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2018年09月

2018年09月29日

下北沢X物語(3611)−鉛筆部隊考察新事実−

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(一)疎開学童の記録が歴史真実を解き明かす。昭和二十年三月二十七日、一疎開学童が日記に「吉原さんが飛行機で富貴の湯のうえをちゆうかへりもした」と書き残した。この事実は動かしようがない。誠第31飛行隊・武揚隊に所属する吉原薫軍曹が、子どもたちを驚かそうと曲芸飛行をやってみせた。武揚隊の動向は謎である、が、この記録は沖縄に飛び発つ彼らが三月末まで浅間温泉に居たことを証明している。一方、この隊の兄弟隊の武剋隊は浅間温泉千代の湯にいた。鉛筆部隊が宿泊していた旅館だ。新たに見つかった手紙がある。武剋隊前半隊は三月二十七日未明に沖縄慶良間列島沖の敵艦船に突撃している。手紙の記述によって分かったことがある。翌二十八日に「十機十艦をよく屠る」という報道事実を学童は知っていたことだ。このことは歴史記録として伝えられていることとは違っている。ということは、疎開学童は事実を書き記し、報道は嘘をついていた、ということになる。

報道は、昭和二十年五月六日号の「週刊少国民」だ。ここに書かれた記事には、「四月一日の夜、ラジオの少国民シンブンに聞き入つていた学童たちは『アツ』と思はず声を立てました」とある。前半隊の「十機十艦よく屠る」というニュースのことだ。鉛筆部隊は、このニュースをこのとき初めて聞いて、宿中に歓声を響き渡らせた。驚きのニュースだ。が、これは嘘で、彼らは、もう四月二十八日の段階で知っていた。

なぜ、こう書いたか。記事のタイトルは「神鷲と鉛筆部隊」だ、選抜された特攻隊員たちと鉛筆部隊とが出会って、別れたという話である。報道を通りこしたドラマである。

学童たちが報道を四月一日に知った、というよりか知ったことにした。その方がドラマが盛り上がるからである。

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2018年09月28日

下北沢X物語(3610)−歴史片鱗が潜む交点の小学校−

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(一)文化探訪のきっかけは単純だ。自転車で通勤の途中、開かずの踏切東北沢4号で足止めを食らったことが発端だ。この町、変ではないか?ここから土地の文化に興味を持った、遮二無二ペダルを漕ぎ、そして歩き回ってきた。恐ろしいことだ、もう十四年になる。ひたすら聞き回った。多くの逸話を拾ってきた。その蓄積は、このブログの今日の数字3610がはっきりと示している。探し当てた事実は、国木田独歩が「武蔵野」でいうところの「小さな物語、しかも哀れの深い物語」に当たる。聞き出したさりげない事実が歴史に繋がっていく。下北沢小学校同窓会から講演を求められた、このことを地域の人々にどう話そうか?

鉄道交差路には人が集まってくる。ここを中心として幾つもの学校が創設された。が、人口減少時代の今、この学校が統廃合の憂き目にあっている。私に話があったのはその余波である。東大原、守山、北沢の三校は統合して下北沢小学校となった。各個別の学校の同窓生には有名人も多い。が、特定の一校に絞るのは難しいことのようで、私に講演の話が回ってきた。三校偏りなく話すのもこれまた難しい。現学校が位置するのは旧守山小学校だ。このすぐ裏手がダイダラボッチの足跡があったところだ。聞くところによると聴き手は、中学一年生から八十歳台までと幅広い。無難にこなせるのはダイダラボッチである。が、メールでのやりとりでは疎開のことも入れてほしいとのこと。
「さて、どうしたもんか?」

絞っていくとどうしても一校の話になる。東大原小である。ここの卒業生からは多くの話を聞き取った。建築家今井健次の息子さん、兼介さんからは数多くのことを学んだ。

当学校通学区域には多くの逸話が眠っている。この兼介さんの家の裏手にかつて住んでいたのが太田幸子さんだ。この彼女は浅間温泉に疎開していた。そのときの話が聞きたかったがなかなか会えないでいた。彼女の話で非常におもしろい話がある。この一つに絞って話をしよう。

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2018年09月26日

下北沢X物語(3609)−荏原都市時間論−

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(一)荏原都市には固有の時間がある。古代から近代に時代が変わるにつれ時間内容が変化した。前者は土地を基軸にした時間で、後者は東の、江戸や東京が意識された時間である。古代においては時間は濃厚で、これが近代、現代になってくると希薄になってくる。
まず古代時間だ、家の近くに万葉歌碑があって歌が刻んである。

草枕旅行く背なが丸寝せば家なる吾は紐解かず寝む

荏原に住む女性が防人に行った夫を偲んで詠んだ歌だ、私の夫は遙か遠く筑紫の国に防人として旅立った。途中では着替えることもなく野辺にごろ寝しては旅を続けている。家にいる私も衣の紐を解かずに寝ましょう。操を立てる誓いだ。苦難、困難を乗り越えて旅をする夫への思いだ。その筑紫の博多へは今は、東京駅から新幹線に乗ると五時間ほどで着く、安心、安全、便利だ。新幹線を見送った後、目黒の自宅に帰って衣を着替えても何の問題もない。女は紐をするりと解いて、テレビでメロドラマを観る。旅への思い、夫への思いはたちまちに忘れ去る、1200年前の思いは濃厚だった。熱い恋であり、熱い時間だった。

この2018年は、明治150年だ、その昔、明治五年に汽車が初めて走った。ラグーザお玉はこれの試運転を荏原大森まで見にいった。得体の知れない怪物が忽然に現れて自分を襲ってくるようだったと。が、今は新幹線が矢のように走ってきても誰も驚かない。この150年の進歩は恐ろしいほどだ。

初めて出現した汽車。とんでもなく新しい機械だ。蒸気機関車だけを機械とは言わない、線路と一体になったというものを言う。これが機械のアンサンブルだ。汽車が動いて継ぎ目で音を立てる、機械の合奏音だ、これが近代の今日を形成していた、近代時間観の根本には汽車がある。

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2018年09月25日

下北沢X物語(3608)−印象批評的荏原都市論−

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(一)日々荏原都市を歩いて逍遙している。目や口や足がその変化を感知する。先だって基準地価が発表された。東京は軒並み値上がりしている。地価ランキングでは目黒10位、品川11位、世田谷13位、大田21位である。土地需要が高いことからどこでもここでもマンション建築が盛んだ。とくに駅に近いところは建築ラッシュが起こっている。線でいえば東横線、田園都市線、小田急線である。これに比べると池上線などはだいぶ落ちる。昨日石川台駅へ行った。希望ヶ丘商店街がここにある。かつては賑やかだったが今はシャッターを閉めた店が多い。この左手の雪が谷の高台は古くからの高級住宅地だった。が、住んでいた人は現役を終えて家を始末してどこかに行った。移転先は全く分からないと地元の地主の言、ちょうどその折に湘南海岸に行った。平日なのに海岸にはごま粒を撒いたように人人人、上がってきたサーファーは白髪頭、脳裏に浮かんだの土地の売主だ、彼らは人生の余暇を波乗りで過ごしているのでは?、荏原では都心に近い品川、そして山の手の目黒、世田谷の地価が高い、大田は早く開けた分、高齢化が進んでいる。その変わり身は早いのかもしれない。

自身の荏原逍遙は遊歩道がコースとなっている。桜並木が続く、景観の良さからここに新築の家を買い求める人が多い。緑道は人を惹きつける、が、川跡であることは知らない。建ぺい率の関係から車庫は半地下にする、大雨のとき川が溢れる、真っ先に水が高級車を沈める。

遊歩道は、保育園児の遊び場だ、子どもは可愛い、遊歩道で行き会うとご挨拶、誰彼構わずに「バイバイ」をする、釣られてバイバイと返す。ふと疑問。
「なぜ幼児はバイバイを真っ先に覚えるのか?」
人間哲学の領域だ。
もともと社会は世知辛い。人はこだわりを捨てバイバイというサインを送って日々を生きていく、いつも思い出すのは田中英光の言葉だ。彼は「さようなら」というエッセイでこう書いている。

「さようなら」という日本語の発生し育ち残ってきた処に、日本の民衆の暗い歴史と社会がある。

幼時は、何が何でもバイバイを覚える、「こんにちは」には用はない、別れて個別に生きることが我々社会の宿命と思いもする。

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2018年09月23日

下北沢X物語(3607)−我ら手作りオペラへのオファー−

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(一)代沢の獣医廣島文武さんは、オペラ『鉛筆部隊と特攻隊』の感想を記しておられる。1,木村先生の語り感銘しました。2,オペラ公演は新築なった代沢小の講堂でやって下さって結構だと伝言し去られました。代沢小の校長、溝口先生が観劇に来ておられた。その伝言である。現在代沢小は改築中である。完工が2019年秋になるらしい。この時に創立140周年を迎えるようだ。記念イベントの一環として公演したらどうかという提案である。旧校には講堂はなかった。新校舎にはこれが作られるらしい。保護者、在校生の前でオペラ『鉛筆部隊と特攻隊』を演ずる。学校は子どもの人材が豊富だ。童謡を歌う場面が幾つかあるが学童が加わって歌ったらどうだろうか。また、セリフも多くの子どもが言えるようにしようか、構想や夢が膨らんでくる。

先だって、このオペラを見に来た長谷川直樹さんからメールをもらっていた。彼は山崎国民学校の疎開学童だった。浅間温泉で武揚隊は富貴の湯に泊まっていた。この真向かいにあるのが小柳の湯である。彼はここにいた。彼もまた特攻隊との付き合いがあって、新田原から出撃直前に彼に手紙を寄越している。「新聞をよく見ていてくれ」と書いてあったが、その後の行方は分からない。私は手紙が発信された佐土原長の紫明館を訪ねて取材に行ったことがある。この隊の正体は全く分からない。

昨日は、とにかく熱演お疲れ様でした。
テノールで歌うきむらさんには姿勢を正す思いでした。そして山本愛花さんのソプラノと語り。

演技の評価はこの際問いますまい。73年前、浅間温泉であった『鉛筆部隊と特攻隊』との歴史的記録を伝えたいという熱意は、観客の胸にずしんと届いたと思います。
課題は、きむらさんたちの熱意にも拘らず、特攻隊員たちが切望した「次の世の」若い世代の参加者の姿が見受けられないことでした。このことは、高齢者の「疎開協」や「戦争を語り継ぐ」様々な会の最大の悩みです。

ところで常々気になっていたことです。困難なことは重々承知の上でのお尋ねです。
配布されたチラシに協力世田谷カトリック教会とありました。が、500人近い学童が集団疎開をした代沢小学校同窓会の名前がないことでした。そして鉛筆部隊の田中幸子さん一人?しか参加していない。かっての同級生たちは?

創立100年を超す世田谷区の名門校に、いま、同窓会はないのでしょうか。アプローチをしたが協力を得られなかったのか。来年も、きむらけんさんの主体的働きで「戦争を語る会 聴く会」が検討されることと思います。

最大の課題は、いかに若い世代に参加を呼び掛けるかではないでしょうか。思い付きですみません。例えば国士舘大学のジャーナリズム関係のゼミの先生にコンタクをして、一度きむらけんさんの想いを伝え協力を求める、という考えはいかがでしょうか。
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2018年09月22日

下北沢X物語(3606)−TVカメラが鉛筆部隊を追跡−

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(一)よく聞く言葉に密着取材というのがある。あまり使いたくない語だ。取材者が対象者に密着して独占的な取材をする。「おれたちだけよ」という矜恃が見えていやらしい。が、地方テレビ局が真面目に「Opera鉛筆部隊と特攻隊」を追跡取材している。デレクターとカメラの二人でこれもまた手作り、好感が持てる。局では「鉛筆部隊と特攻隊」を軸にドキュメンタリー番組の構想があった。これが本決まりになったのは当方が企画したオペラが
決定打となったようだ。デレクターの河野さん、歌姫の山本さんが打ち合わせで会ったのが新宿のカラオケ店だった。このときに初めて彼女の歌声を聞いた。Operaなどはイメージでしかなかったが初めて劇のイメージが生まれた。河野さんも同じだったろう。もうこの時以来、長野から何度上京してこられたことだろう。夏の研究会にも取材に見えた。会の活動の一端を紹介するのだろうか、この懇親会で彼女は皆の前で初めて歌った。恐らくここでの絵はTVで紹介されるだろう。

9月6日に長野県内でニュースが流された。「鉛筆部隊がオペラ化に」というタイトルだったらしい。構成としては、「オペラ化の話を軸に」

1,鉛筆部隊と特攻隊の史実の説明
2,浅間温泉での同窓会
3,オペラ化への動き
4,下北沢での練習
5、まとめ


8月末に、鉛筆部隊の同窓会が行われた。このときの様子も撮った。関係者が集まって懇談会を持った。鉛筆部隊の田中さんが自分の役のところのセリフをこのときに披露した。彼女の出演は異例だ、実際の当事者である。
「体験者が出てくるだけで劇に説得力が生じますよ」
これは演出の若桑比織さんが言っていた。
下北沢での練習は、研究会の合間に行ったものだ。聖堂で試みに歌ってみた。教会は音がよく響くようにできている。お寺とは全く違う、オルガンや賛美歌が響いて人の気持ちを和ませるようにできている。オペラを行うにはうってつけだ。
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2018年09月20日

下北沢X物語(3605)−手作りオペラの脚本提供−

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(一)
Opera『鉛筆部隊と特攻隊』をなぜ作ったか。十数年の経験から生み出したものだ。私は、毎年『戦争経験を聴く会語る会』を行ってきた。今年は十一回目だった。が、これは開催が困難になってきている。戦争経験者の減少、戦争から七十三年も経ってのこれの風化、それともう一つ、伝承を継続していくべき若い人達の関心のなさである。今年は村上啓子さんが悲痛な被爆体験を語られた。が、参加者を十分に集められなかった。体験者の話を聴くというのも曲がり角に来ている。人の興味を集めるためには工夫せねばならない。その思いから劇仕立ての戦争伝承劇を作った。寄せられた反応からすると一定の成果は上げられた。「台本を区の学校の演劇部などに配布してはいかがでしょうか。多くの若い人たちに伝えたい内容でした」と感想にはあった。今回はたまたま私達が演じた、誰か別の人、学校演劇部でも、一般の人でも構わない。Operaでなくともよい、朗読劇として取り上げて各地で公演してほしい。要望があれば脚本は提供したい。

公演当日に配布した文書がある。これにこう書いた。

『鉛筆部隊と特攻隊』はフィクションではなくノンフィクションである。このオペラの核となっているのは三通の手紙である。昭和二十年浅間温泉で学童たちと一月あまり生活を共にした特攻隊、誠第三十二飛行隊(武剋隊)は沖縄へ出撃し特攻戦死した。その彼らが出発後に出した手紙である。この劇では字句修正することなく手紙をそのまま使っている。特攻は生身の人間を武器として使った過酷な戦法である。戦争は惨いものである。こういう戦争は二度としてはならぬ。

一般に劇は、虚構仕立てが多い。が、Opera「鉛筆部隊と特攻隊」は、ほとんどが実話を元に書いている。第二次大戦中に実際に起こった出来事である。特攻隊と学童たちの出会いともの悲しい別れを描いたものだ。

これは特攻を賛美するものではない、が、命を受けて自らの身体を武器にして敵の艦船に体当たりしていった若者がいたことはぜひ知っておいてほしいことである。戦争中に起こった出来事としてこの劇を通して伝えてほしい、そういう願いが私にはある。

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2018年09月19日

下北沢X物語(3604)−下北沢力に助けられた公演−

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(一)オペラ公演は終わった、余韻はまだ残っている。昨日、駒沢公園に散歩に行ったとき保育園児に出会った。女の子がドロ団子を作っていた。「おじちゃん、私の名前リエっていうのね」と言って笑顔を見せる、子どもは可愛いものだ、浅間温泉で学童らと接した特攻兵ははつらつとした姿に英気勇気をもらった。「おじちゃん、何しているの」「散歩の途中......」と言いかけて止めた。自分が散歩しながら校正していることを話しても分からない。「おじちゃんね、一昨日オペラで歌ったの」、「オペラって何?」、「こうやって手を広げてね、『時枝は出発の際までみなさんと楽しく遊んだことが非常に嬉しかった』と言って歌うのさ、リエちゃんドロ団子持ったままポカンと見ていた。自身は適当に節を付けて歌っている、オペラと言ってもドロ団子のようなものだ。昨日もらった池田あすえさんからのメールには「手作りのオペラの舞台を観せて頂きありがとうございました」とあった。つまりは土臭いオペラということではないか。好意的な批評だと思った。

人間の願望や欲望は膨らんでいく、当初はこぢんまりと公演するつもりだった。が、一日一日過ぎていくうちに自然と夢は大きくなった。それは脚本が他人の目にさらされたからだと思う。関根神父さんが監修に、それから若桑比織さんが演出に入られた。これによって質が高まった。当方は、読者目線で文章を書いている、が、二人は観客目線で批評する。ここは大きな勉強になった。

すべてが綱渡りだった。人は楽観的な見通しを持つ、何とかなると。しかし、そううまくは行かない。最初のトラブルが音楽だった。当初参加することになったチェロの奏者が駄目になった。公演に音楽は欠かせない。困っていると関根神父さんが紹介してくださったのは内村真由美さんだ。今回はサヌカイトを叩き、ピアノを弾かれた。感想には「オリジナルか?」との質問があった、彼女これが即興である。続きを読む

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2018年09月17日

下北沢X物語(3603)−戦争オペラ:生と死と鎮魂を歌う−

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(一)歳を重ねると、ときめきが薄れてくる、が、昨日一日は心の弾みを押さえられなかった。過ごしている時間が今にも破裂してしまうのではないか?人生の中で一番長い日だった。公演が終わって、「きむらさん、どうなるかと思っていたけど見違えるようになったね」と関根神父さん。褒められれば人間は誰でも嬉しい。演劇人は心を空洞化して舞台に臨む、あなたは雑念や色気がありすぎる、クールに演じることだと指摘された。鉛筆部隊はどしどし書いて上達した、自身もまた毎日どしどし読んで練習に励んだ、そうした上で舞台に立った。前日、神父さんとの打ち合わせ、「田中幸子さんの戦争を二度としてはいけない」はしつこすぎる、一回でよい、「特攻はむごいものです......」で終わる。そこに間が空く、ここに子どもの歌が入るとよい。夜になって石坂悦子さんに相談すと「『故郷』は一番しか歌っていないわね。二番を歌えばよいのよ」と即座に決定。舞台が終わって、神父さんが「みなさん故郷を歌いましょう」で、この歌が聖堂に響く、一番のみならず三番までの大合唱、感動した。特攻兵の物語がこれを歌わせた、彼らは誰よりも強い強い郷愁をもっていたのだと気づいた。

「今日って何人ぐらい見えていたんですか?」
長野からきた新聞記者。
「何人ぐらいだったかな?矢花さん何人ぐらいでした」
山梨からきた彼に聞く。
「50人ぐらいじゃないですか」
「50人だって、50人って書くと嘘くさいから、51人と書くといいですよ」と私。
「私は県内のTSBさんのテレビニュースでこれの開催をしったのです。公開練習公演みたいなことを言っていましたが、もうこれ本番に近いですよね」
当初はそのつもりでいた。が、段々に実験を通り越して本番そのものになってしまった。

