[フレーム]

2024年09月20日

下北沢X物語(5025)―2022夏の総括:学童疎開から80年 4―

P1040179
(一)今、私たち日本国民を蔽っているのは「もどかしさ」だ、今朝の新聞記事、「安保・原発・国家の中心に届かぬ声」(朝日)では、「国家レベルの政策論議と、社会で生きている人々の目に見えている現実がかけ離れてしまっている」と現政権の欠陥を鋭く衝いている。同感だ。私も別の意味でもどかしい思いをしている。戦時中浅間温泉に特攻隊が滞在していた「小柳の湯」にもいた。それがどこの何隊なのか分からない。原因は終戦直後、国家が記録類を一切焼却してしまったからだ。あれば苦労しない。それでも疎開学童資料などからの必死の調査で事実が少し見えてきた。隊の出身母体は満州平台第23教育飛行隊だ。総数15機、1945年3月初旬、爆装改修のため松本飛行場に飛来、3月末、出撃、佐土原に宿泊し出撃を待つも乗機を艦載機に襲われ出撃できず、原隊の満州に全員戻った

疎開学童が提供してくれた手紙や証言がある。決め手がないのでずっともどかしい思いをしている。

松本温泉に飛来した特攻隊の全貌は不明だ、わずかに武剋隊、武揚隊のみが明確になっている。これ以外も各旅館に来て学童たちとふれあっている。が、その正体は突き止めようがない。小柳の湯には山崎国民学校の学童が疎開していた。ここにも特攻隊員が滞在していた。かろうじてここに滞在していた学童が彼らとやりとりをした手紙を残し、又日記にも断片的に記していた。彼らと実際に接していた長谷川直樹さん、小市泰子さんの証言も大いに役立った。

小柳の湯にはX隊が滞在していた。隣り合った富貴の湯には武揚隊が滞在していた。同隊の長谷部良平伍長は、小柳の湯に入り浸っていた。ここの娘さんと知り合ったからだ。が、このときにX隊が滞在していたが、この隊は第23教育飛行隊を母体としていた、また武揚隊も同じ飛行隊に所属していた。

長谷川信少尉とX隊の下士官とが旅館前で鉢合わせをした。下士官は尉官をみて、即座に手をつないでいた女児の手を振りほどき敬礼をした。教育飛行隊では真っ先に選ばれたあの先輩の長谷川信少尉だったからだ。

(二)
CCI20240920
一昨日、秋元佳子さんに電話を掛けた。しんぶん「赤旗」に大きく記事が載ったが、歌の内容からして長谷川信が作詞をしたのではないか?、この推測は私である。記事ではこう記されている。

「靖国ではなく、子どもたちのいる富貴の湯に還りたいという願いや『世界平和』など当時としては類例がない発想です。反戦の思いが潜んでいます」ときむらさんは話します。

「歌の作詞も長谷川信さんではないかと私は言っています」
「私は、長谷川信さんではないと思います」
これは秋元佳子さん説だ。

今回、しんぶん赤旗は『浅間温泉望郷の歌』を取り上げていた。特攻隊の壮行会で歌われていたうただ。歌手の寺尾紗穂さんはこの歌に深い興味を持って秋元佳子さんのところに二度にわたって取材に行かれた。

寺尾紗穂さんは特攻隊の愛唱歌だった『森の小道』をツアーで歌うことがあると。沖縄で歌ったときに聴衆の一人が特攻隊員の気配を感じたというようなことを言っていた。『浅間温泉望郷の歌』も折りに歌うことがあるそうだ。それでこの歌について逸話がないのか問うてみた。

駒ヶ根での公演で演奏したとき、小さな子がずっと上を向いて手を振っていたとおかあさんが教えてくれたことがありました。

(三)
この寺尾さんの話をしたところ秋元さんは心打たれたようだ。

「駒ヶ根のさきに座光寺があります、私たちの再疎開先です、私はそこでも特攻隊の皆さんが歌っていたうたを歌っていたんですよ。駒ヶ根とは天竜峡でもつながっていますね......まだあの人たちの魂が残っていたんですかね?」

寺尾さん駒ヶ根ではカッパの話をされたと。すると物販売りの地元の係が、「なんかキュウキュウと鳴いていたのでカッパかなと思いました」と。
浅間温泉から呼ばれて座光寺に来た魂もまだまだ天竜川に遊んでいたのかもしれない。
(写真は、寺尾紗穂さんと秋元佳子さん)



rail777 at 18:31│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

この記事にコメントする

名前:
メール:
URL:
情報を記憶: 評価:

traq

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /