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2012年02月

2012年02月29日

下北沢X新聞(2027)〜文学の舞台としての下北沢2号踏切2〜

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(一)
「踏切」が収録されている日野啓三の著作には、タイトルが二つついている。その一つは「梯の立つ都市」だ。ルビが振られている「きざはしのたつまち」と。梯にシンボライズされるまち、すなわち東京である。二〇〇一年四月に後書きが記されている。まちに垂直に建っているきざはしは塔である。

手術の麻酔から覚めかけて激しい幻覚と幻聴に襲われ、目を開けても閉じても、乱れ変形した怪しい幻覚像が意識の視野を跳梁した時でさえ、東京タワーだけは常に変らぬ姿で見え続け、語り続けた――何がどう狂い乱れようとも、天と地の底を貫く垂直の中心軸だけは変わることはないのだ、と。
「梯の立つ都市」より


都内にある病院の多くは高層階を病室にしている。窓からはこの塔がよく見える。病床にあってわずかに心慰めてくれるのは夜でも赤く輝くこのタワーだ。病棟が西を向いて建っている場合は富士山が見える。夕日に沈む富士を見て幽かな希望を抱く。自室の天井のシミを見ながら死ぬこともなくなった。今はほとんどが病院だ。末期の目に浮かぶ風景の代表例が塔と山である。しかし、永久に天と地の底を貫く塔は、今新たなものに交代する。スカイツリーである。

日野啓三は、「天と地の底を貫く垂直の中心軸だけは変わることはないである。」と強く断定的に言っているが、東京タワーであればこそではないだろうか、四辺の脚が確固としていてそれが次第にすぼまって天空に消える。それは希望である。

スカイツリーに特に興味はない。が、形状的なもので言えば見た目に不安定だ。棒をそのまま建てた印象だ。巨大地震に襲われた場合、ぽっきりと折れてしまうのではないか。

大事なことは、「思える」ことだ。塔が確固として武蔵野台地の末端に深く根付いて建っていたと信じられたことは幸せだ。「肝臓ガンのあと、膀胱、鼻腔などのガンの入院手術が続き、きつい時期だった」中で、「梯の立つ都市」と「冥府と永遠の花」の二編は打開の可能性を天と地下へと垂直の方向に予感しようとした試み」であったという。東京タワーであらばこそ打開の道があった、末期の目に、新たに視野に入ってきた梯はどのように見えてくるのだろうか。

しかし思うに、今、我々は目に見えない二つの塔に怯えている。ビジュアルに捉えられないだけにこの不安は大きい。底知れないものだ。一つは原発の塔であり、もう一つは債権の塔である。続きを読む

2012年02月28日

下北沢X新聞(2026)〜文学の舞台としての下北沢2号踏切〜

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(一)
荏原三大踏切文学は江見水蔭「蛇窪の踏切」、鷺沢萌「遮断機」、日野啓三「踏切」である。三つのうち後二つは下北沢鉄道交点域内にある。クロスにはクロッシングリテラチャーも集まってくる。新たな発見だ。

「いやね、あの鎌倉通りの踏切、ああ、そうですか下北沢3号踏切というんですか。戦後ですね。踏切の手前のところにバッテン印のクロッシングがありました。英語で書かれた標識が立っていたんですよ。夜になると光を反射するようにガラス玉が填め込まれていましたね。キュルンと光るんですよ。あれがね、少年の頃ですけど、もう欲しくて欲しくてたまりませんでした。」
誰から聞いたのか忘れたが、内容だけは鮮明に覚えている。こちらは、近々除去される小田急下北沢3号踏切である。

踏切は、人間の行く手を遮るものだ。それで遮断機ともいう。線路を走るのは汽車や電車で、これを渡るのは人間である。勝手に渡ろうとする人間を押しとどめるのが遮断機である。が、人は様々な問題を抱えている。東北沢3号踏切では坂をタッタッタと下ってきた新聞配達員が勢いそのままに踏切を渡った。その途端にやはり下ってきた電車に轢かれてしまった。

今はもうなくなったが世田谷代田2号踏切も、個別事情を抱えた子どもが多くいた。つまりは線路向こうにある小学校へ急いで渡ろうとした。とたんに物陰から現われた電車に轢かれてしまった。

踏切には死の影が常につきまとう。
かつては、枕木の焼いたものが線路沿いに柵として立ててあった。今はもっと厳重になった。夏目漱石は、「草枕」の汽車論で、「この何坪何合の周囲に鉄柵を設けて、これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと威嚇かすのが現今の文明である。」と述べている。遮断機は一歩も入ってはならぬぞという人間を脅す。ならばといって入ってしまうとひき殺される。

荏原三大踏切文学に共通するのは死だ。「蛇窪」は、不治の病に冒された女主人公が自殺しようとする。「遮断機」でも主人公が「死にたい」と洩らす。この作家本当に自殺している。「踏切」ではガンを患った書き手の不安が書かれている。続きを読む

2012年02月26日

下北沢X新聞(2025)〜鉄道交点の踏切文学〜

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(一)
踏切という場は特別な空間だ。遮断棒が下りて、目の前を重量物が通っていく。最後尾が過ぎると、竿がパトンと上がる。それっとばかりに線路を横切る。ところが今通ったばかりの車輪に擦られて線路表面は、ひかひかに輝いている。数瞬の時間の差を恐ろしく思う。数秒前にここにいたらたちまちに線路は血塗られていただろうと。

踏切を月の結界とぞ思ふ

山口誓子の「踏切」と題された一連のシリーズの中の一つだ。踏切という場に生じる抒情を俳人は多く詠んでいる。この句自解によるとこうだ。

月の明るい夜、踏切を通った。入り来った方の木柵を出てゆく方の木柵とが私をまわりからとりまくように見えた。私は頭上の明るい月を仰いだ。私の立っているところはあたかも月の為の結界のように思われた。月は白く、木柵は黒く、踏切は静まりかえっていた。

「汽笛100年・文学と随筆撰集 汽笛一声」に収録されているものだ。鉄道が走り始めて百年、その記念として鉄道を扱った文学作品のアンソロジーを編んだ。鉄道の文学の宝典だ。が、これを引き写していて思ったのは、鉄道が文学の場ではなくなってしまったことだ。鉄道の近代化は文学と遠ざかることでもある。

新幹線の車窓は、瞬時に山を野をぶった切っていく。かの山、かの川、思いに耽るいとますらない。

思い起こすのは、あれほど好きだった鉄道旅、とんと行かなくなった。プロセスを無視した旅への敵意が自分には生じている。なぜあんなに速く行く必要があるのか?。

山口誓子は、踏切を結界とした。ポイントは「踏切は静まりかえっている」だ。重量物が線路を今通っていったばかりだ。その余韻としての静けさ。他の空間とは切り離される場、結界である。続きを読む

2012年02月25日

下北沢X新聞(2024) 〜歩いて世田谷線文化を考える5〜

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(一)
鉄道の響きは人間存在を映し出す鏡である。そういう観点で過去の文学作品をおもしろがって調べている。調べれば調べるほどその確信は深まっていく。

汽車論は多く存在する。が、電車論は例が少ない。夏目漱石「虞美人草」の中で京都旅行を終えた甲野さんと宗近君とが東京行きの夜行でこれを話題にする。大命題というのではなく冗談交じりのやりとりだ。その中でつぎのような会話がある。

「ところが布設したのが世界一なら、進歩しない事も世界一だそうだ」
「ハハハハ京都には調和している」
「そうだ。あれは電車の名所古蹟だね。電車の金閣寺だ。元来十年一日のごとしと云うのは賞める時の言葉なんだがな」


何時も快活なのは宗近君だ。ゆえに二番目が彼の発言だ。甲野さんは哲学を囓っている。批評的に物事を見る。作者漱石に近いようだ。最後の発言は甲野さんの電車批評だ。

世界一とあるが日本一のことだ。京都市電は、明治二十八年(1895)日本最初の電気鉄道として開業した。この電車に乗っての感想でもある。「電車の名所古蹟」というのは速度のことを言う。のろいということだ。

漱石はこの作品の中で「世界は色の世界である」という。京都には京都の色がある。東京には東京の色がある。その色に染まって人は活動している。千年の古都は暗く、そして時間の経過も遅い。速度論は文明批評でもある。

世田谷線、これも京都市電の末裔と考えてよい。これも沿線特有の色に染まっている。世田谷線には世田谷線的な時間が流れている。この線は、よく話題になる。東京都内に残った「電車の名所古蹟」という人々の見方を反映しているからだ。続きを読む

2012年02月23日

下北沢X新聞(2023) 〜歩いて世田谷線文化を考える4〜

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(一)
鉄道交差部には秘められた文化が宿る。つい最近、鉄道の筋から本を探しているときに思いがけず、また新たな物語をみつけてしまった。「踏切」を舞台としたもので、これまた下北沢鉄道交点圏内を舞台としていた。都市と鉄道と人間存在に結び付く興味深いストーリーだ。

荏原鉄道踏切文学論というテーマで論述ができそうだ。近郊鉄道都市踏切論だ。例が三つあれば充分だ。江見水蔭「蛇窪の踏切」、鷺沢萌「遮断機」、そして今回みつけた「踏切」だ。下北沢鉄道交点に「踏切文学」が二つもある。書き手は連携して書いているわけではない。今になって分かったことだ。踏切の多い町には踏切文学も自然を発想されるのだろう。

豪徳寺鉄道交点、山下鉄道交点、こう並べると後者がいかにローカルであるかが分かる。それぞれの鉄道会社が別々の駅を設けたことによって一体となった街になっていない。近郊急行鉄道と都市路面鉄道との交差はさほど人を集めない。桜上水氏は、「豪徳寺/山下の鉄道交差点は、下北沢のごとく文化の交わりを誘発するところ少なかった印象があります。」とコメントされている。ちょっと下車してお祈りをする、教会ができる。また、ちょっと寄って歌を嗜む。歌会がひらかれる。

ところが、小田急、東急の電車速度の緩急の違いが、「ちょっと下車して」という浮気心を生まない。双方の鉄道会社はその辺りの乗客心理をも把握していて、合同駅の計画には至らなかったのかもしれない。続きを読む

2012年02月22日

下北沢X新聞(2022) 〜歩いて世田谷線文化を考える3〜

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(一)
世田谷線沿いを歩きながら考えたことは、電車速度と人間存在ということだ。

荏原近郊鉄道の踏切には深い興味を持っている。一頃、一帯の踏切の側に住んでいる人にエピソードを聞き回ったことがある。次第にはっきりしてきたのは踏切には血塗られたエピソードが多く眠っていたことだ。誰も彼もが飛び込んでいた。今朝の鉄道情報でも二件の人身事故があって〇〇線は運行を停止していると報じていた。

お先真っ暗な時代だ。現世に絶望して鉄道自殺をする人は跡を絶たない。この頃では錦ヶ浦での投身というのは余り聞かない。ほとんどが鉄道だ。

理由はある。列車速度の高速化だ。例えば家の近くでは東横線がある。鉄道会社同士の速度競争も熾烈だ。湘南新宿ラインとの競争が東横線でもあるのだろう。列車速度が前と較べると速くなった。各停すら驚くような速度で走っている。

人は死のうとするときひと思いに逝きたいと考える。その場合手近なのはそこら中に走っている鉄道である。鉄道と死というのは産業革命以来の問題である。

チャールズディケンズ「ドンピー父子」は、目黒区の図書館にはない。探すと世田谷区にはあった。中央図書館まで行き借りてきた。このドンピー氏は息子を亡くし傷心のうちに旅にでる。

ここでの汽車の道行き文は、つとに知られている。ほとんどが一音節だけの単語の連続だ。何を表しているか。「いざや、金切り、雄叫び...」などと連綿と続く、汽車の速度への恐怖だ。散文詩のその末尾には、怪物「死」が必ずくる。the remoresless monster,Death!が繰り返される。文明の行き着く先への不安、破滅への恐怖だ。

世田谷線沿いを歩いていても怖くはない。速度がのんびりとしているからだ。死とは縁遠い速さである。速度がのんびりで飛び込もうにも気合いが入らない。歩く方も、くっちゃん、かったんと行く電車の走行シーンが楽しめる。続きを読む

2012年02月20日

下北沢X新聞(2021) 〜歩いて世田谷線文化を考える2〜

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(一)
近郊鉄道文化史という点から世田谷線を見ていくと面白い。旧玉電区間で今も残っているのは現在の世田谷線である。専用軌道だったからだ。

本線、渋谷から玉川間が開通したのは明治四十年(1907)だ。支線の下高井戸線(世田谷線)の開通は大正十四年(1925)である。意図は「世田谷の奥地開発」だったという。玉川線が開通したことで大山街道沿いの沿線の開発が進み手狭になってきていたと言える。

寺田寅彦が「写生紀行」というエッセイを残している。そこにこういう記述がある。

十一月二日、水曜。澁谷から玉川電車に乘つた。東京の市街が何處迄も/\續いて居るのにいつもながら驚かされた。
世田ヶ谷といふ處が何處かしら東京附近にあるといふ事だけ知つて、それがどの方面だかは今日迄つい知らずに居たが、今此處を通つて始めて知つた。成程兵隊の居さうなといふ事が町に並んで居る店屋の種類からも想像されるのであつた。


大正十一年一月、「中央公論」に発表したものだ。とすると、書いたのは前年十年のことである。彼は玉電に乗ってずっと車窓を眺めていた。左手に見える駒沢練兵場、そして、近衛野砲兵連隊などの兵舎を眺めていったのだろう。注目される点は東京の市街がどこまでも続いているというところだ。鉄道開通によって沿線の宅地開発が一気に進んだ。

下高井戸線の開通は大正十四年だ。十二年の大震災が大きな影響を与えたことは想像に難くない。太子堂辺りの烏山川沿岸の土地は、東からの避難民がつぎつぎに押し寄せた。それに間に合わせるように建て増しをした。継ぎ足し継ぎ足し家が建てられいった。林芙美子「放浪記」はその頃の太子堂の様子を描いている。

この沿線の膨張は鉄道会社にとっては商機だったろう。が、街道沿いの敷設は難しい。それで専用軌道の敷設に踏み切ったのだろう。続きを読む

2012年02月19日

下北沢X新聞(2020) 〜歩いて世田谷線文化を考える〜

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(一)
電車に乗るよりも眺める方が楽しい。向こうからやって来たり、現われたりするのを出迎える。反対に消えて行くのを見送る。カァタタン、トンテンテンとカーブを曲がってするりと消えてしまう。現われる期待、消えていく寂しさ......

私のところの男の子は、数え年のまだ三歳であるが、この子が汽車を崇拝することは全く絶対的と云っていい。汽車は父よりも偉いと思っているのだから、どうにも驚く。

「汽車」(白秋全集17)と題されたエッセイの冒頭だ。この書きぶり、うちの子はしようもないやつだと言っているように見えるが、父親はそういう息子を目を細めて見ている。「バルコンから斜丘の下をゆく汽車の音を藪越しに息してゆく白い湯煙を見るなり、それこそ気ちがひのやうに騒ぎたてるのである」と書いているが、この景色、白秋自身にも本当は心ときめかす光景であったに違いない。とくに斜丘の下をゆくところはなかなかいい。これは小田原にいたときのことである。ずっと下に熱海軽便鉄道、小田原電気鉄道が通っていた。

昨日、別宮通孝さんの案内で「世田谷線を歩く」をテーマとした街歩きを実施した。いつの間にか、この会の催しは七十回を迎えていた。節目に相応しい歩きの会だった。

廃線跡歩きがよく話題になるが、「生き線歩き」も悪くない。線があるから、例えば、開業時の電柱がなくならずに残っている。小さな小さな鉄橋すらあって、そこを電車が渡るときに音を響かせる。世田谷線のレールは溶接はしてあるが、いわゆるロングというほどではない。カッチャン、クッタン、トッタンというカダンスが響いていた。これは悪くない。

案内の別宮さんが松原に住んでいた竹久夢二が開通したときの様子を小文にまとめていると言っていた。聞いただけで、その場面がありありと浮かんできた。「いいですね、とてもいいですよ」と私は言った。するとその個所をさっそくにメールで送ってこられた。続きを読む

2012年02月18日

下北沢X新聞(2019) 〜鉄道X交点のアーティストコロニー3〜

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(一)
アーティストコロニーがなぜ形成されたのか。興味深い問題だ。都市論、文化論、交通論などの多岐に亘る問題を背景にしているだけに一層に面白い。この問題に関わることに関しては多くの論述がある。論理的なものもあれば印象批評的なものもある。が、分野別に分けてこれをビジュアルに見せたのは、今回、世田谷文学館で開かれている「都市から郊外へ」―1930年代の東京―が初めてではなかろうか。多くの刺激を受けた。

展示品の中で興味深いものが幾つかあった。その一つは、新宿伊勢丹のポスターである。図録には、「伊勢丹 増築完成記念大売出し」「画:風間四郎」1936年とあった。昭和十一年である。これ以後、次第に時代の様相は険しくなり、翌年からは日中戦争へ、さらには十六年(1941)には太平洋戦争に突入していく。暗転前の明るさだともいえる。

威風堂々たる近代的な建物を背景に、こちらを向いて微笑む女性が二人、当時の風俗を反映した和洋の服装で、断髪・洋装のモガの方は、動きのあるポーズをとって活発なイメージで描かれている。

図録にある説明だ。展示は八つの分野に分けているが、そのうちの一つ「広告」に掲げられたものだ。表題は、「都市と郊外の連結点に誕生した消費文化の殿堂」―三越と伊勢丹となっている。

「連接点」という形容はイメージを膨らませる。言えば鉄道の線である。あっちから来た鉄道とこっちから来た鉄道とが繋がり合って賑わうところという意味だ。中央線、山手線、市電、西武新宿線である。が、ここでの展示のポイントは新宿と郊外とが繋がっている点である。世田谷を貫いて走る小田急線にほかならない。

描かれている女性の笑顔は大きなポイントだ。男も惹かれるが、女性にとってはもっと刺激的だった。自身の身をこの絵に置き換えて夢を想像したろう。行き会う男性がみなわたしをみつめる。このポスターを見て断髪した女性が間違いなく何人かいたはずだ。続きを読む

2012年02月16日

下北沢X新聞(2018) 〜鉄道X交点のアーティストコロニー2〜

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(一)
東横線、柿の木坂の切り通しの脇は散歩でよく通る。上り、下りの電車が高速で駆け抜ける。かつての列車のようにレールを刻んで走ることはない。ぐわぁん、ずぅあずぅあという一塊の音がやってきてたちどころに消える。速さ一辺倒でやみくもに走っていて、面白みがない。時代は今なおもっともっととスピードを求めている。