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2018年09月16日

下北沢X物語(3602)−Dr.オースティン写真ツアー−

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(一)昨日、15日、第142回、まち歩きは、「下北沢のDr.オースティン写真」の跡を歩いた。その結果得られたことは、1、過去から現在への時空旅行であったこと、2、まちの再認識となったこと、3,参加した人が面白がっていたこと。である。「今という時間の中にまちがありますが、電信柱や道の曲がり方、路地の佇まいなどが70年前の写真から発見できたことは興味深い点だった。一種のまち再認識ツアーとしてはおもしろい、定番としてこれを来年も続けたいと思う」と言った。萩原朔太郎はこのまちを舞台として小説「猫町」を書いている。彼が通っただろう道を通る、多くは路地だ、これはどこかで表通りと交わる。暗から明へ、そのときについ仕草をしてしまう。左右に自然に視線を送ってしまう。まるで幕府の密偵になったように思う。路地に入ると人は、漂泊者になるのかもしれない。「ああ、汝漂泊者よ」と口を衝いて彼の詩の一節が浮かんでくる。路地は人を漂泊者にするのかもしれない。まちあるきの効果か

ツアー始まりは下北沢駅北口だ、もうそこがDr.オースティンの写真撮影現場である。多くの物語があった現場である。いつも言うが、「ここはマコト、マコトにマコトがあった場所です」と、戦後駅前にあったカフェーである。戦後の文化交流の接点だった、撮影を終えた監督たちがわざわざここまで足を延ばして一杯の珈琲を飲んだ、本物の珈琲が飲めるのはここだけだった。強烈なライトをスタジオで浴びてきた彼らは大きなストレスを抱えていた、が、一口苦い珈琲を飲むと、それが雲散霧消し、新たな意欲とアイディアが浮かんだ。刺激的な場所だった。

オースティン写真には駅前にあったパンの近江屋の看板が撮られている。この近江屋は、淡路町の近江屋菓子店から来ている。ここの職人だった人が、お店を開いた。パンを売ると同時に、洋菓子も売っていた。

敗戦からもう三四年は経過している。このパン屋もアメリカ文化の大きな影響を受けている。オースティン写真アルバムにはまちのあちこちにパン屋が写っている。

敗戦を契機にまちは変わった。近隣の邸宅が米軍によって接収されたことで米兵がまちなかを歩く姿が認められた。が、ついこの間まで戦っていたアメリカだ、物量豊かな国の文化にどんどん圧倒された。
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2018年09月14日

下北沢X物語(3601)−鉄道交点文化と疎開学童−

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(一)演劇とは何か、「個人を空洞化することだ」と。これが難しい。個々人に嗜好はある、アジフライ、イカ刺し、鯖の煮付けが好きなどというのはある。歳を重ねれば錆び付いてもくる、そういうものも捨て去ってクールに役を務める。しかし「鉛筆部隊と特攻隊」は難しい。言葉につい引っ掛かる、オペラは哀しみや愛を歌うものだ、ところがこの物語の主調音は哀しみである。それも特攻兵が「鉛筆部隊」に宛てた生の手紙である。「心を空洞化」しようとしているが、言葉が邪魔をする、「兵隊さんは散っても、魂はいつも皆さんの幸福を願っています」とあると、アジの小骨が喉に引っ掛かったことや鯖の煮付けの腹から小魚出て来たことなどがひょいと浮かんできて、声は高調子になってくる。リハの代役だった五十嵐ママさん、彼女が読んだ「君が為、南十字星の下遠く花と散るらん大和益荒男」が五来軍曹が書いた本物の言葉だと知って青ざめ、涙を流した。死んだ後に舞い込んできた手紙を全部歌いあげるが、至難である。心の空洞化を許さない雰囲気がある。今回のOpera、彼らの霊魂との闘いである。

何だか不思議だ、これも霊魂繋がりか。演劇人、音楽家が次々にサポーターとして現れた。代役で出てきた人が難なく、セリフをこなし、ピアノを即興で弾き、こちらをうならせる。この土地は異常な空間ではないか。

そう思い出した、いつも下北沢には下61、北沢タウンホール行きのバスでくる。リハのとき、終点直前のビルの谷間で壁に向かって手足を動かしたり、叫んだりしている若者がいた。最初は一人が見えた、予測がついた。やっぱりもう一人がいた。コンビが練習をしていた。前は、茶沢通りの東北沢4号踏切で電車に向かって練習をしていた。今はビルの谷間で行うようだ。

当地は人材が豊富だ、最初教会で簡単な練習をした。そのときにこれを見ていた男女の若者に声を掛けた。一人本物の声優、もう一人も音大出の弾き手、「やてくれませんか」、男子には語りを、女子には音楽を頼んだ。が、前者は所属事務室から駄目と言われたと。後者は腕に怪我をして弾けなくなった。

今は人手不足だ、が、吾等のオペラはすぐに人材が集まる。この間のリハのときも子役についてきたママに、代役を頼んだら難なくこなしていた。

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2018年09月13日

下北沢X物語(3600)−人生山あり谷あり脚本家入門−

DSCN0558(一)瓢箪からオペラ、文章を見せる側から演技を見せる側に立った。連日カルチャーショックに陥っている。「雑念を捨てなさい無心に演ずるのです」と言われる。ところがエモーションのコントロールができない。肝心なところだ、教会でひょいと出会った人、ただ者ではない、演出の彼は私にこういう、「内圧の高い話し方、自意識の高い動き方、そして過度な心象表現、それらをなるべく省いて、個人を空洞化して意味の入れ物にする、純粋な演技演出で伝えるのが舞台です」と。私への的確な批評、哲学的だ。

1、目立とうとして大きな声を出そうとする。(教員経験が今は仇だ)
2、自分を格好良く見せようとしてトーンに抑揚をつける。
3、言葉に思い入れをして一つの言葉を際立たせてしまう。


文章を描く場合は、言葉という文字が人に伝わるかどうかを優先する。ところが演劇は目で見て、耳で聞いて理解する。観客は敏感である。役者が舞台上でどう動くか、セリフは耳で聞いて心地よいか、ということで劇を評価する。「舞台のどこに立つかでも印象は違う、立っている場合と坐っている場合も違う」と若桑比織さんは教えてくれる。

台本も私だ、これについても厳しい。「今回は時間と人材が限られています。そこで、とりあえず、全体の中で、重複する表現や形容詞を整理する、というのはどうでしょう。たとえば、汽車が「ポーッ」っというのが二回出ます。」と、鋭い指摘だ。

書き手は思い入れで書いている。汽車の汽笛にはこだわりがある。疎開学童は浅間温泉で生活を送り始める。音が彼らの感情を刺激する。果たして汽笛は聞こえていたのか、松本駅から温泉は離れている。
「いや、夜になると遠汽笛がよく聞こえてきました」
これは地元の人だ。寂しい思いをしているときに汽笛が鳴る、一層に孤独感を募らせた。それでこれを使った。一度目だ。

おもしろい回顧談がある。子どもらを喜ばせようと松本城に連れていった。すると天守閣から松本駅が見える。汽笛を鳴らして機関車が行き交う。学童らはそれを見てたちまちに帰郷心を募らせた。
「まったく逆効果で、なだめるのに苦労しました」
引率の先生の思い出だ。

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2018年09月11日

下北沢X物語(3599)−「鉛筆部隊」の物語は音楽から−

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(一)都からの小さな落人が故郷を思う歌をうたった。これを聞いていた土地の幼児が強く胸を締めつけられた。それから60年経過して心のうちに記憶されたその歌が懐かしくてたまらない。口ずさむと断片的にしか浮かばない。彼は全部の歌詞を知りたいと思った。それでネットに問いかけた。「代沢国民学校の疎開学童が歌っていた寮歌の歌詞を知りませんか?」と。この歌をうたっていたのは「鉛筆部隊」だ、この彼らは空襲の恐れがでてきたことから浅間温泉から田舎の村、広丘に再疎開した。さらなる都落ちだ、寂しさが募る。引率教員は彼らを励まそうと寮歌を作った。最後の四番の締めくくりは「ぼくたちの明るい声を/ふるさとへ風が運ぶよ」だ、ふるさとこそは下北沢だ、切ない思いはメロディに乗ってそこらじゅうに響いた。都会のお兄ちゃん、お姉ちゃんの歌う声は素晴らしかった。声もそろい、ハーモニーも美しい。都会のにおいのする歌をかっこよく決めて歌った。聞いている方はどきどきした。幼少時に心に突き刺さった歌、忘れもしなかった。これが「鉛筆部隊」の発端だった。

二三日前、地元新聞社の記者から「鉛筆部隊と特攻隊」の引用の許諾を求めてきた。疎開先の村の寺に、寮歌を刻んだ歌碑ができた。これを取材してのことらしい。また昨日は別の新聞社からオペラについての照会があった。取材したいとのこと。「鉛筆部隊」が地元で話題になっている。ところがこれは今に始まった話ではない。

「鉛筆部隊」の発端となった「寮歌は知らないか?」は、何時寄せられたのか。期日を調べてみると2007年12月14日だ、今日は2018年9月11日だ。もうこれから十年が経過した。そして今になってこれがオペラとして上演される。発端と結末を結びつけるのは歌、音楽である。

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2018年09月10日

下北沢X物語(3598)−「鉛筆部隊」のリハは波乱万丈−

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(一)昨日(9日)、世田谷カトリック教会の坂を上っていくといい角度でテレビカメラを構えている人がいた。下から見上げる形の撮影だ。坂は物語が転げ落ちてくるところだ。それをさりげなく写して人に見せる、何のことはない、見知った人、テレビ信州の藤塚隆さん、古参のカメラマンだ。世田谷カトリック教会で行われるオペラ「鉛筆部隊と特攻隊」のリハーサルを撮るために彼は長野から来ていた。この劇の台本には疎開学童の手紙が使われている。「世田谷区北沢四ノ三五三」へ鉛筆部隊の立川裕子さんが出した手紙だ。カメラマンが撮っていた坂の上がこの住所に該当する。彼はそれは知らない、が、長年多くの逸話を撮ってきて、いい角度の坂にはいい物語が転がっていることを感覚的に知っている。プロの技だ。

オペラ「鉛筆部隊と特攻隊」は、奇遇から生まれた。歌手と、またチェロ奏者と出会った。人がどんどんと集まってきた。関根英雄神父は監修、また若桑比織さんが演出に加わった。ベテランの批評を得て台本を削り、演出に工夫が加えられた。

が、トラブル続きだ、チェロ奏者が手に怪我をして参加できなくなった。おろおろしていると神の助け、神父さんがピアニストの内村真由美さんを紹介してくださった。土曜日は、そのピアニストと私と高桑さんでリハーサルを行った。彼女、サヌカイトの奏者でもある。導入部はこれで展開する。妙なる音色で劇が始まる。その後はピアノだ。台本をさっと読んだだけで即座にその場にあった音を醸し出す。これもプロだ。

もう十三年間、文学や文化人系統の人々と出会って、過去のことを調べてきた。
「下北沢は何といっても演劇のまち、ここにスポットを当てないとまちの本質は捉えられませんよ」
仲間の別宮通孝さんに言われていた。演劇や音楽に疎い。だが、オペラをすることになってこの方面の繋がりができてきた。
この間もびっくりすることが起こった。北沢タウンホール前のブティックに石坂悦子さんとビラを配りにいった。何と女店主は、元青年座の女優だった。石坂さんの夫もやはり演劇人、石を投げれば役者に当たるという話は嘘ではない。
昨日はリハーサルで暗礁に乗り上げた。が、リハの現場は下北沢の教会だ、神域、かてて加えて芸域、神に人に助けられた。困ったときにそばにいる人に頼む。
「お願い!」
「いいわよ」
全く劇的な展開だ、当地には生の物語がごろごろとある。

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2018年09月08日

下北沢X物語(3597)−誠第31飛行隊「武揚隊隊歌」−

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(一)浅間温泉において学童や航空兵は歌に明け暮れていた。学芸会やお楽しみ会では歌ったり、踊ったり、楽器を鳴らしたりした。親元から離れて生活している疎開学童には必要な娯楽だった。昭和二十年二月、浅間温泉の疎開学寮に若い航空兵がやってきた。彼らもこれに加わって歌った。第32飛行隊の隊長は駒繋国民学校の子どもらと遊戯にふけった。第31飛行隊は東大原国民学校の学童と交わった。陸軍松本飛行場を飛び発つ前の日、大広間で彼らは別れの歌をうたった「浅間温泉望郷の歌」だ。これは偶々疎開学童の女児が歌詞とメロディを覚えていて、吾等関係者の手によって蘇った、今回のOperaでも歌われる。この第31飛行隊の行状については四国小松島の山本富繁(武揚隊隊長山本薫中尉の甥)さんから「菱沼俊雄手記」が送られてきたことで全貌が分かってきた。これによって武揚隊隊歌があったことが分かった。今回、「鉛筆部隊同窓会」に参加された山本さんからはその歌詞があったことを知らされた。

満州新京発足の特攻四隊は、新京を飛び発った後、それぞれのコースをたどって最後に沖縄に突撃している。扶揺隊の生き残り久貫兼資さんには直接取材した。近作の『と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡』を送ったところ奥さんから、当人が亡くなったことを知らされた。この扶揺隊については久貫兼資さんが記録を残している。『憧れた空の果てに』(菅井薫著 鳥影社 1999年)には彼の日記が載っている。この著作では「扶揺隊隊歌」があってこれが記録されている。

このことから他隊も作っていたことが想像できる。

昨年末、上梓した「と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡」は、山本家に残されていた「菱沼俊雄手記」を全文採録した。ここに「高畑少尉、五十嵐少尉が作詞作曲した武揚隊歌を教へて貰つて合唱致しました」という記述があった。
この武揚隊、隊歌は浅間温泉での壮行会で歌われたものだろう。


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2018年09月07日

下北沢X物語(3596)−TVNEWSで話題「Opera鉛筆部隊と特攻隊」−

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(一)Opera「鉛筆部隊と特攻隊」は地方で評判になった。昨日、長野県内で夕方のニュースの時間に「戦争の記憶...鉛筆部隊オペラで継承」というタイトルの特集が流された。Operaの主舞台は長野県の浅間温泉である。先だってここの目之湯旅館で「鉛筆部隊同窓会」を行った。このときも取材カメラがきていた。地元の人もあまり知らない話を取り上げて地元に流すというのは地元メディアの果たす役割だろう。「鉛筆部隊」の話は、都会と地方の文化がふれ合った話だ。都会のおしゃまで可愛い女の子と田舎出の特攻隊のあんちゃんとが出会って織りなされた物語だ。片方は死が運命づけられている身で、片方はこれからを生きていく子どもたちだ。死と生と愛とがくっきりしている。Operaは人間の愛と悲しさを歌いあげるものだ。この物語の核は異文化の出会いだ。知性のふれあい、子どもらは小さなエリートであり、航空隊員は特別に選抜されたエリートだ。今に思うと、この彼らは、相当に気位が高かった。それは特攻隊員としても例外的な存在だったからだろう。

誠第31飛行隊、誠第32飛行隊は特別な隊だった。満州新京発足の他の二隊を加えて特攻四隊という。この隊は菊水作戦、すなわち、敵の沖縄諸島方面への進攻(沖縄戦)を阻止する目的で実施された日本軍の特攻作戦である。この先陣を司った隊だ、大本営、中央配属の十一隊の四隊だった。別格的な扱いを受けていた。

1、満州新京で盛大な壮行会が行われ、全員が満州国皇帝に拝謁した
2、全員が新京放送局に赴き、三分間マイクに立って故郷へのメッセージを送った。
3、各隊十五機だがこれには各機に一人の整備員が付いていた。責任者を置き、その階級 は少尉だった。
4、搭載爆弾は通常は250キロだが、これを500キロを搭載できるように松本で改造した。


大本営直属の彼らは沖縄特攻の初陣を飾る機として位置づけられていた。

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2018年09月05日

下北沢X物語(3595)−災害戦争勃発、我々はどこへ?−

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(一)今年、2018年は明治150年だ。明治、大正、昭和、平成、たった150年の間に急激な進歩発展を遂げた。長野県安曇野市に「飯沼飛行士記念館」がある、偶然通りかかって入った。飯沼正明飛行士は純国産の軽飛行機、朝日新聞社機「神風」号で東京ロンドン間を51時間で飛行し世界記録を打ち立てた、日本国中が沸いた。が、これからたった81年しか経っていない、なのに大型旅客機が今や世界中を飛んでいる。恐ろしほどの進歩発展だ。表題に掲げた「汽船、高架橋、鉄道」は、175年前に亡くなった詩人ウィリアム・ワーズワースが詠んだ詩である。機械近代を讃えたものだ。昨日、台風21号の被害の様子報道された。関空に繋がる高架橋に大型汽船が衝突した場面が写し出された。即座に思い出されたのがワーズワースのこの詩だ。人類の進歩発展を高らかに謳っているが、私には人類の技術が自然に敗北した光景に見えた。新たな戦争が起こり始めた。

今年は異常気象が続いている。異常が異常でなくなった。車が風に吹き飛ばされて模型の車のようにコロコロと転がって行く、大きな屋根が強風に煽られて一気に吹き飛んでいく。「経験したことのない風」、「生まれてこの方、こんなひどい風に遭ったこともない」とマイクを向けられた人々は答えていた。

災害時に写し出される光景がある。3、11の時空撮で沿岸部の道路を写していた。内陸部の海と平行に走っている道路には数多くの車が行き交っていた。その横軸に対して、津波は縦に襲っていく。空撮は、神の目だ、人と自然とをありのままに写しだす。
「横に走っては駄目だ、車から降りて奥へ逃げろ!」
そう叫んだが、聞こえるわけはない。津波は無惨にもその車に平然と襲い掛かった。

私は、日々歩いている。車とはよく遭遇する。人間を覆っているのは皮一枚だ、が、車を覆っているのは鋼鉄の皮だ。歴然とした差があるのに、運転士は傍若無人だ。ひき殺されそうになった経験は誰にでもあるだろう。歩いていて思うのは道路行政の貧困だ。車道は広いのに歩道は片隅にしかない。そこに電柱がでんとあるから怒りたくなる。脇へよけたときに車は人を殺す、何人の小学生が犠牲になったことか?高速道路を作る金があるなら歩道を作れ!」

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2018年09月04日

下北沢X物語(3594)―戦時資料をどう残していくのか?−

CCI20180904(一)昭和20年8月14日、閣議で公文書の焼却せよとの命令を出したことはよく知られる。国を挙げての証拠隠滅を図った。このことで戦争史は失われた。「鉛筆部隊」の調査から多くの聞き書きをした。浅間温泉に疎開していた学童や松本中学のOB、それと関係者から話を聞いた。それで分かったのは、昭和20年、2、3、4月には沖縄に出撃していく振武隊や誠隊が多く浅間温泉に来ていた。陸軍松本飛行場が沖縄総攻撃をする際の一大後方拠点となっていたことが分かってきた。その記録は日報に記録されていたはずだが公的記録はない、証拠品は焼却された。沖縄特攻は一種の自爆攻撃だ、関係者はアメリカ軍の追及が及ぶとみて念入りに証拠は焼却した。このことによって近代戦争史は失われた。民主主義は自分たちがどのように生きたかを閲して次ぎに進む、記録はその大元となるものだ。国民共有の知的資源となるものだが、これに対する公の意識が低い。今日の新聞経産省の「個別発言の記録不要」との見出し。文化レベルの低さは今も変わらない。

今、戦時記録が危うくなってきている。戦後73年、戦争体験者がどんどん高齢化して次々に亡くなっている。持ち物の中に手紙、日記、写真など戦時資料が多くある。が、資料的価値が分からないまま焼却されたり、捨てられたりしている。

独り身で死亡される場合も多い、その場合、遺品整理業者に託される。遺品はゴミとして処分される。貴重な戦時資料がどんどんと失われているのが現状である。遺品があってもそれをどこへ持っていくべきなのかという問題もある。先だって行われた鉛筆部隊同窓会でも大きな問題となった。

