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2017年05月

2017年05月30日

下北沢X物語(3289)−戦争経験を市民がどう伝えるか?−

DSCN0103(一) 「今日の試みはとても面白いものでした。この戦争経験を続けることはとてもとても大事です。しかし、何のために行うのかということをきちんとさせておかないいけません。ただ戦争は悲惨だから止めようという話では続きませんよね」と批評したのは、会員の松山信洋さんである。大事な指摘である。戦争のことを書いたり、話したりというのは難しいことではない。問題は何を伝えるかということである。会を終えて事務局の「邪宗門」へ行きお茶を飲みながらの話である。
「そう戦争の話になるとどうしても悲惨だったという話が中心になる。が、そんな話を聞きにくる人もいなくなりましたね」 実感だ、高齢世代には戦争の話は郷愁ともなっていた。ところがそういう人たちもいなくなりつつある。伝えが一層に厳しくなってきている。


今回は、と号第三十一飛行隊:武揚隊のことはほとんど知られて居なかった。これが偶然に発掘された。惨憺たる苦難の末に台湾に辿り着き、そして助かった連中が順次出発し命を放擲した。この事実経過は新たな資料がみつかったこともありまとめられる。記録だから記録でよいという考えも成り立つ。そこは人によって読み方は違う、それぞれに読んでもらっていい。

「私は『鉛筆部隊と特攻隊』を読みましたが、ときどきほろりとしそうになる場面があったのですが、武剋隊の隊長がいよいよ出撃していくときに財布を出して中にあるお金を部下の整備員に渡すところがあるでしょう、あそこでついこらえきれなくなって泣きました」
何年か前の話だ、市立松本博物館の学芸員をこの話に関わる展示を扱っていた。係ゆえに冷静でいたいと思っていたと。秋山かおりさんの感想だ。

人々は戦争の惨劇を欲してはいない。つながりやふれあいを欲している。先の話、邪宗門の反省会である。
「私は、疎開学童が駅へ出て行くときの場面です、暗い夜道を静かに歩いていくと両脇にぎっしりいた親が必死になって我が子の名を叫ぶ場面がありますね、あそこはジーンとくるものがあります。疎開に行ってしまったらもう子どもとは会えないかもしれない、それで親は子どもの名を叫ぶのですね、親の子を思う気持ちがとてもよく出ていました......今回のことがあって薫手紙を読みました。今まで知らなかったことですけど、自分が特攻に行くことで親や子などが一日でも一分でも長く生きられる、そういうことに対して自らが犠牲になっていく、親が疎開学童を思う気持ち、そして彼らが何とかして親や子のために特攻していくというところは何か通じるようなことがあります。」
山本薫中尉の甥御さんの奥さんはおおよそこのようなことを言われた。

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下北沢X物語(3288)−第11回戦争経験を聴く会・語る会へ向けて−

DSCN0101 (2)(一)米の原子力空母カールビンソンが巡洋艦を従えて北上する映像は度々テレビニュースで写された、勇壮である。ゆくりなくも思い出したのは半世紀前に見た月光仮面の登場場面だ。わらむしろに座った観客が、彼が乗った軽バイクが現れると一斉に拍手した。悪を懲らしめるヒーローの登場だ、この月光仮面の登場とカールビンソンとが二重写しになった、その前に度々北朝鮮ミサイルの発射場面を繰り返し見せられ、悪玉の所業が散々にすり込まれていた。北朝鮮は極悪非道で正義の味方の月光仮面によって処罰を受けなくてはならぬ、昨今はテレビ画面は大きい、大画面で空母が颯爽と現れると日本国民は「よくやってきたアメリカさん」、拍手するような感覚でこれを見ていなかったか?どうもこのごろはおかしい、マスコミや政府のプロパガンダじわりとボルテージをあげている。昨日だかおとといだかも首相や官房長官は北朝鮮とは「対話ではなく圧力」で対峙すると述べている。力の均衡が崩れたときに戦争となる、好戦的な言動である

先の土曜日、5月27日、下北沢東京都民教会で「第10回戦争経験を聴く会語る会」を開いた。毎年山手空襲を記念してこの時期に開いている。十年も続けるつもりはなかった、が、気づいてみると十年経っていた。

文化探訪は歴史の旅だ、我らのフィールド尋ね、調べていくと必ず戦争にぶつかる。昭和二十年八月十五日を境に、価値の大転変が起こっていた。墨塗教科書もその一つだ。
「いいかこれから言うところは皆、墨で塗りつぶしていくんだ、そこを読み上げる」
「せんせ、読み上げなくてもいいよ、ほとんど真っ黒だよ...」
今まで価値をおいていたものがうち捨てられる。天地がひっくり返るほどの激変だ、おおもとはあの戦争である。

「私はね、九州の目達原飛行場で働いていました。八月六日と八月九日の原子爆弾投下の音は両方とも聞きましたね、長崎は近いから振動すら感じました......」
第一回目ではそんな話を聞いた覚えがある。あれから十年、高齢化は食い止めようがない、戦争経験者が減ってきた。昨今では戦争を直接経験をした人はほとんどいない、会を開くのが困難になってきた。

戦争は人を狂わせる、どうあっても戦争はするな!」、十年間「戦争経験を聴く会、語る会」を催してきた、多くの戦争体験者の証言から学んできたことはこの一言だ、

平和は決して破綻させてはならぬという先人の教えだ。しかしこの頃妙にきな臭い、力には力で対峙せよという世相が醸成されている。日本海は一触即発、今にもミサイルが飛んできそうな雰囲気がある、地下鉄が停まったり、学校に注意喚起の報が配布されたりと。