都市は新しいページを常に欲する。あらかたもう開発の余地もなくなったのではないかと思うのに、遮二無二家を壊し、そこにマンションを建てている。いつの間にか風景が狭まりつつあると思う。この頃空がなくなってきた。

柿の木坂でいえば最近面白いことに気づいた。呑川支流左岸崖線には環七が走っている。背に沿った裏道は驚くほど緑が多い。大概が大谷石の塀や土台が残っている。それは宅地が切り開かれていったプロセスを証明している。背尾根から住宅地はできていく。いわゆる根柄部分からだ。丘の縁辺をこう呼ぶ。一番は水の来ないところで安全だ。眺望もいい西を見れば富士がよく見える。

呑川柿の木坂支流の地形は北沢川支流森厳寺川とよく似ている。左岸がやはり高い。垣根の緑を観察するとよく分かるのは崖線の背の方から住宅地は開けていく。高須光治の「下北沢風景」はそれをよく表している。

彫刻の菊池一雄邸も崖線の上である。それで思い出したのは、一人の画家である。富士山専門洋画家と言われる龍駿介である。菊池邸のすぐ近くの崖線の上、富士の展望がよく利くところだ。意図的に選んで居住していたものだろう。続きを読む

2012年02月15日

下北沢X新聞(2017)〜鉄道X交点のアーティストコロニー〜

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(一)
人の記憶の溜は底が浅い。広い敷地が忽然と更地になったときにそこに何があったのかほとんど思い出せない。日々町の歴史は書き換えられ、そこに何かの物語があったとしてもたちまちに消し去られてしまう。

が、しかしこういうこともある。一枚の写真がたまたまあってそれを見たときに過去の歴史、そして雰囲気が忽然と、ジクソーパズルが解けたように分かってくるときがある。

「都市から郊外へ」―1930年代の東京―、これをテーマとした展覧会が世田谷文学館で始まった。10日に行われた内覧会でこれを見ることができた。東京西南部の文化を多面的に捉えようという意欲的な試みである。ビジュアルな点での刺激があった。百貨店の広告、映画ポスター、建築記録写真などには深い興味が持たれた。世田谷文学館と世田谷美術館とが協力しての展示である。八つの分野の文化をぶつけるという新しい切り口の展覧会は楽しめるものである。

開会の挨拶のときに世田谷美術館長の酒井氏が話された。興味深く思った点があった。世田谷在住の美術家が「白と黒の会」を作って活動していた。その背景には地域にアーティストコロニーがあったからだという。思い当たる点があったので深く記憶に残った。

世田谷区に文芸家や美術家などの文化人が集っていることはよく知られている。以前、定年退職をするに当たって健康保険を切り替えなくてはならなかった。資格があったので「文芸美術国民健康保険組合」の書類を取り寄せた。資料には申請書類の例示として世田谷区のものが入っていた。「文芸美術」に関わる人の多くが世田谷に住んでいることの証左である。

鉄道交点一帯の文学参集についてはこれを「下北沢文士町」と名づけ、地図にこれを書いて配布してきた。が、文士だけではない、美術も多く集っていた。「下北沢文芸美術町」である。このことは既に、地図四版で「総合芸術的下北沢文士町」と題して指摘していることではある。続きを読む

2012年02月13日

下北沢X新聞(2016) 〜2、11に原発を考える(下)〜

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(一)
中国少数民族トン族は古来からの歌を今も歌い継いでいる。その曲の中で最も大事にしているのは、トン族大歌の「蝉の歌」である。男女が共に歌う。そのハーモニーが聴き手にツゥンと染み渡ってくる。日本古代の歌垣を思わせた。「BS 時を刻む」という放送、「歌」をテーマとした番組で紹介されたものだ。

蝉は木の上で美しく歌う
水は下へ流れて行く
人は歌いながら山で働く
蝉と共に人は歌い
野へ 山へ響き渡る
まさに天国からの音


自然に根付いた民族の心が歌にこめられている。きつい傾斜の中で声を合わせることによって互いが助け合ってきた。ここにはみじんの人工も感じない。この歌詞から多くが想像される。循環、共存、協働、祈り、信奉、平和である。何よりも感ずるのは自然である。風光の美しさも伝わってくる。

もしもトン族の居住地域に放射能が降り注いだら、こういう歌は歌えなくなる。自然とともに暮らし、自然の恵みを得てきた生活はたちまちに崩壊するだろう。思い出したのは福島県飯舘村である。山、谷、畑、緑とがどこまでも広がっている。目が安らぐ。しかし、放射能で汚染されてしまって、牧畜も畑作も稲作もできなくなったという。原発のシビアアクシデントによって高濃度の放射能が降り注いだ。

原発は、まったくの反自然だと言える。人が持つ通常の五官では測れない強毒を持っているからだ。濃度は目や鼻やにおいでは測れない。測れるのは機械だけだ。

かつてあった故郷の山河が失われた。「あの美しい福島、故郷を返せ!」、集会では現地の人々の悲痛な声が聞かれた。続きを読む

2012年02月12日

下北沢X新聞(2015) 〜2、11に原発を考える(上)〜

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(一)
記憶ほど当てにならないものはない。「おかしい」と気づいたのは、代々木駅で総武線の電車に乗り換えたときだ。昨年九月の集会のときは満員だった。が、今回は座席が埋まっている程度だ。日にちを間違えたようだ。千駄ヶ谷駅に着いて決定的となった。人がいない。明治公園、11日と覚えていたが、記憶違いだった。

ここまで来たのなら豊島郡逍遙、街歩きだ。ところが明治通りまで来て異変に気づいた。やたらと機動隊の車がランプを点灯させて停まっている。これを見て勘が働いた。明治公園ではなく代々木公園だったのではないかと。それで行ってみると本当にそうだった。ちょうど大江健三郎氏が挨拶をしているところだった。
「原発がうやむやのうちに再稼働がされようとしています。こういう動きに市民は異を唱えてこれを阻止しなくてはいけません。稼働すれば廃棄物は大量に出ます。それを先の未来に押しつけてはならないのです...」

先の8日に意見聴取会が開かれ、保安院は「福島第一原発を襲ったような地震・津波でも、同じような事故にならないことが技術的に確認できた」というこれまでの評価に先月末のIAEA=国際原子力機関の勧告などを加え、大飯原発のストレステストの結果は「妥当」とする審査書の案を示したようだ。この委員である後藤政志委員が昨日の「パックインジャーナル」に出演して話を聞いたが、問題の本質にほとんど切り込んでなくて、再稼働へ走っていると聞いた。これを突破口にして、四国や九州の原発を動かそうという原子力不安院が意図しているようだ。この聴取会、当局は単に手順の一つとしてしか考えていない。

IAEAからお墨付きをもらったことを楯にしているようだが、本当の問題はクリアーしていない。後藤さんいうには評価基準が作られていない。つまりは福島原発過酷事故は考慮に入っていないということだ。明確に言えばIAEAからあたかもお墨付きをもらったかのように振る舞っているだけであると。言えば稼働するための演出儀式だ。
「ストレステストで安全性が担保出来ているなんて誰も思っていないんですよ。それでマスコミに出てくるのはこれで安全性が確認されたと報道される」
現今の報道ジャーナリズムは全く批評精神を失っている。

こういう話をざっくばらんに視聴できるのはわたしは「パックインジャーナル」だけだと思っている。毎週放送を待つ番組など極めて少ない。そのわずかな例外がこの番組だ。

しかし、この番組、3月で終了する。朝日ニュースターがテレビ朝日に買収されたからだという。継続を望む声が全国から多く寄せられているという。市民が拠金してスポンサーになって継続してもらうというのも選択肢としてあっていいのではないか。
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2012年02月10日

下北沢X新聞(2014) 〜物語的鉄道X交点文学論5〜

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青と黒の都市論

*
文明の根底には汽車、鉄道がある。古代時間から近代時間へと導いたのがこれだ。めくられる車窓への驚嘆があった。視覚が処理しなくてはならない情報量の増加だ。が、我々の欲望は果てがない。もっと、もっと、もっとを求めた。その結果、しゃぶりつくそうと思うまで速度を求めてきた。これ以上、追い求めることにどれほどの意味があるのだろうか?、大いなる疑問がある。

開発の速度競争も行き着く先を知らない。つい数年前、青色の発光ダイオードが発明された。一番印象に残っているのがクリスマスイルミネーションだ。住宅地のどこにもここにもこれがあって、夜の町は青に輝いていた。ところが、今は別段珍しくもない。

思い起こすのは、古い昔の、田園の誘蛾灯である。夜になるとこれが点って、平野一面に輝いていた。今なお印象に残っている風景だ。青に格別に反応する何かが人間にあるのかもしれない。

思はず露代は慄然とした。其所へ押冠せて、パッと遠く、稲妻が閃いた。京濱電車のポールの先から、電気が漏れて光つたのであらう。

江見水蔭の「蛇窪の踏切」の一節だ。露代は女主人公、結核を患い、洗足池の別荘に住む姉に助けを求めるがにべもなく断られてしまう。それで彼女は稲毛道沿いに大井町辺りまでくる。大崎と大井町を結ぶ大崎線があって彼女はその土手にいる。鉄道自殺しようとうろついている。そのときにずっと南に走る京浜電車が見えた。走りゆく電車のポールから青い火花が散っていく。慄然としたのは印象が強烈だったからだろう。暗い中に見える青色は視神経に強烈に訴える。この作品、明治四十年六月に発表されたものだ。

架空線がショートして紫色の火花を散らす。これについて述べている話はよく知られている。芥川龍之介である。

架空線は不相変(あひかはらず)鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄(すさ)まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。「或阿呆の一生」

青や紫の火花は際だって記憶に残る。が、それは暗黒、暗闇があったからだ。青に対置されるのは黒だ。
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2012年02月09日

下北沢X新聞(2013) 〜世田谷夜語りつれづれなるままに〜

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*
「世田谷なんかついこの間まで道路が舗装されていなくて、雨降ると泥だらけでしたね。それでちょっといくとドブがありました。」
紅一点の女性がその昔を懐かしそうに言った。
「映画のロケで世田谷がよく出てくるでしょう。舗装していない道をみんな下駄履いて歩いていましたね。今日『おかあさん』という映画を何気なく見ていたら、ぷぅわぁんという音がして、茶色の電車がカチャンカチャンと音立てて走って来るんですよ。その後に白い割烹着姿の田中絹代,が出てくる、ああ、これこれ、小田急だよな。っていうか、成瀬巳喜男監督の映画にはなぜだか知らないけれども小田急の電車の走行シーンが出てくるんですよ。たまたま読んだ本の中に後々の記録のための映像だったと書いている人がいて妙に納得しましたね。世田谷の地上を走る電車走行場面はほとんどなくなったでしょう」
こう言ったのはわたしだ。
「世田谷が都市化してきて、あちこちに洋館が建って、それを見た人が競って洋館を建てていた時代がありましたね。もうほとんど残っていませんが」
これはせたがや街並保存再生の会の丸山さん。
「昭和二年に郊外型の鉄道の小田急が開通した影響が大きいですね。リベットを打ち込んだやつ...」
この電車の速達性と洋館建築には関連性があるとわたしは言いもした。
「ああ、覚えています、覚えています。わたしのときはね、確か黄色と青のツートンカラーで、その茶色の電車がくると嬉しかったものです」とこれは紅一点さん。

一昨日、02/07のことだ、せたがや道楽会の上田さんから新年会への誘いがあって、三宿の「まんまるの木」へ行った。誰が参加するのかは分からなかったが、そろってみると、先だっての世田谷パブリックシアターでの聞き書きに来合わせた三人がいた。丸山さんと、望月さん、そして私である。
「なんだかよく会いますね。そういえば風景づくりフェスタでも一緒でしたね」
「あの聞き書きが、どう劇になるか楽しみです。」
3月25日にインタビューをもとにして作った劇がパブリックシアターの小劇場で上演される。続きを読む

2012年02月07日

下北沢X新聞(2012) 〜物語的鉄道X交点文学論4〜

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(一)
「また次の想い満ちて来て滴れる」、想像することの充足感を述べたフレーズとして秀逸だ。これについて思うことは女性的な細やかさがあるということだ。とくには「滴れる」だ。想念に美しさや鮮やかさがあふれんばかりに満ちてくるというのは柔らかい。

この女性は鎌倉通ゆかりの俳人中村汀女だ。彼女は「昭和十二年秋より昭和十八年夏まで」、東京「西郊」に住んだ。具体的には、「世田谷で、初め北沢に四年」と述べているとおり世田谷区だ。そこは「代田の丘の61号鉄塔」に近い。試みにマップウェア住宅地図で測ってみた。すると241、8メートルと出た。至近距離である。萩原朔太郎が亡くなったのは昭和十七年だ。三年間ほどは重なる。散歩の折に出くわしたことがあるように思われる。

俳人は、詩人を慕って当地に越してきたわけではない。偶然である。文士町形成の一端を示している事例でおもしろい。

俳人は、やがて、最初に住んだ鎌倉通りに面した北沢から621、4メートル北の代田五丁目に引っ越す。ここには梅の木があった。句集に「軒紅梅」という作品がある。

句集中「紅梅」を詠んだ句は十九句で、うち「軒紅梅」は五句(「軒紅梅に」含む)である。世田谷下北沢の汀女の家の庭には紅梅の木があり、二階の書斎から枝ぶりのいい老梅が見下ろせた。汀女と「紅梅」の関わりについて前述したが、ここで詠まれているのは総て庭の梅である。何ものにも先がけて花をつける梅、花から青葉へ、青葉の陰からのぞく実、葉を落とした枝振り、四季折々起き伏しを共にしてきた紅梅はいわば中村家の一員であったと言ってよい。
「中村汀女の世界」 頸健な女うた 今村潤子 至文堂 平成12年刊


寒さを突き破って温もりをまっ先に運んでくる梅のイメージが想念の中で滴ってくる。彼女の世界観の一端を言い表している。
俳人は桜も好んでいて北沢川の観桜にしばしばでかけていたと娘さんはエッセイに綴っていた。老いてなお梅、そして桜を思いに描いた。「行く方にまた満山の桜かな」は晩年の句である。続きを読む

2012年02月06日

下北沢X新聞(2011) 〜物語的鉄道X交点文学論3〜

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代田の丘の61号鉄塔

(一)
風景づくりフェスタ2012では参加団体のそれぞれがプレゼンテーションを行った。世田谷区地域風景資産に推薦されたものをアピールする場である。時間は90秒である。おおよそ六百字程度ではないかと思って臨んだが後半は慌ててしまい。意を尽くせなかった。

きむらたかし氏が、このときのプレゼンの様子をYouTubeにアップした。公開の席で言っていることだから限定公開することはないと伝えた。ただ舌足らずの文は補っておきたいと思う。プレゼンのタイトルとしてはつぎを提示した。

「青猫」をシンボライズする文学碑

わたしたちが風景にどうアプローチするのか。多数の切り口があるからおもしろい。しかし、発信は一筋縄ではいかない。ありきたりな説明では価値が届かない。

今回のイベントは「風景づくりフェスタ1012」となっている。風景はただ存在するものではなく何かしらの逸話を背後に持っているものだ。それを背景画から引っ張り出してきて提示する。その工夫がおもしろい。それで、このプレゼンの冒頭に、「物語として聞いてください」と言った。

・詩人の詩的感性と鉄塔という景色の読み取り方というのもある。近代都市郊外論という切り口で見ると面白い。続きを読む

2012年02月04日

下北沢X新聞(2010) 〜物語的鉄道X交点文学論2〜

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(一)
鉄道交点文学は言葉との出会いだった。代田七人衆の末裔、柳下政治さんに前に話を伺ったことがある。稲荷社を祀る要諦について、「よくすればよくなる」と言われた。人が指針を持つときにも使えるいい言葉だ。「おもしろがればおもしろくなる」これは古老から授かった言葉を変換させたものだ。

「うちの裏に大欅があって、もうそれは枯れてしまってね」
柳下さんはいう。なんとその欅、このすぐそばに住んでいた加藤楸邨が「旅おもふ欅を春の露はしり」と詠んだ句である。漂泊の思いをもっていたところにこの大欅が北風にゆれて旅心を誘った。そして、彼は文学の故郷隠岐を訪ねる。後鳥羽法皇が流罪になって流されたところだ。

新古今和歌集は法皇の勅命によって編まれたものだ。和歌に造詣の深い彼は配流の後も、孤島で文学に親しみ十八年かけて「隠岐本新古今集」の編纂に取り組んだ。孤島における文学はどのようであったのか、それを知りたかったようだ。俳人が得た句である。

隠岐やいま木の芽をかこむ怒涛かな

四海怒濤が逆巻く海、荒れ狂う海、それにめげることもなく木の芽を出している木々、一人孤島で文学を思念する後鳥羽院の姿だったかもしれない。

われこそは にゐじま守よ 隠岐の海の あらきなみかぜ 心してふけ

こう歌ったのは後鳥羽院だ。波にしても風にしても手加減をしろということでもないようだ。たとえ激しかったとしても、心して吹き、心して打ち寄せよという。四海は激しい怒濤が逆巻いている。が、それに囲まれながらも新しい木の芽は芽吹いていた。それは後鳥羽院の一人心なのかもしれない。柳下家の欅が鳴らす虎落笛を機縁としての俳人の発見である。

言葉とは言葉に希望を繋ぐことだ。中村汀女は、「また次の想い満ちて来て滴れる」と言ったという。いい言葉だ。おもしろがればおもしろくなる。そうすると次の思いが湧いてきて気持ちが温かくなるものだ。
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2012年02月03日

下北沢X新聞(2009) 〜物語的鉄道X交点文学論〜

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(一)
自宅からさほど遠くない大井町線自由が丘1号踏切は折々に通る。この東の上を斜めに東横線が跨いでいる。自由が丘鉄道X交点である。クロスしていることが視覚的に分かる場である。が、心は浮き立たない。交差風景が見られるだけで、何かの情動は起きない。

何故ほかの鉄道X交点に愛着を持てないのだろうか。自分でも不思議に思う。が、この頃分かってきたのは交差によって種々雑多な言葉が集まってきていて、それに対する魅力が尽きないのだと思うようになった。言葉の吹きだまりだ。

土地と文学という関係に深い興味をもっている。当地ならではのものである。昨日、調べものをしに図書館に行った。目当てのものが見つからなかったが「中村汀女の世界」(今村潤子:至文堂、平成12刊)という本を見つけて借りてきた。

