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2012年09月

2012年09月30日

下北沢X新聞(2173)〜書評3 『鉛筆部隊と特攻隊』〜

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(一)
自身が書いたものは他者から見るとどう見えるのか。書き手である以上、この点は最も知りたいことである。とくには書評が出れば嬉しい。

書評も文学だ。書き手独自の見方考え方を示しつつ、読者を書物世界に引き込む、こればかりか、本を書いた本人も、これを通して発見をしたり、学んだりすることが多い。

9月23日、『鉛筆部隊と特攻隊』が『朝日新聞』書評欄で取り上げられた。このことの情報はあらかじめ知らされていた。出版社の方から、アサヒブックコムのホームページ情報が伝えられた。早速に開いた、片隅に「次回の読書面」という案内がある。そこを開くと、自著が出てきた。しかし、但し書きがあって、「掲載書籍は変更されることもあります。ご了承ください。」と記されていた。

人間心理は闇だ。これを読み流せばなんのこともない。ところが、何か不都合があって載せられないのではないか?と疑念が湧いてくる。日曜日まで数日あったが、気を揉むばかりで落ち着かなかった。

当日、朝の五時前、新聞配達の人の足音がして、ポストがカタリと鳴った。急いでそれを取りに行き、薄暗い玄関で、朝刊のページをめくった。あった!。載っていることを確認して安堵したことだ。

「六十七年前のこの交流を現代の目で再現、活字にしておこうというのが本書の狙いだ。」 評者は鋭い切れ込みをしてきた。私自身、単なる過去の戦争物語としては書かなかった。

私は、現象や事象を今という時間に引きつけて考える。過去のことを今眼前で起こったように話す癖がある。折々、あたかもその場にいたように話すと評されることがある。

六十七年前の話である。が、私の中には往事が生きている。富貴之湯にいた秋元佳子さんが、ゼロ戦に乗った特攻兵士が桜をバンドに翳すという件を読んで思い出したという。
「きらら飛行機に菜の花挿して空は男の行くところ...」
富貴之湯の大広間の壮行会で歌ったという。右の拳を上げて彼らは、居並ぶ疎開学童の女児の前で歌った。一言聞いてその場面がリアルに思い出された。続きを読む

2012年09月28日

下北沢X新聞(2172)〜風景と言葉と鉄塔〜

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(一)
私たちは言葉で捉えられた仮の世界、あたかもそのように考えられるという虚構、を真実と考えて日々暮らしている。

「あら、風邪引いたのそれはいけないはね、ちゃんと薬は飲まないと、病院には行っているの、きちんと食べるものを食べないと......」
風邪気味の声で話す相手と電話で長々としゃべったという。オレオレ詐欺だと分かっていての応答だったそうだ。向こうも途中で気づいて電話を切ったという。こちらもよく知っている会の仲間、彼女がそんなやりとりをしたというので笑ってしまった。

オレオレ詐欺の手口は分かっているはずだが依然としてその被害は続いている。「オレオレ世界」につい引き込まれて言われた通りに、金を振り込んでしまう。手口は、息子のようになりすまして人を騙す。

人は我執の動物だ。自分の中に自分世界を築いている。基準となるものは言葉だ。自分でこうだとすっかり思い込んでいる場合がある。耳慣れぬ言葉であっても、少しでも似ていれば、思い込みが増幅されることがある。敵も然る者、そこを巧みに衝いてくる。

商品宣伝も人の先入観を攻めてくる。BSローカルテレビはサプリメントの効用を延々と流している。そういえば、その症状はあてはまる、それが改善されるのなら買ってみようか。そう思っていると、つぎの商品の宣伝、これも当てはまる、そして、またつぎも心当たりがある。全部買わないと長生きできないかもしれない?。

私たちは言葉に弱い。いつもいく魚屋の主人の口癖は、「それはおいしいよ」だ。ものを手に取ってみていると声をかけてくる。すると、とたんにおいしく思えてくる。よく思えば、よく思えてくる。

物そのものは単なるものだ。が、人が、それを「いいものだ」と誉めると、いいものに思えてくる。結局言葉は色合いである。たいした分析力もなく我々は、ひょろひょろとこれを信じて生きている。続きを読む

2012年09月27日

下北沢X新聞(2171)〜建築と環境:今井兼次展IVから2〜

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(一)
未知なるものへの絶えざる憧憬を抱いて旅を続ける。ジプシーが歌劇で歌っていた一節を思い起こす。「金銀財宝は山のあなたにあるんだよ」と。遥か彼方への希望だ。ところが、私たちは山の向こうに財宝はもうないことを知ってしまった。多くの資源は掘り尽くされ枯渇しようとしている。それとともに浪漫や夢をも失いつつある。

9月22日、今井兼次展IVではイベントがあった。講演会である。盛況であった。ぎっしりと埋まった会場には補助椅子まで持ち出された。多くが男性だ。ほとんどが白髪頭である。兼次建築への共鳴者が老齢化していることを物語るものだ。

自身を含め、小学生時代に夢を持った人に違いない。世界は遥か向こうにあった。かつてたった一枚の外国の切手を手に入れてドキドキした覚えがある。

「ああ、行った行った。遠足のときは必ず行ったもんだ。何かね、小さな外国に行ったような気がしたなあ。一つ一つの建物が皆違うんだよね。オランダの風車なんて人気だった。あそこではみんなすぐそばまで行って羽を見上げたな」
きむらたかし氏が、ユネスコ村に遠足で行ったときの写真を送ってこられた。小学生の多くが風車を指さして見上げている。懐かしさがこみ上げてきた。当時の思い出を、自分で想像したことだ。

今回の今井兼次展、第一室がユネスコ村の展示だった。
「へぇ、ユネスコ村って今井兼次だったんだ」
一緒に行った誰もが驚いていた。遠足といえばここだった。戦後復興期に小学生に夢を与えたものだった。

兼次は「建築創作論」で、「『村』は人間生活の重要要素である部屋を母体とする家の集合」だと述べる。そしてこう続ける。

ユネスコ村はこのように尊い人生の意義を考えて世界の国々の家が建てられ、なお世界の平和を請い願う象徴として、日本の土地に最初に造られたものであります。

この文章は小学生への語りかけとして書かれている。子どもに世界と、そして、平和とを考えてほしい、夢を託して造ったものだ。一つ一つの建物は兼次自身が、丁寧に設計図を引いている。手抜きがない。
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2012年09月25日

下北沢X新聞(2170)〜建築と環境:今井兼次展IVから〜

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(一)
時代は烈しくかつ大きく変転している。近隣、街中の個人商店がどんどんと店を畳んでいる。店じまい、そして、学校じまいも。

先だって知人から聞いた話だが、下北沢近辺の小学校の統合が考えられているという。鉄道交点周辺に順次学校が開設されていくプロセス、それは街の進歩発展の歴史だった。人口減少時代を迎えた今、学校閉校物語を語らなくてはいけなくなった。都市は急速に衰えをみせ始めている。

ゆとりが失われつつある時代だ。実際、愛すらもしぼみつつある。結婚しようにもできない。子どもを育てていくだけの資力を稼ぐのが大変になってきている。

グローバルスタンダードはすべてを平準化することである。その場合のものさしは金である。なんぼ儲かるかということだ。そうなると愛は薄れていく。他者を顧みる余裕はない。自分ところさえよければ後はどうでもいいということになる。

今井兼次の建築を語るとき、彼の芸術が語られる。一語で言えば、それは愛である。単に建築物だけを考えないということだ。周りの環境を広く考えた上で構造物を考える。大多喜町役場は好例だ。

私は日頃から絵画・彫刻などを母なる建築に総合して統一化をはかるようにしているので、この新庁舎の各所に私なりにコンクリート彫刻や陶片モザイク、あるいは木梁面の紋様などをデザインし、それらのモチーフには大多喜町にゆかりのあるものを象徴的に織り込んでみた。 『今井兼次 建築創作論』 鹿島出版会

建物を単体で考えない。まわりの環境を考えた上で設計する。歴史、風土、地勢なども深く勘案した上で設計する。土地への愛と言い換えられる。

「今井兼次展IV」のイベントでは講演があった。早稲田大学教授の古谷誠章先生の話を聞いてなるほどと思った。建築科の学生には大多喜町役場の矩計図(かなばかりず)を必ず描かせるという話だった。これによって建物の隠れた特徴や仕様が確認できるという。図を描くことで愛を発見する。今井兼次の建築物は今も重要な教材である。
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2012年09月24日

下北沢X新聞(2169)〜今井兼次と萩原朔太郎〜

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(一)
建築家とはアイストップと闘う人であると思う。人の視線を想像し、それをどう惹き付けるかということに絶えず努力する者である。多摩美術大学美術館で開かれた「今井兼次の世界IV」を見て、そう考えた。

今井兼次の作品で惹き付けられるのは、彼の線描である。詩人の場合は、絶えず書くことでイメージを造形していく。今井兼次の場合もそうだったと思われる。片時も鉛筆を止めることなくイメージに浮かぶ形を描いた。例えば、今手許にある展覧会カタログをめくってみる。すると「ケルン大聖堂の遠望」のコンテが目につく。「ライン河船上にて」とあって、移り行く風景を短時間で描いている。建物の陰影もさることながら、一番感心するのは空気感である。累積された歴史時間まで含めて描かれている。人の目を留めるスケッチだ。

前々から先入観を持っていたことがある。ある詩人は今井兼次設計の家に目を留めた違いないと。萩原朔太郎である。世田谷代田在住時代に描いた『猫町』という小説がある。副題に「散文詩風な小説」とある。幻想空間をゆくプロセスを描いたものだ。

私は道に迷って困惑しながら、当推量で見当をつけ、家の方へ帰ろうとして道を急いだ。そして樹木の多い郊外の屋敷町を、幾度かぐるぐる廻ったあとで、ふと或る賑にぎやかな往来へ出た。

これまで全く見たこともない「美しい町」に彼は遭遇する。ところがそれは「気が付いて見れば、それは私のよく知っている、近所の詰らない、ありふれた郊外の町」であった。

当時、同じ時代の空気の中で、今井兼次も萩原朔太郎も生きていた。前者は彼のアトリエで日々線描に余念がなかった。その彼の家の側の御殿山小路を常々散歩していたのは萩原朔太郎である。歩きながら言描に耽っていた。

小説は仮構世界を描いたもので無理に現実に当て嵌めることはない。が、そうしてならないというものでもない。

代田空間を出発点として、彼は短時間の小旅行をした。このときに遭遇したことを描いている。現実に当て嵌めると、「ありふれた郊外の町」は下北沢である。詩人は居住していた町でよく知っている。今井兼次邸からはほど遠くないところに住んでいた。ゆえに自身は妄想を逞しくしている。『猫町』で描かれる「樹木の多い郊外の屋敷町」は、今井兼次が居住していた下北沢野屋敷に違いないと。続きを読む

2012年09月22日

下北沢X新聞(2168)〜歴史的駅写真の発見2〜

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(一)鉄道敷設ついての考えの違い?

鉄道が今日を切り開いたことは紛れもない事実だ。鉄道網が整うことによって古代的交通体系は崩壊してしまう。歩く旅から乗る旅への変化は衝撃的なものであった。今となっては信じられないことだが、自らが動いていく機械は怪物として人々に怖れられていた。

この導入、表日本と裏日本とでは大きな差があったにように思う。前者は常に進取性に富んでいた。が、後者は旧弊であったといえる。

泉鏡花は北陸金沢出身だ。彼は、北陸線の敷設を背景とした小説を描いている。『風流線』」である。これには作者自身の鉄道観が描かれている。

山は崩す、水は濁す、犬猫は取つて喰ふ、草は枯す、石は飛ばす、取分けて目指されるのが、眉目形の勝れた婦人じゃ。 「鏡花全集第八」

村夫子の述べる社会変化である。この原因は鉄道敷設である。谷を削り、山を壊す。自然と水は汚れる。鉄道工事による自然破壊、のみならず道徳観が壊れていく。一つの文明批評である。

工事が進捗すれば次第に線路がずっと延びていく。「何と可恐い、二條の鐵の線は、ずるずると這ひ込んで、最もそれ、昨日一昨日あたりから此の川上で舌なめづり」とも形容する。二本の線路はまるで怪物の蛇のようである。先端から赤い舌を出し、舌なめづりをしながら古都金沢を襲ってくる。

鉄道は、破壊の象徴だというとらえ方は日本では少ない。この辺りも興味深い。この一帯の伝統文化の古さを背景としているのかもしれない。濃厚なそれを抱えた地域であったゆえに新しいものの出現は恐怖であった。

博多駅の建築に携わった谷内他二郎は金沢出身であった。この彼は谷内家への入り婿であるが、金沢で代々宮大工をしていた家に生まれている。

金沢の工芸伝統を引き継いでいた。細かい経緯はわからない。しかし、上京し教育を受け逓信省に入ったようだ。建築士をしていたと言われる。
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2012年09月21日

下北沢X新聞(2167)〜歴史的記録写真の発見〜

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(一)家に送られてきた古写真

ネットによる発信が徐々に浸透している。情報ばかりではなく物すらも集まってくる。一昨日、荷物が届いた。画板状のものである。中を開けると古い写真が入っていた。情報の連鎖から発掘された未知の写真資料である。これを確かめると貴重な価値のを持ったものだった。

下北沢鉄道交点には様々な分野の知性が集まっていた。文化や芸術ばかりではない。理系の学者や技師などもいた。当地に移り住んできたのは関東大震災による影響が大きい。写真に関係する技師もこれが縁で田端から北沢に移ってきた人だ。現在の頌栄教会のそばの丘上に居を構えていた人である。

送られてきた二枚の写真は記念写真である。ともに多くの人が写っている。その中に谷内他二郎技師がいる。建築主任技師で、中にその姿が映っている。博多駅建築時のものである。

まず、博多駅上棟式のときの写真だ。上棟式の写真にはメモがついている。「明治四十年頃博多駅上棟式の写真 父 谷内他二郎(主任技師として)
中の列の左より八人目」とある。古い写真だ。きちんとした台紙に貼り付けられている。下に写真師の名前も入っている。「古川震次郎 冩」とあり、その下に、「博多東中州」とある。文字はすべて左書きだ。

真ん中に半纏を羽織った鳶の親方らしい人「上棟式ヲ祝ス」という看板を持っている。およそ五十人ほどの人が三列に並んで写っている。本人は、二列目の真ん中にいる。

背景には駅本屋が写っている。まだ丸太を組まれたままである。手前には、工事で使った煉瓦のあまりが散らばっている。記念写真を撮るぞということで皆集まってきたようだ。

この写真よくみると左に丸い柱がみえる。コリント式の円柱だ。おそらく大理石で作られたものだろう。ウィキで調べるとつぎのようにある。

1909年(明治42年)3月3日に新駅舎が完成した。新駅舎は煉瓦造りの2階建てで、ルネサンス式の建物であった。総面積3,160 平方メートルで、当時の費用で11万8000円の巨費を投じ、トイレにも大理石を用いるなど豪華な建物となっていた。

西洋式の駅を作り上げたという彼らの誇りが顔つきや背中に窺える
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2012年09月19日

下北沢X新聞(2166)〜 明大前鉄道交点を歩く3〜

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(一)鉄道交点は情報交差点

武蔵野は果てもない自然があるだけだった。が、そこを横断する鉄道が一直線に敷かれた。また時が経って今度はそのとある個所を縦断する鉄道が敷設された。線が交わったところに鉄道交点が出現した。これができたことで地を測る物差しができた。

鉄道が十字にクロスしている明大前は、座標軸で捉えられる。Y軸は井の頭線であり、X軸は京王線である。下北沢を「ひしゃげた座標軸」と捉えたのは清水博子である。卓越した街の形態把握である。が、明大前はほとんどゆがんでいない。見事な座標である。

非常に興味深く思うのは線形交差のその地点は、情報の交差点であったことだ。濃厚な歴史が層をなして存在をしている。甲州街道や玉川上水や火薬庫などである。が、そういうものばかりではない。私自身、因縁深いものがある。興味関心のスタート地点の一つでもあった。

昨日のことだ。松本市の空港図書館館長の川村修氏からお手紙を戴いた。封を開けてみてびっくりした。陸軍松本飛行場から飛び立った武剋隊に付き添った十四名の整備兵の写真が入っていた。満州新京から、沖縄中飛行場まで行動をともにした者たちである。手紙によると「東山温泉の仲居をされていた方」が持っておられたという。武剋隊の行動の一端を証明する貴重な発見だと私は即座に思った。

なぜこの話になるか。実は、私の特攻隊への興味は、明大前座標軸の第一象限から出発しているからだ。そのことを思い出して、ネット検索をした。すると2005年7月12日にここを訪ねた記事を書いていた。「彼女は、日本学園に平行する路地から、思いがけず飛んできた飛行機を隣組の人と見送ったという」と。

ここに言う彼女とは金子静枝さんだ。北沢五丁目に住んでいたが、山手空襲で被災して日本学園の脇に住んでいた。当地で別れを告げに来た特攻機を見送ったという。この話に及ぶと必ず彼女は涙を流した。なぜ、そういうふうになるのか疑問であった。これが出発点ともなって特攻隊に深い興味を持つようになった。「鉛筆部隊と特攻隊」とに結び付いてくる話だ。続きを読む

2012年09月18日

下北沢X新聞(2165)〜 明大前鉄道交点を歩く2〜

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(一)学生気質の変容

明大前の駅前には正栄館という映画館、丸十製パンがあった。が、それも今はもうない。街はすっかり変わってしまった。器だけではなく人も変わったようだ。

「この頃は、明治大学も変わりました。女子学生が増えて優しくなりました」
案内者の岡本克行さんがいう。明大は硬派の典型とされていた。ところが押し寄せる時代の波は学校の特徴すらも変えてしまった。

自身が長年講師として通っている公務員研修所も女性が増えた。彼女らの書く小論文は手堅く、そつがない。うまさがある。ただ規を超えない、豪気さ、大胆さという点が欠ける。現代学生気質、アクが抜けてみんな均質化しつつある。バンカラは絶滅危惧種となっている。

社会の変容、変貌は教育問題に端的に現れる。家庭で育っている子どもと社会が求める人間との懸隔は大きくなっている。前者は核家族の中で純粋培養的に育てられている。が、社会は人と人との間をどんどん分け入っていく雑草的な人材を求めている。

学校も純粋培養に近いのかもしれない。可愛い子は旅をさせないで隠す。学校はどんどん塀を高くしつつある。最近気づいたのは中が覗けないように囲っていることだ。子どもたちが元気に運動場を駆けている姿は、老いゆく目には心の栄養剤だった。

なぜ塀を高くするのか。盗撮を警戒してのことだ。いっそうに囲い込みへの道を歩む。他者の目を遮る。そうすれば当面の頭痛の種は解決できる。

他者を排除して内部だけで問題を解決しようとしている。いじめはその端的な例だ。教育問題は塀を建てることで解決はしない。どうオープンにしていくか?。そこが求められている。続きを読む

2012年09月16日

下北沢X新聞(2164)〜 明大前鉄道交点を歩く〜

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(一)明大前の地形と鉄道線路

明大前鉄道交点を歩くと、都市比較論の切り口が見えてくる。

昨日、(2012年09月15日)「明大前鉄道交点を歩く」という街歩きを実施した。初めての試みだ。

同じ井の頭線の鉄道交点で、同じ時期の開業であるにもかかわらず、下北沢と比較して、明大前はさほど多くの人に知られる場所でなく、あえて途中下車するほどのこともない。その違いの背景は、新宿、渋谷との距離にあるのか、はてまた小田急と京王、それぞれの鉄道沿線文化によるものなのか。
街を歩き、歴史をひもとくなかで、二つの駅は、どのように異なるものか、その違いはいかに形成されたのか


地元文化に詳しい案内者の岡本克行さんは、資料冒頭でずばり二つの都市の違いを衝いておられる。興味深い問題提起でもある。

指摘されてみると確かにそう思う。ここは乗り換えで通りはするが降りはしない。なぜだろうか?

ふとよぎったのは階段だ。渋谷から井の頭線で明大前へ着く、まずは、地平への階段を登る。そして、次に本線への階段をもう一つ上ってようやっとホームに出る。脇目をふらずに懸命に乗り換えなくてはいけない。

この原因は何か?。地形そのものにあると考えると面白い。この明大前は東西方向に横たわっている淀橋台の間にある。特徴的なことはこの個所でくびれていることだ。逆「へ」の字形をしている。台地のもっとも薄い部分である。

溝の底を掘り下げてそこに鉄道線路を通した。渋谷急行鉄道を建設しようとした人が考えたのは土木費用である。地峡を通す方が低廉で済む。それでここが敷設個所として選ばれた。地形優先の考えである。

今は、土木機械の発達進歩で地形の克服はいともたやすい。山も谷も一気に貫く。リニア新幹線などは典型だろう。あの南アルプスをくり抜いて通すという。そら恐ろしいことに思える。続きを読む

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2012年09月15日

下北沢X新聞(2163)〜『北沢川文化遺産保存の会』紀要創刊〜

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(一)紀要発行の動機

これまでの長い月日、文化を探しながらが自転車で走り、そして、足で歩いてきた。その間、思ったり、考えたりしたことをブログに書き記してきた。

一体この総量はどのくらいあるのだろうか。自分ではよく分からない。先だって、松本市で講演をしたときにこのことについて触れた。
「皆さん、私がブログに書き綴った言葉の総量は一体どのくらいあると思いますか?」
「一万枚!」
返答があった。が、見当もつかないだろうと思って、前の席にいる顔見知りに尋ねた。それが図星だっただけに思わずどきりとした。山梨の矢花克己さん、鉛筆部隊ではおなじみの人である。

原稿用紙一万枚は恐らくあるだろう。もっと多いように思う。これがどのように情報として流れているのかよく分からない。

情報の海原に、一枚の長いふんどしがひらりひらりと流れている。それをグーグルのロボットが長い腕を伸ばしてひっつかもうとして来る。「情・報・の・海・原」という文字列を見出しただけで機械は他との差をみつける。

ブログの文字列が日々チェックされている。こちらは全体のイメージは掴めない。しかし、ロボットには分かっているようだ。例えば、グーグルの検索窓口で、「とうきょうえば」と入れたところで候補が八つ挙がる。そこに「東京荏原都市物語資料館」がある。ロボットが欠かさずにチェックしていることの証左である。

情報の海を漂っている私の記録は私自身にも役立っている。あれは何時のことだったか、あの詳細はなんだったかというときに自分の情報を検索するのはしばしばだ。自分で役立てている。

記録としては便利である。が、このネットの記事も、永続性を保証するものではない。何時消えるか分からない。そういう危惧から印刷物として遺しておく必要があると思っていた。

「代田の丘の61号鉄塔」に関しても何度も書いてきた。今回、世田谷区地域風景資産になっている鉄塔の記念モニュメントができる。いい機会だと思ってこれらをまとめようと思った。

これを紀要としたのは、一回限りとしないで続けたいと思ったからだ。それでこの発行を思いついた。今回が創刊号となる。続きを読む

2012年09月13日

下北沢X新聞(2162)〜風景資産で衝撃風景に出会う3〜

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(一)武蔵野

日々武蔵野を歩いて考えを巡らせる。土地のうねりの中にわずかに残る畑、たった一本の欅の大木、そこで立ち止まって景色を見遣る。ふと気思い浮かんだことがある。

武蔵野とは起伏への想いであり、抒情であると。

土地のうねりが大事だと思った。深沢中学の脇の道を下っているときに向かいの丘の赤松が見えている。また反対側から見るとサラダボールの形状の中に緑が散らばっている。その東の果てに東京の中心地のビルが眺め遣られる。

起伏は目の溜(ため)である。上り行く谷に、そして、反対に下り行く谷に目を預けることしばしばである。すれば独歩『武蔵野』の一節が浮かんでくる。

武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当もなく歩くことによって始めて獲られる。春、夏、秋、冬、朝、昼、夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思いつきしだいに右し左すれば随処に吾らを満足さするものがある。これがじつにまた、武蔵野第一の特色だろうと自分はしみじみ感じている。 『武蔵野』岩波文庫

縦横に通ずる道は、今やほとんどが真っ直ぐで路側帯を示す白線が寂しく続くだけだ。が、しかしこの路は起伏を抱え込んでいたはずだ。丘を、沢をゆく道ゆえに「縦横に通ずる」である。弓なりの地形に沿って右に行き、左に行く道をあてもなく歩くことによって何かしら、自身が身体を動かして景色を獲得したという充足感が味わえる。目の溜があればこそだろう。

かつての武蔵野自然は消滅した。が、今もなお、起伏は残っている。折々に立ち止まって振り返ると、自分が登ってきた高度、谷の深みが分かるときがある。続きを読む

2012年09月12日

下北沢X新聞(2161)〜書評2『鉛筆部隊と特攻隊』〜

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(一)
言葉は時として響き合う。書いた人の伝えと読んだ人の心とが瞬時に合わさって、胸中にきゅるりんと音を立てるときがある。感情が刺激され、涙すらも湧いてもくる。

もうだいぶ前になるが、自分の作品が初めて書評として掲載された。忘れ得ぬものだ。現役として勤めていた時代、仕事がうまくいかなくて塞ぎ込むことがあった。落ち込んだときにそれを取り出して何度も読んだ、言葉に勇気づけられた経験がある。

だいやまーく「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」きむらけん著
ヒロシマの悲劇をテーマにした児童文学はいくらもあるが、大人にこそ読んでほしいと思わせる作品はそう多くない。戦争が嫌いで電車が好きな人に、本書は忘れえぬ一冊となるだろう。(『読売新聞』)


この冒頭の文章は何度も読んだ。自身の書いた文章が人に伝わったという感触を初めて実感できたものだ。

自分の書いた本がどう読まれたか。それは知りたいことである。書評が、『日経新聞』に載り、また地方紙に共同配信されたものが載った。『山梨日日新聞』、『新潟日報』『信濃毎日新聞』『神戸新聞』の他、最近になって『北国新聞』、『沖縄タイムス』にも載っていることが分かった。

昨日、出版社の方から連絡があって、9日の『西日本新聞』に書評が載ったと。

書評欄の上段に載っていた。「時空を超えた心の叫び」と見出しがついていた。評者は作家の浦辺登氏である。

これまでの三つの書評、切り口が皆違う。書き手の個性というものもあるが、自身が書いたものには多面的な要素があるからだろうと思った。「日経」はネットによって人が繋がっていったこと、共同配信は、秘められた逸話が解かれてゆくプロセス、そして、今回のは、特攻兵たちの叫びを取り上げていた。続きを読む

2012年09月10日

下北沢X新聞(2160)〜風景資産で衝撃風景に出会う2〜

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(一)

むさし野や行けとも秋のはてそなき
いかなる風の末に吹くらむ
左右衛門督通光 新古今集


初めての東下りで感じた武蔵野への思いだろう。分け入っても分け入っても果てしもない、木々や枯れ草が生い茂っている。緩やかな起伏の中を細道はずっと続いている。一体、この野の果てにはどんな風が吹き渡っているのだろうか?、想像もつかないことだ。

昨日、山梨の矢花克己さんが「ネットオークションで『世田谷の詩歌 歌謡 伝説』佐藤敏夫編 昭和五十一年を見つけました」とこれを送ってくださった。めくっていくうちにこの久我通光の歌が目に入った。

我らが今住んでいる元武蔵野には、どんな風が吹いているのだろうか?。いにしえのものとはだいぶ違う。それを証明する一つのエピソードがある。

「昔とは比べものにならないくらいの強い風が吹くのです。びくともしなかった欅などが倒れてしまうんですよ。区の人は保存樹木についてはあるがままの自然に任せてというのですが、そんなのでは間に合いませんよ。このままだと次々に倒れていきますよ......」
森厳寺前の伊東家、下北沢の草分け、この当主に先だってお会いした。そのときにこんな話をされた。今も保存樹木が邸内に多くある。ここ数年、台風のときに吹きつける風がとても強くなっていることはよく知っている。地球温暖化による風の変化だ。

もう一つの風は不況の嵐だ。物が売れない。売れないから売ろうとして声高に叫び、声高な宣伝をする。それでことさらに言い立てる。化粧に化粧を重ねている。にっちもさっちもいかなくなってきている。経済も政治もとりあえず化粧の上塗りをしてなんとか生き延びようとしている......。

新古今時代、通光は「いかなる風の末に吹くらむ」と詠んだが、本当にそれは分からなかった。今は風の正体はみな多くが分かってしまっている。吹き渡る風には夢がない。

根本的な違いは何か?。鎌倉時代の歌人には畏れがあった。神を敬う、自然を崇める気持ちである。が、現今の我らには畏れる気持ちがない、なくしてしまった。畏れの心を持たないで自然を次々に破壊している。

果てしもなく続く武蔵野、ほぼ開発し尽くされてしまった。ところどころに残った欅などは、落ち葉を厭う住民の声に押されて、枝をことごとく伐ってしまう。惨たらしい強剪定をしている。続きを読む

2012年09月09日

下北沢X新聞(2159)〜風景資産で衝撃風景に出会う〜

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(一)
風景とは何か?、思いの中のそれを言葉に現出させてああだった、こうだったと言い合うことで命を持つものではないかと思う。

多くの風景は、時が経過していく中ではかなく消えてゆく。が、人は人であることによってそれを覚えている、かつてあったその懐かしい形を互いに言い合い、確認することで思いがけず風景が生々しく蘇えってくる。ふれ合いの中にこそ風景はある。

「あなたが明大前クロスを歩かれるというのを聞いて持ってきたのですよ」
その方は一枚の風景を手にされていた。第3回「地域風景資産推薦受付中」の案内パンフに「風景づくり活動団体によるイベント」が公告されていた。「北沢川文化遺産保存の会」も九月、十月、十一月と協賛イベントを設定している。この中の、第76回 街歩きが「明大前鉄道交点を歩く」となっている。これで知ったようだ。

手にされたそれを見たとたんかつての玉電風景ではないかと思った。せつなくなるほどに想いが湧いてくる過去風景だ。私はそれに強く惹き付けられた。


昨日、三茶しゃれなあどで地域風景資産の説明会があった。終わった後に多くの人に出会った。若い人が三名もいたのにはびっくりした。
「あそこ、東北沢の所から眺める風景は好きなんですけどね...」
その女性は名札に「ふみきり」とニックネームを書いていた。聞いてみると丘上小田急線東北沢2号踏切から下方、下北沢方向を見た展望がお気に入りだという。同感だった。

「地下化していずれ無くなるから踏切のイラストを描いて送ってください......」
うかつにもそう言ってしまった。名詞にはイラストレーターとあった。本職である。その彼女には図書館で「下北沢X惜別物語」をぜひ借りて読んでくださいと伝えた。時間がなくて若い人々とは十分には話せなかった。

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2012年09月07日

下北沢X新聞(2158)〜近代史・詩の裏路地をゆく3〜

P1030137
(一)
日々荏原地域をさすらい歩いている。起伏の多い土地だ。家があって道があり、そして人がいる。その居住人は皆見知らぬ人だ。構いもしないし、構われもしない。都会の陰影が濃厚にある地域だ。

女性のハイヒールが響いて渋谷を、化粧を嗅いでは新宿を、真珠のブローチを見て銀座を思いもする。彼女らが身につけているものは都会縁辺にいることを反映している。

場の空気に自然に合わせる服装というものはある。下61、小田急バス、北沢タウンホール行きバスはよく乗る。三軒茶屋の西友脇のバス停では多くが乗り込んでくる。昼間だとほとんどが老人だ。二三日前にステテコに肌着という姿で乗り込んで来た男がいた。確かに太子堂あたりは下町だ。こういう姿で歩いて居る人はいないわけではない。

荏原でも地域によって流れている時間が違う。世田谷も奥の畑地の多いところまで行くともっと時間はゆったりと流れている。今であればツクツクボウシがせわしく鳴いているが、それでも時間はゆっくりに感じる。

時間と存在というのは大きい。こるるんきゅるきゅると十両編成の電車が都心に向かう。そういう動くものによって時間は形成されている。おおむね速い。それに合わせて人の歩む速度も速い。最寄り駅へ小父さんも青年も、女子学生も歩いて行く。が、彼らのほとんどは見知らぬ人だ。だからといって自分が飛び抜けてだらしない格好をしているわけにはいかない。行き交う人々に合わせている。

荏原には都会時間の余波が流れている。深沢の奥は散歩コースでよく通る。深い垣根の家からピアノの音が洩れて聞こえてきたりする。

構われもしない構いもしない。自身がそしらぬ顔をしていられるというのは居心地のよさだ。誰もが流離い人になれる地域だ。
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2012年09月06日

下北沢X新聞(2157)〜代田の丘の鉄塔文学論〜

P1030144
(一)
言葉をそこに当ててみると、見えなかったものが見えてくる。代田という伝説のある地に建つ鉄塔、これにことばを押し当ててみると文学論の切り口が見えてくる。

三好達治風に言うと、「詩語のコンパス」で「あなたの幻想地図」を探ってみると「あなたの鉄塔世界」が発見できる。屹立する塔はここで過ごした父と娘の心象をあぶり出すリトマス試験紙だ。詩人は未来を思い、小説家は不安を感じた。

世田谷区地域風景資産として選定された「代田の丘の61号鉄塔」の案内看板の設置が大詰めを迎えている。広島文武氏は関係部署を回ってずっと打ち合わせをしている。

デザイン担当の重鎮道吉剛氏は碑文の文言配置を鋭い感覚で腐心しておられる。何度もFAXが入ってくる。こちらは字の配置を考えないでただ書いているだけだった。が、文字全体のバランスを考えると細かな点で問題が出てくる。例えば、「ポエヂイ」という単語も行替えで「ポエ」と「ヂイ」に別れると美的配置が崩れる。そうしないために言葉を増やしたり、減らしたりする。その根本には文化の発信者としての深いこだわりが見える。、一二字勝負の他者発信ということで勉強をさせて戴いている。

当初計画では、看板は鉄塔直下に建てる計画だった。が、これは行政の方の協力もあって緑道に設置することになった。鉄塔から離れてはいるが「鉄塔に関する掲示版を建てます」ということは断っておくべきだろうと東京電力渋谷支社送電保守グループには連絡を入れた。その応答はとても丁寧であった。当日参加をしてくださるとのことだった。

当方で疑問点があった。鉄塔の建造年代だ。確か銘板には、「昭和元年十二月」とあったはずだ。確かめるとその通りだとの回答が得られた。

当日来られたときにモニュメント建立を記念して作った冊子を寄贈したい。これは資料ともなるのでぜひ電気の史料館に収蔵してほしいと伝えた。
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2012年09月04日

下北沢X新聞(2156)〜近代史・詩の裏路地をゆく2〜

P1030142
(一)
骨拾ふ人に親しき菫かな

蕪村の句である。萩原朔太郎は、世田谷代田の鉄塔下の家で個人雑誌『生理』を発行した。これに「郷愁の詩人與謝蕪村」を載せている。昭和八年七月に発行された第二号でこの句を取り上げ、次のように記している。

焼場に菫が咲いてるのである。遺骨を拾ふ人と対象して、早春の淡い哀傷がある。

かつての野辺送りが想起される。木々を集めてそれを燃やして荼毘にふした。拾う人は親族だろう。ついこの間まで口を利いていたその本人が死んだ。生ある者は死に骨のかけらとなる。拾う者は死を見つめている。が、焼き場の側に咲いている早春の菫は、それとは無関係に鮮やかに咲いている。くっきりと風景が浮かんでくる。薪がはぜる音、辺りに漂う臭い、天空に向かって立ち昇る煙...生と死の対照があるだけに紫の菫は強烈だ。


「朔太郎さんの家の書斎に入ったことがあります......。座卓にお座布団が敷いてありました」
林節子さんは言われた。詩人の蔵書に目を瞠ったという。そのときの話を聞いて一番印象深かったのは座布団だ。真ん中が凹んでいる一枚のそれを想像した。そこで考え、呻吟し、ときにはうめいて、書き物をした。この句の鑑賞文もそこで書かれた。彼女の言葉を聞いて生きていた詩人をリアルに想像したことだ。

南向きの机、家の下方からは、かっとん、たっとんという水車の音が聞こえていた。北沢川たもとの松澤水車である。続きを読む

2012年09月03日

下北沢X新聞(2155)〜近代史・詩の裏路地をゆく〜

P1030135
(一)
歴史片鱗との偶然の出会いだ。それは近代史でもあり、近代詩でもある。

ネットでの発信を続けている。その集積がきっかけとなって多くの逸話が掘り起こされつつある。これまでとは違う情報の伝播である。ネットからネットへ、人から人へ、その出会いは果てしない。

世田谷の代沢国民学校の学童は昭和19年8月12日の夜に学校を発つ。疎開先の長野松本淺間温泉へ向かった。その集団にいた一人、林節子さんとの出会いも、情報の旅の途上でのことだ。

「疎開学童の世話をした現地の寮母さんが、代沢国民学校の親たちの職業を知って驚いています。例えば高石さんというのが師団長の娘でといようなことを思い出の文集に書かれているのです......」と私がいう。

「ああ、その高石さんは確か下の学級にいました。あの頃は、代沢国民学校の多くは、今の代沢二丁目から来ていましたから。そういう高位の人が多かったのですよ......」

「あるときに学校の自分の組に一人のお母様がつかつかつかと入って来られました。そして、『明日から官邸に参りますから』とおっしゃいました。当時、お二人のお子さんが代沢に来ておれれました。次女が一緒のクラスなのでお別れをいいに来られたのです......」
「官邸に参ります」という言葉が印象的で今でもその場面が浮かんでくるという。これが何時のことか歴史年表を見ると分かる。昭和十六年十月の話ではないかと思われる。

