[フレーム]

2022年04月

2022年04月29日

下北沢X物語(4476)―台湾出撃沖縄特攻〜陸軍八塊飛行場をめぐる物語 2 ―

ヘリコプター時代の写真米兵と
(一)支流にこそ真実は潜む、長年の文化探訪で得た発見だ。近隣に九品仏川という支流がある。「流れ行く大根の葉の早さかな」は比較的知られている。教科書に出てくるからだ。実は、これは九品仏川で詠まれたものだ。成る程、五七五で土地の固有性が見事に言い表されている。沿岸は大根畑だった、降雨時には小川も瀬の早い急流となって目にも止まらぬ早さで大根の葉っぱが流れていく。陸軍八塊飛行場も戦争の支流だ、誰もこんな飛行場は知らない。当初は不時着用の簡易滑走路として造られた。が、沖縄戦が終末に近づくに連れ重要性を増してきた。そしてここから多くの特攻機が飛び立った。出撃者数で台湾では二番目に多い飛行場となった。日本戦争史の一支流が台湾八塊陸軍飛行場だ。

コロナ禍で訪台は叶わなかった。が、やはり大事なのは文化、土地の固有性である。空気の匂いを嗅いだり、土地の人情に触れたりするのは大事だ。フィールドワークができないことは大きな弱みである。

記録や情報を頼りに調べていくとやはり台湾の文化に突き当たる。特攻隊員たちはここの空気に触れて特別な思いを持った。

日本兵の行状を記した邱 垂棠さんの回憶録「足跡」に、

和我熟悉的近藤曹長向我打聽可否租一塊田地,留台灣農夫

とある、戦争が終わってどうしようかというときに近藤曹長は、台湾に土地を借りて農民として住めないかと聞いてきたという。日本に帰らずに気候のよい、人情もある台湾で暮らそうと思ったようだ。近藤曹長が感じた台湾の空気感は大事だ。

役に立つのはやはり、経験であり体験である。じつは二十数年前に台湾を訪れていた。鉄道好きの旅行会社の添乗員と台湾の汽車旅をしたことがあった。その彼は若くして亡くなった。

(二)
今もそのときの印象は残っている。多くの年配者が日本語を話せたこと。田舎町の駅に行くと懐かしさで気持ちが熱くなった、かつての日本の田園風景がそのまま残っているように思った。特攻隊員たちもこういう台湾の空気に馴染んでいた、と思った。

今回取材の過程で飛行第二〇四戦隊の、特攻出撃前の送別会の写真が手に入った。明日は出撃というときに皆とびっきりの笑顔を見せて笑っている。不思議なほどだ。台湾熱に浮かされている特攻隊員たちを思った。
彼等はその仲間を戦争で多く失っている。仲間が恋しい、日本に帰ったのちにただちに戦友会を結成した。
「いいか、二〇四は、我ら戦隊の重要な数字だ、だからこれに合わせる、毎年二月四日に上京する、そしてこのときに靖国神社にお参りをする!」
この逸話を聞いて自分で想像を巡らせてこう書いた。

何があっても毎年二月四日に東京に集まってくる。ある者は東北から急行「津軽」で、ある者は九州から急行「高千穂」で上京した。ネクタイを締めた男たち、色は黒く、額には深い皺が刻まれていた。九段の急坂を神社へ向かうとき大鳥居が見えてくると誰もが一礼をした。

今回、取材しているときに、この隊の関係者がおられて、「飛行204会名簿」をいただいた。昭和60年1月発行だ。もう三十七年前のものだ。

作中に名を記した人の電話番号が載っている。時間が過ぎ去ったことも忘れてダイヤルを回す。............「この電話はもう使われておりません......」
飛行二〇四戦隊に限らず、多くの戦友会や同期会は解散してしまった。構成員が物故したり、老齢化したり、全員討ち死にして自然消滅した会もある。それが現実である。
戦争は、すっかり遠くなってしまった。

(三)
自身、熱中派だ、つい入れ込んでひたむきに特攻物を書いている。「やっぱり特攻隊員の霊魂が憑いているんですよ」と皆言う。そうなのだろうか?と思う。

「台湾出撃沖縄特攻」、調べれば調べるほど分かってくることがある。台湾ならではというのもある。台湾各地で奮闘したり、奮戦したりして多くの人が亡くなっている。八月十五日を過ぎて、将来に希望を失った特攻隊員がピストル自殺したり、軍刀で自刃したりしてもいる。そういう人々のことを記録することが、供養ではないか、と今は思っている。
(写真は、国軍時代の邱 垂宇さんと米兵)

〇お知らせ
明日、4月20日、会報第190号を印刷し、邪宗門に持参します。大体二時ごろです。気が向いたらおいでください。




rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2022年04月28日

下北沢X物語(4475)―台湾出撃沖縄特攻〜陸軍八塊飛行場をめぐる物語―

足跡 (2)
(一)物語も建築物である、普通は設計図を書いてから取り組むものだろう。が、私の場合はいつも出たとこ勝負である。思いつくままに筆を運んでしまう。近々やっと新しい建築物ができあがった。当たり前だができあがると全貌が見えてくる。どうも八階あたりが気に掛かる。説明が目につくからだ。人は解説は読みたがらない。退屈させないような工夫が必要である。ちょうど八階あたりは終末である。戦争の終わり部分だ、ここで台湾「第八飛行師団の特攻の総括」をしている。思いついたのはここを省くことだ。バッサリと切って逸話を入れる。戦争が終わって人々は途方に暮れた、若い特攻隊員たちの多くは自決している。ピストルだったり、軍刀だったり、こういうエピソードが大事である。

特攻隊を素材にしたものは今度で六冊目だ、好きな終わらせ方というのがある。旅を結末とすることだ。前作は鹿児島から帰京する場面を最後とした。特攻機の逆コースである。結節点は名古屋である。ここは鬼門であり、関門だ。今度の場合もここに引っ掛かってきた。

前からの課題だ、私に特攻兵の霊魂はついているのかどうかだ。もう亡くなってしまったが鉛筆部隊の田中幸子さんは、私に彼等の霊魂がずっと憑いている、それは絶対に間違いのないことだと言っていた。

言えば名古屋は関門、私が素材として扱ってきたのは武剋隊と武揚隊だ、満州新京で発足し、沖縄出撃に備えて名古屋まで来た、ここが運命の分かれ道だった。

特攻機は出撃するために機を改造せねばならない、満州発足の機が名古屋にきたのはこのためだった。1945年2月だ、米軍の空の跳梁はもう始まっていた。B29による空襲だ。結局これを避けて、各務原で爆装をするはずのところ、松本へ進路を変えた。
これは大きな転換点だ、「特攻隊員の因縁が絶対に憑いている」ということも、名古屋での岐路選択が関係する。彼等が各務原で爆装改修をしていたら、私はここ十数年別の人生を歩いたように思う。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2022年04月26日

下北沢X物語(4474)―プレゼンは格好よく決める―

P1000906
(一)雨の日も普段と変わらずに保育園児を外遊びをさせている。その先生は英語で指示している。外国人の保育士である。予想できるのは月謝も安くないだろうということだ。が、親は子どもが大きくなれば英語は必須だということを知っていて預けるのだろう。裕福な家庭でないとできない。これとは反対に自学自習的な保育グループも駒沢では見かける。雨の日には屋根のあるところで子どもらを遊ばせている。園に預けないで自分たちで子を学ばせているグループだ。が、どちらも見識を持って子どもらを教育している。こちらの場合は、子ども同士の遊びを重視しているようだ。子どもは他と交わって成長する、親がついていなくてはならないから大変だ、しかしこの教育法も素晴らしい。

駒沢で見られる教育法は、従来の教育では子は育たないのではないかという親の見識があるようだ。日本の学校では自由に育たないのではないかという危惧を持っている親ではないかと思う。

日本での学校教育は一律的だ、皆同じことをしなくてはならない。そうしないと弾かれる。何よりも規律が重んじられる。中学では下着の色まで指定される。新聞の見出しにこういうのがあった。

「下着の色は白」校則で指定、市立中の8割...「廊下でシャツ開け確認」「違反して脱がされた」

学校は不自由なところである。
アメリカの学校における円形教育、日本の学校における四角形教育、前者は机を円形に並べて、問題を自由討議させる。後者では、自由討議はほとんどない。教師が教壇に立って教えを授け、生徒は生徒で板書された言葉を懸命に書き取る。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2022年04月25日

下北沢X物語(4473)―駒沢:どろんこ遊びの子どもを見て―

P1050031
(一)人は日々景色を貯めて生きている。町角風景、自然風景、人間風景、なかんずく人がおもしろい。格別なのは子どもだ。「先生ダンゴムシ!」、「先生アリンコ!」、「青い電車!」などと言ったり指さしたりする場面はかわいらしい、人生の勉強中なんだとこちらは目を細める。前から感銘深く思っていることがある。普通保育園児は雨の日は見かけない。ところが駒沢公園では晴雨に関係なく彼等を見かける。皆、雨合羽を着て遊んでいる。引率の先生は日本人もいるが外国人が多い。ボールを追っかけたり、かくれんぼしたりしている。見ていると円形に並ぶ場合が多い。教育の根幹を思った。外国の場合は円形教育だ、が、日本の場合は、四角教育だ、教室での机の並びではもっぱらこれだ。丸と四角に教育の在り方を思った。

先だってテレビではマスク論議を話題にしていた。諸外国ではマスクを止める国が多くなっている。ところが日本ではそういう議論はほとんどない。街に出ても全員がマスクをしている。こういう状況について問われた識者。
「やはり日本には同調圧力というのが働いているのでしょうね、みんなしているから自分もする」
「マスクに慣れてしまって取るのが怖いという人もいるようです」
アナウンサーが言う。
マスクをするしない、ここに国民性が出ている。「出る杭は打たれる」、日本ではなかなか人と違ったことができない。皆一様にしなければならない。ここから外れると、「村八分」にされてしまう。我々は孤立に耐えられない民族だ。

坂口安吾は『堕落論』の中で、「元来日本人は最も憎悪心の少い又永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう」という。孤立すると弾かれる、それを嫌ってみんな一緒でみんないいとなるのか。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2022年04月23日

下北沢X物語(4472)―空川の谷の石田波郷―

P1050021
(一)最近発見したことは俳句の手練れが住んだ町は景色が引き立つということだ。空川の文化を訪ねることで分かったことは、この沿岸に石田波郷が住んでいたことを知った。下北沢文士町の居住人に加藤楸邨、中村草田男が居た。石田波郷もこの二人とは仲間である。『俳句に於ける人間の探求』は加藤楸邨が言った言葉だ、俳人の系統で言えば、いわゆる生活探求派である。何のこともない三俳人は北沢川水系に起居していた。詩人の中でも俳人は景にこだわる。三人ともに景をよく詠んでいる。短詩でぎゅっと凝縮して多くの景を詠んでいる。地名で言えば加藤楸邨は下代田、中村草田男は北沢、石田波郷は駒場である。好んでこの地域に住んだ、広く言えば武蔵野だ。ここの風光があったらこそ俳句の文学性が豊だったのではないか?と思った。

石田波郷は空川沿岸に住んだ。彼の書いた随想を読むと、ここの風光が気に入って住んだように思われる。石田波郷は昭和13年6月26歳のとき駒場町761駒場会館アパートに越してきた。

前は東京に出て来て以来神田に住んでいたようだ。が、転居を考え、「市川か世田ヶ谷の外れに引っ越そう思って」居たようだ。彼は、結局は駒場に越してきた。しばらく経ったのち、近所の奥さんがこのような話をしていた。

「この駒場のアパートに入ったのは去年の六月であるが五月の末方に探したが思わしいのが無く或日疲れて電車に乗ると電車の若葉越しにの高台に赤い屋根のアパートらしいのが目に入ったのでやってきてみるとそうであった」
『駒場にて』渦潮 昭和十四年九月号


駒場になぜ引っ越してきたか。石田波郷は興味深く思って他人の引っ越し動機を記しているが、共鳴するところがあって記したものだろう。

当時は帝都線と言った。石田波郷もほとんど同じ理由でここに越してきたのだと思う。
この線は、結構おしゃれな線だった。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2022年04月22日

下北沢X物語(4471)―空川の谷の歴史と文学―

P1050012
(一)空川とは名がつくが、ほとんど無名に近い小川である。駒場は目黒区だ。ここの中央図書館で調べてみた。川をトピックとしている文献は見つからなかった。しかし、記録にはなくても空川物語はあるはずだ。この谷の特徴はV字谷だ、左岸は深い。旧石器人は空川に水汲みに行って多くが谷に転げ落ちた。後に御狩り場となった。将軍は谷を下って御用屋敷へ向かう、「お殿様の手綱を引くときは馬の谷足にぴったりと寄り添い、一歩一歩誘導しろ、馬が蹴躓こうものなら打ち首だぜ」と親方は馬子を仕込んだ。次の大事件は駒場野一揆だった、御狩り場を軍事演習場にするという案に対して近隣農民は反対ののろしを上げた。この時に土地勘のない幕府役人が空川の谷に転げ落ちて負傷した。駒場の谷は深いのである。こういう句がある。「一高へ径の傾く芋嵐」、「径の傾く」は、これはこの谷である。空川文学の一端である。

空川、命名逸話の片をつけておこう。
空川は土地の地主の名を取って名づけた、これが文化人類学者の推測だ。駒場の谷から駒場池に向かう途中、「あった!」との声、見ると「曽良」と表札のある家だった。
「『曽良』は『空』に通じるでしょう、やっぱりピンポンして家人に確かめるべきね」と女史。門前でためらっていると若い男の子が出てきた。
「この苗字はソラと読むのですか?」
「違います、『かつら』です」
一同はそれを聞いてがっかりした。
「珍しい名ですよね、お宅の出はどこですか?」
「大島です」
二階のベランダにいた女主人からの返答があった。「空川」、「曽良」説は潰えた。

「空川は、全体に水量が少なかったと想像されます、水でいつも満ちてはいない、水なし川、それが空川の語源ではないでしょうか」
これは地理学者の推論である。
続きを読む

rail777 at 18:33|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2022年04月20日

下北沢X物語(4470)―空川を歩きながら戦争を考える―

P1050010
(一)連日、連夜、戦争報道が続く。昨日のニュース報道中に、惨殺のあったブチャの戦闘に加わった兵にプーチンが勲章を授けると。すると女性アナウンサーが涙を流して言い淀んだ。尋常でない狂気が渦巻いているようで恐怖を覚えた。テレビでは戦争討議も百花繚乱、が、いずれも隔靴掻痒、何言ったところで当事者に言葉は届かない、が、この頃は識者もトチ狂ってきた。ロシアが北海道に攻めて来るかもと、メディアも常軌を逸している。多くの討議者が防衛族である。こういうことがあるから国を守らねばと。防衛力の強化、そして平和憲法からの脱却、ウクライナ侵攻を材料にして軍事優位の国にしようとしているとしか思えない。果ては国防費をGNP比2パーセントにしようと。懲りずにこの国家は戦争への道を歩もうとしている。戦争がどんなに悲惨なものだったか、人々が忘れてしまっているところはもっと怖い。物価高も怖い、今日、どら焼きが十円値上がりしていた。

空川は、深い歴史を刻んできた川だ、左岸の台地の裾を洗いながら流れている小河川だ。上手から押し寄せてきているのは淀橋台、下末吉面、いわゆるS面だ。怖ろしい歴史を持つ台地だ、すなわち12万年前に関東を覆っていた海が後退し、海底が陸化して下末吉面となった。縄文時代一万年前でも気が遠くなってしまうが、12万年前と言われるともうちんぷんかんぷんだ。

空川源流部の左岸台地は東京大学駒場で、この構内敷地全体が遺跡である。「東京大学駒場構内遺跡」である。長期に亘って古代人はここを使ってきた。[旧石器時代][縄文時代(草創期〜早期・中期・晩期)][平安時代][近世]。これほど長く続いたのは住みやすかったからであろう。空川は今でも湧水が湧き出る源流部が三つもある。彼等古代人とってこの湧水は必須のものだったに違いない。

時代の流れは言葉で表記される。旧石器、縄文、弥生と。時代は連綿と続いてきたかのように思う。

「旧石器、縄文、弥生と続きますが、時代時代で違うのですよね。使う道具がまず違ってきますから......」
これは文化人類学者の話だ。我らは連綿と時代が続いてきたかのように思うがそうではないと。
縄文の一万年は別格だ、遺跡発掘でも弥生になると首のない遺骸がごろごろ出てくるという。弥生は米が採れるようになった、これは貯蔵できる。財産だ、こんどはこれが狙われる。ゆえに住まいの回りに環濠が巡らされる。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2022年04月19日

下北沢X物語(4469)―空川の歴史と文化を歩く―

P1050001
(一)のっけから素晴らしい空中戦が始まった。「空川」の地名の由来はとの質問が飛んできた。うん、確かに近隣の川の名と違う、この間歩いたのは烏山川と北沢川だった。これは理解できるが空川は言われてみると不思議だ。地理学者は着目点が違う。が、今度は文化人類学者がそれは「曽良」から来ているのではと応じた。芭蕉のお供の曽良と同じだというのでまた騒ぎになった。「奥の細道では弟子の曽良は芭蕉についていったが金沢で喧嘩別れをした」と五街道を歩き切った街道の達人が応じる。これはおもしろい。が、なぜに「空」が、「曽良」なのか、彼女もフィールドワークの達人で、このあたりを歩いたという。「古い地主だと思われる家の表札に曽良とあったのですよ。その名から来ているのではないか」と。参加者には知恵者が多くいて、議論ははずんだ、これが町歩きの楽しさだ。

第173回の町歩きは「空川の谷の歴史と文化を歩く」である。16日に実施した。案内者は梶山公子さん、集合は井の頭線駒場東大前駅である。

このところ川の文化に関心を持ち、この間は、烏山川と北沢川を歩いた。今回のはこの連関である。北沢川の北の谷間に流れている空川の文化も尋ねようという試みだ。

短い川だ、長さは三キロぐらいではなかろうか、下って目黒川に合流する。歩いて分かることだが谷が狭い、V字谷で続いている。が、沿岸は歴史に富む。左岸の台地は、将軍家の鷹場であった。江戸から明治になってこの台地状に学校ができる。農科大学である。

空川は鷹場や農科大学の縁を流れる川だ、この川左岸の尾根筋にはもう一つ別の流れがある。三田用水である。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2022年04月17日

下北沢X物語(4468)―東京高校南台空襲総集編―

P1040370
(一)「人間は後時間を優位に捉える思考構造になっている。しかし、進歩とか発展は決して人類に有益には働いていない。真摯に歴史から学ぼうということはしない。人間は好き放題、勝手し放題に歴史を作ってきた。」昨日、文化人類学者と町歩きをして話したことだ。さて、フィールドワーク今回でお終いにする。/東京東部への無差別攻撃は1945年3月に続き、5月24日、25日も東京西部にも行われた。これによって東京全体は灰燼に帰し「東京は焼夷弾攻撃のリストから外された」、首都が陥落したのである。が、戦争はすぐに終わらなかった。8月6日に広島に、9日に長崎に原爆が投下されて、ようやっと戦争は終わった。戦争は一旦始まると、なかなか終わらない。

山の手空襲において避難場所であった東京高校には人々が大勢逃げ込んで来た。四面楚歌、歌ではなく火炎、炎熱が襲ってきた。多くの犠牲者が出た。が、校地境界の北側の土手が多くの被災民の命を救った。その経過を記録したのが、鉄石 孝雄さんの「一望千里、焼け野原」(『東京大空襲・戦災誌 第二巻』)であると述べた。その残りの部分である。

「もうダメか?」私も半ば観念しかけしかけてきたが、北側を見やったとき疎開跡を隔てた向こう側で民家が燃え落ちるのが見えた。四方から迫って来た火の壁はとうとう最後の中心点に達したのだ。「助かるぞ」 反射的に跳ね起きた私は荒々しく怒鳴った。「命が助かりたければ、家財道具をみんな捨てろ」声に応じて数人の青年が立ち上がった。布団、大八車、つづら、手当たり次第に燃えているのを疎開跡まで引きずっていっては捨てる。火の粉のまといつく布団包みしがみついて拒む婦人も命には替えられない。 心を鬼にして突き倒し、力づくで奪い取って捨てた。

これを読んで分かるが、被災民は皆荷物を抱えていた。ここに人々の、東京大空襲からの学びがある。「逃げないでともかく消すこと」ということで火災に対処した、ところがこれが裏目に出た。焼夷弾火災は消せない、火災が起こったら「ともかく逃げろ」だった。ところが着の身着のままでは逃げられない。持てる物を持って逃げた。ところがこれに火がついて身の危険が迫った。それで家財道具を方南通りの向こう側の建物疎開跡地に運びこんだ。被災民は一致協力して邪魔なものを片付けた。

(二)
どのぐらい経ったか、あたりは静かになってきた。完全に崩れ落ちた校舎からは、残り火がチロチロと舌を出している程度で大したことはない。危険が去ったことを確かめねばならない。私は意を決すると、土手をのり越えほの暗い校庭へ一人入っていった。

土手に沿って一列に植えられた立木のそばを通り過ぎようとしてふと見ると残り火の反射の中に男女のみさかいもつかぬ人体がミイラ状に炭化して立木によりかかったまま立往生をとげている。ギョッとして足もとがお留守になった。二、三歩ふみ出したとたん、今度は何か蹴つまずいた。瞳をこらせば、校庭のあちこちに点々と黒い丸太のような焼死体が横たわっているではないか。どんなに苦しかったことが。 胸を締め付けられるような思いで手を合わせ、焼死体を避けながらプールの側まで進む。そこにはいつもの空襲と同じように、火に追われ最後の逃げ場を求めて飛び込んだ人々が、窒息したのであろう。もの言わぬ死体となって水面に見え隠れしていた。

煙で空は暗いけれども空襲は終わったのだ。もう危険はない。土手の上に立つと、私は腕時計をすかして見た。そしてボロボロに焼け焦げて二〇人もいるだろうか?死んだようにうつぶせになっている人々に呼びかけた。「皆さん、いま午前五時です。もう夜が明けます。助かったんです」 みんな泣いていた。
夜が明けてから焼死体の収容は急速に進んだ。周辺の防空壕やプール、干上がって空になった防火水槽の中から、路上、校庭から正視するに忍びない姿に変わり果てた死体が次々と焼けトタンの上に乗せられ、トラックで運び出されていった。


