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2022年11月

2022年11月30日

下北沢X物語(4600)―代沢小をめぐる果てのない奇縁物語―

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(一)一昨日、印刷されたばかりの新刊「台湾出撃沖縄特攻-陸軍八塊飛行場をめぐる物語」が届いた。ちょうど代沢小で授業を行うための予習をしていた時で、因果因縁をより深く感じた。本は代沢小を巡る物語の七冊目だった。「私はね、新しい本が着いて思ったのは代沢小を巡る不思議な旅です、私が代沢小に巡り合わなければこれらの本はできなかったと思ったのです。今回の皆さんとの出会いも縁の続きですね......」。昨日、29日代沢小の六年生百数名に話をした。主テーマは鉛筆部隊の話である。既に事前学習は行われていた。以前、「『奇跡体験!アンビリバボー』の一つとして「鉛筆部隊の子どもたち」というテレビ放送があった。これも視聴したとのこと。自分たちの先輩の話であるだけに深い興味と関心を持っていた。私の授業が終わって「質問は?」と問うと驚くほどの学童が挙手した、その反応に驚いた。授業が終わっても質問者の列は長く伸びる一方だった。

「代沢小の存在なしには私の物書き人生はあり得なかった」
私自身の感動と驚きを私は生徒たちに述べた。

「私は、何度も聞かれました。『代沢小出身ですか?』とね」
聞かれるだけの理由はある、学校の歴史と文化についてはこれまで深く調べてきた。
「坂口安吾と代沢小との関係」
「ミドリ楽団と学校の歴史」
「代沢小の疎開の歴史」
これらについては卒業生以上に知っている。資料で調べたり、卒業生から話を聞いたりしたことで多くのエピソードを拾った。

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2022年11月29日

下北沢X物語(4599)―会報197号:北沢川文化遺産保存の会

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第197号
2022年12月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 谷亀 ?郎
事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、小関裕而さんの思い出 当会会長 谷亀 ?郎

我が家は、江戸時代から代田村本村で農家を営んでおりましたが、明治25年、曾祖父杉蔵の時代に世田谷町大字中原字吹上の堀之内道沿いに移転してきたと聞いております。祖父謙太郎の時代、小田原急行電鉄計画が我が家の敷地内を通過し「世田谷中原駅(現:世田谷代田駅)」もできるとのことで線路用地を寄付しました。昭和2年小田急の開通を機に農業を営む傍ら商家となりました。
鉄道が開通すると駅周辺の宅地開発も進み、昭和7年に作成された世田谷区商業地図を見ても、現在からは想像出来ないほどに発展し、中原商店街として成長しております。
そのような変貌期の昭和6年、古閑裕而さんが現在の代田三丁目の代田八幡神社の南に引っ越してこられました。その後北沢川近くに転居し、さらに戦後の昭和24年には現在の代田二丁目に移転し、平成元年8月18日に惜しまれつつ80年の生涯を閉じました。
私が古閑裕而さんを意識するようになったのは家業のタバコ屋の店番に出るようになった昭和44年、小学校4年生の頃です。と言うのも、当時は歌番組が娯楽の中心にあり、古閑さんが審査委員長などを務めており、テレビによく出られておられたからです。「このお爺さん、テレビに出てるね!この前店番しているときに、ピー缶を二個も買ったよ!」と母に話すと、「古閑さんはね、昔から良い音楽をたくさんつくってきた有名な作曲家さんなんだよ。戦前から、うちのたばこを吸いながらね!そうそう、東京オリンピックを覚えているでしょ!あの時の入場行進曲も、古閑さんが創ったんだよ!他にも有名な曲をたくさん創った凄いお爺さんだね!」と母が話したことをよく覚えております。
ところで、店番をしているといろいろな人がきました。近所にフランス人が住んでいて、買った側が「メルスィ・ボク―」とにこやかにほほ笑んでくれました。また、印象深かったのは、おそらく学生さんだったと記憶しておりますが、オリンピックの1000円玉記念銀貨を惜しそうに差し出してたばこを買っていきました。たばこを売りながらも、こんなもののために大事な銀貨を使っちゃうんだと不思議に思ったものです。
話を古閑さんご来店のエピソードに戻します。
見たいテレビも見られずに店番をしている毎日でしたが、週に一度は古閑さんが浴衣を着てやって来られました。「坊や、ピー缶二つね!」と言って、岩倉具視の古い方の500円札をさっとトレーに置き、ニコニコしながらこちらを眺めている気配。当時、区から配られていた「たばこは区内で買いましょう!」と印刷されていた紙袋にピー缶を二つ入れ、「ありがとうございました」と小さな声の私。店番は、子どもこころにちょっと恥ずかしかったのを覚えております。もうそれも今から50年も前のお話ですね!
さて、その後、古閑裕而さんが脚光を浴びたのは平成元年に亡くなったときと一昨年、NHKの朝ドラ放映された時です。
亡くなられたときは、戦前からの作品の数々の曲が放映され、「あの曲も古閑さんがつくったんだ!」と感心するやら驚くやらでした。しかし、最も印象深いのは、「国民栄誉賞」を複数回も断っておられることです。他の芸能人やスポーツ選手がもらっているのに古閑さんは断り続けました。戦前の日本の国策ではありましたが、軍に協力し、多くの軍歌を作曲し、多くの若者を戦場に送ってしまったことが、賞を辞退した理由と述べておられました。当時の私は、辞退するカッコ良さに感激いたしました。他の人が国民栄誉賞が決まるごとに、これを断固として断っていた古閑さんがとても懐かしく思われます。
近来では古関祐而、金子夫妻を主人公に据えた朝ドラ「エール」は素晴らしいものでした。ところが古関祐而さんの出身地福島、金子さんの出身地豊橋は出てきました。ドラマの中では奥さんが通っていた「帝国音楽院」は代田駅前にあった学校です、また作曲家は「根津山(羽根木公園)」辺りを散歩しながら曲想を得たといいます。ほとんど終生を代田の地から出なかったのが古関裕而さんです、その彼は代田の地を深く愛していたと聞きますが、ドラマでは代田のダの字も出てきませんでした。世田谷代田で生活をし当地の空気を吸って、また代田の煙草を吸って曲は生まれたことは事実です。が、ドラマではその片鱗すらもでてきません。作曲家は和菓子店「香風」の餡子巻が大好きでした。これを食べながら何曲できたでしょう。大作家に成長する「背景」がないがしろにされたことは残念でなりません。
古閑裕而さんゆかりのまち歩きも、定期的に開催されていくのではないかと考えておりますが、世田谷代田が誇る、作曲家、彼の手になる『栄冠は君に輝く』の歌詞を刻んだ、古関裕而顕彰歌碑を建立して、彼の業績を讃えることを推奨したい、巨人のダイダラボッチは既に駅前にある、加えてこれを建碑すれば二大巨人記念碑となるであろう。

2、北沢川文化遺産発足満18年! きむらけん

2004年12月17日に当会の創立総会が世田谷代田信濃屋二階会議室で開かれた。当時、会を作ろうと同好の士が集まって話しているうちに、「会を作ろう」という話になった。それが地元の人にも伝わった。何か不思議な熱気のようなものがあった。「趣旨説明は誰がやるのですか?」「それはあなたに決まっているだろう!」と。あのとき地元の人何人いたろうか、公的な立場の人も数名来ていた。覚えているのは多聞小の吉川校長先生だ、「芹沢光治良が会長を務めていた多聞小」のアピールのための参加だった。
趣旨説明が終わって、すぐに決が採られた、賛成、賛成、賛成の声が響いてたちまちに会は成立した。思えば、我らなんかプライドを持っていた、これまでにないことをやるんだと。実際、初発の発信は大きかった『北沢川文学の小路』という冊子を創った。
朝日と毎日の二紙が東京版トップで取り上げた。反響は大きかった。冊子を「邪宗門」で配るというので大勢の人がやってきた。
「あのときは凄い人で、大久保さんが交通整理に立ったのですよ。それにね、これまでとは客層が違うんですよ。知性のある旦那さんと奥さんとが連れ添ってこられてね」
邪宗門の作道明さんが言う。我が会の語り草である。
苦い思い出もある。文学碑を建てて係累を招待するとき、「普通はお車代を出すものだよ」と伊藤文学さん、関係者の息子さんは新聞記者には必ず除幕式には参加しますと言っていたが来られなかった。お車代を出すのを怠っていたのだ。
有名人の御子息だからと言って毎回、自腹で参加していたのではたまったものではない。礼を尽くすことの大事さを教わった。
悲しいこともあった。我々がデビューを飾ったのが『北沢川文学の小路』だった。これを本気で手がけたのが東盛太郎さんである。が、彼は間もなくして急逝してしまった。彼のお別れ会があって出席した。この時になって彼がプロのデザイナーだったことを知った。弔辞の中で「『北沢川文学の小路』が遺作となった」とあった。私が文章を書き、全体のデザインは彼が手がけた。この冊子の中に『下北沢文士町文化地図』の原型となった地図が載っている。この彼のアイデアを生かしたのが継続して発行されている第八版である。世田谷区のホームページに載っていて国内や国外へ発信している。今、我々は『三軒茶屋文士町文化地図』を手がけている、文化地図の伝承は今も続いていることである。

3、台湾出撃沖縄特攻−八塊飛行場を巡る物語


北沢川文化遺産保存の会の活動もこの12月で満18年を迎える。当初は、地域文化の発掘を行ってきた。文学碑を建立したり、地図を作ったり、紀要をまとめたりと多くのことを行ってきた。しかし、文化は個別的なものではない、多くの事象に結びついている。あらゆることがネットワークでつながっている。
当地域の中心となる施設は代沢小学校である。代沢学校は1880年に開校している。我々の関わりとしてはまず、まず安吾文学碑を建てた。また、戦争経験を聞く会などを学校で開いてもいた。代沢校もやはり戦争中に浅間温泉に疎開している。このことについても当会、ブログでも取り上げていた。ここに質問が寄せられた。疎開先のお寺で寮歌を歌っていたが知らないか?というものだった。
この質問がきっかけとなって代沢国民学校の疎開の歴史を調べ始めた。この過程において代沢小の疎開学童と特別攻撃隊員と深い関わりを持っていることを知った。その過程で「鉛筆部隊」の存在をしって深く調べた。
今は、Wikiを引くと歴史事項としてこれが載っている。過去調査は繋がりを広げるものである。つぎつぎに歴史的な新事実に遭遇して、その度に記録としてまとめてきた。これは際限なく続いて、ついには台湾にまでつながってしまった。
台湾出撃の沖縄特攻というのは知らなかったが、調査は止まるところを知らず、ついには台湾の関係者とのコンタクトするようになって、日本で知られることのなかった「台湾出撃特攻」が今回日の目を見た。
代沢小の「ミドリ楽団物語」も加えると今度で7冊目となる。九州出撃の沖縄特攻はよく知られているが台湾出撃の沖縄特攻に触れるのは初めてではないかと思われる。外地ゆえの特別な苦労や苦悩があった。これらのことをコロナ禍にめげず書きまとめたものである。『台湾出撃沖縄特攻−陸軍八塊飛行場をめぐる物語』(えにし書房)は25日に発刊された。定価は2500円+税である。軍八塊飛行場をめぐる物語』(えにし書房)が11月25日発売された。売価は2500円+税。希望される方にはサインをして渡したい。消費税はサービスする。希望があれば自著サイン入りで、邪宗門受け取りもできる。

4、プチ町歩きの案内

にじゅうまるコロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。プチ町歩きの要諦、
1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。(4名集まったら成立する)

第180回 12月10日(土) 大山道をてくたくぶっくで歩く
案内者 木村康伸 東急田園都市線用賀駅改札口 13時集合
・用賀駅→玉電用賀駅跡→大山道追分→真福寺→無量寺→田中橋→延命地蔵→大空閣寺→将監山遺跡→慈眼寺→瀬田玉川神社→次大夫堀→砧線中耕地駅跡→南大山道道標→江戸道→二子の渡し跡→二子玉川駅
今年の歩き納めとして、玉川の郷土を知る会(「地団協」)が建てた石碑を道しるべに、いま会で話題の大山道の一部を歩いてみよう。


第181回 1月21日(土) 下北沢萩原朔太郎の箱庭文学館を歩く
案内者 きむらけん 下北沢駅東口 13時集合
世田谷文学館では萩原朔太郎の没後80年を記念し「萩原朔太郎大全2022」が開催されている。全国の文学館、大学など54館も参加して催しが行われている。その中で終焉の地は当地に他ならない。 詩人・吉増剛造は「下北沢には至るところに次元の穴が開いている」と。それは当地で最晩年を送った萩原朔太郎の、街角に想起される幻影である、朔太郎が辿った道を想像しながらその「次元の穴」を実際に歩いてみるという新しい試みだ。
・下北沢駅→朔太郎下北沢旧居→煙草屋→ポスト→「樹木の多い郊外の屋敷町」(野屋敷)→路地巡り→下北沢線路街→踏切地蔵→線路街経由世田谷代田→駅から自宅への歩行ルート→代田の丘の61号鉄塔(世田谷区風景資産・朔太郎居住痕跡)→旧居跡→青猫文学碑
にじゅうまる申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。090-3501-7278
きむらけんへはメールk-tetudo@m09.itscom.net 電話は03-3718-6498
しかく 編集後記
さんかく毎回、投稿を募っています。恐ろしいことに間もなく「200号」となる。12で割ると16年半となります。ぜひ投稿してください。
さんかく北沢川文化遺産保存の会の忘年会は12月10日に三軒茶屋で行う。この日町歩きを行うが終わった後、三軒茶屋で開催する。申し込みは締め切ったが1,2名ぐらいだと何とかなるかもしれない。当方に問い合わせてみてほしい。
さんかく今年最後の会報発行は12月25日(日)14時から 会報折り込み手伝いに来てください。終わってお茶飲んで今年を振り返る。邪宗門年内最終営業日。
さんかく会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会員は会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506
さんかく「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。にじゅうまる当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者の きむらけんへ



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2022年11月27日

下北沢X物語(4598)―ダイダラボッチと守山(モリヤマ)下―

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(一)時は容赦なく過ぎて行く、歴史は記録によって読み解かれる、が、これらは正確に残っているわけではない。現今、残されている記録を頼りにダイダラボッチを解き明かそうとしている人がいることを知った。谷山敦子氏(『せたがや 中世拾い歩き』 之潮 2021年)はこの著書の中で「生と死を巡るトライアングル......北沢川流域の開発と信仰」をまとめ、ここでダイダラボッチについて論じている。「モリヤマ」は一つの手掛かりで、これを出羽三山信仰における「モリノヤマ」でないか、すなわち埋葬地で死者の霊魂が昇天する前に一定期間、そこに籠もって浄化する場ではないかとの説を立てている。ダイダラボッチとは何か、柳田国男はここを訪れ調査を行った、彼はダイダラボッチ探査を巡礼と称している。当該箇所は聖地だとする認識があったからだ。代田ダイダラボッチを出羽三山信仰と結びつけたユニークな見解であり、見方である。

谷山敦子論考は、印象的には、「生と死を巡るトライアングル」などの捉え方は多分にロマン的な印象を私は受ける。
この論考の中で「守山の語源」がある。その冒頭である。

守山は、森巌寺川と鎌倉道と言われる古道(現、鎌倉通り)とにはさまれた台地で、広さ三万坪に及ぶマツ・ナラ・クヌギに覆われた美林であった。

現今の鎌倉通りである。(写真)下北沢の西部を南北に貫いている道だ、淡島通りにぶつかる、ここで消えているようにも思えるが道は細くなって南に延び太子堂八幡宮の脇を抜けて行く。
神社境内には「御由緒」が掲げられている。その一節だ。

太子堂の歴史の一頁を開いてきたものに鎌倉道がある。太子堂と若林の村境を通って八幡神社の西側から滝坂道を横切り下北沢と代田の境を通って鎌倉へ通ずる道で鎌倉道と呼ばれ古い時代には行きつく目的地の名を取って付けたようである。

歴史論考で述べられる「鎌倉道」と御由緒に言うこれとは同じである。が、我らの仲間内では常識になっている。これはいわゆる古道の鎌倉道ではないと。この道と並行して走っているのが二子道である。これは間違いなく古道である。行く末は多摩川の二子の渡しである。では現今の鎌倉通りは何か、近代になって土地を売り出すためにデベロッパーが新しく名づけたものだ。
「この代田には鶴ヶ丘があるでしょう、あれにあやかってつけたんですよ」
鎌倉通り沿いに住む山本裕さんの言である。続きを読む

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2022年11月26日

下北沢X物語(4597)―ダイダラボッチと守山(モリヤマ)上―

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(一)代田の語源はダイダラボッチから来ている。類例のない当地域の特異な文化現象である。そんなことから駅の新装に合わせて2021年3月28日日に小田急線世田谷代田駅前にダイダラボッチをかたどった駅前広場が作られた。メディアからは二紙の反応があった。T紙は記者を派遣して取材までした。が、記事は載らなかった、当記者からの連絡は何もない。この背景にはこの伝承に対しての社会の理解や認知度の低さが挙げられる。ダイダラボッチの市民権が獲得できていない。図書館でこれを検索すると「妖怪」が多く引っ掛かる、社会は真面目にこの伝承に向かい合おうとしていない、と痛感する。ダイダラボッチは古い伝承だ。が、あまりにも古くて理解できないという点もある。ダイダラボッチとは何か、これが十分に社会に浸透していない点はある。

ダイダラボッチに対して真面目に考えようとした人は今まで二名出会った。一人は國學院大學の学生で調査をしレポートも出している。もう一人は日経新聞の記者だ、彼は熱心で代田のダイダラボッチ跡から第二候補の野沢まで歩いて取材をして記事に取り上げた。

区域地域によってダイダラボッチへの認識度は違う、相模原のダイダラボッチを取材したときに市民の多くがこれを知っていることに驚いた。その差違はどこから来るか「小学校で教えてくれるのです」と住民。なるほどと思った。

自身はダイダラボッチ伝承を広めようと『巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ』という冊子を作った。世田谷区教育委員会に持っていったが、「伝承でしょう?」ぐらいの認識であった。唯一、代田小学校では授業で取り上げていると聞く。

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2022年11月24日

下北沢X物語(4596)―吉増剛造『氷島』論 2―

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(一)朔太郎の最晩年の詩集『氷島』をボロクソにけなしたと吉増剛造氏は言う、これは弟子の三好達治である。彼の場合は単なる難癖ではない、理路整然と批判する。『氷島』では、「新年」という詩がある。「昭和七年一月一日」に詠まれた、すなわち下北沢在住時の作だ、年改まっての彼の感慨が詠まれている。「新年来り/門松は白く光れり。/道路みな霜に凍りて/冬の凛烈たる寒気の中/地球はその還暦を新たにするか。/われは尚悔いて恨みず......」とある。三好達治はここを問題にする。ここで引用した最末尾を取り上げる。「『われは尚悔いて恨みず』といふ一行にさしかかって、読者は果たして容易に明瞭な表象を捕らへうるでせうか、小生はここでまづ一度つまづきます」(「詩集『氷島』について」)と批評する。三好達治は行と行の間の飛躍がおかしいと指摘する。言われてみればそうだが、まず新年を迎えて誰もが持つ考えを述べ、人々はそうだが私自身の思いは「われは尚悔いて恨みず」なのではないか? 達治は語同士の接着性を論ずる、が、ここで朔太郎が言わんとするのは思想ではないか、段落を変えて「私の新年対する思いは」と言おうとしているだけではないか。

吉増剛造の講演の続きだ。
「『氷島』は評価を与えられていないけれども私には、全部いい、郷愁がここには書かれている、我々の生命が持っている、単に人間だけでなく動物も植物も含めた存在の根源を問うている、懐かしさみたいなもので一貫している。それを正直に、正直にすばらしい、すばらしい一貫したものを出し......なんというのかな『聞こえない風土の楽器を創り出した』と言っていい。これは中原中也にも宮沢賢治にもできなかったことです。それを少しずつ説いていきます」
詩人は素晴らしい詩語を操って語る。
どうやら朔太郎詩における音楽性を指摘しているようだ。
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2022年11月23日

下北沢X物語(4595)―吉増剛造『氷島』論―

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(一)言葉は世界を映す鏡である、地図もまた同じである、我々は「下北沢文士町文化地図」を作ってきた。今回新しく「三軒茶屋文士町文化地図」に挑んだ、後者は締め切りを迎えたところから21日に印刷所に入稿した。これまではAがあった、今度はBができる。見本刷りを見ただけで地域の文化の差異が視覚的に見られる。大きな違いは道である。Aの場合は碁盤目状である、Bの場合は乱雑で屈曲している。街の形成過程が一目でわかる。言わば災前、災後の差違である、耕地整理をする間もなく震災避難民が玉電で押し寄せてきた三軒茶屋一帯、大地震後鉄道が開通して開拓され始めた町との差である。

「萩原朔太郎大全2022」で朔太郎詩が全国的に大きな脚光を浴びている。代田・下北沢は詩人終焉の地である。昨日、たまたまLADY JANEのオーナー大木雄高さんから電話があった。ふと思いついた。

「萩原朔太郎大全2022IN LADY JANEという企画を立てれば面白いですよ。先だって吉増剛造の講演会に行ったときに自身では『下北沢の至るところに空いている次元の穴』のことを話題にしたんですよ。彼の詩人は当町で晩年の詩集『氷島』が書かれたこと、そして『猫町』が案出されたことに深い感銘を受けたところから『次元の穴』は発想されたのです。朔太郎没後80周年で全国規模で朔太郎関連の催しが開催されています。地元としてもアピールするとよいですよ。『氷島』のいくつかを選んで歌詞をつけて歌わせる、おてのものでしょう。そして『猫町』は手練れの女優に朗読させる......」
というアイデアを電話での長話の途中しゃべっていた。が、彼はどこまで聞いていたかわからない。

「下北沢演劇の嚆矢は『ザ・スズナリ』と言われているけどもその前に俺達が下北沢で初めているんだから......」
「ああ、萩原葉子さん、ダンスやっているときはよく家の店にもダンスの有名な先生ときていたよ」

「大木惇夫と北原白秋の関係については親から間接的に聞かされているんだ。大木惇夫には娘が二人いて有名なんだ、妹は宮田鞠絵、編集者でエッセイスト、『忘れられた詩人の伝記』とか書いているんだよ」
「お元気ですか?」と私。
「元気、元気」
「お話を聞かせていただきたいですね」

「下北沢の次元の穴も、ほら町がきれいになったでしょう。穴が少なくなったんですよ」
「ああ、あれね」彼の反応は鈍い。
下北沢線路街を含めての町の再開発が進行している。大木さんは道路造り反対派として活動してきた。今の町への思いは強くあるように思った。

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2022年11月21日

下北沢X物語(4594)―世田谷の尾根を歩く 下―


P1050569(一)現今武蔵野は近代化された。飲料水は水道から流れ出る、が、一昔前は井戸である。居を定めるときに水が出るか出ないかは大きな問題だった。が、今は住宅地である。かつては一帯は農耕地、しかも作物を作るのに適してはいない、例えば地勢全体を記録した『東京府史了』では土地の特徴を言う、ほとんどに見られるのが「高燥ナリ」と記される、土地が高くて土地は乾燥していると。それゆえに水は命だった。小河川の源流にある湧水地は弁財天を祀って大切にした。一方の面的な水源は用水路に頼った。世田谷のど真ん中を流れているのは品川用水である、名称のとおり品川に送る水ゆえに途中の世田谷でこれを利用できなかった。世田谷区内には「盗水」を戒める高札が三箇所も掲げられていた。

我らは、世田谷の尾根を通った。谷亀氏はこれを図示されたが品川用水は地形を見事に活用している。
まず荏原台の尾根が活用されている。図示するとよく分かる、荏原台は淀橋台から派生して南東方向に流れている。その尾根を巧みに使った水路が品川用水である。地形地質的にも荏原台は淀橋台は親戚同士だ、南東に派生した荏原台は左に烏山川低地を、蛇崩川低地を見て尾根上を曲がりながらもおねおねと続いて行く。

品川用水は何度か歩いている。会友には渡辺一二氏がおられる。

「品川用水の特徴というのはどういう点が言えるのですか?」
私は聞いたことがある。
「他の用水に比べると築堤造作箇所が多く、人工築堤が最も長いと思います...」
本流である玉川上水はいわゆる淀橋台の背尾根を堂々とたどっている。地形通りに水を流せば何の問題もない。ところが品川用水の場合は骨格となる背尾根が見つけにくいという難点がある。背尾根から背尾根を渡って行くというのも品川用水の特徴だ。綱渡り的な用水だ。

千歳村粕谷に住んだ徳富蘆花は、「みみずのたはこと」の中で用水のことについて触れている。

家から五丁程西に当って、品川堀と云う小さな流水がある。玉川上水の分派で、品川方面の灌漑専用の水だが、附近の村人は朝々顔も洗えば、襁褓の洗濯もする、肥桶も洗う。何なァに玉川の水だ、朝早くさえ汲めば汚ない事があるものかと、男役に彼は水汲む役を引受けた。

用水は汚すなというお触れが出されているが住民は守らない。
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2022年11月20日

下北沢X物語(4593)―世田谷の尾根を歩く 上―

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(一)歩きから詩が生まれる、必然である、景色のトンネルを潜り抜けていくのが歩きだ、それは千変万化する、車移動では情報を捨てながら移動する。日の光を浴びた紅葉、青々とした山々はうっちゃって行くしかない、が、歩きでは生の情報が身体全身に降りかかる、脳は最も活性化する、用水筋の尾根歩きの場合、土地の傾斜に敏感でなくてはならぬ。これを続けていると土地の魂への共感が湧いてくる、品川用水、ミリ単位で尾根を見分けてこれを通水させた。昨日、当会会長の谷亀?郎が皆を用水の旅へと導いた。彼は用水上の道の左右の遊歩道を作るときの現場責任者として関わっていた。歩道には桜を植えたが、長い年月で見ると落葉や剪定などには問題があったという。

小田急線千歳船橋から歩き始めた。しばらくして
「古道ですね、ゆうに千年は使っていますね」
案内者の谷亀氏が言う。その幅といい曲がり工合といい、それらしい風格がある。
「ここら辺の中心地はどこでしたか?」
「府中!」
東から西の府中へ行く道は重要道である、旅人も通ったが物産の出荷ルートでもある。

千歳通りは、品川用水に沿った道だ、元は両脇の歩道はなかったがここに歩道を設けたこれに関わったのが谷亀さんだった。
この通りで特徴的なのは、右岸の玉垣である。河原のごろごろした石をそのまま積み上げて塀が作られている。
「かつての玉電で運ばれた石でしょう」と。

用水は丘陵の間を流れている。勘が働く、この台地上には遺跡があると。調べると左岸には「桜木遺跡」があった。以前、発掘中に見にきたことがある。調べると古い。

[旧石器時代][縄文時代(早期〜後期)][弥生時代(中期)][古墳時代][平安]

見学に来たときに集落跡が多数あったのを印象深く覚えている。彼等古代人は水辺には住まない、水害を恐れ高台に住む。水は高台を降りて沢から運んでいた。後に江戸になって用水ができる。

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2022年11月18日

下北沢X物語(4592)―吉増剛造、朔太郎を熱く語る 2―

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(一)詩は活字になって詩集に蓄えられている。これに読者が触れることによって詩は息を吹き返す。声に出して読むと行間から音が聞こえてくる、常々自身は『氷島』の「自序」に接してはここに高圧線に吹きつける風のうなりや、青い火花をジィジリと放つ鉄塔の音を想像していた。ところが何と吉増剛造氏、まさにその自序を取り出してここから聞こえる音について言及された。この自序は、書かれた時と場とがはっきりと明示されている。「昭和九年二月」と。間違いなく世田谷代田の家の鉄塔の真下で書かれたものだ。「あの高圧線の電気は前橋から来ていますね」と私は氏に質問しながら言っていた、「あんた、こっちへ来て説明しなよ」と言われた。私は深い共感と共鳴を氏に感じたように思った。

氏は、「『氷島』『猫町』を書いたのを知ったことは」事件だったと言われる。それは自序の末尾にある、「昭和九年二月」が端的に証明している。萩原朔太郎は『氷島』をここ代田で間違いなく編集していた。詩集の冒頭詩は、『漂泊者の歌』である、この作品、言わば総括詩である、よってこれも編集時に詠まれたのではないかと想像する。

小説『猫町』は、「昭和十年十一月、版画荘」より刊行されている。当地で『氷島』は編集され、『猫町』はここで書かれている。昭和九年や十年は朔太郎は近隣付近を漫歩しながら想を得ている。自身、書斎ではなく付近をほっつき歩きながらこれを行っていたと書いている。そして、先の「漂泊者の歌」冒頭だ。

日は断崖の上に登り
憂ひは陸橋の下を低く歩めり。
無限に遠き空の彼方
続ける鉄路の柵の背後に
一つの寂しき影は漂ふ。


まさにこれは自人生の総括である、付近を漫歩しながら人生を振り返り、思いついた詩句をメモに書き上げた。結構の整った漢文体である。

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2022年11月17日

下北沢X物語(4591)―吉増剛造、朔太郎を熱く語る―

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(一)言葉とは何か?、現今、言葉が陳腐化、形骸化しつつある、世界は嘘に満ち満ちている、そんな中で一人の詩人にスポットを当てて詩とは何かを問う運動が行われている。萩原朔太郎大全2022である。全国52カ所の文学館や美術館、大学等が参加している。朔太郎没後80年を記念しての催しだ、この運動の一環として昨日16日、「萩原朔太郎大全2022 in 大正大学」が開催された。吉増剛造氏、萩原朔美氏らの講演や対談を軸としたものだ。吉増剛造氏は「下北沢には至る所に次元の穴が空いている」と指摘しておられる、これに深い興味と関心を持っていた。講演後「何か質問はありませんか?」と。好機到来、千載一遇のチャンス、次元の穴について真っ先に質問をした。問題の核心はおおよそ了解はしていた、街の物影に潜む朔太郎の陰翳のことである。彼の言、「下北沢が『猫町』であることを最初に言ったのは私です」と、詩人の鋭い感性はニャント猫町のツボをしっかりと押さえておられた、感動したことだ。

これまで何千もの人に出会ってきた、しかし、本当の詩人に出会ったのは初めてである。詩人は単に言葉の手練れではない、言葉に潜むデーモンを掴んで、さりげなくそれを垣間見せる。

彼から教わったのは詩とは何かということだ。詩は単なる文字列ではない、言えば各自に与えられた台本だ、これを声に出すことで詩がイメージを現出する、詩は生き物なのである。読み上げられた音韻が発信者の心の陰翳や叫びを人に伝えてくる。

氏は、朔太郎詩から

聞こえない風の楽器の音色を聞き取る

というようなことを言われた。詩が奏でる音のことを言われているようだ。

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2022年11月15日

下北沢X物語(4590)―三軒茶屋文士町文化地図最終編集会議 2―

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(一)三軒茶屋は歴史の荒波を潜り抜けた町だ、世田谷では江戸・東京に接する最も近い町だ、近代に起こった事件としてはまず震災がある、「東京市内の罹災者は延々続々と道幅一杯に通過し、三軒茶屋に居を定める者も亦多く、忽ちにして人口過剰の町になってしまった」(『石橋楼覚え書き』)玉川電車が早くも通じていたことは大きい。太子堂や三宿などの街並形成はこれによることが大きい、区画整理なしに乱雑開発された様子が今なお残っている。町全体の雰囲気に下町が匂うのもこの影響がある。人との繋がりが熱い。震災後の大正十四年のことだ。壺井栄は『太子堂のころ』という随筆で「太子堂の市場前で売っていた今川焼は、一つ一銭で、十銭買うと十一個くれた。私たちはそれを買って飢えをしのいだことも度々あった」と芙美子との暮らしを描いている。大正時代の話であるが今も町には下町的雰囲気が漂っている。

世田谷東部の江戸や東京に接していたところだけに情報は真っ先に入った。基本矢倉沢往還が通っていたことは大きい。東西の物流が行き交った、これら車馬によって物資がもたらされると同時に江戸や東京の情報が真っ先に入ってきた。言わば三軒茶屋は当地の情報のアンテナ役を果たしていたと言える。

資料として有名なのは太子堂の森家文書である。図書館には世田谷叢書として旧太子堂村森家文書として多くの記録が残されている、また世田谷郷土資料館には文書に収めきれなかったものがデジタル化されて残されている。

三軒茶屋は地政学的に重要な地点であったことがこれらからも分かる。単に江戸期のものだけではなく、明治大正のも残されている、当地に敷設された東京電灯が高圧線電線を敷設するに当たって農民との闘争があったこれも記録されている。大正デモクラシーの息吹を伝えるものである。

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2022年11月14日

下北沢X物語(4589)―三軒茶屋文士町文化地図最終編集会議―

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(一)公益信託世田谷まちづくりファンドの助成を得て地図づくりをしている。情報収集や記入記事などが集まってきたところから昨日は編集会議を開いた。今回は、下北沢文士町文化地図からシフトして新しく「三軒茶屋文士町文化地図」造りにチャレンジをした。地域や分野を変えると見えなかったものが見えてくる。当然のことながらAとBとの比較になる、比較文化、比較文学である。一番強く感じたのは歴史の深さと重みである。下北沢の場合は鉄道の歴史から入ればよい、ところが三軒茶屋は歴史がもっと深い。当地を通る道は、大山道、厚木街道と呼ばれるが 律令時代は駿河国と相模国を結ぶ東海道の本道に当たった、矢倉沢往還ともいい東海道の脇往還としの役割を果たしていた。しかし何といっても大事なことは当地に追分ができたことである。これが当地の歴史文化の源泉だと言ってもよい。

地図を作る場合は何をマークして、地図上に落とすかという点はある。神社仏閣はその点重要なポイントである。
「一つの違いですけども三軒茶屋というのは教会が少ないですね」
下北沢では教会はマークしいてすべて載せてある。が、三軒茶屋地区ではこれを見落としていた。が、そもそもがこれが少ないのである。四つぐらいである。比較すると下北沢の教会の数は多い。
下北沢ではほとんどの教会の牧師さんや神父さんに当地に教会が来た理由を問うている。「神の思し召しで当地に参りまして信仰の普及に努めております」との答えてもあったがこればっかりは信じられない。

下北沢に教会が参集、蝟集したのはなんと言っても交通の利便性である。
キリスト教信者は知性の高い人が多い、電車の利便性が世田谷知性を集めた。それで下北沢には教会が多い。

三軒茶屋の町の性質もある、庶民階級が多い。大概は仏教系である。庶民電車玉電は仏教系を多く運んだのであろうか。

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2022年11月12日

下北沢X物語(4588)―女流汽車文学:林芙美子 5―

[画像:D51バック東調布公園]
一家三人は(尾道)この町に腰を落ち着けることになった。それで尾道尋常小学校に入学するために父と行った。

父は、着物の上から、下のおじさんの汚れた小(こ)倉(くら)の袴(はかま)をはいて、私を連れて、山の小学校へ行った。
小学校へ行く途中、神武天皇を祭った神社があった。その神社の裏に陸橋があって、下を汽車が走っていた。
「これへ乗って行きゃア、東京まで、だまっちょっても行けるんぞ」
「東京から、先の方は行けんか?」
「夷(えびす)の住んどるけに、女子供は行けぬ」
「東京から先は海か?」
「ハテ、お父さんも行ったこたなかよ」
随(ずい)分(ぶん)、石段の多い学校であった。父は石段の途中で何度も休んだ。学校の庭は沙(さ)漠(ばく)のように広かった。 放浪記 林芙美子 岩波文庫 二〇一四年刊

