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2011年08月

2011年08月30日

下北沢X新聞(1903)〜荏原眺望隠れ場時間物語4〜

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(一)
「まったくわれらは風景を失ってしまいましたね。昨日、学校での講義があって、和光市駅まで行ったんですよ。前は、山手線、東武東上線で行ってたんですけどね、今は副都心線です。この地下鉄時間がやたらに長いんですよ。風景が見えなくなったからです。それでこの頃は、でかけるときに地下鉄で読む本をあらかじめ決めていくんです。前回は漱石の文明論集でした。今回は、独歩の『武蔵野』だったんですよ」
「そうか、武蔵野の地下を潜りながら、武蔵野を想うわけだな。独歩さんも、まったく想像しなかった行き方だな。」
「渋谷から和光市、都市と郊外のあわい、武蔵野から武蔵野へ行きながら、『武蔵野』をたっぷりと鑑賞したのですよ。それで、ふと気づいたのです。」
「何にだい?」
「いやね、煙突が一本も出てこないんですよ。」
「お前さん、また出し抜けに何をいう?」
エバ爺さんも少し驚いたようだ。

「この作品が収められた本が発行されたのはは、明治何年でしたっけ?」
「確か明治三十四年、独歩二十九歳のときではなかったかな」
「あれまあ、記憶のいいこと。それでね、近代国家日本が成立して、どんどん首都東京は肥え太っていきますね。ほらほら、その象徴は何か?」
「なるほど、お前さん言いたいのは、郊外景観における首都の象徴、煙突だろう」
「そう明解です。『みみずのたはこと』にもありましたね、『田圃の遙東に、いつも煙が幾筋か立って居る。』って...」
「そうそう、目黒の火薬製造所、渋谷の発電所、大橋の発電所、そういう煙突が見えていて、東京から来た姪がそれを見て、『お家に帰りたい』と言っておったという」
「時代ですねえ、戦争中、東京世田谷から長野に疎開していた学童は、上りの機関車の汽笛を聞いたり、煙突から出る煙を見たりして、帰心が高まって泣いたといいますね。」続きを読む

2011年08月29日

下北沢X新聞(1902)〜荏原眺望隠れ場時間物語3〜

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(一)
「風景と人間だな?人間は、誰しも長く生きれば、生きるほど風景の貯め多くなる。遠い過去の写真を見ると切なく懐かしくなっているときがある。」
「ああ、そうそうありますよ。土曜日に、世田谷区地域風景資産の集まりがあったんですよ。そのときに、駒給といってもわかりませんね、『駒沢給水塔』ですよ。この風景資産保存の会の新庄靖弘さんと隣合わせたのですよ。古い写真を見せてもらってね、いやぁ、まさに言われるとおり、写真から馬が臭っていましたよ」

「馬とな?」
「そうそう、大坂下の氷川神社の写真なんですよ。こんもりとした緑があって、前の道路には線路が走っているんですよ。玉川電気鉄道です。玉電ですね。それで、この神社の並びに馬具屋が二軒並んでいたんですよ。ああ、こんなところにあったのかって。新庄さん、『そうそうこの裏手に輜重兵ありましたからね』ともう話が弾んだんだね。鉄道と給水というのは無関係じゃないですね。鉄塔もそうだ。ライフライン。水道は渋谷町単独での事業ですよ。取水口の砧から渋谷まで繋がっているという話になって盛り上がりました。」
「言われてみればそうだな。」
「弾みに弾んで、鉄塔も同じだと言いました。これがね、利根川上流まで繋がっているんですよ。そんな話にまでなりましたよ。鉄塔下で、ジィジィリィと青白い火花が散って、その鉄塔が奏でる響きを聞きながら、『近代の叙情詩...イマヂズムに走り』と書いていると、また火花が走って焦げ臭いにおいも漂ってくる。故郷で生まれた電気が刺激するんですよ。すると『氷島』の序はますます高ぶってくる。『所詮ポエヂイの最も原始的実体...』などと文体にまで影響してくるんですよ」
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2011年08月27日

下北沢X新聞(1901)〜荏原眺望隠れ場時間物語2〜

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(一)
「時間は、本当は一様でないですね。機械時計は、仮に一つのものさしとして使っているだけに過ぎないと思うのですよ。臓器時間もある。腹時計ですね。横光利一は言っています。『まったく時間とは私にとっては何の他物でもない胃袋そのものの量をいうのだとはっきりと感じられた。』、彼は『時計』という作品で語っています。また、ここでは『誰もが見たこともない時間という恐るべき怪物の面貌』とも言っています。」
「たしかにそれは主観時間のことを言ってはおるな」
エバ爺は口を差し挟んだ。

「この作品は、昭和六(1931)年の作品です。このときは北沢の丘の上に住んでいました。丘向こうの駒場には、近衛輜重兵連隊、下馬には近衛野砲兵連隊などの隊舎がありましたから、それぞれからラッパが響いてきていたと思いますよ。彼のところは武蔵野の森が残っていましたが、都会の雑音は折々に聞こえていたんですよ。人々のざわめきを聞いての執筆というのは文学を書くときのエネルギーになると思います。」

「居住ポジションと時間、そこでの固有時間との関わりはあるだろうなあ。萩原朔太郎いうところの『田舎の時計』は、都会とは対極なす時間だね。『都会と田舎』という詩にもあったな。」

ここには自然がある、
おそろしく大きな手もつけられない自然がある、
田舍のすべてのものの上におほひかぶさつてゐる重くるしい陰鬱な自然である、
ああ、自然、
なんといふ冷酷な意地のわるい言葉であらう、
ああまたなんといふ恐ろしさで、
この自然が私の心の上にのりかかつてくることであらう


「ほとんどが変化しない時間、耐えられない時間だったのでしょう。彼の田舎論を見ていると、縄文時間からの延長のそれがあって『そこの暗闇にうづくまって、先祖と共に眠ってゐるのだ。』(「田舎の時計」)で言っています。万年も続いた土の時間ですね。」
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2011年08月26日

下北沢X新聞(1900)〜荏原眺望隠れ場時間物語〜

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(一)
「時間とはどういうものですか?。」
わたしは聞いた。
「ああ、そんなの簡単ですよ。あなた、時計を持っているでしょう...ああ、デジタルですか。その右端、チュック、チュックと数字が変わっているでしょう。秒、秒ですよ...これね、一秒はセシウム原子の九一億九二六三万一七七0回の震動と定められているんですよ。何にも考えることはありませんよ。」
バラ爺さんは言った。

「その機械時間は、そんなに古いものじゃないですよね」
「機械時計は、明治になってからだな。明治維新後も、従来のように江戸城内で、時間時間には太鼓櫓で『時の太鼓』が鳴らされていた。この六ッ時の太鼓は面白い。『どんどんで女の駈る一橋』というのがある。『あらあら鳴っているじゃ』、外出をしておった城内の女子は、一橋のあたりでもう大急ぎで走っていた。紅い腰巻きがのぞけるのもかまわず走っとった。この太鼓は明治五年四月十四日で終わったようだな。」
(「日本の時刻制度 増補版 橋本万平 この記述を参照した)
「そのあとはどうなったのですか?」
「いわゆる時報については、前の年の明治四年の秋から、皇居の旧本丸で毎日、正午になると空砲を『ドン』と鳴らしておった。初めは、薩長土の三藩から献兵されたいわゆる御新兵が打っていたようだ。後には近衛野砲兵連隊の連中が代わって放つようになった。太鼓は大して聞こえるものじゃない。ところが午砲になって遠くまで届くようになった。『時報の初め』というやつだな」続きを読む

2011年08月24日

下北沢X新聞(1899)〜ヒトの時間ミミズの時間2〜

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(一)
荏原地域の時間論は興味深い。都心を中心時間にすると、此所では数秒遅れる。その隔たりこそがこの地域に居る人の存在証明にもなるのではないだろうか。

都心を真ん中とすると、その縁辺までに喧噪が届くまでの間(ま)が意味を持ってくる。風景隠れ場理論というものがあるが、時間隠れ場理論もあるのではないだろうか?。

徳富健次郎の千歳村粕屋は「四辺が寂しいので、色々な物音が耳に響く。」ようで、「東京の午砲につゞいて横浜の午砲。」(「みみずのたはこと」)が聞こえたと言う。大正期のことだ。東京までは「三里の路」があった。

午砲は、皇居内午砲所で打っていた。世田谷下馬、近衛野砲兵連隊の号砲当番が放っていた。東から「ドン」と聞こえ、やや間を置いて南の方で「ドン」となる。その微妙な遅れの中に地理が浮かび上がってくる。あっちは東京、こちらは横浜。

都市の距離と方向が耳で感じることができていた時代である。近代人が失った感覚だ。我らは脳裏に地図を描いて、あっちは東京、向こうは横浜と認識している。

「八月六日は東、九日は西、大きな音がしましたね。あれが原爆を投下したときの破裂音だったのですね」
戦争経験を聴く会、語る会の第一回で一人が語った。九州佐賀鳥栖近くの目達原飛行場で飛行機の整備をしていた人だ。広島と長崎は空で繋がっていたと気づいた。続きを読む

2011年08月23日

下北沢X新聞(1898)〜ヒトの時間ミミズの時間〜

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(一)
荏原を常々逍遙しながら、考える。歩きながら絶えず瞑想している。ダイダラボッチ空間論とか、江戸見坂的荏原時間論とかを。

「地を這う時間」というものはある。濃厚であり、豊穣でもある。なによりも精神的な安らぎがある。人は歩くことで生きていることを感得できると思う。

道中、折々に、ミミズにはよく出会う。干からびたミミズは「し」の字になって動かない。が、草むらから出てきたばかりのミミズは、「く」の字、「へ」の字になって躍っている。ミミズの生と死だ。そのささいな目撃が時間観を喚起する。「ヒトの時間ミミズの時間」である。

人も蚯蚓も土塊の上で生きているのに、ヒトは土の表面をすべて平滑にして、遮二無二時間を食いまくって、ミミズよりも何倍もの速い時間で駈けている。両者の時間の落差が断絶的に広がっている。

徳富健次郎「みみずのたはこと」は、大正2年(1913)に刊行されたエッセイだ。最も感銘深いことは、百年前のミミズ時間、「地を這う時間」が書かれていることだ。

東京へはよく出た。最初一年が間は、甲州街道に人力車があることすら知らなかった。調布新宿間の馬車に乗るすら稀であった。彼等が千歳村に越して間もなく、玉川電鉄は渋谷から玉川まで開通したが、彼等は其れすら利用することが稀であった。田舎者は田舎者らしく徒歩主義を執らねばならぬと考えた。彼も妻も低い下駄、草鞋、ある時は高足駄をはいて三里の路を往復した。 「みみずのたはこと」岩波文庫 上

「徒歩主義を執る」ということには深い共鳴を覚える。夫妻は往還を、自分の脚で往還していた。古道、青山街道、滝坂道である。この描写は想像を刺激してやまない。武蔵野の土塊が臭う。ところどころに落ちている牛馬の糞すらつぅんと鼻を刺してくる。その景色、あの情景が浮かび上がってくる。
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2011年08月21日

下北沢X新聞(1897)〜2011波乱ぶくみの「鉛筆部隊」3〜

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(一)
鉛筆部隊の物語は、現時点でも波乱ぶくみだ。今、あるいはもしかしたら明日にでもとんでもない変化や曲折があるかもしれない。今に生きている話である。

元鉛筆部隊の田中幸子さんは、証言したことと記事に載っていることが違う、記者の創作ではないかと言うことを実例を挙げて指摘し、記事訂正の要求をした。先方の上司からは取材記者のノートに書いてあるから間違いないという返事が来たという。それでもなお彼女は腑に落ちないようだ。指摘されたことについて、また返事を書いたという。この件では書かれた方のもう一人も精神的に落ち込んでいる。

多くの人が吹っ切れない思いを残している、腑に落ちない、釈然としない思いである。これほどに取材された側が嫌な思いを持つというのはあまりないように思う。取材する側とされる側の関係性がよくない。取材方法への疑念が湧いてくる。

わたしは早々に取材拒否を通告した。そのことから一切の連絡はしていない。ただノンフィクションの物語データー、立川裕子さんの複写した手紙、鉛筆部隊の手持ちの写真複写については危惧をしている。行きがかり上、これらは手渡した。今回の新聞取材で使ったことに対して、どうこうは言はない。が、今後はこれらを使って欲しくはない。

今後の取材協力はしない。が、協力しようと思わないのに、資料が恣意的に別の機会に使われる恐れがある。そうなった場合、今書いているまとめているノンフィクションのオリジナリティまでもが台無しになることもある。
事実、作品の一つのキーともなる遺書が今回の記事に使われている。経緯、経過があって、ようやっと手に入れたものでもある。それを知りながら、経緯などは省いて、記者が当人に会って手に入れ、それを記事に書いている。使ってはいけないというものではないが、フェアーではない。

これらのことから、わたしは当方が提供した資料の返還請求を葉書に書いて今日出した。社の収蔵資料として預けた覚えはない。続きを読む

2011年08月20日

下北沢X新聞(1896)〜たわごと的荏原都市論4〜

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(一)
お盆に墓参したときに多磨霊園を歩いた。蝉時雨が墓石に滲みて一層寂しく聞こえた。うち捨てられた墓、祈る人もいなくなった墓、とくには墓石に刻まれた階位は虚しい。彫られた名誉も苔むしてしまうとただの穴ぼこだ。新しく造った墓も時が経ってたちまち古くなってくる。

霊園のシンボル噴水塔へ行った。陸軍調布飛行場の特攻兵がここで記念写真を撮っている。この一帯の樹木は、掩体壕の代わりをした。戦闘機が隠されもした。

塔の脇には、東郷平八郎元帥・海軍大将、山本五十六元帥・海軍大将の墓が並んでいる。大正12年(1923)に開園したが、東京市街から遠いということで希望者は少なかった。が、東郷平八郎が埋葬されたことからこの墓地の名が知られて利用者が大幅に増えたという。

この霊園、昭和史を創った人たちが眠って居る。前半は、戦争だ。後半は、経済戦争だった。都市壊滅から都市再生、そういう時代を生きた人の墓だ。「50万の御霊が眠る多磨霊園の美化キャンペーン」の横断幕が見えた。

霊園前の石材屋さんの休憩所も人がまばらだった。この墓地もほぼ満杯だ。あらかた墓を建て終わると石屋さんも暇になる。墓地はぼちぼち、また新しい墓地へと移転していくという、年月との果てのない競争だ。
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2011年08月18日

下北沢X新聞(1895)〜2011波乱ぶくみの「鉛筆部隊」2〜

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(一)
六十六年経っても、「鉛筆部隊」は話が熱い。昨晩も、立て続けにこの件での電話があって長電話となった。後で掛かってきたのは物語が起こったところに住んでいる人、かつての「千代の湯」旅館の元女将さんだった。

田中幸子さんが記事を送ったことから、それを読んでの感想である。「夜分遅くに」と言っていたが、本当に遅かった。よほどわだかまるものがあったのだろうと思う。鉛筆部隊、それとこれに関わってくる特攻隊については、いまもなお、人々が深い思いを残している。心の襞にしまってある大事な思い出だ。辛い疎開生活の間に起こったふれ合い、思い心は恋心、その部分だけを晒されると嫌な思いがしてくるのは自然だろう。

鉛筆部隊の話、この本質を見極めるのは難しい。はっきりと言えることは、書く側が持ちがちな常識的戦争観ではまとめられないということだ。上っ面だけで書くと、馬脚がもろに出てしまう。

元鉛筆部隊の人が自分が言っていないことを記事では書かれたと言っている。取材を受けた二人ともそうだったようだ。田中幸子さんは眠れない日々が続いた。とうとう意を決して社に抗議文を送った。記事訂正を求めたという。特攻兵への思いを今なお熱く持ち続けているからだ。

(二)
「特攻」とは何だったのか。大きな問題である。考え続けなくてはいけないものだ。日本の国家の有り様、歴史、文化に関わってくる課題だ。これを産み出した風土、土壌がこのわれらの社会にある。今もその大本は消えていない、閉鎖性である。随所にはびこっているムラ社会である。続きを読む

2011年08月17日

下北沢X新聞(1894)〜2011波乱ぶくみの「鉛筆部隊」〜

P1010218

鉛筆部隊とは何か?。

年端もいかないために武器を持って戦うことはできない。それで、鉛筆を持って、握って懸命に戦った学童部隊がいた。鉛筆で字をひたすらに書いて、自分の親や知り合いを勇気づけたり、励ましたりした。時に慰問状として兵隊たちにも手紙を書いた。

代沢国民学校の国語の教師柳内達雄先生が、自分が引率した疎開学童につけた名前だ。戦時中、浅間温泉「千代の湯」旅館に疎開していた学童である。


(一)

鉛筆部隊の話は波乱含みである。このところずっと元鉛筆部隊の人から電話が掛かってくる。六十六年目の夏に、この部隊、社会に発信されて話題にはなった。が、その真意が巧く伝えられていないのではないか?。釈然としないという。今朝も電話が鳴った、「鉛筆部隊」は「言論部隊」でもあった。批評が鋭い。どしどし鉛筆を使って築いた作文力は、話力に結び付いている。その力はいまもなお衰えてはいない。

昭和二十年の二月浅間温泉の学童疎開先、千代の湯旅館に忽然と若い特攻隊員六人が現れた。この引率は柳内達雄先生、彼は受け持った疎開学童たちを「鉛筆部隊」と名づけていた。その小さい兵隊と本物の兵隊は、彼らが出撃するまでの一時、共に生活をした。

六十六年後になって新たな事実を知った。田中幸子さんが武剋隊の今野勝郎軍曹の実家をこの七月に訪れた。二回目である。このときに手紙資料を手に入れて来て、わたしに送ってくれた。

その一通は、「浅間温泉梅之湯旅館」から「宮城県加賀美郡小野田町」の実家に出されている。昭和二十年三月に出されたものだ。日付が薄くて判別できないが、「六日」のようである、「二日」とも読める。

武剋隊の六名の特攻兵は、最初から千代の湯にいたわけではないということだ。学童と兵士との交流はもっと短かったように思える。
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2011年08月15日

下北沢X新聞(1893)〜「鳴き殺し」戦争論〜

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(一)
日本は神国だ。神風が吹かぬはずはない、日本が負けるはずはない、必ず勝つ、等と胸の底で思っている国民の姿は、横着に見えて私には不愉快だった。

下北沢「静泉閣」二号館は小田急下北沢2号と3号踏切の南手の窪地にあった。ここに居住して「日本空襲記」(文和書房)を書いたのは一色次郎だ。これは昭和二十年二月二日の記述にある。

敗色が濃くなった中で人々は、神風が吹くと信じていた。どうにもならないのに気分だけの期待は持っていた。根拠のないものだけに一色次郎は不快だったのだろう。

「データーに基づかないで期待に基づいて判断してしまうということがありますね」
福島第一原発に使用されている機種「マーク1」の検証番組、ETV特集「アメリカから見た福島原発事故」の中で日本人科学者が言っていた言葉だ。この機種は格納容器が小さすぎるという構造上の欠点が早くから指摘されていたということを番組では紹介していた。このような調査報道には視聴料を払ってもいい、見応えのある番組だった。

一色次郎が言ったことと、番組内の科学者の批評は共通する。根拠に基づかないで漠然と期待だけはするという点だ。ところがその期待は裏切られた。負けるはずのない戦争に負けた、起こるはずのない原発事故が起こった。常々雰囲気に染まっていく国民性というのはある。

四面海に囲まれたこの国は、もともと第三者を想定しにくい、客観性観点への想像が希薄である。気に染まるという国民性がある。気づくときも感覚的である。続きを読む

2011年08月14日

下北沢X新聞(1892)〜品鶴線切り通し写真の考察3〜

P1020182
切り通し文学論

(一)
武蔵野は、植生と地形に固有性がある。田山花袋はその眺望を「武蔵野に特有な林を持った低い丘がそれからそれへと続いて眺められた。」(「東京の三十年」)と記している。そのうち続く丘陵が都市が膨脹するに連れ切り崩された。切通しだ。

切通しについての面白いエピソードを内藤鳴雪は、「鳴雪自叙伝」(岩波文庫)に残している。子どもの頃の記憶である。

その頃は、今の芝の公園と愛宕の山との界の所を『切通し』といった。ここは昼の見世物や飲食店が出て、夕方には一面に夜鷹の小屋が立って、各藩邸の下部などが遊びに出かけて、随分宵のうちは賑ったが、これが仕舞うと非常に寂しくなった。その時分になると、ここで辻斬がよくあった。『切通し』という名は勿論山を切って道を通したという意であるが、私は子供心にしょっちゅう人を切るから、『切り通し』だということと思っていた。

幕末の頃の話だ。山を切って道を通したところは寂しい、待ち伏せて人を切るには都合がいい。
「なんとかという辻斬りが、あそこのところで一晩中人を切り通したというぜ!」
ずっと人を斬り通す場、子ども心に何か秘密めかしたことが行われるところだと思っていた。

幕末から明治へ、開国維新によって交通革命が起こる。荷馬車などが通る切通しの道には、鉄道が通るようになる。ところがこの機械は坂には弱い。線路を通すにはもっと深く掘り下げなくてはならない。八ッ山から御殿山間の切り通しはぼっくりと掘られた。ここの権現山に住んでいた狸は、巣穴を荒らされた仕返しをした。機関車に化けて向こうから来る本物に体当たりを喰らわせた。あっけなく往生してしまった。切通しには、何かしらの逸話がある。続きを読む

2011年08月13日

下北沢X新聞(1891)〜品鶴線切り通し写真の考察2〜

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切り通し文学論

(一)
台地を切り取る、切り通しは、眺望も切り開く。その果てには陽炎が揺らぎ立った。そこになにかしらのときめき、そして、そこはかとないさびしさが生まれもした。

昭和初年代、馬込に敷設されつつある品鶴線の切り通しには、時代の息吹があった。真ん中にはレールがあって、どこまでも延びている。風景は詩情を醸し出した。

北原白秋は、エッセイ「緑ヶ丘風景」の中で、「異人の女の子が切り通しのレエルに添つて駈けて来る。」と描いている。谷の緑、抉られた赭土、まっすぐに延びたレエル、そして異人の女の子、巡り来つつある新しい時代の予感である。続いて、「青、赤、緑、黄、紫、......花壇だ。露台だ、ペンキの柵だ。」とある。切り通しが色彩で溢れている。

この「切り通し」を北原白秋は色彩豊かに文字で描き、萩原朔太郎は単色写真で撮った。ほとんど同じ風景である。当時の、感覚では、「近代風景」とされたものだ。

工事中の切り通しがある。レエルがある。セメントの橋台がある。赤い鉄橋の材料が投げ出されてある。それから粗末な仮橋がある。この切り通しの遙かの上と下とにまた幾つかの仮橋が見える。欅の新緑が湧き立つて光る。
まるで油絵風である。 「緑ヶ丘風景」 白秋全集22巻「きょろろ鶯」より


この文章の初出は、「近代風景」昭和二年六月号だという。この時点での切り通しの様相だ。朔太郎写真の方が新しい。恐らく写真は、推測するに、翌年、昭和三年の夏に撮られたものだろうと思われる。

実際の土地を渉猟し、また、資料などに当たっていくうちに面白いことに気づいた。一つは、北原白秋と萩原朔太郎は、品鶴線の同じ切り通しを描き、撮っていることだ。そしてまたもう一つ、この風景を互いが反対方向から見ていることである。

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2011年08月11日

下北沢X新聞(1890)〜毎日新聞記事「鉛筆部隊」を批評する〜

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(一)
「今日の夕刊、使っていいでしょう?」
一昨日のことだ、連れ合いがわたしに聞いた。天ぷらを揚げて、油の吸い取り紙としたいという。新聞も落ちぶれたものだ。まっさらのそれが廃油処理に使われる。

購読している朝日も読まなくなった。用をなさないので用を足そうとすると、せいぜい廃油処理である。ジャーナリズムの衰えを象徴しているように思う。新聞の価値が下がった。

1999年8月5日、読売新聞夕刊に、自分のことが三面トップ記事になった。広島を舞台とした童話を書いていて、それを広島の支局から取材に来た。記者は、広島で載ると言っていたが、全国紙に掲載されていた。仰天してしまった。問い合わせや取材申し込みがあっててんてこ舞いをしたことがある。

「鉛筆部隊」を中心主題とした、「毎日新聞」の三回にわたる記事の掲載が昨日で終了した。なんの反応もなく静かである。ただ取材を受けた鉛筆部隊の二人からは電話があった。ともにわたしが書いた物語を利用しただけのものではないのか?。腑に落ちないとの意見である。わたしに既に話したものを記者に答えたものだと言っていた。わたしに申し訳ないことをしたという彼女たちからの謝りの電話である。

(二)
このシリーズは署名入りの記事だ。毎日新聞、木村葉子記者だ。彼女には、当初は、協力していたが、次第に記者の取材姿勢に疑問を持つようになった。一番の問題は、彼女が書く記事のオリジナリティに対する疑問だ。

先蹤調査を大事にする、取材のイロハである。きちんと取材するなら協力すると伝え、それを肯ったので当方の資料のすべて記者に渡した。一つは、立川裕子さんの手紙資料、もう一つは、代沢小、大原小、駒繋小の疎開学童からの聞き取り、そして、武剋隊、武揚隊の特攻関係の調査の全貌を記した自身の作品、これについては、彼女は読んでいる。その感想を、「お原稿、読ませていただきました。不思議な不思議な見えない糸が、やはりどこかでつながり導いているような思いがいたしました。私も導かれた一人かもしれませんが......。」と記している。その上での取材だ。

ところが初回の記事からは、自身の調べの後追いである。鳴瀬さん、松本さんの談話は既にこちらが聞いていることだ。人と人との気脈の流れの中でそれらは証言として聞き取り得たものだ。先蹤の調査を軽んじていると、ないがしろにしてりるとわたしは思った。