そして日々、テレビでは連日ミサイルの話ばかり、異様と思うのは、ミサイルの発射場面の映像を飽きることなくくりかえしている。戦争をマスコミは煽っている、政府答弁も敵意を煽るようなものだ。いつの間にか戦時体制的になってきてはいないか。

こういうときこそ冷静な目は必要だ、経験者が伝えるとおり平和は破綻させてはならない。

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2017年05月27日

下北沢X物語(3287)−第十回戦争経験を聴く会・語る会−

戦争経験を聴く会、語る会 恒例の「戦争経験を聴く会・語る会」を本日、午後一時半から下北沢東京都民教会で開催する。あの戦争からどんどんと遠ざかっていくばかりだ。平和がどんなに大事かはそれに伴って忘れていくばかりだ。七十二年前の五月二十四日、五日、この東京西部の空を大型爆撃機B29が空を覆い尽くした。恐ろしいほどの数の爆撃機が空を覆った。いわゆる山手大空襲だ。3月10日の東京大空襲では、飛行機279機。爆弾投下トン数は1665トンだ。一方、5月24日、25日の山手空襲の場合飛行機の数は1056機。爆弾投下トン数は6900トン、いずれも三倍だった。これには大きな狙いがあった首都東京を壊滅させるためだった。山手地域は焼き払われその狙いは達成された。それで東京は爆撃リストからはずされた。しかし、東京の中枢がやられても平和はすぐに訪れなかった。広島に長崎に原爆が落とされてそしてようやっと終わった。

一旦戦争が始まったら終わらない。どうあっても戦争はするなというのが戦争体験者の伝言である。これを伝えるためにこの会を開いてきた。

今回は、記念となる十回目の大会だ。これまでの経験を通して学んできたことがある。

戦争経験を聴いて学んだこと

一つ、戦争は、始まったら終わらない、殺し合いがいつまでも いつまでも続く。
二つ、人がどんどん死んでも、飢えても何とも思わなくなる。
三つ、戦争になると、「もう戦争を止めようよ」、この簡単な一言が いえなくなる。
四つ、いざ戦争となると人間が人間でなくなる。
命は毛ほどに軽くなり、軍隊では虫けら同然に扱われ、果ては人間が武器の代わりに使われるようになる。
五つ、心ない大人が出て来て、学童や子どもを裏切る。


学んできたことは、力と力が対峙すると必ず戦争が起こる。起こったら、もう殺し合いだ、ルールはなくなる。憎しみと憎しみがぶつかって際限もなく続く。

やはり戦争をしてはまずいのではないか、ということで、この会を開催してきた。今年も行う。本日行う。

第10回戦争経験を聴く会語る会「疎開学童ゆかりの特攻隊」

・と号第三十一飛行隊の軌跡 きむらけん
・山本薫中尉について 山本 富繁さん 武揚隊隊長山本薫中尉の甥御さん
・叔父に捧げる歌他 「武揚隊隊歌」再現演奏 池田 宗祐さん 武揚隊隊員高畑少尉の甥御さん

期日 5月27日(土) 午後1時半から(開場1時)
会場 下北沢東京都民教会 下北沢駅西口から徒歩四分
会費・定員 無料、先着順70名
主催:北沢川文化遺産保存の会
後援:世田谷区教育委員会
協力:世田谷ワイズメンズクラブ


疎開学童というのは、東大原小学校のことである、特攻隊は誠第三十一飛行隊だ。
戦争の陰に眠っていた話が今日解き明かされる。



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2017年05月26日

下北沢X物語(3286)―戦跡を十年も歩けば棒に当たる―

DSCN0080(一)石川啄木の『一握の砂』に「乗合の砲兵士官の剣の鞘がちゃりと鳴るに思ひやぶれき」という一首がある。ここで場面情景を生き生きとさせているのは「砲兵士官の剣」である。車が揺れた拍子に剣の鞘が「ガチャリ」と音を立てた、うとうととして心地よく眠っていたところを起こされた。ここが輜重兵士官だと土臭くなる、海軍士官だと体裁が良すぎて歌の味がなくなる、「砲兵士官」だと一首は弛緩しない、ピリリと生きてくる。砲兵士官はかっこいい、砲兵士官で貴公子だったら若い女性だったらきっと胸ときめかすだろう。早世した場合はなおさらだ。昭和十五年(1940)九月四日にモンゴルで航空事故に巻き込まれ事故死した皇族がいた。北白川永久王殿下だ。三十歳の貴公子だ。

何回目の戦跡歩きだったろう、何時も参加していた川口信さんから「仰徳集」という短歌集を戴いた。北白川永久王殿下の薨去を悼む歌集である。驚いたのは全国の数百の女学校の生徒たちが貴公子の死を悲しんで歌った作品が載っている。
例えば、「府立堺高等女学校 二年生」の歌

餘りあるかしこさなりき悼みまつる言葉もなくて唯涙しぬ

名前は橋田壽賀子とある。彼女は、大阪府堺市西区出身である。脚本家の彼女に違いない。

2009年7月30日のブログには、「仰徳集」に載っている糸賀 公一氏の短歌をアップした。以下である。

品川にうちゑませせつヽたちましヽ温顔すでに拝むよしなし 陸軍大尉 糸賀公一

貴公子は、芝御殿の下の品川駅から見送りを受けて出征していったようだ。昭和十九年三月のことであった。そのときのことを貴公子の妹多恵子殿下が長詩で書き残している。その一部を引用する。

