[フレーム]

2024年09月19日

下北沢X物語(5025)―2022夏の総括:学童疎開から80年 3―

スクリーンショット (4)
(一)「世田谷から平和を考える」は当地よりも現地マスコミが関心を持ち、長野から世田谷まで三社の新聞記者が取材に来た。が、東京の一社も取材をしていた。こちらは別の側面からの切り込みだ。8月31日に載った。取り上げたのは「しんぶん 赤旗」である。総合版にあるので全国版に載ったものだ、かなり大きな記事である。「証言 戦争」という括りで取り上げられ、タイトルは「疎開先の特攻隊員は」である。記者がスポットを当てたのは長谷川信少尉である。彼は武揚隊隊員として浅間温泉富貴之湯に滞在していた。「きけわたつみのこえ」に手記が掲載されていてつとに有名である。発端は東大原国民学校の疎開学童だった四竈公子さんの手記だ。ここには出撃直前に彼に出会ったときのことが書かれている。温泉時代の言動については私は秋元佳子さんから聞いて取材していた。今回のは長谷川信像に新しいスポットを当てた記事である。

8月12日に太子堂区民会館で『鉛筆部隊と特攻隊』の講演会があった。終わった折に特攻研究家の加藤拓さんと赤旗の染谷記者とを交えてお茶を飲んだ。

話題になったのは『浅間温泉望郷の歌』である。このタイトルをつけたのは私である。発掘された歌にはタイトルがなかった。伝えていくには名がないといけない。それで命名をした。しかし、このタイトルはありきたりで深みがない。『浅間温泉を恋慕う歌』の方がいいのではないかと思っている。

この歌については逸話がある。
1945年3月末に、武揚隊が滞在していた富貴之湯で壮行会が行われた。披露されたのはこの歌だ。元歌がある「パイロット小唄」だ、替え歌である、しかし、歌詞内容が目を引くものだ。類例のない、特攻隊ご当地ソングである。

(二)
スクリーンショット (3)
疎開学童女児を熱く慕うものである。世界平和が来たならば真っ先に浅間温泉に帰ってきたいと歌っている。内容的には反戦的とも受け取れる。
「山本薫隊長だったら許せない歌だろうなあ」
加藤拓さんが言う。
「まあしかし、特攻出撃していくときのお別れの歌だから、たぶん盛ってあると思うのですよ。みんな一晩限りで消えていくものだと思ったのですね」
どっこいこの歌の歌詞とリズムとを覚えていた人がいた。それが大原国民学校の秋元佳子さんである。

彼女が覚えていなければ消えていってしまったものだ。彼女の記憶力には舌を巻く。昨日彼女に電話をした。長谷川信少尉のことはよく覚えている。

「長谷川さんは少尉ではありませんよ。中尉さんですよ。浅間温泉にいたときに中尉さんになったので私たちは、『中尉さん、中尉さん』と呼んでいました」
この理由が分からない。長谷川信は台湾に渡るときに米軍機で撃ち落とされた。いわゆる殉死である。だから二階級特進もしていない。

「前に聞いたことです。散歩に行ったときの話ですね。長谷川信さんの腕にぶら下がっていたときに、同じように散歩に出てきた隊員がいた。その彼は子どもの手を振り払い、信さんに向かって敬礼をしたでしょう。すると信さんが『こういう場合は敬礼をしなくていいんだよ』と言っていたと」
「ええ、ええ、それはよく覚えています」
「まさか場所まで覚えていませんね?」
「覚えています。富貴の湯の前の道は坂道になっているでしょう。そこで出会ったのですよ。私たちは坂の上から降りていく途中でした」
すばらしい記憶力だ。
「坂の下からその兵隊さんは上ってきたのですね」
「はい、そうです。兵隊さんが連れていたのはうちの、東大原の子ではなかったですね」
80年前のことを彼女はよく覚えている。
坂の下の左手が富貴之湯で、右手が小柳の湯である。私は今、後者の湯にいた特攻隊員のことを調べている。小柳の湯の特攻隊員は素性が知れない。しかし、最近分かってきたのは満州平台の第二十三教育隊出身の者だということだ。富貴の湯にいた特攻隊員も同じ教育隊に所属していた。

(三)
P1020118
浅間温泉に疎開していた学童は若い特攻隊員と仲睦まじくなった。しかしそれは大体が下士官である。伍長や軍曹である。
小柳の湯を出たところですれ違った尉官に下士官は即座に敬礼を返した。分かってみると二人は教育隊は同じである。その兵隊と長谷川信は顔見知りだった。その兵隊こそは小柳の湯にいた特攻隊員であった。(写真は秋元佳子さん)



rail777 at 18:09│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

この記事にコメントする

名前:
メール:
URL:
情報を記憶: 評価:

traq

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /