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2004年12月

2004年12月30日

下北沢X物語(106) みなさんよいお年をお迎えください

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プログをいったんやめて冬眠することにしました。それでも、いくつかのコメントやメールもいただきました。見ておられる方が確実にいたということ,とても嬉しく思いました。

riviereさんから以下のコメントを戴きました
半年前まで都内に生活の拠点を移すことなど思いもよらず、「いつか機会があれば行ってみたいなぁ」と思っていた下北沢。半年前に都内に移ってからは行こうと思えば行けるのになぜか行く機会がないまま日々過ごしていました。
rail777さんと一緒に自転車に乗ってあちこちへ行けてとても楽しかったです。
冬休み、しっかりお休みなさってください。そしてまた色々なお話を聞かせてくださいね。楽しみにしております。
じゃらんさんからはメールをいただきました。以下です。

ご丁寧な返事ありがとうございました。
萩原朔太郎については私も地元の関心から家を探して歩いたことがあります。詩人の吉増剛造の「猫町界隈」というエッセイで彼が朔太郎の家を探して歩くという興味深い話があります。私は結局探すことはできませんでしたが、代田のあの付近はずいぶんと歩きました。
下北沢北口の青柳という和菓子屋さんで森茉莉さんがいつも買っていたお菓子は今はもうつくっていないそうです。先日店に行ってその頃の話を聞きました。
当時のお店はもっと踏み切り寄りにありました。
青柳の看板を背景にした森茉莉さんの写真もあります。
森茉莉さんは家が近所だった事もあって何度も実際にお見かけいたしました。歳がわかってしまいますね。
一時期、太子堂に住んでいたこともあって三茶にも興味ありです。山田風太郎の日記には当時彼が学生から作家になるころの三軒茶屋が書かれています。
そちらのブログにはSTSKからお訪ねしましたが文学関係の話に限らず大変良くお調べになってますね。
一気に興味深く読ませていただきました。
私と興味がダブっていてとても親しみを覚えコメントした次第ですが今後のご活躍も期待しております。
地元のことを知っている人が少なくなってゆくのも寂しいことだと思っておりましたが、このようにがんばっている方がおいでになり、頼もしく思いました。
寒くなりましたお体ご自愛ください。
じゃらんさん
こんばんは 世界的浮遊的物語世界的日記のプログにコメントありがとうございます。北沢三丁目の庚申塔については何回目かにもう一度取り上げました。 たしかに村田履物店の奥さん言っておられました。(茶沢通り)にはバス通っていたと、軒先をかすめていつも屋根すれすれに通っていたと。
森茉莉さんの話は奇遇です。
ついこのあいだ、森茉莉さんゆかりの「邪宗門」という喫茶店に行きました。主人が彼女はここでずっと仕事をしていましたと窓際のテーブルを指さして教 えてくれました。ご主人が彼女からもらった沢山の手紙もみせてもらいました。なんでこんなたくさん来るのだろうと不思議に思っていたそうです。(ご主人が言うには)店によく来る人に伝えてほしいみたいなことだったようです。それで死後彼女の遺品からフランス語で書かれたノートが見つかったのです。そこで邪宗門によくくる脚本家に恋心を抱いていたということがわかったそうです。
それでご主人が店に入ってきた自分を見てびっくりしたそうです。脚本家にあまりにもよく似ているからだと、声までよく似ているといわれました。奥さんまで出てきていや、似ていますねと。おもしろいエピソードです。下北の周辺文化があまりに大きくて、正直疲れました。
> また、元気になったら続けます。よいお年をお迎えください。
> レィルセブン
というメールに対する。お返事でした。邪宗門のことはとてもドラマチックでした。下北の周辺文化探しで起こった印象的な出来事でした。脚本家は真弓典正氏ということでした。ご主人の作道明さんが彼の写真を見せてくれました。
交点を中心とする近辺には果てしないほどの物語が眠っています。じゃらんさん言うように三茶との関係も面白い視点です。ときどきお便りに対しての返事をこういう形でおこなっていきたいと思います。どうかみなさんよいお年をお迎えください。
じゃらんさんもstskからの来訪者だそうです。下北の周囲は近代文学や近代文化に関わる物語が潜んでいる土地です。安易な道路拡幅は反対です。
どうかみなさん、よいお年をお迎えください。森厳寺の梅はもう咲いていました。


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2004年12月26日

下北沢X物語(105)〜下北沢小田急踏切紀行(3)〜

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東北沢駅の西に東北沢2号踏切はある。夏になると赤いヒメヒオウギズイセンが咲いていた空き地もフェンスにかこまれてしまった。地下化工事の一環のようだ。
2号踏切は峠の上にある。下北沢側へは急な角度で落ち込んでいく。池の上に向かって右を見ると穴の底に下北沢駅がある。斜面の四本の銀線が夕日にきらめくさまもいい。また、夜の底にたまっている下北沢駅の灯りもよい。レール上に赤や青のシグナルが光って見える。
下北沢への傾斜は25パーミルである。鉄道としてはかなりきつい坂だ。モーターなどもかなり高性能化しているから今はなんなく上ってくる。ここで待っていると、特急エクセなどが高速で下から走ってくる。難所でもなんでもない。だが、きっと開通当初は運転士にとっては気が抜けないところだったろうと思う。上る途中でストップした。また、下るときにスピード制御ができなくて慌てた運転士もいたと思う。が、坂はずっと下って交番前の踏切に達するとこんどはまた15パーミルぐらいの上りとなる。
「北沢の坂、気をつけないとな。25パァで下るから。それで、あそこ4号のところおわいを運ぶ牛がいることもあるからな。だけどめいっぱいブレーキかけると4号から向こうがのぼりでな、ストップすることなんてあるから」
古参の運転士がそう言ったかもしれない。もちろんそれは想像である。
2号踏切を待っていると、線路が突然、ぐぐがぁいという音を立てる。踏切側にあるポイントが動く音だ。しばらくすると東北沢下りホームに停車しているた各駅停車が切り替わったポイントの上を渡ってゆっくりと走っていく。車輪と線路とがふれあうときに青白いスパークが見える。
下北沢駅に向かって右手すぐに壁面にファンタジックなオブジェがある。(写真)木枠で創られた線路は宮沢賢治世界を想像させる。この頃工事用のフェンスができてその全貌が見えなくなった。
先を急ごう、池の上へ向かう南への道を真っ直ぐいって右折して坂を下れば。東北沢3号踏切だ。住宅街のまん中にある踏切である。ちょうど北沢峠のまん中にある。踏切で立ち止まると上からレールが下りてくる。下へはぐっと下っている。
なにもない、ただ斜面が踏切を横切っている。静かでのんびりしている。向こう側からひょいと野良犬が出てきても絵になる。

にじゅうまる冬休みします
下北沢の周辺文化を探しての旅、しばらく冬眠します。調べれば調べるほど大きな鉱脈が現れてきます。近代文学が花開いた箇所であるだろう。近代文学、近代文化揺籃の地というのはそう間違ってもないと思います。鉄道と文化という観点からの考察も欠かせない点です。日々書いていくプログではとうてい対応できるものでありません。調べが追いつかなくなってきました。105日間、よく続いたものだと思います。
文化は日々動いています。先日、北口市場の画材屋さんが、小田急のダイヤ改正で電車が増えてその分踏切が開かなくなったといいます。そのため遮断機を潜る人が増えてきて警笛がしきりと鳴らされるようなったと言います。変化の一つです。何人かの方が定期的にのぞいてくださったようでありがとうございます。
コメント書き込みは情報の回路です。なにかありましたらコメントしてください。それでは当分、お休みします。 レィルセブン


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2004年12月25日

下北沢X物語(105)〜下北沢小田急踏切紀行(2)〜

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駒場公園を出て自転車は左にかじを取った。東北沢に向かう車道だ。途中、「三角橋」という交差点がある。郷土資料によく出てきた地名であった。
「ああ、ここだったのか」
思いとは反対にもう一つ実感が湧かない。走行している道は高台である。スモールテムズから上ってきた丘の上だ。こんなところに川はないはずだ。バックから地図を取り出す。今通っている道をなぞっていくと、流れがちゃんとあった。玉川上水である。
「ああ、そうかそうか、三田用水だ」
北五商店街の芋羊羹、「亀泉堂」の近くで分水したのが三田用水である。これが代々木、渋谷、目黒、三田などの田畑を潤した。芋羊羹どころではない。食料や飲料と結びついた重要な用水である。その上を自分は走っていた。
右手に予備校の河合塾を見て走る。やがて前に踏切が見えてきた。小田急代々木上原3号踏切だ。黒と黄色の縞の丸棒が下りてくる。左手はもう目の先からホームとなっている。東北沢駅の下りホームである。ちょうど「各停本厚木」とデジタルで表示された電車のお尻が手にとどかんばかりのところに停まっている。その車掌室から乗務員が降りてきて戸締まり確認をする。ちょいと手を伸ばして後ろから膝の裏を押してみる。がくんと足を折った彼が振り返って言う。
「ああ、びっくりしたぁ、もぉう」
そんなことはないだろう。だが、毎日何十人もの車掌が通行人に尻を向ける。中にはいたずらなやつもいるかもしれない。
東北沢駅は小高い丘の頂上にある駅だ。ホームのすぐそこに左手を下にさげた白い標識がある。線路が下るぞという表示だ。新宿から電車は上ってきて、ここで丘を越えると下北沢に向かって急傾斜で下っていく。乗客は知らないだろうが、運転士は怖いと思う。急行であれば10両、千人以上の乗客を乗せて急角度で下るからだ。
東北沢駅は地味である。目立たない隠れた存在だ。急行や特急はまん中の通過線を通る。各駅停車は北と南の片面ホームに停まる。乗り降りも少ない。夜など相愛の男女が下りて、次の各停が来るまで口づけを交わすこともある。
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2004年12月24日

下北沢X物語(104)〜下北沢小田急踏切紀行(1)〜

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クリスマスイブである、今日は順番からすると踏切遮断量の多い踏切、その三番目の物語となるはずである。「交通量が三番目に多い踏切はヒミツですよ」、なんて、そんな隠し立てはしない。下北沢の西、鎌倉通りを渡る下北沢3号踏切が、それである。
その物語はできてはいない。宣伝しとおりにはいかない。十ある踏切の浮遊物語の二つ目が昨夜やっと終わった。けれども思いの外むずかしい。リアルな踏切を題材にしているから、そこの様子がわからなくてはならない。
「あれ、あそこどうだっけ」
踏切をイメージするときにわからないことがいくつも出てくる。名称が書かれてある鉄柱、信号のある位置、どうでもいいといえばどうでもいい。が、曖昧にするよりも行った方がいい。行くとおもしろいことがある。
「よし、行こう」
十の踏切を全部自転車で走り回るのも面白い。思いがけないことがあるかもしれない。予感は的中だ。下北沢2号踏切で試運転中の最新型ロマンスカーに出会った。
箱根行き新特急は清純のまっ白で試運転。

用事も一つあった。日本近代文学館でどうしても調べたいことがある。それで駒場まで自転車でひたすら走った。
若林から代田へ、淡島通りを走る。そこら辺り思いついたところの路地に踏み込むと生い茂った樹木の中に洋館があって、混血の美少年が住んでいそうな予感もする。森茉莉的世界が近づくとそうなる。
代沢十字路交差点を過ぎると右手に広大な敷地が見える。かつて陸軍衛戎病院があったところだ。高層ビルの建築中だ。敷地の果てに円泉寺の塀が見える。林芙美子が住んでいた長屋がそこにある。道は下りながら左にカーブし、淡島交差点に着く。左に行くと倉運荘アパート、森茉莉の壮大な物語が創られたところだ。もちろん今はない。
その森茉莉の小説「枯れ葉の寝床」の冒頭を思い出した。
厚木街道の外れ、薮内郡の、一塊の家の集団から一軒遠く離れた家がある。街道から下へ二度大きくうねる細い道が、荒れた畑地を通り、その畑地もすぐになくなって、その大きな竈のような建物にぶつかる。(新潮文庫、昭和五十四年刊)
厚木街道は具体的である。だからつい具体的な想像をする。「二度うねる」、うん、うねるなと思う。厚木街道は246と呼び習わしている国道だ。薮内郡は、荏原郡であろう。街道は明らかに茶沢通りを想起させる。三軒茶屋の丘から真北に向かう道はいったん下りまた上る、「サミット」というスーパーがあるサミットが代沢十字路である。そこを過ぎてまた下る。地理的には代沢四丁目である。つまり、森茉莉がの居住空間に近い、実際は「倉運荘アパート」で、彼女の頭に築かれた空間世界である。アパルトマンはボロだが、想像である。回りをクヌギ林にしてしまう。つぎの段落では「処々欠け落ちた外郭に比して内部は豪奢なものをひそめている」と記される。なるほど、こういう展開かと納得する。そのあっけらかんとした嘘が魅力だ。ボロアパルトマンが広壮な趣のある邸宅となる。
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2004年12月23日

下北沢X物語(103)〜下北沢小田急踏切物語2の下〜

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「電車の走っている音を聞いて、形式が分かる。じつはね、それは鉄道技師の親父から聞いたんだよ。目とか耳みたいなもんがとても役立つっていうのさ。トンネル屋は岩を叩いて岩の大きさを知った、機関士は機関車をハンマーでたたいて具合の悪いところをみっけた、保線屋は目でみてわずか2,3ミリのレールの狂いが分かったって言っていたな。」
「へぇ、そんなものなんですか」
「なんでも昔は苦労したみたいだよ。ぼくは小学校は滋賀の大津だった。親父が琵琶湖疎水のトンネル掘っていたからなんだ。今と違って機械ではなくて、ノミとツチという手堀だったから相当に苦労したみたいだよ。こっちと向こうから掘っていったトンネルは測量がきちんとされているからうまくつながるんだけど、ちゃんとつながるかどうか不安でしかたなかったって親父は言うんだよ。向こうで掘る音、こっちで掘る音、近づいてくるといてもたってもいられない。筋違いなんてなったらとんでもないからね。穴が開いたら、琵琶湖の藻草の匂いがするのか、先斗町の芸者衆の化粧が匂うかって冗談言っていたみたいだけどね、トンネルに最初の穴が開くと、風がすぅっと突き抜けていくっていうんだ、そのときは嬉しいらしいね。親父は琵琶湖の藻草のにおいがしたって笑ってたけどね。そんな経験を重ねて一人前になっていくんだとか親父はいってたな」
「たしかに、書くことも同じですね、ああでもないこうでもないと苦労していくうちに見えてくるものがありますね。貧乏がつきまといますけどね。」
大男はひひひと笑った。
「そうそう、機関士も長年やっていると汽笛の音とか走り方を聴いて形式がわかるって言うんだ。その点電車も同じだよ。みんなそれぞれモーターが違う。重さとか長さでも音が違ってくるから、よぉく耳を傾けていると違いがわかるんだ。だけど、10000系の『はこね』と20000系の『あさぎり』はモーターが同じだから聞き分けられないな」
東北沢4号踏切がやっと開いた。二人は一番街の方へ歩きはじめた。
「車両形式がどうだのこうだの、なんかプロレタリア文学的じゃないですか。もっと新感覚的な話をしてくださいよ」
「ああ、そうだな、ちょっとマニアックだったな」
インバネスの男は右手を眺めた。東北沢の方へ線路は急勾配で上っている。丘の上の信号がまっ赤だ。それがレールの表面の鏡を伝って流れてくる。心まで赤くなった。
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2004年12月22日

下北沢X物語(102)〜下北沢小田急踏切物語2の中〜

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下北沢交番前の東北沢4号踏切はなかなか開かない。上りの矢印が消えると今度は下りが点灯する。名の通り開かずの踏切だ。右手坂上からヘッドライトが下ってくる。
「おお、20000系がくるな」
街の灯りがそれを浮き上がらせる。下ってきた電車は真っ白い。スカートにオーキッドレッドの細い帯を巻き、窓辺がオーシャンレッドに縁取られている。
「なんですか、そ、その20000系っていうのは......」
ボロのどてらは新しい言葉に接して口がよくまわらない。
「鉄道車両にはみな形式がついている。これは特急『あさぎり』、20000系というんだ。ほら、今度向こうから来るのは急行の新宿行き、ちょっと古いタイプの5000系だよ」
その5000系のボディの青い帯が音を立てて流れていく。踏切のそば砂利が街灯を吸って尖っている。それがかすかに震えている。
「ああ、電車のことですね。そういえば君のところは鉄道とはとても縁が深かったですね」
「そう親父が鉄道の測量技師だった。関西線加太トンネル工事のときに、柘植に住んでいたうちのお袋を見初めて結婚した。それで、磐越西線開通工事のときには出張で会津東山に来ていて、ぼくはそこで生まれた」
「その親父さんが亡くなって、仕送りが途絶えて貧乏しているときに、君のお姉さんの亭主、確かこれも鉄道員でしたね、その援助を受けてかつかつ生活ができた、まるで鉄道の申し子みたいですね。」
「そんなこともあるまい」
「いや、君の作品は、鉄道が一つのキーワードとして出てきます。あの『頭ならびに腹』、という短編の書き出し『真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。』は新感覚派を代表するフレーズとして今も生きています。でも、ぼくは直感的に思うのですよ。列車の中で、最後まで歌い続けるのは君自身じゃないかと思うのですよ。全速力で連れ去られる人間は疎外されますよね。その中に、ひたむきに俗謡を歌い続けるちと風狂な子、ぼくは共鳴するね。君は鉄道の影響を受けて成長した。あそこには鉄道の遺伝子が生きている。ぼくのホラなのかもしれないが......」
「おいおい、人のことを君はよく知っているね。」
「ええ、知っていますよ。君の未完に終わった大作、あれ数えてみたところ、四十六回『汽車』って言葉出てきますよ。あれは船と汽車での漂泊でしたね。鉄道遺伝子説はまんざらうそでもなさそうだよ」
「そんなに出てきたか、いま初めて知った新事実だ。なんだか、君はぼくの生き字引みたいだ」
インバネスは旧友の腕をつかんだ。
「なんたってつきあい長いですから、ぼくが文学志したのも君という存在がいたからですよ。学校の教師辞めて、文学に向かわせたのは君ですよ、だけど待っていたのは極貧の生活、女房子どもにはほんと世話かけました。世田谷の大原で女房が死んだときは、棺桶に入れる形見もない始末、あのときも君は葬式代を借りに行ったら申し出た額の倍をだしてくれましたね。君なしではぼくは自分の生涯はありえないと思いますよ。結局住むのも君のいる代沢の丘近くでした。今日みたいに君の家に行ったら足音でぼくの用件を言い当てましたね。石畳を響かせる足音で客の来訪目的も分かるというのは有名な話ですよ」
「ああ、小説『微笑』に書いたことだな。大岡昇平もそれを言ってたな」
「音でなんでもかぎ分けるなんて怖いですね。いまこうやって踏切の前にいるけれど電車の走る音聞いても、行き先が分かるんじゃないですか。」
どてらが笑って聞いた。
「一つ一つの電車の行き先は難しいけど、分かることがあるよ。目つぶっていても、音でぼくは小田急線の電車の形式が聞き分けられる」
「ほんとうですか。?」
踏切で待っているセーターやジーンズがどてらの大男の方を見た。


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2004年12月21日

下北沢X物語(101)〜下北沢小田急踏切物語2の上〜

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第二位
(踏切名)東北沢4号踏切 (踏切交通遮断量)61,588 茶沢通り踏切
代沢の丘から二人の黒い影が下りてくる。坂下にはまわりの路地や道から流れてきた光がたまっているように見えた。クリスマスイルミネーションの赤や青の点滅が彼らを浮かび上がらせる。
独りはグレイのインバネスを小粋に引っかけた長髪の男で、もう一方はつぎはぎのどてらを羽織った大男だ。綻んだ袖口からは綿がはみ出している。
「右に行って駅北口の一番街に行った方がよさそうだな、君のそのかっこうじゃあ南口では目立つな」
インバネスが男をどてらを見上げながら言った。彼らはカフェに行くところだ。
茶沢通り、「駅入口」という交差点に着くと、昭和信金の角を彼らは右に曲がった。
「ええ、南口は苦手です、若い子ばっかりでボロを着たぼくなんかホームレス扱いですよ。この先の下北交番のお巡りにも何度か職質にあっていますしね」
築堤の上を窓のある長方形の箱がつながって渋谷方向に流れる。帝都線の電車である。そのつぎに今度は北沢タウンホールがまた赤い箱を一台吐き出した。駒沢陸橋行きの小田急バスである。
二人が肩を並べて歩いているうちに若い男女の行列に行き当たった。彼らは男たちを見て列をゆがめる。よほど出で立ちが変わって見えたようだ。
「スズナリっていう小劇場だよ。ときどきぼくの作品をパロディ化したものも演じられるみたいだよ」
長髪は若者にかまうことなく人混みをすり抜ける。
「わたしらの貧乏暮らしをですかい?」
どてらは苦笑いした。
やがて道はゆるやかに上って踏切に着いた。東北沢4号踏切である。ちょうど上りの電車が通った。地面が揺れる。
「貧乏暮らしか、今の振動で思い出したよ。小石川初音町の初音館。ぼくは、人間の動物の初音をあそこで聞いたな」
「なるほど、初音ですか。でもそれは私小説風ですね」
「たしかに土着的な感じだな、あははは」
貧乏暮らしをしているときに広告誌の編集している男が人妻を連れ込んできた。布団は一枚きりだった。だが、その男はちょっと貸してくれよというなり、布団に二人で転がりこんで絡み合った。インバネスはその傍らで男女が洩らす獣の声を聞いた。
「ああ、たしか君は、二十三歳でしたよね。耳のそばでそんなことやられちゃあ、たまりませんね。それは拷問ですよ」
大男はインバネスからそれを聞いたとき、自分の小さい時を思い起こした。
「いやあ、ぼくはね、間接的でしたけど、ショックでしたね。小学校のとき、同級生の幸子ちゃんのうちでかくれんぼしてたんですよ。ぼくは押入の土壁に身を潜めていたんですよ、すると、壁の割れ目から獣がうめくような声が聞こえてきた、牛か馬かがいるかと思ったんですがね、ところがとある瞬間同級生の母親の声と知って、押入を飛び出ましたね、するとたちまちに幸子ちゃんに見つかりましたが、彼女の顔を正視できませんでしたよ。君はよく我慢できましたね」
「............」
「また私小説になってしまいましたね」
どてがら低く笑う、そこに下り特急「はこね」が来て、二人を黙殺して走っていった。


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2004年12月20日

下北沢X物語(100)〜連載百回記念・下北小田急踏切物語1〜

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代々木上原から梅ヶ丘の間の小田急線の地下化が決定し、その工事も始まった。それによっていずれ地表にある九カ所の踏切が消えていくことになる。下北沢区域にある小田急踏切、それが全部がなくなってしまう。
小田急線の線路が車の通行を妨げている。それがどれほどのものか,実際の調査が行われた。そのデーターが地下化を促した。手元に「代々木上原〜梅ヶ丘間の踏切遮断量」という資料がある。数値の高い踏切ほど多く車を遮断しているということになる。注記に「交通量は昭和63年調査による。」とある。
(小田急小田原線立体化推進調査報告書 平成5年3月 世田谷区)による。

小田急線地下化によっていずれはなくなっていく踏切である。それでも一つ一つの踏切には人々の歴史があり,生活があった。今回は調査を悪用ではなく、善用してみる。遮断量が多い順に並べて、そこに下北沢ゆかりの作家たちが登場する,そんなとんでもない浮遊物語を企画してみた。九つの踏切は何位で、どんな人が出てくるか。そして,どんな物語が展開するか。連載百回を記念してまた遊んでみる。存分に楽しんでみることにしよう。
第一位
(踏切名)代々木上原3号踏切 (踏切交通遮断量)65,888
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2004年12月19日

下北沢X物語(99)〜浮遊的下北沢西方見聞録(4)〜

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水上勉は好きな作家だ。日本海的情調と貧乏人を見つめる眼差しに惹かれる。彼も修行時代下北沢に度々通った。下北駅前の屋台で田中秀光と飲んでいて、親父とけんかになり、田中がその屋台店を持ち上げる、棚の酒瓶が転がり落ち、地面で音を立てて割れる。そんな話が「私版 東京図絵」(水上勉 朝日文庫 1999年刊)に載っている。惜しいことに水上勉も今年亡くなってしまった。
「東京図絵」の下北沢はまたの機会に取り上げることにする。が、彼の修行時代の行動には深く共鳴する点がある。かつかつの生活、口述筆記したり、童話を書いたり、洋服を売り歩いたり、文章校正をしたり、そんな中で「ついでに寄り道をし、例えば森鴎外『雁』で知った無縁坂、不忍池、夏目漱石は東大構内の三四郎池、渋谷へゆけば、宇野浩二『苦の世界』、葛西善蔵の短編に出てくる・世田谷三宿までてくてく歩くのであった。たぶん、このような長屋に両氏は住んでおられたのではないか、と考えつつ、住人も変わっている借家の街をうろついて帰ってくる。」(「東京図絵」)とある。
歩いて文学の舞台を探訪する、そのことにわたしは深く共鳴する。その作家やあるいは小説の主人公の視点になって土地の坂や川や道をたぶん観察していたのだろうと思う。それも彼なりの文学修行だった。水上勉の小説には土地土地の言霊が生きている。彼なりのてくてく散歩の成果をこう述べている。

こんなことを書いてくると、東京からもらったものがいかに大きくて深かったかを感じずにはおられない。わたしには、大東京は文学の泉が湧く古都だという気がする。今もである。(「東京図絵」)
水上勉風にいうと、下北沢は文学の泉が湧く鉄道交点だという気がする。今もである。もっともてくてくではなく、わたしの場合はぎこぎこと自転車で歩いている。が、イマジネーションが湧く源泉というのは大げさではない。至る所にエピソードが眠っていて、自分を誘ってやまない。
下北沢静泉閣アパートは一色次郎、中山義秀が住んでいた。すぐ脇に小田急土手がある。その近くには女流俳人の中村汀女が住んでいた。代田や北沢の丘に昇った手に触れるほどの月はよく知られた作品だ。彼女は谷陰に咲くタンポポや川(だいだらぼっち川、仮称)の側の猫柳に目を留めた。
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2004年12月18日

下北沢X物語(98)〜トーマスマンからの手紙(特別号)〜

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今年も余すところわずかとなった。一色次郎の空襲日記、六十年前の今日、十二月十八日は数行で終わっている。「昼食が終わるとすぐにサイレン。空襲警報にはならなかったが、中部管区へは数編隊侵入したようである。......」。明日、十九日には「晴。寒さが厳しく、アパートの庭土は、物凄い霜柱でふくれあがっている。」とある。この頃の東京では霜柱が立つことなどめったにない。暖かい年末が過ぎようとしている。
もう間もなくすると新年だ。戦後60年という節目を迎える。この自転車紀行は下北沢の交点を中心点にし、その周囲をあっちいきこっちいきした。本を調べたり、人と会ったりしているうちにぶつかったのが戦争である。太平洋戦争の影があちらでもこちらでも見られた。わたしたちの命運を変えたあの戦争とはいったい何だったのだろうと。われわれの想像を遙かに超えていた敵の技術力、経済力であった。
下北沢の小田急土手から望見された太平洋戦争は鯨と小魚の闘いであった。鯨はB29爆撃機、小魚は我が方の戦闘機だ。文明開化前に起こした戦争と変わりがない。馬関戦争、下関戦争とも言われる戦いである。長州藩は英・米・仏・蘭の連合艦隊に青銅砲で立ち向かった。アームストロング砲の威力はすさまじく三日で負けてしまった。分析力を持たない情念の戦いはもろいものである。今にして思えば第二次世界大戦も情念の戦いであったとも言える。勝てば圧勝とされ、負ければ玉砕である。玉となって砕け散る、あまりにも抒情的な戦いだ。言霊をだけでは勝てない。言葉が冷静さを欠いていたように思う。言葉が跳ねて踊っていた。
第二次世界大戦で、国は壊滅した。空襲や原爆による犠牲者は数知れない。もう二度としないと誓った。今日のわれわれが戦争経験をどう生かしているのか、間もなく戦後六十年を迎える。そのことが問われるであろう。
戦争は大きな教訓だった、痛い目に遭って、そこから復興した。経済的な発展と進歩、それは努力によって得られた。が、平和と自由は絶え間ない自己点検によって得られる。それを行ってきたであろうか、あの痛みを忘れかけていないだろうか。利便のみをどん欲に求めていはしないだろうか?。
戦争後に独りの世界的な文豪が日本の独りの批評家に手紙を送った。日本の青年に向けて送られたメッセージでもある。そこに語られる文明論、文明批評はこんにちのわれわれを説得しうる力を持っている。
浮遊的西方見聞録、今日はトーンが異なる。それは西方の意味が代田と下北沢を分ける境界ではなくて、突然に西欧に飛んだからだ。グローバル的な浮遊である。世界的な文豪が書いた手紙、シミのあるそれに接し得たからだ。
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2004年12月17日

下北沢X物語(97)〜浮遊的下北沢西方見聞録(3)〜

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今朝は北風が強くて寒い。こういうときは早く着く方がいい。それには時間短縮をする他はない。いつもの路地輪行はやめて、一気に環七で北上する。騒音と排ガス,それに危険が伴う。路上を飛ばすからだ。
淡島通りを越えると道は下りになる。スピードをつけて走る。そのときに強い風が吹いてきて帽子が飛ばされた。くるんと転びながら走っていく。それが車に轢かれそうだった。自分が事故に遭うような思いがする。帽子よ、助かってくれ。ちょうど折良く車道が空いている。急いで帽子を拾う。自転車を止めたところは広壮なお屋敷のそばだった。見ると,門のところに「斎田記念館」とある。斎田家は代田七人衆の一人,この一帯の大地主である。展示物などがあって見学できるようだ。土地の文化がきっと眠っているはずだ。偶然の発見である,近々来てみようと思った。
坂を下りきって,環七を渡る。そして宮前橋に行き着いて右に曲がる。すると樹木の続く道に出る。とたんに環七の騒音が遠ざかる。北沢川遊歩道である。このまま川に沿っていけば鎌倉橋に着く。そこから鎌倉道に入ればよいと思った。が,右手の円乗寺を見てふっと自分が浮遊的になる。ふと思いつく。
「誘われて詩人の家へ」、なかなかいいフレーズだ。萩原朔太郎旧宅を通らないで行くのはもったいない。すぐに右路地に入り込んだ。やがて,その地点に来た。旧萩原朔太郎邸である。他の人の名がついた屋敷が建っている。
ゆっくりと前を通る。何度も通ったが興味は尽きない。文学標識をなどと思っていたが,この頃では考えが変わった。それは不要である。叙情派詩人は表舞台にあまり出たがらない。そのことはひっそりとした丘の麓に家があったことでも分かる。いまでも抒情派の古里らしさを感じる。ひそやかな住まいからきらめく詩は生まれる。そっとしておこう。
萩原旧邸の人間模様を鮮やかに描いたのが萩原葉子「蕁麻の家」である、棘のある草が生えていた、萩原家の生々しい人間模様を象徴するものだ。ここで暮らした萩原一族、朔太郎に彼の母,彼の妹アイ,それに萩原葉子、自身の生々しい現実が語られる。
萩原朔太郎が後妻を娶る。その二人が新婚旅行に出たとたん。葉子の祖母と叔母は手ぐすね引いたように待っていて,後妻の着物をすべてタンスから取り出して,その一枚一枚を入念に点検する。そのアイは詩人佐藤惣之助と結婚し,彼が急死した後は,三好達治と結婚する,美貌の女性である。小説につづられた数々の愛憎劇が眼前に浮かんでくる。
その旧萩原邸を右に見てゆっくりと過ぎる。左の家の奥さんは,ここら辺り一帯は,斎田家の土地で,彼女も斎田家から地所を買ったと言った。そんなことを思い出しながら行くと路地は行き止まりになって左に折れる。上を見ると青空に高圧電線が通っていて,そして,丘の上には高圧鉄塔が立っている。駒沢線,61号鉄塔である。
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2004年12月16日

下北沢X物語(96)〜浮遊的下北沢西方見聞録(2)〜

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下北西方見聞録である。したがって朝は下北沢西端の鎌倉道を北上する。仕事が終わっての帰りはそこを南下する。それがこのところ続いている。道が違うと味も違う。その道その道の味わいがあることを知った。自転車ならではのことである。
帰り道は笹塚から観音通りに入る。赤字に白の「大売り出し」の旗がにぎにぎしく交差している通りだ。南に下るとすぐに道は右へカーブする。すると玉川用水の上を渡る笹塚橋に出る。今日はその近くにある和菓子屋「亀泉堂」に寄った。今日はこの間と違ってご主人が出てきた。丁寧な菓子作りをしているのはこの人だ。温厚な顔である。この間買ったお菓子は口に含んで食べた。お菓子にちゃんと味がある。今日は最中に饅頭、それに芋羊羹を買った。
「自転車どちらへ帰られるのですか」と主人が聞いてきた。「この先の鎌倉道を通って淡島の方へ」と言うと。「ああ、そこの鎌倉道ね」とご主人。南から来た鎌倉道はこの先のセブンイレブンのところで急に細い路地になってしまう。東へ行く道があってそれが観音通りにつながっている。それでこのところ思っていた疑問を口にしてみた。
「この脇の、観音通りに通じる道を鎌倉道って言いませんか」
「いや、言わないですね」
軽くいなされてしまった。鎌倉道はどこへいったのか。代田村と下北沢村を分けていた鎌倉道は途中ははっきりしている。南は淡島通りに端を発して、そして、北は北沢中学の先のセブンイレブンのところで終わっている。けれども南も北も果ては今のところ自分には不明である。本当はちゃんとあるはずだが、自分の勝手カシミールの中ではもやもやとして曖昧に消えている。
しかし、焦ることはない。とりあえず鎌倉道と言われているところを遊んでみればいい。なにか分かるはずだ。実際、通るうちに分かってきたことがある。
道が違うと、文化も違ってくるから面白い。いつもは「あづま通り」を通る。昭和2年頃の下北沢略図を見ると、このあづま通りは「二子道」と言われていた。その時にはまだ「茶沢通り」はない。二子道の方が古いわけである。二子とは二子玉川に通じる道のことであろう。
下北沢南口庚申塔の脇を下北交番の方に向かう道、それを二子道と言った。いつもはその道を通っている。こちらはまず最初に井の頭線がある。ところが幸いなことにそこには踏切はない。頭上を電車は通る。そこをレインボーゲートと称している。なぜレインボーなのかよく分からない。帝都線には七色にマスクを被った電車が走っているそこから名づけたのだろうか。
神殿を思わせるゲートを、軽くペダル踏んで通る。するとすぐに左は本多劇場だ。そして右手、自転車やさんのおじさんがなぜかタバコのセブンスターを販売機に入れている。ちょうどそのときにいつも通りかかるから不思議だ。じつは三年前にこのおじさんに泣きを入れて、パンクの修理を頼んだことがある。
ともあれ、ずっと向こうに見える踏切めざして走る。そして交番前の踏切を抜けていく。関門関所は交番前の4号踏切だけだ。そこを巧くくぐり抜ければ,ラッキーだ。
けれども鎌倉道で行くと。小田急が先にある。そこを渡ると今度は井の頭線である。下北沢で二つの線がクロスしているから当然そうなる。が、小田急が先に来るというのがなんとも新鮮である。いっそ小田急で逃げましょうかが最初に来る、それが自分にはカルチャーショックだ。
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2004年12月15日

下北沢X物語(95)〜浮遊的下北沢西方見聞録(1)〜

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十二月に入ってさすがに寒くなった。ハンドルを握る手がかじかむ。こういうときはできるだけ最短コースで行きたい。とは思うものの文化探訪は回り道をしないと発見は得られない。このところ下北沢東方見聞録に終始していた。西方がおろそかになっている。そんなところから「そうだ鎌倉へ行こう」と思いついた。といっても神奈川の鎌倉ではない。下北沢の鎌倉である。
かつて下北沢村があった。その西隣は代田である。境を南北につっきっているのが鎌倉道である。もちろん,鎌倉は鎌倉である。関東武士団が「いざ鎌倉」というときに通っていく道である。人や物が鎌倉へ行き来した道であった。その鎌倉道がかつての下北沢村の西のへりをいまも通っている。
昨日,今日と久々に鎌倉道の代田坂に挑んでいる。いつもは淡島通りから鎌倉道に入る。そして、北沢川にかかる鎌倉橋の直前で右折する。近隣の歩行者や自転車も同じである。茶沢通り側のもう一方のゆるい坂を経由して下北沢に向かう。
鎌倉橋を渡って直進していく人や自転車は少ない。橋を渡ったとたん急坂にかかるからである。自転車では応える。体に坂がのしかかってくる。この頃長年の自転車乗りが影響したのか脚力が弱ってきたようだ。だが,坂に負けてばかりはいられない。衰えかけた気に熱い息を吹きかけて坂にチャレンジだ。右角の副島クリニックを過ぎると坂だ。たちまちに大地に潜む吸引エネルギーが足の力を奪う。
「負けてなるものか」
心意気で急角度の斜面を一気に上る。が,この坂は意地が悪い。すぐにフラットにならずねちねちと腰をいじめる。ゆるい坂,ここがきついと思う。
鎌倉道,鎌倉通りとも言われる。対面交通道路だが道幅は狭い。だから自転車では通りにくい道だ。その道の案内表示には鎌倉通りとある。が,ごく普通の道と変わりない。けれども代田の鎌倉橋から北沢の北沢中学まで輪行すると古道であることがはっきりと分かる。筋肉疲労した足が認識する。そればかりか視覚的にも分かる。
鎌倉道は地形に忠実である。今日的な道は坂がきついときには削る,曲線はまっすぐにする。機械で谷を削ったり,区画整理で道をまっすぐにしたりする。だから,味がない。
代田の丘に沿ってある鎌倉道は古道の風格がある。ねちねち坂を上りきると今度は微妙に左に曲がっている。かすかすに曲がっていくのが古道の特色だ。
丘を下っていくと。桜の樹が見えてくる。自分で勝手に名前を付けている桜,「次郎桜」である。もちろんそれは一色次郎のことだ。彼はこの樹のそばにあった静仙閣に住んでいた。そのアパートの玄関前にこの桜の樹があった。
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2004年12月14日

下北沢X物語(94)〜下北沢の大岡昇平(9)〜

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昭和24年、新年早々、改造社制定の第一回横光利一賞の選考が行われた。全員が一致して推したのは大岡昇平の「俘虜記」であった。父を亡くした後の心杖の父、その利一の賞を昇平が受賞することになった、不思議な因縁である。その発表は三月二十六日に行われた。(「大岡昇平集」18、岩波書店による)
授賞式に臨んだ彼は、終わると、すぐに下北沢の心の杖に向かった。そのときのことをいつもの浮遊的物語に仕立て上げた。
池の上駅のホームに男が降り立った。彼は乗って来た電車の尾灯を見送った。赤い光が小さくなっていった。そして消えかかりそうなとき止まった。そこに歩廊の電灯がぼんやり見える。帝都線の下北沢駅だった。懐かしい地に帰ってきたような気がした。
駅を出てすぐに南に向かう。知り尽くした場所だった。歩いているうちに何かの匂いがしてきた。花のようだ。鼻孔の刺激,道の緩やかな起伏,それは深く馴れ親しんでいたもののように思った。不思議な感覚だなと思ったときにジャングルが浮かんできた。
やがて右に曲がる道があった。その奥を見透かした。するとおぼろな道が優美に下っていた。かつての自分の家がある方だ。この道を上ってくることの方が多かった。
二本目の道が見えた。そこを右に入ってそして今度は左に曲がる。すると横光家の見越しの松が見えた。昔の姿のままであった。街灯に樹蔭がくっきりと浮かんでいた。

二階の書斎に利一はいた。小説の筋運びがうまくいかず原稿用紙を前に頬杖をついて考え込んでいた。ちょうど,そのときに玄関の石畳に靴音がした。
「誰だ?,聞き覚えのある靴音だ。が,ちょっと変だ。あ,あいつか,そうだ,あいつに決まっている。歩き方がすっかり変わったな。昇平だ。そうだ,そうだ。」
足が地べたにしっかりと着いていると利一は思った。以前は,地に足がつかない感じがあった。成城ボーイやスタンダールを気取った足取りだった。
「そうか,戦争が彼の足音を変えたんだ。」
利一は戦争で昇平が苦労したと聞いていた。
「戦争という大鉈が彼を変えてしまったのだ。不要物がすっかりこそぎ落とされたわけか。」
横光利一賞,自分の名前を冠した賞が出来たとは聞いていた。その賞に昇平が選ばれた。死線をさまよう兵士の心理観察が見事だということも風の便りに聞いていた。
「なるほど,密林を歩くときにはこんな歩き方をするのか,重心がしっかり足に乗っている。生命力のある歩き方だ。これはジャングルと戦争が教えてくれたに違いない。」
横光は深い感慨にとらわれた。
玄関に現れたのは奥さんだった。
「あら,大岡さん,このたびはおめでとうございます」
「いえいえ,わたしの方こそ先生にはお世話になりました。今日は授賞式が終わってその足で駆けつけました。ご霊前にご報告にあがりました」
「なんともまぁ,亡くなった主人もきっと喜ぶことでしょう」
大岡昇平は,線香を上げた。遺影をじっと眺めた。『お父さんに代わって、下北沢から、あなたの将来を見守っていますぞ』という言葉を思い出した。涙があふれ出て来るばかりだった。(了)
繰り返し述べるが,受賞霊前報告は「下北沢の思い出」をヒントにした創作である。
横光利一は昭和20年12月30日に亡くなっている。昇平は戦線から奇跡的に生還した。が,銃後にいた新感覚派の旗手は四十九歳の若さで死んだ。三十年間も利一とつきあいのあった中山義秀はその死に顔を見て「今死んでは,犬死にだ,くそ」っと言っているように見えたという。(「世田谷ゆかりの作家たち」世田谷文学館109ページ)だが,横光は犬死にではなかった。現実を感覚的に感性的に創造しようとした新しい動きは文芸の伝統として大きな水脈を創った。死後もなお枯れずに言葉の泉はあった。大岡昇平は戦地で末期の水を飲もうとしたが水筒は空だった。彼は水を求めてさまよう。そのときの心理感覚の描写が見事である。水は飲めなかったが新感覚派の泉の水はたっぷりと飲んでいた。彼が戦地から帰還して書いた戦争文学は第一級のものとなった。
文化はひそやかである。横光利一と大岡昇平との出会い,それは下北沢という交点の陰で生まれたものだ。
(写真は今日の夜、池ノ上駅)



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2004年12月13日

下北沢X物語(93)〜下北沢の大岡昇平(8)〜

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たちまちに一日が始まって、そして終わる。何をしたか、仕事をし、飯を食い、プログを書いた。ただそれだけだが少しの充足感はある。プログも話題が重くなると自分もきつくなってくる。調べが追いつかないことがある。が、どうせ浮遊さと諦めると気が楽になる。プログ物語の面白さはその浮遊性にある。日々思いが定まらない。どんなことが起こるか分からないという面白さだ。
言ってみれば生のゲームを楽しんでいるようなものだ。自分で坂を上ったり下りたり、また、人に会ったり、写真を撮ったりする、思いがけずびっくりするような話に出会ったり、また、心打たれる風景に出会ったりすることがある。いつなんどきどんなことがあるかわからない。この頃、レィルセブンさんですかと聞かれるかもしれない、あり得ないけど、あるかもしれない。そんな不安と期待がある。それも面白さだ。日々を生きているという実感ではないだろうか。
今日は最初からお目当てがあった。昨日から考えていたことである。それがいまもちゃんとあるかどうかが心配だったからだ。
夕刻帰るときに女の子が二人空を見上げていた。気になったので聞いてみた。
「今日は新月で星がよく見えるの」
「流星が見えるかもしれないって」
そうか、新月か、確かに空を見上げると月の姿はない。薄青い紫色をしている。
帰りはこのごろは中野通りの新道を通る。笹塚方面に行く車は井の頭通りまで渋滞していた。渋滞は初めて見る光景である。昼間、笹塚で銀行強盗事件があったようだ。この頃事件が多い。強盗に殺人、ぶっそうである。萩原朔太郎の元の家にいる人も言っていた、この頃なにがあるかわからないじゃないと。だから知られたくないということのようであった。確かに行き先不安な時代ではある。
が、ささやかな希望は必要だ。どんなに悪い状況にあっても、かすかな望みを持つことは必要だ。大岡昇平の「俘虜記」はそのことを教えてくれる。
東北沢駅の脇を通った。そこに跨線橋があった。登れば空が見える。そんな期待を持って上った。が、広い広い空は見えなかった。ビルの谷間に下北沢の駅が沈んで見えた。それが写真である。
東北沢から池の上へは一直線だ。池の上1号踏切でひっかかった。けれども井の頭線は小田急ほど長時間踏切で待つことはない。夕暮れの電車を見るつもりでいるとすぐに時間は過ぎる。赤いオーバーの女を乗せた各停の上り、ぎゅうづめになった顔顔顔を乗せた下りの急行、二本の電車がすれ違うと、かたんと遮断機が上がった。
地図を頭の中に広げる。確か左手は池の上小学校と思っているうちに目印の一本目が過ぎる。そして二本目、右に曲がる。路地だ、すぐに左に行く道、違う違う、確かもう一本の路地だ。少し進むと、あった。ここだ。路地の入り口で自転車を止める。右手奥を覗くと松の木が見えた。ここだ。自転車でゆっくりと進む。
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2004年12月12日

下北沢X物語(92)〜下北沢の大岡昇平(7)〜

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下北沢を通しての出会いというのはなかなか面白いものがある。実際の出会い、それにプログへのトラックバックやコメントも一つの出会いだ。このプログに滅多にコメントはない。でも、たまにある。「東北沢3号踏切」のことを書いたときコメントをくれた人がいた。
その近くに住んでおられた方のようだった。「懐かしい」とあった、3号踏切は地味である。自分でも好きな踏切だ。大岡昇平によると、昭和五年頃はその踏切の上手の南斜面に松林があったそうだ。利一邸跡にも大きな松がいまもある。
「下北沢の思い出」の中で大岡昇平はこう書いている。

門から玄関まで、石畳になっているのは、遺作『微笑』に書かれてある通りである。そこを歩いてくる足音で、訪問客の目的や性質が分かる、とも書いておられる。

著作権の切れた文書をインターネットに載せているのが青空文庫だ。とても重宝している。そこに「微笑」は収録されている。

ある日の午後、梶の家の門から玄関までの石畳が靴を響かせて来た。石に鳴る靴音の加減で、梶は来る人の用件のおよその判定をつける癖があった。石は意志を現す、とそんな冗談をいうほどまでに、彼は、長年の生活のうちこの石からさまざまな音響の種類を教えられたが (横光利一「微笑」青空文庫からの)
梶とは横光のことだろう。その横光の旧居はこの間そっと覗いたときに石畳もあったように思った。つぎの物語はいつもの浮遊物語だ。「下北沢の思い出」数行を下敷きにして記してみた。
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2004年12月11日

下北沢X物語(91)〜下北沢の大岡昇平(6)〜

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昭和五年の小田急線での轢死事故は横光利一と大岡昇平の出会いを作った。「下北沢の思い出」(大岡昇平集16 岩波書店 1983年刊)にはこうある。
(あとで先生にこの時の話をすると、先生の方でも私を覚えておられた。下北沢に住む人間も、小田急の乗客もまだ少なく、電車はがらがらだった。)
かつての小田急は乗客が少なかった。その中で「詮索的で無礼な眼」つきをした大学生は横光利一の印象に強く残っていた。轢死事件があったからだろう。
その現場はどこだろう。それで昨日、帰るしな東北沢へ寄り道をした。途中、井の頭通りに抜ける中野通りの新道を通った。何事もなく前からあったように車がふんだんに道を行き来していた。その道を真っ直ぐに突き抜けると小田急にぶつかる。踏切があった。そこには代々木上原3号踏切とあった。小田急の場合の踏切の呼び方は、かつて構内にあったものを1号とするようだ。とするなら、代々木上原2号があるはずだ。
「あれ、あったっけかな?」
頭の中に地図を描いてみた。かつてはあったはずだがいまはもうないはずだ。が、気になって代々木上原まで行こうとした。ところが鍋底に下りていくような道を見てあきらめた。このごろ疲れている。坂を上るのが億劫なときがある。もしかしてプログ病を患ったのかもしれない。疲れたときは休むにかぎる。踏切が分からなくてもどうでもいい。坂道からの勇気ある撤退だ。
だが、もう一つ確認することがあった。「家の横のゆるい坂を登り切ったあたりを、右側に入ったところが横光さんの家だった」(「下北沢の思い出」)そのゆるい坂の実地見聞だった。坂を撤退して坂を攻める。まことに忙しい。
代沢の丘を下る道はいくつかあるが地図で確認すると三つあった。一つ目は茶沢通り昭和信金へ下る道だ。これはいくと急すぎた。二つ目は、下北沢ピュア通りに下りる道だ。そこそこゆるやかだった。もう一つは森厳寺の裏手にある坂である。ここまでくると根性だ。行ってみる。すると足の筋肉がもうやめてよと音を上げるほどの坂だった。
勘からすると二本目が一番ふさわしいようだ。坂を上っていって右へ曲がると横光家の13番地に行ける。自分の幻影の地図に坂が記された。
家に帰っても踏切のことが気になった。それでとあるものを取り出した。「小田急ロマンスカーはこね号」、列車展望DVDである。新宿からは早送りで行った。代々木上原はすぐに着いた。近代文明は便利だ。上原からはスローで見る。
「あ、見えた」と思ったらなんのことはない。上原3号踏切だ。2号はどこへ?。地図で調べると井の頭通りを線がつっきっている。たぶんここが上原2号だったと思う。
しかし、思い込みというのはある。「下北沢の思い出」には「踏切」とは出ていない。踏切とは限らないと思った。事故に遭ったのは「日雇労務者風」である。土木作業員かもしれない。
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2004年12月10日

下北沢X物語(90)〜下北沢の大岡昇平(5)〜

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昭和五年ことだ。冬休みに入ってすぐに下北沢の家に昇平は帰ってきた。京都の大学生活は静かであった。そこでの時間は東京よりもゆっくりとしている。銀座が切なく思われるほどだった。それでさっそくに出かけることにした。
昇平は下北沢駅のホームで電車を待っていた。すると微かな衣擦れがして白粉が匂った。目をやるとすぐ近くに二人の女性が立っている。一人は小豆色の着物で,もう一人は洋装で黒いオーバーを着ていた。柄や色が上品である。こちら側の和装の女性の項が白い。洋装の女の黒髪は赤いリボンで結ばれていた。その脇に男がいる。見かけたことのある顔だ。
やがて笛が鳴った。電車が来たようだ。世田谷中原の方を見ると角張った電車の頭が見えた。茶色がみるみる大きくなって、それが歩廊に入ってきた。白粉の匂いは消えて鉄錆が匂った。
電車に乗ると中は空いていた。青いモケットの座席に腰掛けた。と,自分の向かいに腰掛けたのは先ほどの女性だ。正面から見ると、ともに目鼻立ちがすっきりしている。二人の側に二重回しを羽織った男がいる。何事かを隣のスカートに話しかけている。
電車が,がでんと音を立てて動き出した。そのときに昇平は思い出した。雑誌か何かの写真で見かけた男,小説家の横光利一だった。彼はその利一の本を愛読していた。確か家も自分の家からは近いはずだった。
小田急線電車に乗っている乗客はわずかだった。窓の外を見ると北沢の冬の田圃が見えた。やがてモーターが唸った。東北沢への坂にかかったからだ。洋装の女性の髪の向こうに緑が見えた。日影山に続く松林である。
坂を上りきった電車は,すぐに停車した。小高い山の上にある停車場、東北沢だ。開いたドアから北風が入ってきた。オーバーの女は襟をすぼめた。外套を着ていた昇平も襟に手がいきかけた。が,その手は顎をなでた。髭がざらりと手に当たった。
東北沢を出てスピードが出かかったときだった、電車の床下で金属同士が擦れ合う音がした。急ブレーキだった。ぎぃきぃきぃきぃと車輪が軋んで電車は止まった。昇平は手すりに頭をぶつけた。前を見ると二人の女性は不安げに横光に何かを聞いていた。
電車の外で誰かが大きな声で何かを言っている。昇平は顔を窓に向けてみた。すると電車の脇に赤いものが見えた。それは電車の車輪に引きちぎられた死体だった。上半身だけがそのまま転がっている。赤い血と,肉と内臓が見えた。それが筵もかけられずにそのままごろりと転がされていた。
目を戻すと横光利一も何が起こったか分かったようだ。彼は腰を上げた。昇平は彼の行動に興味を覚えた。こういう事故が起きたとき小説家はどういう態度を取るのだろうか。昇平は目を大きくして彼の行動をすべて漏らすことなく観察した。
横光利一は隣の女に二言三言話しかけてから立ち上がった。そして,ゆっくりとこちら側の窓の方に歩いてくる。そのときに昇平の詮索的な目に利一は気づいたようだ。が、彼はさりげなく両手をつり革にかけて、首を低くして窓の外を覗きこんだ。とたんに利一の黒目が一瞬光ったように昇平には思えた。
昇平は,彼が目を背けるとか,あっと声を立てるのではないかと思っていた。が,利一は桜色の惨たらしい死体を「ちら」と見ただけで,ゆっくりと自分の席に戻って行った。二人の女性が彼の顔をのぞき込んだ。しかし,彼は泰然として二重回しに手をつっこんで黙っているきりだった。その態度に昇平は好意を覚えた。
この小さな物語は大岡昇平「下北沢の思い出」を下敷きにしたものだ。浮遊的物語世界であることを断っておく。(写真は今夕の東北沢駅である)


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2004年12月09日

下北沢X物語(89)〜下北沢の大岡昇平(4)〜

e4cf5f41.JPG 昨夜から赤い幻影が頭にこびりついて離れなくなった。
ことばというものは不思議なものだ。書き手の感覚に侵されてしまうからだ。赤というのも大岡昇平「野火」を読み始めたからだ。
自分がレッドに敏感になっているのだろう。今日の帰り道、三つの赤に出会った。北五商店街を抜けていつも通る路地に入った。とたんに前方がまっ赤だった。赤い回転灯がむやみと回っている。ちょうど救急病院に車が着いたところだった。その救急車の脇をそろりと抜けた。すると隊員が担架に手をかけて負傷者らしき人を下ろすところだった。
北沢五丁目を抜けて、そして、四丁目、三丁目にかかったとき、何かの気配がして左手の路地を覗いた。またも赤い回転灯だった。今度はパトカーだ。警官が立っていてそこにいる人に話を聞いていた。ほんの一瞬のことだったのに聞こえた。
「ここのところに倒れていたのですね......」
茶沢通りに出て、今度は交番前の4号踏切に引っかかった。警報機の赤い目玉がきゃんきゃんと音を立てて点滅している。これも赤だ。が、凝視するとそれは赤い点の集まりだった。デジタルだ。やがて、目の前を小田急の上りが通った。「新宿」と書かれた行き先表示もデジタルだった。電車が過ぎれば赤点滅信号はあっけなく消えた。踏切を渡る。
「ぼやぼやしてんなよ」 若い男がそんなことを言った。じっさいにぼんやりしていた。新宿に着いた電車のことを思っていた。「新宿」の表示が切り替わって今度は相模大野行きとデジタルが点く。おれが12月9日4号踏切で見た電車はすぐによそ行きの顔になって。知らんぷりして今度は相模大野行きになってまた4号を通る、そんなつまらないことを考えながら踏切を渡っていた。
下北沢のあづま通りにも赤いものが目に付いた。古着の赤、提灯の赤、ネオンの赤だ。
「ああ、そうだよ」
昨日寝るときにあの場面を読んだのがいけなかったと思った。続きを読む

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2004年12月08日

下北沢X物語(88)〜下北沢の大岡昇平(3)〜

ef5a13e0.JPG 朝,下北沢駅すぐわきの6号踏切で遮断機にひっかかった。通りかかる電車はステンレス車ばかりだ。クリーム色に青い帯を巻いた旧型電車は少なくなった。唐木田行きをやり過ごして北口の商店街に入る。街灯のポールになびいていた旗が変わっていた。「Merry Christmas」と染め抜かれた旗だ。
12月8日,開戦記念日である。日本の真珠湾奇襲攻撃が敵の憎悪を産み出したとも言える。B29爆撃機による執拗な日本の諸都市への爆撃を繰り返し,ついには原子爆弾をも使用した。それは奇襲に対する報復であったように思う。
もう10年にもなろうか,肝炎に感染して都立H病院に入院したことがある。そのときに80何歳かの渡辺さんという方と部屋が同じになった。彼は真珠湾攻撃に参加したという人だと聞いてびっくりしたことがある。彼は「にしき」という言葉をしきりに口にした。
「錦」という名前のついた飛行機で戦闘に参加したのかと思った。が,それは違っていた。
「二式飛行艇」といった。そのときはお台場の「船の科学館」に飾られているよというので見に行ったことがある。四発の大型飛行艇であった(全幅38m,全長28.13m全高9.16m。)彼はこの飛行艇に搭乗し真珠湾攻撃に参加した。
「エンジンの音がうるさかったですね。ずっと海ばかりでしたね」
「飛行機が大きいから燃料入れるのに苦労しましたね。間に合わないときはバケツリレーでガソリン入れることもありましたね」
そんなことが記憶に残っている。歴史の節目になる真珠湾攻撃に参加した人の話ということで,ある種の感動を持ってその話をわたしは聞いた。が,本人にとっては格別のことではなかったような口振りであった。
航空機のでの戦闘参加というのはあまり実感がないのかもしれない。結局機械に身をゆだねるしかなかったのだろう。真珠湾攻撃は高空からの爆弾投下が主だったようだ。飛行艇が低空飛行して機銃掃射したとも思えない。渡辺さんはハワイで敵に姿を見られることもなく無事に帰還したようだ。
地上から戦闘機の搭乗員が見えたときは格別な驚きがあるようだ。広島のFという方から直接聞いたことがある。艦載機が機銃掃射しながら低空で飛んできたとき操縦士の飛行メガネがはっきり見えたと,震え上がるような気持ちがしたと彼女は語っていた。
一色次郎も下北沢,小田急の土手で敵の姿を見た。1945年2月16日のことだ。味方戦闘機に撃たれた敵戦闘機の搭乗員がパラシュートで下りてきた。静仙閣アパートの女たちがそれを見て言ったそうだ。
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2004年12月07日

下北沢X物語(87)〜下北沢の大岡昇平2〜

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大岡昇平の自伝を記したものに「少年」という作品がある。その終章近くに下北沢のことが出てくる。

父はこの頃、下北沢の淡島森厳寺の裏手の寺の地所を広く借りて、盆栽店と別宅を建てていた。やがて隣接した松林の中に家を建て、私たちは昭和五年の二月、渋谷を離れる。
その頃は下北沢に小田急が通っていたので、新宿の方が渋谷よりも出やすい盛り場になった。新宿は中村屋と武蔵野館と紀伊国屋の存在によって、渋谷よりも高級な副都心になっていたが、私の憧れはずっと前から銀座にあったから、やはり乗継駅にすぎなかった。大正十三年の秋、「築地小劇場」で「海戦」を見てから、新劇が私の熱狂の対象になった。観客席が暗く、開幕を知らせる陰気なドラの音まで新鮮に聞こえた。入口で手あきの俳優がもぎりをやっているのが珍しかった。
「少年」 大岡昇平集 11巻 一九八三年三月刊 岩波書店

大岡昇平は「下北沢の思い出」の中で「東北沢側の斜面の松林の中に私の家があった」と書いた。が,正確には「東北沢側の南斜面に続く松林の中」というのだろう。だから小田急線からは見えない。今で言えば代沢三叉路の東側の丘の中程、代沢二丁目二十番地あたりであろうか。そこからだと「ゆるい坂を上りきったあたりを,右に入ったあたりに」横光利一邸はある。太い見越しの松が今も門にある。
大岡昇平が下北沢に引っ越して来たのは昭和五年(1930),21歳のときである。が,彼は前年に成城高等学校を卒業し京都帝国大学に入学した。京都に下宿していて休みには下北沢の家に帰ってきた。昭和五年彼は母を亡くし,下北沢の自宅で葬儀をした。母の年齢は四十六歳である。下北沢の家は思い出深い土地であったろう。
彼の父も昭和十二年(1937),死去し,北沢の家も借金返済のために売却される。大岡昇平は「北沢のもと住んでいた家の隣りのアパート清風荘に住む」がそれもほんの一時のことであった。彼にとって下北沢生活は短かった。だが,彼の小田急線とのつきあいは長い。彼は,青山学院中等部から成城第二中学に転校し,その学校が成城高等学校になって彼はそこを卒業する。成城ボーイだった。そして晩年には成城に居を構える。
下北沢の窪地,北沢一丁目の一一一三番地に住んでいたのは一色次郎である。東北沢の西斜面,北沢二丁目二四六番地に居たのは大岡昇平である。住んでいた時期も重ならない。二人にはなんの関係もない。関連づけるとすれば戦争だ。一色次郎は鹿児島県沖永良部島で生まれ,鹿児島市の小学校を卒業して働きに出た。上京して職業を転々とするうちにその文才を買われ福日新聞の支社員となる。そして,下北沢の静仙閣に住んで東京空襲の有り様を仔細に日記に綴った。
彼自身はB29爆撃機は何度も目撃した。火を噴いて機が墜落する様や代田の丘の松林の間に落下傘で米兵が落ちていくところも見ている。低空で襲ってくる艦載機グラマンが下北沢の屋根すれすれに飛んできたところも息を詰めて眺めもした。
高空から襲ってくる戦闘機や爆弾,焼夷弾,照明弾,曳航弾など,それらは機械的であった。敵の正体は見えない。第二次世界大戦は機械に脅かされる戦争であった。一色次郎はおおよそ勝てそうにもない戦争を小田急の土手から見た。
大岡昇平は一色次郎よりも七つ年上である。彼は昭和19年,召集を受け,八月末,フィリピンミンドロ島に着き警備に当たる。が,マラリアに冒され高熱に苦しんだ。部隊は米軍に包囲された。彼は退避を断念し一人陣地に残った。死を覚悟してのことだ。そんな中で彼は敵と遭遇する。が,銃で撃てるはずの敵を彼は撃たなかった。

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2004年12月06日

下北沢X物語(86)〜下北沢の大岡昇平1〜

73ed9939.JPG 鉄道の交点としての下北沢、その周辺を自転車で巡ってきた。あっちにもこっちにもエピソードが転がっている。ついそれに心が奪われそうになる。森鴎外の娘、森茉莉のいる下北沢風景もたのしい。彼女は貧乏だがチョコレェトには目がない。茉莉は魔利となっている。小悪魔的な人物だろうか。

「チョコレェトを購入するのは魔利の日課であるが、二十町程ある北澤駅北口のマアケットに、百圓のイングランド製を一日一個宛買ひに行く」(「贅沢貧乏」、新潮社、1963年刊)

淡島のバスの車庫脇から下北澤駅北口のマアケットまでチョコレェトを買いに彼女は通った。どこを通っていったのだろうかと想像する。代沢三叉路から南口,そして東北沢6号踏切を渡ってマアケットに行った。途中で出会う人をちらりと見ては自分の想像世界に引き込んでしまう。
「おや駅前で煙草を吹かしている彫りの深いあの若者はレオと名付けて代田ヒルの洋館に使える召使いとしよう」
そんな想像をしながら南口の坂をゆっくりと上っていく彼女を想像する。イングランド製のチョコレェトもいい。しゃぶると口の中でそれがとろける。そんなことを思っていると本当にチョコレートが欲しくなった。とりあえずハーシーの板チョコを思い出して買ってきた。銀紙をそろりはがすと白い粉の吹いたチョコの板が現れる。それをこきっと折って、一切れを口に含む。カカオの味が口中にあふれる。
森茉莉の小説「枯れ葉の寝床」は異空間が舞台である。読んでいくと代田の丘が浮かんでくる。それがいつの間にかフランスの丘になる。そこがまた楽しい。いずれまた森茉莉空間に戻ってくることにしよう。
今日は12月6日。たちまち暮れだ。あさっては12月8日,開戦記念日である。日本軍がハワイ、オアフ島・真珠湾のアメリカ軍基地を奇襲攻撃した。太平洋戦争、大東亜戦争とも言われる。六十三年前のことである。遠く過ぎ去った昔の出来事だが、国家の命運、そして日本人個々の運命を大きく変えた戦争であった。わたしは自分自身、あの戦争がなかったとしたならいまとは全く違う人生を歩いていたと思う。世田谷の谷間をうろうろすることなく、どっかべつの例えばチベットあたりの谷を放浪していたようにも思う。
下北沢クロッシングに話を戻そう。空襲目撃地点としての下北沢については何度も触れてきた。「東京空襲」のありさまを事細かに記録したのは一色次郎である。彼は下北沢駅近くの窪地に住んでいた。世田谷代田寄りの下北沢2号踏切の南側である。
最近になってまた新しいことを知った。一色次郎のいる方とは反対側、東北沢よりの南に大岡昇平の住まいがあったようだ。一方は空襲下において人間の命とは何かを考え、もう一方は太平洋戦争に参戦して、フィリピンのミンドロ島の戦地において死を見つめて生きた。対照的である。小田急土手からの巡り合わせでここへたどり着いた。自分にとっても不思議な出会いでもある。

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2004年12月05日

下北沢X物語(85)〜北沢から代沢へ小さな旅(4)〜

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萩原葉子「天井の花」〜三好達治〜にはつぎのような場面が出てくる。文学の核心に触れる伝授ではないかとも思う。

「一生懸命やりさえすれば、葉子ちゃんはものになるとぼくは思っている。お父さんのような天才ですら大変な勉強をしたのに、まして我々凡人が勉強しないで何が生まれると思うのか?」
「勉強します。でも書く他には何を勉強したらよいか分からないのです。」
わたしは日頃の疑問を口に出して尋ねた。
「古典を読むことだね。まず鎌倉期あたりから入ってゆくといい。誰にも言わずにこつこつと勉強していきなさい」 (講談社文芸文庫)

三好達治は詩人である。近代といっても我々は長い歴史を背負っている。大本のところを勉強する。「新古今和歌集」や実朝の「金塊和歌集」あたりからの勉強だろうか。日本の古典をという、彼の出身学部は仏文科である。彼の二万枚に及ぶ翻訳はあまり知られていない。フランスに傾倒していた森茉莉との接点もそのあたりから見いだされないだろうか。
三好達治、萩原葉子、そして、森茉莉の文学線脈はおもしろい。それはスモールテムズに起因するからだ。スモールテムズのほんのちょっと上流。代田二丁目に朔太郎とその娘葉子が住んでいた。(家は戦火で焼ける)戦後になって、師の旧居近くあっていいということで川からさほど遠くないところに三好達治は住んだ。旧居そばには駒沢線51号鉄塔がある。その南53か4号あたりに彼は下宿した。その家から5,600メートル東に森茉莉のアパート『倉運荘』はあった。いずれも北沢川に沿った地点だ。
文豪と詩豪の娘が北沢川を介してつながっていたというのは興味深い。が、彼女らはしたたかだった。鴎外と朔太郎の世に知られた作品は「舞姫」、朔太郎「月に吠える」である。とするなら、彼女らは「月に吠える舞姫」たちだ。一筋縄ではいかない。

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2004年12月04日

下北沢X物語(84)〜北沢から代沢へ小さな旅(3)〜

1c070c2d.JPG 魔利的世界をに囚われていたら日が暮れてきた。それでスモールテムズを離れた。そして、プラムヒルストリートを渡った。森茉莉的世界は影響力が強い。言葉が異国づいてきてしまう。梅ヶ丘通りである。そこをつっきり、バスの車庫脇を左に見て路地を直進する。ぶつかったところで右に曲がった。住宅街を抜けるやや大きな道が西にまっすぐに延びている。その暮れかけた朱の空の向こうに見覚えのあるものがあった。家並みのところどころに鉄の塔が生えている。南北を貫く高圧鉄塔である。
「あれ,あの駒沢線だ」
このごろ何かというとぶつかる線である。これがこのごろ謎をひょいと解いてくれることがある。このときも気持ちにひっかかっていたことが。少しわかりかけた。
森茉莉の文章には符丁めいた名前が出てきてとまどう。単なる登場人物かと思うとそうでもない「甍平四郎といふのは,苅萱節太郎と並んで肩を摩し合ふ詩人作家」とあった。甍は馬込に住んでいる。甍平四郎はどうも詩人の室生犀星のようだ。その線で行くと苅萱節太郎は萩原朔太郎ということになる。あれやこれやと訳の分からない名前が出てくるので混乱する。このごろでは舳徹冶が出てきて、誰だろうと疑問に思っていた。鉄塔を見て思い出した。あの下にいた詩人のことをである。
「魔利はこのごろ舳徹冶といふ詩人の催す勉強会に,苅萱梗子と出席してゐる」
「贅沢貧乏」(一九六三年五月,新潮社発行)」
鉄塔は代沢にある。舳徹冶とは三好達治のことだ。すると多くのことが解けてくる苅萱梗子の父は詩人苅萱節太郎である。つまり,萩原朔太郎の娘,萩原葉子だ。
萩原葉子は森茉莉は親しくしていた。萩原葉子は「父・萩原朔太郎」を書き,森茉莉は「父の帽子」をまとめて文壇デビューをした。
「父をうたうことは小説家の場合は、大ていその作家の出世作か処女作になっている。まず何かを書こうとするときには父親のことが、もっとも書きよいから書きはじめるのである」
これは甍平四郎が言っている言葉だ。(「我が愛する詩人の傳記」中央公論社。昭和三十三年刊)
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2004年12月03日

下北沢X物語(83)〜風景紀行北沢・代田・代沢1〜

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食べれば食べたくなる、対象に興味を持ち始めるといっそうに面白くなる。が、過ぎると筆が重くなる。興味が乗って突っ走っているときはいい。が、あるときに、例えば「萩原朔太郎」の全集を見たいと思うときがある。自身は玄関にある赤い下駄を突っかけていくタイプである。それを借りていって、図書館を出たとたん、本が重いと感じることがある。
この頃では北沢文化のかなり微細な部分まで入ってきた。調べが追いつかなくもなってきた。「浮遊的物語」である。そんなときは物語的に済ませればよいのかとも思う。だが、適当に書いてごまかすこともできない。そういうときはさらりと風景で済ます。
きょうの帰り道、小田急東北沢2号踏切と井の頭線池の上3号踏切で写真を撮った。夜の風景は難しい。巧くは撮れない。何十枚と失敗して、わずかに一二枚、いいのがある。池の上の夜の駅風景だ。レールの踏面にホームが映っているところが自分では気に入った。デジカメで撮っている。写そうとする風景がじつはよく見えない。撮ってみてああこんなもんかとわかる。ホームには女子高生の姿が映っていた。今日12月3日の宵の風景だ。



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2004年12月02日

下北沢X物語(82)〜北沢から代沢へ小さな旅(2)〜

47e97977.JPG 徳川家ゆかりの古刹,森厳寺は岡本綺堂「半七捕物帖」にも出てくる。そこの大銀杏は金箔の衣を着て静かに時を食んでいた。風が吹いて金色が揺れた。貴金属がかすかにふれ合うような音が聞こえるようだった。
樹下には淡島のお灸で名を響かせた「淡島明神」が眠っていた。
「いや,お灸が熱かったのなんのって、背中の肉が涙流して泣いていたよ」
「お灸は,それくらいでないと効かないよ」
「これで悪いところはなくなった。苦あれば楽あり,いっひっひ」
「また,あれかい,帰りに渋谷円山町に寄って飯盛り女としっぽり濡れようという魂胆だな......」
ぼんやりと淡島様の前に立っているとそんな二人の会話が針塚の陰から聞こえて来た。
妄想会話を振り切って門の外に出た。帰り道とは反対に左にハンドルを向けた。すぐに北沢八幡宮が見えてきた。前庭で子どもが遊んでいる。その声が秋の暮れ色を帯びていた。
道なりに走っていった。丘の縁である。しばらくして、頃合いをみて右折する。坂を下ると橋があった。北沢川である。一帯は川縁の公園になっている。子どもを遊ばせている若い母親がたむろしていた。セーターにジーンズ姿だ。
自転車に乗ったまま橋に立ち止まる。乗ったままというのは案外に使えるポーズだ。若い主婦も不審な眼では見ない。自転車で疲れて休んでいるだなと彼女らも眼の片隅で納得している。
素で,何もなくて佇んでいると怪しまれる。散歩も犬と一緒だと様になる。が,一人姿で立ち止まって憩うときは不都合だ。不審者に見られる場合があるからだ。手を意味なく頭に置いて思考のポーズをとったり、ポケットをまさぐったりする。自転車の場合だとそんな苦労はない。かがんでギアの点検のすればよい。それでサイクリストの格好はつく。
北向こうの駐車場にはバスが顔をこちらに向けて止まっている。東急の淡島車庫である。目当てはこれであった。仔細に番地を詮索する必要もない。この近辺だったで充分だ。「作家のしろまるしろまるさんの家はどこですか?」、それは間の抜けたおろかしい質問だ。住んでいたと思われる場所がわかれば充分だ。
「世田谷ゆかりの作家たち」(世田谷文学館発行)によると「茉莉は淡島のバス車庫近くの奥まった路地裏にあった戦前からのアパート『倉運荘』に二二年間住み、ここが多くの作品の舞台となった」とあった。
「牟禮魔利の部屋を細述し始めたら,それは際限のないことである。」で始まる彼女の「贅沢貧乏」(一九六三年五月,新潮社発行)は下代田のアパルトマンに咲いた異空間である。フランスやらドイツやらイギリスやら日本やらの文化がまぜこぜになった魔利空間である。
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2004年12月01日

下北沢X物語(81)〜北沢から代沢へ小さな旅(1)〜

fcc28cb0.JPG 思いがけず芋に出会って芋で終わった。北沢から代田への小さな旅である。
のんびりとした時があってもいい。道をゆっくりたどって帰ることにした。まずは笹塚の観音通りから北沢五丁目、「北五商店街」へと入った。すぐ右のところに和菓子屋さんがある。「芋羊羹」という看板があった。前々から気にはなっていたところだ。自転車を止めて店に入る。「うん、おいしそうだ」、いつもの勘が働く。
自転車乗りもダテではない。かなりの経験が知らない間に積まれた。ぶつかりそうな四つ角、通れそうな抜け道、それはもう勘でわかる。危ないところでは自然に手がブレーキに行く。自慢はこれだけ乗っていて対人事故がないことだ。
一番の楽しみは味道楽である。巻きずし、蕎麦、麺屋、豆腐屋、パン屋、菓子屋、魚屋などジャンルはあらゆるところに及ぶ。どこのスーパーで安くて美味しいワインが手に入るかもわかる。
経験的に言うとこうだ。街の中心地には旨いものは少ない。むしろ、中心街の外れか、外れかかったところにおいしいものはある。店構えも小ぎれいでない方がいい。通りかかって、「うん、ここは」と思うところは大概が当たっている。自転車だとその店を一瞬にして通り抜ける。目の隅に映ったマグロのてかり具合、麩菓子の笹の濡れ具合、アップルパイの表面の微妙な焼け具合、そんなものを一瞬に判定する。ブレーキに手がかかったら当たりだ。おいしいものにぶち当たる。
町はずれにある場合、存在感がないと商売は立ち行かなくなる。よそよりも旨くないとだめだ。そういうことできっと腕が磨かれていくのだと思う。「亀泉堂」は、そんなお店である。栗饅頭のてかり、最中の皮のうねり、そんなものにうま味の陰影がある。
「このお店は古いんですか?」
「ええ、古いですよ、もう三十四、五年になりますね」と菓子屋の奥さんが言う。
「このあいだもね、近所の人がお宅のカステラはインターネットに載ってますよっておっしゃるのですよ。お客さんが掲示板に書いたのでしょうね」
「こういう商売もね、厳しいですよ。この頃は季節感がすっかりなくなったでしょう」
確かに言われればそうだ。春夏秋冬の季節感があって和菓子は売れる。工夫がないと売れないのだろう。店の大きさの割には品揃えが豊かだ。奥さんが差し出した包みに毛糸で作った小さな花が添えてあった。「此の街いいね」が北五のキャッチコピーだ。ちょっと寂れているが味わいがある。
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