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2010年02月

2010年02月28日

下北沢X物語(1517)〜失われた時と景を求めて6〜

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赤い屋根瓦、古木の緑、空の青、高須光治は、間近に見える風景に詩を感じて、これを絵画に描いた。それが「下北沢風景」である。開かれつつある武蔵野である。とくには赤い瓦屋根が目立つ、都市のおしゃれ感覚がこの近郊に持ち込まれている。居住していた人も、その感覚を持っていた。

北沢生まれの北沢育ちの飯田勝(87)さんに「下北沢風景」を持って行って、これがどこなのかを聞きにいったことがある。彼は、今の茶沢通り踏切(東北沢4号踏切)のところで東北沢の坂上から降りてくる蒸気機関車を目撃している。小田原急行電鉄敷設時の資材運搬用の工事列車を牽引するものだ。

「そうですか、この絵の真ん中に見えている塔みたいな小屋が小池材木店ですか。うちの下の家はその小池さんという棟梁が建ててくれたものですよ。小田急が開通してすぐの頃ですよ。この棟梁というのがしゃれていましてね、その頃、オートバイにまたがっていたんですよ。外国製の赤いオートバイ、インディアンといいましたね。それにまたがってあちこちの現場を回っていましたね。そうそう、道なんか舗装されていませんでしたよ。でも、それをばたばたと乗り回していましたよ」
下の家というのは下北沢一番街、御殿山小路の入り口にある木造の家で今もある。ちょうど向かいが八幡湯である。
「赤いインディアンのオートバイですか。かなり排気量も大きいと思うんですよ。赤というところがわかりやすいですね。今まで白黒だった町の景色に色がついたみたいっすよ!」
仲間の米沢邦頼さんがそんなことを言う。「下北沢風景」の赤い屋根群とイメージが結びつくという。まったく同感である。

これについては後日談がある。及川園子さんが小池さんの近くに住んでいるところから調べてもらった。その彼女からメールにはこうあった。
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2010年02月27日

下北沢X物語(1516)〜失われた時と景を求めて5〜

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成瀬巳喜男監督の映画「めし」を観た。この冒頭に林芙美子の言葉が映された。

無限な宇宙の広さの中に人間の哀れな営々としたいとなみが
わたしはたまらなく好きなのだ


このところ近隣の街、目黒、世田谷、大田、それぞれの街を歩いていて、衰亡を感じていただけに、この「哀れな営々ととしたいとなみ」というのが説得的に実感できたことだ。

つい数年前、賑やかだった町がいつの間にかシャッター街になったり、古道沿いにあった商店街にせせこましい住居が建って街の様相をなさなくなったり、そんな場面を目撃することがよくある。東京という都市が緩やかに、確実に衰退、衰亡を始めている。老化しつつある。それがたまらなくいとおしくも思える。

高須光治の「下北沢風景」をきっかけに失われた時間と景を求めて旅をしていたら東京という都市の伸展と衰亡というのが一層顕著に見えてくるようにもなった。

都心西部の武蔵野丘陵地帯に宿った文学や芸術のなんとおもしろいことか。都心が東にあって、火事のように燃えさかるその明かりに敵愾心を向けていた。それは代々木山谷の「草土」に根ざした「草土社」の連中であり、また、そういう点では、国木田独歩も同じだ。「国木田独歩君は今から二十一年程前、渋谷の停車場から少し西北へ入った処の丘の陰に住んで居て、暇さへあれば東京と反対の方向へばかり散歩をして居った。」と柳田国男は「武蔵野の昔」で回想をしている。これも都心の明かりに背を向けていた。

「草土社」の思想、感性を代表する「道路と土手と塀」(切通之写生)は暗いと思っていたが岸田劉生の娘、岸田麗子が意外なことを書いていた。「この絵は実に美しい」といい、つぎのように記している。

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2010年02月25日

下北沢X物語(1515)〜失われた時と景を求めて4〜

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反骨的なポジションというものはある。位置取りである。岸田劉生も、そして、高須光治も都市の縁辺に位置して芸術的生命を燃やした。

岸田劉生年譜にはこうある。(「岸田劉生」新潮日本美術文庫41)

大正4年(1915)10月、現代の美術社主催の第一回美術展が銀座の読売新聞社で開かれ、≪赤土と草≫他を出品。これが事実上第一回草土社展となる。

「草土社」という名前は劉生の出品作「赤土と草」から取ったもののようだ。この美術結社の創立メンバーの中に高須光治は名を連ねている。赤土と草への共鳴からである。これは実質的なものである。武蔵野の赤土であり、下生えの草を言い表している。

高須の「下北沢風景」は全体が赤茶けている。それは何棟も描かれた新興住宅地の屋根の赤が中心だが真ん中手前に描かれた畑の赤土が染め上げているからだと言える。「草土社」の主調は土塊であり雑草だった。

草土社の結社的な活動は大正期の洋画壇にさまざまな影響をもたらした。一部の画家や批評家からは「時代錯誤」と非難されたが、路傍の石や草にも生命が宿っているかのような写実的な画面に、多くの若い画家の卵が影響をうけて、そっくりの絵を描いている。劉生の画壇にたいする敵愾心は相当なものだった。同志の椿貞雄は「草土社時代と言ふとすぐ代々木時代を想い出す」(「岸田劉生」新潮日本美術文庫41)

「草土社」の赤土や下生えの草は代々木山谷付近のそれを背景としているようだ。この付近を中心にスケッチ箱を持って徘徊していたという。椿貞雄は「(劉生は)「代々木山谷に住んでゐて、代々木原を中心に遠くは目黒大崎へ弁当持ちで共に写生に出掛けた」(「草土社時代の岸田氏」)と書き記している。
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2010年02月24日

下北沢X物語(1514)〜失われた時と景を求めて3〜

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岸田劉生の「切通しの坂」と高須光治の「下北沢風景」は拓け行く武蔵野を描いたものだ。前者は大正4年(1915)に発表されたものであり、後者は、昭和3年(1928)頃に描かれたものである。

岸田劉生の絵は代々木山谷で描かれたものだ。このときに高須光治もここに居住していてつぶさに絵が描かれる様を見ている。絵の師匠とはこの近辺をよく散策したようだ。

師匠と弟子、二つの絵には共通性がある。ともに坂を描いたものだ。が、劉生のは表題が「道路と土手と塀」とあるように、まさにそれが描かれている。切り通しの向こうに見えている青空が救いだが全体に暗い。光治は「代々木と新町時代の作品には暗い作品が多いが鵠沼時代になると健康も回復し一度に明るさが戻ってきた」(「岸田劉生の追憶」目録)と記している。

高須光治の絵は師匠のよりももっと広い。「下北沢風景」とあるように風景全体を描いている。郊外新興住宅地の赤い屋根瓦が印象的だ。全体に明るい。

両者の絵の共通点ということで言えば、地形上のことが挙げられる。淀橋台から枝分かれした台地が川によって抉られている風景である。ともに左岸崖線を描いていることは特徴的だ。

武蔵野一帯の地形上の共通点は左岸が急峻であることだ。言い換えればこれが景色に深みを作っていることである。描き手からすれば絵になるということだ。

坂の向こうが都心に当たるという点も、視点としては興味深い。わたしは坂の向こうの青空の下に繰り広げられている都会の人間模様を想像する。空の向こうが自然の山野であったのならおもしろみがない。都会が向こうにあって、その膨張が崖を切り崩していると考えもする。劉生の暗さには人間の営みによる開発の惨さという点が感じられる。

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2010年02月22日

下北沢X物語(1513)〜失われた時と景を求めて2〜

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明治から大正へ、文明の中心地、東京という都市が肥大化した。多くの人が地方からこの都市へ集まった。が、近代都市は煌びやかに明るく輝いているが、それは見た目の虚飾である。温もりもあるようだが住んでみるとそれはない。そういう都市から距離を置きたいという人が出てくる。その潜在需要を見抜いて、郊外への鉄道が敷設された。

小田原急行鉄道は、その一つではあるまいか。昭和4年に大ヒットした「東京行進曲」、この一節にある、「いっそ小田急で逃げましょうか」というのは恋仲の二人の思いだけではない。都市脱出願望を持つ人々の思いをも象徴しているのではないだろうか。

高須光治の「下北沢風景」は、都市中心から脱出してきた人々の住まいが鮮やかに描かれている。武蔵野の光と緑と赤土、絵にはそういう詩情が溢れている。

「高須光治の下北沢風景は何を描こうとしたんでしょうか?」
「下北沢風景」と日本近代文学を歩くの会に参加した人から質問を受けた。
「風景は心の反映だろうと思うのです。彼は詩人ではないけれど、詩的資質を持っていました。目録には彼の詩も載っています。その彼の感性に響く風景を描いたのではないでしょうか」
概ね、そんな風に答えたように記憶している。高須光治は絵筆で詩情を画に描いた。詩心を誘う風景がそこにあったからだ。

わたしたちは「下北沢風景」に続く土地に住んでいる作家たちの旧居を、地形と関連づけながら歩いた。それは萩原朔太郎、中村草田男、尾山篤二郎、横光利一、(大岡昇平)、(田村泰治郎)、宇野千代である。

歩いて、坂を上ったり、下ったりすることでよく解ったことは、彼らが住んでいた時代には目を憩わせる武蔵野があったことだ。開け行く新開地としての武蔵野である。それは他ならぬ「下北沢風景」である。
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2010年02月21日

下北沢X物語(1512)〜失われた時と景を求めて1〜

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ペダルを漕いだり、歩を運んだり、また、折に、書物を漁ったり、そんな渉猟を繰り返してきて、今という時間に辿り着いて生きている。

何を求めて旅をしてきたのかは、はっきりしない。が、一つの形に行き会うことによって、探していたものは「ああ、これだったのか」と気づいたことだった。そこにはうち捨てられた時間、忘れ去られた風景が描かれていた。高須光治の「下北沢風景」である。

前から温めていた企画である。「下北沢風景」と近代文学とを結びつけての街歩きである。「下北沢風景と日本近代文学」を歩く、これを、昨日、2月20日に実施した。まぎれもなく「失われた時と景を求めて」の旅であった。

「下北沢風景」は高須光治が描いた絵である。昭和62年7月に豊橋市美術博物館で「高須光治と草土社展」が開かれた。その目録によると、制作年は「1928-30(昭和3-5)×ばつ129.5」、材質は「麻布・油彩」とある。

この制作年は重要である。昭和二年から五年の間に書かれたということだ。目録には年譜も載っている。

昭和3年(1928)31歳 上京して世田谷区下北沢に居住する。
昭和6年(1931)34歳 豊橋に帰郷し、文海堂書店を経営する


下北沢在住時に描かれたものである。往事の風景がどうであったかがよく解る貴重な絵画である。近代文学の書き手たちが当地に居住しはじめた時期と重なってくるから一層に興味深い。

当地域において昭和2年というのは特筆すべき年である。すなわち、小田原急行鉄道がこの年、4月1日、小田原、新宿間の営業を開始している。これによって沿線が一気に開けていく。「下北沢風景」が描かれたのはまさにちょうどそのときである。時の風合い、色彩、空気が、この画から伝わってくる。文学の書き手たちがなぜこの地に多く集まってきたか、その謎を解く一枚だろうと思う。
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2010年02月19日

下北沢X物語(1511)〜ラササヤの歌(下)〜

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武剋隊と鉛筆部隊の交流を描いた「荒鷲と鉛筆部隊」の新聞記事は起承転結が見事に整った読み応えのあるものだ。入念な取材がなされたからであろう。その片鱗を伺わせるのが菅野喜勝氏が「追悼 柳内達雄さん」に寄稿している一文「ラササヤの歌」である。

戦時中に、シンガポール・スマトラの従軍を終えて帰国してから間もなく、疎開児童の取材をするために、浅間温泉に出かけたときです。まだ恵まれているとは云え、食料事情は悪く、子供たちはお腹をすかして痩せ細っていました。親元を離れて元気に暮らしている写真を写すためには、子供たちと仲良しになることだと、その夜は一緒に温泉に入って、覚えてきたばかりの、南方のラササヤを教えたのでした。

この取材がいつだったのかははっきりしない。が、子どもたちが「痩せ細ってい」たという記述を見れば、浅間温泉に疎開してきてだいぶ経っていることを物語っている。多分、「荒鷲と鉛筆部隊」の取材に同行したときのものであると思われる。これが昭和二十年の二月から三月にかけてのことだ。

この記事の末尾には、(小口、内田両特派員記)とある。この二人の記者が記事を書き、写真は菅野喜勝氏が撮ったのではないかと思われる。取材は三人、戦争中にしてはかなり人員を割いている。内容はそれだけ取材価値のある、第一級のものであった。

いい写真を撮るためには子どもたちと仲良くなる必要がある。プロ意識の片鱗がここにかいま見られる。写真家、菅野喜勝氏は南方戦線の取材で覚えてきたばかりの「ラササヤの歌」を披露したところ思いがけず生徒たちには好評で、旅館中がこの歌で満たされるようになったようだ。

「ラササヤの歌」を歌った写真のおじさんは首尾良く子どもらの心をつかむことができた。「神鷲と鉛筆部隊」の記事のトップに武剋隊と鉛筆部隊とが一緒に写っている写真が載っている、子どもたちも、兵隊たちもみな笑顔を浮かべている。その写真には「疎開学童寮になつてゐる千代の湯に来た兵隊さんと学童とはたちまちに仲よしになりました。」と解説がついている。
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2010年02月18日

下北沢X物語(1510)〜ラササヤの歌(上)〜

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疎開児童、鉛筆部隊の物語は果てがない。どこまでも糸が繋がって行って終わらない。が、この細い糸は、近現代史の細道であるように思える。辿っていくと、隠れたエピソードがひっそりと眠っている。

先だって、世田谷区郷土資料館を訪れた。疎開学童だった一人が亡くなられ、その人の疎開時の資料が遺族から寄贈されたと聞いたからだ。この情報を知らせてくれたのは元千代の湯のお上さん小林梅恵さんである。当人は千代の湯に疎開していた学童だった。鹿子木幹雄さんである。広島修道大の先生をしておられた方のようであった。

写真数葉、書簡類、書類などが残されていた。郷福寺での寮費支払い台帳、郷福寺学寮児童の当該年度の修了証などがあった。やはり鉛筆部隊の一人だった。

寄贈されたものの取り扱いは慎重にとのことだった。例えば、書簡などの発表は遺族の同意がないと公表してはいけないという。確かにプライバシーは尊重されるべきだ。

書簡は疎開時のものだ。本人宛に来たものがほとんどだ。本人のは一通しかない。それを開けてみると作文が入っていた。プライベートなものではなかった。この書かれた作文には柳内先生の朱が入れられている。それを見るとどのような指導をされていたのかがわかる。

作文指導において誉めることは大事なことだという考えを先生は持っている。やはり誉めていた。赤ペンで、微妙な心の動きが書かれていると欄外に書かれている。

鹿子木幹雄さんは、地元生徒との関係をテーマとした文章を残していた。彼らと融和できなかったことの大きな原因は学力差だったという。人間関係の溝は埋まることがなかったが東京に引き上げるということになってそれが埋まったという。終戦がもたらした冷戦終結、これによっての友情締結である。

疎開生活を分析的に捉えて書いている点は鋭いと思った。柳内先生も高い評価をつけていた。

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2010年02月17日

65年目のヒロシマを考える一視点〜広電現業職員の被爆下の死闘から〜

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原爆との逢着が自身の文章道への出発点だったと言える。
幼少時、親が結核で入院していたことから母の里、佐賀の田舎に預けられていた。中学二年のときだった。遠足で長崎を訪れ、初めて原爆資料館を見学した。原爆被害のすさまじさに強烈なショックを受けた。その一撃は大きかった。

遠足から帰って、感想文を書かされた。書くことは一つしかなかった。自身が受けた衝撃の大きさだ。が、田舎での寄寓生活は自身をひねくれ者にしていた。ほとんど鉛筆など握らない生活をしていた。劣等生だ。ところがこのときばかりは鉛筆は手から放さなかった。熱線によって解けてぐんにゃりとなったラムネビンは強烈な印象として残っていた。解けたラムネビンと解けてしまった人間。底知れない恐怖を覚えた。

提出は二三枚で良かったはずだ。が、わたしは原稿用紙十四五枚、書いて出した。そのときの担任の若い女教師は国語の先生だった。わたしの衝撃が伝わったのだろうか。彼女はミミズののったくったような文字を、ガリ版用の蝋紙に鉄筆で起こし、それを印刷してクラス全員に配った。作文で初めて誉められた体験である。

自身がショックを受けた事象を文章に起こす。思いが伝わると嬉しい。ひねくれ者として疎外されていただけにそのうれしさは大きかったように思う。

長じて教師になり、引率で今度は広島を訪れた。今度は被爆者の生の声を聞いた。地獄、煉獄、生き地獄。耐えられなかった。そんな過程で、原爆と電車のことを知った。

被爆三日後に広電が動き始めたこと、そして、それら電車を動かしていたのは広島電鉄家政女学校のうら若い女学生だったことを知った。

この知るということは断片的なものである。一つ一つ知ったことがすべてに繋がるというのはなかなかわからない。月日を要することだ。

今年、戦後六十五年目となって自身でわかってきたことがある。2007年、広島に出かけた。自身が書いた物語のテレビ映画化の話が持ち上がったからだ。プロデューサーはセットは中国に作って、そこで本物の電車を動かすと意気込んでいた。

自作物語はノンフィクションだと誤解されている点がある。多くの被爆者の物語の断片を寄せ集めて作ったものであることは間違いないことだ。一番引っかかることは始発電車である。わたしは物語上、日常的に電車を動かしていた家政女学校の三期生にした。ありうる物語として作ったつもりだ。

テレビ映画化するについてはその点についてわたしなりの要望があった。が、それは受け入れられなかった。それはそれで一つの結論だと思う。わたし自身もそれで良かったと思った。

2007年に訪れたときに、前に取材していた藤井照子さんに会った。彼女の紹介で一期生の新谷ヨシ子さんを紹介してもらった。六十三年間記憶を封印していた人だ。

また、この折に、被爆三日後に電車が動いたが、その折に試運転電車を運転されている山本さんという方がおられることを知って、お話を伺った。

「65年目のヒロシマを考える一視点」は、新谷さんや、山本さんに会って話を聞いて思いついたことである。被爆直後から広電の現業職員が、明日への希望を持って困難な中を黙々と作業を行っていたという事実は記しておきたいと思った。とくには宇品線が八月十八日に開通するに至った過程は、まさに死闘のドラマである。当事者の石田彰さんが語られた記録をここに記しおいた。

同人、「阿房芋」で冊子を毎年出していて、ここに書いた。あまり部数も多くないところから取材した人だけに送った。ところが、藤井照子さんからあまりがあればもっと欲しいと言ってこられた。そのことから抜き刷りで対応しようと思い。仲間の米沢さんに頼んだところ、快く引き受けてくれた。印刷屋さんと交渉して部数も数多く作ってもらった。

被爆者の一人である藤井さんは、「ここに書かれてあることが一人でも多く伝わればいい」と言われた。「歴史というのは選ばれた人が作るものだと思っていましたが、これを読むと庶民が作っていたんだ」と感想をくれた人もいた。伝わってこそ文章である。そのことが核廃絶につながるならもっといい。

しろまる65年目のヒロシマを考える一視点
〜広電現業職員の被爆下の死闘から〜
抜き刷りをさし上げます。長形3号(定形内最大)にご自身の宛名を書き、90円切手をそれに貼り、つぎの宛先に送ってください。
152−0023 東京都目黒区八雲2−25−5 木村健






2010年02月16日

下北沢X物語(1509)〜疎開部隊引率隊長ヤナさん4〜

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非売品「花...詩と作文の指導」別冊、あかね書房刊の「追悼 柳内達雄さん」は鉄道交点の詩的文化風土を探る上でも重要な資料となるものである。

この追悼集トップには教え子の二人が文章を寄せている。まずは、たち・ちかし氏だ。舘鄰、著名な科学者だ。追悼の詩を寄せている。その冒頭はこうだ。

代沢の川に、セキレイが飛び、ザリガニが捕れ。緑色をしたアオガエルのオタマジャクシが泳ぎ。

終戦直後の代沢小で、慕わしく思っている先生に習ったときのことを懐かしく思い起こしている。その頃に漂っていた空気感をこの詩はよく伝えている。

終戦直後の東京は、見晴らしが良く、空気もきれいで。だれもお金が無く、だれもが食べるものが無く。悲しく、気ままで。自由で。
古いものは皆悪く、新しいものは、まだ何も無いから、遠くて、日の出のように期待が持てる。
授業はあったような。無かったような。


時間がゆったりと流れていたさまが伝わってくる。カネもなく食べるものもない。が、不思議に心満たされるものがあった。戦争によってリセットされた日本、B29によって焼き払われた東京だが、焼け跡に生えだした緑に希望が持てた。つぎの時間への熱い期待があった。夢を描くことができた。鉛筆部隊隊長が熱く物語を、詩を、語ったのだろう、つぎはそれを想起させる。
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2010年02月15日

下北沢X物語(1508)〜疎開部隊引率隊長ヤナさん3〜

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日々旅を続けている。時空を超えた壮大な旅である。想像であったり、歩きだったり、時に鉄道でのそれであったりと果てがない。この発端は鉄道X交点とは何かという文化背景を探し求めるところから始まったものだ。多くの人に会い、多くの場所に行き、話を聞いたり、地形を調べたりしてきた。関心が表層的なものから深層的なものに移るにつれ、次第に中心点である鉄道交点から離れて行った。

が、離れて見た方が、対象がよく見えるということはある。当該地域については自転車で走り回ったり、歩いたりしてきた。ところがそこを中心としている限り、その世界は見えない。隔たったところに行ってみて気づくことが多くある。

このところ疎開児童の話を追っている。意外にもこれにまつわるエピソードを知ることによって、鉄道交点の文化背景が見えてくるように思う。

下北沢駅を出発して行った疎開児童は居住地の文化を背負っていた。
例えば、それは一枚の写真が物語る。浜館菊雄著「学童集団疎開」には数葉の資料写真が載っている。「器楽合奏、疎開先の旅館の大広間で」というのがある。学童たちは笛、ハーモニカ、木琴、太鼓、アコーディオンなどを手にしている。引率者は「楽器など運んでいくのは、不謹慎であるかのように誤解されるおそれがあった」(同著)にも関わらず、敢えて疎開先に運んだ。それは楽器を吹いたり、弾けたりした学童が少なからずいた、またそれをサポートする保護者がいたからであろう。「一台のオルガンとこの楽器類」を疎開先まで運んだ学校は多くはなかったように思われる。音楽的感性や感覚を許容する素養や環境があってのことだろう。この小学生バンドの音楽的レベルも高かった。敗戦後、彼らはワシントンハイツに駐留していた米軍の慰問にも度々出かけている。

鉄道交点の文化の源泉は何か、論理的には述べられない。が、エピソードでは例証できる。音楽的感性だけでなく、詩的感性の豊かさもあった。一昨年だったろうか。代沢小の古いアルバムを見せてもらったことがある。そのうちの一冊を手にとって見ようとしたときに間に挟まっていたものがはらりと落ちた。それは手作りの詩集だった。装丁もイラストも詩も小学生のレベルを超えていた。
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2010年02月13日

下北沢X物語(1507)〜疎開部隊引率隊長ヤナさん2〜

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敗戦は時間のリセットであった。戦いに向かって勢いをつけられていた時間が突然に止まってしまった。人々は宙に放り出されたように思った。

疎開部隊隊長、三十四歳のヤナさんに終戦間際になって召集令状がきた。立川裕子さんは七月三十日に北沢の自宅に出した手紙につぎのように書いている。

今日は晴天です。今朝私達が掃除をしてゐると突然柳内先生に召集令が来ました。わたしたちはびっくりしました。あまりの突然なのでいろいろな気持ちが混ざり合って何んていっていいかわかりません。広丘校の先生もお二人この間召集が来て出発されました。柳内先生は八月十四日に甲府六十三部隊に入られるそうです。

広丘校は広丘国民学校で、疎開児童が通っていた学校だ。戦争末期にきて根こそぎ動員が始まった。子どもたちを預かっている先生まで駆り出される。

広丘駅を甲府へと出征していくヤナさんを描いている記録がある。同僚の浜館先生だ。彼が甲府まで送っていったようだ。

広丘駅のホームは、学寮の子どもで埋まった。いよいよ出発となり、
「Y先生、万歳!」
「先生......」
「先生......」
と走る汽車を追いかけ、絶叫する子どもたちの表情は、正視するに忍びなかった。
沿道数か所の駅頭を学童が埋めて、盛んな見送りをしているのを見かけたが、国民学校教員に対する動員が、このさいいっせいにおこなわれていることを物語っていた。
「集団学童疎開」 浜館菊雄 太平洋出版社


甲府六十三部隊に入隊した柳内先生は翌日に終戦を迎える。どんな様子だったかは分からない。
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2010年02月12日

下北沢X物語(1506)〜疎開部隊引率隊長ヤナさん〜

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戦争から六十五年が経過した。平時のことはあらかた忘れてしまったがあのときのことは鮮明に覚えている人がいる。大きなショックだったからだ。

戦争は異文化衝突である。忽然と現れた巨大重爆撃機B29は衝撃だった。味方の高射砲ではほとんど撃ち落せない。たまに当たって墜落すると豊満な女性が描かれた機体が墜ちてきたり、搭乗員にブロンドの女性が乗っていたりする。驚きであった。

戦争という状況下で異質なものに遭遇することで彼我の違いが認識された。都会からやってきた疎開児童は都会を背負ってやってきていた。地元の人で代沢国民学校の寮母をしていた人がこう書いている。山崎わごへさんである。これも異文化ショックであろう。

世田谷代沢の学校の子どもの家は大したものでした。朝倉の父親の職業は少将、女の子では高石は師団長で、途中で戦死の報せが来て泣いてねえ。東京へ帰ることになり、先生
が連れて帰った。そういうように、お父さんが大佐、大将等だったので驚きました。佐伯という息子の父親は東大の先生、福田は弁護士であったし、子どもたちの行儀はよかった。旧家の家が多かった。そのうちに、一か月か二か月くらいしたら、お母さんたちが来ました。「わが子がうまくやっているかなあ」と。母親も防空頭巾姿で訪問してくれたが、立派な奥様たちでした。
「遠い太鼓」平成十年三月発行 発行者「遠い太鼓」編集委員会


地元の人が疎開学童をどうみていたか。それが端的に書き表されていておもしろい。下北沢鉄道交点近辺にどんな人が住んでいたかが具体的にわかる。街の背景を考える場合のヒントにもなる。学区域には軍関係の将校クラスが住んでいた。大学教授や弁護士という知的レベルの高い人たちも住んでいた。それらの奥さんが「立派」というのは服装や挙措動作からいうのだろう。そういう親にしつけられているから子どもも行儀がよい。歌を歌わせると、音楽の感性もよく響きもそろっていた。その歌声に地元の子が惹き付けられるというのもあったろう。そういう学校だったから、そういう先生を配置していたと言える。

山崎わごへさんの引率先生批評というのもおもしろい。 続きを読む

2010年02月10日

下北沢X物語(1505)〜疎開学寮歌考(下)〜

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ささやかな歌も、小さな文章も、背景には文化を背負っている。そこに折りたたまれたものを想像したり、考えたりすることはおもしろく、楽しいことだ。

恐らく疎開先の、あちらの旅館で、お寺で子どもたちが声を張り上げて歌っていた寮歌があると思われる。が、時が経つとともにそれは失われ初めている。そう思っているときに浅間温泉の図書館の地域資料の戸棚にひっそりと隠れていた文章を見つけた。はかなく消え去ろうとする歴史の渦のしっぽを捕まえたような思いがある。

砧小学校、当時の砧国民学校の生徒は昭和20年5月に長野県北安曇郡に疎開をした。この方面に疎開したのは砧だけではなく、多聞、塚戸、祖師谷の各国民学校である。以前に多聞国民学校の疎開児童を引率していた先生と話をする機会があった。
「当時は、大糸南線と言って走っていたのは蒸気機関車でした。旅館の側に線路が通っていて、上り列車が汽笛を鳴らしながら松本方向に走っていくのです。行ってしまうと子どもたち家が恋しくなって泣いていましたね。なだめるのに一苦労でしたよ......」
汽笛が郷愁を募らせる。アルプスに挟まれた山間の町ではいっそうにこれが響いた。忘れ去られた音であり、事象でもある。

砧国民学校の第三次疎開で、山小屋「白馬館」に疎開してきたのは八十八名だ。岩崎、柳沢、神蔵、江部の四人の先生が引率をした。この中の若い女の先生が「白馬の寮歌」を作って、学童に歌わせていたようである。その一節を松沢米子さんは文集に記しておられる。

「山また山にかこまれし、自然の城なす北城は、我らが修練道場ぞ、白馬おろしに身をきたえ、学寮精神身にたいし、君のみたてといざいかん」

歌詞のみから感じられることだが勇ましい歌だ。若い女の先生の熱情がこの詩にこめられている。これをどのように歌ったのか、この他の歌詞は記録として残っているのか知りたいところだ。

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2010年02月09日

下北沢X物語(1504)〜疎開学寮歌考(上)〜

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戦時中の学童疎開では各地の旅館や寺院などが宿泊施設として使われた。偶然的なことから、代沢国民学校では、疎開していた寺で寮歌が作られ、これが歌われていたことを知った。それが「真正寺寮歌」であり、「聖丘学寮のうた」である。

このことが一般的なのか、特殊なのかよく分からない。が、上記例は時間の闇に埋没しそうになっていたときに発見された。そのことから当、ブログ内に掲示板を設置してみた。〜疎開先での寮歌・愛唱歌:情報掲示板〜(消えそうな記憶を記録する)〜というものだ。ここに理由をこう書いた。

例を、代沢小に取ったが、一つあれば、二つある。代沢小に限らずこの疎開先での寮歌、あるいは愛唱歌は無数にあるのではないかと思われる。「代沢小疎開先の寮歌の話はすごい。どうも、同じ様な話が、それこそ全国にあるようにも思えます。うまく、新聞にでも採り上げられれば『ここにもあったあそこにもこんなのがあった』と、どんどん発掘されてゆくような気がします。」という感想をメールで頂いた。今聞いて置かないと消えてしまう恐れは充分にある。それでここに掲示板を設置してみる。

昨年一月、(2009年)に設置したが反応はなかった。メールをいただいた、きむらたかし氏が、インターネット検索で「東京都中央区京華国民学校→熊谷市上之:龍渕寺」と「大阪市立逢坂国民学校初等科1〜3年→現・栗東市目川:専光寺」の例を見つけてブログコメントに書き込まれただけであった。

わたしはこれら寮歌に端を発した物語に行き会ったことからこの一月、松本市浅間温泉を訪れた。このときに当地の本郷図書館に立ち寄った。ここで幾つかの現地資料を見つけることができた。住民が疎開児童をどう見ていたかという興味深い資料もあり、この図書館での調べでは多くの収穫があった。その一つが寮歌に関する記述である。

戦時のことを記録した文集である。「平和への願いをこめて」(平成五年七月発行、社団法人長野県連合婦人会)と題されたものだ。ここに「疎開児童の思い出」とされて「白馬村大北」の松沢米子さんという方が記録を載せておられる。
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2010年02月07日

下北沢X物語(1503)〜鉛筆部隊の痕跡を求めての旅9〜

P1010231

人生は、自分が信ずることのできる物語を探す旅である。

鉛筆部隊の痕跡を求めての旅は、郷愁の源流への探訪行であった。が、自分ばかりではない。これを固唾を呑んでウオッチしておられる女性もいた。武剋隊兵士の一員の生れ変わりだと言われる方だ。松本高女への特攻機に乗務していたのはその兵士かもしれないと物語の顛末を日々興味深く見ておられたとメールをいただいた。

ジェンダーと戦争という観点は忘れられているように思われる。不思議なことだが今回の旅において重要な証言や証拠を出してくれた人はほとんどが女性だったということである。65年も前の戦争の記憶を今に鮮明に残しているのは他ならぬ、女性たちであった。ゆえに疑念が生じた。男は悲惨な戦争を忘れて、またそれを起こすのかもしれないと。

ふと思い出したことがあった。昨年亡くなられた松林宗恵監督から直接に聞いたエピソードである。細かいところまで覚えていないが確かこのようなことをおっしゃっていた。
「映画『連合艦隊』の試写会で大阪に行ったときのことです。映画を見終わった人から、『特攻で敵艦船にぶつかるときは天皇陛下万歳ではなかったのですか』と言ってきた人がいました。わたしは『お母さん!』と呼ばせたのですよ」
それを思い出してDVDで持っている「連合艦隊」を見てみた。確かにその場面はあった。ここでは、別の特攻兵が想い人の花嫁衣装姿を思い浮かべているシーンがあった。なんでもない場面だが人が死に行くときに国家を思って死ぬよりも母や恋人を思うというのは極めて自然であるように思えた。監督の、戦争への批評精神をかいま見たように思ったことだ。

松本高女の卒業式のときに式を祝って特攻機が学校上空を旋回した。それを今なお高女の四十四回生小林梅恵さんらは記憶にとどめている。今回の旅に同行してくださった田中幸子さんも武剋隊の一員である今野軍曹のことが忘れられないからだ。「お嫁になってほしい」と言われたその一言をずっと胸の内に秘めて生きてきたようだ。
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2010年02月06日

下北沢X物語(1502)〜鉛筆部隊の痕跡を求めての旅8〜

P1010230
松本高女の卒業式と特攻隊(了)

ネットから始まった戦争の物語は果てがない。繋がりが繋がっていく。一方では糸が切れて、それ以上には進まない。また一方では新たな糸が繋がって、分からないことが分かってくる。

松本高女の卒業式に旋回飛行をした特攻機はどの部隊のものだったろうか。武剋隊第二陣は三月二十八日に笹賀の陸軍松本飛行場を発っている。そのことからすると武剋隊ではなさそうだ。

武剋隊は関東軍、第二航空軍で編成された、特攻隊四個隊の一隊である。昭和二十年二月十四日に白城子早台飛行場を飛び立って各務原に向かった。「2月18日各務原へ向かう。全機到着。爆装改修を命ぜられる。名古屋の空襲激しい。」ということから「2月20日松本へ移動。ここで爆装改修実施(廣森隊長決心による)」したようだ。

田中幸子さんからいただいた資料に基づいて書いているがその出典ははっきりしない。必要な部分だけが複写されていて元がわからない。そのページのタイトルは「誠 32飛行隊(武剋隊) 九九襲」とあるものだ。この「九九襲」というのも最近になってようやっとわかった。彼らが搭乗していた飛行機の機種である。「九九式襲撃機」と言われていたものである。

名古屋の空襲が激しいことから急遽松本へ飛んで「爆装改修」をする間に、隊員たちは浅間温泉でひとときの休暇を取った。武剋隊の機数は十五機である。そのうちの六人が千代の湯に宿泊した。他は別の旅館に泊まっていた。

彼らが搭乗していた機種が分かるとその特徴も分かってくる。単発の複座機である。「日本飛行機100選」(野沢正 秋田書店刊)によると「特に、山岳地域での活動は、ほとんど本機が一手に引き受けていたと言っても過言ではない」とある。ということからすると九九式襲撃機だからこそ気流の悪い松本へ飛んだとも考えられる。
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2010年02月04日

下北沢X物語(1501)〜鉛筆部隊の痕跡を求めての旅7〜

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松本高女の卒業式と特攻隊(2)

過去物語への鍬入れが発端になって埃をかぶっていたエピソードが日の目を見る。うち捨てられていただけに愛しくもあり、もの悲しくもある。

昭和二十年三月、松本高女の卒業式のときに特攻機が飛んできて、お祝いの旋回飛行をしたという。そのことについて松本高女四十四回生だったという小林梅恵さんからいただいたお手紙にはこうあった。

早速ではございますが、私の卒業式の件、友達に電話致しました所、六十年前の事でございますので記憶にはない人、卒業燈書の無い方が大部分でございました。その中の一人の方がはっきりと覚えてらしてお話を伺うことができました。
卒業式当日、教頭先生がアナウンスで「特攻隊機が今日の皆さんの卒業式を祝って空中旋回をこれからして下さるとの電話が入りました。」とおっしゃったそうです。私達は講堂の廊下に出たか、或いは窓から手を振ったのか、その辺は覚えておりません。又卒業証燈書は私の嫁入り箪笥をさがしました所出てまいりまして、三月二十九日でございました。幼稚園の頃から卒業燈書、又免状など全部袋に保存してくれておりました。母に、この年になりまして改めて感謝感謝でございました。小岩井さんとの関係はなかなか聞く事ができませんでした。又何か情報がありましたらお手紙をさし上げます。


言葉をどう組み立てるか、意を尽くして言いたいことを伝える、本当は難しいことだ。が、この文面を見ただけで彼女の文章力の高さが窺える。高女時代の、主体的な書く訓練が今に生きているように思った。彼女は多分、国漢が得意科目ではなかったかと思う。

卒業証書の発見エピソードは微笑ましい。お嫁さんが納戸の奥から見つけてくれたとか、友達がわざわざ見にきたとか言う後日談もあると聞いた。

卒業式の日にちが分かってみると記録と照合ができる。
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2010年02月03日

下北沢X物語(1500)〜鉛筆部隊の痕跡を求めての旅6〜

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松本高女の卒業式と特攻隊(1)

笹塚の金子静枝さんは突然に泣き始めた。その理由は一枚のもの悲しい風景を思い出したからだということが分かった。

戦争中、彼女は北沢五丁目に住んでいた。昭和二十年五月二十五日の山手空襲で一帯は焼夷弾を受けた。焼け出された彼女は明大前駅近くの松原二丁目の知人宅に身を寄せた。ここに仮寓しているときに隣組の人から飛行機が飛んでくるという知らせを受けた。みな日の丸の旗を手にもって待ち受けていたところ飛んできた。三回ほど家並みすれすれに旋回していって翼を振って南西方向に去って行ったという。南方へ向かう特攻機が母親に別れを告げにきたという。当時彼女は二十歳だった。そのときのことを涙ながらに話す姿が印象に残っている。

特攻機とのお別れ、浅間温泉千代の湯に疎開していた子どもたちも同じような経験をしている。武剋隊の飛行機が陸軍松本飛行場から各務原飛行場に飛んで行く際に、寄り道をして鉛筆部隊に別れを告げにきたという。

今回、千代の湯のお上さんに会って往事の話を聞いた。そのときに思いがけない話を聞いた。

「それが卒業式の日でしたよ。昭和二十年三月だったと思うのです。日にちはわからないのです。式の真っ最中に、講堂の上で音がしてわたしたちは窓のところに駆け寄っていきました。飛行機だったんですね。二三機いたと思うのです。その飛行機が低空で二三回学校のまわりを旋回していって飛び去ってしまいました。たしか、教頭先生が『卒業のお祝いに飛行機で空を飛んでくださる』とうようなことを言っていたように思います。」
かつて千代の湯を切り盛りしていたのは小林梅恵さんである。彼女は終戦の年に松本高女を卒業している。お嫁に来たのは戦後のことだ。だから、戦争中に千代の湯に特攻隊が来て泊まっていたことは直接には知らない。後で知ったことである。

「知覧特攻平和会館に武剋隊の特攻兵と子どもたちとが写った大きな写真が展示してあるんですってね。そこに千代の湯って書いてあってびっくりしたと見学に行ってきた人から言われて驚いたことがありますよ」
鉛筆部隊の子どもたち八人と武剋隊兵士の六人とが写っている写真である。知覧平和会館の初代館長の板津忠正さんがどこで撮られたのかを三十年間探していたというエピソードがある。田中幸子さんに会って分かったようだ。(これは事実と違っていて、島田軍曹のお母さんに板津さんが出会って分かったと判明した。訂正しておきたい。2月6日追記)続きを読む

2010年02月01日

下北沢X物語(1499)〜「北沢川文化遺産保存の会」会報 第43号〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第43号 2010年2月1日発行(毎月一回発行)


会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
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1、戦争のささやかな記録

戦争の記録を書いて置きたい。
昨年暮れ、疎開経験のある松本明美さんに会ったときに、彼女のお兄さんがつぎのように話していたという。
「戦争中、代沢国民学校は、兵舎として使われていて授業はやっていなかったんだ」
昭和二十年八月十二日に、三年生から五年生までが長野県浅間温泉に疎開した。残っているのは一二年生だけだった。

代沢小、疎開生徒、鉛筆部隊の立川裕子さんの手紙を調べていて、このことに関連する葉書が見つかったのでこれを記しておく。

昭和二十年九月五日づけで立川裕子さん宛ての葉書があった。疎開始まって一月も経っていないときである。

「長野県東筑摩郡本郷村浅間温泉千代の湯五班 立川裕子様」となっている。差し出し人は馬場馨子という人だ。

元気いっぱいのご様子で大変嬉しく思ひます。そちらの皆さんのご親切は忘れてはいけませんがお父様もお母様も貴女さえ元気なら御満足でせう。あまり東京のことは考へずに、日々精いつぱいに暮らしてください。

学校には百五十人程の兵隊さんが宿舎を割りあてられて来ています。厳然と正門に立つてゐる兵隊さんは心強い感じをあたへます。貴女方の教室もその方々が出入りしてゐます。くれぐれも身体に注意して下さい さようなら


これを山梨の矢花克己さんから頂いて読んだときにはとくに感じるものはなかった。が、読み返してみて、松本さんのお兄さんの話と合致することに気づいた。この手紙の後半は戦時の記録として貴重なものだ。

代沢国民学校の馬場馨子という人に立川裕子さんが疎開生活の様子を書き送ったようだ。それに対する返事がこの葉書である。この文面からすると、この馬場馨子さんは国民学校の留守を預かっている女先生のようだ。

代沢国民学校の引率教員だった浜館菊雄氏は「学童集団疎開」で、つぎのように書いている。当時、引率教員に応募するかどうかについてである。

不思議なことにわたくしの学校では、参加希望者が必要人数より多かった。これは教師として、きわめて当然のことではあったが、学校によっては、希望者が不足で困っているところもあるということであった。自分の担任児童の大部分が集団疎開するというのに、自分だけ学校に残留するということは、まったく意味のないことであったが、家庭の事情、身体的故障などえ、参加できないということも当然ありうることだし、ことに家庭をもっている女教師にとっては、まったく不可能なことであった。

多くの教員が引率の応募した。が、彼女は家庭を持った女教師で引率には加わらなかった。その留守を預かっている女教師に立川さんは手紙を書いた。

なんでもないことのようだが意味はある。「すでに半月は過ぎた。精神的にも、身体的にももっとも不安定の時であった。子どもたちは例外なく、ホームシックにとりつかれた。」と「学童集団疎開」には書かれている。

指導者としてどう対応するか。千代の湯の引率担当は国語教師の柳内達雄先生だ。かれの国語の指導は「どしどし書かせる」ことだった。鉛筆部隊はどしどし手紙を書いた。指導者は書いているときに今当面している問題から離れることを知っていた。
「家族だけではなく、知り合い、色んな人に手紙を書きましょう」
郷愁病から逃れさせるには家族以外にも出させた方がいい。そんな指導がなされていたのではないだろうか。立川裕子さんの一通の葉書はそれを証しているのかもしれない。

2、代々木練兵場と渋谷の戦争遺跡を巡る
(定例外街歩き企画第三弾) 案内者 天羽大器
期日、2010年2月13日実施
集合:渋谷駅ハチ公銅像前 13:00
コース:憲兵隊渋谷分隊境界石→ 明治天皇御嶽神社小休所址→東京陸軍衛戍刑務所境界石→二・二六事件慰霊像→ 北谷稲荷神社の「訣別の碑」→代々木公園(昭憲皇太后大喪儀葬場殿跡→閲兵式の松→日本航空発始の碑→十四烈士の碑→代々木八幡宮の「訣別の碑」
以上10ヶ所を2時間半ぐらいで巡りたいと思います。

3、第3回 戦争経験を聴く会、語る会の語り手を募集します
「戦争経験を聴く会、語る会」の開催を予定しています。
期日 2010年5月23日(日)1時30分〜4時30分
*山手空襲から65年目(1945年5月24日)
場所 北沢タウンホール 二階集会室 定員60名
テーマ 下北沢と戦争

毎年、わたしたちはこの会を開催しています。今年で三回目となります。昭和二十年五月二十五日深夜、下北沢一帯はB29の襲来によって空襲を受けます。代田、大原、北沢などが戦火を被りました。その空襲のときのことだけではなく、疎開、出征、帰還、戦時の暮らし、闇市、米兵上京、接収、借り上げ家屋などの戦争の記憶が次第に薄れかけています。戦争を体験されて、それらのことを覚えておられる方にはそのことをぜひ皆さんにお話していただきたいと思います。
上記に挙げたことで、何かのエピソードをご存じの方にはぜひお話していただきたいと思います。近隣のことで言えば、応急的に作られた代田連絡線のこと、ワシントンハイツのこと、進駐米軍の兵隊のこと、進駐軍専用電車のこと、戦争に関わる話であればどんなことでもかまいません。ぜひお話ください。
なお、この会の開催については区報などに掲載申請をしようと思っています。現段階では仮受付ということで、三月末までつぎの専用メールアドレスで受け付けています。aoisigunal@hotmail.com

4、定例会:歩く会について
都市物語を旅する会
「北沢川文化遺産保存の会」は毎月テーマを決めて下北沢周辺の文化探査をしています。毎月、第3土曜日の午後1時に集まっています。集合地点はそのコースごとに多少違っています。基本的には少人数、10数名程度ということにしていまます。それぞれがこの歩く会に参加して楽しむというものです。最後は世田谷「邪宗門」にたどり着いてお茶を飲みながら歓談します。参加費は徴収しておりません。歓談の際の飲み物は各自でお支払ください。なお、保険には加入しておりません。事故のないよう各自で責任を持ってください。
この会は参加の義務はまったくありません。ふらりと参加して、歩き、そして、歓談して終わりです。またいつかテーマで面白いなと思った時に参加する、そういう自由な会です。個々人が文化を楽しむというのがねらいです。
これまで実施したコースはつぎの通りです。
・代田連絡線の跡を歩く(3回)・小説「猫町」を歩く(3回)・下北沢の大谷藤子を歩く・「森茉莉」足跡を歩く(5回)・下北沢の銭湯跡を歩く・下北沢の無頼派を歩く・下北沢の教会を歩く(3回)・坂口安吾の通勤ルートを歩く(2回)・駒沢線詩歌文学ラインを歩く(2回)・下北沢の映画痕跡を歩く・ダイダラボッチ川を歩く。・下北沢の稲荷社・庚申塔・地蔵尊を歩く。・代田のダイダラボッチ痕跡を訪ねる(3回)・代田の詩人師弟を歩く(萩原朔太郎・三好達治)・林芙美子から坂口安吾を歩く・.「下北沢店員道場を検証する」・池の上の古い町並を歩く ・下北沢の詩人痕跡を訪ねる(2回)・「森厳寺川の源流を探索する」(3回)・「代田の歴史を歩く」・駒沢練兵場を歩く(2回)・滝坂道を歩く(3回)・駒場の戦跡を歩く(2回) 下北沢の踏切文化を検証する

・第45回 2月20日(土)午後一時 下北沢駅北口
「下北沢風景と日本近代文学」
下北沢の開発黎明期を描いたのが高須光治「下北沢風景」である。絵が描かれた場所を探索し、合わせてその風景の台地に住む近代文学の担い手だった作家の旧居跡を巡る。そのことで下北沢の風土と文学を考えてみるというもの。
画家高須光治、尾山篤二郎、萩原朔太郎、大岡昇平、横光利一、田村泰次郎、宇野千代


・第46回 3月20日(土)午後一時 下北沢駅北口
森茉莉の足跡を歩く
・第47回 4月17日(土)午後一時 明大前改札口
(新企画)東京山手急行の痕跡を尋ねる 案内者 別宮通孝
・第48回 5月15日(土) 午後一時 下北沢駅北口
小説「猫町」を歩く
・第49回 6月9日(土)午後一時 代田橋駅南口
下北沢地形学入門(森厳寺川を歩く)
・第50回 7月17日(土) 午後一時 池尻大橋駅改札口
駒沢練兵場を歩く
にじゅうまる申し込み方法、参加希望について
参加申し込みについては当会の米澤邦頼まで必ず連絡をください。
米澤邦頼 090−3501−7278
メールアドレスyonezawa-.-v1961@ezweb.ne.jp
しかく 編集後記
しろまる今年は戦後六十五年を迎える年だ。新年早々に小冊子に書いた自分の文章が出た。「65年目のヒロシマを考える一視点〜広電現業職員の被爆下の死闘から〜」というものだ。ささやかな発信だったが思いがけない手応えがあった。「教科書にも載っていないことでびっくりした」「のほほんと生きていていいのか、身につまされました」「歴史はリーダーによって作られるものではなく普通の人が作るものだと思った」と。被爆者の方からは「広く世界に向けて伝えてほしい」と。広島電鉄からは社内で供覧するとの連絡があった。
思いがけない反応があり、被爆者方から多方面に送りたいのでもっとくださいという要望があった。そこでこれを抜き刷り印刷をしてその声に応えることにした。
凄惨な核の被害を受けながらも現業作業員は淡々と仕事をこなしていた。それが日常的な行動として行われている。そこに感銘を覚えて書いたことだ。今日希望を失いかけている我々への熱いメッセージとなっているように思う。抜き刷りは差し上げます。希望者は送り先住所を書いて、メールをください。
しろまる「下北沢文士町文化地図」(改訂四版)
地図担当の米澤邦頼さんが第一次案を作ってくれました。北は井の頭街道、南は淡島通りとする新しいものです。範囲を広げたら焦点がぼけてくるようです。工夫が必要です。
写真に掲げたのはこれである。
当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ k1poem@yahoo.co.jp
しろまる「北沢川文化遺産保存の会」へご入会ください。年会費1000円です。会員の方にはこの会報を自宅に郵送しています。入会は随時事務局の「邪宗門」で受け付けております。入会金はありません。年会費だけです。年度が変わりましたので会費をお支払いください。
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