彼女とは、打ち合わせで、三回は会っていた。最後は自分への取材があるのだろうと思っていた。が、それはなく電話での記事確認、読み上げが来るようになった。わたしは、この文脈がうまく読み取れなかった。この記者何言っているのだろうと思った。わたしは、彼女に「ノンフィクションをなぞっているだけではないかと言い、もう取材協力はしない」と拒否の通告した。すると、彼女から手紙がきた。

お伝えした企画タイトルが、きむらさんが「子どものための感動ノンフィクション大賞」で優秀作品に選ばれた「鉛筆部隊の子どもたち〜書いて、歌って、戦った」と重なっておりました。こちらの確認不足で大変失礼しました。タイトルは「鉛筆部隊 疎開の記憶 今も」にしました。また、記事中でも、きむらさんが疎開について書かれた作品が優秀作品に選ばれたことも書き添えました。

認識不足以前の問題のように思われる。記事を書くことの意味がこの人には分かっていないのではないだろうかと思った。「特攻の記事なんか書けるのかしら」とも田中さんが言っていた。松本浅間の特攻隊、この経緯は長い時間をかけて、ようやっと呑み込めたほどだ。続きを読む

2011年08月10日

下北沢X新聞(1889)〜品鶴線切り通し写真の考察〜

P1020184
(一)
品鶴線は、日陰の路線だ。東海道本線の迂回線、貨物列車専用線であった。
『これはもともと、地図に載らない路線だったんだよ』
ネットワーク仲間から品鶴線情報が寄せられた。彼は「レィルウェイライフ」というブログを記している。ここに馬込のおばあさんが語る昔話は貴重だ。民俗学的、社会学的な観点からも興味深い。その一つがこの証言だ。戦時中の地図には事実、この線は載っていない。軍の機密情報だった。

横浜の方の子供たちが、その修学旅行列車で、川崎や蒲田と言った「ゆかり」のある地を通らず都内に入って行ってしまったのだとおばあさんは言っていた。東海道本線という正当な経路を通らずに東京へ行ったのだということが言いたかったのだろうか。

品鶴線の存在を語るエピソードだ。表街道東海道本線を通って東京に入る。人生体験で重要だ。ところが、横浜方面の子どもは、修学旅行専用の車輌で日光方面に行っていたようだ。また、いわゆる修学旅行専用列車、「ひので」や「きぼう」もこの線を通っていた。後者は、関西地区の修学旅行生を乗せた列車だ。裏街道から彼らは首都へ入っていった。

馬込緑ヶ丘に住んだ北原白秋は、九州から上京したときの車窓風景を「新橋」というエッセイに描いている。

その当時、私の乗つて居た汽車が横浜近くに来る頃から私の神経は阿片(オピウム)に点火して激しい快楽を待つて居る時の不安と憧憬とを覚えはじめた。都会が有する魔睡剤は煤烟である、コルタアである、石油である、瓦斯である...
「白秋全集 第35巻」岩波書店


川崎、蒲田、品川を通って東京に入る。言わば、景色の通過儀礼だ。煙突の煙、窓から入って来る強烈な臭い。そして、最後にはめくるめく灯り、煌びやかな建物、それらを車窓に拾って中央駅に到着する。そのプロセスなしに入ることへの批判をおばあさんは言っているのだろう。この視点、観点は、誰も語ることがない。街中の一おばあさんは重要な歴史証言をしている。続きを読む

2011年08月09日

下北沢X新聞(1888)〜世田谷代田応援歌、「ダイダラボッチ音頭」〜

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(一)
人間と歴史、人間と言語、この関係の本質は虚構である。仮に創っておいて、それを礎にして、表象をつぎつぎに産み出してきて今日がある。言語と歴史は表裏一体のものである。仮のものにとりあえず安住して過ごしているに過ぎない。

東京世田谷代田には「ダイダラボッチ」伝説がある。一地方の、一伝説に過ぎないものである。が、多くの学者がこれに深い関心を寄せている。一人は民族学者の柳田国男である。彼は「到底その旧跡に対しては冷淡ではあり得なかった」(「ダイダラ坊の足跡」)ことから、世田谷代田の巨人の足跡、「ダイダラボッチ」を訪れ、それが「右片足」だったことを発見する。右があれば、左もある。当然成り立つ推理だ。

世田谷には他に駒沢にもこの伝説があったことから彼はそこも踏査した。ところが「足の向いた方が一致しない」。それでかれは、「我々の前住者は、大昔かつて都の空を、南北東西に一またぎにまたいで、歩み去つた巨人のあることを想像してゐたのである」と考えた。この発見から彼はこの論考「ダイダラ坊の足跡」の冒頭の見出しを「巨人来往の衝」とした。東京荏原上空を、とんでもないほど大きな巨人がまたいで行って、足跡をつけたという驚きだ。この伝説、隣の目黒区谷畑、大岡山擂鉢山、大田区狢窪、洗足池にもある。

代田橋を架けたのは、ダイダラボッチだという伝説がある。たかだか十メートルぐらいの、しかも江戸時代に架けられたものだ。民俗学者は「巨人の偉業として甚だ振るはぬものだ」と一蹴している。そうわれらの歴史もいささか浅くなる。大和朝廷から始まる日本の歴史がちゃちに見えるほど長く遠い時間がこの背景にはある。

いつ頃の話なのか、これを示唆するのが足跡のある場所の遺蹟だ。名は「東大原」で縄文中期の包蔵地となっている。4,5千年前から人が居住していた場である。ダイダラボッチは、北方民族からの渡来言語だといわれる。ツングース系の人々がマンモスを追って南下し、この一帯にその祖先が住み着き、以来営々と口承伝承を通してこの語が受け継がれてきた。有史以前の文化と結びつく遙かなロマンだ。

「世田谷代田駅は、こんど地下に潜ってしまって地表には何も残らなくなりますね。その跡に、ダイダラボッチボッチのモニュメントを作るべきですよ。代田は、ダイダラボッチの始祖、柳田国男が言うところの『東京市は巨人伝説一箇の中心地』です。日本の歴史を遥かに凌駕する、とんでもない伝説なんですよ」
わたしは、納涼会に参加していた地元の金子美和子さんに言った。環七ができて街は分断され寂れた。今度は地表駅がなくなる。
「このままでは世田谷代田はのっぺらぼうの町になりますよ!」
わたしは、地域に訴えたい。
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2011年08月07日

下北沢X新聞(1887)〜辺境に宿る真実と納涼会〜

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(一)
都鄙のはざまに物語が渦を巻いている。場としての辺境、人としてのひたむきさ、性質としての多様性、ここにこそ真実が宿る。したたかな手合いが集まって食って、飲んで、語って、歌った。唄は、「ダイダラボッチ音頭」である。

昨晩、「北沢川文化遺産保存の会」の納涼会を下北沢タウンホールで開催した。

「下馬の韓国会館の野砲兵の兵舎、あんな貴重な建物文化財はありませんよ。生きているものが建物を保存するという努力をしなくてはいけませんね」
旧軍兵舎の解体のことが話題になった。参加された別宮さんが行政の担当窓口に事実を伝えたとの話があった。

「萩原朔太郎の馬込切り通しの撮影場所の発見は、大きな価値がありますね。これには詩人の鉄道観が写真に滲み出ています。」
われらこれの価値を知っているものがみな興奮気味に話をした。これには三人の幼女が写っている。二人は詩人の娘だ。川口信さんがもう一人の素性が分かる資料があるという。

『戦争遺跡巡りの時歴を辿ってみると今までこんなに沢山行っていたんだ』
天羽大器さんが、会の冒頭でこれまでに訪ねていったところを子細に調べて発表した。それを聞いて思ったことだ。

「井の頭線池の上2号踏切脇の馬頭観音は月村さんが京王電鉄から土地をわざわざ買ってあれを残しているんですよ」
きむらたかしさんの話だ。
小田急線下北沢2号踏切脇の「踏切地蔵」のことが話題になった。つい最近、わたしのところに不動産会社から問い合わせがあった。話の筋からするとどうもあの地所を潰してしまうような気配が感じられた。

ネット検索でブログの記事が引っ掛かるようで、見知らぬ人から思わぬ質問を受けることがある。実質的に資料館として機能している。niftyで検索すると、その項目の代表例が出てくる。驚くほど多岐にわたる。続きを読む

2011年08月06日

下北沢X新聞(1886)〜2011年広島原爆忌,核からの決別を〜

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核から決別し、原子力発電からも撤退を
きむらけん
(一)
ヒロシマが今年、66年目を迎えた。考えられないことだが、今年、従来の被爆地ヒロシマ、ナガサキに、新たにフクシマが加わった。いわゆる3、11の東北大震災をきっかけに起こった福島第一原子力発電所の過酷事故による放射能被爆である。真相は次第に分かってきた。原子炉のメルトダウンからメルトスルー、これを知って慄然とした。この事故はいまだに続いている。収束の目処は立っていない。今後の放射能汚染は予測できない。地下水に混ざって、やがて海まで汚染される可能性もある。

原爆はむごい。1999年の夏、当時広島電鉄の代表取締役、副社長をされていた石田彰さんから話を聴いた。
「原爆のことは、いくら話をしても再現はできないのですよ。あのときのことは、絵にして描き表すこともできない、文章に書き表すこともできない、まして、口で話すこともできない......」
人間は、言葉という記号を交換して生きている。ところが原爆はこれが通じない。原爆被害の凄まじさは記号などで言い表せない。これを遥かに超えているからだ。言葉が役に立たないほど酷いものだ。

今回のフクシマは新しい事態である。被害が目に見えないからである。信じられない恐怖である。

「原発被害のことは、いくら話しをしても説明ができないのですよ。もとのままの風景があるんですよ。山があって、畑があって、田があって何にも変わらないのですよ。ところが測定器で調べると高濃度に放射能で汚染されているっていうんですよ。それが目にみえないんですよ。稲も植えられない、煙草もだめだし、牛も飼えない。こんなことってありますか......」
高濃度の放射能汚染で避難を余儀なくされた村人の思いを石田さん流に言うとこうなろう。放射能汚染で避難するなど全く考えもしなかったことが、現実に起きてしまった。多くの避難民は今も先の見えない避難生活を続けている。続きを読む

2011年08月04日

下北沢X新聞(1885)〜2011夏品鶴線馬込切り通し再探訪〜

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(一)
萩原朔太郎が撮ったステレオ写真の一枚に、品鶴線馬込切り通しがある。撮影場所はどこなのか関心を持っていた。その有力情報を寄せてきたのはきむらたかし氏である。そこをこれまでに二回フィールドワークした。その結果、彼が指摘した箇所にほぼ間違いないようである。現在の横須賀線「やくしこせんじんどうきょう」(薬師跨線人道橋)のところだ。

地元の多くの人から話を聞いた。心当たりのある数名から「あそこだろうね」という証言を得ていた。ところが、今はかつてとは様相がすっかり変わった。上を新幹線の高架が走っている。証言した人は地形的雰囲気、おぼろげな記憶から見当をつけて推量的に判断していた。自分でもここに違いなかろうと思うが、確信するまでの決め手に欠いていた。

昨日、家を出た。前は呑川跡の緑道だ。これを下流へと辿ると目黒通りにぶつかる。このとき自身には迷いがあった。真っ直ぐ行って呑川を下るのが一つ。左へ行って目黒通りをひたすら辿るのが一つ。「えびす長者丸線」跡の探訪だ。ブレーキハンドル式の単行が戦後も走っていた。それに乗った覚えがあるという証言を確かめるためだ。

真っ直ぐか、左に曲がるか。その迷いを吹っ切らせたのは信号だ。この目黒通りは赤ではだいぶ待たされる。信号に着いたとたん青になった。南下のゴーサインだった。

まず、東急、東横線、つぎに目黒線・大井町線、そして、池上線の下を潜る。このとき異変に気づいた。「土手は街に残されたわずかな自然」と石垣りんが言っていた石川台駅わきの築堤が突き崩されつつあった。小田急線、井の頭線、そして今度は池上線、築堤高架はどこもここも崩される。詩人が指摘する都会に残ったわずかな緑が人知れず無くなりつつある。
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2011年08月03日

下北沢X新聞(1884)〜たわごと的荏原都市論3〜

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(一)
武蔵野風景と地形とが「謀反論」を考え出す論拠となっているのが素晴しい。つまり、世田谷の一隅には仇敵同士が谷一つを隔てて眠りに就いている。徳治郎は約七百七十メートルほどの、その至近距離を論の切っ先に据えている。歩行論的観点でもある。

「蘆花記念館」にはパンフレットが何枚も置いてあった。そのうちの「謀反論」と記されたものを手に入れた。

蘆花と大逆事件
「大逆事件」は、1920(明治43)年明治天皇の暗殺を計画したという口実で、幸徳秋水らの社会主義者12名が処刑された事件。蘆花は処刑阻止に向け、時の首相桂太郎への嘆願書、天皇への公開直訴状を新聞掲載依頼したが、時すでに遅く処刑の執行を終えていた。そんな失意の折、旧制・第一高等学校(現東京大学)での講演依頼があり、政府の処置を敢然と批判する「謀反論」の名演説となった。


この「謀反論草稿」の冒頭の切り口が面白い。

僕は武蔵野の片隅に住んでいる。東京へ出るたびに、青山方角へ往くとすれば、必ず世田谷を通る。僕の家から約一里程行くと、街道の南手に赤松のばらばらと生えたところが見える。これは豪徳寺――井伊掃部[頭]直弼の墓で名高い寺である。豪徳寺から少し行くと、谷の向うに杉や松の茂った丘が見える。吉田松陰の墓および松陰神社はその丘の上にある。

彼は千歳村粕屋から東京へ折々上京していた。渋谷青山へ行く道はよく使っていた。古道滝坂道である。尾根上をゆく道だ。途中大谿山豪徳寺の北を通る。この一帯の植生は赤松だ。境内にはそれがまばらに生えていたのだろう。

寺を見ながら行くと、道は鍵形に折れる。豪徳寺はかつての世田谷城だ。攻めてくる軍勢の気勢をそぐためのものだと思われる。一旦折れて、また折れる、この辺りからもう一つ向こうの谷が見えてくる。烏山川が抉った谷だ。やや急峻ながけの上は長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の別邸だった。それで大夫山と言われた。松陰の墓がある。

蘆花は、雁行する古道滝坂道を辿りながら過ぎた時間、歴史に思いを馳せた。
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2011年08月02日

SHIMOKITA VOCE 2011

2011年08月01日

下北沢X新聞(1883)〜「北沢川文化遺産保存の会」会報第61号〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第61号 WEB版
2011年8月1日発行(毎月一回発行)

会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
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1、ダイダラボッチ〜遙かなる言葉の歴史〜

(一)
ダイダラボッチという言葉には、不思議で特殊な響きがある。ここにこそ深い秘密が隠されている。気が遠くなるほどの遙か昔、有史以前に生まれた語である。

これに並々ならぬ関心と興味とを寄せていたのが民俗学者の柳田国男である。「ダイダラ坊の足跡」という論考で、こう述べている。

兎に角こんなをかしな名称と足跡とがなかったならば、如何に誠実に古人の信じてゐた物語でも、さう永くは我々のあひだに、留まってゐなかった筈である。

民俗学者は、ダイダラボッチというものを単なる伝説とは捉えてはいない。実体のあるものと考え、この語が持つリアリティを述べている。一つは、この名称のおかしさ、奇妙さである。もう一つは、ダイダラボッチと称される足跡の現実性だ。これはつい近年まで残っていた。

その具体的な場は世田谷代田である。彼はそこを実際に訪れて、大きさや形状を記している。かつては湧水池があってその真ん中に弁財天が祀られていた。ところが、それは笹塚の櫻護謨から出た石炭がらで埋められてしまって、今は跡形もない。

言語学者の中島利一郎も世田谷代田の語源となったダイダラボッチの跡について深い興味を持っていた。「武蔵野の地名」の中で彼はこう述べている。

世田ヶ谷の代田にはダイダラボッチの足跡という大きな窪地のあったのを、鈴木氏から現地で教えられた記憶がある。今は、前の地点がどこであったか、まったく見当がつかない。後人のためには、それが今日の代田何丁目何番地であるかを明記しておく必要がある。

彼は、その場所が分からなくなることを怖れた。が、幸いなことにわたしら「北沢川文化遺産保存の会」が、この場所を古老から聞き出し、その場所が特定できていることだ。この世田谷代田という地名のもとになった、ダイダラボッチ伝説は後の世に伝えていく必要がある。その跡は遺蹟番号「73」、東大原遺蹟で、縄文時代中期の遺蹟包蔵地ともなっている。足跡と遺蹟とが符合する、歴史的にも民俗学的にも貴重な場所である。

(二)
ダイダラボッチ、七文字からなる一続きのこの言葉だ。最初から「ダ」と濁る。「濁音初発のことば」は、日本語にはない、よって異民族語だと述べたのは中島利一郎である。ツングース系のオロッコ語で、「Dai-nara-hadu 巨人の穴居」だとした。

ツングースはシベリア東部、沿海州地方である。日本列島北方に住む民族の言葉である。彼等の言語がなぜ日本に渡来し、それが地名として残っているのか、不思議である。日本民族の源流にまで遡る話で興味深いものだ。

氷河期は海面が浅く北海道と大陸とは地続きであった。北方民族がマンモスなどの獲物を追って南下し日本に定住した。彼等のミトコンドリアDNA分析では、「N9b」が顕著に見られるという。この遺伝子は、北海道縄文人では、65パーセント、東北縄文人では、60パーセント、関東縄文人では10パーセントが含まれているという。北方渡来というのは科学的にも説明できるものだ。「わたしたちはどこから来たのか」(NHKBS)

北方からやってきた民族が、日本に住み着き、その彼等が使っていた言語がわれらの中に紛れ込んで使われている。が、それは単に言葉が残っただけではないその意味もひとまとまりになって今日に及んでいる。驚くべきことである。

一つの言葉が伝承され、伝播されるには理由がなくてはならない。大事なことは、ダイダラボッチという文字が残ったのではなく、ダイダラボッチという音が残っていることだ。縄文時代からだとすると三、四千年はある。それがずっと口承で伝えられてきたということである。そこには内燃的なエネルギーがなくてはならない。柳田国男は如上の論でこのように述べている。

伝説は昔話を信じたいと思ふ人々の、特殊なら注意の産物であつた。即ち岩や草原に残る足形の如きものを根拠としなければ、これを我村ばかりの歴史のために、保留することが出来なかつた故に、殊にさういう現象を大事にしたのである。

くっきりとした足形、足跡が存在した。他ではみることのできないものだった。それで代田の人々は、ずっとこれを伝えてきた。そういう精神的な面もある一方、実利的な面もあったように思う。その箇所はちょうど丘裾のハケに当たる。乏水的地域であったゆえにその水を代々大事にしてきた。池の真ん中に弁財天を祀っていたことでもそれは分かる。

(三)
地域に生きた民族は、地域で得た智恵を後代に遺すために工夫をしてきた。同じ北方民族でいえばアイヌのユーカリがある。独特の節をつけて歌う。例えば、「ハンチビィーヤク、チビーヤク」というのは繰り返し文句といわれるものsakeheの一つのようだ。
オロッコが同じように神謡を持っていたとしても不思議ではない。もしかしたら、「ダイダラボッチ」は、折り節として使われていたかもしれない。

人間の遺伝子に奇妙に共鳴する音なのかもしれない。自身で余興と思って、「ダイダラボッチ音頭」を創ってみた。至って単純である。これを度々、折り節として使って、何かしら意味のある言葉を入れただけのものである。

たまたま三歳に満たない子どもに聞かせたところ、驚いたことに、この「ダイダラボッチ」という音節をたちまちに覚えてしまった。

北方民族オロッコ人が、後世に伝わるようにと苦心して創った響きなのではないか。三四千年前に遡る逸話を、この例を通して思い浮かべたことである。

言葉の響きが今に生きて今日に存在する。そればかりかダイダラボッチの右片足が、街並形成に影響を与えている。下北沢一番街の斜めに走る道は、これを避けたことからできたものだ。

これらのことを思うと、「東京府は我が日本の巨人伝説の一箇の中心地」という柳田国男の言葉がにわかに現実味を帯びてくる。過去のいつかに彼の巨人は、足跡をつけて立ち去った。近傍の駒沢にもそれはあった。そのことから民族学者は「巨人来往の衝」と言い、一帯を行き来していたダイダラ坊を想像した。ズシシン、ドシシンと大きな足音が響いていたと考えると心が躍ってくる。

「ダイダラボッチ音頭」で、踊ろう!。ダイダラボッチ、ダイダラボッチ、ダイ、ダイ、ダイ、ダイ...

2、地域図書館との連携

今春、代田図書館主催の「下北沢・代田文士町」にまつわる講演と文学散歩を行った。これをきっかけに図書館では、わたしたちの要望に基づき、「北沢川文化遺産保存の会」会報の毎号を資料としてファイルしはじめた。また、地域と文学の広報に力を注ぐようになって、萩原朔太郎、坂口安吾などをネットで紹介している。代田、北沢、代沢の文化を図書館が紹介する。地域図書館の機能は本質的にはここにあるように思う。「下北沢文士町文化地図」を500部寄贈するなどして協力している。今後ともこれを続けていきたい。

3、夏休み自由研究のサポート

夏休みに入った。児童生徒は学校で出された自由研究に取り組んでいる。これを一つの機会と捉えて地域を知りたいという場合もあるだろう。たまたま「東京荏原都市物語資料館」の検索で当会のことを知った親子が事務局「邪宗門」を訪れた。

小学校三年生のその児童には「ダイダラボッチ」は地域に密着している面白い話だから調べるといいとアドバイスをした。子どもが土地のことを知れば、世界が広くなる。子どもにとっても大事なことだ。

夏休みの自由研究に取り組む場合、当会としては協力したい。事務局に行って「下北沢文士町文化地図」をもらい店の人に地域のことを聞く。もっと深く知りたい場合には、当方にメールをしてほしい。協力したい。


4、定例会:歩く会について

都市物語を旅する会
「北沢川文化遺産保存の会」は毎月テーマを決めて下北沢周辺及び荏原の文化探査をしている。毎月、第3土曜日の午後1時に集まっている。集合地点はそのつど変わる。基本的には少人数で10数名ぐらいというものである。それぞれが歩く会に参加して楽しむというものだ。最後は世田谷「邪宗門」か、他の場所の喫茶店で、お茶を飲みながら歓談している。参加費は部内講師の場合は、100円、依頼講師の場合は、300円、特別催行行事の場合は、500円とする。なお、保険には加入していない。いつも互いに注意しあって歩くことにしている。が、事故のないよう各自で責任を持ってほしい。
この会は参加の義務はない。ふらりと参加して、歩き、そして、歓談して終わりだ。またいつかテーマで面白いなと思った時に参加する。個々人が歩いて文化を発見し楽しむというのがねらいである。歩きは文化だ、健康保持の上でもベストなものだと考える。

・第64回 9月17日(土)午後一時 下北沢駅北口
下北沢の詩人痕跡を歩く 第二書房旧居見学が新たに加わる。
萩原朔太郎、渡辺順三、清水乙女、福田正夫、中村草田男、堀内通孝、三好達治など
三、四キロほど歩きます。 参加費100円


・第65回 10月8日(土)午後一時 成城学園駅改札口
成城、砧、祖師谷大蔵の北原白秋を歩く
白秋旧居跡を二箇所めぐります。萩原朔太郎邸そっくりのT邸を見学します。
・第66回 10月15日(土)午後一時 大井町駅 東急大井町駅改札前
大井大森の萩原朔太郎 蛇窪踏切跡、大井三ツ又商店街、稲毛道標、伊藤公墓所、太郎旧居、馬込緑ヶ丘(北原白秋旧居)、馬込切り通し撮影場所(朔太郎)、馬込小、萩原朔太郎旧居、大森駅

・第67回 11月19日(土)午後一時 池上線 長原駅改札前
荏原のダイダラボッチ
「蛇窪の踏切」小池、大池、狢窪、東工大、擂鉢山
・第68回 12月17日(土)午後一時 代田橋駅前北口
代田半島地形学入門 昨年、好評だったことから第二回を実施する
にじゅうまる申し込み方法、参加希望について
参加申し込みについて(必ず参加連絡をお願いします)
電話の場合、米澤邦頼 090−3501−7278
メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com

しかく 編集後記
さんかく毎月の歩く会については広報を行っている。が、人に伝えるという点ではまだ充分ではない。そのことから定例会(第三土曜)については広報「せたがや」に掲載依頼をしてみようと思った。が、出してみたところ、年一団体2回までだとのことだ。区教委の後援があればそれには引っ掛からないとのこと。なので区教委の後援申請をして、十月からのものを掲載依頼してみようと思う。
さんかく「下北沢文士町」文学散歩、少人数での依頼があれば受けたい。二時間程度の案内ができる。地図を参加者に配布できる。ボランティアでの案内である。いつでもという訳にはいかないが、申し込みがあれば対応していきたい。その場合には、メールでの連絡をしてほしい。
さんかく先だって「歩く会」で、青山墓地巡りを行った。そのときに、原さんが参加された。わかってみると灯台下暗しだ。彼は、東京中の墓地の掃苔を行っている人だった。墓地巡りの達人であった。墓地には,墓地固有の、墓地文化がある。できた年代によってその墓地の様相や雰囲気が異なってくる。参加する数が少なくてもぼちぼち墓地見学を行っていこうよ。ということになって、今年は、漱石や鏡花が眠っている雑司ヶ谷墓地に行くことにした。これは十一月第二週の土曜日行うことにした。
さんかく「納涼会」で発表するが、「ダイダラボッチ音頭」を創ってみた。曲はなく、歌詞だけである。会報62号で発表することにした。作詞へのいちゃもん、あるいは、作曲してもいいよという場合は、歓迎したい。
さんかく原発被害の福島の実情は行って調べて報告もしたいと思う。が、荏原なら取材手法はわかるが福島は手づるもないし分からない。情報がありましたら伝えてください。
当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com
しろまる「北沢川文化遺産保存の会」へご入会ください。
年会費1000円です。劇部、研究会など主体的な活動もできます。会員にはこの会報を自宅に郵送しています。入会は随時事務局の「邪宗門」で受け付けております。入会金はありません。年会費だけです。なお、メール版も発行しております。


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