私は、信州特攻四部作をまとめた。第一巻目となるのが「鉛筆部隊と特攻隊」である。これが発信となって、埋もれていた資料が数多く日の目を見た。「ラジオ深夜便」では、全国に眠っている資料を呼び掛けた。すると具体的な資料がみつかった。浅間温泉に泊まっていた特攻兵の遺墨と写真と手紙が寄せられた。

「鉛筆部隊と特攻隊」の基軸となったのはやはり戦時資料の発掘からだ。所持者は立川裕子さんだ。彼女は八王子のマンションでの一人住まいだった。その彼女は亡くなった。遺品整理業者が持ち物を処分した。彼女の手紙類は戦時中に出されたものであることから郵趣品として値がついた。それで骨董品として出回り、山梨県在住の矢花克己さんがこれを手に入れた。やはり郵趣品としては価値あるものだとのこと。

ところが、ここに「鉛筆部隊」と捺された葉書が多くあった。「何だろう?」ということから「鉛筆部隊」検索に掛けたところこのブログが引っ掛かった。私はすべてに目を通したが戦時疎開資料としては価値が高いものである。

「鉛筆部隊と特攻隊」の大きな逸話として有名になった。矢花さんは郵趣品として処分はしないで市立松本博物館にこれを寄贈した。

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2018年09月02日

下北沢X物語(3593)―浮かばれない兵の霊魂がさまよう−

CCI20180902(一)戦争の八月が終わった。が、今年新手の戦争が加わった、災害戦争だ。かつて七十三年前は大空を覆った巨大重爆撃機に怯えた。B29は天空から焼夷弾の雨を降らせた。が、今、天の神は、これでもこれでもかと思うほどに大雨、大風で我々を襲ってくる。産業革命時代、「自然は、人間の嫡子の技術を抱擁している」(注1)とウィリアム・ワーズワースは高らかに謳った。が、いまや人間の技術が自然を破壊し、荒廃させている。そのしっぺ返しを人間は受けている。災害戦争は、天の啓示でもある。自然は「お前達新しい生き方をせよ」と警告を発している。が、人間はとんと無頓着だ、新聞は、「新国立の建設、熱帯林の木材使用に批判 東京五輪に課題」と問題を投げかけている。天候災害の元凶に地球温暖化がある。海水温の上昇によって台風は多発している。熱帯雨林は地球温暖化を防いでいる。それを我々は長い間、養殖エビのため、オシャレな家を建てたいため、いともあっさりと破壊してきた。人ごとではない、日本人も地球温暖化に大きく加担してきた。それは今も止まない。

八月は戦争は月間だった。8月15日に終戦記念日を迎えることから「戦争」がお決まりのものとして取り上げられる。しかし様相が変わってきている。
新聞評に「テレビでは戦争関連の番組を流すが、近年の関心が低下気味だ」と、出版物も同じで戦争関連の本は売れなくなった。数冊出しているのでそれは肌身で感じる。

1、戦争を経験してきた世代がいなくなった。
2、戦争から73年も経過し、戦争が記憶からなくなってきた。(風化)
3、ネットの普及でメディアとしてのテレビや出版が影響力を低下させている。


戦争がもたらしたものは大きい。新聞では、興味深い記事があった。「定着した最大公約数的な戦争観は、『政府や軍は愚かで、非合理な戦争だったが、民衆は被害者だった』(注2)という。この点、我々が聞き知る範囲からすると政府や軍の戦争指導部は愚かで、兵士はその被害者だったと言える。
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2018年09月01日

下北沢X物語(3592)―会報第146号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第146号
2018年9月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 長井 邦雄(信濃屋)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、Opera『鉛筆部隊と特攻隊』初公演!

戦争が終わって73年が経過した。惨いのは終戦間際になって落とされた原子爆弾だ。五月末には首都東京は壊滅していた。完全な敗北だった、が、戦争は終わらなかった、廣島長崎に原爆が落ちて終戦となった。何故早くに戦争を終えられなかったのか?被爆者を生まなくて済んだのではないか?。

いずれにせよ戦争は惨いものだ。が、戦争から月日が経ち、また経験者も居なくなってきている。「戦争はしてはならぬ」という経験者の遺言はこれからも伝承していかなくてはならない。が、「戦争経験を語る会、聴く会」も十年以上開いてきたが曲がり角にきた。戦争は悲惨だった、過酷なものだったという話を聴いても人は心動かされなくなった。
はっきり言うと人はもう戦争に興味を示さなくなった。が、だからと言って「伝承」を断念するわけにはいかない。ではどうするか。
戦争を伝えるための工夫が必要だと考えるようになった。体験者がいなくなってきた。

1、子や孫世代が伝承に参加して戦争を伝える。
2、口話が困難であることから劇や音楽で伝える。
3、何とかして若い世代に入ってきてもらい伝える


我らの会は十数年間、文化活動を行ってきた。そのことを人は知っている。それゆえに困ったときに人が現れる。戦争経験を聴く会を続けてきて、継続が困難になってきた。そんなときに救世主が現れた。若い歌い手さんである。

「私歌えるのです」、「では戦争を歌ってくれませんか」、「いいですよ」、冗談とも真面目ともつかないやりとりが続いて、この話が現実味を帯びてきた。

Operaと言っても基本は台本だ、それがないと始まらない。しかし、Operaの台本など書いたこともない。自分自身のイメージで書いてしまった。しかし煙のないところに火は起きない。ある種の感触があった。歌の魂を持った言葉だ、それが「鉛筆部隊と特攻隊」の中にあることを感じていた。
疎開地で鉛筆部隊は偶然に特攻兵と遭遇する。一月あまり過ごした後に彼らは出撃していく。しばらく経って彼らから鉛筆部隊に手紙が送られてくる。ポイントは、「鉛筆部隊の諸君」と書かれていることだ。学童らを勇気づける手紙だ、しかし、「この手紙が着く頃にはもうこの世にいないと」と書かれている。この世にいない人からの伝言は誰が聞いても悲しい。感情をゆさぶるものがある。その手紙は三通ある、言葉で書かれているが歌になる。この手紙を通して戦争を考えるというのもいいのではないか。歌物語の核となるものだと思ってこの三通を中心に台本をまとめあげた。
すべてが暗中模索だ、劇なるものは発信物だ、書いたものがどう伝わるかといことは大きな問題だ。しかし、分からないものでも形になると全体が見えてくる。その形が人に触れることは必要だ、批評である、世田谷カトリック教会の関根英雄神父は、「長い」との評だ、また若桑比織さん、「観客に訴える核」の工夫が必要だと、劇は劇を生む、神父さんは監修を、若桑さんは演出を。こういう人が出てきて批評されることは大事だ。
一次稿に始まり、ついには五次稿となった。セリフを削りに削る、この過程で分かったことは、観客に負担を掛けなということだ。神は細部に宿ることを信じてついこれを書きがちだが、劇の場合はこれは捨てた方がよい。細部の説得力よりも感動の説得力だ。
Operaなど、まったく初めてのことだ。が、文化は固有のものである、この話、昭和19年8月12日、代沢国民学校の学童が下北沢駅を出ていったところから始まる。当地域に存在した歌素養、教養、親の家庭環境などが背景にある、地域に立脚したドラマである。地域文化の新しい掘り起こし実験でもある。新しい文化体験だ。皆さん、来場あれ!

2、Opera『鉛筆部隊と特攻隊』の実験公演

まず、9月9日(日)午後1時から通し稽古を行う。見学可である。(場所 聖堂)

本公演
日時 9月16日(日)開場13時 開演13時30分 無料
場所 カトリック世田谷教会 (世田谷区北沢1丁目45−12)
出演 歌 山本 愛歌 語り きむらけん 鉛筆部隊:田中幸子
子役 五十嵐ひまり・まりえ 音楽(チェロ) 諏訪 雪子
監修 関根英雄 演出 若桑比織


*当日は受付ノートを置き、名前を書いていただく。特別な準備は要らない。

3、2019年第5回「北沢川文化遺産保存の会」研究大会の構想


私たちは、代田、北沢、代沢の歴史、文化を掘り起こしている団体だ。毎年、研究大会を開いてきた。第1回「北沢川流域の文化」、第2回「下北沢のDNAを探る」、第3回「世田谷代田の音楽学校の歴史を知る」、第4回「下北沢の戦後を語る」。来年は、第5回目となるものだ。これについての構想を提案するものである、そのあらましだ。

来年、世田谷代田駅駅舎が完成し、広場には当地の語源となった「ダイダラボッチ」の足跡がレリーフとして設置される予定だ。これをきっかけに歴史文化が濃厚な当地を発信したい。それでテーマを「世田谷代田の歴史文化とまちづくり」(仮題)として掲げる。
開催期日は、毎年8月第一土曜日としていた。が、これは「せたがやふるさと区民まつり」と重なる。それで保坂区長の参加は遅い時間となった。代田の関係者も「区民まつり」があって参加できなかったと聞いた。それで七月第四土曜日に実施日を移した。

開催期日 2019年7月27日(土)13時30分より
開催場所 梅丘パークホール
発表内容 世田谷代田の歴史文化とまちづくりをテーマとした発表を行う。
構想、当会発表者2名、地元発表者3〜4名 各人30分程度


タイトル例、代田の歴史。代田の文化。ダイダラボッチ、代田七人衆、小田急開通後の代田、これからの代田のまちづくりなど
にじゅうまる第4回大会においては学生ゼミの発表が好評であった。この活用。また、地域の若手が参加してまちづくりへの展望などがあるとよい。代田商店会では若手を出すとのこと。
後援、協賛、協力についてについて、第4回同様、区の後援、私企業の協賛、また代田の各団体の協力を得たい。
にじゅうまる課題としては、
1、経費の問題がある。梅丘パークホールは、昼、夜使うと43000円である。区の後援があれば3割の割引きになる。今年度同様各方面からのサポートを得たい。
2、催しをする場合は広報が大事だ。多くの団体が協力してくれるとありがたい。
3、運営について。機器の設定、椅子机の配置、懇親会の手配、またゴミの片付けなどは大変だ、人的な 協力がほしい。
注、梅丘パークホールはプロジェクターがないが信濃屋で貸してくれるとのこと。

4、都市物語を旅する会

私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化
を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

第142回 9月15日(土) 13時 下北沢駅北口広場
案内人 米澤邦頼さん・作道敬子さん 下北沢のオースティン写真を巡る
*『焼け遺ったまち 下北沢戦後アルバム』に掲載された写真の跡をたどる。
コース:下北沢駅北口→萩原朔太郎旧居→下北沢一番街・旧宮田家具店→栄通→旧東北沢6号踏切→下北沢駅南口→下北沢南口商店街→旧砂場跡→庚申堂前
順次写真の跡をたどる。


第143回 10月27日(土)13時 小田急線喜多見駅改札前
案内人 池田あすえさん 喜多見の歴史を辿る 日にちが変更になった。
コース案:駅→次大夫堀公園→慶元寺→氷川神社→須賀神社(古墳)等々の見学を予定している。喜多見は民俗学的に面白いところだ。池田さんは当地で野菜を作っておられる。その新鮮野菜も手に入る。
第144回 11月17日(土)13時 小田急線南新宿駅改札前
案内人 渋谷川水と緑の会 梶山公子さん 「しば川」「隠田川」を歩く。
コース案:南新宿駅→渋谷川支流暗渠→明治神宮・北池→神社本庁→「千駄ヶ谷3丁目遊び場」(明治通り)→千駄ヶ谷小学校→千原児童遊園地→神宮前1丁目(原宿橋)→キャットストリート(渋谷川暗渠)→表参道(参道橋)→長泉寺(滝見観音)→渋谷駅北(宮益橋)→渋谷駅南(稲荷橋・新設遊歩道)→解散
・平成18年(2006) に発見された『寛永江戸全図』(寛永19~20年:1642)に描かれた渋谷川を、明治神宮「北の池」近傍から渋谷駅稲荷橋までたどります。その中で江戸から明治の水車の形跡と渋谷川、旧道と橋、新しく作られた道などを通して川と町の歴史を感じ取る楽しいツアーにしたいと思います。是非ご参加ください。
にじゅうまる申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
メールでの申し込み きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

しかく 編集後記
さんかく会の活動の課題 先号でこの課題を提起した。一人からは熱暑が原因で参加者が減っているのではとの声があった。自身の提案は、地元回帰だ。とは言っても興味は興味ととしてある。まずは北沢川文化遺産繋がりということがあれば続けたい。それは宿場、用水などである。区内であれば全く問題ない。奥沢を調べている人いるがおもしろい。今回、十二月は計画に記さなかった。考えているのは「森厳川を歩く」だ、地元の赤坂暢穂さん、幼少時のこの川の記憶が鮮明だ。一応予定しているがニューヨーク行きと重なるかもしれないとのことで入れていない。松山信洋さんには品川宿をと提案していた。これも宿場繋がりで近いうちに実施したい。プロデュースをするのがいつも一人である。一人で苦戦しているということもある。ぜひ提案を。
さんかく今回、自宅郵送分は3ページとなっている。ネット版では一ページ増やした。
さんかく会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
さんかく当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
にじゅうまる当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。


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