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2013年01月

2013年01月30日

下北沢X新聞(2249)〜消滅間近:踏切群への哀歌10〜

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進歩や変化はこっそりと忍び寄ってくるものだ。地表から電車が消えてなくなることにほとんど人は関心を持っていない。
今日、小田急線下北沢3号(写真下)から東北沢6号(写真下)までを歩いてみて感じたことだ。踏切消滅などなんでもないことのようだ。

(一)
「踏切番のいない鉄路を横切るのは不安である」と寺田寅彦は書いている。
ついさっき通って行ったばかりの電車がレールをつるつるに磨き上げている。そこをまたいでいくときにひやりとする。踏切には殺気が漂っている。

田中貢太郎に『妖女の舞踏する踏切』という掌編小説がある。「青空文庫」に載っている。初出は、「新怪談集 実話篇」改造社 1938(昭和13)年だとある。

品川駅の近くに魔の踏切と云われている踏切がある。数年前、列車がその踏切にさしかかったところで、一方の闇から一人の青年がふらふらと線路の中へ入って来た。機関手は驚いて急停車してその青年を叱りつけた。
「前途のある青年が、何故そんなつまらんことをする」
すると、青年ははじめて夢から醒めたようになって、きょろきょろと四辺あたりを見まわしながら云った。
「それが不思議ですよ、ここまで来ると、このあたり一面に美麗な花が咲いてて、何とも云えない良い匂がするのです、それにそこにはきれいな女がたくさんいて、それが何か唄いながら踊ってたのですが、それが私の方を見て、いっしょに踊らないかと云って招くものですから、ついその気になって、ふらふらと入ったのですよ」


まず思ったのはどこの踏切かということだ。すぐ西は御殿山を切り通しで抜けている。このあたりにはないはずだ。目黒川を渡るとある。いわく因縁のある碑文谷道踏切である。「ああ踏切番」という歌にもうたわれた。踏切悲劇の起こったところだ。

「美麗な花」とあるが、この近くに妙花園という植物園があったのを思い出した。しかし、調べてみると昭和時代にはもう営業していない。

踏切の向こうに幻影を眺める。艶やかな女が歌ったり舞ったりしていて、その女性たちが誘う。男ははふらふらとなって誘われていく。

品川の御殿山切り通しの海側は権現山で、ここには狸がいて汽車に化けていた。踏切も妖女に化けて、人を誘い込むのかもしれない。
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2013年01月29日

下北沢X新聞(2248)〜消滅間近:踏切群への哀歌9〜

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踏切は人が思念を巡らす場である。終電後のここも思惟の庭である。自己を問うところでもあった。

日野啓三はこう書いている。これは井の頭線、下北沢2号踏切のことだ。

線路の両脇の家々の灯はほとんど消えている。踏切にだけ終夜の蛍光灯がついている。その明かりにレールの上面だけが銀色に光っている。先の方の下北沢駅のホームも反対側の新代田のホームも灯は消えている。電車の通らない小さな踏切の真ん中に立って、必ずのようにその真っ直ぐなレールを私は眺めている。
「梯の立つ都市」(集英社)所収「先住者たちへの敬意」 日野啓三


井の頭線下北沢2号踏切には独特の雰囲気がある。沢と沢との間にある。その証拠に踏切の下には小川が流れている。暗渠からは水音も聞こえてくる。私たちはこれをダイダラボッチ川と呼んでいる。代田の巨人の足跡、ダイダラボッチの辺りを源流としているからだ。

日野啓三はしばしばこの踏切に立ち止まって自己存在を考えることがあった。

終電が去って役目を終えた後の踏切には独特のにおいがある。雰囲気とか空気とかが違う。殺気が消えてしまっている。ところが、まだそれがそこはかとなく漂っている。動が終わっての静の中でレールを見つめる。

レールはひっそりと静まり返って銀色に光っているだけだ。時間だろうか。自分の生涯だろうか。灯の消えた駅と同じようにくらい駅との間。(同著)

彼が、踏切に立ち止まって考えているのは時間である。「手術の前後から、時間は線的ではない、過去から未来へと伸びる直線ではない、と私は思い込もうとしている。」

だが本当にそうなのか、という思いが深夜のレールを見つけているうちに浮かんでくるのだ。レールがそう問いかけるために踏切の真中で私を呼びとめる。やはり、時間は流れるのだと。しかもおまえにとってその流れは無限ではなく、渋谷の方が始点だとすると、より近い新代田の駅、その暗く人気のないホームがおまえの終点だと。(同著)

手術とあったが癌の手術だ。そういう病気を抱えて踏切を渡るとき去来するのは死である。時間は線的ではないと考えようとしたのはそれがあったからだろう。

小田急線下北沢二号踏切はなくなる。井の頭線下北沢二号踏切はなくならない。踏切の盛衰だ。これらの踏切群には固有のストーリーがある。有名、無名の人々に刻まれた物語がある。それぞれの踏切には、ここを通った人の思いがある。続きを読む

2013年01月27日

下北沢X新聞(2247)〜消滅間近:踏切群への哀歌8〜

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(一)
踏切とは何か。人が心を置く場でもあった。

俳人山口誓子に「踏切」をテーマとした連作がある。彼は踏切が醸し出す雰囲気に愛着を感じていた。

この町を愛せば駅の土手青む

三重県四日市市富田の町のことをいう。しかし、どこであってもいいように思う。

「私はこの町を愛している。愛してこの町に住んでいるうちに、春が来て駅の土手も青くなりはじめた。私はそれを、「この町を愛せば」と屈折せしめて「駅の土手青む」とつけた。

住めば都、そこに住んで朝な夕な通り掛かるところに土手があれば愛着が湧きもする。鉄道交点一帯に土手は多くあった。小田急下北沢駅も切り通しに作られた駅だ。草が青むところもあったが今はもうない。

下北沢駅の前後には土手があった。東側には急坂の片側切り通し、西側には下北沢2号と3号の間には築堤があった。ここも前は草の緑が萌えていた。土筆もよく生えた。近所のお年寄りに聞くと、春の菜をよく取りに来たものだと言う。

昭和十九年十二月三日、近くのアパート静泉閣に住んでいた一色次郎はこの土手に登った。アパートに帰ってみると衣服に青い草の実が点々とついていた。

イノコズチである。さっき小田急の土手へちょっと上ってみた。何も見えないのですぐにおりてきたが、その拍子についたのに違いなかった。何の気もなく指をのばしたが、私は、その手を引っ込めた。......中略......私たちの頭上では敵味方の飛行機が入り乱れて、むごたらしい殺し合いをやっている。しかし、この草の実はそんななまぐさい戦争にかかりあいなく、生きている。
『東京空襲』 一色次郎


この土手上からは、上空で展開される空中戦の模様がつぶさに眺められた。それで彼はよくここに上っていた。
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2013年01月26日

下北沢X新聞(2246)〜消滅間近:踏切群への哀歌7〜

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(一)
「下北沢に住んでいます」と言うと「いいところに」と言われることが多い。下北沢は東京の渋谷から吉祥寺に通じる京王電鉄井の頭線という私鉄電車の駅名であって、地名ではない。その駅から歩いて五分ほどのところに住んでいる。下北沢は渋谷からの井の頭線とともに新宿からの小田急線の駅も兼ねている。つまり交通の便がよく都心部に近いということが「いいところ」の第一の理由だろう。

「先住者たちのへの敬意」というエッセイの中で日野啓三は記している。下北沢駅のもっともいいところは利便性のよさだという。これは大きい。渋谷、新宿にも近いという点も大きい。ふらりと降りて何かをする。好都合だ。歯医者に行く、耳鼻科に行く、内科医に行く、まことに好都合だ。井の頭線ホームには病院の看板が所狭しと並んでいる。わけあってのことだ。

昭和九年の地図をみても医院が著しく多い。ふらりと降りて治療というのがあったからだ。このことは医院に限らない、教会もある。ふらりと降りてイエス様にお祈りをする。

牧師さんの中に当地に会堂を建てたのは神の思し召しだと言われる方もいる。が、利便性の高さこそが大きな理由だ。行き交う人々には教養を積んだ人が多い。一帯の教会はインテリの層の厚さゆえに当地に来ていることは間違いない。

戦後は今ほどに建物が混んでいなかった。随所にある教会堂の十字架は電車から見えた。
「電車から十字架を見て教会があるのを知り、入信した人もいるはずだ」
自分の想像でこの話をしたところ、カトリックの神父さんが「それはいました」と。

ちょっと降りて嗜む、これは短歌や俳句などもあった。今では歌会や句会はほとんど聞かなくなったが、戦後昭和三、四十年代まではあった。そのために歌人俳人の居住が多かった。
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2013年01月24日

下北沢X新聞(2245)〜消滅間近:踏切群への哀歌6〜

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(一)
下北沢鉄道交点は街の形状に特徴がある。鉄道クロスが中心になって街ができているからだ。異質な、鉄道の街だ、ここ場をイメージとして捉える場合もX交差の形が基本だ。

「小田急線と井の頭線が交差するひしゃげた座標軸が、頭蓋骨をじわじわと締めつけてくる。」と『街の座標』(集英社文庫)で書き表したのは清水博子である。

鉄道交差を座標として捉えた。彼女の頭脳に「ひしゃげた座標軸」が街の形として存在する。何かの折にそれが頭蓋骨を締め付けてくる。ひしゃげていなければ彼女を苦しめることもない。ゆがんでいるからこそ街の形状は明確に認識される。

彼女が述べる「ひしゃげた座標軸」は抜きん出た都市形象批評である。

下北沢鉄道交点は、ゆがんだ座標軸とゆがまない座標軸との関連において形成された。後者は明大前鉄道交差である。

帝都線、井の頭線は昭和八年の開通だ。明大前で京王線と交差して、永福町方向へ抜けている。なぜここだったのかというのは興味深い。

帝都線を敷設する場合は難関があった。一つは、渋谷駅を出てすぐの山をどう越えるか、それと、つぎには西からずっと続いてきている淀橋台地をどう越えるかという問題だ。前者は隧道で抜け、後者は明大前で京王線の下を切り通しで抜けた。

明大前を選んだのは淀橋台がもっとも薄いところだったからだろう。北沢川の支流が入り込んでいて自然の切り通しができている。台地はその関係で薄くて細い。

帝都線の前身は渋谷急行鉄道である。会社は、着工にかかろうとするが折からの昭和恐慌の荒波を受けて資金難に陥り、結局は小田急系の鬼怒川水力電気に株式を譲渡する。これが契機となって小田急系列の会社になる。続きを読む

2013年01月23日

下北沢X新聞(2244)〜消滅間近:踏切群への哀歌5〜

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(一)
人間は、頓挫するまでよりよい便利、より速い速度を欲望するという。恐ろしい動物だ。

近代は徹底便利追求であり、断固最速主義である。これへの疑義は差し挟めないほどだ。到達点はどこかというと、石川淳は「精神は絶えずより速い乗物を要求するものであり、人間の生理が破裂する限界に乗り上げるまで、速さにおいて絶対にあともどりすることを知らない」(「風景について」)という。「速さにおいて」は、便利さにおいてと言い換えられる。

石川淳は、この文章の中で「動く機械の発明は風景概念を抹殺している」と述べる。実際的風景と機械に運ばれて手に入れた風景には大きな遊離があるという。その懸隔を彼はカミュの言葉を用いて、「妄誕」と呼んでいる。つまり、言うことに根拠のないことを言う。最速の電車で着いたところで見る風景はその妄誕だという。
「お前さん、途中の風景はどうしたんだい?」
風景の神様が人間に向かって問うが、それについては知らんぷりするほかはない。

便利至上主義は、過程を抹殺する。途中はどうでもいい速くつけば、それが一番だということだ。

去年、調布駅を中心とした地上線が地下化した。その翌日、敗戦跡のような廃線跡をつぶさに見ていった。
「この子、外が見えないのがいやなんです」
電車の走らない踏切を見ていた男の子がいた。その母親がいっていた。真っ当であると思った。地下化して景色が見えなくなるのは苦痛だ。

ここ何十年と和光市まで教えに通っていた。数年前、副都心線で一気に行けるようになった。が、渋谷から和光市までの地下区間は苦痛だった。その前は、地表の風景を見ていって、着いていた。到達感、到着感があった。
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2013年01月21日

下北沢X新聞(2243)〜消滅間近:踏切群への哀歌4〜

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(一)
踏切には悲しい歴史が刻まれている。

こういうエピソードがある。地表線に使われているレールは記念物だ。これを輪切りにして記念品として配布するという手もあると考えた。関係者を通してそれができないかを聞いたことがある。
「現場を知っている者はそんなこと考えもつかないことだ。この辺り一帯の踏切では多くの人が亡くなっている。誰も賛成しない...」
およそそのような返答が戻ってきた。納得したことである。

語られざる踏切の歴史だ。これは表だって話題にはされない。しかし近代になって鉄道ブームが起こり、全国各地で私鉄線の敷設が始まる。ところが資金のない私鉄では官鉄のような安全設備には金を注げなかった。

木下杢太郎が書いたエッセイに『京阪聞見録』がある。この初出は、「三田文学」1910(明治43年)5月号だという。関西の方の話だが、関東とて事情は全く同じだ。

昨夕も近所の湯にいつたら電車の噂で持ち切りであつた。汽車には踏切番といふものがあるが電車にはそれが無いから、子供等には危險だと一人の男がいふと、番臺の女房が「ほんにさうどすな」と相槌を打つてゐた。(三月三十一日朝、神戸にて。)

風呂屋での雑談だが、鉄道事情がここに透けて見える。汽車は、当時でいえば官鉄である。これは踏切を設けて番を置いた。品川や大井町などに行くと今でも踏切がある。これには固有の名がついている。東海道線・「品川道踏切」、横須賀線・「苗木原踏切」などだ。ところが私鉄線の電車踏切には名がない。

「電車には踏切が無いから」、子供には危険だ。いわゆる第四種踏切というもので、遮断機も警報器もない。かつてはほとんどがこの踏切だった。

「線路の向こうに行くな!」、子どもへのしつけの一つだった。続きを読む

2013年01月20日

下北沢X新聞(2242)〜消滅間近:踏切群への哀歌3〜

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(一)
古代は曲線的で、近代は直線的だ。

古道は地形との折り合いを最優先とするので大概が曲がっている。ところが鉄道はこれとは反対だ。邪魔するものを克服しようとする、ゆえに切り通しがあり、築堤があり、橋やトンネルがある。

私は少年時代から飽きることなく車窓をながめてきた。眼福に預かってきたといえる。例えば、覚えているのは北陸線だ。初めてこの線に乗ったときの感動は忘れない。親不知あたりの線路は波打ち際を走っていた。沿線にある家々の柱は潮に曝されて白い、その屋根には皆石がのせられていた。うら寂しい風景が今も眼に浮かぶ。

車窓を眺めていると向こうから道が近づいてきたかと思うと、それを蹴飛ばすように今度は一気に離れてゆく。街道に沿って線路が敷設されている場合は、よくそんな風景にでくわした。

鉄道は真っ直ぐに走ろうと地形をぶったぎっていく。古道と鼓動を合わせようとはしない。そこで街道すれ違い風景が見られた。懐かしい懐かしい車窓風景だった。

近代の鉄道は敷設するのには資金が必要だ。莫大な投資をして線路が完成する。すると当事者は、恩恵施し人意識を持つようになる。「乗せてやる」という考えだ。

明治二十二年頃の新聞記事に次のような鉄道批判記事が載ったという。「汽車も営業であるから、その主人はたとえ政府でも、旅客にはお客様としての取り扱いをなす事。」と。
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2013年01月18日

下北沢X新聞(2241)〜消滅間近:踏切群への哀歌2〜

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(一)
踏切は特別な場だ。時間と空間とが衝突する所だ。海野十三は「恐怖について」というエッセイの中で、次のように書いている。昭和九年に記されたものだ。

私は踏切を通ることが恐しい。うちの近所には、番人の居ない踏切があつて、よく子供が轢き殺され、「魔の踏切」などと新聞に書きたてられたものである。あすこへ行き掛ると、列車が風を切つて飛んできて、目と鼻との間を轟々と行き過ぎることがある。列車が通過してから、その光つてゐるレールを跨ぐときに、何とも名状し難い戰慄を覺える。もしも自分の眼が狂つてゐて、列車が見えないのだつたらどうだらう。かう跨いだ拍子に、自分は轢き殺されてゐるのだ。人間といふものは、死んでも、死んだとは氣がつかないものだといふ話を聞いてゐるので、レールを跨ぎ終へたと思つても安心ならない。


海野十三は、世田谷若林に住んでいた。往事は、玉川電気、下高井戸線が近くを走っていた。現在の世田谷線である。この場合は玉電ではないだろう。ぐったんがったんと今でものんびりと走っている。ここの踏切に恐怖は感じない。恐らく当地に引っ越して来る前の家での話だろう。

轟々と響きを立てて列車や電車が過ぎたあとの踏切を跨ぐのは確かにこわい。車輪が通過していったばかりのレールの踏み面は鏡のようで、実際に渡っていく自分の影が映って見える。ほんの数秒前に列車が通っていったことを考えると怖じ気づいてくる。

茶沢通りの踏切、東北沢4号踏切は、恐怖を感じるところだ。東北沢側から急傾斜の坂を下ってきた特急などは、からたった、からたったと音を響かせて通過していく。とたんに踏切が上がって人や車が渡る。十両編成が過ぎたばかりのレールはぴかぴかだ。

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2013年01月17日

下北沢X新聞(2240)〜消滅間近:踏切群への哀歌〜

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(一)
「あれ、思い出すと、経堂駅ってすっかり寂しくなったと思うな。昔、踏切があったときにみんな踏切で立ち止まっていたけど、今はそんな人いないしな...」
ついこの間の土曜日だ。小田急が今春にも地下化するという話が話題になった。当然踏切の話なる。仲間の米澤邦頼さんが口火を切った。
どの踏切なんだろうか。経堂駅の東側にあった経堂逆1踏切のことだろうか。古道滝坂道渡っている踏切だ。

踏切は否応なく人が集う場だった。袖を接する場であった。物語が織りなされもした。荏原三大踏切物語の嚆矢は江見水蔭『蛇窪の踏切』だ。東海道線の踏切が閉まって人々が押しとどめられる。夕暮れの工場の引け時大井町の踏切にはどんどん人がたまってくる。
毛織物工場の若い女工、そして、池上帰りの学生風の男、彼らは足止めを食っていることを幸いに女工を口説く。

「はゝゝゝ、そう憤ッたもんぢやアないよ。袖振り合うも多少の縁だ。如何だい、暗がりで落ち合つて、女ッぷりも、男ッぷりも、お互い様で分からないけれど、其処が縁てえもんだ。其の方も三人、此方も三人、はゝゝ、これから何處かへ行つて、一杯遣らうじやないか」

言われた方の彼女ら三者三様だ。誘いに乗ろうとするのもいれば、年かさのは「お止しよ、何處へ引張つて行かれるか分かりァ仕ないよ」と警戒する。

汽車や電車を待つ間に縁が生まれる。しかしそれも機械が進入してくるとたちまちに壊される。「下り列車が、凄まじい勢いで走つて来た。つい、眼の先を通るのであった。男女の戯れる声も、老婆と嬶との泣言も...掻き消され」る。踏切が開くと縁は雲散霧消。続きを読む

2013年01月15日

下北沢X新聞(2239)〜「伊豆・小笠原孤の衝突」余波2〜

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(一)
地形のドラマは壮大だ。想像もできなほどの時間の中で行われている。理解を絶するものである。海洋系の「伊豆・小笠原孤の衝突」によって大陸系の日本列島の中央部が開裂けるした。それがフォッサマグナだ。

人びとの歴史はそういう地形形成を考えるといともはかないものだ。が、地形によって形成されたところに人は暮らしを営んでいる。土地の隆起の違いによって鍬の入れ方も違う、また、土地土地の質によって植えるものも異なってくる。文化の違いの多くは地形に基づくものだ。

かつて人びとは、地形や自然に対しては強い畏敬の念を持っていた。が、今人はそれを持たなくなっている。利便優先、そのためにつぎつぎに自然を破壊しつづけている。

前回の政権は「人からコンクリート」と訴えた。ところが、それはたちまちに潰え去り、現政権、「自民、公明両党は、景気対策として10兆円規模の大型補正予算を編成する方針だ」と伝えている。デフレ対策としてのカンフル剤だというが過去と同じ手法で土木工事を推進しようとしている。これによってまた自然破壊がされるということだ。

土木工事はキリがない。トンネルを穿てば、終わりだ。また、別の岩に穴を穿つ。日本の国土は蜂の巣状になっていくばかりだ。

一回限りで終わっていく公共事業ではなく、新産業を興すべきだ。とくにはエネルギーについての産業を興すのは重要だ。自然豊かな山、水、光、風、潮流など多くの資源が眠っている。これを推進することで雇用を確保していくことは未来にとっても大事だ。

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2013年01月14日

下北沢X新聞(2238)〜「伊豆・小笠原孤の衝突」余波〜

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(一)
「いやね、この山道って不思議ですよね、玉砂利とか小石が落ちていたでしょう。これってね、太平洋の沖合から近づいてきた伊豆半島が日本列島にぶつかったことと関係するんですよ......」
岩殿山ハイキングコースには稚児落としという難所がある。その岩の下で昼ご飯を作っている山おばさんたちががいた。その人たちにこの話をしたらびっくりしていた。

丹沢山地は南部フォッサマグナと呼ばれる地域の中心に位置しています。南部フォッサマグナ地域に分布する巨摩山地(櫛形山)、御坂山地、丹沢山地、伊豆半島などは、フィリピン海プレートの北端が衝突・付加した異地性地塊には、伊豆・小笠原孤の火山から供給され、陸地から遠く離れた海洋底に堆積した地層が分布しています。
『伊豆・小笠原孤の衝突』 有隣新書 平成十六年刊


この文章は、机上で読んでもよく理解できない。具体的な地形をイメージする必要がある。まずフィリピン海プレートに乗って北上してきた伊豆・小笠原島孤がユーラシアプレートにある日本列島に衝突する。丹沢山地や御坂山地は伊豆半島に付随したものでこれが大陸系の関東山地にぶつかる。それでこれらの山地は隆起してできた。岩殿山もそうだ。

これらのことを理解するのは難しい。行ってみないと分からない。岩殿山は岩盤だと思って登ってみると、礫岩だった。どうやら丹沢山地や御坂山地が海から引き摺ってきたものらしい。それが関東山地にぶつかって隆起して、岩山ができた。

礫岩に挟まれているつるつるした小石は岩からはがれて山道に散乱している。続きを読む

2013年01月12日

下北沢X新聞(2237)〜急遽開催、小田急線踏切巡りツアー〜

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(一)
このところ急速に郊外電車の地下化が進んでいる。3月16日には東横線、渋谷・代官山駅間が地下化される。このことは昨年、2012年から知らされている。それで、当会主催の、「都市物語を歩く」という例会では、2月16日に、現地上高架線の最後を見ておこうということで「『東急渋谷C曲線』の最後の曲を聴く」という街歩きを設定した。

小田急、梅が丘、東北沢間はまだだろうと思っていた。ところがこれがこの春にも行われるようだ。「シモチカナビ」は、工事情報の進捗を知らせている小田急のホームページだが、これによると、「2013年春 在来線を地下化します」と予告している。
〇参照ホームページアドレス。http://www.shimochika-navi.com/No27/index.html

「地下化切り替え日」の期日は明示されていない。が、今春にも地下化され、地表線の踏切はすべてなくなる。

この地表線の駅舎や踏切の物語については既に2007年3月20日に「下北沢X惜別物語」を発行した。地下化される区間にある踏切や駅舎の物語を、これには載せた。

2000部発行したが、もうこれはなくなってしまった。新版、「下北沢X惜別物語」を発行しようとの企画はあった。先年発行した北沢川文化遺産保存の会紀要2号としてだ。が、地下化は来年だろうと思っていたゆえその準備は進んでいない。

前々から踏切がなくなるときには、廃線直前ツアーをしようと仲間内では話していた。今年度は、予定に組んでいなかった。

3月16日の例会は、例年どおり「森茉莉の居住痕跡を求めて」にしていた。が、急遽これを「廃線直前踏切ツアー」として、代々木上原3号踏切から、世田谷代田1号踏切までを一つ一つ見ていく会にしようと思う。地表線踏切を記憶に残しておきたい。続きを読む

2013年01月11日

下北沢X新聞(2236)〜中央線地形慕情紀行2〜

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(一)
中央線は、私には慕わしい路線だ。高校生のときからもう何度も往復している。山岳路線の景観は何度通っても飽きることはない。

谷口梨花の増訂『汽車の窓から』にはこうある。

大月に行くと右窓に岩殿山が見える。武田氏の叛臣小山田備中の城址で、甲陽軍鑑に『駿河に久能、甲斐に岩殿、上野に吾妻、三所の名城なり」と称へられたもの、山上には古井、五層の塔、七社権現などがある。地殻の動きを土地の表層面に表したのが風景である。谷であったり、沢であったり、山であったり、これらには長い長い歴史がある。

屹立した岩山を巧く活用した山城である。山頂には「岩殿城」と記された大きな看板が建っていた。

岩殿城は、急峻にしてけわしい断崖をめぐらし、攻めにくく守りやすい戦国時代の難攻不落を誇る名城であった。
その上南方の桂川下流には相模武蔵。西方の桂川下流には谷村、吉田、駿河。北方の葛野川上流には秩父などの山なみを一眸におさめ、かつ峰火台網の拠点として近くの国々の情報を即座に収集できる重要な場所に築かれている。


辺り一帯四方の山がよく見えるところに位置し、狼煙で知らされる情報をいち早く集め、直ちに戦略を練ることができた。屹立した岩山であることが山城として大きな利点だった。

この岩殿山の景観は何度も眺めて通ってきた。しかし眺めるのと実際に登って見るのとでは大違いである。歩いていくうちに気づいたのはこの岩殿山の地質である。てっきり固い岩でできていると思っていたが、そうではないことを知った。礫岩であった。礫は扁平な円磨度の高い石である。丸みを帯びた小石は海の水か、川の水で磨かれたものである。礫岩は一部だけかと思っていたらそうではなかった。これが頂上まで続いていた。
当初は、下に流れている桂川の河床が隆起してこうなったのかと思っていたが、これほどに分厚いと川というのは考えられないと思った。続きを読む

2013年01月10日

下北沢X新聞(2235)〜中央線地形慕情紀行〜

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地形と人間、前者は果てしもなく長い時間の中で形成された、が、後者の命はそれに比すると哀れなほどに短い。
人間は瞬時瞬時を生きているに過ぎない。そうであるのに現今世界をすっかり牛耳っているように思っている。それは錯覚だ。儚い存在ゆえにそのように生きるしかないのかもしれない。

日々地形を歩きながら観察している。主には荏原武蔵野が中心である。谷の凹凸は面白い。意外なことに、この形状は南へ行くほど深くなる。歩きによるフィールドワークの面白さだ。

ところが世界というのはそこ中心にしていると狭くなる。ときに区域外へ出て、他と比較するとよりいっそう分かってくる。昨日、絶えて久しく行っていなかった山登りをした。歩いて発見したことは自分には衝撃的だった。

(一)
青春十八切符、有効五回、その最後の一回分をもらった。それで全国どこへでも行ける。かつてよく行ったのは飯田線だ。早朝に家を出て、東海道で豊橋へ行き、飯田線で辰野へ出て中央線で帰ってくるというコースだ。列車には飽きるほどに乗っていられる。が、時として、「各駅停車での難行ではないか?」と思うこともあった。

この頃は、旅をする場合、乗るよりも歩くことに楽しみを見出している。どこかの町にいくと必ず歩く。今回も、コースをさんざん考えた末、歩くことにした。選んだのは中央線である。

今、私は地形と人間という視点での物語を書いている。地を這うようにして山峡を走る中央線で多くの疎開学童が信州松本まで行った。一方遥か彼方の空の向こうから飛来してきた特攻隊とこの子たちとが偶然にふれ合った。深い深い地形の間(はざま)での出会いだ。

航空線と鉄道線によって結ばれた出会いだ。とくに後者の中央線は地形的に興味深い。
例えば、笹子トンネルなどは疎開学童にとっては一つの結節点だった。此方から彼方への境界であった。潜って向こうに行けば、故郷下北沢は遥か遠くなる。続きを読む

2013年01月08日

下北沢X新聞(2234)〜随想的鉄道交点文学論3〜

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(一)
鉄道のカーブには多くの逸話が埋まっている。溜(ため)である。鉄道交点地域でいえば、小田急線下北沢駅の西側だ。下北沢2号踏切からカーブは始まり、800Rで代田へ抜けていた。いいカーブだった。張りのある曲線美が女性の臀部を想起させた。が、小田急地下化工事によってこれは緩和され若い女性の尻は年を取ってしまった。

昭和二十年二月二十六日のことだ。朝アパートを出た一色次郎はこう書いている。

踏切番に様子を聞く。小田急は不通だが、井の頭線は大丈夫らしいというので下北沢駅へいく。駅まで来てみると、井の頭線もだめである。『東京空襲』一色次郎 河出書房

前夜二十五日の空襲で鉄道がやれれたからだ。彼のいうアパートは下北沢静泉閣である。建物の前が鎌倉通りで右にいけばすぐに踏切がある。下北沢3号踏切だ。ここには踏切番がいた。事故の多い踏切だった。カーブで見通しがきかない。とくに代田から下ってくる電車は速度も速いため急ブレーキをかけてもすぐには停まらない。

昭和十年七月十一日、早朝、マモリヤマ公園でラジオ体操が行われた。夏休み初日だ。代沢小の生徒古関清君は自転車で帰った。現、井の頭線、帝都線の踏切を過ぎると急坂だ。ここを一気に駆け下りて、小田急の踏切に行く坂を勢いをつけて上った。踏切にさしかかったところで代田側から下ってきた電車に跳ねられて亡くなった。

彼の姉も、昭和七年七月十五日にここで亡くなっている。姉と弟とが同じ月に亡くなった。そのことから地蔵尊建立の話が持ち上がり、「一万五千名」の賛同を得て昭和十七年七月にこれは建立された。戦争中であったにも係わらず多くの人の支持を集めた。

この数は重要だ。子を持った親の怒りが背景にある。当時、踏切の事故は頻繁に起こっていた。踏切安全設備などはない、それなのに就学前の子どもの事故は「保護者の不注意」とされていた。後から入ってきた人がつべこべいうでないという鉄道会社側の姿勢だった。ゆえに子を持つ親にとっては人ごとではなかった。

昨日、この鎌倉通り踏切、下北沢3号踏切での新たな事故の例がコメントにあった。梁田貴之さんからだ。「ぼくが小学校低学年の時、近所の永井さんといううちのお母さんと、おんぶひも年代の男の子が、鎌倉通りの踏切を北側から渡るところでダンプに巻き込まれ、二人とも亡くなりました。」と。

この個所、小田急が開通する前までは道はまっすぐだった。が、鉄道を通すための築堤がここに作られ、道はクランク状になってしまった。道幅も狭くダンプでは見通しも利かず親子をはねてしまったのだろう。続きを読む

2013年01月07日

下北沢X新聞(2233)〜随想的鉄道交点文学論2〜

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(一)
近代時間は淀むことがない。交通機関はさらなる速さを求めてやまない。その終わりはあるかというと、ない!、乗り上げて停まるまでは続くという。恐いことに、この近代を牽引しているのが誰なのかよく分からないことだ。

新交通システムで経験することである。先頭部に行くと運転士などはいない。駅に着くと停まって、扉が開いて、閉まって発車する。不気味だ。

鉄道なるものが初めて出現したとき人は理解に努めようとした。「長屋が火事を引いて走ってくる」と汽車を比喩的に捉えたそうだ。正体が分からないまでもなんとか現象を捉えようとしたことが分かる。動くことの仕組みに火があると考えたようだ。

しかし今日近代は、仕組みへの想像力は放棄している。分野分野が細部化してしまって自分ところの領分を知るだけで手一杯である。

「今の若い人たちは、インターネットによる高速性によって未来を見ている。が、過去に対する敬意を払って行かないと未来は見えてこない」
ぼんやりとテレビを見ていたら、出演者の誰かがそんなことを言っていた。

現代時間にはメリハリがなくなっている、刻みがない。ぬるりとしていて際限なく続いている。固有性が消えつつある。音のあるものも、臭いのあるものも消されていく。無味、無臭、無音、それを近代は求めているのだろうか。

鉄道の音は街を刻んでいる。これは確かだ。電車が走っていての街だ。これがなくなったとたん街は街でなくなる。

「始発が朝の五時何分に出て、終電が十二時何分に終わる。それが一日だった。が、音が消えて一日のメリハリがなくなったよ」
目黒線地下化、京王線調布付近地下化、このときに尋ねて行って人に聞き回った。およそこんなことを話している人がいた。続きを読む

2013年01月05日

下北沢X新聞(2232)〜随想的鉄道交点文学論〜

P1030394
(一)
昭和十九年八月十三日未明、代沢国民学校の疎開学童を乗せた汽車は笹子トンネルを通過した。そのうちの一人が「ずいぶん長いとんねるだと思った」と記している。彼は笹子トンネルという名前だけは知っていた。その名にし負う隧道を潜り抜けてみたら本当に長かった。

ここには少年の感動が隠されている。当時の、小国民の関心事は大きさや高さの順番だった。一に軍艦の大きさである。トンネルの長さも当然関心事だ。笹子トンネルは四番目に長かった。全長四千六百五十六メートルである。

第一位は清水トンネルで、こちらは九千七百二メートルであった。奥沢九品仏裏の、ねこじゃらし公園で出会った人は言っていた。
「おれは疎開なんか行きたくなかった。しかし、あの長い長いトンネル、清水トンネルを抜けて諦めがついたよ」
新潟方面に向かった者は清水トンネル、長野方面に向かった者は笹子トンネル、ここで踏ん切りをつけた。別れのトンネルだった。

暮れに淺間温泉に行ったが、松本行き「あずさ」はここをあっという間に通り抜けた。このトンネルに今では誰も気にとめる者もいない。

このトンネルのことで思い出したことである。検索で調べてみると自分の記事がみつかった。2005年10月5日の記事だった。

横光利一の父は鉄道の技師で関西本線の加太トンネルを掘っていた。北川冬彦の父親も鉄道技師でこちらは中央本線の笹子トンネルを掘ったようだ。詩の鉱脈の中に煌めきのある北川冬彦の才を早くに見つけたのは横光利一である。北川冬彦は横光利一と親しかった。

鉄道交点の文士群像の背後には鉄道遺伝子が潜んでいる。他に加藤楸邨も父が鉄道官吏で、その関係で出生が大月となっている。大月駅に勤務していたようだ。
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2013年01月04日

下北沢X新聞(2231)〜2013年、新年雑感〜

P1030399
(一)

人口減、過去最大21万人...出生最少103万人

年始めに流れたニュースの見出しだ。日々の街歩きの観察の中で何となく感じていることをこの数字が明確に示している。少子高齢化を端的に示したデーターだ。

シャッター街がますます寂れていく。住宅街の中にうち捨てられた家々、目にするのは老人ばかり、そして耳にするのは小学校の統廃合問題だ。社会、世の中が縮小に転じ始めている。

暮れ、大晦日に近くの大型スーパーに行った。男物の売り場でバーゲンをしていた。冬物の半額セールだ。二万円ほどのものが一万円だ。手頃な値段だと思って買おうとした。ところがあいにくその店のカードを忘れていた。次の日の元日からその店はやっている。売り場に行ってみると、その商品の値段が、半額の半額になっていた。元値の四分の一の値段で手に入れられた。幸先のよいスタートだともいえる。

羽毛ジャケットは自分の身体を暖めてくれる。だから私には幸いだ。が、すっきりはしない。このことの背後に大きな問題があるからだ。つまりはデフレだ。物が売れない、それで安値合戦が始まる。買う側にとっては好都合だ。が、このことが社会全体にとってよいことかは別だ。

つい最近の新聞の投書欄にあった。安値合戦でしのぎを削っている一人だ。結局利潤が出ないから人件費を削るほかはないと。かつかつ食っていた人がさらに低賃金を強いられる。格差社会の底辺は今相当に苦しい状況にある。
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2013年01月01日

下北沢X新聞(2230)〜第78号「北沢川文化遺産保存の会」会報〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第78号

2013年1月1日発行(毎月1回発行)

会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
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あけましておめでとうございます


今年もどうかよろしくお願いします
会報編集兼発行人
きむらけん


1、新年に改めて文化を考える

新しい年を迎えた。が、私たちのこれからは、先行き不透明で未来が見えてこない。
行き詰まった社会情勢が大きい。経済不況、デフレ、地震後遺症、原発への危惧、そして右傾化の強まり、どれをとっても明るい材料はない。

せまい日本 そんなに急いで どこへ行く

かつて聞かれた標語である。1973年(昭和48年)の全国交通安全運動のときに作られたものだ。すっかり廃れてしまったものであるが往事、何もかも走れ、走れという号令のもとにすべてが進行してきた。急がされるとゆとりがなくなる。事故も起きる。それでもう少しゆっくり走ろうではないか、のんびりと行こうよということが提唱された。今日現代でも充分通用するものだ。

この標語、単に速度をいうだけでもないように思う。急ぐことなく、休み休みして途中をよく見ようよという意味であったと考えてもよい。プロセスを大事にすることだ。ところが、今このプロセスがカットされている。途中などはどうでもいい、結果だけを重視するという考えだ。

ほんの数年前、「コンクリートから人へ」というスローガンが掲げられた。プロセスへの回帰だった。ゆえに
とても新鮮に見えた。ところが、政権が変わって逆行するようだ。また公共事業、コンクリートへ戻るという。これは安直だ。この事業は終わったら終わりだ。際限なく資金を注ぎ込むしかない。それもみな借金だ。

今一番大事なことは人が食っていける事業を興すことだ。とくにエネルギー関係への投資は大事である。福島第一原発の事故を通して我々は知った。放射能の恐ろしさ、原発の恐ろしさだ。爆発で降り積もった放射能の行き場がない。高レベル放射能廃棄物はどこにも持っていけない。どう考えても脱原発に舵を切るしかないだろう。当座よければ後は野となれ山となれというのはどう考えてもおかしい。

政権が変わって現政権は原発ゼロを見直し、これに頼ろうという施策に傾きつつある。このことに私は深い危惧を抱くものである。計り知れないほどの被害を起こした原発についての反省がない。

エネルギー問題は大事だ。避けて通ることはできない。日本は資源がないから原発は手放せないものだと言う。しかし、本当にそうだろうか。世界的に見た場合、日本は再生可能エネルギーのポテンシャルがずば抜けて高いことは知られていない。一平方メートル辺りで比較すると日本はずば抜けて高い。北米大陸の二倍、ヨーロッパの三倍もある。
北アメリカ30,4 南アメリカ28,1 ヨーロッパ20,4 インド45,5に対して日本は63,1もある。風力や太陽光発電のでの潜在能力だ。(エネルギーシフトへの挑戦、エイモリーロビンスからのメッセージ、NHKテレビから)

自然豊かな日本は風力、太陽光、水力、潮流などエネルギーに変えられるものがふんだんにある。これらを活用しない手はない。地震国である日本はいつまた巨大地震に襲われるか分からない。福島第一原発事故の再来は日本各地でありうることだ。方向としては原発から撤退していくことが必要だ。そして、豊かな恵みをエネルギーに変えていくというチャレンジは絶対に必要である。

与えられている自然を活用することは重要だ。太陽や風や地熱によって得られているエネルギーというのは安心がある。プロセスが理解できるからだ。が、原発はよく分からない。稼働したい側の都合のいい話によって動かされているという危惧が常にある。

文化は溜を大事にするものだ。その大本はプロセスだ。これを大事にすることによって人間が人間らしく生きられる。昨今はこれを省略している。旅などもプロセスを無視して、一気に飛行機で飛んで、一気に観光地を巡って、一気にバイキングでお腹を満たす。そのうちにみなメタボになってころころと死んで行く。人は商業主義の餌食になっているようにも思う。

私たちが提唱している文化はプロセスに還っていこうよということでもある。置き去りにされたプロセスをきちんと人から聞いたり、本で調べたりして記録している。それが冊子、地図、著作となって残されている。それは人びとが生きた歴史である。
例えば、前に代田七人衆の末裔の柳下政治さんに土地の歴史を聞いたことがある。「よくすればよくなる」と彼は言っていた。お稲荷さんを祀っているが、神様を日々大事にしていると自然と物事がよい方に向かうのだということを言っておられた。

文化とて同じだ。文化を大事にすればよりよくなる。つまりは人が長年かけてきた知恵には計り知れない生きるヒントがある。そういったことを調べたり、記録したりすることは大事なことではないだろうか。文化とは手順であり、プロセスだ。

文化と地形は関係が深い。地形の向きに応じて地蔵尊や庚申塔、富士塚などが置かれる。富士講碑などは山が展望できるところに置かれる。が、これも家々が建て込んでくるとビルの谷間に埋もれて、石碑が効力を発揮しなくなっている。

背尾根の十字路には地蔵尊が置かれる。区域外から疫病などの災禍を防ぐものでもある。村を護るだけではなく、人が手を向ける、手向けることによってその人の道中も守られる。相互恩恵を施すものであったといえる。辻辻に建っている地蔵尊、庚申塔、これも旅の道中の節目をも現すものだった。来し方を眺め、行く方を案ずる。立ち止まっては自分の位置を確認するところでもあった。

文化とは今の時間を味わうことである。ゆっくりと、のんびりと今年も文化を楽しんでいきたいものだ。

2、「下北沢文士町文化地図」改訂第五版発行

「下北沢文士町文化地図」五版地図の発行年月日は2013年1月1日です。新しく巡ってきた時間に、新しい切り口の文化を、新しい地図に記録しました。新しい出発です。

文人、歌人、俳人、作詞家、彫刻家、画家などが下北沢交点地域のどこに住んで何をしてきたのか。これらのことを考える視点は大事なことだと思います。居住場所から富士が見えたり、北沢川の音が聞こえたり、沿岸の菓子工場から甘酸っぱい匂いが流れていたり、欅の虎落笛(もがりぶえ)が鳴っていたり、そんなことが文学そのものに影響することはあることだ。

例えば、柳下家の大欅の虎落笛を聞きつけて加藤楸邨は旅心を誘われ隠岐の旅に出ている。また、森茉莉は下北沢へ行く道にある菓子焼き場の匂いを覚えていて、「恋人たちの森」の冒頭部でその辺りを物語の冒頭に描いている。本当にあったのは「ユーハイム」であるが小説上では「ローゼンシュタイン」と名を変えている。

居住している土地のことが文学に描かれているのは面白い。「下北沢文士町文化地図」には多くの文化人、芸術家の痕跡が記されている。実際に一帯の風景が、いくつもの文学作品に描かれている。
今回は、赤丸の文学関係のみならず青丸の芸術家をもつけくわえた。細かく調べているわけではないが居住した辺りの風景を描いている画家もいるようだ。

土地が文学作品や芸術作品にどのように影響しているかという点は興味深い問題だ。それともう一つは、当地に住んだ彼らがどのように行き来していたかだ。その辺りは交流史として記録されるべきだろう。が、多くは分かっていない。今回の「文士町」、アートタウン地図がきっかけになってまた新たな情報が寄せられるように思う。

今回の五版地図においても市民から寄せられた幾つかの情報が生かされている。五版を発信したとたん六版目への改訂が始まる。

裏面の古地図はとても好評である。今後、古地図の位置をずらしたり、年代をずらしたりして変えていくつもりである。改版されるごとに衣装が取り替えられる。ゆえに過去のものは過去のもので大事である。捨てないで取っておくべきである。

今回、前回と同じく一万部を発行した。費用については世田谷区「地域の絆再生支援事業」からの補助と市民からの寄金でまかなったものである。なくなる度に改版を出してきたが、継続は力なりだ。地道な努力の積み重ねが今の地図に結び付いている。
現在だと地図を発行しますから寄金をお願いしますで通じるが、かつてはそうではなかった。苦労の連続だった。いつも思い起こすのは田中良輔さんのことだ。金がないのなら私が出すといわれて個人で発行費用を出された。その彼も故人となってしまった。

今回、多くの方々に地図発行にしか使わない寄金を出していただいた。その方は必要な枚数を事務局から持っていってください。第五版、「下北沢文士町文化地図」の発行を喜びたい。
なお、イベントなどで地図を配りたいという要望があれば応じたい。当方に、連絡してほしい。北沢地区の小中には全校配布の手はずを整えている。
ただ北小と東大原はこれから洩れている。ここでも希望があれば配布したい。

3、都市物語を旅する会

私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地のにおいを嗅いで楽しみながらぶらぶら歩いています。参加自由です。 基本原則は、第三土曜日としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第80回 1月19日(土) 午後1時 豪徳寺駅改札前
新春恒例〜神社を巡って手と脚の健康を祈る〜
案内者 天羽大器 恒例新年の歩きぞめ。ご馳走で太った身体をスリムに!
豪徳寺駅スタート→世田谷八幡宮→烏山川緑道→松陰神社→若林天満宮→若林
稲荷→若林稲荷神社→太子堂八幡神社→鎌倉通り→邪宗門ゴール


・第81回 2月16日(土) 午後1時 渋谷ハチ公前
「東急渋谷C曲線」の最後の曲を聴く 東急東横線地下化!
渋谷駅→行きは代官山まで東横線東側→代官山から渋谷まで東横線西側
東横線高架とはお別れ。きゅきゅん、くきゅんという東急渋谷C曲線音楽最終章
・第82回 3月16日(土)午後1時 経堂駅改札前
再度チャレンジ滝坂道の森茉莉 経堂フミハウスから代沢ハウスまでまた歩く
・第83回 4月20日(土)午後1時 日暮里駅北口橋上駅舎改札前
上野のお山の文化探る
11月の特番で原敏彦講師の案内で谷中墓地を巡った。時間切れで回れなかった。今 回趣向を変えて、墓より団子、まず、羽二重団子を食べに行き、その後根岸の子規庵に行き、それから上野のお山の見残したお墓などを見に行く。定例会初の上野のお山探訪。
・第84回 5月18日(土)午後1時 幻影の下北沢猫町散歩
恒例行事。萩原朔太郎が亡くなった五月には毎年、彼が居住した下北沢、そして代田。彼の小説『猫町』の舞台を訪ねながら行くコースだ。最終地点は、世田谷区地域風景資産となっている「代田の丘の61号」鉄塔だ。ここには念願の「鉄塔由来碑」を建立した。これの見学会も兼ねている。
・第85回 6月22日(土)午前10時 代田橋駅改札前
下北沢地形学入門 外縁の水路を巡って下北沢へ 去年、笹塚「福寿」でラーメンを食べようと行ったがお休みだった。代わりに食べるところがあればそこで。昼食情報を寄せてください。
・第86回 7月20日(土)午後一時 田園都市線三軒茶屋駅改札前(中央)
恒例「駒沢練兵場を巡る」 熱暑行軍、一人参加催行。
まんまるの木がなくなりました。 三宿辺カフェご存じありませんか。

にじゅうまる申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも300円
参加申し込みについて(必ず参加連絡をお願いします。資料部数と関連します)
電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498

しかく 編集後記
さんかく文化とは、土の匂いのするもの、自分でするもの、楽しむものです。この新しい年に面白いことをしましょう。昨年についていえば、私が大体の計画を立てていたように思います。この間忘年会で一人一人の皆さんが自己プレゼンをしましたが外部から来られた人は驚いていました。それぞれが語るべきものを持っていると。何でもできるように思います。劇、読書会、音楽会、〇〇教室とか。私たちの会は義理人情の会ではありません。面白いと思ったことをする会です。何何をしますが集まりませんかは会報で呼びかけられます。
今年は皆さん、思い立ったら仲間同士で何かしてみるというのもいいかもしれません。
さんかく今回、会報の号数は78を数える。間もなく80号となる。一人で編集し、発行しているとマンネリにもなる。皆さん、ぜひ投稿してください。
さんかく会費納入のお願い。新しい年になりました。一応年単位の会費ですので期限がきれることになりますので1000円を納めてください。よろしくお願いします。会友は会費をとっておりません。これは県外の我らの仲間です。
・当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com
会報のメール配信もしている。「北沢川文化遺産保存の会」は、年会費千円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で入会を受け付けている。




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