年譜に「昭和十七年(一九四二)四十二歳、一月、代田の家新築なりて移る。一本の紅梅を植える。爾来、この樹をこよなく愛し、数多くの作品の素材とした。」とあった。その一例として、「戦時中、庭に掘った防空壕の『生々しい』廃土の上に『むざむざとこぼれた紅い蕾』という場面を「世界」は引いている。

二月三日主人みまかりぬの二句

その後の幾日紅梅散りて濃し
紅梅を弔問客の愛でられる


ご主人が亡くなったのは昭和五十四年だという。代田六丁目緑が丘の俳人と梅の一ページである。この主人というのは「大蔵省退職後、金融公庫に勤めてい」て「パージを受けたため、経済的にはその柱を失ってしまう。敗戦後の食糧難、耐乏生活の中で近所にいた作家大谷藤子氏の紹介で知り合った宮本一枝と共に神近市子氏の家を中継にし、そこから三里も離れた農家へリュックをしょって買い出しに出かけたり」ともあった。大谷藤子と中村汀女の家は近所とも言えない。下北沢駅を挟んだ向こうとこちらだ。

興味深いことは、女流と俳人との交流である。個別的なルートでの交渉というのが興味深い。福田正夫「俳諧独善」にも「自分は、この頃汀女さんの家が近いのを知って、訪会に三度重ね」ともある。近所にいることを知って知り合いになったというところが鉄道交点の価値参集として面白い。続きを読む

2012年02月01日

下北沢X新聞(2008)〜第67号「北沢川文化遺産保存の会」会報〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第67号 Web版

2012年2月1日発行(毎月一回発行)

会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
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1、世田谷区地域風景資産「代田の丘の61号鉄塔」の案内看板

かねてよりこの看板の設置を要望していた。行政側も理解を示し、財政状況厳しい折から、助成金などを活用して作るといいのではないかという助言を得た。地域のきずな再生への助成を行っているので来年度申請したらよいとのことだった。
この案内看板の文言については生活文化課から世田谷文学館への校正、点検依頼が行ったようで、細かな文言の表記については先方の係担当の人が行ってくれた。それにもとづいて案内看板の文言を次のように書き直した。具体的な文言案である。

──────────────────────────────────────── 世田谷区地域風景資産
代田の丘の61号鉄塔

この緑道左岸崖線上に眺められる鉄塔は、昭和元年に建ったものだ。上手丘上は「風の吹上げる高み」、吹上と称されていた。緑に覆われたこの丘上に堂々と聳え立つ鉄塔は近代郊外風景であった。この塔のすぐ下 に昭和八年、自らの設計による 家を建て、ここに居住していたのは詩人の萩原朔太郎(詩人、1886〜1942)である。
和洋和洋折衷の、屋根の尖った家は鉄塔とのバランスが絶妙だった。
銀色に輝く鉄塔と三角屋根、イメージに創出された家と塔である。代田という土地の風景との調和を考えて設計されたものと考えられる。彼の詩集「青猫」の青は、この電線が放つ青い光がイメージされている。

都会の空に映る電線の青白いスパークを、
大きな青猫のイメーヂに見てゐる
『定本 青猫』「自序」より

彼の代表詩集の一つ「氷島」はこの地で編まれたものだ。また、詩人の娘葉子(作家、1920〜2005)は小説「蕁麻の家」でこの駒沢線61号鉄塔を「あの高い鉄塔」と描写している。
今となっては、萩原朔太郎・葉子を唯一思い起こさせる代田の風景となっている。そのことから鉄塔は「世田谷区地域風景資産」として選定された。日本一大きな文学モニュメントである。 (文責「保存の会」)
2012年しろまるしろまる
北沢川文化遺産保存の会 世田谷区都市整備部

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これについては北沢川緑道、鶴ヶ丘橋たもとに設置したいと考えている。デザインや文言などについて意見があれば当方に伝えてほしい。

2、「下北沢文士町文化地図」の行政への提供

先年暮れに、私たちは、地域風景資産の掲示板の設置、地域文化の顕彰としての文学碑の設置などの要望を行政に出していた。これへの回答のあらましについては会報66号で報告したとおりである。
その回答に基づいて、行政側に、1000部、「下北沢文士町文化地図」を提供した。これとともにこの地図のネット掲載については行うということであった。
年明けの25日、この件についての打ち合わせに北沢総合支所を訪れた。地域整備振興課長の薄根義信氏が応対してくださった。
行政として区のホームページに掲載する場合、例えば、個別の店名をそのまま載せるわけにはいかない、また、宗教施設についても表示には制約があるとの話を伺った。特には、我々は政治団体ではなく、文字通り文化遺産、資産を受け継ぎたいということで行動していると伝えた。ただわれらの会はそれぞれが自由で、何かについて発言する場合、個人の資格で言っていることをとやかくいうものではないと説明をした
中立的でなくてはならないという行政側の制約は理解できるものである。おおむね申し入れのあった点については同意をしたことである。ただ文士町という呼称については当方としてもこだわった。これがなかったら核がないのと同様だ。
他の文士村は親分がいて多くが集まって村が形成された。下北沢文士町の場合、横光利一の存在は非常に大きい。が、これがすべての中心だったとは言えない。余りにも多岐にわたる文学文化が集まってきているからだ。近代文明の鉄道クロスが結果として集めたもので、その点には顕著な特異性があると伝えた。
また、もう一つ、いまもなお下北沢は現役の文士町でありつづけていることだ。文学の舞台になったり、現役作家が居住していたりもしている。この点は他に類例をみないと私たちの主張を伝えた。

3、文化資産をどのように発信していくのか

昨年来感じているのは行政の変化である。私たちは2004年に北沢川文化遺産保存の会を立ち上げて以来、下北沢一帯に眠っている文化資産をビジュアルなものとして発信していこうと提案していた。
世田谷区でも議会で取り上げられ機運が盛り上がった時期があった。が、それは一時のことで実現はしなかった。ところが昨年来何度か生活文化課とみどり政策課などの窓口対応が丁寧になった。区の方でも施策の方向が変わってきたようだ。
実際昨年十二月に出された「せたがやエコノミックス」(21号)にも「世田谷区観光アクションプランを策定しました」とある。
その一つとして、「世田谷の魅力を伝える団体・人材の発掘と活躍」というものがあげられ、具体的には、「観光ボランティアガイドの発掘と育成など」が挙げられている。
悪いことではない、しかし、ねらいとしては、「経済的効果や地域活性化させる取り組み」とあるように、どちらかといえば儲かる仕組みの方に重点がおかれているように思われる。
文化とは土臭いものだ。そういったものをどのように発信していくのか問われるところである。じっくりと考える必要がある。アクションプランでは、「まちなか観光」を推進する三つの基本的視点を「発見」、「創造」、「発信」としているが、経済に偏ると本当の文化は発見しにくくなる、創造も難しくなる。地域に住むという誇り、地域の発見が地域の活性化に繋がる。世田谷文化をどう「発信」していくのか見守りたい。

4、都市物語を旅する会

私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地のにおいを嗅いで楽しみながらぶらぶら歩いています。参加自由です。 基本原則は、第三土曜日としています。第二は、会員の希望によって、特番を設けることがあります。

・第70回 2月18日(土) 午後一時 世田谷線下高井戸駅西口(踏切側)
世田谷線を歩く 下高井戸から三軒茶屋まで 廃駅、踏切などを見る
案内者 別宮通孝氏 会費300円
〇のんびりと走る世田谷線、かつての玉電の専用軌道区間である。歩いて眺めると案外に面白い、起伏やカーブ、そして沿線の街並、こちらものんびりと歩きながら線路に沿って街歩きをしてみる、意外と面白いものが発見できるかもしれない。約五キロほど、途中からでも、また歩けるところまででもかまいません。


〇 世田谷線は、都電荒川線とともに都内を走る、路面電車形式の軌道線です。明治40年(1907)に渋谷〜二子玉川間に開業した玉川電気鉄道の下高井戸支線として大正14年(1925)に開業しました。昭和44年(1969)に246号の高速道工事や地下鉄工事に関わり、本線部分が廃止されましたが、三軒茶屋〜下高井戸区間は、
東急世田谷線として残り世田谷区内の重要な交通機関として活躍しています。
今回は、下高井戸から約5kmの区間を世田谷線に沿って街の風景としての鉄道情景を味わいながら歩きます。(案内者、別宮通孝さんの解説)


・第71回 3月17日(土) 午後一時 経堂駅改札前
滝坂道の森茉莉(新コース。変更があるかもしれない)
経堂フミハウス、(経堂から梅ヶ丘は電車)→梅ヶ丘下車、小堀杏奴邸、萩原葉子旧居→恋人たちの森の住まいのモデル(若林)→三好達治旧居→裏道から倉運荘、代沢ハウス、北沢川緑道→旧代沢湯→代田邪宗門
〇特番 墓地をぼちぼち巡る 4月14日(土)染井墓地を巡る 巣鴨駅13時
・第72回 4月21日(土)午後一時 渋谷ハチ公前
駒場鷹狩コースを歩く 池尻道楽会 上田暁氏案内 会費300円
鷹狩は滝坂道を通っていきました。私たちは、将軍が鷹狩に行くために
通った滝坂道をのんびりと歩きながら駒場に入っていきます。最後は「まんまるの木」
・第73回 5月19日(土) 午後一時 下北沢駅北口
幻影の下北沢「猫町」小路をさすらう 萩原朔太郎の「猫町」を歩きます。
・第74回 6月16日(土)午後10時 代田橋駅改札前
下北沢地形学入門 外縁の水路を巡って下北沢へ 去年、笹塚「福寿」を通ったとき
ここのラーメン屋で来年は食おうねという話から、昼はラーメンをここで食べる。
・第75回 7月14日(土)午後一時 田園都市線三軒茶屋駅改札前(中央)
恒例「駒沢練兵場を巡る」 熱暑行軍、一人参加催行。
例年と違って、三軒茶屋に集合します。
にじゅうまる申し込み方法、参加希望について
参加申し込みについて(必ず参加連絡をお願いします)
電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com
しかく 編集後記
さんかく先日事務局に立ち寄ったところ、新しく会員が五六人も増えたとのことだった。嬉しいことだ。今回はそれで印刷枚数を増やして事務局に持っていった。年会費千円はほとんどが郵送費である。何人かの人が箪笥に眠っている記念切手を使ってくださいと持ってこられる。もしもそのようなものがあったら寄付をしてください。
さんかく二月一日は北沢タウンホールで八月分の会場使用の申し込み抽選がある。八月四日の午後五時半から恒例の納涼会を開催する。そのために金子善高さんに会場予約をお願いしている。ほぼ間違いなくとれるはずである。今から日にちを予定をしておいてください。
さんかく街歩きについては、九、十、十一、十二についてはまだ決めてません。希望があったらぜひそれを伝えてください。代々木山谷から下北沢は結構よかったのではないかという話はあってこれは復活させようかと思っている。十二月の代田半島歩きは専門家の谷亀さんが当日不幸で参加できなかった。今度はすっかりお願いして「代田半島地形学中級編」にでもしようかと考えている。
さんかく前回、「代田半島地形学入門」には世田谷地域情報誌「がやがや」の取材があった。その記事の校正が送られてきた。住み慣れた土地を?新たな視点?で再発見!「代田半島地形学入門」を体験する というタイトルで記事が載っていた。当日のことが丁寧に取材されていた。春号に掲載されるとのことだ。
さんかく思い出を語るときにかつてあった店名が思い出せないことがある。そのことから「記憶に残る店跡」を書いて残しておこうということなった。事務局「邪宗門」にこれ専用の地図を用意した。例として挙がったのは「マサコ」、「代一元」、「とんかつ太郎」、「宝湯」などだ。記憶に残る店跡は是非記してほしい。
さんかく「街の記録、市民の記憶を残そう」。時代は高速で回転している。街並もどんどん変わり、人の記憶も失せつつある。残せるものは残したい。個々人が覚えていること、記憶していることを書きとどめておきたい。戦争のこと、疎開のこと、かつての生活のこと、街の様子のこと、話して下さる方がいれば取材したい。覚えを書いてメールで送ってくださってもかまいません。連絡してください。
・当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com
会報のメール配信もしています。「北沢川文化遺産保存の会」へご入会ください。入会費なし。年会費1000円。事務局の世田谷「邪宗門」で受け付けております。年が変わりましたので会費の未納の方納入をよろしくお願いします。



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