土博物館」では具体的なことは分からなかった。しかし、ヒントは得られたように思った。

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2006年05月21日

下北沢X物語(595)〜下北沢野屋敷小路を訪ねて(中)〜

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地図を眺めるのは楽しい。またその地図を比較するのも楽しい。手元にあるのは三葉である。1「北澤三丁目町會」(昭和九年)、2「北澤三丁目詳細図」(昭和三十二年度版)、3「北町会詳細図」(昭和三十六年)のものである。(13は大村昭夫氏、2は東盛太郎氏から手にいれたもの)

話だけで聞いていたものが地図の中で具体的に見つかると、想像都市物語がまた鮮明によみがえってくる。1の地図にあった東北沢5号踏切脇の「長栄稲荷」もその一つだ。美空ひばり映画「大当たり三人娘」に過去の下北沢風景の一シーンが出てくる。小さな社があってその向こうにはチョコレート色の小田急線が走っていた。

一時この区域一帯のお稲荷さん探しに駆け回っていたこともある。それだけに興味があった。が、その地図にはさりげなく載っている。そこには「岸田」とあった。これは同家の屋敷稲荷である。今は北澤八幡宮の裏手に祀られている。

「下北沢の北口市場の向こうに映画会社の社員寮があってね、そこは大部屋俳優の寮でしたよ」
「邪宗門」の貴久枝さんからそう聞いていた。3の地図を見ていたら現在の北沢丁目31番地に「下北沢東宝寮」があった。映画文化を下支えしてきた地区がこの下北沢であるようだ。代田二丁目にも日活俳優の寮があった。また、代田六丁目のだいだらぼっち川沿いのアパートには映画関係者大勢住んでいたとも聞いたことがある。鉄道交点の周辺丘上には映画監督や男優女優も居住していた。映画文化もこの地域に吹きだまっていた。

地図は物語の宝庫である。そこ記された家々の居住人の苗字、店の名前、通りの名前から様々な想像ができる。産業の変遷も窺える。1の地図には「ポンプ屋」、「土管屋」などの職種も記されている。時代が透けて見えてくるようだ。

昭和九年の地図、これで見ると下北沢の駅に近い方の区画、新屋敷の通りはみな「通」になっている。萩原朔太郎が一時住んでいた家の前の通りは「みたけ通」となっている。この新屋敷は商業地区だったのだろう。それに対して一番街を挟んだ野屋敷は住宅地区だった。ここの南北の縦の道に「小路」という名がつけられている。

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2006年05月20日

下北沢X物語(594)〜下北沢野屋敷小路を訪ねて(上)〜

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荏原都市物語が面白い。武蔵野の地形を残す荏原には今もそれぞれの谷に興味深い物語が眠っている。そこを踏み分けていくと小さなエピソードがいくつも発見できる。まるで自分がリアルな都市の物語を生で読んでいるように思う。

先日、野屋敷に住んでいる大村昭夫さんから興味深い地図を手に入れた。昭和九年の「北澤三丁目町會」の地図である。一番興味覚えたことはかつて野屋敷だと呼ばれていた地区の路地にみな名称がついていたことだ。東西の道は「通」と名づけ、南北の小道は「小路」と名づけていることだ。ことに後者の「小路」は深い関心を持った。東から順に「御殿山小路」、「緑小路」、「檜小路」と名づけられた道である。

昨日は、北沢五丁目を回って、四丁目からこの三丁目に入った。野屋敷は台地の上にある。その縁には川が丘裾を洗うように流れていた。森厳寺川(仮称)である。それで四丁目から入る場合には急坂を上る形になる。上まであがると路地が一本南北に抜けている。これが「御殿山小路」(写真)である。左右は比較的地所の広い家が多い。緑も豊かである。

自宅の前を掃いている老齢の奥さんがいた。それで問いかけてみた。
「ええ、ここが『御殿山小路』だということは聞いて知っていました。近くに住んでいるお婆さんが教えてくれましたね。『緑小路』、『檜小路』は知りませんね。」
なぜここが御殿山というのかは分からないと彼女は言った。

その時気づけばよかったものの小路のことを訪ねた人の隣が黒田という家だった。一番街の大月さんは黒田清輝が描いた絵のモデルになった人の家だと言う。切手にもなっていると言う。それで調べてみると切手になったものでは「湖畔」という絵である。彼の代表作となっていて、後に夫人となる23歳の女性を描いたものだという。ということは後になってこの夫人照子がここに住んだのだろうか。気になって一番街の大月さんに電話して聞いてみた。が、そこはよく分からない。彼女も調べておいてくれるという。

けれども、この「御殿山小路」に面したところにある「黒田」は黒田清輝との関係あると大村昭夫さんも言っていたことだ。

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2006年05月19日

下北沢X物語(593)〜荏原の里徒歩巡行(下)

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徒歩と自転車ではだいぶ違う。徒歩だと路傍の花がよく目に付く、青葉の臭いが鼻を刺激する。一番の違いは思考を深く巡らせることができるという点だ。自転車だとそうは行かない。裏通り中心のサイクリングだけに気が抜けない。「十字路」は最も危険な箇所である。

自転車に乗る場合の心得は、「人は自分にぶつかってくるものだ」と思うことだ。とくに路地の十字路は危ない。乗っている人は向こうから人がくるとは思っていない。左右を気にせずに平気で直進したり、曲がったりする。こちらが警戒しながら曲がっていくと案の定向こうから自転車に乗ったおばさんが、「ああああ」と言いながらぶつかってくる。まるで自分に吸い付けられるようにやってくるからたまらない。長年の経験から言えることは自転車に乗る場合はいつでも止められるようにしておくことだ。そのためには常に両手をブレーキにかけておくことだ。大きな事故に遭ってないのはそれを守ってきたからだと思っている。

自転車は走行する機械である。それに乗る場合にはたゆまない警戒が必要だ。ところが徒歩の場合はそれがない。その分、歩きながら考えられる。

代田「邪宗門」で一休みした後に文学の小路を歩いてみようと思いついた。北沢川沿いの散策だ。雨も折良く止んでいる。まずは鎌倉橋から鶴ヶ丘橋へと向かう。ここに完成した「せせらぎ」の流れは近隣の風景に趣をもたらした。なんといっても水である。

文学の書き手というものはいつも大きな負荷抱えている。文章をどう書くのかそれがずっと頭を悩ませる。文章も二行目までは読んでも三行目は読者は読まない。三行目を読んでもらうためにそれこそ血の滲むような努力をしないと作家としては生き残れない。それは常人以上の負荷である。ああだ、こうだと、書いたり消したり、それをやっているとその仕事は際限がない。机を離れての気晴らしは散歩が一番だ。

書いていて嫌になったら歩く。今の自分がそうだ。ライフワークに取りかかって調べたり、書いたりしている。資料があっちにもこっちにもある。部屋は散乱状態だ。そんな中にずっといると心が荒んでくる。そんなとき家を出て緑を見るとほっとする。水が流れていればもっとよい。

今自分が歩いている河畔で萩原朔太郎や斎籐茂吉や横光利一の普段着姿が見られたと言う。執筆による頭脳の疲れは風景のトンネルを潜ることで取れる。殊に水辺は懐かしい。川辺ラインを中心に彼らの姿が見られたというのも自然である。

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2006年05月18日

下北沢X物語(592)〜荏原の里徒歩巡行(上)

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放浪詩人種田山頭火の著名な句を借りて述べる。十五キロほどの徒歩行の感想である。
「分け入っても分け入っても白い交通白線」、都会漂流は道路に記された果てもない白線を追う旅である。

このところ雨が多い。昨日も今日も雨だった。自転車でのフィールドワークには不向きだ。が、この頃は歩くことを覚えた。これも一つの実地検証である。

明治期に起こった交通革命、これによる人々の意識の変化には前々から興味を持っている。徒歩や駕籠での旅が文明の利器に置き換わった。鉄道開通である。徒歩スピードから機械スピードへと変わって当時の人々は大きなカルチャーショックを受ける。

鉄道開業当初はそのスピード自体が信じられなかった。こんなに早く横浜に着くわけがない。乗客は横浜到着が信じられないで下車しようとしなかった。それほど大きな変化であった。鉄道の出現による劇的な時間の変化を西洋近代はこれを「時間と空間の抹殺」と称した。徒歩移動は古代時間であり、機械移動は近代時間であった。後者の時間にすっかり慣れ親しんだ身体、敢えて古代時間に戻って歩いてみる。

荏原の里徒歩巡行の小さな旅に出た。いつも自転車で通る道を歩いて行った。遊歩道の木々が強烈に臭う、まずその青臭いにおいが鼻を衝いてきた。初夏の息吹だ。歩行は小さな発見がある。木陰に白い小さな花が咲いている。思わず立ち止まる。人の家の庭をのぞき見る。菖蒲が咲いている。その陰に屋敷稲荷がある。それは自転車では気づかなかったことだ。

世田谷線太子堂四号踏切を渡る。そこに松葉菊が咲いている。が、いつもの元気さがない。そう言えば、この近辺にはところどころに薔薇が咲いているが、見栄えがしない。去年はいい写真が撮れた。今年の薔薇は全体に生気がない。花びらが黒ずんでいる。なぜだろうかと考えながら歩くうちに代田「邪宗門」にたどり着いた。

「そうそう今年は薔薇がよくないって、みな言いますね。色が悪くって、みんな腐ってしまうと言ってますね。ご自宅で咲いた薔薇を持って来てくださるのですけどね、ちょっとダメでしょう。」
邪宗門の奥さん貴久枝さんが薔薇の入ったポリバケツを持ってきた。そして、森茉莉の馴染みの机の上に置いた。(写真)見た目には豪華だが、よく見ると生気がない。このところ天気が悪い。日照不足である。

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2006年05月17日

下北沢X物語(591)〜北沢三丁目の「中村草田男」(中)〜

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凌霄(のうぜん)は妻戀ふ眞晝のシャンデリヤ 中村草田男 昭和十六年
「来し方行方」 定本中村草田男全句集 集英社 昭和四十二年

間もなくすればノウゼンが咲き始める(写真)。濃い朱のヒメヒオウギズイセン、薄い朱のノウゼンは夏到来を思わせる花である。ことに凌霄花は目立つ花だ。その名は「つるが木にまといつき天空を凌ぐほど高く登るところからついた」と言われる。鄙びていてそれでいてしっとりとした美しさがある。その路傍に咲いている凌霄花を見ていっそうに詩人は妻が思われたのだろうか。

句中に出てくる凌霄花、それが一番街「かどや」の脇を抜ける「北中通」のどこか咲いていたとしても不思議ではない。駅からの道をたどっていてこの通りの途中の家に朱色の花が咲いている。家も近くなったところで妻がいっそうに恋い慕われる。華麗ではなく鄙びた味わいがこの花にある。

先日、図書館でこの中村草田男の娘さんが書いた本をみつけた。その中にこういう一文があった。

母の実人生の吹き込むものを父が作品にしたところがずいぶんあるのではないか。母は父にすべてのエネルギーを吸い取られていたが、しかし、ある意味では、父の句は母との合作ではないか。父は母の点じた火で、大きく美しい花火をあげる「母の花火師」でもあったのではないかと思った。父の句には、父のリズムに乗っているが、母の心が歌われているものがたくさんある。

中村弓子「わが父草田男」みすず書房 1996年

凌霄花は中村草田男の目に映じた花だ、それを「妻戀ふ眞晝のシャンデリヤ」としたのは妻が点じていた火である。そういう機微を了解していて娘が「母の花火師」と言っているところは文学としての味わいがあると思った。

昭和十六年下北沢野屋敷に住んでいた中村草田男は土地の一角に咲いていた凌霄花を見たのだと思う。地霊は文学に影響を与える。それを作品の中に見出して楽しむ。するとなお面白くなる。

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2006年05月16日

下北沢X物語(590)〜昭和九年の下北沢の古地図を旅する〜

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昨日のことだ。下北沢一番街大月商店に立ち寄った。
「久しぶりだわねぇ、お手紙届いているわよ」
大月さんの娘さんが店番だった。彼女はすぐに大村昭夫さんに電話を入れくれた。資料を届けてくれた人だ。彼はすぐに自転車でやってきた。大月さんに自転車を託し、近くの喫茶店に二人で行った。そこ着いて、向かい合うと大村昭夫さんは一枚の地図を取り出して、わたしにくれた。地元の人で地域のことについて詳しい人だ。近隣に住んでいた主に理系の人の居住場所を調べていてくれた。ありがたいことだ。

「えっ、これって昭和九年の地図ですね。作製した月まで書いてある。二月だ。へぇっ、驚きだなぁ」
「北澤三丁目町會」が作製したその地図によると、自分たちが今いる喫茶店、往事は写真館となっていた。
「この回り近辺の一つ一つの路地にみんな名前がついている。スターバックスの前の通りが『南中通り』、萩原朔太郎の下北沢の家の前を通る道が『みたけ通り』っていうんだ」
その二つの路地が交差する角の喫茶店にいる。その『みたけ通り』はモスバーガーに抜けて、そして小田急東北沢5号踏切を突き抜ける。その手前に「長栄稲荷」と記してある。 美空ひばり映画、「大当たり三人娘」には線路脇のお稲荷さんが出てくる。ここの稲荷を背景にロケをしたのだと知った。知覚を地図が刺激する。その世界に浸ってしまった。

下北沢一番街大通りの南を新屋敷と呼び、北を野屋敷と称した。「屋敷」とつくのは薩摩藩の抱え屋敷があったところから来ている。
昭和九年の地図で目を瞠ったのは野屋敷の路地のほとんどに名称がついていることだ。まるで古い都があったかのようである。かつての繁栄を示しているのだろうか。折々通るその道は細い路地である。が、真っ直ぐに野屋敷を南北を貫いている。北には四本のヒマラヤ杉が聳え立っていていい目印である。(写真)緑の多い通りだ。これは「御殿山小路」と名づけられている。優雅な名前だ。薩摩藩抱え屋敷のど真ん中を突っ切る道だったのでそんな名前を付けたのだろうか。

「御殿山小路」の西隣の道は「北中通り」と付いている。一番街「かどや」に抜けていく道だ。中村草田男はこの通りに沿った地域に住んでいた。この「北中通り」を通って下
北沢駅に出ていたものと思われる。勤め先から帰途には、ふぃと「妻抱かな春晝の砂利踏みて歸る」と思いもした。通りの名が分かると物事が具体的になってくる。

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2006年05月15日

下北沢X物語(589)〜小田急軍用列車の記憶〜

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月日が折り重なると同時に荏原都市物語も集積されていく。エピソードがあれもこれも湧いてきて整理がつかない。これは記録しておかなければと思うことがよくある。けれども現実の時間が過ぎると、たちまちに忘れてしまってつぎのエピソードに心を奪われる。

先週、金曜日の夜、代々木上原の東京ジャーミーの前を通りかかった。夜空にすくっとそびえ立つ塔、そしてドーム状のモスクが灯りに照らされていた。ここは何度も通りかかった。けれども中には入ったことがない。去年、北澤八幡宮に宗派を超えて神々が集まった。「世界平和を祈るつどい」だ。今年はこの回教寺院が順番に当たっていると聞いた。
鉄道交点には宗教も参集してくる。代々木上原も交点外縁部にあたる。回教寺院や教会もある。なぜ集まるかというと、交通の利便性ということはある。丘に映える塔の尖端というのも魅力である。教会からこぼれ出る宗教音楽も谷を転げていく。その響きがいいのかもしれない。響き関連で言うとこの上原には「古賀政男音楽博物館」がある。丘上の誇りと音楽の響きの良さというのがあったのかもしれない。この一帯の土地は新宿至近であること、それと緑が多いということで邸宅も少なくなかった。

渋谷区で出している「語り継ごう 平和の尊さ」(渋谷区終戦50周年記念、平成8年、渋谷区教育委員会)を読み直していたらつぎの記述が見つかった。

上原の駅の周囲は終戦前に、強制疎開となって家々が十軒位壊されてしまった。これは火災になった場合に火災を大きくさせない為の処置であったが、その時になったら全然役に立たなかった。
代々木上原駅も、住人が減ったりで閉鎖になり、暫く代々木八幡まで歩いて、新宿に出る有様であった。
甲州街道も大変だったようで、罹災した人々が続々と西原とか大山の高台の焼けなかった邸に避難していた。戦後になると、これらの邸宅は進駐軍の接収となり、皆米軍将校が入っていた。駒場の前田侯爵の邸宅は、リッジウェイ大将の住まいになってしまった。
また、マッカーサーが厚木飛行場に下りて、小田急で東京に入ったが、線路の近所の人は電車を見てはいけないと忠告があり、皆家の中でジーッとしていた思い出がある。
「終戦の年の夜の代々木上原」 (上原在住) 三輪郁雄(六十七歳)

昭和二十年五月二十四、二十五日の山手大空襲のことが記されている。この代々木上原一帯はその空襲から免れた地域だ。とくに駅の北に位置する西原や大山一帯は丘上の一等地で邸宅が多かった。それらは標的から外されでもしたかのようにほとんどが焼け残った。戦後になって代々木練兵場に米軍は進駐してくる。ちょうどその近隣に位置する上原や大山の邸宅は将校用の住宅として接収された。戦後の占領を見越して米軍はこの一帯を爆撃から外していたのではないかと思われる。

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2006年05月14日

下北沢X物語(588)〜「ひまわり公園」のブランコの秘密〜

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一昨日、数日ぶりに代田「邪宗門」に寄った。近頃ここは情報のキーステーションである。「北沢川文化遺産保存の会」の事務局でもある。それゆえに近隣の情報がここに集まってくる。古い昔の写真が寄せられたり、また北沢川沿いの文学関係の情報が集まってきたりもしている。

マスターの作道さんはマジシャンである。が、この頃は文学に凝っているようだ。地元に住んでいる東盛太郎氏は店の前をよく通りかかる。
「この頃、店の中を覗くと作道さん、背を丸めていっつも本読んでいるようだよ」
前は訪れると一人でマジックの練習をしていることがあった。が、この頃はそういう姿は見られない。マジックの腕が落ちて、文学の腕を上げたのではないだろうか。
「年取ってこんなに本を読むとは思いませんでしたね。森茉莉がうちに通ってきていたんですけど、彼女の本なんか余りよんだことなかったですね。でも、文学の小路の話をするようになって、お客さんが色んなことを聞いてくるんですよ。お客さんの方がよく知っていて冷や汗かくことありますからね。説明する以上は知っておかなくちゃあね、それで今まで読んでいなかった本を読むようになったのですよ」
言われてみればそうだ。お店に入ったすぐ手前のコーナーにはいつの間にか文学の本が並んでいる。マジックの館は文学の館に装いを変えつつある。

ちょうど訪れていたときも地元に古くから住む人が来ていた。初めて「邪宗門」を訪れたようだ。当人は、代田二丁目の「ひまわり公園」のことを覚えていた。彼女にとって忘れがたい場所だったらしく克明に記憶しているようだった。公園の話は近所の人から何度も聞いた。けれども自分でもまだイメージがつかめないでいる。それで、「地図を書いてくれませんか」と頼んだらたちまちにボールペンを走らせ、白い紙が黒く埋まった。

「ひまわり公園」は萩原朔太郎の旧居のすぐそばにあった。朔太郎はこのことについて何も触れていない。が、娘の葉子は小説作品では度々触れている。

「将来、作家になることができたらここのことは必ず書こうと思っていましたけどね。それは果たせませんでしたけどね......でも、ここのことを萩原葉子さんが書いていると知って、『蕁麻の家』を読みました。なんだかどきどきしてしましました」
彼女から公園の話を聞いていると今はないその公園の当時の様子がありありと浮かんでくる。いわば子供にとっては極楽郷のような公園であった。スリルと冒険と恐怖に満ちていた所だ。丘の斜面にあるそれは段々畑風の公園であったようだ。

彼女の説明を聞いて、なるほどと思った。「ああ、そうだったんだ」と改めて思いもした。それでメモを取ろうとすると彼女は、「メモとっちゃうんですか?」と言う。自分が独占していた秘密を人に盗まれていくと言うような表情である。それでメモは控えた。

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2006年05月13日

下北沢X物語(587)〜北沢三丁目の「中村草田男」(上)〜

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妻抱かな春晝の砂利踏みて歸る
「火の島」 昭和十三年 定本中村草田男全句集 集英社 昭和42年