汽笛一声品川の 空にひゞけば兄宮を
のせまつりたる汽車は今 すべるがごとく走りでぬ
さらばいさをを樹てませと 唯ひたすらに祈りつヽ
声を限りに万歳を われら叫びて見送りす

過ぎ行く汽車のステップに ちぎるヽほどの日の丸を
ふりて立たせし兄宮の その過ぎし日のみすがたの
瞼の内に浮かび来て あヽ我永久に忘れ得ず


この陸軍大尉糸賀 公一氏は、シンガポールに本拠地をおく第七方面軍の作戦参謀であった。

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2017年05月25日

下北沢X物語(3285)〜「今度会ふときは九段の花の下」〜

DSCN0085(一)23日、打ち合わせのためある社を訪ねた、行くと靖国神社の真ん前にその会社はあった。大きな鳥居を見て即座に思い起こしたのは「今度会ふときは九段の花の下」という言葉である。ちょうど今、「と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡を追って」をまとめている。隊員の一人、飯沼芳雄伍長は松本出身だ。彼は慰問に来た同級生にこう書き残して故郷を去った。この十三文字は「また九段で会おう」という意味だが、故郷の期待を背負った十九歳の強い思いがあることを私は知っている。もう花の時期は過ぎて今は新緑だ。拝殿して柏手を打ってくるか?ためらった。彼がここにいないように思えたからだ。

打ち合わせが終わって外に出る、好天、千鳥ヶ淵の新緑が目に染みる。北の丸公園を散歩していこうと思った。
お堀を見ながらいくとすぐに「千鳥ケ淵戦没者墓苑」がある。多くの戦死者の遺骨、そして魂がここに眠っている。
「お参りしていこう」
礼拝所となっている六角堂は質素だ。神はいない、自分の行為だけが問われる場だ、お寺や神社だと自然に祭壇に向かい賽銭を入れ、そして拝む、ところがここは自分で一つ一つを決めて行う。
『神がいれば便利で手軽だ』
そんなことを思ったどんな拝み方をすればよいか考えなくてすむ。
菊の一輪、100円を買ってそれを祭壇に手向け祈った。ここに眠っている人は皆平等だ、これでいいのだと思った。

この三月には知覧に詣でた。陸軍特攻戦死者1036柱はかっきりと特攻平和会館には収められている。彼らの御霊を祀る観音堂もあった。丁寧に、丁重に扱っているのはよい。しかし、特攻で行っても戦果確認がなされなければ特攻扱いとはならない。

武揚隊の場合は、遠路はるばると老朽機に乗って台湾まで前進した。15機は途中で不具合を起こしたり、敵機に遭遇して撃ち落とされてもした。また出撃したが戦果確認がなされなかった者もいた。それが飯沼芳雄伍長である。ゆえに彼は知覧には記録されていない。彼の出撃は七月十九日だった。
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2017年05月23日

下北沢X物語(3284)〜下馬、三宿、池尻、戦跡を歩いて十年〜

DSCN0068(一)戦後七十二年を迎える。執念深く戦跡を歩いている、これももう十年経った。何が変わったか?、振り返ってみて言えること三つ、一つ目、「古びたなあ」、建物の風化だ、もう朽ちかけて倒壊してしまいそうだ。二つ目、「みんな忘れ始めた」、戦争の記憶の風化だ。三つ目「戦争を想像できなくなった」、想像力の劣化だ。七十二年経って、あの戦争はすっかり忘れ掛けられている。しかし、戦跡を歩けばいやでも思い出す、やはり二度と戦争はやってはいけない。人間は本然的に好戦的である、やられたらやりかえす。かっとなって銃をぶっつぱなしてしまうと戦争が始まる。一旦戦争になると殺し合いだ、ところが戦争の惰性というものはある、止めるためのエネルギーが必要になる、歴史ある国家だけて負け方というものがある。戦争はなかなか終わらなかった。

五月は、戦争月間として二つの行事を行う。まず、一つ目が「世田谷の戦跡を歩く」だ、二つ目が、「戦争経験を聴く会、語る会だ。後者は5月27日に下北沢東京都民教会で開く。今回で十回目となる。
なぜに五月なのか?、「山手空襲を忘れないため」にこれを開いている。

昭和二十五年五月二十四日、二十五日、このあたり山手一帯は大空襲に襲われる。
爆撃機が長い列を作って侵入してくる。根津山から見ていた人がいる。「今夜はいったいどうしたんだろう、敵はどうしてこんなにも多くの飛行機を飛ばすのだろう、いくら考えてもわからなかった。」(『東京空襲』一色次郎)大型爆撃機B29が空の果てから数珠つなぎであらわれる。後から後から湧くように現れる。この恐怖への想像も必要だ。

気持ちが悪くなるくらいに爆撃機が押し寄せたのはなぜか。それは、

東京を壊滅させるためだった

三月十日の東京大空襲はよく知られている。これは279機のB29が飛来してきて、1665トンの焼夷弾を落とした。一方山の手大空襲の場合は、五月二十四日が558機、二十五日が498機「両日で6,900トンの焼夷弾に見舞われ、約30平方キロの市街地が焼かれた」と。