(二)
土曜日、九月一日に、聞き書きをするために代田「邪宗門」に行った。そのときにこれまた別の人に出会った。代沢小のみどりバンドの一員だった人である。

「みどりバンドは疎開時代にもうその素地が作られていたと思いますね。引率指導の浜館先生が指導する学童の歌声は、ハーモニーがそろっていて田舎の寺でびっくりするほど綺麗に聞こえたんですよ。」
こちらは鉛筆部隊ではなく、楽器部隊だ。

「私の場合には戦後ですから、それは知りません...ええ、確かに代沢小脇に、米軍のバスが迎えに来ていました。それに乗ってワシントンハイツには行きました。」
伝説のみどりバンドだ。その彼から名刺を戴いた。野坂公夫さんだ。舞踏家である。音楽詩歌の陰影が尾を引いている地域だ。
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2012年09月01日

下北沢X新聞(2154)〜第74号「北沢川文化遺産保存の会」会報〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第74号 WEB版

2012年9月1日発行(毎月1回発行)

会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
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1、「あの高い鉄塔」を文学モニュメントに

代田半島南端、代田の丘に一つの鉄塔が聳え建っている。「代田の丘の61号鉄塔」と称されているものだ。世田谷区地域風景資産となっている。
なぜ高圧線鉄塔が世田谷区地域風景資産となったのか誰もが不思議に思う。理由は、当地に居住した詩人、萩原朔太郎、それと彼の娘葉子を唯一想起させる建造物であるからだ。
鉄塔と詩人、そしてその娘の小説家萩原葉子との関係は長年調べてきた。そのことからこの鉄塔が彼らの居住をたった一つ思わせるものだと結論づけた。他には一切痕跡はない。 この鉄塔に関する詩人自身の記述はない。しかし、彼の作品から窺われる、思考や生き様からすると好んでこの鉄塔の側に住んだと思われる。
詩人の代表詩集の一つは『氷島』である。彼は鉄塔下の家でこれを編んだ。昭和九年二月に彼は「自序」を記している。

著者は東京に住んで居ながら、故郷上州の平野の空を、いつも心の上に感じ、烈しく詩情を叙べるのである。それ故にこそ、すべての詩編は「朗吟」であり、朗吟の情感で歌われて居る。読者は声に出して読むべきでかり、決して黙読すべきではない。これは「歌ふための詩」なのである。

住んでいる場所は、代田に他ならない。当地で彼は故郷上州を常に思っていた。「いつも心の上に感じ」ていた。これは抽象的に述べているが具体的な感覚でもあった。
彼の娘葉子は、自伝小説『蕁麻の家』で「初めて敷地を見に来た時から高圧線の唸る音が耳についていたのも、自分の運命を暗示していたのかもしれない」と書いている。「唸る音」は彼女の父も聴いていたはずだ。実在意識として高圧線があった。

電気はどこから来るのか。「成城にある鉄塔は前は群馬線と言っていました」と電気会社の人に教わって驚いたことがある。かつては水力発電が主だった。東京に供給されるその電気は利根川上流で作られていた。上州と東京とは太い銅線でしっかりと結ばれていた。詩人の頭上にある高圧線は上州と繋がっていた。彼は高圧線のうなり声を聞きながら「いつも心の上に」実在する線を感じていた。そういう因縁との関係において当地に家を建てたのではないかと考えると面白い。
なぜ詩人が鉄塔の側に家を建てたのか、その因縁因果は如何様にも想像できる。思われることは決して不快なものに思っていたわけではない。むしろ好感を持っていたと言ってもいい。田園の中に聳え建つ鉄塔は、しゃれた近代郊外風景だったことは言える。
一方の娘にとっては、決して好ましいものではなかった。彼女は具体的にそれを述べ表している。『蕁麻の家』の一節だ。

あの高い鉄塔に登り、感電死するのが私の運命のような気がした。この土地を洋之助と見に来た時、私はまだ小学生だったのに何となく暗い予感のようなものが、私の頭をかすめたのを覚えている。今はその予感の正体が何であったのか分かったのだ。(同著)

父にとっては近代を象徴する銀色の塔だったが、娘にとっては陰鬱なものだった。実際に彼女はこの塔に登っている。今と違って鉄柵で覆われてはいない。そばには「ひまわり公園」があって多くの子どもたちがここに遊びに来ていた。遊びに飽きると、この鉄塔にだけついている塔内ハシゴを伝って多くが登った。彼女もその一人だったに違いない。
「代田の丘の61号」鉄塔は、萩原朔太郎、葉子を唯一偲ぶものである。そのことから地域風景資産として申請した。それが通って選定された。ところが、このことに関する案内掲示版はない。
萩原朔太郎は、唯一無二の詩人と言われている。そのことから彼を偲んで遠くから訪ねて来る人は後を絶たない。案内表示がないことから辺りをうろつくということはよくある光景だった。
今回、世田谷区「地域の絆再生支援事業」に申請して、これが認められたことから改めて地域の文化発掘に取り組みをすることにした。一つは、案内掲示版の設置である。もう一つは、「下北沢文士町文化地図」の改訂五版の発行である。
鉄塔をモニュメントとする案内看板については事業の資金だけでは不足であった。が、看板の側にある企業「信濃屋食品」が協賛を快く引き受けてくれた。「北沢川文化遺産保存の会」会長で、信濃屋食品CEOでもある長井邦雄氏の計らいでもある。
看板については発注をした。簡単なセレモニーを開きたいと考えている。除幕式である。現在のところ、10月6日、午後2時から鶴ヶ丘橋たもとで行うことを予定している。

2,萩原朔太郎世田谷来訪81周年記念...記念冊子の発行

鉄塔をモニュメントとする掲示版の完成に合わせて記念冊子を発行したい。現在、『代田と鉄塔と詩人物語』というタイトルでまとめている。

キャッチコピーは
指さしをして眺める文学碑
「代田の丘の61号鉄塔」
記念モニュメント建立


鉄塔と詩人の関わりを物語としてまとめたものである。今回、偶然的に、当地に居住した人で往事のことをよく知っている人に出会った。
萩原朔太郎の生前の様子や往事の周りの様子のことを詳しく覚えておられる方である。川には水車があってその音が聞こえていたという。鉄塔についても今と昔ではだいぶことなっていたようだ。唸りが聞こえたり、雨の日には火花が出たりと今よりももっとその存在が意識されたようである。
A4版、上下二段組み、12ページの小冊子である。これにこの証言を入れたいと考えている。代田に於ける証言は今までなかったことだけに内容的にはかなり貴重な資料となるものだ。研究資料としても役立つものだろうと考える。これをどのように頒布するのか考えたい。
イメージとしては「北沢川文化遺産保存の会」紀要第1号だ。順次発行を考えたい。第2号としては「嗚呼、代田連絡線〜戦時応急救援線〜」を考えている。一冊につきいくらかの寄付を仰ぎ、つぎの紀要の資金に当てられないかと考えている。

3、鉄道線の地下化による変化

東京西部の交通網が大きく変わりつつある。先だって、京王線、調布と国領間が地下化されて街のイメージが一気に変わってしまった。激変した。街の歴史を刻んできた電車の音、踏切警報音がこつ然と消えた。踏切渋滞が解消されて便利にはなったが、何か大切なものがなくなったようにも思う。鉄道の音は時間でもあった。時間が分からなくなってしまったという人もいる。
近々、我々の近くもこれが起こるはずだ。まずは、東急が代官山から地下に潜り、現在ある東急C曲線が一気に失われる。渋谷の町のシンボルだった東急の電車が地表から一切姿を消す。
小田急の地下化工事も進捗している。世田谷代田と東北沢の間も近々完成して電車が一切通らなくなる。風景が一変してしまう。
なくなった風景はもとには戻らない。今ある風景はじっくりと見ておきたい。東急の地下化は3月16日とされている。今考えているのは、廃線になる前に「東急C曲線音楽を聴く」という街歩きを実施ししっかりとここで奏でられる音楽を聴いておきたい。
ハチ公前に集まり、行きは線路の西側に沿って歩き、代官山まで行って今度は線路の東側を歩くというものだ。二月の定例会で行おうと考えている。
小田急がなくなる前も、全部の踏切巡りはしておきたいと考えている。

4、都市物語を旅する会

私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地のにおいを嗅いで楽しみながらぶらぶら歩いています。参加自由です。 基本原則は、第三土曜日としています。第二は、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第76回 9月15日(土)午後一時 明大前改札口
明大前鉄道交点を歩く 案内者 岡本克行
1.明大前駅前 「正栄館」(映画館)の記憶
2.跨線橋の上から観る「東京山手急行線の痕跡」。富士見橋(京王線下りホーム下跨線橋)、明大前上東西跨線橋、甲州街道を渡って玉川上水公園
3.明大前にやってきた学校と寺院
明治大学和泉キャンパス→築地本願寺和田堀廟所→歩道橋を渡って→旧京王線松原駅跡地→日本女子体育大学付属二階堂高校→日本学園→知られざる明大前南側の寺院群→
4.竹久夢二「少年山荘」所在地と夢二の足跡
旧玉電七軒町駅跡→少年山荘所在地→弁天公園→下高井戸駅→下高井戸駅地下道→解散


〇特番開催(追加情報、2012年09月01日掲載)
9月22日(土) 午後一時 多摩センター駅改札口前
「今井兼次展」見学、講演会、レセプションなど 事前の申し込み者は当日券を渡します。
希望されていない方でも当方所持の券で複数入れますので、その場合は連絡をください。
この日の参加費はありません。


・第77回 10月20日(土) 井の頭線東松原駅午後一時集合
松原の杜夫、代田の茂吉を歩く
東松原駅集合→北杜夫旧宅→青山脳病院跡→羽根木公園(根津山)→北沢川緑道→茂吉代田旧居跡→茂吉ゆかりの代田八幡宮→世田谷代田2号踏切跡(根津山に孫と行くときに通った踏切)→北沢川緑道...記念樹(ネコヤナギ)→第二書房跡→(邪宗門)
11月
特番開催
〇ぼちぼち墓地歩き(雑司ヶ谷、染井に続く第3回目)
谷中墓地を歩く 11月10日(土)午後一時 日暮里駅中央改札口前
・第78回 11月17日(土)、井の頭線池の上駅 午後一時集合
アーティストタウンを歩く1(第四象限)
杉山元元帥旧居→海外植民学校跡→東條英機旧邸→横光利一(小説)→(聖三一教会)→佐藤栄作旧邸→田村泰次郎(小説)→宇野千代(小説)・東郷青児(画家)→森茉莉(小説)→加藤楸邨(俳句)→坂口安吾文学碑→田村泰治郎・井上友一郎(小説)→三好達治(詩人)→中谷泰(洋画)→代田「邪宗門」
・第79回 12月15日(土)代田橋駅 午後一時集合
代田半島三大伝説を巡る ダイダラボッチ、代田連絡線、代田の丘の61号鉄塔

にじゅうまる申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも300円
参加申し込みについて(必ず参加連絡をお願いします。資料部数と関連します)
電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com

しかく 編集後記
さんかく松本市、市立博物館で「戦争と平和展」が開かれた。会としては行かなかったが、会員の多くが三々五々松本まで足を運んだ。当会の「戦争経験を聴く会、語る会」の一齣も写真資料として展示してあった。近現代の松本の戦争史は重要なものだ。ぜひ継続的に展示を続けてほしいものである。当会としてもそれについては協力していきたい。
さんかく「下北沢文士町文化地図」(第五版)を発行したい。世田谷区の助成だけでは不足である。それでいつもの通り皆さんからの「地図寄金」を募りたい。寄付された方には必要なだけ差し上げたい。いつも通り、封筒に「地図寄金」と書いてお名前と金額と住所を記しきむらけんや邪宗門に出してください。この寄せられたお金は地図作成費のみにしか使いません。金額は幾らでも構いません。
さんかく拙著「鉛筆部隊と特攻隊」については『日本経済新聞』と『山梨日日新聞』に書評が掲載された。後者は配信で、『新潟日報』『信濃毎日新聞』『神戸新聞』2012年8月26日付にも載った。本は事務局の「邪宗門」でも買える。
・読後感想の一節、放射能汚染で立ち入り禁止となった方々が「仮設住宅で不自由な生活を忍び『帰りたい!』思いに耐えていらっしゃる人々を常々見ております。その様な環境の中で読んだ戦争の記述は、今の現実をどのように受け止めて一歩一歩進んだらよいのか、その方達と共に考えてゆく方角を示唆してくれているように思えます。(仙台市上野靖子)
・当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com
会報のメール配信もしています。「北沢川文化遺産保存の会」へご入会ください。入会費なし。年会費1000円。事務局の世田谷「邪宗門」で受け付けております。


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