十七文字に書き記された物語を想像することは楽しい。

詩人は学校での仕事を早めに終えて帝都線で帰った。下北沢駅で降り我が家への道をたどる。坂を下って、一番街大通りを横切る。すると角の煙草屋「かどや」のわきからはまた坂だ。春昼の光に照らされた砂利道が続いている。人通りもなく靴だけが響く。つまずいて石をけ飛ばす。そのとたんに内に眠っていた動物が目覚める。「ああ、早く家に帰って妻を抱きたいものだ」、彼は妻の肢体を想像した。それで、歩を早めて北沢三丁目八九七の我が家を目指した。

十七文字の物語を膨らませてみた。彼が衝動的な思いに駆られたのは「かどや」の脇の坂ではないかと想像した。三丁目八九七番地へ帰るには好都合な道だ。駅からの道は「道了尊」九九九番地の裏を通って行く、これは一旦下がって、一番街大通りまで降りる。再び角の「かどや」からは上りとなる。中村草田男はこの道を通って八九七番地へ帰っていたと思われる。

道了尊裏手の下る坂は、萩原朔太郎が通っていた道である。朔太郎が住んでいたところはすぐ近く、一しろまるしろまる八番地だ、そこに昭和六年から八年まで住んでいた。愛煙家の彼は散歩がてら「かどや」まで敷島を買いに何度も来ていたと思われる。この坂は詩人が上り下りする坂である。

自分では中村草田男の「妻抱かな」の衝動が起こったところを「かどや」脇の九二三番地の坂としたがそれは真実を保証するものではない。もしかしたらそうだったかもしれないということだ。

中村草田男の下北沢の住まいを探している。彼の全集の年譜によるとつぎのように記されている。

昭和13年 37歳
8月 伊豆大島を訪い「火之島三日」の多作。世田ヶ谷下北沢に転居。ある友人のため金銭問題の累を及ぼされ、一年余も心労する。
中村草田男全集別巻 アルバム・資料 1991年発行 みすず書房

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2006年05月12日

下北沢X物語(586)〜奥沢二丁目の「海軍村」を訪ねて(下)〜

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土地は物を言う。その場所に行くとなるほどと腑に落ちることがある。

奥沢二丁目の「海軍村」は東西に流れる久品仏川の南手に位置する丘上にあった。特徴的ことは今も緑が多く残っていること、古くから住んでいる人が今もここに居住していることだ。かつての海軍軍人だった人の末裔が今に続いて住んでいるようだ。緑の残存はそのことと関連しているようだ。

この地域には「土と緑を守る会」がある。それは町中にあった掲示板で知った。ホームページも開いている。それによると次のようにある。

世田谷区風景づくり条例にもとづき、平成14年11月9日の公開選定会で、奥沢2丁目12〜22番にかけての道路が「大ケヤキのある散歩道」の名称のもと、風景資産として選定されました。 http://urbanecology.jp/tsuchimidori/

「土と緑を守る会」は「奥沢ミニ変遷史」をもホームページで紹介している。これによると、「戦前までの奥沢2丁目の敷地面積は一軒あたりだいたい200坪が標準でした」とある。相当な広さである。家を建て残った敷地には緑が植えられたのだろう。それが現在まで引き継がれて残されている。海軍村が踏襲してきた風景資産でもあろう。

その緑の中にとても興味深いものがある。「棕櫚である」、ヤシ科の常緑高木で、直立した幹の頂きに黄色い粟粒のような花を夏に咲かせる。「海軍村」の流行だったようだ。「奥沢ミニ変遷史」ではそのことについては、「当時は、シュロの木が一種の流行だったのか、よく植えられました。これも海軍が推進役を果たした"南進熱"の表れでしょうか?」と述べている。

海軍と陸軍には大きな戦略的な差異、軋轢があった。それがここに触れられる海軍の「南進熱」である。つまり、陸軍は「南守北進」、ソ連を攻めるという考えであった。一方の海軍は.「北守南進」、南方を攻めて支配するという戦略を主柱としていた。このことはよく知られたことである。

深沢二丁目の「海軍村」には棕櫚がよく植えられたと言う。ヤシ科の常緑高木は南方を想起させたのだろうか。

田中克己という詩人がいる。彼が昭和六年に作った句にこういうものがある。

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2006年05月11日

下北沢X物語(585)〜奥沢二丁目の「海軍村」を訪ねて(上)〜

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荏原の里には戦争の物語が至る所に転がっている。
東條由布子氏から「祖父東條英機『一切語るなかれ』」(文春文庫、2000年)を頂いて読んだ。そこにこうあった。

昭和十六年七月十八日第三次近衛内閣が誕生したが、引き続き祖父は陸軍大臣に任命された。日米和平工作も不調に終り、第三次近衛内閣はわずか三ヶ月で総辞職し祖父も陸軍大臣の職を引いた。
しかし、思いがけず「...時局極めて重大なる事態に直面せるものと思う。この際海陸軍はその協力を一層密にすることに留意せよ...」との勅命を受けた祖父は、昭和十六年十月十八日、近代政治史の中でも最も激動の時代に組閣した。

「陸海軍はその協力を一層密にすることに留意せよ」との勅命を受けて組閣したとある。陸軍と海軍とが密に連携を取って和平の道を探れという意味合いがあったようだ。が、結局は戦争への道を選んでしまった。

東條由布子氏は先の文に続けてこう述べている。

十二月六日深夜から七日にかけて、祖母たちは祖父の寝室から忍び泣きの声が洩れてくるのに気づいた。その声は次第に慟哭に変わっていった。祖母がそっと寝室を覗くと、祖父は蒲団に正座して泣いていた。
和平を希求される陛下の御心に心ならずも反する結果になり、宣戦布告をするに至った申し訳なさで身も心もちぎれる思いだったに違いない。慟哭の涙はとめどなく流れた。

陸海軍が緊密な共同歩調を取るように、そして開戦ではなく和平にもっていけという意を東條英機は受けていた。強力な指導性である。ところがその意に添うことができなかった。それが慟哭の涙だった。

東條英機は陸軍である。それでその多くが住んだ北沢の自宅での出来事だったと思っていた。が、東條由布子氏は「用賀の私邸でした」と教えてくれた。そこは武蔵野の舌状台地上にある日本家屋だった。西面する家からは夕冨士が綺麗でしたと由布子氏は言った。冨士の見える用賀の丘上での慟哭、それは用賀の丘上にいた宰相のエピソードである。陸軍と海軍の溝を埋めて和平に持っていく、それは至難だったのだろう。
「海軍村」という碑の存在を知って、そのことが想像力を肥え太らせる結果となった。海軍、陸軍、それぞれにムラ社会を構成していたのではないかと思った。二つのムラ社会を一本化するのは一筋縄ではいかないのだろうと。

去年、テレビ番組「サンデープロジェクト」に出演した東條由布子氏は司会の田原宗一郎氏のの質問、「何故戦争になったのだ?」という問いに答えていた。
「大きな戦争の流れがあってそれはもう祖父には止められなかったのでしょうね」
おおよそそんなこと述べていたことを覚えている。
その戦争は真珠湾奇襲ではじまった。海軍が開戦へのキーだったようだ。

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2006年05月10日

下北沢X物語(584)〜「北沢川文学の小路物語」ができるまで(2)〜

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武蔵野の丘がフラットだったらきっと日本の歴史も変わっていただろう。数千キロの荏原自転車巡行からそう思うようになった。

去年、馬込文士村を訪ねた。萩原朔太郎もここに住んでいた。その旧居跡にはそれを示す碑が建っていた。そのすぐ近くには宇治川の先陣で活躍した名馬摺墨の立派な石碑があった。この馬と対になる名馬の碑もひょんなことから見つけた。摺墨碑からさほど遠くないところにあることを知った。

代田に住んでいた三好達治は心筋梗塞で危篤に陥る。それで田園調布中央病院に運び込まれてそこで亡くなる。その病院を確認しに行ったことがある。その帰りにたまたま駒沢線高圧鉄塔にぶつかった。思いがけず鉄塔の番号が少ない、確かNO15番だったように覚えている。NO1は近いと思って高圧線に沿って南下した。すると池上線洗足池駅にたどり着いてしまった。近くには洗足池がある。池畔に千束八幡神社があって、名馬池月の碑があった。一帯は荏原馬の産地であった。この摺墨と池月が宇治川の先陣をつかさどったことはよく知られていることである。それによって、源義経軍は雪崩を打って京洛へ侵入していく、東国の馬が先鞭を切り開いた。平家は劣勢に陥って滅びてしまう。

自転車で荏原の里を走ると鍛えられる。丘の上り下りが筋肉を作る。馬も同じだったろう。武蔵野の丘陵を存分に走ることによってこの近辺の馬は脚力が鍛えられた。東国軍武士団の強さの一端はこういうところに表れている。丘での脚力鍛錬、それが頼朝側の勝因ともなったのではなかろうか。

駒場の丘陵地に、明治24年(1891年)に陸軍騎兵第一連隊の兵営ができた。その翌年に25年には近衛輜重兵大隊の兵営も設営された。そういった陸軍の施設ができたのも坂と無関係でないだろう。馬を訓練するのに丘陵は最適である。その点では摺墨、池月が鍛えられたのと同じである。詳しく調べてはいないが駒場近辺には坂馬場があって、そこで騎兵の馬、また、輜重を牽く六頭立ての馬の訓練が行われたと思われる。

それらのことは谷谷のフィールドワークによって分かったことである。武蔵野、荏原の谷には近代戦争の物語も数多く転がっている。世田谷の広大な諸軍事施設、その回りには色街があった。中里のカフェー街、渋谷円山花街などである。

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2006年05月09日

下北沢X物語(583)〜「北沢川文学の小路物語」ができるまで(1)〜

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「北沢川文学の小路物語」の冊子パンフレットが校了した。昨日その校正原稿のすべてをデザイン、レイアウト担当の東盛太郎氏に渡した。それで自分の仕事はやっと終わったという印象である。一冊の本を仕上げるよりも時間と労力がかかった。去年の終わり頃から始めていたことなのでほぼ半年ほどもかかっている。

「北沢川文化遺産保存の会」は昨年の暮れに発足した。近隣に凝縮されている昭和文学の痕跡を後世に残したいという思いからだ。そのもともとの機縁になったのがこのブログである。インターネットを介して、それもブログという簡易日記体裁の媒体を通してだ。それは極めて稀なことであろう。もちろん地元の人の強力なサポートがあってのことだ。

ネットを通してのふれあいと出会いは一編の物語である。ネットでの発信に人からの応答があった。それがきっかけとなってその場所を訪ねたり、また人に会ったりした、そういうプロセスを経て「文化遺産保存の会」ができていった。普段ではあるはずもないドラマである。

自転車とネットがきっかけとなったと言ってもよい。職場への行き帰りに自転車を使っていた。ペダル通勤はもう十四五年にもなる。片道十キロ、往復だと二十キロ、積算距離数でいえば相当なものである。この頃講演などがあるとそれを枕にする。サイクルコンピューターを手に持って説明をする。装備している機器は1万キロしか計測できない。9999,9のつぎは0にリセットされる。機器はアモーラルである。苦労して貯め込んだ距離を情け容赦なく零にしてしまう。聴き手はその非情さに同情してくれる。

距離計でのこの経験から一万キロ以上を計測できるメーターを欲しいと思った。それで自転車屋さんに聞いてみたところ、「そんなものはない」と一蹴された。度々リセット経験をするライダーはいないということである。

自転車での積算距離はどのくらいになるのか明確には分からない。「地球二三周はしている」と話すと聴き手は笑う。二周と三周では大違いである。四万キロの誤差である。けれども十万キロは走っている、と思う。その自転車でのフィールドワークは体感的に貴重であった。五感で覚えることの大事さである。嗅覚が季節を教えてくれる。路地を走っていて沈丁花が匂うと春である。木犀の香りは秋の深まりを知らせてくれる。

視覚も大切だ。目でも季節を知る。辛夷の白を見たり、彼岸花の赤を見つけたりしてその季節の到来を知る。今はもうバラである。昨日、駒沢鉄塔67号の下に赤い花が咲いていた。もうすぐすると緋色の花が咲くはずだ。この花を見ると夏の到来を思う。ヒメヒオウギズイセンだ。

視覚経験は地形を見るときに大事だと思う。坂の上で立ち止まって坂下全体を見る。すると土地の凹みが見える。小さな盆地である。自分ではそれをサラダボールと称している。地形を説明するときにこれを使う。代沢サラダボールとか代田サラダボールと呼んでいる。北沢川を底辺にして地形がボール状をなしている。陽当たりがよくて眺めもいい南面の丘は誉れだ。じめじめとしている底辺には貧乏が宿る。その湿気によって生まれた虫どもが居住者を恐怖に陥れることもある。淡島の森茉莉はその一人だ。

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2006年05月08日

下北沢X物語(582)〜代田代沢崖線ティーライン(下)〜

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代田代沢崖線ティーラインとは北沢川に沿う茶畑を言う。これは明治期の文化の先駆けである。これらの文化を今に踏襲するのが「齋田記念館」である。財団法人の名は「齋田茶文化振興財団」となっている。茶文化の振興である。財団設立の意図はつぎのようにパンフレットには記されている。

齋田家は茶との関わりが深く、茶に関する器具、文献等も多く残されていることから、これらの資料の保存・一般公開を行い、合わせて調査研究・研究助成等を行うことにより、わが国の茶文化の振興に寄与することを願い、平成六年、財団法人齋田茶文化振興財団が設立された。母体となる土地建物・美術品等は、齋田家十三代(先代)平太郎からの寄付によるものである。

齋田家は茶園を経営する傍ら、茶道関係の器物文献なども収集していた。茶畑は廃れてなくなった。が、残された資料は今日に残っていて、それを保存している記念館がある。今は、「数寄の終焉」というタイトルで展示が行われている。その案内の一節にこうある。

昭和十年前後になると益田純翁(1847〜1938)、高橋箒庵(1861〜1937)等が他界、茶湯界に君臨していた近代数寄者達は徐々に本流から外れて行きます。税制が変わる等経済的事情もありますが、数寄者の衰退は、取りも直さず自立的で個性的であった明治精神の衰退でした。帝国主義日本は、自由競争的なものを切り捨てファッショ化、第二次大戦へまっしぐらに向かっていきました。こうした時代の不気味な動きの高まりを見せたのが、家元の茶でした。

昭和十年頃における茶道の数寄者、それが衰退していった。それは自立的で個性的な明治精神の衰退とも繋がると言う。代田の片隅で密かに調査研究されていることの一端がこういう文章に見えることがとても興味深い。

昭和十年頃は下北沢で文学が大きく勃興してくる時期である。文学を志した青年たちがここに集まって小説を、詩を議論した。それは一種の数寄者である。数寄というのは文学が語源である。鴨長明の「無明抄」は鎌倉時代に成立した歌論だ。ここに出てくる登蓮法師はその代表例だ。とある雨の日、歌人仲間が議論しているときに歌語である「ますほの薄」の謂われを知っている人がいるという話が出た。登蓮はそのことを聞いて即座に席を立ってそれを確かめに行った。それで彼は「いみじかりけるすき物かな」と評された。歌語への強い好奇心を凝縮して言ったのが数寄である。

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2006年05月07日

下北沢X物語(581)〜代田代沢崖線ティーライン(中)〜

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北沢川に沿った代田、代沢というティーラインは地域文化を育んだ。この茶の文化を今に伝えるのが「齋田記念館」である。今は平成18年度企画展として「館蔵『茶書の歴史』VIII 『数寄の終焉〜昭和・戦前〜』」というテーマで7月24日(月)までこれが開催されている。世に余り知られることのない地味な記念館である。

現在の代田二丁目の丘の上で作られていた荏原茶はその品質が良かった。それでオランダアムステルダムで開かれた万国博覧会において栄えある金賞を受賞している。明治十六年ことだ。けれどもこの辺り一帯の茶畑はそう長くは続かなかった。明治二十二年東海道本線が全通すると大量に宇治茶が西から運ばれるようになった。それによって荏原茶は急速に衰退する。鉄道によって茶畑は次第に潰れていった。とともに茶文化も衰退する。

鉄道による茶生産の衰退。それは下北沢鉄道交点が形成される前の鉄道前史である。代田代沢北沢の町の衰退と勃興が鉄道と密接に結びついているところが興味深いところだ。
昭和二年小田急が、昭和八年井の頭線(帝都電鉄)が開通することで地域は、これによって大きく変貌する。新宿渋谷に近い郊外ということで人々が集中し町は急速に人口が増えていった。茶畑は住宅地に転用された。丘上で日当たりがいい、眺めがいい地点は住むのに好都合だった。

小田急線と井の頭線が交差する下北沢は鉄道の町である。鉄道因縁の町だとも言える。近隣の茶産業を衰退させた鉄道。そして、クロスした鉄道が今度は人間をこの地域に集めた。そのことで新しい文化がここに形成された。

文学も文化である。多くの人を集めた中で文学執筆者も集中した。
先日、その一人である田村泰次郎の娘さんに会って話を聞いた。そのときに荻窪からこに地域、代沢に転居してきた理由を二つ述べていた。交通の利便性と眺望の良さである。伺ったときお宅の二階の窓からは対岸の丘がよく見えた。そこには三軒茶屋のキャロットタワーがそびえ立っていた。

「肉体の門」を書いたことで一躍有名になった田村泰次郎であった。が、代沢では健康を害していて付近を散歩することはなかったと言う。田村泰次郎の家は代沢二丁目の丘の中腹にあった。その丘の上に居たのは横光利一である。田村泰次郎の奥さんによるとこの横光利一と彼は親交があったと言う。

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2006年05月06日

下北沢X物語(580)〜自転車での都会彷徨(上)〜

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ペダルを漕いでの自分の街探索を都会漂流だと形容した。自分なりの発見だと思っていた。が、萩原朔太郎がアラン・ポーの小説「都会彷徨者」を紹介している一文に出会って、同類は案外に多いものだと思った。自分の日々の姿とあまりにもよく符合するので、そこを引用する。本来は原文通りが望ましいのだろうが旧漢字を全部探し出すエネルギーに欠いている。やむを得ず新漢字にした。

アラン・ポーの小説に「都会彷徨者」といふのがあるが、今の東京市中を彷徨してゐる群衆の姿が、正によくそれに似てゐる。ポオはその小説で、ある風変わりな奇妙な男を、町の一角に発見して、終日彼に尾行しながらその行動を写してゐる。一見失職者のやうな様子をした、その見すぼらしい中年の男は、尾行者があることも知らず、終日繁華な市街を歩き廻ってゐる。かれはいつもきょときょと(きょときょとに傍点がある)して、犯罪人か何かのやうに落ち着かない足取りをして歩きながら町の飾窓を順々に覗いて見たり、飲食店の前に立ってみたり、劇場の看板を眺めたり、或いは停車場の待合室に這入つたり、勧工場中を素通りしたする。彼は何も買い物するのでもなく、何を見物するのでもなく、また何の目的があるのでもなく、ただ終日、かうして都会の街々を歩き廻つてゐるのである。 「東京風景」萩原朔太郎全集十一巻 筑摩書房 昭和五十二年

この文章の初出は「新潮」昭和十五年一月号である。ということは萩原朔太郎の代田居住時代のことである。

人は記述を自分に引きつけて読むものだ。荏原の里、この頃では豊島の里まで侵入してさまよっている。そういう自分を客観化して考えたことはない。けれども、他者からすれば自分は「ある風変わりな奇妙な男」に見えるであろう。

自転車に乗ったやつだ。デニムの帽子、デニムのズボン、背にはバック、首にはデジカメを下げている。「一見失職者のやうな」は当たっている。平日の昼間っから町中をさまっているからだ。自転車で徘徊しながら「きょときょと」はする。ことに十字路などでは左右をよく見る。こんもりと茂った森があると、そこに引き寄せられるように行く。たいがいそんなところには神社がある。拝殿での参拝はめったにしない。彼の好みは境内の片隅だ。「日露戦没者慰霊碑」とか「忠魂碑」を眺める。そして、赤い鳥居があろうものなら小躍りする。あったのは「出世稲荷社」である。

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2006年05月05日

下北沢X物語(579)〜代田代沢崖線ティーライン(上)〜

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「清風園はやはり茶園だったみたいですよ」
廣島文武氏は、昨日そう教えてくれた。
渋谷世田谷区域で住宅地で園と名のつくところ少ない。そこは高級住宅地でも一級飛び抜けたところだ。渋谷の松濤園、大山園、世田谷代沢の清風園である。松濤園はかつて茶畑であった。後の二つも茶畑だったのではないかと推察していた。

清風園は現在の代沢二丁目あたりのことを言う。ここに居を構えていた横光利一が作品の中で自宅の隣が茶畑だったと記している。そのことから清風園という名も茶畑からきているのではないかと思っていた。その疑問に対する廣島氏の答えはそれを裏づけるものだ。

明治政府の殖産振興政策で渋谷や世田谷の丘では茶園が各所で開かれた。けれども明治二十二年になって東海道線が開通すると宇治茶が大量に鉄道で運び込まれるようになる。それでこの地域の茶園は急速に衰退していった。

横光利一が北沢(現、代沢二丁目)の丘に家を新築して移ってきたのは昭和三年である。そのとき残っていた茶畑は隆盛時の名残である。自家茶園であろう。

代田、代沢の北沢川北岸斜面にはかつては大規模な茶畑があった。ことに代田二丁目のほとんどを占める大齋田家の茶園経営は本格的であった。それは世田谷区指定有形文化財「齋田家茶業史料」として分厚い資料になって今日に残されている。そこには齋田家がなぜ茶園経営に乗り出したかも記されている。

元来余カ代田村ハ皇城ヲ隔ツル二里余僻陬ノ地ニシテ水田少ク畑多キモ穀菜以テ労費ヲ償フニ足ラズ、故ニ自然荒蕪二属シ一家数口ノ資二苦ムモノ茲ニ年アリ......
明治二十三年 第三回内国勧業博覧会解説書 「齋田家茶業史料」

代田村は都心から隔たった僻地である。水田が少なく畑が多いけれどもそこから獲れる穀物や野菜類で労賃をまかなうことはできない。それで土地は放置されたままで荒れるにまかせていた。それで一家が糊口をしのぐのは大変だった。

おおよそ言わんとしていることを書き記してみた。ここには代田地域のことを書き記してある。けれども隣接する代沢地区も大差なかったように思われる。人の口を多く養える水田面積が代田代沢地区は少ない。丘陵地帯は畑地であったが、生産性は高くない。だから家族が食べる分の蔬菜をそこで作ってあとは放置していたということだろう。

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2006年05月04日

下北沢X物語(578)〜代々木八幡の丘とワシントンハイツの丘(5)〜

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「子供の頃、ワシントンハイツはよく行きましたね。正門には日本人の警備員がいて中には絶対入れてくれませんでした。それでわたしたちは金網の破れ目から入っていきました。そうすると中はカマボコ兵舎がずらりと並んでいましてね、そこに黒い肌とか、白い肌の兵隊がたむろしているのですよ。彼らはぼくらを見ると『ヘェィ!』とか言って手招きするんですよ。行くとガムとかチョコレートをくれましたね。それでいっしょに遊んでくれましたよね」
昨日、訪れた紀伊国屋酒店の岡本さんはそう話してくれた。
そのかつてのワシントンハイツの中を歩いた。林の中にはカマボコ兵舎の代わりに青テントがいくつもあった。代々木公園はホームレスのたまり場となっている。

連休中で広場には若い人が大勢いてゲームをしたり、追いかけっこをしたりしている。新緑を背景とした彼らの表情がまぶしい。生命力が横溢しているようにも思った。その彼らを横目にして森の中に目を凝らした。この間うちから探し回っているがそれがない。

「十四烈士自刃の処」である。昭和二十年八月二十五日、大東塾の十四名がこの代々木練兵場の一角で自刃して果てた。その碑があるはずだがみつからない。史跡案内図によるとサイクリングコースステーションのすぐ近くあることになっている。それで、そこの係員に聞いてみた。が、彼は知らない。壁に貼ってある地図を見てくれと言う。

指し示された園内図をみたがそこに碑はない。変だなぁと思って見ていると大きな男がやってきてそれをのぞき込む。外国人だ。が、日本語は話せる。彼が自分は今どこにいるのだと聞いた。サイクリングステーションを指すとうなずいた。けれども彼はなぜか怒っている。
「明治神宮に行こうと思っていたんですよ。」
彼は神宮で演奏会があるからそこに行きたい。が、この公園に入ってしまったと言う。明治神宮と代々木公園は隣り合わせている。彼は当然連絡通路があるはずだと思って境界をずっと辿ってきたようだ。その境界は長い。その分余計に腹を立てたようだ。
「この地点まで戻ると、明治神宮はすぐですよ」
わたしは地図を指さして説明した。
「ああ、そこはわたしが入ってきたところです、そこまで戻るつもりはありません」
依然として彼の怒りは解けない。連絡通路がないということに彼はひどく深い憤りを感じていた。

自分でもその境目部分は歩いて通ってきた。森の中にずっと鉄の柵は続いていた。かなり高い柵だ。人を寄せ付けようとしない頑丈なものだった。彼に言われてその塀が拒絶的なものであったことに気づいた。

彼がどこの国の者であるのか分からない。けれども神社と公園の間に通り抜け通路がないことが許せないことに彼は思っている。

代々木公園はオープンである。その反対に明治神宮は閉鎖的である。多分彼の住んでいる国の公共施設、宗教施設もオープンなのだろう。そういうところで過ごしてきた彼からすればこの境界の閉鎖性は憤るに値するものだった。実際彼は顔を赤くするほどに怒っていた。

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2006年05月03日

下北沢X物語(577)〜代々木八幡の丘とワシントンハイツの丘(4)〜

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代々木八幡の丘とワシントンハイツの丘の間には谷間がある。その間を流れていたのが河骨川である。今日はその川を遡った。「春の小川」ゆかりの川である。

「ええっとね、河骨川ね、このずっと先の山之内さんという家があるんですよ。確かね山之内一豊の末裔ですよ。そこの家の庭に池がありましてね。そこから流れていたのが河骨川ですよ」
この頃折々行くようになった。代々木一丁目の紀伊國屋酒店である。そこの主人岡本國男さんはそう教えてくれた。
「そうそう、高野辰之さんはその河骨川を下っていきましたね。代々木公園の近くに『春の小川』の石碑が建っていますから。」
帰りにそこに寄った。(写真)高野辰之は代々木山谷に住んでいて、近辺を散策した。そして、水辺に「こうほね」の咲くのどかな小川の様子を眺めて童謡「春の小川」を作詩した。
「春の小川は/さらさら流る/岸のすみれや/れんげの花に/にほひめでたく/色うつくしく/咲けよ咲けよと/ささやく如く」という歌詞である。この歌碑が小田急線そばの代々木五丁目六十五番地に建っていた。

谷間の小川ののどけさはもうすっかり過去のものとなってしまった。小川の代わりに小田急の電車がそばを流れていく。

時代の変転とともにこの谷の丘は大きな変貌を遂げていく。ことに河骨川の東の変貌が著しい。代々木練兵場である。明治四十二年、この地に住んでいた住民は泣く泣く土地を手放した。それが代々木八幡宮の「訣別の碑」であった。

「春の小川」の歌碑を見た後、代々木公園に行った。連休中で大勢の人が園内を行き来していた。

明治四十二年にこの一帯は国立競技場の地を含めて陸軍の練兵場となった。そうなると騎兵は馬でかけまわり、工兵は至るところに穴を掘り連日鳴り響く空砲の音は渋谷の空にとどろき、かつての草原は軍靴で踏みにじられ、しだいに赤土がむきだしになっていった。北原白秋はこの練兵場についてつぎのように詠っている。

代々木練兵場明らけく明し若葉どき
上下八方にとどろく物音
砲軍駃る夏野の日のさかり
遠ざかり遠ざかり立つ後埃
東京史跡ガイド13 渋谷区史跡散歩 学生社 佐藤昇 1992

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2006年05月02日

下北沢X物語(576)〜代々木八幡の丘とワシントンハイツの丘(3)〜

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代々木八幡は舌状台地の高台の突端にある。丘下は谷である。その丘裾の東を河骨川、西を宇田川が洗っていた。大昔はこの谷に東京湾の潮が流れ込んでいたと言う。かつて大昔、代々木八幡の台地は岬の突端だった。そこは土台、地盤としては安定している。古代人にとっても住むのに都合よかったのだろう。神社境内には縄文時代の遺跡があって、復元された住居が一棟建っている。またここで出土したものも展示されている。

神社の隣は福泉寺である。ここには幕末の剣豪、斎籐弥九郎の墓がある。彼の門下生には木戸孝允や高杉晋作も居たという。その墓地から東を眺めた。

林立する墓石や卒塔婆の陰影、その向こうには谷を隔てて代々木公園の新緑が輝いている。芽吹き始めたばかりの欅の枝、その上に巨大な銀色の筒状の建物が見える。遙か丘向こうの六本木ヒルズタワーである。(写真)手前の近景から遠景へ、歴史を自分は目で眺めているように思った。

第一地点は自分が立っている地点だ。古代の遺跡がある。鎌倉時代創建の代々木八幡神社がある。幕末の剣客の墓がある。代々木練兵場ができるということで土地を手放さざるを得なかった農民の「訣別の碑」もある。そして、谷一つ隔てた丘には代々木公園がある。国軍の訓練の場としての代々木練兵場、進駐軍の駐留地としてのワシントンハイツ、世界から東京五輪へ集まった選手の宿舎としての地、それらの歴史を経て今日の代々木公園となった。谷一つ隔てての古代から近代への歴史である。そして、今という時代を象徴する六本木ヒルズタワーである。

武蔵野の丘に存在した経過の歴史、それを巨大な銀色の棒が串刺しにしているようでもある。歴史の経緯を経て築き上げられた近代の楼閣である。突出した意志のようでもある。辺りを睥睨してそれは建っている。存在の誇示である。

そんなことを思っていると丘の下から電車のホィッスルが聞こえてきた。小田急線が走っている。自分が立っている舌状台地の縁をなぞるように線路は回り込んで走っている。

地図上で見ると新宿を出た小田急線は小田原目指して西南に向かう。ところが参宮橋駅あたりからはもう真南に走っていく。そして、代々木八幡の舌状台地をU字形に回り込んで西北西を向く。そして代々木上原からはようやっと本来の方向、西南を向く。

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2006年05月01日

下北沢X物語(575)〜代々木八幡の丘とワシントンハイツの丘(2)〜

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代々木の谷に行くきっかけは萩原朔太郎からだった。彼は小田急線山谷駅の知人の家によく行っていたようだ。ところがその駅はもういまはない。どこにあったのか調べにいった。すると思いがけず旧山谷駅の近くに田山花袋が住んでいたことが分かった。自然主義文学の巨匠だ。調べると彼には「東京の三十年」(岩波文庫)という著書がある。武蔵野の変化が分かるかもしれないと思ってその本を読んだ。するとそこに渋谷に住んでいる国木田独歩を花袋が訪ねていく場面があった。その旧居跡は標が建っていることも知った。

心がはやった、すぐにその旧居跡を訪ねた。行くと木碑が建っていた。場所は渋谷の陸軍刑務所(現、区役所)のそばだった。武蔵野の原風景はこの近辺にあったことは驚きであった。そんなことからこの頃では渋谷や代々木の谷をさまようようになっていた。

そうしているうちに代々木八幡宮に行き当たった。武蔵野の舌状台地の上に築かれた神社だ。鎌倉時代に創建されたという。その隣は福泉寺という古刹だ。その墓地から東を眺めると対岸の丘が見える。代々木公園である。こちらの丘と向こうの丘との間は深い谷だ。その間には宇田川支流の河骨川が流れていた。

その川を挟んでの谷、こちらは神社と寺だ。その向こうは緑深い代々木公園、かつての代々木練兵場であり、ワシントンハイツであった。こちらの丘ともう一方の丘、それぞれに近現代の歴史がひっそりと刻まれていた。

代々木八幡宮の参道を拝殿に向かって歩いていくと一対の大きな燈籠が見えてくる。左側の燈籠に説明版がある。「訣別の碑」とあるそれを読んで心衝かれる思いがした。つぎのような文章である。

この一対の燈籠は、明治四十二年、代々木の原(現在の代々木公園)に陸軍練兵場が設けられたとき、移転を余儀なくされた住民がこの地との別れを惜しんで奉納したものである。
訣別の言葉は竿石部分にあり、拝殿に向かって左側には「大字代々木深町ハ明治四十年十一月十一日陸軍練兵場ニ指定セラレタリ、常ニ一家ノ如クナル温情深キ住民ハ区々ニ移転スルノ際」・続けて右側には「各々其ノ別ルルヲ惜ミ又字ノ消サラン事ヲ思ヒ、茲ニ燈ヲ納メテ之ヲ紀念トス 明治四十二年一月建設 良曠拝書」とあり、この下段に奉納者の十七名の名前が刻まれている。

武蔵野の谷の大きな丘のうねりの一つに平和な村があった。代々木深町である。周辺は緑の木々の生い茂る地帯だった。楢、櫟、欅が丘の丘の波線に沿って彩りを添えていた。国木田独歩が目にした武蔵野の一情景でもあった。木々の間には農民たちが開墾した畑があった。彼らは先祖伝来のその土地で麦や陸稲を栽培していた。それと野菜を作っていた。それは近くの町の市場に荷車で運んで僅かばかりの現金を得ていた。かつかつの生活をそこで送っていた。

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