小学校は山の上にある、途中、鉄道をまたいだ。ちょうどそのときに駅を出たばかりの上りが通った。機関車の煙が顔にかかって石炭が匂った。カタタンカタタンと線路を響かせて列車は通った。芙美子はじっとそれを見ていた。
汽車に乗れば何もしなくてもあの東京に行ける。その東京の先はどうなっているのか。父は化け物でも住んでいるように言う。と、そのときに見送っていたテールランプが山陰に消えた。十四歳の少女はるか遠い東京を思った。
この「風琴と魚の町」の末尾には昭和六年四月とある。タイトルは尾道という町を印象批評的に捉えたものだ、回想文である。林芙美子が少女時代の自分を思い出して書いている。冒頭山陽線の汽車が糸崎から尾道へ続く海岸線を走って行く様が描かれる。彼女にはその景色が「壁のように照り輝いて」見えた。
この道行きでは、細かな変化は書き記されない。が、分かることがある。彼女は小さい頃から汽車に乗っていた。窓辺に見られる「廻り灯籠の画の様に/変わる景色のおもしろさ」に何時も見とれていた。少女時代、彼女は本を貪り読んだ、が、想像できることは汽車に乗ったら本は読まなかったろうと思う、常に窓辺に席を取り移りゆく風景を見ていた。 途中途中、汽笛や車輪の響などは記されない、が、それは自明のことであった。更に言えばそれらは邪魔にならない音、思うに心地良いカダンスとして彼女には響いていたように思われる。

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2022年11月11日

下北沢X物語(4587)―鉛筆部隊の語り部再要請―

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(一)十八年間、町出会った古老に話を聞いてきた、が、この頃では問いかけると自分より年齢が若い人が多くなった、気づいて見るといつの間にか自分が古老になっていた。昨日電話があった、鉛筆部隊の母校の代沢小である。「高学年の学童に鉛筆部隊の話を聞かせていただきたいのです」との依頼だ。代沢小では疎開経験者に話を聴くことを行ってきた。かつて鉛筆部隊の一員だった松本明美さんがこの役を担っていた、「松本さんもご高齢になられて......」と。この鉛筆部隊の話は三年前ほどに代沢小で既に行ってきた、コロナ関係で外部講師を招いての講演は中断していた、再度復活させようと決まり私への依頼となったのだ。何のことはない、気づいてみると自身が古老、語り部になっていた。

鉛筆部隊の物語の発端は、ネットから始まった。自身はブログを運営している、そこにあるとき見知らぬ人からコメントが入った。すべての発端がこれである。

昭和20年ごろだと思います。長野県東筑摩郡広丘村に学童集団疎開し、疎開先のお寺(郷福寺)で一月ほど生活した記録があると思うのですが、そのときの引率されていた先生が作詞作曲された広丘での唱歌があるのですが、全曲をご存知の方いらっしゃいましたら、教えてください。
"広丘は僕たちの里、青い空光る汗、鍬をふる僕らの頬に、父母の声、風が運ぶよ......
Posted by 旭 正章 2007年12月14日 22:20


もう十五年前である、まずこのコメントも意味が分からない。これは私が代沢小について書いた記事に寄せられたものだ。質問して来た人は私を代沢小の関係者と思ったのであろう。

そのコメントには切実さを感じた、本気で調べていることが伝わってきた。それを汲んで当方でも調べた。すると段々に事情がのみ込めてきた。

代沢国民学校は昭和19年8月に長野県浅間温泉に疎開していた。
東京が空襲で襲われるということで学童は学校単位で地方に疎開をした。ところが浅間温泉も安全ではないということ塩尻市近辺のお寺に翌年4月に再疎開をした。
お寺に分散宿泊をして疎開生活を送った。その一隊が塩尻市広丘村の郷福寺だった。ここの引率を担当していたのが柳内達雄先生という国語の先生だった。この先生が鉛筆部隊を引率していた。

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2022年11月09日

下北沢X物語(4586)―鉄道百五十年:汽車の音と文学 2―

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(一)足が長い人間は速く走れるように汽車の速度も動輪直径などその構造によって大きく左右される。狭軌は単に線路幅が狭いということに止まらない、動輪の大きさ、ピストンの長さと結びついてくる。このことは汽車全体の発する音も影響を受ける、言えば我らは狭軌鉄道が発する音声に馴染んできた。狭軌鉄道は狭い、揺れる、ガタゴト、ガタゴトという音を聞いて旅をしてきた。線路の長さは二十五メートルだ、車輪は継ぎ目を刻んで走る、この走行音はいやでも耳に聞こえる、単車時代はガタゴトだった、ボギー台車になってから、カッタン、コットンと音楽性が高まった、実際これを音楽と捉えた者がいる。北原白秋である、彼は汽車がレールを刻んでいく音を、カダンスと言った。もともとは馬術用語である。弾むアクセントのある動きを形容するものだ。このリズムを伴う音を北原白秋はカダンスと形容している。狭軌鉄道が発する音楽である、これが吾々の感性にどう影響してきたであろうか。

北原白秋は、 大正七年(1918)十一月発行の「白光」に「伝肇寺より」というエッセイを寄せている。この冒頭は、「樹高山伝肇寺(でんでうじ)は小田原は箱根口のとある山上にある荒寺である。その寺の二た間を借りて住居する事になつてからもう十日の余にもなつた」とある。小田原住まいの近況を綴ったものだ。

いかにも山の上だけあつてシインとしてゐる。それでも電車の音や汽車のカダンスが幽かにきこえて来る。それもいヽものだ。波のおとも幽かになつたり、近くなつたりする。早川口へその音が寄つてゆくと、明日は晴れるが、酒匂口の方で騒立つと雨になるといふ話である。
白秋全集35 小編一 所収 一九八七年刊 岩波書店


山間から聞こえてくる汽車の響きを彼は気に入っていた、「カダンスが幽かにきこえてくる」と、音楽的な魅力を感じていた。
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2022年11月08日

下北沢X物語(4585)―鉄道百五十年:汽車の音と文学―

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(一)幕末、万延元年(1860)米国に渡った遣米使節団はこのときに初めて汽車に遭遇する。武士たちはこれに乗って驚嘆した「車の轟音雷の鳴はためく如く、左右を見れば三四尺の間は、草木もしまのやうに見へて、見とまらす」(村垣日記)と言う。汽車は動き出したとたん雷が鳴るような轟音を響かせた。腰を抜かすほどに怖かった。ようやっと座席に腰を落ち着けて窓辺を眺めると縞模様が流れていく。怪物との遭遇である。これから十二年後の明治五年、日本で汽車が初めて走った、これを見学に来た人々は、こつ然と空気を破って現れたこれを見て「火龍だ」と叫んで逃げた、腰を抜かした婆さんは、その場にへたり込んで「もう死ぬところだった」と恐怖を語った。汽車は恐ろしいものだった。

明治五年、汽車は走り始めた、が、人は場慣れしてきた。
「窓を見るときは下を見ないで遠くを見るのだ、な、しばらくすると左手に日に当たった大森田圃が見えてくる、きれいだぞ」
やはり縞模様に驚いていた人々ももう驚かなくなった。汽車は楽しいものだ、これが定着して唱歌でも歌われる。「汽車」の三番だ

廻り灯籠の画(え)の様に
変わる景色のおもしろさ
見とれてそれと知らぬ間に
早くも過ぎる幾十里


汽車の楽しさは、車窓美にある、「廻り灯籠の画のような」は、唱歌「汽車」で描かれる主題だ、車窓に山や浜の美しい風景が居ながらにして映し出される。人々はこれに魅せられた。この廻転していく美しい絵をどう描くか?文学はこれと苦闘した。

車窓をどう描くか、文学の課題だ。石川啄木『一握の砂』の有名な一首である。

雨に濡れし夜汽車の窓に
映りたる
山間やまあひの町のともしびの色


鉄道の車窓を描いた秀逸な一首である、描かれているのは夜景である。山間にポツンと点った灯りがものを思わせる。読み手の想像も膨らむ、山間を走る狭軌である、多分登りにかかっていて速度は遅い。ゆっくりである、カタコット、トコトット、時速は三十キロぐらいではないだろうか。
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2022年11月06日

下北沢X物語(4584)―東京荏原都市物語資料館検索逸話―

『下北沢X惜別物語』
(一)18年間文化探訪を続けてきた、何をしたか、まず歩いた、日々歩かない日はない。社会の変化を見て来もした。6577日間で変わったのは老齢化である、豆腐屋、八百屋など個人商店が街から消えた。「うちはね、朝が嫌いだから絶対に継ぎたくない」と言ってますから店は閉めるしかありませんと高齢化した店主は言う。これと関連するが、老人ホームがやたらと増えたことだ。荏原南西部だ、便利がよい、緑が多く残っている、余生を送るには好都合である。しかし、これは蓄えのある人向けのものだ。造りが豪華だ、ロビーにはピアノがある。庶民が入れる施設ではない。日本の老人は金を持っている。これが目当てだ、広い敷地の緑が伐り倒されるとマンションではなく高級老人ホームが建つ、日中、介護士に連れられた老人たちが公園をよく散歩している。保育園児の散歩と老人の散歩、好対照の風景が日々見られる。

三食昼寝つきの老人ホーム生活、自分には耐えられそうにもない。
「歳をとって大事なのは二つだけ、身体を動かすこと、頭を働かせること、この二つだ」
自身歩き回る、雨が降っても雪が降ってもだ。歩かないとおかしくなる。近隣はくまなく歩いている。

前はよく旅に出た。汽車が好きだったからだ、家の前には呑川が流れている。一つのコースはこれを南下する。途中、石川台の呑川右岸の十三階建て高層マンションはいつも眺めて行く。詩人の終焉の地である。石垣りんである。教科書には彼女の「崖」という詩が必ずと言っていいほど出てくる。が、難解だ。とくには「崖はいつも女をまっさかさまにする」である。これを検索に掛けるとトップに出てくるのが当ブログだ。

自身教師時代、解釈に困ったことから、分かりやすくこれの解釈を試みた。教壇に立った人の助けになると思って書いた、ときどき検索で閲覧されているようで所期の目的は達せられているようだ。

教科書の文言では「石炭をばはや積み果てつ」、鴎外『舞姫』冒頭の一文だ、このたった九語の言葉の巧みさを知ったのは晩年になってからだ。娘は森茉莉『贅沢貧乏』を表した、このことから「贅沢をばやはや積み果てつ」を話題にした、これは完全に「ネットへの与太飛ばし」だ、Googlecrawlerはしっかり拾っていて検索トップに来る。
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2022年11月05日

下北沢X物語(4583)―文化発掘は検索こそ命なり―

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(一)二三日前、見知らぬ人から長谷川信少尉の墓所と記念碑の場所を教えてくれとの連絡があった。旅先からだという、容易に想像できたのは検索情報を得てのコンタクトだろうと思った。案の定、Google検索で「長谷川信少尉」と引くとページトップの一、二番にトピックが出てくる、トップ記事は「長谷川信像検証の試み」だ。自身文化事象を多岐に亘ってネットに放り込んできた。この行為を「ネットに与太を飛ばす」と言っている、念のためと思ってこのフレーズも検索する、つい笑ってしまった、これも検索ページのワン、ツーを占めている。まず、「ネットに与太を飛ばす」だ、つぎに「ネットに与太を飛ばして生きてきた」である。後者は当たっている、ネットに自身の造語をめったやたらと投げ込んで人生を遊んできた。このことが発端になって多くの物語をネットから拾った。
ネットで生き生き人生経験、本にすれば売れるかも?

近々発刊される著作には、第五弾とのキャッチが書き込んである。このブログを通しての発見が発端となって本を纏めた。しかし、実数を言えば第七弾となる。

ネットに言葉を放り込み始めたのは2004年8月31日だ。ということは十八年間継続してきたことになる。記念すべきこのタイトルは、「分けて分か去れしるべ道ー信濃追分ー」である、これも念のためと検索に掛けてみる。やっぱりこれがGoogleトップに来るではないか!恐ろしい。

今日のブログのエントリー数は、4583である。これまでの記事分量はいかほどのものか、平均して原稿用紙六枚分ほど書いているのではないか?2400文字だ、その総計はかけ算すると109999200語となる。つまり、壱億九百九拾九万九千二百語となる、気が遠くなりそうだ。

不思議なのは、この語がネット世界に貯め込まれていることだ。どこに倉庫はあるのだろう?
この語を集めているのはロボットである、crawlerである。これが絶え間なく発信元を巡っては語を集めている。

彼は何回来ているのだろう、その訪問回数は調べられる。昨日のを点検してみる。やはりGoogleは、ダントツだ、 googleクローラー(*.googlebot.com)の訪問回数は358である。絶え間なく訪れているのだ。

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2022年11月03日

下北沢X物語(4582)―文化に浸って18年!―

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(一)我らの会は、「北沢川文化遺産保存の会」である。発足は2004年12月だ、間もなく満18年を迎える。ひたすらに失われた文化を掘り起こし続けてきた。それは人々の精神的な営みである。ところがこれは儚いもので時が経つとともに消えていく、ふと気づくと礎石や痕跡すらもたちまちに忘れられて消えていく。それを何とか残そうと奮闘してきたきた。その一例が碑の建立だ、北沢川べりに代沢小がある、ここで作家の坂口安吾は教鞭を執っていた、「人間の尊さは自分を苦しめるところにある」などと学童に教えてきた。この作家の大田区の旧居に家の門柱が残っていた。これを譲り受けて文学碑を作り、碑として残した。文化活動の一端だ、が、立体物を作ることだけが活動ではない、大切なのは記録である、それで『下北沢文士町文化地図』を発案してこれを作成した。版は改版を重ね、ついには今で8版を数えている。この地図には文化が凝縮している。下北沢一帯の様々な文化事象を地図に落とし込んできた。地図から文化がこぼれ落ちるほどになった。

「この地図そのものが文化遺産ですよ、すばらしい!」
世田谷文学館では萩原朔太郎没後八十年を記念して展覧会が行われている。これに関連して下北沢を巡る文学散歩を行った。そのときに参加者に『下北沢文士町文化地図』を配った。一人一人はこれを眺めては感動していた。

十八年間の努力の所産である、嬉しい。どこに何があるか、これはひたすら足で稼いで調べてきたものだ。自転車で走り回ったり、歩いたりしてチェックしてきた。この一つ一つにドラマがある。

「この地図にある下北沢仙泉閣、これってすごいところですね、満州国皇帝溥儀の弟が住んでいたのですね」
先日も言われた。

地図には「代田連絡線」の跡が描かれている。「戦時応急車輌運搬線」だ、1945年5月25日、山手大空襲があった。これによって永福町車庫が焼けて帝都線(井の頭線)の電車が焼けた。
「車輌がない、これでは帝都は滅びてしまう、至急車輌を手配しろ!」
帝都線へ車輌を搬送するために世田谷中原(代田)から代田二丁目(新代田)へ仮設の搬送線が津田沼の鉄道連隊の手によって敷設された。戦争の歴史ドラマだ。(注:船橋の鉄道連隊としていたが指摘を受けて訂正した)
コメント指摘も記録になるので最後に貼り付けで参考情報として載せた。2022年11月05日

(二)
「下北沢文士町文化地図」には薄いピンクで彩られた箇所がある。それは空襲を受けて燃えた箇所である。これは街並の歴史を知るには便利なものだ。
下北沢一帯は白である、つまりは大半は焼けなかったことである。日常生活を営める家が残ったことは大きい。
みんな焼け跡では、焼けたトタン屋根の下で窮乏生活をしていた。大原に住んだ詩人の福田正夫は、トタン屋根が風に吹かれて鳴る音を、「キリヤコンコン」と描いた。焼け跡に文学も生まれた。が、家を失うとわびしい。
屋根があれば雨露を凌げる、商売もできる、下宿屋もできる。
「連れ込み旅館にしよう」
「出版社を興そう」
焼けなかったことで活力が生まれた。

焼けたことに関しては、我々は「焼け遺った街 下北沢の戦後アルバム」を作った。フロリダ大学にお願いして印刷の許可を得て、オースティン博士が撮影したカラー画像をアルバムに印刷して配った。
大きな反響があった、テレビや新聞でも大きく取り上げられた。この冊子人気でたちまちになくなった。追加でもう一万部印刷したがこれももうなくなった。
つい数日前も、SNSで「地図は残っていませんか?」と問い合わせがあった。
「世田谷の全図書館に寄贈分があるので、それで閲覧してほしい」と伝えた。

先だって若い役者俳優が下北沢に興味を持って私に会いにきた。
「下北沢文士町文化地図は、文士町と呼んでいます、これは私がつけました。普通は文士村ですね、誰か中心なる人がいてその人のところに集まってきます。馬込文士村だと尾崎士郎、田端文士村だと芥川竜之介だというふうに、下北沢も核になる人物がいないわけではありません、代表格は横光利一です。しかし、新感覚派の括りではここの文学は全部カバーできないのですよ。ジャンルが入り乱れている、とくに多いのは詩人系統ですね、今はちがいますが、かつては詩人密度は日本一だったのですよ。

(三)
文化というのはその地域だけでは完結しない、とくには今はネット時代だ、このブログ「東京荏原都市物語資料館」は世界発信をしている。世界中で見られている。

「おかあさん、きむらけんさんのブログ、今日はお母さんのことが載っているわよ」
ロンドンにいる娘さんが東京にいるお母さんに携帯で知らせてくる。
このお母さんというのが東大原の疎開学童の秋元佳子さんだ。

昨日だった、見知らぬ人からメールがあった。これから長谷川信少尉のお墓と記念碑に行こうと思いますので場所を教えていただけませんか?
この長谷川信は浅間温泉の富貴之湯で秋元圭子さんと出会っている。そのことから私は長谷川信少尉を知り、調べあげたものだ。

文化は因縁なしに繋がりえない。
我らは「下北沢文士町文化地図」を作っている、挑戦は続く今「三軒茶屋文士町文化地図」にチャレンジしている。


〇代田連絡線についてのコメント
いつもブログを見て戴いている、奥谷民雄さんからコメントがありました。

「・・・仮設の搬送線が船橋の鉄道連隊の手によって敷設された」と記述されていますが、手持ちの資料で代田連絡線の工事を担当した鉄道連隊名を探しましたが、「陸軍鉄道連隊」としか記述されていません。まだ調査は続けますが・・・

鉄道連隊は、第1と第2が有名ですが、1945年頃には多数設立され、主に海外に派遣されていました。第1鉄道連隊は千葉(都賀村作草部)、第2鉄道連隊は津田沼町谷津です。
現在の船橋市は、津田沼駅の北側まで区域ですが、鉄道第2連隊のあったのは南側の津田沼町谷津です。津田沼町は、戦後、習志野市に表記が変更になっています。

鉄道第2連隊の用地は、津田沼駅の南側の広大な区域でしたが、この一部は、現在千葉工業大学のキャンパスになっています。代田連絡線の工事に動員されたのが、鉄道第2連隊であるならば、「津田沼(現習志野市)の」ではないでしょうか?




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2022年11月02日

下北沢X物語(4581)―ある役者俳優との鉄道X点文化談義 2―

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(一)人生、おもしろがればおもしろくなる、彼青年俳優は土地の文化を楽しんでいる。「ダイダラボッチと町の形成に関係ありませんか?」、「鋭い質問ですね、そんなことを聞いてきた人は初めてです、地図を見ますね、そうすると代田のダイダラボッチの足跡部分を道が回り込んでいるでしょう。足跡は湿地ですから道は避けます。それで弧を描いて廻りこみ、そしてこの道が東南方向に斜めに流れていきます。この道こそは現在の下北沢一番街ですね、この斜めの道を基準に一帯の土地が区画されています。とくには北側です、野屋敷といいますが碁盤目状に区画整理されています。ここは高級住宅地ですね。クリエーティブな人が多く住んでいました。ダイダラボッチの陰翳といえば陰翳ですね、が、そんなことに注意を払う人は皆無ですね......」

青年俳優が持ち出した袖論も面白い。いわばタメであり、結節点である。
「私は今、三軒茶屋の地図を作っています。この町の根幹は、追分ですね、Yの字をしているでしょう。昔は、これが一本でした。矢倉沢往還という古東海道ですね、もともとは三軒茶屋では一本だったのですよ。しかし、江戸時代中期なって追分ができた。単なる通過点だったところが分岐点になった。結節点ですね、人々が立ち止まるようになって、接待所ができた。つまりは三軒茶屋ですね、昔はみんな歩きですからね、結節点では立ち止まるのですよ。『お茶でも飲もうか』ということで茶屋ができた。これが発端となって町が形成されたのです。後に電車も通りますが電車線もまたここで別れた、鉄道線路はY字をしていましたね......」
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2022年11月01日

下北沢X物語(4580)―ある役者俳優との鉄道X点文化談義―

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(一)出会った彼は理知的な青年俳優だった。さっそくの文化談義だ、始まったのが「袖論」である、「本田劇場の本田一夫さんが舞台袖はとても大事だと言っておられました」という切り口から始まった。袖は中心ではない。能舞台では、舞台袖に「鏡の間」がある。演者が最後に装束を直し面を付けて役者になりきり晴れ舞台に出ていく。たとえ面をつけなくとも袖は大事だ、素顔から俳優になる、心を切り替えていく場だからだ。言わば、袖は結節点である。つまりは繋ぎ目である。このことから都市文化論に発展した。それはYであり、Xである。つまりは三軒茶屋であり、下北沢である。

演劇人の彼が下北沢を案内することになった。それで町の文化について勉強をした。そのときに世田谷カトリック教会で関根神父から『下北沢文士町文化地図』を紹介してもらったと。それで地図奥付に書いてある事務局邪宗門を訪ねて、私を知ったという。30日月末は会報を発行して事務局に届ける、それで彼はこれに合わせて店にやってきて。文化談義となった。

既に彼は地図を参考にして町を歩いていた。
「この地図を見てこの一帯が文化的に非常に面白い地域であることを知りました。びっくりしたことは冒険家の川口慧海がここに住んでいたのですよね」
『下北沢文士町文化地図』は多くの文化人の居住地域を網羅している。川口慧海に驚いたという人は数名いた。知的な好奇心が旺盛な人だ。日本で学んでいた経典に疑問を持ち、仏教の原点を求めてヒマラヤ山脈を越え、鎖国状態にあったチベットに日本人として初めて入国をした。その彼の冒険に感動を覚えた人は少なくない。彼もその一人だった。
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rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

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