犠牲者の遺体は校庭だけではなくに防空壕に防火水槽に路上に点々と転がっていた。悲惨な叙景である。一望千里、東には筑波嶺が、西には富士や丹沢が見えた。

(三)
P1040369
最後にもう一つの証言を載せておこう。東京高校には大きな防空壕があった。

庭内にはとても大きな防空壕があり壕の中にも入るよう怒鳴っていた。 ごった返す中でやっと姉達とも会え、校内に押されるように入り、壕の中もたちまち溢れ、校舎の脇に軍用専用トラックが7〜8台並んで止めてあったので、ひとまず息を凝らし、車の影に身を隠していた。そのうち正門に火が点き、裏門にも火が点き母は意識的に壕を避けた。 重い私をおぶっての避難だけに母は避けた。 しかし、言葉に言い表せないほどの恐ろしさを感じていた。 軍用トラックにも火が点き爆発。あっちでもこっちでも爆発。 周りは火の海に今度こそ万事休す。 今ですからこんな表現をしますが、
『ああ南無三』
その時、奇跡が起こったのです。 風向きが変わり、東南に向かって火の手は狂ったように勢いよく燃え上がり、多くの人たちが校舎の周りの土手に殺到しました。土手の上は幾重にもなっている鉄条網に囲まれており、その上に向かって這い上がりなだれ落ちた。 今思うと、よくもあの悲惨の中から助かったものと心から感謝いたしております。これはとても有難い。やっとの思いで、学校の外側の土手にたどり着き、そこには病人やけがをした人がびっしり張り付き助けを求めております。お気の毒でしたが、私たちも命がけですから。そんな中をこけつまろびつ踏み越え乗り越え真っ逆さまにずれ転がり落ちてどうやら道端に出ることができました。
『語り継ごう 平和の尊さ』 「あの戦争と私の母」
笹塚在住 門 保衛さん(五十八歳) 渋谷区教育委員会発行 1996年


やはり校庭北側にあった土手によって大勢の人々の命が救われたのである。
今回のフィールドワークは現場を確認し、また、記録を点検する機会となった。これらのことを戦争伝承として伝えていってほしい。(現、東大附属校庭)




rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2022年04月16日

下北沢X物語(4467)―東京高校南台空襲フィールドワーク 5―

P1040359
(一)「退職して以来、わけもわからずに穴を掘っていたのですよ。ところが後で分かってくるのですね、穴と穴とが繋がっていることを、それが文化であり、歴史だと知ったのですよ」とフィールドワークに参加した卒業生の佐藤容子さんに話した。その穴の一つ、南台4丁目に住む秋元佳子さんに昨日電話をした。「ああ、多田神社ですか、あそこの近くにポンポコ山があってよく遊びました。防空壕がありましたね。東大附属、あそこは空襲のときにみんな逃げ込んだのですよ。それでグランドやプールで大勢の人が焼け死んだのですよ」88歳の彼女の弁だ。「この間、下北沢に行ったのですよ。駅前、びっくりしましたよ。全く違う町に来たかと思うくらいでした。何しろ電車が通っていないのですよね。私なんか宇宙からやってきた人みたいに思いました」

彼女は下北沢で生まれ育った人だ、一番街の染め物屋「きくや」の娘さんだった。通っていたのが東大原国民学校、今の下北沢小学校だ。この学校は浅間温泉に疎開していた。宿泊していたのは富貴之湯旅館。ここに、特攻隊、誠第三一飛行隊がやってくる。彼女はそのときのことを鮮明に覚えている。彼等がたった一回しか歌わなかった「浅間温泉望郷の歌」を全部覚えていた。

松本浅間温泉滞在時のことは彼女は何でも覚えている。今まとめている物語で事実確認の必要から電話をした。
「泊まっていた富貴之湯にはピアノかオルガンはありましたか?」
「ピアノは覚えていませんが、オルガンはありましたよ」
「いやね、なんで聞いたかというと武揚隊は、『隊歌』を作っているのですよ。高畑少尉と五十嵐少尉とが協力して作っているのです。記録にそうあったのです。これを読んで思ったのは歌は飛行機の中では作れない、温泉でだったら作れると思ったのです。二人合作ならばピアノかオルガンで弾きながら作ったと、浅間温泉で作ったに違いないと思って聞いたのです......」

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2022年04月14日

下北沢X物語(4466)―東京高校南台空襲フィールドワーク 4―

[画像:277970890_374881967978701_9139833541975590087_n]
(一)前の職場を訪れるのは久しぶりである。懐かしい、逸見正孝アナウンサーが自身が受け持った新入生の取材に来た。そのときに校庭の体育館脇の桜の下で記念写真を撮った。その桜樹が残っていた。彼は急死した。多くの思い出が蘇る。卒業生の佐藤容子さんと校内を歩いた。「私たち梅田先生のところにお泊まりに行きました」と彼女。国語科の同僚梅田先生は物故された。「私によく石をくれた物理の根本先生も亡くなられた」、「大好きだった保健の天野先生も亡くなられた」、そういえば今年になって牧柾名先生が亡くなられたと連絡があった。校長先生だ、東大附属が文化的なのは本校から派遣される校長にある。頭脳が明晰であるというのはどういうことか。難しい事象を平易なフレーズで印象深く語ることである。附属には個性のある教師が多くいて、その彼等から文化を学んだ。退職して十五年経つが、元の職場で培われた文化を今も継続して探訪している。文化の原点である。

自分の発想で自由に仕事ができた。あるとき北海道の真ん中に東大農学部附属北海道演習林があることを知った。それこそ飛び込みだった、北海道の演習林に植樹をさせてもらえませんか。唐突な申し出である。が、これは実現した。残念なことに十数年も続いた植樹は今では止めになったという。

自身が退職して構内の建物などの配置も大きく変わった。が、感動したのは自身が周年記念行事で手がけた桜の樹が立派に育っていたことだ。(写真、卒業生の佐藤容子さんと)

レガシーというのはあまり好きではないが、自分にとって遺産というものはある。附属は卒業研究がウリである。この一番最初の原型を作るときに私は加わった。そしてこのときに『卒業研究ハンドブック』を私が手がけた。

この間、この卒業研究が作られたときの経緯を大学に進学した卒業生からリモートで取材を受けた。その発表は好評だったという。

横道に逸れた。東京高校南台空襲フィールドワークのけじめをつけよう。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2022年04月13日

下北沢X物語(4465)―東京高校南台空襲フィールドワーク 3―

278201263_1191325818341438_6365789492521561913_n
(一)事件概要である。1945年5月25日、深夜B29が大挙飛来してきて焼夷弾を投下した。渋谷区幡ヶ谷一帯で家々が燃え始めた。このとき南風が吹いていてたちまちに火は広がり、北側に移っていった。風が風を煽りいよいよ火勢は強くなった。火線に追われるように人々は北に逃げた。そして避難場所となっていた東京高校になだれ込んだ。敷地周辺は木密地域でその全部に火がつき、四面火炎に包まれ、ついには火炎旋風が起こった。校庭に逃げ込んだ人々をこれが襲った。炎熱に耐えられず次々にプールに飛び込んだ。この時の犠牲数、『プールには七名の女性が沈んでいた。運動場には町内の死者二〇体が仮埋葬された』とある。約三十名近くが東京高校で犠牲になった、その実数は不明である。状況からみて四五十人以上が犠牲になっていたのではないか。ところが、ここで大勢の人々の命が助かっている。校庭北側の土手、これが激しい南からの炎熱を防いだ。この陰に身を寄せたことで避難民の多くが焼死を免れた。伝えていくべき戦争伝承である。

フィールドワークではその現場を巡った。

「空襲のドラマは、1944年11月1日に始まります。この日東京上空にB29が現れたのです。高高度一万メートルをゆうゆうと飛んで行きました。高射砲で当たるはずもありません。ところがこらえきれずに撃ってしまったのです」

11月1日、東京上空に敵機がやってきました。日本軍は地上から高射砲で応援したのですが、そのとき不発だった砲弾の破片で負傷者が出ました。聖路加国際病院にその患者さん4名が運ばれてきました。
ついに戦闘でけがをした人が運ばれてきたのです。
戦争といのちと聖路加病院物語 日野原重明 小学館 2015年刊


ついこの間、2月5日、フェイスブックのメッセンジャーで連絡があった。卒業生の大出幸子さんだ、ご自分の娘さんが東大附属に入学されたとのこと。何と彼女聖路加病院で教授をされているとのこと。以前、『ミドリ楽団物語』を書いた、代沢小に創設されたバンドである。この彼等のデビューが聖路加病院であった。「本学のアーカイブ室に連絡しておきます」と。東大附属因縁はどこまでもついて回る。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2022年04月11日

下北沢X物語(4464)―東京高校南台空襲フィールドワーク 2―

IMG_1579
(一)不思議である、いつの間にか山手空襲の語り部になっていた。何でも夢中になる癖がある。気づくと熱く語っていた。「ここは戦時中の避難場所になっていました。火に追われた近隣の人々は大勢ここに逃げ込んできたのです。校庭が広い、そして木々に囲まれている。場所として安心できるところだったのです。ところが、ほらこの写真を見てください。昭和22年に上空から撮った写真です。木々が一本もないですね、立木までが焼けてしまったのです。どれだけ火勢が強かったかが分かります。当日は強い南風が吹いていました。火が火を呼ぶ、回りが火の海となってしまいました。逃げ込んできた人は輻射熱であぶられました。それで人々はプールに飛び込んだのです。が、熱風は容赦なく襲ってくる。このプールで死にそうになった詩人がいました。北川冬彦です。彼は幡ヶ谷に住んでいました。自宅がやられて北に逃げた、そしてここの東京高校のプールに来ました。

灼熱が襲ってくる。やけどしてしまいそうだ。「そうだプールだ」というのは、ここにプールがあることを知っている。彼には土地勘があった。詩人は日頃ここらを散歩して知っていた。校地の東南端隅にあった。道を通るとこのプールが見えた。

北川冬彦は、横光利一と親しかった。『花電車』は冬彦の詩だ、これの序文を横光が書いている。この中につぎのような件がある。

冬になって私はまた東京へ戻って来た。留守をしてゐてくれたHが、北川冬彦氏の来訪を話しながら、「いろいろ戦災の話を人から聞いたが北川氏が一番ひどい目にあってゐる」と語って、猛火の底の氏の死闘のさまを髣髴させた。

横光利一は山形に疎開していた。その間、北沢の家を守って留守番していたのがH、橋本英吉だ、北川冬彦はここへ来て、「おれは東京高校のプールで死ぬところだった」と話した。その内容が「焔」という散文詩に載っている。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2022年04月10日

下北沢X物語(4463)―東京高校南台空襲フィールドワーク―

P1040367
(一)今日は、朝から予習だ。午後「中野南部9条の会・第12回平和ツアー」(塚原哲朗氏主宰)が開かれる。主たる踏査場所は中野区南台旧東京高校だ。1945年5月25日10時頃当学校一帯は空襲に遭った。住宅が密集するここは集中的に焼夷弾が投下され大火災が起こった。広い敷地を持つ東京高校は災害時の避難場所になっていた。ここのグランドに、そしてプールなどに人々が逃げ込んできた。が、回りは激しく燃え、火災が火災を増幅させる。輻射熱で学校はあぶられた。避難場所になっているから人が避難してくる。その人々が犠牲になった。当日の風向きも影響している。3月10日の東京大空襲時「当日は東京下町には強い北風が吹き、被害を大きくした」(「都政十年史」)と言われる、一方、この南台空襲は南風が被害を大きくした。事実、当日は「激しい南風」が吹いていたとの証言、米軍の空襲計画は緻密だ、三月の北風、五月の南風を計算しつくして無差別攻撃に踏み切ったのではないか。

連日、ロシアによるウクライナ侵攻の様子が報道される。ロシアによる虐殺騒動は毎日、毎日報道される。異常と思えるほどだ。根底にあるのは人権観だ、可愛そうなウクライナ人が大勢虐殺に遭っている。妙な偽善意識を感じる、困っている人を助けるのはいい。が、ウクライナ以外でも人権抹殺は起こっている。では、政府専用機で難民を運びましょうというふうにはなっていない。不自然さを感じる。

米国大統領は、プーチンを悪徳非道の殺人者として非難する。そして世界に連携を求め先進国で制裁をしようと。それに対して日本は唯々諾々と応じている。確固とした考えはないようだ。単に欧米へ追随していだけだ。アメリカの顔色を窺って制裁を決めている。こここそ平和国家の出番、唯一の被爆国日本の出番だ。と思う人はいない。

東京大空襲では約10万人が犠牲になったとされる。民間も軍人もあったものではない。無差別に絨毯爆撃をして多くの人を殺した。アメリカの人権意識について、「あんた無差別爆撃したでしょう」と問い詰めることはない。唯々諾々。むしろウクライナ侵攻を好機と捉え防衛費の増額を計画している。新聞が伝える報道だ。(2022年4月6日 日経)

自民党は台湾有事を念頭に防衛費の増額を求める提言を4月中にまとめる。政府に抑止力を高める装備の導入などを促し、年末に改定する国家安全保障戦略への反映をめざす。ロシアによるウクライナ侵攻で安保への関心が高まる世論を踏まえ、当初予定よりも1カ月前倒しでつくる

計画されているのは日本の国防予算がGDP比2%だ。「敵が攻めてくるから国防費をアップして備えるのだ」、戦争の拡大時では常に喧伝される言葉だ。
続きを読む

rail777 at 18:34|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2022年04月08日

下北沢X物語(4462)―霊魂は存在するのか?―

P1000891
(一)霊魂の存在については懐疑的だ、が、改めてこの問題を考えてみると、世界はこれが存在するという前提に成り立っていることに気づいた。霊魂は世の中の価値体系の中では根本的な基盤となっている。身近なところでは宗教である。霊魂が存在することを前提にして神社仏閣は動いている。天国も地獄もあるとしないと成り立たない。宗教だけではない学問領域などもそうかもしれない。霊魂は死後世界だ、現実空間とあの世空間は一体となっていてその全円的な把握で現実の我々の社会は成り立っている。死後世界があるというふうに考えないと我々の進歩発展もなかったように思われる。あの世の世界は、想像、空想、創作の源泉でもある。死後世界がないと世の中おもしろくない。

死とは何か、人生とは何か、これは考えても答えは出ない。まともに考えないほうがいいものだろうと思う。もうかれこれ二十年も経つ、自殺した生徒がいた。急報を聞いて自宅にお悔やみに訪れた。そのときに今も深く印象に残っていることがある。彼の部屋のゴミ箱に岩波の文庫本が捨ててあった、哲学書である。

彼は非常に聡明であった。勉強もよく出来る子だった。いつも思念しているふうであった。孤独だった。真剣に生きることに苦しんでいたんだと思った。哲学は一つの解答だったのだろう。真剣にこれに取り組んだが回答を見出せなかった。

葬儀では僧侶が来て読経した。そして説法、彼は天国に召されたというようなことを言っていた。しかし、私はそのときに違和感を覚えた。

人間、どのように生きるかというのは大きな問題だ。生きることを考えることは死を考えることでもある。あの世は闇である、誰一人として分かっている人はいない。

昨日だったが、呑川緑道を散歩している団体に出会った。二十名ぐらいいたろうか。男性は先頭に立つ人、一人だ。多分案内者だろう。後続の女性陣は花を見てはあれこれを批評して楽しんでいる。

女性は日常を楽しむのがうまい。チューリップの咲き方一つで盛り上がる。ここは大切な点だ、集まって会話をして楽しむ、人間にとってとても大事だ。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(2)││学術&芸術 | 都市文化

2022年04月07日

下北沢X物語(4461)―人間の霊魂・死について考える―

P1040350
(一)子どもの頃、死は怖かった。夜中にふと目覚めて宇宙を考えた、いずれは地球も消滅し、すべてが無くなると思うと怖くて怖くて消え入りそうになった。火葬場も怖かった。幼少の頃、父を亡くした。赤い煉瓦造りの火葬場に近づくと足が硬直した。中へ入れと言われたが、頑強に拒んだ、「いやだいやだと」叫んで抵抗した。少年の頃は性に目覚める頃、死にも目覚める頃でもある。異常に敏感だった。夜が怖い、墓場が怖い、世界は怖いものに満ちていた。肯定的には想像の源泉でもあった、死を思うことで世界は創られる。が、歳を重ねると恐怖感覚は鈍ってくる。かつてのように怖がらなくなった。恐怖心は摩滅していく。

人間は死ぬとどうなる、それは分からない。が、霊魂の存在は人はよく言う。これは本当に存在するのだろうか?

実は、自身ずっと不思議な経験を重ねている。「縁の円環」とでも言おうか、どこまで行っても縁が途切れずに繋がる。怖いと思うほどにつぎつぎに人に繋がっていき、新しい情報に遭遇する。そこに尋常でないものを感じた。

何に対してのことか、それは特攻隊に関わる話だ。エピソードを探していくと順々に人に繋がっていく。その「縁の円環」は際限なく続いて行く。この過程を書いたのが、自身の著作、特攻を扱った長編ノンフィクションである。今、また第五巻目となる作品の詰めを行っている。

「どうしてこのように縁が果ても無く続いて行くのか?」
「それは特攻隊員の霊魂なんですよ、先生に霊が憑いてしまったのですよ」
これは多くの人から聞かされた。皆、普通当然のことと思っている。

そう言われてみればそうかもしれないと思う。
縁の円環は、今は、台湾に辿り着いている。調べていて一番引っ掛かるのは無名戦士である。懸命に働いた、死線を潜り抜けての戦いは、すさまじかった。が、その本人の努力にも拘わらず死んでいる。

特攻隊員というと、「陸軍沖縄戦特別攻撃隊出撃戦死者名簿」がある。ここに記録されて名は永久に残る。が、機の不調で墜落したり、特攻機を誘導しているときに被弾したり、という場合は、名簿登載はされない。その無名戦士に限りない愛着を持つ、そういう人たちのことを記録することで霊は浮かばれる。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2022年04月05日

下北沢X物語(4460)―三軒茶屋の音楽学校 ―

P1020399
(一)三軒茶屋は軍都であった、砲車、戦車の響き、軍靴の音、これらが絶え間なく聞こ
える街だった。近衛野砲兵連隊、野戦重砲兵第8連隊、野砲兵第一連隊があった。兵隊への規律、軍律は厳しい。ボタン一個でもなくそうものならビンタが飛んだ。「街の員数屋へ行って不足品をこっそり買いそろえ、何食わぬ顔して点検に備えろ」と教え諭す上官もいた。大山街道の南側は不自由街、北側は自由街、そこに熱心に絵筆を取る青年がいた。また、一生懸命に歌をうたって歌手をめざそうとする若者がいた。「国民音楽院」だ。軍都の隣に画塾や歌の学校があったというのは驚きだ。

「国民音楽院」は、たまたまネット検索で引っ掛かった。「忘れられぬ流行歌手たち 真木不二男」というホームページである。こういう記述があった。

釜石商業高等学校を卒業後小谷野は上京し、トンボハーモニカに就職しました。昭和14年(1938年)春、作曲家・江口夜詩 (1903〜1978) が世田谷区三軒茶屋に新人歌手の育成を目的に「国民音楽院」を設立するという噂を聞き付け、開校の発表翌日、小谷野は一番に同院に駆け付けました。江口は日本コロムビア専属作曲家として「十九の春」(ミス・コロムビア)、「急げ幌馬車」(松平晃)などのヒットによって、同じ専属の古關祐而のポストを脅かすなど、当時人気絶頂だった作曲家でした。

小谷野は、歌手真木不二男の本名である。ここで「国民音楽院」の創立のことが触れられている。創設は昭和14年(1938年)春に設立された。主催者は作曲家・江口夜詩である。よく知られた歌としては、『長崎のザボン売り』、『憧れのハワイ航路』、『赤いランプの終列車』である。彼が、三軒茶屋に音楽学校を作った。非常に興味深いことだ。なぜ、三軒茶屋ということがある。

國民音樂院開校記念式典の記念写真がホームページに載っている。おおよそ三十四五名
が写っている。
通い易いところとしての三軒茶屋というのはあろう。地方から来た場合は、太子堂あたりの低廉なアパートに住んだものだろう。



続きを読む

rail777 at 18:33|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2022年04月04日

下北沢X物語(4459)―戦災が消した三軒茶屋の文化 ―

P1040292
(一)連日、ロシアのウクライナ侵攻の映像が流れる、砲撃されたアパートや病院などの無惨な様子、路傍には市民の遺体、が、軍当局者はウクライナ側の喧伝だと言い放つ、思い出したのは前線のロシア兵の口癖だ、満州に侵攻してきた彼等が必ず口にしたのは「女はいないか?」である、そのロシア語の発音は今も耳について離れないと証言者は言っていた。略奪し強姦する、戦争とはそういうものだと彼等は思っている。今も昔も変わりがないと思った。街を破壊し尽くしても何とも思わない。が、この惨劇77年前この東京でも起こっている。無差別絨毯爆撃だ、この4月10日、中野南部9条の会で「第12回平和ツアー」が行われる。一帯は絨毯爆撃に遭った。広大な敷地を持つ東京高校が避難場所だった、が、ここにも火が回り、大勢が死んだ、その痕跡を見て回る。当ブログで「東京高校の空襲」を何度も話題にしていることから、参加のお誘いがあった。

2018年にDrオースチンの写真を活用した『焼け遺ったまち 下北沢の戦後アルバム』を発刊した。初版一万部を作ったが、好評で二版、一万部増刷したがこれもなくなった。
このアルバムに写っている箇所を歩くツアーも何度か行った。ここで気づいたことは。

遺っていれば語れる

何というお店があって、何を売っていた、主人は誰それでこんな人だった。
参加した人は写真を見、現場を歩いて思い出した。焼け遺ると思い出は蘇る。記憶は復活する。ところが、焼けてしまうと記憶も何も残らない。一切が焼失する。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2022年04月02日

下北沢X物語(4458)―碑文谷の老翁が語る人生哲学 ―

P1040354
「散歩は万病の薬だな、歩きがおぼつかなくなってから医者に行くことが多くなった。ところがもらったクスリがあまり効かないのだよ。前は私も散歩が好きで、二万歩は歩いていたよ。やっぱり散歩はいいよね。気持ちがいいんだよね。この気持ちがいいというのがミソなんだね、やっぱり血のめぐりだよ。何たって人間これが大切だよ。血のめぐりが悪いとロクなことしか考えなくなってしまうんだ。気というものが淀んでしまうんだ。やっぱり人間は潑剌としていないといけない。それを保ってくれるのは散歩だな。人間は歩いているとうまくいく、大なる気分転換だよ、角を曲がると美人に出くわす、腰の曲線がいいねなどと思いながら歩く、そうするとエッチ力が増すからな。人間これは大事だぜ。エッチ力をなくしたら萎んでいく一方だよ。おれも八十八まで生きてきたけど、歩きに助けられてここまできた。このところ身体が弱ってきたけど毎日五十歩でも百歩でも歩くように心掛けているんだ」

私も散歩を欠かさない。一昨日、碑文谷を歩いているとき家の庭を掃除している人が声を掛けてきた。
「散歩かい?」
「ええ、そうです」
「散歩はいいよね、とくにこんな晴れている日はいい、歩くだけで気持ちが解放される。
家にいると心の中に芥(あくた)が溜まるだよ。これは放っておくと沈殿する。これが心身を汚してしまうんだ。だけどな、一度外に出て歩き出すとわるいものが雲散霧消していく。散歩というものね、これは何たって自分が主役だな。猫が来ると、『にゃお』と言うだろう、『ワンコだってな』とおりかかるときはこちらは挨拶をする、通りでは誰もが一人前だ、人格なり、犬格がある。犬にせよ、保育園児にせよ、目を見てあげるんだな。そうすると目配せで返してくるから......」

「ずっとこの碑文谷住まいですか?」
「そうそう、今はこんな家がたてこんでいるけど、むかしは野っ原だった、目蒲線の方には家がいっぱいでな、これが戦災で皆燃えたよ。あっちは燃えているから大丈夫だと思っていると、火っていうのは怖いんだ、飛び火なんていうけどそんなものじゃない。風に吹きちぎられた火の塊が飛んでくるんだ、それがあっちこっちで燃え始める......」

「今、テレビでウクライナの戦争をやっているだろう。人家や民家がめちゃくちゃ、『ロシア軍は民間には被害は与えない』などというけど、戦争になったら軍人も民間もありはしない、敵側からすればみんな敵だ、選んで撃つわけはない、もう戦争になれば糞味噌一緒、何でもかんでも一緒くたにして撃ちまくるんだ。この東京だってみんなやられたろう。B29による無差別爆撃だ。女、子ども、爺さんは分けて撃つなんてことはないんだ。戦争は憎しみだからら撃つ方に慈悲なんてものはないんだよ。広島、長崎だってそうだろう、可愛そうなんて気持ちはこれっぽっちもありはしない。」

「ロシアは、悪い、ひどいうというけど、戦争中アメリカがやったことは同じだよ。戦争ははじまれば勝ったものが勝ち、なんでもやるんだ。人間が悪魔になるのが戦争なんだから」

「人生は生きていればなんでも目撃する。その辺りに米軍の接収家屋があったんだ。広いお屋敷でな庭が広い。まだ学生だったころ、『あめちゃんは素っ裸になって日光浴していると言うんだ』、これを仲間から聞いてな......若ければ思うだろう、すっぱだかの女が庭に寝ていると聞けば、情欲が湧くというものよ。それでな、おれらはこっそりとのぞきに行ったんだよ。すると木陰の向こうに本当に裸の女が寝ているんだ。みんな興奮したね。ところがチラチラ見えるだけだ、これまたチラリズムがたまらない、『そこの木に登ればよく見える』と誰かが言う。確かにそれはグッドアイディアだ。即座に木に取り付いて登った。よく見える、おっぱいもみえるし、なんと股ぐらの草むらまでみえる、みんな興奮したね。人間の欲望というものは人間の重量を重くするんだと俺は知ったよ。夢中でみていると枝がミシミシいいだした。『やばい』と思う間もなく、俺達が乗っていた枝が根もとからボキッとおれたんだ。勃起していたおれたちには青天の霹靂だ、枝からみなおっこちた、外人の女性は『アレー』とか叫んでいたけど、おれたちは足を引きずって逃げたよ」


「人間生きていれば、どんなことにも遭う。しかし、八十八になって思うことは人間がみなちんまりしてきたことだ。金玉がないんだよ。昔は下駄を履いていた。あれをな、履くのはむずかしいんだよ。金玉をぐっとしめて重心を真ん中に保って歩くと、気合いがはいる。いまのひとたちの歩き方が悪いよ」

「散歩は、いいか、重心をしっかりとって歩く。するとな回りの景色がしっかりと見えてくる。身体と景色が一体となると散歩は楽しくなるものだ。なんたってあんさん、

人生、歩けるうちが花よ


rail777 at 18:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2022年04月01日

下北沢X物語(4457)―会報第189号:北沢川文化遺産保存の会―

P1040352
........................................................................................................................
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第189号
2022年4月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 長井 邦雄(信濃屋)
事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
........................................................................................................................
1、世田谷まちづくりファンドへの挑戦 当会主幹 きむらけん

私たちは、十八年間活動を行ってきた。地図作りも大きな文化活動だ、「下北沢文士町文化地図」づくりである、いつの間にか改定は八版にまでなった。総発行枚数は7万5千部に及ぶ。世田谷区のホームページにこれはアップされ全国、いや全世界に発信されている。下北沢の地域一帯の文化事象を網羅したものとして社会に知られるようになった。
我々は北沢川文化遺産保存の会だ、この川と並行して流れているのが烏山川である。縁の深い川である。この川の沿岸にあるのが三軒茶屋、太子堂、三宿だ。われらの区域と隣接している。下北沢と三軒茶屋は隣り合った町としてよく比較される。両町は、世田谷区を代表する都市である。文化的にも面白い。隣接する地域だけに関心は深いものがある。

我々は、日常の活動において町歩きを行っている、三軒茶屋、太子堂、三宿はよく歩いている。そんな活動の中で思いついたのが「三軒茶屋文士町文化地図」である。「下北沢文士町文化地図」の姉妹版である。試みに作り始めたら面白い。なんといってもここの文化比較が面白い。下北沢は戦火を潜り抜けてきた鉄道が交差する町だ、一方三軒茶屋は震災と戦災とを潜り抜けてきた平和都市だ。明らかに文化的な差異がある。
「よし、面白い」地図作りを行おう、と、なった。真っ先に思いついたのがクラウドファンディングである。飛びついたといってもいい。が、一体どうするのか、資金は容易に集められるのか?難問であった。ひとたびはこれで行こうと思っていた。

ところが身近なところに助成を受け付けているところがあった。それが「公益信託 世田谷まちづくりファンド」である。2007年我々は「坂口安吾」文学碑を建てた、このときに応募をした。市民の審査を受けて合格はした。これの資金を使って「安吾文学碑建立記念記録集」を作った。

今回で二度目のチャレンジである。今度は地図印刷費用を捻出するためである。上限助成額は50万円である。ただ申請をすればいいというものではない。「公益信託まちづくりファンド助成事業」である、問題は、活動を通してまちづくりにどう参画するかが問われる。つまりはどう地域と連携していくかである。現在のところ昭和女子大に連絡をとっている。また三軒茶屋駅周辺のまちづくりを担当している都市整備政策部とコンタクトを取って地元の責任者との面接も予定している。
以下、ここに応募の理由と応募する活動内容について書き記すものである。

(1) 応募の理由

当会は、2006年から「下北沢文士町文化地図」を発行してきた。改版を重ね現在は8版を 配布中である。その総発行枚数は7万5千部に達する。発行による反響である、一つは世田谷区 がこの地図の価値を認め、区のホームページにアップして全国にこの地図を発信している点だ。
もう一つは、この地図によって人々が町の認識を深めた点である。この経験から文化地図作りは まちづくりに有用であると知った。そういう認識から隣接する地域の文化地図を思い立った。我 らの地図の姉妹版、すなわち「三軒茶屋文士町文化地図」の作成である。三軒茶屋としたのは代 表的な地名だからだ。これは太子堂、三宿も含んでいる。三軒茶屋には独特の文化がある。松岡 容は『東京万華鏡』の中で三軒茶屋は、大武蔵野が現代に直結した町だと批評する。武蔵野の真 っただ中にあった追分の町に突然に近代が走りだす。玉川電気鉄道だ、これによって世田谷の最 先端を行く町となった。商業都市になると同時に兵営もできて軍都ともなった。が、歴史は変転 していく、大きなトピックは震災と戦災である。これらを潜り抜けてきた町、苦難に遭った町は、 軍都から平和都市に変わったのである。ゆえにこの町は重層的な文化を宿している。我々は三軒 茶屋一帯のポイントポイントを地図上にマークするつもりだ。これによって一目で歴史・文化が 分かるようにしたい。地図づくりを通してまちづくりに参画し、当地区がわが国の中でも文化的 に特異な町であったことを、地元に、全国にアピールしていきたい。

(2) 地域・まちづくりに貢献する点

私達は、自らで調査し、発掘した事象を「文化地図」落とし込んで、これを発行し配ってきた。この 地図づくりは、思いがけない発見に繋がった。地図の発行は発信である。受け取った人はこれを見て、「文化人として有名な誰々さんはここに住んでいた」、「〇〇には特別な線路が走っていた」、「〇 〇には特別な寮があった」などと新しい情報をつぎつぎにもたらしてきた。その情報は増え、初版と 比べると比較にならないほど多くなった。これらの情報を加味して私たちは改版を重ねてきて現在 の八版目はできた。これらが網羅された地図を見て住んでいる人が、他所から来た人が当地区を 認識し愛着を持つようになった。これをさらに深めようと北沢川緑道に四基の文学碑を建てた。地図 発信が契機となったものだ。今では我らの地図を持って多くの人が町歩きをしている。これはふん だんにみられる光景である。地図はまちの認知度を高めた。この活動はマスコミでも何度も取り上 げられ、発信は全国に及んでいる。今、着手しているのは「三軒茶屋文士町地図」である。調べに着手して今まで全く知らなかったことが分かってきた。大正八年に三宿に「白田舎」という画塾がで きて全国から画家志望の若者が集まってきた。ちょうど三軒茶屋の連隊の北側に当たる。当時は 畑や雑木林のあるところだった。いわゆる武蔵野である。この一帯に日本画家が集まってムラを形 成していた。芸術文化村はほとんど知られていない。地元の人から更に情報を集め、当地区に眠る 文化発掘をしたい。当該地区の文化の殿堂昭和女子大も協力的である。

2、 看守と執事 会員 ごうだゆうき

人は皆、産まれたときの状態こそ、宝石みたく完璧だったのだけれど、教育やさまざまなメディアからの洗脳によって「そのままのお前じゃ幸せになれないぞ」と刷り込まれて育つ。いい学校に入って、いい会社に就職して、いい洋服を着て、いい家に住まなければ幸せになれない。しっかりしなければ、きれいでいなければ、あるがままでない自分でいなければ......。そんな価値観のなかで生きていれば、本来の輝きなど失われていって当然なのだ。私はこの、世の中に蔓延する「そのままのお前じゃだめだ」攻撃をエゴ、もとい看守と呼ぶ。いってみれば、見えない刑務所に閉じ込められるようなものだ。それは必ず「あなたのため」というヴェールに包まれているので、一見そうとは気づけない。過去にほかの誰かによって植え付けられた声を自分のものだと思い込んでいるのだ。そして裏を返せば、「あなたのお望みはこれとは反対のものですよ」と、頭の中の執事が丁寧に教えてくれているのだ。自分を縛り付けてくる看守の声に従うか、そこから解放してくれる執事の声に従うか、どちらが幸せに生きられるかはいうまでもない。看守の声に怯えきって、「こうあらねばならない」が怪物級に育ってしまった人はたくさんいる。
芸能人に薬で捕まる人が多い理由は、実はそれなのだ。厳しすぎる看守の声から一瞬でも逃れたくて手を出してしまう。聞いた話によると、深呼吸しているときの解放感と、大麻を吸ったときの気持ちよさは似ているのだとか。もちろん何の依存性も副作用もないのは深呼吸のほうだ。だから、とにもかくにも、いついかなる場面でも深呼吸すればいい。日本人は特に。考えそうになったらスーハースーハーするのだ。ただ、エゴを振りまわしている看守も最初は存在せず、ただエゴというすばらしい道具だった。例えるならば包丁のように、使い方を間違えなければ美味しいご飯ができあがるけれど、人に向けたとたん凶器になってしまう。それを料理のためでなく、人を刺すために使い始める看守が、成長するとともに現れた。エゴそのものは、包丁とおなじで悪くない。私の中の看守は「どうせ...」というのが口癖だ。
間髪いれずに「どうせ叶うわけないだろ。どうせ嘘に決まってるだろ。どうせおまえなんかにわかるわけないだろ。どうせおまえなんかに出来るわけないだろ」と横槍を入れてきて、人の幸せを邪魔するのだ。
いかにも本当っぽく聞こえるその声を、「シャラップ!」と手を鳴らして総無視すればいい。包丁で自分を刺してくるのが看守。包丁で美味しいご飯を作ってくれるのが執事。執事の声こそが本当なのだと気付くこと。それがすなわち「違和感」である。違和感は、それが自分の望みではないことを伝えてきている。看守の言うことだからどうか騙されないでね、と。ネガティブという刑務所に囚われている自分を、こっそり助けに来てくれたのだ。「お嬢様、いますぐ鍵を開けます。いっしょに逃げましょう」と。例えば、「いまはそれでいいかもしれないけど二十年後、三十年後どうするの?」などというのがそれである。三十年後のことなんて誰にもわからないのに、さもそれを考えなければ置いていかれるぞといわんばかりに、警鐘を鳴らす。あまりにも万人共通の不安なので、それが巧妙な嘘だと見破れない。
逆に、五分後、十分後どのような気分でいるかは皆だいたい想像できる。その中からいちばん「これがいい!」と思うものを択び続けてあげる。それを繰り返す。そうしていれば、看守が脅してくるような悪い未来になどなりようがないのだ。これが執事に守ってもらう生き方。
執事の提示してくれる違和感に逆らわず、自分の心地良さにしたがい続けるうちに、看守の声は弱まり、やがて看守のことすら愛せるようになる。「ありがとう」と。
私たちは、気分の悪さを感じているとき必ず、看守の声を採用している。生きている限り看守がいなくなることはないけれど、執事のいたお城へ帰ることはできる。そこが自らの、本当の故郷だということを、何度でも思い出せばいい。

3、プチ町歩きの案内
にじゅうまるコロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。プチ町歩きの要諦、
1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。(四名集まったら成立する)

第173回 4月16日(土)空川の谷の歴史と文化を歩く
案内者 梶山公子さん 井の頭線駒場東大前駅西口 13時集合
空川を駒場野公園から目黒川近く(大橋)まで歩きます。流域にはかつて8代将軍吉宗のお鷹場があり、明治初めには農業近代化の先駆けとなったケルネル田圃や水車が置かれ、また明治末から昭和にかけては多くの軍事施設が設けられるなど、たいへん歴史豊かな場所でした。その生成を見ると、古東京湾の海底から現われた淀橋台に流れを発し、やがて目黒方面に侵入してきた古多摩川の支流となり、さらにその流れの跡にできた目黒川の支流になるという、とてもユニークな歴史を持っています。
・コース:駒場野公園(地形と水源・ケルネル田圃)―東大南門(水路跡)−空川暗渠と御成道(御鷹場)−駒場池(水源と縄文時代)−旧偕行社下(二・二六事件)―三田用水駒場分水跡―遠江橋跡−氷川神社(池尻大橋解散)


第174回 5月21日(土)森茉莉の足跡を歩く
案内者 幾田充代さん 小田急線梅丘駅改札前 13時集合
コース:梅丘駅→小堀杏奴旧邸→萩原葉子旧邸→若林陸橋→若林邸宅街(ギドウ・パウロ)→三好達治旧居→倉運荘→代沢ハウス→代沢湯→「恋人たちの森」冒頭描写とバームクーヘン→森茉莉の執筆部屋「邪宗門」(喫茶代は別)

にじゅうまる申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net 電話は03-3718-6498
米澤邦頼へは 090−3501−7278
しかく 編集後記
さんかく投稿原稿を募集しています。エッセイ、文化論など。
さんかく会報は会員と会友にメール配信しています。後者で迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。会員は会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506 さんかく「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。にじゅうまる当会への連絡、問い合わせ、感想などは、編集、発行者のきむらけんへ(写真は洗足池桜山にて)



rail777 at 08:13|PermalinkComments(4)││学術&芸術 | 都市文化

traq

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /