[フレーム]

2021年02月

2021年02月28日

下北沢X物語(4195)―会報第176号:北沢川文化遺産保存の会―

CCI20210228
........................................................................................................................
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第176号
2021年3月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 長井 邦雄(信濃屋)
事務局:珈琲店「邪宗門」(水木定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
........................................................................................................................
1、ダイダラボッチ広場の開場を祝す(3月28日)
きむらけん

コロナ禍で延期になっていたが世田谷代田駅前広場が3月28日に開場する。式については当初、公開して大々的にお披露目をする予定であった。しかしコロナ感染症が続いていることから関係者のみで簡単にこれを行うことになった。セレモニー終了後は広場は開放され誰もが自由に入れるだろう。
世田谷代田はとても歴史が古い。その一つの証左がダイダラボッチだ。地名の代田は、これから来ているというのが今では一般的な認識である。
ダイダラボッチは興味深い、この伝説について取り上げたのは2004年10月1日である。もう17年にも経った。以来、ダイダラボッチをコースに加えた街歩きは何度も行ってきた。巨人伝説を中心テーマとした劇も会員の協力で開催した。当会紀要第5号(2017年3月31日)では、『代田のダイダラボッチ 東京の巨人伝説の中心地』(きむらけん著)をまとめた。また「下北沢文士町文化地図」(2019年12月17日)改訂8版では、「代田のダイダラボッチ」〜柳田国男の探訪と発見〜を特集で取り上げた。
世田谷代田駅前開業に当たって、駅前広場開場記念事業実行委員会が結成された。当会も加わって活動に参画した。記念事業の一つとして「巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ」を作成したが当会のきむらけんがこれを執筆した。今、印刷に入っている。開場に間に合えば、そのときに配布することにしている。体裁はB5版で60ページである。

「東京市はわが日本の巨人伝説の一箇の中心地」というのはダイダラボッチ論の嚆矢ともなった『ダイダラ坊の足跡』の冒頭だ。荏原ダイダラボッチ伝説考の核心である。つまり、東京市の一角にある荏原にはこの伝説が明確な地域が三カ所存在してる。私はそこに実際に行って巨人足跡痕を確かめることができた。このことからこの大都会の東京も巨人伝説の一つの中心地だと言える。民族学の第一人者の柳田国男は真っ先に代田を訪れ、その後野沢と下馬を訪れた上で深く認識した。彼のこのアピールは発信としては大きい。荏原のダイダラボッチがこれによって全国に広まった。が、彼の踏査や発見は先行調査研究に負うものだ。それは谷川(大場)磐雄による『武蔵野の巨人民譚』である。

柳田国男は『ダイダラ坊の足跡』の中で「あの頃発行された武蔵野会の雑誌には、さらにこの隣村の駒沢村の中に、今二つのダイダラ坊の足跡があることが書いてあった」と述べている。これこそが谷川磐雄が武蔵野会の雑誌に記した『武蔵野の巨人民譚』であった。柳田の発表は昭和二年、谷川のは大正八年である。

柳田は代田のダイダラボッチを調べた後、谷川の記述を参考にして駒沢村の野沢と下馬にある巨人の足跡地を訪ねている。そしてこれらが確認できたことから。「東京市はわが日本の巨人伝説の一箇の中心地」だと述べた。

P1020306
谷川磐雄の他にこの荏原郡内でダイダラボッチの伝説地を隈無く調べている者がいた。それは鈴木堅次郎である。大場(谷川)磐雄は「楽石随筆」の中でこの鈴木堅次郎の言葉を載せている。「荏原郡に数ヶ所ありと。二十町おき位にありと、またその地は石世期の遺跡なり」と。
荏原郡内にはダイダラボッチ伝説を伝えているところが数ヶ所ある、その伝説地は二十町置きにある、一町は約109メートルだ。すると2180メートルとなる。
石世期は聞き慣れない。が、石器時代のことである。当時発表されたダイダラボッチ関係の文献には多くがダイダラボッチと遺跡の関係を説いている。これは伝説の古さを証明するものである。
鈴木堅次郎は、武蔵野会遠足記の「駒沢行」では、「比の足跡は荏原郡衾村大字衾より此處を経て世田谷村大字代田に飛んで其の間隔年里以上ある」と述べている。谷畑、野沢、代田の足跡の順番を述べているがこれがちょうど二十町、半里ほどになる。
ただ最近分かってきたことはダイダラボッチ伝説地はもっと多くあったことである。荏原の西隣は橘樹郡だ。記録ではその跡はここも数多くあった。が、その地では今にほとんど伝わっていない。荏原でも他にもあったと想定できる。

柳田国男の『ダイダラ坊の足跡』に書かれた足跡地も消える運命にあったと言える。野沢や下馬ではやはり今に伝わっていない。
今度、世田谷代田駅前に「ダイダラボッチの足跡」が具体物としてできあがる。私は、「巨人伝説読本 ダイダラボッチの足跡」で、これを機会にしてこの事象、事跡を後代に伝承として伝えていくことが大事だと述べた。
読本というのは教科書という意味がある。小学校高学年向けに書いたものだ。子どもたちが地元に残る伝説を知って、そしてこれを後に伝えてほしいということで『巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ』としたことである。

2、水着
エッセイスト 葦田 華


大庭さち子先生のお宅の、先生がお作りになった快適な書斎に下宿していた1963年、妹の美智子が、体育の授業で着る水着に穴があいてしまった、と言った。お尻の辺りが擦り切れて、穴のある水着を持って来て私に見せた。私は心底困ってしまった。新しい水着を買ってやれるほどのお金が 無かったからだ。
妹の都立高校の紺色の水着には、胸に校章の白いマークがついていて、安い代替え品では間に合わなかった。妹が心配そうに、「お姉ちゃん、お金ある?」と私の顔色を見た。
私は「うん、大丈夫!なんとかするわ!」と言って、水着の値段を聞いてガックリした。
ガックリした金額がいくらだったのか忘れたが、とにかく私たち親無しっ子には高価な代物であった。
私は、高校に入学したお祝いに、父が選んで買ってくれた、珍しい形をした腕時計を持っていた。その 腕時計はひらべったい六角形で、長四角に近かった。それと、母の妹の澄子叔母が、「これねえ、私が女学校に入ったお祝いにお父さんが買ってくれたものだけれどね、縁起がいいから入学祝いとして華にあげるわ。」と言って、紫色のビロードの小箱をくれた。小箱を開けて見ると、なんと!真珠の指輪だった。二粒のピンクがかった美しい本真珠が、互い違いになっているデザインで、交差するプラチナの台の上に嵌めてある、それは素敵な指輪であった。小箱の上蓋には服部時計店とかすかに読めた。
真珠なんて、ピアノの先生が左指にはめていた指輪を見たことがあるだけだった。なぜ覚えているかというと、その頃私は右手でしかピアノを弾けなかったから、左手で先生が伴奏してくださっていたからだった。入学祝いの真珠を見て、私は有頂天になって喜んだ。
その真珠の指輪と珍しい形の腕時計を持って、私は質屋に行った。
「あのお、この二つでいくら貸して頂けますか?」と聞くと、優しい感じのおじさんが、「時計は7百円、指輪は2千円だね。」と言った。私はありがたい!と思った。合わせて2千7百円。なんとか間に合うな?と思った。いや、水着のお金を差し引いてもお金が余る。
米櫃の底が尽きかけていたのを思い出し、お米とコロッケを4個買って帰宅した。
妹の美智子は大喜びで「ごめんね、お姉ちゃん、お給料が入ったらきっと返すからね!」と言った。その後なんとか工面して、指輪も時計も手元に戻った。
それから73年後、優しい澄子叔母が亡くなった。そのお葬式には、あの時、私と妹を助けてくれた二粒の真珠の指輪をはめて行った。老衰で亡くなった叔母は、白い小さな蝋人形のようにかわいい顔をしていた。
腕時計は22歳の時、交通事故に遭って大破してしまった。病院の枕もとに届けられた壊れた腕時計を、私は綺麗なハンカチに包み、退院後自分の机の引き出しの奥にしまっておいた。これは、両親の離婚によって、父に会うことを母に厳禁されていた、私にとって唯一の、父の愛情の形見であった。
然るにだ。結婚した最初の大みそかに、夫が私の机を勝手に開けて、大切な時計をゴミとして捨ててしまったのである。
後日、時計が無いことに気づいた私は、夫が捨ててしまったことを聞き、泣いて抗議したが、夫のその言い草がふるっていた。壊れていたからゴミだと思った。また買えばいいじゃないか。机を勝手に開けたのは、君がお節料理を作っていて、忙しそうだったからだ、うんぬん。「また買えばいいじゃないか」、という返事に私は逆上した。どうやってあの日に還れるというのだ!
とうとう夫は、ひとことも私に謝らなかった。いまや私には父の形見は何も無い。
叔母の指輪を手にとって、...あの時は叔母ちゃん、ありがとう...、と、呟くと、決まって妹の水着が目に浮かんでくる。
そして、妹の美智子が幸せな結婚をしてクリスチャン・ホームを築き、三女に恵まれ、孫までいることに、神様のご計画の恵みを実感するのである。(2020、12、27)

3、プチ町歩きの案内

〇街歩きの変更について
当初、緊急事態が解除されるという見通しから3月は実施することを予定したいた。しかし、更に緊急事態が二週間延長されることになった。それで当方としては再度一ヶ月順延することにした。了解されたい。


コロナ感染を避けての「プチ町歩き」を実施している。小企画を立案し、臨機応変にこれに対応することにしている。
プチ町歩きの要諦、1、短時間にする。2、ポイントを絞る。3、人数を絞る。
*四名集まったら成立する。この企画は当面続けていきたい。以下は予定だ。

にじゅうまる緊急事態が解除されそうなので案内をする。計画変更の場合は個別に連絡する。


第164回4月17日(土) 落合文士村を歩く
案内者 松山信洋さん 西武新宿線 下落合駅改札 13時
コース:落合文士村(「戦旗」創刊の地)→村山知義邸跡(「マヴォ」結成の地)→壷井繁治・栄夫妻の住居跡→壇一雄。尾崎一雄住居跡(なめくじ横丁)→尾崎翠居住跡→尾崎一雄居住跡(もぐら横丁)→吉屋信子邸跡→林芙美子記念館


第165回5月15日(土) 小伝馬町から人形町へ 文学歴史散歩
案内者 原敏彦さん 地下鉄日比谷線 小伝馬町駅改札13時
コース:十思公園(伝馬町牢屋敷跡)〜本町通〜久松小〜浜町公園〜水天宮〜人形町(解散)*ポイント:長谷川時雨、立原道造、正岡子規、向田邦子、谷崎潤一郎のほか、吉田松陰、蔦屋重三郎、賀茂真淵、西郷隆盛らのゆかりの地を歩きます。

にじゅうまる申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は500円
感染予防のため小人数とする。希望者はメールで、きむらけんに申し込むこと、メールができない場合は米澤邦頼に電話のこと。
きむらけんへ、メールはk-tetudo@m09.itscom.net 電話は03-3718-6498
米澤邦頼へは 090−3501−7278

しかく 編集後記
さんかくコロナ禍がなかなか収まりません。文化は人同士がふれ合って情報を交換できたり、情報を深めたりできます。日常の活動がコロナ禍によってほとんどできません。今唯一の活動がこの会報の発行です。皆さん、日々の思いがきっとあると思います。一言や二言でも構いません。私にメールで下さい。そういうものも会報に載せたいと思います。どうぞ。
さんかく会報はメールでも会友にも配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。にじゅうまる当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。
さんかく会員は年度が変わりましたので会費をよろしくお願いします。邪宗門でも受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月27日

下北沢X物語(4194)―三軒茶屋の分去れと歴史―

fbce7e98
(一)三軒茶屋はよく行きよく通る、馴染みの町だ。が、旧軍関係では野砲兵関係、文化人では山田風太郎、永井叔を探査しただけだ。あまりスポットを当てることはしていない。しかし、この町には古い歴史がある。やはり重要なのはここが分去れ、大山道と登戸道の分岐点であったことだ。古い昔から人や物資が行き交った。今は車や電車で通過するがかつては車馬であったり、歩行であったりした。分去れは街道の結節点だ、ここへ来ると茶屋によって休む、地名は三軒の茶屋があったことからついた。それは信楽、角屋、田中屋である。信楽は山本家が買い取り石橋楼となった。この歴史が「石橋楼覚書」に書き記されている。冒頭の見出しでは、「石橋楼の歴史は崩壊の歴史である」と石橋楼四世山本隆俊は書いている。明治大正昭和と続いたこの楼も激動する時代の波にもまれもまれて潰え去る。三軒茶屋という交通の要衝にあったゆえの運命だとも言える、最後は戦争末期の建物疎開で石橋楼は壊されて歴史を閉じた。

(二)
「石橋楼覚書」の末尾で山本隆俊は、「ゆく川の流れは絶えざるのたとえに似て、大山道は今も滔々と流れ続けている」と書いている。石橋楼は潰え去ったが時代の流れは止まることなく大山道には今もなお人々と車とが行き交っている。この地に激動の時代があったことは多くの人が忘れている。

三軒茶屋のすぐそばには野砲兵兵営群があった。我らは十数回も街歩きを行った。いつも上田暁さんは、三軒茶屋で東征する官軍がここで宿陣を張ったと説明する。
「慶應四年、明治元年二月、東征してきた官軍がここに宿陣を張りました。当地には尾州藩が布陣したのです。そうこうしている間に、官軍参謀・西郷隆盛と勝海舟が談合して、この四月、江戸城の無血開城がなったのですね」
この報を聞いて三軒茶屋に布陣する官軍は、一斉に鬨の声を挙げたろう。近代の夜明けである。激動の時代に石橋楼は揉まれた。それを山本隆俊はこう描く。

それは幕末から明治への狭間にあって市井に生きようとした一人の地方武士に端を発し、ついで明治から大正の末にかけて街道大山筋に消えていった江戸町場文化の名残へと続き、やがては大正・昭和の軍国化の波間に沈まざるを得なかった。第三次産業の早すぎた夢によってその巻を閉じる。
『石橋楼覚書』 発行人 石橋隆俊 発行所 三軒茶屋石橋楼 2006年刊


一人の地方武士というのは、「信州伊那谷を後に有栖川宮東征軍に従って江戸に入府した一人の若い山吹藩士」だ、これが松嶋織介源俊章である。この彼を石橋楼を一人できりもりしていた大女将矢部ふじは、松嶋を若林在の娘根岸セイを娶せ石橋楼と継がせた。

明治政府になって富国強兵が推進され、三軒茶屋一帯に軍事施設が数多く進出してきた。石橋楼の大お得意様だ。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月25日

下北沢X物語(4193)―荏原ダイダラボッチ伝説考2―

P1020383
(一)「東京市はわが日本の巨人伝説の一箇の中心地」というのはダイダラボッチ論の嚆矢ともなった『ダイダラ坊の足跡』の冒頭だ。荏原ダイダラボッチ伝説考の核心である。つまり、東京市の一角にある荏原にはダイダラボッチ伝説が明確な地域が三カ所存在してる。私はそこに実際に行って巨人足跡痕を確かめることができた。このことからこの大都会の東京も巨人伝説の一つの中心地だと言える。民族学の第一人者の柳田国男のこのアピールは発信としては大きい。荏原のダイダラボッチがこれによって全国に広まった。が、彼の踏査や発見は先行調査研究に負うものだ。それは谷川(大場)磐雄による『武蔵野の巨人民譚』である。柳田の発表は昭和二年、谷川のは大正八年だ。この間に八年間ある。この時期は大きい、荏原地域に鉄道が敷設されたからだ。池上電気鉄道、目黒蒲田電鉄、東京横浜電鉄、小田原急行電鉄である。都市開発が一気に進み、ダイダラボッチの足跡地、及び伝説が荏原都市の近代化によって消滅の憂き目に遭った。

(二)
大正末から昭和に掛けて荏原には鉄道が敷設された。これによって一気に開発が進んだ。一帯は、いわゆる武蔵野だ、大正14年に世田谷の代沢尋常小学校に赴任してきた坂口安吾は一帯の様相をこう述べる。「その頃は学校の近所には農家すらなく、まったくただひろびろとした武蔵野で、一方に丘がつらなり、丘は竹藪と麦畑で、原始林もあった。」と。

こういう土地が鉄道敷設によって一気に変わっていく。軌道を敷くために山や丘が崩された。荏原一帯は遺跡だらけだ。鉄道敷設工事だけではない、鉄道ができると町並みが形成される。どこもここも掘り返される。この頃、荏原郡を渉猟して歩いていた考古学に興味のある者は超忙しかった。
「どこどこの鉄道の切り通し工事で遺跡がゴロゴロ出たそうだ。土工たちが引きあげた後に行くトロッコの線路にそって土器が一杯落ちている!」
それ大変だ、ということでファンは駆けつけたらしい。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月24日

下北沢X物語(4192)―荏原ダイダラボッチ伝説考―

P1020376
(一)コロナ禍の中で時間はメリハリなく過ぎて行く。「一期は夢よ」という言葉があった。時は一瞬にして過ぎて行く。ついこの間西嶺町で会った人に「ここら辺縄文遺跡はどこにいってもゴロゴロあるんですよ、何しろ一万年もあったのですからね」、「えっ、そんなあったんですか、初めて知りました、恐ろしいですね!」、「すぐそこの沼辺には縄文時代の貝塚があったのですよ」、「私、沼辺には一時住んでいましたけど知りませんでした」、縄文時代の一万年というのは驚く。際だった変化もなくゆるりと時代が過ぎていたように思える。が、機械近代の始まりは明治5年(1872)として、これから150年が経とうとしている。この間の変化は凄まじいものであった。激動、どころか目が眩むほどの激変である。

(二)
考古学者の大場磐雄は江見水蔭に大きな影響を受けたという、江見は考古学的な探検に興味を持っていて「地底探検記」や「考古小説 三千年前」を書いている。これに深い感銘を受けた。それで考古学の道に入るきっかけとなったという。

私が江見水蔭を知ったのは『蛇窪の踏切』という作品がきっかけだった。まず驚いたのは明治四十年六月発表のこの作品の冒頭だ。これが洗足小池から始まっていたのである。しかし分かってみると何のことはない。

江見水蔭は品川に住んでいた。彼が品川に住み始めたのは明治33年(1900)のことだという。遺跡好きの彼は荏原一帯の山野をさるき回っていたようだ。品川からは稲毛道という古道があった。彼はこれを通って一帯の遺跡を調べていたようだ。洗足小池付近には馬込貝塚があった。

『考古小説 三千年前』は大正6年2月に発行されている。明治が終わって大正時代になった。日本の近代化は一層に進んでいた。これによって開発が加速していた。彼は、この小説の中で、「参謀本部の地図を見ても分る。加瀬の独立丘(標高三十二米突)の東南端に別箇の小丘が標記してある、それが殆ど全部消えて失く成って居る」と記録している。開発によって「貝塚が掘尽されたばかりでなく、其貝塚を有した山全部が無く成って了う世の中だ」と言っている。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月22日

下北沢X物語(4191)―ダイダラボッチと東工大―

P1020345
(一)東工大のある大岡山は常々渉猟している、ダイダラボッチ伝説地が回りにあるからだ。摺鉢山、狢窪、洗足池だ。が、東工大構内を通るとき一人ほくそ笑む。ダイダラボッチの左足が摺鉢山、右足が狢窪だ、そういうスタンスで彼が小便をした、そしてできたのが洗足池と言われている。が、この位置ででっかい棹を出して放水すると東工大に掛かる。そうなればきっとヤバいことになったと思う。理学関係実験に使う機機が小便にまみれてみんなストップして「ダイダラボッチ、ダラボッチ、ダイダラボッチ、ダラボッチ、東工にションベン垂らすなよ」と学生や教官から苦情が出るかもしれない。ただ東工は新しい、大正13年4月に蔵前から大岡山に引っ越してきている。ダイダラボッチが小便をしたのは五六千年、いや一万年も前のことだ。ションベンをしても狸が驚くだけだった。

(二)
谷川磐雄は東工大が大岡山に移転してきた翌年大正十四年三月二十二日、「荏原郡行」としてこの辺りを歩いている。まず洗足池だ。

(洗足)池畔に出ず。ここに望水館、宏陵館などという下宿屋出来たり。少しすすめば大岡山の停留所に出ず。付近に小料理、カフェー等多数出来たるは一層の驚きなりき。清水窪の遺跡は今高等工業の敷地となりて殆ど湮滅せんとす。試みにゆきて見るに、なお家屋を建てんとして土を敷ける箇所あり。そこにて厚手式土器破片数十、打石斧数個、石鏃片一個を得、僥倖をよろこびつつ辞し、万丈の遺跡を左に見つつ円融寺に入る。
大場磐雄著作集 第六巻 雄山閣 一九七五年刊


東工が当地に越してきて一帯が一層に開けた。まず、洗足池だ、風光明媚なここには都会人は別荘を建てた。が、近くに東工が蔵前から移転してきたことで下宿屋ができた。その名が「望水館」だという。この命名などは故国の親を惹きつける、「ごみごみした都会だが、池に面していて勉強も捗るだろう」と思わせたか。

洗足池から大岡山はすぐだ。今は目黒線、大井町線が通る。最初は目蒲線と言った。これは大正十二年震災前に開通した。震災を契機に東から人々が多く移転してきた。東工ができることで一層ににぎやかになった。小料理屋やカフェができた。学生や教官向けだろう。しかし、まだ造成中だった、そんなところを覗くと掘り出しものがゴロゴロ、一帯は遺跡の宝庫だった。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月21日

下北沢X物語(4190)―ダイダラボッチと電車―

P1020375
(一)昨日、大田区西嶺町の梅林で会った人と散歩談義をした。「歩くと脳が刺激される!」と語った。一昨日のことだ、巨人の右足跡の大岡山摺鉢山から、左足跡の千束狢窪へ向かった、大井町線の跨線橋を通ると保育園児が群れていた。「電車を見に来たんだね!」、「そうそう皆電車大好きなんです」と保育士さん、跨線橋は園児の電車観望台だ、「ほら、来たよ」というと手すりに捕まる、通り掛かった電車が警笛を鳴らす。「運転士さん皆鳴らしてくれるんですよ。きっとねお父さんなんですね」と保育士さん。「なるほど!」。園児たちが電車を見に来ていると知って警笛のサービスをしてくれる。ふと浮かんだのは柳田国男の『ダイダラ坊の足跡』の一節だ、「彼らはたくさんの歴史を持たぬ」という。園児たちも同じだ、ほとんど歴史を持たない、人生の最初に出会った電車は巨人みたいなものかもしれぬ。

(二)
「巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ」は、今週からやっと印刷に入った。昨年暮れから取り掛かったものだ。まとめるのに苦しんだ。一番の謎は、どうしてこれが大事にされてきたかである。柳田国男の『ダイダラ坊の足跡』は冊子をまとめるのに役だった。

彼の論考の締めくくりに出てくる、「彼らはたくさんの歴史を持たぬ、そうして昨日の向こう岸を、茫洋たる昔々の世界に繋ぎ」と述べている。彼らとは古代人のことだ。言ってみれば生まれて間もない園児たちと同じだ。世界が把握されていない。そんなときに出会った電車は、彼らには巨人である。柳田は続ける。

伝説は昔話を信じたいと思う人々の、特殊なる注意の産物であった。すなわち岩や草原に残る足形のごときものを根拠としなければ、これをわが村ばかりの歴史のために、保留することができなかったゆえに、ことにそういう現象を大事にしたのである。
一目小僧その他 所収 『ダイダラ坊の足跡』 角川ソフィア文庫 二〇一四年刊


人間がどう生きるかという問題は常にある。が、古代人にとって時間は茫洋としてあるのみだ。やはり生きて行く手がかりが必要だ。自分たちの物差しである。その場合、「岩や草原に残る足形」は大きな根拠となった。生まれていくらも経たない園児たちが電車に出会って憧れたのと同じだ。自分たちの身近にあった巨人の足跡を大切した。大男の痕跡は国のできはじめを想起させる。それがダイダラボッチである。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月19日

下北沢X物語(4189)―谷川磐雄とダイダラボッチ―

P1020365
(一)来月末に世田谷代田駅前にダイダラボッチの足跡をかたどった広場が完成する。代田のダイダラボッチは柳田国男が『ダイダラ坊の足跡』で取り上げたことで全国的に有名になった。ダイダラボッチ広場が発案されたのも彼の影響が大きい。興味深い点はダイダラボッチ伝説が伝わって行った筋道である。柳田国男は『ダイダラ坊の足跡』でこう書いていた。武蔵野会の雑誌で代田の隣りの駒沢村に二つのダイダラボッチが書いてあったことを知ってこれに興味を深めたと言っている。これを紹介していたのは考古学者の谷川磐雄に他ならない。この谷川自身は考古学に深い興味を持ったのは江見水蔭の影響が大きかったからだという。確かに江見の考古小説『三千年前』は荏原郡と橘樹郡の遺跡めぐりの面白さが書いてある......江見水蔭、谷川磐雄、柳田国男、伝説リレーである。


(二)谷川磐雄は『武蔵の巨人民譚』(大正八年十二月に発行雑誌「武蔵野」)を発表した。これによってダイダラボッチ伝説が広まった。
彼は考古学の道に入ったのはどうしてか、経緯についてはこう記している。

大正五年(中学校三年)のある日、地理担任の先生から、初めて貝塚や石器時代のことを聞いて感激し、偶々江見水蔭の『地中の秘密』や『地底探検記』を読んで、一層燃え上がり、遂に自ら石器の採集に出かけ、考古学の初歩に足を踏み入れた。
大場磐雄著作集 第六巻 雄山閣 一九七五年刊


さらに鳥居龍蔵や折口信などの影響を受け、考古学と伝説にも興味を持ち、「巨人伝説については各種の雑誌や図書を渉猟して全国的な分布を調査した」(同著)と言う。

谷川磐雄の考古学日記とも言える「楽石随筆巻一」の冒頭には、全国の「巨人伝説一覧」が載せられている。この中で「武蔵国」の具体例を挙げている。この中の荏原郡関係は次のように書いている。

代田橋のこと(紫の一本)、荏原郡の足跡伝説、「駒沢村上引沢」、「会野沢」、「碑衾村谷畑」(以上鈴木氏報)、「衾スリバチ山」「狢窪」(自ラ聞ク)......中略......下末吉のダイダラボッチ(口碑)

〇代田橋 だいだらぼっちが代田橋を架けた 「紫の一本」を通して知った。
(「紫の一本」は戸田茂睡による江戸時代前期の仮名草子)
〇荏原郡の足跡伝説
駒沢村上引澤、会野沢、碑衾村、この三カ所については鈴木堅次郎から直接話を聞いた。
〇「衾村の摺鉢山」、「狢窪」、この二つについては自身が現地に行って聴き取った。

橘郡関係
〇下末吉のダイダラボッチ
谷川は下末吉に遺跡採集に行っている。そのときに地元民からダイダラボッチ伝説を聞いたようだ。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月18日

下北沢X物語(4188)―失われたダイダラボッチ伝説を求めて3―

P1020355
(一)目黒区、世田谷区、大田区、品川区はかつて荏原郡と呼ばれていた。西に隣接した郡が橘樹郡である。荏原には代田を初めとしてダイダラボッチ伝説地は多い。巨人伝説は土地固有のものではない。広域的に存在する。橘樹郡も例外ではない。しかし今日まで伝わっているのはここでは菊名池の伝説だけである。橘樹郡と荏原郡の伝説比較という観点はおもしろい。代田の場合は江戸に近い。この脇には堀内道がある。池上本門寺と堀之内妙法寺とを結ぶ道だ、江戸からの参詣人が多く通ったゆえに人に知られたということはある。橘樹郡の場合も下末吉にも影向寺にもあった。が、江戸市域から遠かったことによって残らなかった。さいたま市の太田窪でも同じことを感じた。伝説の残存は江戸との距離が関係すると考える。

(二)
ダイダラボッチ伝説を求めて影向寺を訪れた。寺の名を「エイコウ」と読んでいたが違っていた。「ヨウゴウ」である。固有名詞ではない、普通名詞だ。神仏が仮の姿をとって現れること、神仏の来臨のことを言う。

影向石も普通名詞だ。「遠くの神を遙拝したり、来臨する神を拝んだりする場所にある石。また、その石にまつわる伝説。拝み石。」のことを言う。この石は古くから大事にされていた。これにまつわるダイダラボッチ伝説があることから訪れた。
その石は囲みを作ってしっかりと保存されていた。解説版もあった。
P1020356

影向石

当時のいわれとなった霊石。奈良朝に本寺創建のとき、ここに美しい塔が建てられ、その心礎として使用されました。心礎には仏舎利が納められ、寺院の信仰の中心となります。「影向」とは神仏の憑りますところのことで、寺域は太古より神聖な霊地、神仏のましますところとして、信仰されていたものでしょう。幾星霜をへ、塔が失われた以降、この影向石のくぼみには常に霊水がたたえられて乾くことなく、近隣から眼を患う人々が訪れて、その功験によっていやされました。江戸のはじめ万治年間に薬師堂が火を蒙ると、本尊薬師如来は自ら堂を出でてこの石の上に難をのがれたといわれ、それ以来、栄興あるいは養光の寺名を影向とあらためたと伝えられます。

昭和51年5月吉日 重要文化財保存会


「影向石」は、三重塔の心礎石だということだ。石の真ん中に抉られた窪みがある。これはダイダラボッチがつけたものという伝説がある。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月16日

下北沢X物語(4187)―失われたダイダラボッチ伝説を求めて2―

P1020361
(一)今春3月末に世田谷代田駅前広場が完成する。ここにはダイダラボッチの大きな足跡がかたどられている。お披露目に向けて冊子「巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ」をまとめた。「代田ダイダラボッチ」は全国的に有名だ、その功績者は柳田国男に他ならない。「長さ約百間もあるかと思う右片足の跡が一つ、爪先あがりに土に深く踏みつけてある」(『ダイダラ坊の足跡』)と数値を挙げて説明している。巨人の足跡を具体的にイメージさせた点は大きい。これが大きな発信力となった。全国各地には処々方々にダイダラボッチ伝説は数多くあった。ところがその多くは伝承されずに潰えている。記録が残っていても伝承が途絶えたものも多い。川崎市宮前区の「影向寺」のダイダラボッチ伝説もその一つだ。

(二)
今から12年前(2009年10月17日)に「下北沢X物語(1427)〜荏原ダイダラボッチ比較論5〜」で谷川磐雄『武蔵の巨人民譚』を紹介した。橘郡の二箇所のダイダラボッチが記録されている。そのまず一つ目だ。

又橘部下末吉村にも同じ-足跡地と称する地があってすぐ傍には貝塚がある。

最初に「又」とあるが、これは荏原のダイダラボッチを紹介した後の展開であるためにこれを使っている。まず荏原郡が先で次が西隣の橘郡となっている。

下末吉、どこかで聞いたことのある名であると思ったら。「下末吉海進」があった。ネットで検索するとたちどころに出てきた。

横浜市鶴見区、JR 鶴見駅の北方の鶴見川沿いに、末吉という地域があります。末吉は鶴見川上流の上末吉と下流の下末吉に分けられています。下末吉海進はこの地名から名付けられたのです。

驚きである。下末吉海進のみならず地層、下末吉層も有名だ。これは下末吉の宝泉寺裏に地層の露頭があった。ここを模式地と東京大学の大塚弥之助教授が1930年に名付けた地層だという。

地名としての下末吉は、現在の横浜市鶴見区の町名として残っている。下末吉1丁目から下末吉6丁目だ。この6丁目に県立鶴見高等学校がある。この校内には小仙塚貝塚がある。縄文時代後期のものだという。このすぐ北に神奈川県立三ツ池公園がある。これが足跡池なのであろうか。

ダイダラボッチ跡があって貝塚がある。想起されるのは『常陸国風土記』の大人伝説だ。
すなわち巨人がいて大きな腕を伸ばして海の貝を採っては食った。その貝殻が貝塚となったという話だ。

小仙塚貝塚のすぐ北側には、三ツ池公園がある。ここが足跡池ではないかと思われる。消失したダイダラボッチ伝説の一つは、下末吉ダイダラボッチだ。
ここは現地に行って調べる必要がある。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月15日

下北沢X物語(4186)―失われたダイダラボッチ伝説を求めて―

P1020350
(一)久しぶりに文化探訪に出かけた。鈍ったと感じたのは方向感覚だ、「あんた方向が全く違うよ」と道を聞いた人から言われた。方位勘は鋭い方だったが狂ってきた。親切に道を教えてくれた親父さん、「ここはな大昔は海だったんだ、すぐ裏手の山、多摩丘陵の末端だよ。そこに貝塚もあるしよ......」こちらの興味関心と近いものを彼は持っている。かつては海、想像することは大事だ。私の目当てはダイダラボッチだ、これははるか昔縄文時代まで遡る話だ。今回の課題は、失われたダイダラボッチ伝説を求めての現地調査である。目的地は川崎市宮前区にある天台宗の寺院「影向寺」である。文化探査では直行はしない。遠い最寄り駅で降りて歩いた。降りた駅は東横線元住吉駅である。日頃利用している線だ、が、元住吉は一度も降りたことのない駅だった。

(二)

影向寺は前から気になっていた。荏原郡のダイダラボッチ伝説地はほとんど探訪していた。が、隣接する地域はあまり行っていない。今回は当荏原郡の西隣、橘樹郡の影向寺(ようごうじ)である。

検索で「影向寺 ダイダラボッチ」と入れてみる。すると自分のブログが引っ掛かる。
12年前の、2009年10月17日に記事をアップしている。「下北沢X物語(1427)〜荏原ダイダラボッチ比較論5〜」である。ここでは谷川磐雄『武蔵の巨人民譚』に掲載されたダイダラボッチ伝説地を網羅している。

ここでは橘樹郡の二つのダイダラボッチ伝説地が紹介されている。一つは「橘郡下末吉村に足跡池と称する池」、もう一つは「又同郡の橘村の影向寺」である。前者も興味深い、「足跡池と称する池」があったという。

下末吉横浜市鶴見区の町名だ。現行地名としては下末吉一丁目から下末吉六丁目がある。地形から池の所在を探すことは容易だろう。聞き込みもできる。が、こちらは広すぎてピンポイントで探すのは容易ではない。

後者の、「橘村の影向寺」は、具体的に寺名が記述されていて現存する寺ゆえに調べが容易である。実際、影向寺に影向石があってこれはダイダラボッチが傷つけたという。これはぜひ見てみたい。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月13日

下北沢X物語(4185)―コロナ禍と風景―

P1020342
(一)人間は危険を避ける本能があり見晴らしの良い場を好む。本能的なポジション取りである。眺望がよく見えて自分は他の敵から見られない場所に潜む。いわゆるアプルトンの「眺望隠場理論」である。コロナ禍では眺望よりも隠場だ、心的な風景観が大きく変わってきていることが想像される。動物は危険に対して敏感だ、報道などで繰り返し流れているのが密を避けよだ。それで風景としての密は危険なものとして忌避される。しばしばテレビで流されるのは品川駅コンコースの通勤者だ、密の典型風景だ、「あんなところに行ってはいけない」、コロナ禍における悪風景サンプルだ。スーパーなどでも買い物やカートの把手を念入りに消毒している人がいる。現実風景の至る所に菌がうようよいる、これも心理的な風景だろう。今、人は、自身を隔離し隠場に潜もうとする傾向がある。

(二)
常々散歩するが葬祭場の脇をよく通る、かつてだったら花環が数多く飾られ、葬儀参会者の群れが数多く見られた。この頃ではそういう光景は全く見られなくなった。葬の風景が激変してきている。

ネットなどでこういう事実が報じれている。「第1波、第3波では直葬が増え、直葬が一般的な葬儀を上回ることもあった」と。直葬は通夜や葬儀を行わないで火葬場直行ということだ。

人はこれまで通夜や葬儀を行い、死者との別れをしてきた。が、これが省略されている。コロナ死は悲惨だ、死を看取ることができない。袋に入れられたまま直葬される。

人々の死生観が大きく変わってきている。前の経験だが歳を重ねると葬儀に出ることが多くなるという実感があった。が、この数年葬儀には出たことはない。今はこの葬儀は身内だけで行うことが一般的になっている。その人の死を年賀状で知ることが多くなった。
生きている者の死生観も変化してきている。自身もひっそりと死にたいと強く思うようになっている。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月12日

下北沢X物語(4184)―近代コロナ禍風景論―

P1020341
(一)風景・景色は時代時代で変わってくる。突然に襲ってきたパンデミック、コロナ禍
によって社会の風景は激変、代表例は人のマスク姿だ。町には閉店の張り紙、シャッターを下ろした店、ベンチには立ち入り禁止のテープなど。社会生活が逼迫してきている。特には交通の変化だ、タクシー会社の車庫には動かぬ車、飛行場は閑散、新幹線もガラガラである。が、よいことがないわけではない。青空の復活だ、空が恐ろしく透き通って見える。海外からはヒマラヤの山岳風景がくっきり見えるようになったという報もある。が、日常の見た目の風景はそんなには変わらない。しかし目に見えない我々の心理風景は激変している。表だって出て来ないのは葬の風景だ、葬列を見かけなくなった。が、人が死なないわけはない、とくにコロナ死は悲惨だ。肉親だけで済ます、一般死も多くが家族葬で執り行われている。人々の死風景、死生観が大きくコロナ禍によって変貌している。

(二)
英国の詩人、ワーズワースに「汽船、高架橋、鉄道」という詩がある。産業革命によって生み出された機械であり、構造物である。新しく出現した風景、これらを讃えた詩である。その冒頭の三行だ。

「移動」と「利便」よ、なんじらは、いま陸と海で
古来の詩情と衝突しているが、そのことで
公正な詩人が間違った判断をすることはないだろう。
英国鉄道文学傑作選 ちくま文庫 二〇〇〇年刊


近代化は汽船、汽車が出現することで始まった。「汽船、高架橋、鉄道」は象徴的な風景だ、煙を吐いて海をゆく大型の汽船、蒸気を噴いて力強く走る汽車、これを通すための市中の高架橋、近代が産み出した偉観である。

機械の出現によって時間と空間とが抹殺された。驚く程の移動の速さだ、人々は短時間でA地点からB地点に行くことができるようになった。利便性が飛躍的に高まった。

が、問題が指摘される。古来の詩情との衝突だ。鉄道敷設は自然を破壊した。山をうがち、田畑を潰した。鉄道は故郷を、自然を破壊した。ディケンズは「ダルバラの町」でこういう。

消えてしまった。二本の美しいさんざしの木、生け垣、芝生、きんぽうげやディジーなどはすべて石ころだらけの線路道に変っていたし、駅の向こうには、醜い陰険なトンネル怪獣が口をぱっくり開けていて、まるでそういったものは全部呑み込んでしまったよ


故郷の懐かしい風景は鉄道がすっかり壊してしまった。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月10日

下北沢X物語(4183)―ゴルゴンダの森を破壊したのは誰か―

uganda-2111153_960_720
(一)コロナ禍によって日常生活のあらゆる点で大きな変化が起こっている。顕著な例は折り込み広告が激減したことだ。週末の広告は一抱えもあった。元日などは数キロもあった。何十年と続いてきた日常である。東南アジアにある熱帯雨林、「ゴルゴンダの森」はあるときにブルドーザーが入ってきて樹林を伐り倒し始めた。森の恵を得て暮らしていた多くの部族はそこを追い払われた。生きる道はスラムの住民となってゴミを拾って暮らす。「ゴルゴンダの森」はなぜ破壊されたのか。チップの原料を作るためだ。砕かれた樹木は日本に送られて、これが紙製品となった。広告の紙、新聞紙、雑誌や本、このチップが飽食ニッポンを支えてきた。私たちが間接的に熱帯雨林を破壊させた。今から四半世紀前に『トロッコ少年ペドロ』は発刊された。物語であるが取材に基づいている。

(二)
美しいゴルゴンダの森はどのようにして破壊されたのか。住人の一人だったミルラが語る。

「それで森がどうしてなくなったのかはお母さんから聞いたの。ある日のことなんだけどね、とつぜんに森の向こうで大きな音がしたというの、それでみんなびっくりして、その音のするほうにいってみたの。そしたらみたこともない大きな機械がうなりをあげて森の木をどんどんなぎ倒していたのよ。それはブルドーザーだったのね、道を作るために運びこまれたのよ。木を伐り出すための道をね。そのブルドーザーは緑の木々をまたたくまにひきたおしていったのよ。それからはもうひどいものよ。道ができると大型のトラックがなん台も入ってきてね、手あたりしだいに切り倒された森の木はつぎつぎにそれで運ばれていったの。伐り倒しはどんどん進んでいって、それがとうとうわたしたちの村のそばまできたの。それで部族の人たちみんなが集まって、せめてこの森だけは切らないでほしい。これがなくなったらわたしたちの生活ができなくなるからと、木材を切り出している会社のえらい人にすがりついてみんなで頼んだの、でもね、森林伐採の許可は政府からとってあるからということの一点張りで、みんなの願いはまったく聞き入れられなかったのよ。それからはもうかってしほうだい、青々とした森の木々は根こそぎ切り倒され、そうしてね、ゴルゴンダの森は、しばらくして、すっかり丸坊主にされてしまったの。」
「..............」
ペドロは、返すことばがなかった。


続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月09日

下北沢X物語(4182)―ゴルゴンダの森「トロッコ少年ペドロ」―

Paradisaea_apoda_(male)_-KL_Bird_Park-8a
(一)コロナ禍に全地球が見舞われている。これによる死者は232万人達したという。人類に取っては大きな脅威だ。しかしこの原因を作り出したのは紛れもなく人間である。人間が営む文明は自然環境を破壊した、これによって生態系は激変した。その仕返しかもしれない熱帯雨林に潜んでいた未知のウィルスが人の生活領域に運ばれ、これが一気に感染爆発をして世界中に広まった。自然は調和によって保たれる。何千年、何万年も保たれていた。「トロッコ少年ペドロ」の中では長い間美しい姿を保っていた「ゴルゴンダ」の森がいともたやすく材を得るために一気に破壊された。それはそれは美しい森だった。森林から追い出され流浪の民となったミルラがかつてをこう偲ぶ。

(二)
貧民窟を走る鉄路には夜に豪華列車が通過していく。それを、ミルラは貧民窟に降りてきた極楽鳥と言った。その彼女がペドロに話し掛ける。

「さっきさ、『ゴミ箱にゴクラクチョウが降りたみたい』っていっていたけど、ゴクラクチョウって見たことある。」
「そんなものあるわけないよ。」
「ゴルコンダの森にはね、それがいっぱいいたのね。ゴクラクチョウといってもなん種類もいるの、別の名では、フウチョウともいってね、オウフウチョウにウロコフウチョウ、そしてコフウチョウ、これがとってもきれいなの。ふわふわした金色の羽を持っていてね、それが朝や夕方にね、高い高い木の上で長い長い金色の尾をふるわせて舞を舞うように飛んでいたの。うちの父さんは子供のころ、その様子を胸をわくわくさせながらながめたっていっていたわ。」
ミルラはゆっくりとした口調で話す。
「なんだ、きみんところの父さんの話か。」
「そう父さんの話よ。うちの父さん、いまはぼろくず集めをしているけど......父さん、勇士の家の生まれなのよ。」
「勇士の家って?。」
「部族の中で勇敢な血を受け継いでいるという家よ。だから男が生まれたら大きくなると勇士になるの。部族どうしの戦争が起これば、まっさきにかけつけてたたかわなければならなかったの。でも、部族どうしの戦争があったのはもう大昔のことでね、たがいの領分が話し合いで決まってからというものたたかいはなくなったのよ。住むことになった土地がとても豊かだったの。父さんたちは森の中に住んでいたのね。それはね、ゴルゴンダという森よ。うっそうと生い茂った木々がどこまでも続いている森なの。その森からはね、いろいろなものがいっぱいとれたの。なん百人という部族の人々を養うのにじゅうぶんだったったのよ。それで他の部族と争う必要はなかったの。平和だったのよ。ゴルゴンダにはどこまでもどこまでも続いている原生林があったのね。父さんたちの部族はその森からとれるありあまるほどの自然の恵みをもらって、みんながみんなのんびりと、しあわせに生きていたのよ。」
「ふううん。」
ミルラが、そんな話をしてくれたのははじめてであった。
「森にはいくつもの川が流れていてね、どんなに日照りがつづいても枯れることはなかったって。父さんや母さんたちは小さいころ、いつもそこで一日中、水遊びをして遊んでいたというの。うらやましい話よね。ここのスラムの子供たちはみんなしごとがあって遊ぶこともできないけど、それができたよのよね。森がめぐみをくれていたからよ。原生林の森には色んな樹がたくさん生えていたの。クイラの樹、ミルキーパイン、ペンシルシダー、そういった樹はね、家の材になるし、薬にもなったの。だけどね、部族の人たちはめったなことでは木は伐らないの。ふつうは木を伐ってはいけないの。だから、自然に枯れるまで人は樹木に手をだしてはいけないのよ。木の実だって枝から落ちるまで手をつけないの。木をそれだけ大切にしたのね。家を建てたり、薬が必要になったりして、どうしても木が必要なときは木の精霊のキムジナルに特別にお祈りをして、ほんとうに必要な分だけを森からもらってくるの。みんなを養い育ててくれる森を部族の人たちはそれはそれは大切にしたものよ。だから木の精霊キムジナルに対してはうやまいの気持ちは忘れなかったわ。なにしろキムジナルは恵みの神様だからね。森の中にある畑でどっさりとれるヤムイモやキャッサバだって森からの贈り物よ。森の土は養分が多いからいつも豊作なのね。そういうふうにしてありあまるものをいつも部族のみんなに分け与えてくれるわけだから、キムジナルをとてもたいせつにしていたの。だってあくせく働かなくったって、いつだって森に行けば食物は手に入ったんだもん。それもこれもみなキムジナルのおかげよ。」

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月07日

下北沢X物語(4181)―地球温暖化と「トロッコ少年ペドロ」―

CCI20210207 (4)_LI
(一)四半世紀前に上梓した処女作に信じられないような値段がついている。理由は推測するしかない。心当たりは一つしかない。この本が熱帯雨林問題に言及していることだ。美しい森林の中で自然の恩恵を受けて自給自足生活をしていた部族がいた。が、そこに忽然とブルドーザーが現れ、木々をなぎ倒してしまう。熱帯雨林の伐採である、これらは建築材として日本に輸出された。マングローブの森も伐り倒された。エビの養殖場を作るためだ。日本人はエビ好きだ、この需要に応えるために熱帯雨林が破壊された。ここで養殖されたエビのほとんどは日本に輸出された。経済大国日本は東南アジアの熱帯雨林を建築材、食材を得るために破壊した。今地球温暖化と言うが四半世紀前に原因はあった。巨大台風、大雨洪水など天候異常に見舞われるようになった。これらの原因になったのは日本の我々の消費生活にあった。熱帯雨林破壊と日本人という環境問題を記録している本として価値が出てきているのではないだろうか?

(二)
トロッコ少年ペドロは、列車が通らないときの線路を活用して物を運んでいる。これによってスラムに住む家の家計を支えていた。この線路には豪華国際特急が走っていた。屋台などがひしめくところにその汽車がやってくる。

「ビィビィヒョ〜ン、ビィビィヒョ〜ン..............」
汽笛をたて続けに鳴らして、「インラオエクスプレス」は急にスピードをゆるめた。
「どうかしたのかしら。」
「屋台のかたづけが間に合わないんだよ。」
列車のゆくてを見る。そこにはおおあわてで屋台をたたんでいる人がジーゼルのヘッドライトに映し出される。小さなほったて小屋がぎっしりと建ち並んでいるスラム街では、線路のある空間は貴重なのだ。夜はそこに食べ物屋の屋台がなん軒も並んだ。その店の持ち主は機関車の汽笛を聞きつけてようやく店を移動させる。かたづけが間に合わなくて、列車が立往生する。よくあることだ。
スピードを落とした国際特急列車「インラオエクスプレス」は、ペドロの目の前をゆっくりと通過していった。先頭の荷物車、つぎは一等寝台、それが五両、七両目はレストランカーだ。シャンデリアがキロロンと光り輝いている。それがまぶしく目に映る。その窓の一つ一つには赤いシェードのスタンドランプがともっている。
「まあきれいね。」
ミルラが思わず声をあげる。
「................」
ペドロは、口を大きく開けて、ただもう見とれているばかりであった。
テーブルをはさんで着飾った乗客が食事をしている。そのテーブルの上にはいくつものグラスが乗っていてキララと光る。頭にターバンをまいたヒゲ面の男がフォークを口もとへもっていく。それが光線のかげんでキロリと輝く。
「あれはきっとインド人よ。」
つぎの席には黒いドレスを着た金髪の女の人、向かい合っているのはスーツを着たほりの深い顔立ちの紳士、どこの国の人であろうか。そしてそのつぎには目鼻立ちが平べったい、色の白い東洋人がすわっている。
「あれはニッポン人という顔立ちね。」
都会のまん中でさまざまな人間を相手に花売りをしているミルラは一目で人種がわかるのだ。じっさい「インラオエクスプレス」はニッポン人観光客に人気があった。そのことは、ペドロも聞き知っていた。


豪華寝台列車には日本からきた観光客が大勢乗っていた。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月06日

下北沢X物語(4180)―処女作についた驚きの値段―

CCI20210206 (2)
(一)「トロッコ少年ペドロ」は処女作だ。とおに絶版となっている、ところがビックリだ、アマゾンの中古本で高額で売られている。何と一冊は29,800円である、もう一冊は56,223円である。二冊しか残っていないということでこの値段がついたのだろうか?が、単なる雑魚本だったらこんな値段がつくわけはないだろう。どんな理由があるのだろうか?発行は1997年12月1日である。もう二十四年前のことだ。この処女作への思いは深い、初めて手にした自分の本である。一晩中抱いて寝たことを思い出す。この作品、県単位で推奨される本としていくつかの県で推薦図書となった。田舎の本屋で平積みにされているのを見て感動したことを覚えている。

(二)
ネット検索で調べてみると、五年生にお勧めの本として紹介されている。

東南アジアの国のことを、みなさんはどれくらい知っていますか?
アメリカやヨーロッパのことは知っていても、日本にずっと近いはずの東南アジアの国のことは、よく知らない人が多いのではないでしょうか。

この本に出てくるペドロという少年は、東南アジアのとある国のスラムに住んでいます。今は小学校6年生。ペドロの国では、小学6年までがぎむ教育なのですが、ペドロは学校に通っていません。家がまずしいので、通いたくても通えないのです。ペドロが一日中トロッコをおして、かせいだわずかのお金で、ペドロの家族がくらしているのです。トロッコおしはとてもつらい仕事ですが、やめるわけにはいきません。子どもができる仕事はかぎられています。

では、ペドロは大変な仕事をしながら、つらいばかりの毎日をおくっているかというと、そんなことはありません。明るい南国の太陽の下で、ペドロは今日という日をいっしょうけんめいに生きています。スラムの人たちはみんな、明日食べるものもないほど貧しい生活をおくっていますが、心のやさしい人たちばかりです。


「トロッコ少年ペドロ」がどんな本なのか手際よくまとめられている。

続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月04日

下北沢X物語(4179)―コロナ禍時間をどう生きるか?―

P1020332
(一)時間とは何か、難しい問題だ、ただコロナ禍にあって常日頃感じている時間とは明らかに違ってきている。特徴的なのはメリハリがないことだ。時間というものはその時その時にトピックがあって充実する。それが全くなくなった。こういう災禍に遭遇することで通常時間とコロナ時間とが見えて来た。一日という時間は天体や季節の周期的変化を区切りの基準として一秒、一時間、一日と定めている。これに変化は全くない。が、コロナ禍において激変したのが内容だ、中身がスカスカになってしまった。時間がのっぺらぼうになってしまった。トピックがないので過去時間が希薄になっている。時間は過去から未来へと流れていくが基盤が崩れたことによって過去が記憶から薄れつつある。確固たる時間認識があって人間は人間たりうる。二月七日に緊急事態は解除される予定だった、が、これが三月まで延びた。さらに昼間も外出を控えろと、容易に想像されるのはさらに時間が希薄化していくことだ。コロナ禍時間をどう生きていくのか?

かつてよく聞いたのはグリニッチ標準時だ、が、これは今は原子時計に置き換わっている。原子や分子のスペクトル線の高精度な周波数標準に基づき最も正確な時間が測定されている。時間は全世界共通の物差しがあって正確に測られている。

時間は機械によって正確に測られている。が、しかしコロナ禍に遭遇して我々が感じたことは時間というのは人によって装飾されてきたことだ。

今までのカレンダーだと、〇日に街歩きがあって、〇日に会合があって、〇日に飲み会があって、〇日にお祭りがあって、とかでカレンダーが埋まっていた。が、今はほとんどが白紙である。

白紙カレンダーに予定を書き込むことで日にちに彩りがあった。例えば街歩きだ、もうこれはコロナ禍で中止している。

知らない町を歩けば多くの発見がある。土地土地の逸話を知って一層に土地に対する認識を深めることができた。

人生とは何か、逸話を探し歩くことである。言わばトピックの集積の中に我々は生きている。重層的なトピックを脳にしまいこんで経てきた年月の中身が充実する。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月03日

下北沢X物語(4178)―犬と赤ん坊の時間―

P1020012
(一)散歩していると乳母車によく出会う。赤ん坊かと思っていると犬が乗っている。老齢で散歩が難しくなった犬を気晴らしにと連れ出しているらしい。つくねんと座って移り行く景色を見ている。目の散歩だ、が、犬は視力は決してよくない。その代わり嗅覚が発達している。犬の記憶の倉庫は整理が行き届いていない。何時というのは不明だが臭いの記憶だけは引き出せる。カートに乗って臭いをアンテナ代わりにしている。あ、ここではチッピーちゃんの臭い、毛並みの可愛い犬だったがこちらを振り向くこともなかった。一方、赤ん坊だ、静物には反応しない。通り掛かる車や人への関心が深い、動くものを通して学習しているのだろうか。乳母車が止まると赤ん坊はむずがる。人間の子供には絶えざる変化が必要らしい。人間は最初からプロセスに対する感知能力が植え付けられているらしい。犬の場合は動物的だ、とりあえず臭いを手がかりにしていれば生存はできるのかもしれない。

(二)
時間は何時から発達したか、これは明治期からだ。それ以前、人々はコケコッコー時間や腹時計で過ごしてきた。鶏の声で起きる、そして腹がグゥと鳴ったら食う。言ってみれば古代時間である。が、これが激変した。

明治期になって汽車ができた。遠くに行くにはこの方がはるかに便利だ。通例では、江戸を早朝に発って横浜の先の保土ヶ谷宿か戸塚宿で泊まるのが一般だった。横浜まではおおよそ一日だった。が、汽車ができると新橋横浜間は五十三分で着いた。驚きだ。

「新橋を発車したとたん窓に横縞が走っていくんだ、何だろうと思っていると『よこはま』だという。驚いたのなんのって」
何が起こったのか?それは時間と空間との抹殺だ。人々にとっていわゆるコケコッコー時間はこれによって崩壊してしまった。

時間の観念は鉄道が開通することによって生まれた。汽車に乗るためには時刻に合わせて行かねばならない。鉄道開通によって時計屋が繁盛したことは言うまでもない。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2021年02月01日

下北沢X物語(4177)―コロナ禍の三茶を歩く―

P1020333
(一)パンデミックという全く経験したことのない災禍に遭遇している。いつもであれば人に話を聞ける、が、マスク越しに通行人に話は聞きにくい。自身の目で観察するよりほかはない。昨日はキャロットタワー三階にある市民支援活動コーナーへ会報の印刷に行った。閑散としていた、算数を子供に教えている先生の声のみが響いていた。三階から下へ降りる、ここにはHIS、いつも賑わっていた旅行会社があった。これが畳まれて歯科医院に改装中だった。コロナは人から旅を奪った。飛行機も新幹線も乗客が激減している。JR東海は乗客の激減で400名を一時帰休させると。旅客減は深刻だ、出掛けられないからちょこっと三茶のホコ天でという気分だろう。このホコ天ずっと実施されている。政府や都は不要不急の外出は控えてというが街を歩くと「国民の皆さん適度にお出かけください」と言っているように見える。推奨語と現実には大きな隔たりがある。

(二)
町を観察しながら歩いた。一軒のブティックは「閉店セール中、今日まで」と。お出かけ系と関わる商売はきついようだ。「洋服の青山、2割の160店舗を閉店 正社員400人の希望退職を募集」とのニュースも耳新しい。お出かけ系は駄目で、装い系も苦しい。

「駅のすぐそばのくつ下屋さんが閉店するみたいなの」
下北沢の月村さん情報だ。これは興味深い。人が出掛けてこそ靴下は売れる。当方は毎日十キロは歩く、靴下は必須だが、多くの人は家で過ごしていて靴下はすり切れない。
彼女の情報では近所に「産婦人科が開業しました」と。これは興味深い。高齢化社会だ、子供がどんどん減っている。そんな中での産科の開院だ。
子供は希望である。散歩中よくすれ違う、「どんな子になるのだろうか」と見ているとバイバイをしてくる。かわゆい。

三茶で賑わっている店があった。「ヤマダ手芸店」だ。外出自粛せよ、その場合何をするか。読書、これはあるらしい。本が売れていると。私にも一冊書いたらとの話がある。が、充足した時間を過ごすには手芸だ。
「チクチクしているのが一番楽しいのよ」と私の知り合い。
続きを読む

rail777 at 18:30|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

traq

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /