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2021年10月

2021年10月30日

下北沢X物語(4356)―下馬兵舎寮物語:米騒動の顛末―

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(一)私はその日ははっきり覚えているわ。昭和二十一年五月十二日のことよ。この下馬の兵舎広場に人が一杯集まってきたのよ。確か千二百人とか言っていたわね。集まってきたのは『米よこせ区民大会』があったからよ。でもね、集会への参加というよりもこのときに振る舞われる雑炊がお目当てだったのよ。ほんと食べるものがなくてね、集まって来た人もやせこけた人よ。ここにいる人々は皆、食う米もなくて飢えていたのよ。壇上に立ったのは共産党中央委員野坂参三さんなの『食糧問題解決のための人民政府を』と拳を上げるのだけど、その力さえ出ないのよ。終わった後、『これから皇居に向かう、決起せよ!』というよ。『皇居に隠されている米を奪いに行く』というのよ。びっくりだわね、一年前は皇居遙拝をやっていたでしょう。あそこに隠している米を出せと言いにいくというのよ。冗談でしょうといったら『天ちゃんの米をもらうんだ』と。ちょっと前だったら不敬罪ということで憲兵に引っ張られたでしょう。でね、これが本当なのよ。二台のトラックに乗ってね、赤旗を翻してさ、都電の青山通りを行くわけ。『ああ、インターナショナル......』と歌いながら、一年前だったら信じられないことよね......

あの頃はね、交差点はMPが交通整理していたわね。ところがね、抗議デモのトラックは、これがね。フリーパスなのよ。MPは赤旗でまっ赤に染まった荷台、ここにびっしりと人が乗っていて、みな拳を振り上げて、『米よこせ、皇居に行って米を勝ち取るぞ!』
と叫んでいるの。MPはピピィと笛を吹いてノンストップで走れというの。なんか気持ちよかったわね。

三宅坂を右に折れると深い皇居のお堀が見える。昔はここで頭を下げたものよね。それが今は反対、「米を出せ!」と森に向かって拳を振り上げているの。

皇居前広場に着いて私達はトラックから降りたの。背中に赤ん坊を背負ったお母さんも何人もいたわ。それで荷台から下りて歩くと、玉砂利の音。

玉砂利握りしめつゝ宮城を拝したゞ涙 嗚・胸底挟る八年の戦ひ

敗戦の日の新聞記事の見出しがあったわね。人々が握り締めた玉砂利を踏んでいく、考えられないことに思ったわ。
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2021年10月29日

下北沢X物語(4355)―下馬兵舎寮物語:仰天、戦車が出た!―

下馬兵舎時代の思い出絵地図 (2)(一)あんまりに話が面白いものだから、その話を知った翌日に現場を見に行った。どこかというと世田谷下馬である。かつてここには三つの連隊の兵営があった。近衛野砲兵連隊、野戦重砲兵連隊、野砲兵第一連隊である。これは空襲から免れて残った。雨露が凌げる家は貴重だ。戦後、行き場のない戦災被害者や引揚者の収容施設となった。この一角の菊寮にはほとんど手つかずの倉庫があった。あるときそこに入っていくと得体の知れないものを見つけた。「なんだろう」、角材を取りのけ、板を取り除いた、そうしたところ凸型の何かが見えた、足にはギザギザの靴を履いている、その上にはお椀型の屋根があった。かつまた一物を折られた砲身があった。「ゲホッ、阿部定の仕業か?」、「何それって阿部ちゃんの親戚?」、何だか訳の解らないトンチンカン。

寄り合い世帯ではトラブルが絶えない、それで自治組織ができた。そのことが明確に分かるのはそれぞれの兵舎に寮名が付けられたことだ。

藤寮、松寮、竹寮、梅寮、桜寮など木々名を付けた。これだけでも面白い。これらから暮らしの様子が想像される。
「藤寮の花子さんは藤の花のように飛びっきりきれい、男好きで、旦那さんに逃げられたのよ」
「松寮の一郎さんは玉電の運転手、酒好きで酔うと、玉電唱歌を歌った

まずは道玄坂に出て
渋谷のはずれの上通
玉川通に合流し
大橋六環大跨ぎ


......などなど。それぞれの寮での生活が偲ばれる。

ついこの間、仲間から一枚の絵地図をもらった。我々が作っている文化地図も人によく感心される。が、「下馬兵舎時代の 思い出絵地図」は見たとたん、「おもしろい!」と思った。戦後という時代を切り取った時代文化地図である。地図の発行者がまた興味深い「世田谷パブリックシアター 学芸」とあった。切り口が鋭いと思った。「時代文化地図」にどうやら劇の種を見つけようとしたらしい。続きを読む

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2021年10月27日

下北沢X物語(4354)―リニアと褶曲山脈と狐狸―

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(一)アルプスのことを褶曲山脈という。地形内部のひずみ圧力によって波形状に曲がった山を言う。ひずみはプレートの圧力だ、リニアが貫通するという南アルプスも今なお数ミリずつ成長している。このプレートの押す力は我々の想像を遙かに超える。「富士は日本一の山」と歌われるが、高くなったのはプレートの力だ。この富士山ができたのも伊豆半島のおかげだ、沖合にあった伊豆半島が本州に衝突してその力によって富士は押し上げられた。ちょうど富士一帯は、三つのプレートの境界に位置する、それはユーラシアプレート、北米プレート、フィリピン海プレートである。地形、地質構造がもっとも複雑な地帯である。リニアはそこを突き抜けていく。以前にリニアを巡っての講演会に出たことがある。「断層を突き抜けているリニアの隧道は地震が起こってズレることはないか?」と質問したことがある。「あり得ることでしょう」との答えがあった。

さて、生身の人間からの「ポンポコ通信」では、リニアによる環境破壊を指摘している。
これは最も大きい問題だ。

「リニアは見えない風景を造る」、モグラ工法ゆえに全体像は見えない。穴だけのことであればいいがそうは行かない。残土だ。これをどのようにするのか、JR東海は全体の処理計画を持っていない。残土をどこに置くかが問題だ、新聞はこういう実情を伝えている。

長野県大鹿村釜沢地区。リニア中央新幹線の除山(のぞきやま)非常口近くに、トンネルを掘削した残土の仮置き場がある。一角には十数メートルの高さまで、計3万立方メートルの残土が階段状に積まれ、崩落防止の網がかぶせてある。元は温泉付きの山荘があった場所だ。(朝日新聞デジタル 2021年7月1日)

残土は仮置き場を作ってそこに置かれている。沢沿いの空き地である。
大鹿村の自然風景は美しい、沢があり谷があり山がある、その中で人々は平和に暮らしてきた。ところが今は残土を運ぶダンプがひっきりなしに通るという。

残土が環境破壊を引き起こす、景観の面でも違和感がある。美しい風光がこれによって壊される。問題なのはこの残土の山が崩れないかということだ。

耳新しいニュースとしては「令和3年7月伊豆山土砂災害」だ。原因は人工的に作られた「盛り土」が一気に崩壊したことである。これは業者によってどんどん建設残土が積み上げられたことによる。この事例を機にリニア残土による二次災害がにわかに現実味を帯びてきた。
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2021年10月26日

下北沢X物語(4353)―やっぱりリニアには反対する―

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(一)衆院選たけなわだ、前哨戦の静岡参院補選でリニアに異を唱えている無所属山崎真之輔候補の当選は朗報だ、川勝平太知事の応援が功を奏したと聞く。次は衆院選だ。ここではリニアは争点になっていない。が、これからの日本をどうするかという点では大きな問題だ。自公政権はリニアの推進派だ。一方の野党、共産はリニア工事中止、れいわは反対、立憲は労組への遠慮からかお茶を濁している。そんな中で今朝の新聞は選挙動向を伝えている。「自民が単独過半数の勢い」と逆風の中の善戦を伝えている。自公の政策は富裕層向けだ、国民の声を聞くとはいうが建前だ、人々がこれまでと同じようにこの政権与党に投票すれば、専横的施策は変わらず、個々人の人権は顧慮されずますます格差は広がっていくだろう。リニア建設も一層に推進されるだろう。この施策の大元には利権が潜んでいる。自民のキャッチは『新しい時代を皆さんとともに』という助詞止めだ。「に」の後に控えているフレーズをぼかしている。『皆さんとともに......タイタニックで船出?』なのかもしれぬ。

今、我々が当面しているのは格差の広がりだ。簡単に言えば貧乏人がどんどん増えていることだ。いわゆるOECD先進30ヶ国中貧困率は四番目に高い。

だいぶ前に「コンクリートよりも人へ」という施策が打ち出されたことがあった。これはいつの間にか、「人からコンクリートへ」に戻った。震災復興と言って巨大防潮堤が築かれもした。これによって景観や生態系が破壊され物議を醸した。

リニアは、巨大土木事業である。大阪までだと総額9兆円も掛かるという。なぜにこんなお金を掛けるのか、日本は国土の70パーセントが山岳地帯だ。加えていうと日本には三つのプレートが食い込んでいる。そのためにプレートのズレによって地震が起こる。
日本は地震大国である。世界で発生しているマグニチュード6以上の地震の 約 2 割が、日本周辺で発生している。言えばトンネルを掘るにも、また壁を分厚くするのにも金がかかる。リニアには不向きだ。それなのになぜ?
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2021年10月24日

下北沢X物語(4352)―リニアは本当に必要か?―

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(一)衆議院選の真っ只中だが、リニアについては争点になっていない。が、これからの国の有り様を考える上で重要な問題だ。自民党は明確だ、岸田新首相は公明出身の斉藤哲夫国交大臣にリニア中央新幹線を筆頭とした高速鉄道などのインフラを整備せよと指示している。「リニア中央新幹線の東京―大阪間の早期全線開通を目指します」とはっきりと述べている。リニアの積極的な推進派である。立憲民主党は調べたがその主張は検索からは拾えなかった。共産党は明確だ、リニア中央新幹線問題建設中止を強く主張している。国会でも何度もリニアを問題にして政府を問い詰めている。れいわは一番明確だ、山本代表のリニアに対する考えは分かりやすく具体的だ。国会では非常に鋭い切り込みをしている。代替交通機関が東海道新幹線や飛行機、東名高速、北陸新幹線、中央自動車道などあるのになぜわざわこれを作る必要があるのかと?が、工事は着々と進められている。つい最近の新聞の見出しだ。

リニア 大深度 地下 初試掘 14日開始 東京品川

ついこの間、北品川非常口から工事が初められた。「初試掘」というからには、先進導坑などを掘って地質などを調べるのかと思ったがそうではない。巨大な非常口から巨大なシールドマシンを下ろして実際に掘り始めるようである。

二三日前、この「北品川非常口」を見に行った。が、当然のことだが試掘は見られない。地下深くで行われるからだ。

いつも思うことは、リニアは見えない風景を造るものだと。地下ゆえに見えない。だから分からないということはある。変な連想をするが、コロナは流行ってもすぐには影響が出ない。しかし、リニアも似たようなものだ。着工したとしてもすぐに大きな変化は起こらない。しかし、間違いなく起こってくるのは残土の搬出だ、掘削が始まるとダンプの往来が激しくなる。都会では目立たない。しかし大鹿村などでは生活が脅かされている。

大きな悩みは、村へ行き来するための主要道の県道、改良工事が進められているが、多い日には数百台のリニア関連の大型車が走る。宿泊客からは「来るのに怖い思いをした。別の道を教えてほしい」といった苦情が相次いでいる。(新聞記事)

都会地でも工事が本格化すれば残土を運ぶダンプが数多く行き交うようになる。
地球温暖化が大きな問題になっている。リニア工事全体で排出される排ガスは誰も問題にしないが。リニア工事だけでも相当に大気が汚れる。それが地球温暖化に繋がり、さらにまた異常気象に繋がっていく。
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2021年10月23日

下北沢X物語(4351)―民の竈を無視する政権与党―

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(一)「民の竈」、人々の竈の炊煙を見て暮らし向きを知って仁徳天皇は善政を施したという。「民の竈か、俺も知っているよ。が、大事なのは民よりもボスの竈だよ、これを常にウオッチするんだ」、「見てきたところ赤でした!」「じゃあ簡単だ、即座に旗幟鮮明だ、旗の色は赤にする」、「ご冗談でしょう、それだと共産党になります」、「あ、そうかじゃあ、ピンクだ。きれいに見せかけ、『未来選択選挙』とか言って飾るんだ。それが我が陣営の標語にもなるんだ。未来は薔薇色、今朝の新聞に載っていたろう、『新しい時代を皆さんとともに』って、な、うまいだろう『皆さんとともに』の後はぼかす、『皆さんとともに沈没』などということは口が裂けて言ってはならぬ。政治はどうごまかすかがポイントなんだよ」「なるほどそれでDappiを使ってフェィクニュースを垂れ流していたのですね」/「報道ステーション」がつまらなくなった!

日々、荏原を歩いている。普段から自民党はポスターを町角に貼っている。明白な特徴がある。地主の畑、家には自民党のが貼ってあることだ。一帯の土地の価格は高い。土地を所有しているだけで富んでいる。それで富裕層を優遇してくれる与党の応援は欠かせないということでポスターを貼っているのだろう。

今格差が大きな問題となっている。富める者は一層裕福に、貧しいものはさらに貧乏へ。先進34ヶ国によって構成されているOECDの中で日本の貧困率は下から4番目と低い。平均年収でもお隣の韓国は19位なのに、日本は24位である。

何かことある度に、とくに右よりの報道では韓国を持ち出しては小馬鹿にする向きがある。そんな韓国にすら負けている。

起こっていることはいわゆる正規労働者が減り、どんどん非正規雇用が増えている。必然的に収入が下がる。来年の大学進学者希望率は大きく落ち込んでいると報じられる。コロナ禍で親の年収が減ったことで上級学校への進学を諦めている若者が多くなっている。コロナ禍だけではない。大学の学費が高すぎて払えないということも一因だ。


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2021年10月21日

下北沢X物語(4350)―女流汽車文学:林芙美子 3―

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(2)ああ、尾道の海(第二部)
『放浪記』の汽車描写では白眉である。尾道、千光寺公園には「文学のこみち」がある。この一画に林芙美子の文学碑が建っている。これに詩の形式で石碑に文言が刻まれている。
その通りに記してみる。

放浪記
林芙美子

海が見えた。
海が見える。
五年振りに見る、尾道の
海はなつかしい。汽車が
尾道の海へさしかかると、
煤けた小さい町の屋根が
提灯のやうに拡がって来る。
赤い千光寺の塔が見える、
山は爽かな若葉だ。
緑色の海向うにドックの
赤い船が、帆柱を空に
突きさしてゐる。
私は涙があふれてゐた。

『放浪記』は日記風に書かれた物語だ。この尾道再訪の期日は(×ばつ日)としている。

夏の、とある日、芙美子は懐かしい尾道に汽車で帰ってきた、五年ぶりであった。
この時、彼女は尾道へはどうやって来たのか?、『放浪記』原文ではこの尾道入りの前は(×ばつ日)となっている。この冒頭に「久しぶりに見る高松の光景」とある。当地に住む母親から「ビョウキスグカエレタノム」という電報を受け取り東京から四国に渡ったようだ。高松から尾道へ向かったとすれば、高松からは宇高連絡線に乗って岡山に出るというのが普通のルートである。岡山から下関行きの急行に乗ったと考えてよい。
季節は真夏だ、空は晴れ上がり、真っ青だ。まず岡山を汽車は出る。さほど混んではいない、彼女は席を進行左手の窓際に取った。福山までは内陸部を走って行く。帰郷の序章は福山だ、右手に福山城が見える。駅に着くと人が降りてまた乗ってくる。
「ここ空いとるか?」と一人の男。
「ええ空いとる」
広島弁で応えると身も心も故郷に帰ってきたよう。そして汽車は出る、すぐに川を渡る、河原には白い石、これも故郷の色合いだ、流れてきた石だ。回りの山は皆白い、一帯は石灰岩質の山々が連なっている。
福山を出た急行は、備後赤坂、松永と駅を飛ばしていく、すると車窓の左手向こうにきらめきが見える、瀬戸内の海である。カタトッテ、タタトッテと車輪が心地よく響いてくる。やがて列車は右にカーブを描いていく。と同時に窓からは潮が匂ってきた。胸が高鳴ってくる、工場の建物と建物の間に海が見える。海は間近だ、そして海側を塞いでいた家並みのカーテンが一編に取れた。
海が見える!、海が見えた!、汽車が汽笛をポオオーと響かせる。カタトッテ、タタトッテとレールを打ち付ける音も勇んでいるようだ。もう懐かしくて懐かしくてたまらない、目から涙が溢れてくる。尾道水道を行き交う船、貨物船、漁船を車窓に映していく。そして尾道の黒く煤けた小さな町の瓦屋根も目に入ってきた。それらは提灯のように次々に拡がって見えてくる。

右手の窓をのぞくと千光寺の朱塗りの塔が山腹に見える。一帯の山々はすがすがしい若葉に覆われている、目が眩しい。それで今度は、左に目を遣る。すると対岸の向島の緑も目に入ってくる、そこの造船所のドックには朱に塗られた船、とがった帆柱は青い夏空を突き刺していた。やがて汽車は速度を落とすと尾道駅のホームに滑り込んでいった。
「おのみちぃ、おのみちぃ」
ホームに響いている声を聞くともうたまらない。涙があふれてきて止まらない。
芙美子は尾道に降り立った。潮が匂い、これに交じって微かに魚の臭いもする。彼女は、ここを立った時をこう回想している。

貧しい私達親子三人が、東京行きの夜汽車に乗った時は、町はずれに大きい火事があったけれど......。「ねえ、お母さん! 私達の東京行きに火が燃えるのは、きっといい事がありますよ。」しょぼしょぼして隠れるようにしている母たちを、私はこう言って慰めたものだけれど......だが、あれから、あしかけ六年になる。私はうらぶれた体で、再び旅の古里である尾道へ逆もどりしているのだ。気の弱い両親をかかえた私は、当もなく、あの雑音のはげしい東京を放浪していたのだけれど、ああ今は旅の古里である尾道の海辺だ。海添いの遊女屋の行(あん)燈(どん)が、椿(つばき)のように白く点々と見えている。見覚えのある屋根、見覚えのある倉庫、かつて自分の住居であった海辺の朽ちた昔の家が、五年前の平和な姿のままだ。何もかも懐(なつか)しい姿である。少女の頃に吸った空気、泳いだ海、恋をした山の寺、何もかも、逆もどりしているような気がしてならない。
尾道を去る時の私は肩上げもあったのだけれど、今の私の姿は、銀杏返(いちようがえ)し、何度も水をくぐった疲れた単(ひと)衣(え)、別にこんな姿で行きたい家もないけれど、とにかくもう汽車は尾道にはいり、肥料臭い匂(にお)いがしている。
放浪記 林芙美子 岩波文庫 二〇一四年刊


「ああ今は旅の古里である尾道の海辺だ」、当地に着いて身体を駆け抜ける感動をこう書いている。芙美子は十三歳から十九歳までの多感な時期をこの尾道で過ごした。終生忘れがたい地だ。ここに着いたとたんに離郷した夜が思い起こされた。半鐘が不気味に鳴っていた。向こうの空は赤い、それを横目に改札を抜ける。すると上りの黒い機関車がごしょるるごしょる音を立ててホームに入ってきた。手を振る間もなく汽車はたちまちに動き出し、この海と山とに挟まれた町にポォォォと長い汽笛を残して立ち去って行った。時間はたちまちに経ってあれから六年、今自分はここに立っている。



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2021年10月20日

下北沢X物語(4349)―花のお江戸を歩いて巡る 下―

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(一)花のお江戸の町歩きは小伝馬町に始まった。大伝馬町と共に江戸最古の町の一つだ。名の由来は運送をしきる「伝馬役」が住んでいたことによると。馬によって全国から物資が集まってきた。五街道の起点は日本橋だった。花のお江戸の中心地だった、連綿と続いた江戸時間の中で生きたのが長谷川時雨だ、『旧聞日本橋』は優れたエッセイだと原敏彦さんが誉める。確かにそうだ、夫の三上於菟吉が、序に「人文史的に見るも意義なしとせぬ」と記している言えば江戸時間文化史だ、やはり彼女は煌めく江戸時間の中で生きている。三上は「内心にはいつも過去の日本橋ッ子としての気魄が残映して、微妙にその感情を操作している」と批評する。気っ風の良さもあったのだろう、雑誌『女人芸術』を主宰し、多くの女流を育てあげた、江戸東京時間に生きたことが彼女の気魄をも醸成したのだろうか。

『旧聞日本橋』の序では、長谷川時雨はこういう。

私の知る日本橋区内住居者は――いわゆる江戸ッ児は、美化されて伝わったそんな小意気なものでもなければ、洗練された模範的都会人でもない。かなりみじめなプロレタリヤが多い。というよりも、ほろびゆく江戸の滓でそれがあったのかも知れない。

確かに江戸っ児というのは、美化されている。「粋で勇み肌の気風、さっぱりとした態度、歯切れのよさ、金銭への執着のなさなどがあり、また浅慮でけんかっ早い点もある」と。

江戸っ児は、「粋でいなせ」だと、かっこ良い、垢抜けがしていて色気も漂う。これもやはり活気の中で醸成されたものだろう、江戸日本橋には輝いている時間があった。

水戸部於菟吉は、「彼女は寺小屋風が多分に遺った小学校に学んだり、三味線、二絃琴の師匠にも其処で就いた」と紹介する。やはり日本橋という場である。寺子屋で論語を習う、一方帰れば、三味線や二弦琴にいそしむ、ここのお師匠もただ者ではない、ここで師匠でいることが誉れである。他人の弾く音を聞いただけですべてがわかるほどの手練れである。江戸日本橋で育てば、音感も優れていく。表現などでは大事だ、調子のよい語調は文学では必須だ、そういうものが自然と学べたというのも江戸日本橋だ。

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2021年10月18日

下北沢X物語(4348)―花のお江戸を歩いて巡る 中―

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(一)花のお江戸巡りは想念を刺激した、ふと思ったのは松尾芭蕉は江戸時間を携えて深川へ、立原道造は東京時間を心に宿して信州追分へ行ったと。両者は都時間を携えその地に赴いた。江戸東京時間は絶えず磨かれて緊張していた。が、都から離れて田園に身を置くとこれが弛緩する。静寂が際立ち、木枯らしが吹くと身を襲ってくる。また汽車で追分に赴くとゆふすげという黄色の花がいっそうに際だって見えた。中心時間では思わなかったことがことごとく新鮮に思われた。都鄙との対比において両者ともに新しい詩境に入った。芭蕉が深川に移ったのは三十七歳、色恋からは遠ざかる年、作風も枯れてきた。蛙が飛び込む音に深い感銘を受けた。道造の追分訪問は二十歳だ。泡雲幻夢童女を熱く想った。追分では人を想う気持ちは一層に募った。

花のお江戸を巡る旅、行く道はビル街だ、が、お江戸時間の残滓は感じられる。これはそこここに転がっている。甘酒横丁をゆくハィヒールがカツカツと響き渡る。して連想されたのが大門通りを吉原に向かう旦那のザッザッという元気な足音だ。と、その旦那が立ち止まる、「もうそろそろだな」、石町の鐘が鳴るはずだが聞こえてこない。と、一瞬、キィンと金属の打音が聞こえたように思った、そしてすぐにゴーン、ゴーンと鐘の音、「そうか今日は刑執行の日、誰かの首がはねられたのだな」と思った。

刑場で処刑が行われる日などは鐘撞き番が鐘を撞く時間を遅くし、処刑の時間を遅くしたと言われている。
その旦那、「おっと時間だ」、茶屋でのお時との待ち合わせを思い出して急いだ。お江戸時間は慌ただしい。日本国では一等、瞬間瞬間が生きている。生身の時間には詩が生まれない。

そうだここだった。この日本橋で大江戸時間を過ごしていたのは芭蕉だ。彼は深川に引っ越した。そして詠んだ句、「古池や蛙飛び込む水の音」だ。ぼっちゃんという音の間合いと静寂......

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「あの辺りですよ」
案内人の原敏彦さんが交差点で立ち止まり、大通りの向こうを指さした。そこには青いビルと茶色の細長いビルとに挟まれた古い木造が建っていた。
「何が?」と私は聞いた。
「立原道造です」
現住所では中央区東日本橋三丁目辺りだという。
「そうかそうか、立原道造は都会人だったのだ!」
妙に納得することがあった。
我等に縁が深いのは北原白秋や三好達治である。
「友だちの紹介で立原道造は、北原白秋が若林に住んでいたときに訪ねていったのですよ」
原さんの説明だ。きっと渋谷から玉川電車に乗って若林に行ったのだろうと思った。

「立原道造は雑誌『四季』の同人でしたから三好達治とも親交があったのです」
三好達治が彼の死を悼む詩があった。

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2021年10月17日

下北沢X物語(4347)―花のお江戸を歩いて巡る 上―

北文保会 明治座前にて
(一)荏原の代表的な町としては三軒茶屋が挙げられる。が、当地は「大武蔵野から『現代』へ直結」(『東京万華鏡』松岡容)、言わば大根畑に忽然と現れた町だ。その対極にあるのがお江戸だ。ワンブロックごとに歴史逸話が詰まっていた。我等はその花のお江戸に昨日繰り出した。小伝馬町から歩きはじめた、まずは十思公園だ、薄暗い隅の石碑には怨念の籠もった自筆が刻まれている「身はたとひ武蔵野に朽ちぬとも留置かまし大和魂」と。この一角にあった刑場で処刑された吉田松陰の碑だ。案内人の原敏彦さんによるとこの「江戸伝馬町処刑場」跡は買い手が付かなかったという。数多くの血を流した処刑場、気配というのは怖ろしい。彼の話を聞いていると次第に霊気が漂ってくる、花のお江戸歩きは江戸の怨霊が渦巻いている場から始まった。「ヒュー、ドロドロ、おそろしや」

原さんは、伝馬町牢獄は明治八年に廃止されるが、その跡地は忌まわしい土地とし人々に深く刻まれていたと。配布資料には、長谷川時雨の『旧聞日本橋』の「牢屋の原」が引用されていた。自分の父親にこの土地をくれてやるという話があったようだ

「あすこはな、不浄場といってたが、悪い奴ばかりはいないのだ。今と違ってどんなに無実の罪で死んだものがあるかしれやしない。おれは斬罪になる者の号泣を聞いているからいやだ。逃がれよう、逃れようという気が、首を斬られてからも、ヒョイと前へ出るのだ。しでえことをしたもんで、後から縄をひっぱっている。前からは、髷まげをひっぱって、引っぱる。いやでも首を伸す時に、ちょいとやるんだ。まあ、あんな場処はほしくねえな。」

P1020903
江戸幕府の専制的な支配体制、幕府に盾突く者はことごとく排除された。それは容易に想像がつく。極悪人は首を斬られたであろう。が、罪のないものも大勢引っ張られてきて処刑された。その者たちの怨念は怖ろしい。いつまでもそれは生きていて、現世の人に訴えてくる。人々の恐怖というのは刺激でもある。怨念や怨嗟が何千何百と眠っている。こういう所があるということは、芝居の種が転がっているということでもある。長谷川時雨は戯作者でもあった。

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2021年10月15日

下北沢X物語(4346)―リニア批評的文化論 下―

035のコピー
(一)時は金なりという、リニアはその時を速めて運ぶ、おいしい時間を創り出すものである。「経済財政運営と改革の基本方針2019」ではリニアを敷設して首都圏、中部圏、関西圏が一体化し、ここにスーパー・メガリージョン、超巨大経済圏が生まれる。そして、これからの時代にふさわしい国土の均衡ある発展を図ると謳う。ほとんど訳の解らない夢物語だ、一番引っ掛かるのはリニアがなぜ『国土の均衡ある発展に』に結びつくかだ。おいしい時間は首都圏、中京圏、関西圏にしか生まれない。現状、現在、地方の衰退は無惨だ。かつて賑やかだったアーケードの横断歩道には人もいないのに「カッコウ、カッコウ」という曲が空しく鳴り響いているだけだ、そんな田舎都市までリニアは恩恵を施すのだろうか?そのロジックが全く見えてこない。/リニアは人間的か?これは疑問だ、超高速列車に窓という心がないからだ。車窓こそは文化なのである。

汽車旅をするときの悩みがある。右に座るか、左に座るかという問題だ、鉄道開通時以来の悩みである。泉鏡花の小品に『左の窓』というのがある、汽車で西下する弥次喜多道中だ。

東海道線で静岡を過ぎた。現今の水問題で揺れる大井川に差し掛かる。

このあたりより雨もよひとなる。程なく大井川近づけば、前途遙かに黄昏の雲の中に、ささにごりの大河の色、輝くが如くに見ゆる。今の間の富士の、後なる方に遠ざかり行く心地すめり。『鏡花全集』巻二十七 岩波書店 1976年

作品は明治三十七年七月に発表されたものだ。今の大井川は、いわゆる河原砂漠がどこまでも広がっている。が、この当時は水は豊かだった。「ささにごり」は、薄にごりのことだ、濁ってはいるが大河にはとうとうと水が流れていた。
やはり道中、最大のみどろころは富士である。ずっと眺めてきた富士が次第に後方に去って行く。この眺めにも味がある。この場合は、「右の窓」に陣取っていたらしい。

在来線で東海道を西下するときは迷いはない。やはり左だ、海が見える。ハイライトは根府川の海だ、開通以来、数百億人が目を凝らして眺めていった海だ。
「丹那トンネルを抜けたら、今度は右よ」
誰もが考え思ったことは、つぎに見えてくる富士である。

新幹線でも左か右か悩みはある。が、万人が好むのはやはり右の二列席だ。お目当てはやはりなんと言っても富士だ。

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(二)
車窓は文化を写す鏡である。

「明日からいよいよ修学旅行だ、楽しみはなんといっても窓辺だな、車窓は教材だ、生の教材だよ。景色が変わっていく、ぼんやりみていてはだめだな。いいか、屋根の色、そして形だな、とくにな農家の作りだ、構造が違ってくるんだよ。畑の色合いも大事だな、川だってな、水の色、ああ、そうだ河原の石ころこれも面白い、色をみるんだ、黒とか白とか、上流にある山の地質がこれでわかるんだ......」
「先生、国語の先生は、女性の色を見ろって、山陽本線ではだんだん京大阪に近づくにつれて女性の色が白くなるんですって......」
「あっはっは、夏目漱石かぶれの先生のいうことだな、『三四郎』にその話は出てくるんだよ」


車窓文化論が面白い。民俗学者の宮本常一が父から知恵を授けられたことは有名だ。

汽車へ乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ。駅へついたら人の乗りおりに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また、駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。

(三)
リニアには車窓風景がない。リニアの試乗でこれに乗った人が、「旅情の薄いドライな空間」だと感想を述べている。リニアでは車窓はお飾りである。

かつて安倍総理とケネディ駐日大使がリニアに試乗した。彼女は窓から一二秒富士が見えたときに歓声を上げたという。たしかに今は地上走行区間があって瞬間的に富士は見える。ところが、リニアは完成した暁には地表露出部分の軌道には「土管」、コンクリート製の防音フードで覆われるという。車窓はあっても意味はなさない。
「白い筋チラチラしたと思ったら、驚きよ、名古屋ですって!」

旅とは何か?移動という過程において生きている己を感じることだ。
リニアにはプロセスがない。600キロという超高速が過程を抹殺するからだ。


リニア通る大鹿村は縄文時代から人々が住んでいた。南アルプスに囲まれた沢の村だ。
工事の始まった村にはあちこちに残土の山が築かれていると聞く。数千年人々がそこに住んで居住場所を決めてきたはずだ。長い歴史の上に暮らしてきた。が、こつぜんと機械が現れ穴を掘り出した。出てきた残土は深い考えもなく沢につみあげられる。数千年の人々の知恵も瞬く間に埋められていく。プロセスを無にするリニアは罪深い。
リニアには理がない、そして魂がない。
(写真上は、春の甲府盆地、下は、リニアの東雪が谷非常口工事現場)





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2021年10月14日

下北沢X物語(4345)―リニア批評的文化論 上―

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(一)来年2022年秋に西九州新幹線は開業する、まず名称からして分かりにくい。それはどこ?実は長崎新幹線である。が、開業するのは武雄温泉と長崎間だけである。開通による所要時間の短縮は15分程度だと。開業、開業と長崎は湧いているが、隣の佐賀は冷静だ。新幹線建設には反対しているからだ。佐賀は新幹線ができても恩恵は受けない。今の交通体系で十分だというからだ。いわゆる整備新幹線では地元は莫大な建設費を負担せねばならぬ。加えて線が完成すれば在来線を引き受けなければならない。何のメリットもない新幹線は不要だという、現今の在来線の特急「かもめ」が配分する時間で十分だという。「そぎゃん速くいくことはなかとよ」というのが大方の県民の思いだ。新幹線を作って儲けようという国策が、ここで頓挫してしまっている。一方リニアだ。600キロで走り抜け、即、きしめんが食える。が、これとて時間短縮は一時間程度、このために何兆円も費やし、山紫水明な美しい田園都市国家が破壊される。そうまでして作る必要があるのか?今、方々で疑問の声が上がっている。そんな中で今日から品川で試掘が初まった。

報道によるとこうだ。

今回の試掘では、深さ90メートルから水平に300メートルほど掘削し、現場の管理が適切に行われるかや、地盤の変化などを調査します。その後の本格的な工事について、JR東海は、「試掘」の結果を住民に説明してから実施するとしています。

この工事現場は品川区北品川四丁目だ。西側は目黒川だ、よって現場は川底になる。
会社側は、「コースの真上にあるのはJR東海や外部企業の敷地、道路、河川で、住宅はないとしている」と。川底に関しては工事経験が豊富で問題は生じないだろうと思う。

しかし、今、誰もが不安に思っているのは住宅街直下での工事だ。いわゆる外環道での大深度法による掘削で地表に穴が空いた。人々の不安を和らげるには品川ではなく東雪が谷非常口からはじめるべきではなかったか。JR東海は「『試掘』の結果を住民に説明してから実施する」と言うが、説明会での説明は、この試掘場所から結果が目に見えている。「300メートルほど試掘しましたが、まったく問題はありません。よって本工事に掛かります」
説明会とはいうが彼らにはいつもプロセスである。これが終わると、いくら会場が騒いだところで「時間です」と打ち切る。そして、「説明会を開いて納得いただけました」と言う。事後の取材の口上まで予想できる。
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2021年10月12日

下北沢X物語(4344)―女流汽車文学:林芙美子 2―

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2、『放浪記』の汽車名場面
(1)遠賀川鉄橋を渡る(第一部)
『放浪記』、新版は三部に分けられている。その第一部は、「放浪記以前」とタイトルがつけられている。本文は「私は宿命的な放浪者である。私は古里を持たない」で始まる。まず「私が生まれたのはその下関である。」とし「私が初めて小学校に入ったのは長崎であった」と述べ、「それを振り出しにして佐世保、久留米、下関、門司、戸畑と言った順に、四年間に、七度も学校をかわって、私には親しい友達が一人もできなかった」と回想する、この放浪の果てに炭鉱の町、直方にやってきた。
ここでの父と母と芙美子との暮らしは貧しかった。母はバナナを私はアンパンを売って日々を凌いでいた。実父は「唐津焼を仕入れると、佐世保へ一人で働きに」と出奔してしまった。

「じき二人は呼ぶけんのう......」
こういって、父は陽に焼けた厚(あつ)司(し)一枚で汽車に乗って行った。私は一日も休めないアンパンの行商である。雨が降ると、直方の街中を軒並にアンパンを売って歩いた。
このころの思い出は一生忘れることは出来ないのだ。私には、商売はちょっとも苦痛ではなかった。一軒一軒歩いて行くと、五銭、二銭、三銭という風に、私のこしらえた財布には金がたまって行く。そして私は、自分がどんなに商売上手であるかを母に賞めてもらうのが楽しみであった。私は二カ月もアンパンを売って母と暮した。ある日、街から帰ると、美しいヒワ色の兵児帯を母が縫っていた。
「どぎゃんしたと?」
私は驚異の眼をみはったものだ。四国のお父つぁんから送って来たのだと母は言っていた。私はなぜか胸が鳴っていた。間もなく、呼びに帰って来た義父と一緒に、私達三人は、直方を引きあげて、折尾行きの汽車に乗った。毎日あの道を歩いたのだ。汽車が遠賀川の鉄橋を越すと、堤にそった白い路が暮れそめていて、私の目に悲しくうつるのであった。白帆が一ツ川上へ登っている、なつかしい景色である。汽車の中では、金鎖や、指輪や、風船、絵本などを売る商人が、長いことしゃべくっていた。父は赤い硝(ガラ)子(ス)玉のはいった指輪を私に買ってくれたりした。
放浪記 林芙美子 岩波文庫 二〇一四年刊


機関車がポーっと汽笛を鳴らした。とたんに列車がガタンと動いた。直方駅のホームが後じさる。炭鉱の町の屋根が飛んでいく。芙美子の印象だ。

骸炭のザクザクした道をはさんで、煤けた軒が不透明なあくびをしているような町だった。駄菓子屋、うどんや、屑屋、貸布団屋、まるで荷物列車のような町だ。

客車列車に乗った私は、動かない荷物列車のような町が窓辺の向こうに消えて行くのをじっと見ている。とたんに床下で車輪がグゥルルグゥルルと鳴った。構内には引っ込み線が何本も横たわっていた、これへ繋がる分岐器を渡ったからだ。すぐに右手に土手添いの道が見える。雨の日も風の日もアンパンを売るために毎日歩いていた道だ。汽車は、思いの道を知らんぷりして捨てていく。そして二つほど小駅を拾った後、急に右カーブした。カタトッテ、トタトッテという音がガタドンデンという大きな音に変わった。遠賀川の鉄橋だった。土手に沿ってどこまでも続く白い道が夕陽に赤く染まって流れていく。川には帆を張った一艘が上流へとゆっくりと進んでいく。帆もほの赤い。
右手向こうには香春岳が見えている、売れ残ったアンパンをこっそりと食べているといつもこれが見張っていた。懐かしい山、そして川、もうこれともお別れだ。

汽車の響きは書き表されない、が、それらの音は文章の行間から響いて聞こえる。間違いなく幼い芙美子はそれを聞きながら窓の外に見入っている。常に床下で響いているのは走行音だ、列車がぐらりと揺れるとごろんごろんと牛乳瓶が転がってくる。
汽車の中は煙草の煙でもやっている、乗客がてんでに喋っている、その声が響いてくる。
「指輪はほんものじゃなかとよ、まあ、偽物じゃ、だけどそれはどがんでんよかごた、つけてみて可愛きゃ、それでよかとよ......」
物売りが煙草を吸いながら話をしていた。
ここでの描写のポイントは、遠賀川の鉄橋だ、加えるならここを渡る音だ、彼女は記していないが、私には聞こえる。鉄橋は結節点だ、これまで過ごしてきた世界とこれから行く世界とを分けているのが川であり、鉄橋である。
とある日、彼女が帰ると母が目にも鮮やかな黄緑色の兵児帯を縫っていた。
「お母さん、どぎゃんしたね?」
「四国の父さんがあんたのために送ってくれたとよ」
とたんに何かが変わる予感がした、胸が高鳴った。少女のときめきだ。実際に義父が私たちを迎えにきた。それで石炭の町を離れることになった。
汽車は私を乗せて遠賀川を渡っていく、こちら側には過去があるが、向こうには新しい未来がある、鉄橋を渡る音を聞いて芙美子はときめいたろう。



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2021年10月11日

下北沢X物語(4343)―女流汽車文学:林芙美子 1―

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(一)汽車文学という場合は、ほとんどが男性だ、が、汽車好きの女性もいる。これは興味深い、やはり女性は感性が違う、男性が書く汽車文学とはどう違うのか。シリーズで掲載してみたい。まず、人物は、林芙美子である。つぎに全体のタイトルだ、「汽車の響きに泣き濡れて」だ。最後に生没年を挙げよう。1903年〈明治36年〉12月31日 - 1951年〈昭和26年〉6月28日

1、立っても汽車坐っても汽車

汽車の出現によって人々は行き来の自由を得た。誰もが旅に行けるようになった。この旅というのは文学と深い繋がりがある。人は旅に出てさすらうことで新しい発見をした、西行にせよ芭蕉にせよ、その思いを和歌なり俳句に言い表すことで彼等の文学は成り立った。が、この漂泊の旅に出たのは皆男性である、流離いというのは男の独壇場であった。ところが、汽車の出現は男のみならず女にも旅の自由を与えた。この汽車による旅には新しい感動があった。車窓に眺められるのは「廻り灯籠の絵」である。これらを描いた「汽車の窓から」(谷口梨花)などの紀行文が多く出て、ベストセラーになった。しかし、これもまた書き手は男である。が、昭和期になると汽車旅は大衆化してきた。これによる変化も生まれる、汽車の旅が日常化することで女性も多く旅をするようになった。汽車話は男性の専有物であったが、女流が入ってくることでもこれが崩れてくる。
鉄道とジェンダーは大事な視点である。女性は近代の機械をどう受け入れ、これをどう血肉化してきたか?この鉄道文学史に登場するのはほとんどが男性だ、章段を閉じるに当たっては、ぜひとも女流の汽車を入れたい。
その前に汽車好きの女流はいるのかという問題がある。が、全く心配に及ばない、居る、候補に上がったのは二人だ、一人は宮本百合子である。彼女のエッセイに「田端の汽車そのほか」というのがある、その一節だ。

私たち子供達が田端の汽車見物をしたのは、その坂を下りず、草道を右にきれた崖上であった。ころがり落ちないような柵のあるところで、一人の女の子とそれより小さい二人の男の子とは、永い永い間、目の下に活動する汽車の様子に見とれた。汽罐車だけが、シュッ、シュッと逆行していると、そのわきを脚絆をつけ、帽子をかぶった人が手に青旗を振り振りかけている。貨車ばかり黙って並んでいるところへガシャンといって汽罐車がつくと、その反動が頭の方から尻尾の方までガシャン、ガシャンとつたわってゆく面白さ。白い煙、黒い煙。シグナル。供水作業。実に面白くて帰りたくなるときがなかった。
宮本百合子全集 第十七巻 新日本出版社 一九八六年


幼い頃の思い出だ。ここでの逸話、心ときめく鉄道情景を見事に描いている。彼女は明治三十二年(1899)生まれだ、十歳頃としても明治末年だ、ここ田端には操車場があった。ここでの貨物の入れ替えがおもしろくてたまらなかったようだ。
機関車がバックして停まっている貨車にぶつかる、ガシャンと音が鳴る、するとそれが順々に、ガタン、ガタン、ガタンと音を立てて後尾車両まで行って鳴り止む。すると遠くで青旗が振られる。その光景は見飽きることがない。帰るもんかと彼女は思った。
宮本百合子の汽車旅経験は豊富だ。国内旅行だけでなくアメリカに行ったり、ソビエト・ロシアも訪れている。シベリア横断鉄道に乗ったときの経験を「新しきシベリアを横切る」に記録している。汽車旅の手練れは車窓を見る目は確かである。印象深いのは、『播州平野』で描かれる車窓だ。

一日に一本出る下関行下り急行が東京駅の鉄骨だけがやっとのこっている円屋根の下を出発してから、見て来た沿線の景色は、それを景色だと云えただろうか。京浜はもとより、急行列車が停るほどの市街地は、熱海をのぞいてほとんど一つあまさず廃墟であった。田舎らしい緑の耕地、山野、鉄橋の架った大きい河、それらの間を走って、旅めいた心持になる間もなく、次から次と廃墟がつづいてあらわれた。
宮本百合子全集 第六巻 新日本出版社 一九八六年刊


鉄道は都市と都市とを結ぶものである。が、その様相はいつもとは異なる。東京駅を発った下関行き急行、走り出すと常ならば車窓に色合いのあるパノラマを映していく。ところが乗客の口から漏れてきたのは、「まあ」とか、「ひどい」とかの声だった。窓辺には焦土と化した廃墟がつぎつぎとめくられていく。どこもここも空襲によって焼き滅ぼされていた。カタトッテ、トタトッテと快調に走ってはいくが、乗客の心は暗く曇っていくばかりであった。
宮本百合子、汽車からの観察眼には鋭いものがある。プロレタリア作家には情熱がほとばしる、「女闘士の熱い汽車」でもよいが、男性に近いような気もする。
もう一人の女流は林芙美子である。彼女も宮本百合子に負けていない。シベリア鉄道に乗ってパリまで一人旅をしている。彼女は自分の嗜好について「花が好き、その他には、一ヶ月のうち二、三度は汽車へ乗っている。旅が好きで仕方がない」(『生活』)と述べる。
彼女の代表作として知られているのは「放浪記」である。近代の放浪である、行乞の俳人種田山頭火の代表作に「あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ」というのがある、まさに放浪の旅人であった。
林芙美子の場合はどうか、「立っても汽車坐っても汽車」、大方が鉄路による旅路だった。涙脆い彼女の鉄道は抒情性に富む、それで彼女の汽車を選んだ。
(旧新橋駅)



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2021年10月09日

下北沢X物語(4343)―松本飛行場飛来特攻機の謎 了―

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(一)今朝の新聞は「強権批判 2記者に平和賞」トップで報じている。ロシアとフィリピンの記者である。指導者の権力が強大な国家だ。こういう国家の支配者は人々をコントロールし始める。国家に盾突くと牢獄に入れられる。香港がいい例だ、あれほど盛り上がっていた反体制運動もすっかり沈んでしまった。「国家安全法」を発布し、国家に盾突く者を法律で縛ってしまった。自由はない、戦時中の日本でも同じだ。昭和19(1944)年10月29日の朝日新聞(東京本社版)の一面トップ記事は〈神鷲の忠烈 萬世に燦たり 神風特別攻撃隊 敷島隊員 敵艦隊を捕捉し(スルアン島海域) 必死必中の體當り〉軍部報道一辺倒だ、これによって人々は燃えた、「やっぱり日本もやるではないか!」と。プロパガンダが奏功した。記事には「機・人諸共に敵艦に炸裂」とある、人権なるものはみじんもない。が、特攻の流れを作ったのは、この「神風特攻隊」への世論操作だ。

敗色が濃厚になっても軍部は徹底抗戦を唱えた。根底には恐怖があった。負けると伝統ある日本国が無くなってしまうと考えていたことからだ。それで強行策に出た。戦争末期になって先は見えていた。勝ち目はないだろうと。しかし、その中で特攻戦法を採用した。この考えの中に「一撃講和論」があった。敗退していく中で少しでも効果を挙げられれば講和を優位に導けるという考えだ。必勝を期しての戦略ではなかった。が、一撃ごとに己の身を削いでいく。そのために若者が犠牲になっていく。

前に防衛研究所戦史研究センター史料閲覧室に調べものをしにいったときに教わったことがある。なぜ山奥に松代大本営を作ろうとしたか?
「国家が戦争で負けたときには、敗北した主体がないと敵と交渉がができなくなる。それで敗北主体を守るために作った」
そんなことを教わった。敵にどう負けるのか。大事な点であった。が、必勝を期しての特攻作戦でなかったことに疑念を覚えたことがある。
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2021年10月08日

下北沢X物語(4342)―松本飛行場飛来特攻機の謎 下―

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(一)「荒鷲へ入魂の特攻機を送れ」、1945年7月19日、誠第31飛行隊の飯沼芳雄伍長はこの日出撃に当たって財布を取材記者に渡し「役立てて下さい」と言った。伍長は多くは語らない。が、記者はそこには突撃していく者の悲痛な願いが籠もっていると考え。読者国民に彼に代わってその思いを訴えたものだ。突撃しようにもその思いが十全に生かせない。出撃機の整備は念入りに行われた。が、そこには機の不調で辛うじて生還した者が繃帯を巻いた痛々しい姿で整備に加わっていた。中古機の特攻機はどうにかしようとしてもどうにもならなかった。7月19日は八塊から四機、花蓮港から四機が飛び発った。後者は一式戦三型、全員が特攻を完遂した。後者は九九式襲撃機二機は不時着したり、崖に激突したりした。これが飯沼機である。九九式をあてがわれたものの悲劇である。

松本飛行場飛来特攻機の謎であるが、この一端は解けた。陸軍松本飛行場には第五航空軍から爆装改修をするために戦闘機が飛んできた。この機種は九九式襲撃機だ。

平壌に戻ったところで、特攻編成命令が出た。保有機九九襲撃機を割り振った。これの指示は大本営である。特攻五隊を編成し、第八航空師団と第六航空軍に送れという指示だ。先に示した「と号第二八飛行隊」は不明である。「誠第二八飛行隊」は、第八飛行師団傘下に入るように指示された。

一方、振武七十一、七十二、七十三は、第六航空へ行けと命令された。が、これは途中で命令が変わって振武七十一は、第八航空師団へ編入となった。

さらにまた第八航空師団についた、誠第二十八と誠第七十一は、乗機が九九式襲撃機で機種が同じであること、また、編成担任部隊も同じであったこと。これらのことから両隊を合併することにした。これが誠第七十一飛行隊だ。

繰り返し述べるが、松本で何機が爆装されたかはわからない。想定できることは一回だけではなく複数回来ていたとも考えられる。

誠第二十八飛行隊、誠第七十一飛行隊、振武隊七十二、振武七十三隊は九九襲襲撃機で構成されているが、明確に言えることは松本で爆装した機が混ざっていることだ。

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2021年10月06日

下北沢X物語(4341)―松本飛行場飛来特攻機の謎 中―

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(一)書くことは発見することでもある。昨日、ここで取り上げた近代戦争史の謎は、気楽に書いていた。今、向かい合っている『台湾沖縄出撃特攻最終章−陸軍八塊飛行場−』から逸れるからだ。ところがブログ記事を書いていて、「あれれ!」と思った。松本から第五航空軍に戻った特攻機は、振武七十一、七十二、七十三となって特攻出撃したと記した。このうち振武七十一はないと言った。ところが調べているうちに「これは書き間違いだ!」と直感した、すぐに調べてみると「振武」は、番号七十一を意図的に抜かしてまっことマコト、「誠」に譲ったようだ。そう誠第七十一飛行隊はちゃんと存在する。ここで嫌な予感と、いい予感とを覚えた。「この話は、本命に繋がってくるのではないか!」予想通り「ビンゴ!」だ。この隊は本命も本命、陸軍八塊飛行場から出撃していた!

不明であった戦争時の歴史の綾が見えてきた。
「あれはいつだったか?、松本平上空を戦闘機の群れがいくつもいくつも繋がって飛んでいったのを覚えていますよ」
安曇野の人の証言である。これも多分、他飛行場からきたものだ。やはり爆装改修に来てたのだろうか。

この記録者は、「私は朝鮮平壌府朝鮮第百一部隊第十三教育隊」にいた河合登という人だ。当人は、「昭和十八年大刀洗陸軍航空教育隊隈庄教育隊」に入った。ここで六ヶ月間の教育を受けた。その後彼は朝鮮に渡る。

戦闘機、偵察機、軽爆、重爆、輸送機などに分かれるが、私は軽爆で朝鮮咸鏡南道宣徳朝鮮第百十部隊において九九襲撃機による戦技教育を受けた。 『思い出』 河合登

ここで大事なのは機種である。九九式襲撃機に乗っての訓練だ。これによる訓練を終えて卒業となり、操縦者となった。そして配属されたのが「朝鮮平壌府朝鮮第百一部隊第十三教育隊」、今度はここで教官となった。

飛行学校を卒業したらすぐに教官となる。操縦者が払底していたからだ。

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2021年10月05日

下北沢X物語(4340)―松本飛行場飛来特攻機の謎 上―

武揚隊飯沼伍長田川小にて
(一)近代戦争史の謎だ。沖縄戦たけなわの1945年3、4月頃、浅間温泉には相当数の特攻隊員が滞在していた。この時、世田谷から学童が疎開していた。代沢校、東大原校、山崎校、駒繋校、二子玉川校である、当時旅館に居合わせた学童らから取材をしてこの事実を知った。一体、彼らはどこの何隊なのか?調査して分かったのは二隊のみだ、誠第三十一、誠第三十二飛行隊である。他は不明だが、辛うじて聞き知っているのは浜松の重爆隊、それと学童のメモにあった「振武隊」だ。第六航空軍の隊であることは分かる。全貌はまだ謎だ、つい最近偶然に分かったのは第五航空軍所属の特攻隊が来ていたことだ。これによって飛来の謎が解けてきた、キーワードは、「爆装改修」である。

誠第三十一飛行隊の飯沼芳雄伍長(写真)は松本市出身の特攻隊員である。彼の隊は満州新京で二月十日に発足した。ここを飛び発ち、内地に戻ってきた。当初は各務原へ行くはずだったが、計画が変更になって松本へやってきた。思いがけない帰郷だ。彼は喜びのあまり松本渚の家の上空を超低空で旋回した。息子が浅間温泉に宿泊していると聞きつけた母親は好物のぼたもちを作って持って行った。彼は「うまいうまい」と言ってたらふく食ったという。

彼が所属する隊は武揚隊、この後、松本を飛び立ち、九州新田原まで行く。ここで誠隊の本拠地の台湾まで行けと命令される。済州島、上海、杭州と回ってようやく台湾に着いた。ところが途中多くの仲間を失ってしまう。

原因の一つが戦闘機だ。九九式襲撃機だ、ノモンハン事件当時に作られたもので中古機だ、足が遅くて重い、それで途中敵機に遭遇して三機が撃ち落とされる。他機も故障を起こしたり、不時着したりもして、かろうじて8人が台湾に辿り着いた。

飯沼伍長は台湾では待機した。五ヶ月待ってようやく7月19日に出撃をした。このときに彼は記者からの取材を受けている。それが終わって彼は財布を記者に託した。飛機献金である。新しい飛行機を造るのに使ってくれと。飯沼伍長は出撃するが目的は完遂できなかった。宮古島の崖にぶつかって戦死した。

記者は、国民に向けて「入魂の特攻機を送れ」と訴えた。特攻機は最後に所属した隊で受け取る。新鋭機か中古機かというと、後者になる。九九式襲撃機は特攻隊員を最も多く運んだ機だ。「空飛ぶ棺桶」とも密かに言われた。

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2021年10月03日

下北沢X物語(4339)―三軒茶屋・太子堂の文化探訪 下―

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(一)「あれはとんでもなく素晴らしい地図ですよ!」歌手だという人から誉められた。その連れ合いの井原修一さん、「うちのやつは、こういうこと普段言わないのですよ。おとなしいですからね、でも『下北沢文士町文化地図』に接してからびっくりしましてね。マークされている人々をちゃんと見ていって驚いたのですよ。それからは地図を親しい人に紹介しているのですよ」。緊急事態解除明けの昨日は何だか「邪宗門」は皆、お祭り気分だった。マスターが元気になって店を開けたからでもある。そこで初めて出会った女性歌手から飛びっきり誉められた。昨日は会報183号を届ける日だったのだ。いつもこれを待っている人がいる。橋本さんだ、封筒に入れる会報を折るボランティアだ。彼も交えて久しぶりの出会いで興奮していた。「先生、兄弟地図はおかしいですよ。姉妹地図ですよ」と米沢さん、「なるほどそうだよね、やっぱり色気が必要だ!」ということで決まった。副題「下北沢文士町文化地図姉妹版」本タイトル「三軒茶屋・太子堂界隈文化地図」としよう。「ああ、いいですね」と新しい地図の打ち合わせに来ていた田島哲夫さんも頷いた。

会報はいつも三軒茶屋キャロットタワー三階の市民支援活動コーナーで印刷をする。終わって一階に出たところでふと足が向いたところがある。
「三軒茶屋観光案内所」
釣りに行って当たりを確かめに行った。
「三茶の町歩き地図はありませんか」
「そういうのはありませんね。部分部分案内したものはそこにありますね」
区などが発行しているパンフレットだ。それはおおよそは知っている。が、開いて驚く人はいない。
このところコロナ禍で春に行っていた地図配りは行っていない。これは毎年のおたのしみである。
「地図配りは最高の文化活動である」
なんだこんなものともらった人はうさんくさそうにしている。ところが約十歩ぐらい進んだところで地図を開いて多くの人が立ち尽くす。さっきの歌手の人と同じでビックリする。印象が強烈であるゆえに、過去が刺激される。
「うちの隣に、〇〇という作家が住んでいました!」
引き返して教えにくる人もいる。忠告してくれた人もいる。
「これ以上調べるな、同人誌級の人が入るようになると質が落ちるから......」
鋭い指摘である。思うに、我等が「文士町」と括っている地域の人は、知性がある。

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2021年10月02日

下北沢X物語(4338)―会報第183号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第183号
2021年10月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 長井 邦雄(信濃屋)
事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、構想:三軒茶屋・太子堂界隈文化地図 当会主幹 きむらけん

(一)先だって、三軒茶屋と太子堂近辺に住む文学者の痕跡を訪ねる町歩きを行った。このときに参加者された田島哲夫さん、GPSを持参された。町歩きが終わってその行路と場所とが地図に落とされた。言えば、三軒茶屋・太子堂の文化地図である。これが私を刺激した。我等は「下北沢文士町文化地図」を創ってきた。今は、改訂8版となっている。老舗の合い言葉がある、「つぎ足しつぎ足し使ってきたタレ」と。現今文士町地図はまさにそれだ、発行すると新たな情報が寄せられる、今のはつぎ足しによって出来たものだ。文化というのは単独で成り立つはずはない、近接地域との交流によって文化は育っていく。隣接地域、三軒茶屋・太子堂地区から大きな影響を受けている。それで「三軒茶屋・太子堂界隈文化地図」を思いついた。今回は山田風太郎、大村能章、永井叔、林芙美子が中心だった。これらの痕跡を基軸にして、文化事象を順次つぎ足していき文化地図を造る、という構想だ。

三軒茶屋の歴史は古い、「千年村プロジェクト」がある。古文献に載った土地を特定していこうという動きだ。『和名類聚抄』の中に「荏原郡覚志郷」がある。これがどこか比定されていないが具体的な候補地としては三軒茶屋は入っている。
三軒茶屋・太子堂の街並形成には歴史的な出来事が関係する。一つは大正十二年の震災である。すでにこのときは玉川電気鉄道が開通していた。震災では地盤の弱い東部下町の被害が大きかった。家々が倒壊し、大火災が起こった。人々は被害のほとんど無かった武蔵野へ逃げてきた。「地盤が固いところへ」という心理が人々を西に走らせた。
林芙美子は『放浪記』では、「安カフエーに囲まれたこの太子堂の暗い家もあきあきしてしまった」と述べている。このときの街の雰囲気を形成したのは震災だ。下町から逃げてきた人々は烏山川の沿岸に住んだ。土地が低廉だからだ、人々が大勢押し寄せてきて収容できないほどである。建て増しに建て増しを重ねて街ができあがった。そんな中に安カフェができて、「よってらっしゃい、お兄さんと」女給が声を掛けていた。今も迷路状に入り組んだ太子堂の街並は当時の面影を残している。
何と言っても大きいのは戦災の影響だ。昭和20年5月24日、25日、一帯をB29が襲ってきた。絨毯爆撃でここは狙われた。

戦災と街並形成は、大きな関係がある。我等の「下北沢文士町文化地図」は途中から戦災区域を載せるようになった。これは大きな評判となった。
当該地域の戦災区域は広い、しかし、工夫してこれは地図上には載せたい。
また、三軒茶屋・太子堂一帯は準軍都であった。それで徹底して狙われた。北部には陸軍病院もあった。東部には、駒場の軍事施設が軒を連ねていた。
昭和女子大は近衛野砲兵聯隊跡である。裏手には往時を偲ばせる馬頭観音が祀ってある。また敷地外には馬魂碑が残されている。建物としては貴重な旧兵営がいまも残っている。これらの旧軍事施設の跡はぜひ地図上に残して置きたい。
道標、碑、富士講碑、庚申塔などもぜひ入れていきたい。地図づくりをするために分担して町歩きをするのも面白い。

地図を作るのは容易ではない。地図に活字を落としていかなくてはいけない。田島さんは「エクセル」の「図形描画」で今回は作図された。元はネット地図だ、これは画像が粗く印刷には不向きだ。地図は印刷会社にあるそうだ。このことから今考えていることは一応図形描画で「永井叔旧居」とかを落とし、これを印刷所で地図に記入してもらう。ここで経費が掛かってくると思われる。
今のところ、来年度の世田谷区の地域の絆に助成申請をし、「三軒茶屋・太子堂界隈文化地図」を作ってみようと考えている。
ただ今回は初めての試みである。地域との連携も必要である。また、不明な点も多い、このことに関して意見や情報、また知恵などがありましたらぜひ当方に連絡を。

2、下北沢の学寮の思い出

かつて下北沢は寮の街だった。井の頭線と小田急線が交差するという利便性の高さから学寮、会社寮、自治体寮まであった。興味深いのは七島学生寮だ。代田六丁目にあった。
「七島学生寮は、島外進学者に対する『島しょ教育振興に寄与する』という目的のもと、昭和26年に当時の波浮港村(現大島町)から土地の寄付を受け、東京都島嶼町村一部事務組合立の木造2階建て(男子寮・定員70名)の学生寮として建設された。」が、老朽化、加えて財政難から平成 平成16年9月解体された。こんな思い出を語る人がいる。
「伊豆七島のさ、新島、大島、神津島とかって全部の島の男子寮なんだけど、島から来てるから、新島の子達は当然サーフィンやってるわけよ。中学とかでさ。だから結構サーファーの人が多かったね......」 七島学生寮の逸話だ。

下北沢には、飯塚嘉穂学寮があった。関口 正道さんという人からコメントがあった。
「私は飯塚嘉穂学寮に知人を訪ねて一晩泊まった。それは1950年頃である。木造住宅だが広大な部屋が一つあるのみ。百畳敷だろうか。三十人ほどの雑居だから、布団が どうやら敷ける具合である。飯塚は炭都として隆盛した土地柄で、それゆえ子弟を進学させて上京という家庭が多く、そのため学寮も必要に迫られた。やがて筑豊炭田は閉山して炭鉱は無くなるわけだが、こうなれば学寮の必要性も無くなるわけである。戦後も遠くなり、まさか下北沢に嘉穂学寮なんか無いだろう。」

3、忘れられない先輩たち(その1)
エッセイスト 葦田華


60年安保の翌年、私は大学生になった。桜吹雪の正門の中は、部活の勧誘の先輩たちと、私たち新入生とでごった返していた。私は<文芸部>に入部することにした。
これは、私が見聞した文芸部の先輩たちの番外編である。
<飲兵衛君>
彼は部活の先輩で、仲間から<飲兵衛君>なる愛称で呼ばれていた。
寒風の吹きすさぶある夜のこと、彼は新宿で痛飲して店を出た。よろけながら歩いて行くと、戸の閉まったある店の前に、一人の男が倒れていた。
人一倍義侠心の強い彼は、覚束ない足どりながらその男の傍に駆け寄った。
「おい!お前!こんな所に寝ていたら風邪をひくじゃないか!...えッ?なに?立てない?歩けない?そうか、そうか、無理するな、よし!俺の下宿に来い、おぶってやるからな、どっこいしょ!」と、倒れている男を背負うと、彼はヨロヨロと新宿駅に向かった。
改札口で切符に鋏を入れる鉄道員が、「あっ、お客さん、背中の...」「てやんでえ、背中の奴の分も買ってあらあ!二枚切符がちゃんとあるじゃないか!」「いいんだ、いいんだ、お前はナ、気にするな、ってことよ!」と、背中の奴を揺すりあげ、電車に乗りこんだ。
車内に入ると、二人の人がバネ仕掛けのように立ち上がり、席を譲ってくれた。飲兵衛君は礼を述べ、やおら背中の男をシートに座らせると、自分のことはさておき、男をしっかり抱き抱えていた。

三鷹駅に着き、男を背負い直して夜道を歩いた。
「もうすぐだ、頑張れよ、眠るんじゃねえゾ!」と、背中の奴を励ましながら、彼も頑張った。下宿の二階に、彼の借りている部屋があった。

その四畳半に入ると、万年床があり、とりあえず彼は男を布団の上に降ろすと、「いいんだ、いいんだ!遠慮するなっていうんだ!俺か?俺はこたつで寝るから心配するなってことよ。」と言うと、彼はこたつにもぐり込んで、またたく間に眠ってしまった。
さて、朝が来た。
朦朧とした頭の中に、男を背負って来たことを思い出した。布団を見ると、誰かが寝ている。そっと寝ている奴の顔を見て仰天した。
まっ青な顔をしているではないか!慌てて掛け布団を引っぺがした。
そこにはナント!薬屋の看板ボーイの、カエルのケロヨンが寝ていたのである。

4、プチ町歩きの案内

にじゅうまるコロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。小企画を立案し、臨機応変にこれに対応することにしている。
プチ町歩きの要諦、1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。
(四名集まったら成立する。)

町歩きはコロナ禍の中で中止となる場合が多かった。先月は久しぶりに実施した。今後も感染対策を心掛けながら「プチ町歩き」を実施していきたい。

第167回10月16日(土) 小伝馬町から人形町へ 文学歴史散歩
案内者 原 敏彦 地下鉄日比谷線 小伝馬町駅出口4番 13時
コース:十思公園(伝馬町牢屋敷跡)〜本町通〜久松小〜浜町公園〜水天宮〜人形町(解散)*ポイント:長谷川時雨、立原道造、正岡子規、向田邦子、谷崎潤一郎のほか、吉田松陰、蔦屋重三郎、賀茂真淵、西郷隆盛らのゆかりの地を歩きます。


しかく第168回 11月20日 (土)下北沢駅東口 13時
案内者 木村康伸 世田谷の古道をはしごする
道程:下北沢駅→二子道→北澤庚申堂→二子橋→滝坂道→若林稲荷神社→堀之内道→若林富士講碑→大山道→常盤塚→六郷田無道→向天神橋→江戸道→駒沢大学駅
*ポイント:古地図を片手に下北沢駅から、二子道を皮切りに滝坂道、堀之内道、大山道、六郷田無道、江戸道と、世田谷古道探索の小さな旅に出かけます。道端の庚申塔や史跡を地名を頼りに、身近な古道の謎を解いていきましょう。
第169回 12月18日(土) 皇居清水門を中心に歩く
案内者 別宮、米沢、堀川 東京駅 集合場所未定 13時
東京駅・御幸通り→和田倉門・噴水公園→将門塚・和気清麻呂像→竹橋・清水門・北の丸公園→昭和館→九段下駅(地下鉄)

にじゅうまる申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net 電話は03-3718-6498
米澤邦頼へは 090−3501−7278

しかく 編集後記
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さんかく会員は会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。(三軒茶屋:大山道道標)


rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

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