東京大空襲の倍の爆弾が落とされた。どれだけ戦略的な価値があるのか、飛来機数と爆弾投下トン数がそれを端的に証明している。この狙いは、東京の中枢を徹底的にたたくことだった。これが成功したことで、「東京は焼夷弾攻撃のリストから外された」、いえば日本軍はこてんぱんにやられてしまったということだ。しかし、東京の中枢がやられても平和はすぐに訪れなかった。

軍服を着た者は、軍服の脱ぎ方にこだわる。メンツだ。国家の体裁、負け方を言っているうちに広島に長崎に原爆が落とされてた、多くが死んだ。そしてようやっと終わった。

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2017年05月22日

下北沢X物語(3283)〜会報第131号:北沢川文化遺産保存の会〜

戦争経験を聴く会、語る会
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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第131号
2017年6月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会
   会長 長井 邦雄(信濃屋)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、消滅した武揚隊隊歌の復元を試みる

下北沢一帯の文化を長年掘り起こしている。情報はイレギュラーバウンドして掘り起こされる。ひょうたんを調べていたら中から駒が出てきて驚く。そんな体験は度々してきた。当地一帯の疎開学童の調べから多くの事実が発掘された。

昭和十九年八月、代沢国民学校と東大原国民学校の学童は浅間温泉に疎開した。翌二十年二月陸軍松本飛行場に特攻隊が飛来してきた。武揚隊と武剋隊だ。沖縄へ特攻に行くためには飛行機を改修しなければならない。爆装改修という。このためには三四十日間当地にとどまった。この間に疎開学童と深くふれあった。

この特攻隊は、満州新京で発足した特攻四隊のうちの二隊である。大本営直轄の隊である。蒼龍隊、扶揺隊、武揚隊、武剋隊である。直轄隊だけにプライドが高い。分かってきたことは、彼らはそれぞれに隊歌を作っていたことだ。そのうちの扶揺隊のは今日に残されている。

若桜の歌
一 さらば最後ぞ またの日は 桜花咲く九段ぞと
笑みつつ 悲し つはものが 清らに交わす 盃や
二 神治(かみしろしめ)す 国なれば 神勅 相違なきものを
戦友(とも)よ 戦の理(ことわり)は 国亡びなば 山河なし
三 人生意気に感じては 朝露(ちょうろ)の命 なにかせん
大和 島根の 男児(おとこ)ゆえ ああ君は征く 若桜
『読谷村史』第五巻資料編4 『戦時記録』下


浅間温泉にやってきた武揚隊と武剋隊も隊歌はあったはずだ。しかし、これは残っていない。このうち武揚隊については意外なことが発見された。
武揚隊は浅間温泉では富貴の湯に滞在した。ここには東大原国民学校の学童が疎開していた。彼らは四十日あまり滞在する。この間、一人の隊員と親しく接したグループがある。その隊員は長谷川信少尉だ。この彼のことは後で分かってくる、「きけわたつみのこえ」に手記を残している長谷川信であった。
東大原国民学校は浅間温泉では七つの宿に分宿して生活をしていた。そのうちの一つが
富貴の湯である。ここには「187人」の学童が暮らしていた。浅間では一二を争う大旅館だった。疎開学童と特攻隊を泊めても余裕があった。が、ここで注意を要することがある。この旅館にいたのはすべてが女児だった。
これも一つのドラマだ、特攻隊隊員は若い、多くは田舎から出てきたあんちゃんたちだった。それが都会からやってきたおしゃまでかわいい子たちに遭遇した。ここ浅間温泉には後に映画監督となる降旗康男少年が住んでいた。この女の子に遭遇して大カルチャーショックを受けている。「東京から来た女の子はだれもが白いふっくらした顔をしていた。私にはまるで外国人に見えてしまった」(『松本平タウン情報』第六号 一九九九年)と。特攻隊のあんちゃんも同じだったろう。

そういった思いを歌ったのが「浅間温泉望郷の歌」である。「塵にまみれた飛行服脱げば/かわい皆さんのお人形」という歌詞である。これをたまたま覚えていたのが秋元佳子さんである。彼女の覚えていた節をもとに作曲家の明石隼汰さんがこの歌を復元してくださったことはここでは度々述べてきた。今までは言葉の感性からして長谷川信少尉が作っていたのではないかと思っていた。ところが昨年、十一月、武揚隊隊長の山本薫中尉のご遺族が上京されて、「山本薫君の霊前に捧ぐ」という菱沼俊雄氏の手記を持ってこられた。

私は、宮崎県新田原まで武揚隊の足取りを追って旅をした。彼らは新田原を飛び発ち、九州山地を飛び越え、大陸に渡り、それからさらに台湾の旅に着いた。この間、苦闘特攻三千里だ。彼の乗機は全部で十五機あった、長途の旅でほとんどを失い、たった三機が台湾に着いた。が、彼らは誇りを失わない、めげることなく三次にわたって特攻を敢行している。知られていない事実だけに深い興味を覚える。

数年にわたる調べで武揚隊のことが分かってきた。菱沼手記は、クロスワードパズルを読み解くような面白さがあった。注目したのは、次の箇所だ。

高畑少尉はすぐれた山本君の部下達の中でも最も優秀で頼もしい将校でありましたし、五十嵐君と共に武揚隊歌を作りました。

高畑少尉は大学出の優れた隊員だった。音楽的才能があって武揚隊歌を五十嵐少尉と協力して作ったという。その音楽的な感性は、「浅間温泉望郷の歌」の歌詞にも感じる。その高畑少尉は、求められて浅間温泉で書を遺している。慰問に来た女学生の和綴じ帳に記した。それにはこう書いてある。

以武揚愛国 武揚隊 高畑少尉

ふと思ったことは、この高畑少尉が書いた言葉は武揚隊の歌の一節ではないかということだ。武揚隊のいわれを言葉にしたものだ、決してそれは突飛な連想ではない、その歌詞は、「武を揚げ以て 国を愛しむ ああ 武揚隊」だ。

実は今回、この高畑さんの甥が参加される。驚いたのはこの池田宗祐さん、音楽的感性を引き継いでいるようだ。叔父を偲ぶ歌「拝啓 三角兵舎」を作詞作曲している。今回かれはそれをギターで弾いてくれる。ついでにと思って、「浅間温泉望郷の歌」をもと頼んだら快諾された。ならば、武揚隊隊歌のワンフレーズを手がかりにこれの再現もと考え、彼に提案したところチャレンジしてみたいと、眠っていた「武揚隊隊歌」が再現される。
その一番だ。

以下に、その歌詞をここに掲載していたが、自身で作詞された方から削除要請があったことから、2017,11,18,21:15にその要請に応えて、これを削った、了承されたい。

なお、当日は、武揚隊山本薫中尉の甥御さんご夫妻が四国小松島から上京される。

第10回戦争経験を聴く会語る会「疎開学童ゆかりの特攻隊」

 主催:北沢川文化遺産保存の会 後援:世田谷区教育委員会
 ・と号第三十一飛行隊の軌跡  きむらけん
 ・山本薫中尉について   山本 富繁さん
 ・叔父に捧げる歌他 「武揚隊隊歌」再現演奏 池田 宗祐さん
 ・参加者による情報交換

 期日 5月27日(土) 午後1時半から(開場1時)
  会場 下北沢東京都民教会 下北沢駅西口から徒歩四分
 会費・定員 無料、先着順70名

*当日、手伝ってくださる方は、一時に会場に集まってください。

しろまる参考資料 武揚隊の特攻までの飛行コース
・新京から松本へ 新京→平壌、大邱(たいきゆう)、この後は、大刀洗飛行場→各務原→松本
・松本から台湾へ 松本→各務原→松山→健軍→新田原→済州島→上海(大場鎮)→ 杭州(筧橋)→台湾八塊

2、都市物語を旅する会

私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

第129回 6月24日(土) 午後1時 午後1時 恵比寿ガーデンプレイス 北西端「時計広場」(旧大日本麦酒第2貯水池跡)集合 山手線恵比寿駅南口近く
恒例 三田用水跡を歩く(第2期第4回) キュレーター きむらたかしさん
コース:同タワー38or39階無料展望スペース→大日本麦酒田道取水路+目黒火薬庫軍用線跡→ 銭甕窪左岸分水口跡(日の丸自動車教習所前モニュメント)→ 旧三田用水普通水利組合事務所跡→ 山手線目黒驛南水路橋跡 →鳥久保口分水口跡→鳥久保分水跡 → 旧上大崎村溜井新田跡 →日本鐡道品川線〔現・山手線〕初代目黒駅跡 → 午後5時 JR五反田駅解散 しろまる先号の通知で申し込みは既に30名を超したので今回は告知だけに...。


第130回 7月15日(土) 午後1時 東京メトロ千代田線日比谷駅
地下道を辿ってお江戸東京を 暑いので地下通路を巡って江戸東京の昔を訪ねる
案内人 木村康伸さん 江戸城、東京駅周辺
日比谷駅→二重橋前駅→東京駅→大手町駅
第131回 9月16日(土) 午後一時 田園都市線 駒沢大学駅改札前
案内人 きむらけん (新企画)駒沢代田のダイダラボッチを歩く
コース:野沢旧五輪道路→鶴ヶ久保公園(駒沢ダイダラボッチ)→連合艦隊司令長官旧居→明大野球場跡→安藤輝三大尉旧居→中里色街跡→山田風太郎旧居→世田谷変電所跡→大村能章旧居跡→三好達治旧居跡→萩原朔太郎旧居跡→武満徹旧居跡→帝国音楽学校跡→代田のダイダラボッチ跡→下北沢駅
第132回 10月21日(土)午後1時 浅草雷門前
(新企画)昭和・狭斜の巷を歩く(荷風、露伴、吉行の世界を歩く)
コース:浅草雷門→旧玉ノ井→露伴旧居跡→鳩の街→京島→曳舟
第132回 11月18日(土) 午後1時 三鷹駅改札前
案内人 原敏彦さん (新企画)三鷹・武蔵野散策
コース:三鷹駅→禅林寺→玉川上水→井の頭公園→吉祥寺駅 関係する文人は、森鷗外・茉莉、太宰治、田中英光、国木田独歩、山本有三、北村西望、吉村昭等々

にじゅうまる申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

しかく 編集後記
さんかく今年度世田谷区の「地域の絆連携活性化事業」に応募し書類を提出した。事業計画としてはDrオリバー・オースチン写真を軸に「下北沢の戦後アルバム」の発行と紀要第六号
「下北沢文士町の発展と形成」を予定している。
さんかく×ばつ参加人数分をそのまま差し上げます。
さんかく第三回北沢川文化遺産保存の会研究大会。2017年8月5日(土)、テーマは「世田谷代田の『帝音』歴史を語る」である。この音楽学校を長年研究してきた久保 絵里麻氏(芸術学博士)に講演をしていただき、研究協議を行う。場所は、北沢タウンホールスカイサロンで、午後一時半から。終わった後懇親会を兼ねた納涼会を開催する。
さんかく会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
さんかく当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
さんかく原稿募集。原稿用紙二三枚。身の回りの文化探訪で発見したことなど。
にじゅうまる当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。


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2017年05月20日

下北沢X物語(3282)〜自由と平和そして狸〜

DSCN0064(一)太宰治の墓前で田中英光は命を絶った。「さようなら」と言い残して......、彼の下北沢駅前逸話がある、戦後北口駅前の屋台で水上勉と焼酎を飲んでいた。が、親父と口論になった、元オリンピック選手の六尺男は、カウンターを両手で持ち上げてひっくりかえしてしまった。ガリンパリンと一升瓶が転がって音を立てる。そうした後、脱兎ごとく駅へ向かう。「下北沢駅は階段がすぐであった。その階段へ英光さんの巨体が隠れるのを追いかけた」(『私版 東京図絵』水上勉)と。ここでのイメージは大切だ、下駄を履いた田中英光はコンクリートのタタキを行ったのか、木製跨線橋の木の階段を上ったのか。どうもカタカタクットントンと足音を高く響かせて地下道に消えたというのが正解らしい。

下北沢駅の地下道はどうなったか?興味深い問題だ、が、大事なことは、田中英光の「さようなら」論である。彼は昭和二十四年十一月に自殺するがその月の雑誌に掲載されたもの、遺稿である。この冒頭で述べる、

「グッドバイ」「オォルボァル」「アヂュウ」「アウフビタゼエヘン」「ツァイチェン」「アロハ」等々――。

別れの言葉は多くある、これらはまた会おうなのど祈りが願いがこもっている。が、
我々が使う「さようなら」は、「敗北的な無常観に貫ぬかれた、いかにもあっさり死の世界を選ぶ、いままでの日本人らしい」言葉だと彼は言う。その核心は何か。彼はこう述べる。

「さようなら」という日本語の発生し育ち残ってきた処に、日本の民衆の暗い歴史と社会がある。

さようならは、「左様ならば」の「ば」が略されたことばだ。意味としては「では、そういうことで」、「そういうことならば」という意味だ。伝えたいことの中心をぼかしている曖昧な言葉だ。「そういうことならば、ここでお別れしよう」となるが、意味の核は隠される。何でもかんでも「さようなら」という断絶を意味するこの言葉しか使わない日本人の寂しさを彼はいう。寂しい死に方しかできない日本人。

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2017年05月19日

下北沢X物語(3281)〜戦争、平和、共謀罪〜

DSCN0063(一)平和という普段着は綻びやすい、しかしそれを着ているものはなかなか分からない。戦争から遠ざかるに連れ、平和という感覚に麻痺してしまう。それで社会をちょっと面白くしてしまおうとプロパガンダが始まる。ところがこれが平静を装っているから始末に悪い。どう考えても異常なのは、北朝鮮のミサイル発射場面を繰り返し繰り返ししつこく流していることだ。おかしなことにこれは北朝鮮が提供しているものだ。彼らは居丈高かに国威発揚するために国営放送でこれを行っている。つい笑ってしまうほどだ。「彼らの術中にはまっているのが日本のテレビではないか!」、繰り返しミサイル発射場面を流し、いまにも北朝鮮がこちらへミサイルを発射して多くの死ぬのではないか。刷り込みへの危惧へは全くと言っていいほど考えられていない。ミサイルが発射されたとの報を受けて、地下鉄が停まった。噴飯ものではないか?

私たちはとおに戦争を忘れてしまった。もう十年にもなるだろうか。戦争を巡るシンポジウムがあった。妹尾河童さんの言葉は今も覚えている。
「戦争というのはドンパチから始まらないのです。最初の印象ですけどね、トタン屋根にパラパラって小石が降ってくる感じなんですよ、おかしいなと思っていると戦争がはじまる......」
なんともないことが段々に大きくなってくる。そうすると人々は敏感になってくる。そこを付け狙うように、必ずといっていいほど、使われる常套句がある。

まず、『敵が攻めてくるぞ!』

つぎに、『いいか、住民、国民というものは基本的に、これは動物だから怖がりなんだ、そこを心得て時を捉えて言葉を効果的に使う、ここぞというときに使うと、絶大な効果がある。』

そして、『自分の座敷に他人が土足で入ってきたらじいさん、ばあさんでも怒る。これが国土となったらどうか。他国のやつらが入ってきて財産を奪い、女子を陵辱する、断じて許せない、皆銃を持って戦うんだ!』

戦争になったら戦時一色に染まる。異論は挟めない、皆くちをつぐむ。

敗色が濃くなると、一層に檄が飛ばされる。

昭和十八年九月二十二日に情報局から「国内体勢強化報告」が発表された。いわゆる一億総動員令である。その一だ。

官民を挙げて常に今次聖戦の本義に徹せしむると共に、その容易ならざる大業なることを覚悟せしめ、いよいよ必勝の信念を持って不撓不屈、尽忠報国の誠を致さしむ。

石にかじりついてでも戦え。以前話を聴いたことのある望月輝正さんは本土決戦に備えての対処法を准尉に教わったと。

『本土決戦に備えて、敵の兵士が上陸してきたら卵の殻に胡椒と唐辛子をまぜたのをつめた≪新兵器≫のめつぶし弾をたたきつけやつらのひるんだすきに刺し殺す。』

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2017年05月17日

下北沢X物語(3280)〜古老は犯罪を語らず帰国を語る〜

DSCN0031(一)十年間の文化発掘で大勢の人と会ってきた。いわゆる仕事として会ってきたわけではない。主にはその人の体験や経験に興味を持って接してきた。ゆえに位階とか出自は問題ではない。それでも何年か経って彼の職業を知って驚くということはよくある。野沢の古老、生きてきた九十六年間は濃厚なものだと今になって知ったことだ。

昭和二十五年シベリア抑留から戻って坂部正晴さんは、法務事務官となった。その経歴は豊かだ。戦争犯罪にも関わっていた。事件はどれこれ大きな話題となったものだ。雑誌のインタビューでそこを聞かれている。

――戦犯の事件で思い出に残るような事件や苦労したことはどのようなことですか。

坂部:5年間で私が関係した事件は多岐に渡り、その中には遠藤周作氏が名作『海と毒薬』に結晶させたB29乗員に対する「生体解剖事件」、中国人労務者の暴動鎮圧に端を発し、いまだ未解決の問題を残している「秋田花岡鉱山事件」、映画『戦場にかける橋』の舞台になった、泰緬鉄道建設に伴う英・豪・印度の『捕虜虐殺事件』、病院船撃沈のかどで元公爵(元小松宮)で海軍中将の小松輝久氏が第四艦隊指令長官として責任を問われた「インド洋潜水艦事件」、昭和20年8月15日、敗戦の当日、福岡市郊外油山で米兵捕虜を殺害した「油山事件」等などが含まれていました。
研究誌『更生保護と犯罪予防』第138号 平成14年3月


どれもこれもが社会的に有名な事件だ。これら事件に関わっておられたのは後で知ったことだ。その一つ一つについてどうだったかと聞いてみたいところだ。しかし、本人はこう最後を結んでいる。

個々の事件について具体的語る自由はありませんが、私にとってはとても重い深刻な5年間だったと思います。

いわゆる公務員の守秘義務である。話そうにも話せない。

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2017年05月16日

下北沢X物語(3279)〜野沢の古老は沖縄を語る〜

DSCN0053(一)文化探訪はイレギュラーバウンド、筋違いなことから真実が発見される。昨日も驚いたことがある。「今朝の世田谷の広報に載った戦争経験を聴く会、語る会ですけど...」と電話での問い合わせだ。「疎開の方のお話ですか?」、「いえちょっと違いますが、ということは疎開された方?」、「ええ、はい」、「え、どこの小学校ですか」、「駒沢です」、「え、いつ行かれたのですか」攻守逆転する。「昭和二十年三月三年生で新潟県に行きました」、「ちょうどその頃、学校のすぐそばに高射砲陣地あったでしょう?」「ありましたありました。建物も覚えています」、「へぇ、弾を撃つと学校のガラス戸がびりびり鳴ったでしょう」、「うん鳴った鳴った」しばし、彼女と高射砲で燃え上がった。が、興奮しているのはこちらだった。

駒沢小学校は、調べると昭和十九年八月三十一日に新潟県長岡市古志上組村に二百六十三名が疎開している。これは三年以上だ、翌年からは一年生二年生も加わった。三年生になった彼女はこのときに疎開した。
彼女は、自分の辛かった疎開経験を九歳になる孫に話しておきたいとの思いがある。が、覚えている疎開経験が果たして正確なのか自信がない、そんなときに広報を見て電話をしてこられた。「疎開学童ゆかりの特攻隊」とあったが多分「疎開」の文字しか目にしなかったのではないか。当方も似たようなものだ。「高射砲」と聞くと俄然聞き耳を立てる。質問してきた女性に、「高射砲で覚えていることはないか」としつこく聞いていた。

戦争の経験を自分の孫に伝えるというのはとてもいいことだ。長岡に疎開した駒沢国民学校の児童は長岡空襲を目撃している。飛来してきたB29は百二十五機だ。地方都市の空を埋めて大量の焼夷弾を落とした。
「ヒュウヒュウという音がして怖かった、そして家々がたちまちに燃え上がったのよ。生きた心地はしなかった。戦争の怖さは体験してみないと分からないのよ......」

最近思うことがある。昨日もそうだった、テレビのニュースでは北朝鮮のミサイルの発射場面を、繰り返し繰り返し写していた。子どもが見たときにこれをどう思うのか。やはり異常である。視聴者の恐怖をあおり立てているようにしか見えない。

マスコミも政府のいう危険意識、いつミサイルが空から飛んでくるかわからない。だからこちらの防備を固める必要がある。必要以上に緊張を煽っている。
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2017年05月14日

下北沢X物語(3278)〜野沢の古老に昔を聞くII〜

DSCN0059(一)野沢の古老、坂田正晴さん、来月になれば97歳になると、おおよそ百年、近代日本の激動期を、時代の境目を生きてこられたのだ。それは言い換えれば風景である、一つはた子ども時代の野沢風景だ、近隣には雑木林が広がっていてカブトムシなどの昆虫を採るのに心わくわくさせた。その後の人生は波乱含みだ、「ハルビン学院、建国大学、大同学院を卒業後、満州国官吏を経て関東軍司令部に勤務中終戦を迎え、5年間の抑留生活を終え、帰国後は法務省に勤務」したという。価値観が錯綜する中で生きてこられた。満州、ロシア、そして戦後では沖縄にも勤務したという。それぞれの土地においての風景の記憶があった。

・野沢の風景について
「鶴ヶ久保公園は藪でした木々がびっしり生えていました。木が多かったですね、野沢稲荷神社には大きな松の木があって上ると品川の海が見えた。これもだいぶ遅くまで切り株がありました......」
「野菜作りが盛んだったと聞いていますが、練兵場から出る馬糞で潤ったと......」

馬糞が大量に産出され、農家の肥料需要のうえに、大きな供給源となっていたので、下馬地区の野菜栽培上、一大転機となった。馬糞は持久肥料として、肥料の三大成分をよくあわせ保有している。その馬糞が大量にかつ安価に入手できたので、きゅうり、なす、かぼちゃ、すいか、まくわうり、トマト、大根、白菜、ねぎ等が、世上一般不作の年でも方策が続いた。『しもうま』

野沢は下馬に隣接している。練兵場の馬糞で潤ったはずだ。
「畑はあるにはあったがあんまり記憶にありませんね。覚えているのはこの辺りが植木だめだったことです。方々にありましたね......」
確かにそうだ堀之内道の尾根筋のところにはこれが数多くあった。今も一二箇所残っている。都市の膨張と耕地利用の変遷はある。馬糞で畑の作物は丸々と肥え太った。近隣の市場では評判だった。が、植木に転換したのは野菜よりも儲かるからだ。観賞用の植木は都会人のストレスを発散するのに必須だった。

「道元坂の賑わいというのは大変なものだったらしいのです。それで上の方には植木やがずらりと並んでいたそうなんです。この辺りから大八車で運んだのでしょうね」
「うん、そうだろうね」と坂田さん。

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2017年05月13日

下北沢X物語(3277)〜野沢の古老に昔を聞く〜

DSCN0061(一)新橋ステンショでピリリと笛がなった、箱がゴットンと動いた。ガラスに横縞が流れた、そしてゲッポンと停まったら、「ヨコハマ!」だった。目が眩んだ。これは汽車の話。今は飛行機だ、この間、知覧に行った。羽田を離陸するとき床下でガリボリンと鳴った。すぐに富士の頂が窓をかすめた。それからいくらも経たないうちに「カゴシマ」とのアナウンス。汽車の時代を生きた自分は魔法に掛かったように思った。今、時は高速でめくられていく、その時その時のことはうっちゃらかして猛然と突っ走っていく、どこへ行くのだろうか?テコテン坂はどうなったか?代田窪はあったのか?上馬のうなり石はどうなったか? が、そんなことはかまっちゃいられない。近代は恐ろしい。テレビを見ているとミサイルが放たれて東京で地下鉄が停まった。今にも人が死滅しそうことを言う、プロパガンダの恐ろしさだ。ささいなことだが、ノドンよりもテコテン坂に興味を抱く、そこにこそ人々の生きた歴史があるのではないのか?

昨日のことだ電話が鳴った。取ると、即座に「間もなく都議選が行われますが行かれますか。その場合は一番を押してください」、「バカヤロウ!」とガチャンと切ってしまった。いわゆる電話アンケートだ、これほどぶしつけなものはない。世論調査なるものが出される。その結果は実感とかけ離れている、アンケートに答えている人はよほど暇な人なのではないか。おかしな結果を踏まえてどんどん国家は右傾化していく、情報操作の恐ろしさを思う。

この間、桜祭りで野沢から来られた古老に会った。大正9年生まれの96歳、坂田正晴さんだ。聴くと、駒沢ダイダラボッチ、すなわち鶴ヶ久保公園のすぐそばに住んでいるという。

昨日、その野沢のお宅を訪れた。野沢稲荷神社のすぐ側だた。お宅で話を伺った後に、公園に一緒に行った。入り口に「東京市鶴ヶ久保公園」 、「昭和十三年四月開園」と左書きで記されている。

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2017年05月11日

下北沢X物語(3276)〜「ダイダクボ」・「代田窪」考II〜

DSCN0046(一)「ダイダクボ」という言葉はいつから用いられていたのか。言葉としては大正期から昭和期に書かれた記録や絵図にこの言葉が二例見つかっている。沢筋の凹みが「ダイダクボ」と呼称されてきていたことは事実である。意味としては「ダイダラボッチがつけた窪み」ということだろう。言葉そのものに伝説性がある。ここの字名は「鶴ヶ久保」である。これは徳川吉宗公によって「この地を鶴ヶ窪と名付け、そこに弁財天と、水神を祀り、鶴ヶ窪弁財天と名付けられた」(『しもうま』)ことに由来している。江戸時代の伝説に基づいたものだ。

当該地区の下馬や野沢は北から南へと連なる荏原台の東端に位置する。環七と野沢通りが交差する龍雲寺交差点辺りを起点にした舌状台地が東に延びている。代田窪はこれの北側の谷懐に当たる。地形的には沢の伏流水が自然に湧き出てくるところだ。弁財天を祀ったところ忽然と水が出たというのではない、遙か昔から水は湧いていたに違いない。

ここで興味深いのは地形である。東に延びた舌状台地の先端に駒繋神社がある。見事な舌状台地である。その縁を舐めているのは蛇崩川である。こんもりとした丘が形成されていてここに大国主命が祀られている。興味深いのは、この舌状台地は「子の神丸」という字名がついている。有り難い神社を台地が頂いているからだ。この神社のホームページではこう謳う。

駒繫神社は、ご祭神 大国主命 をおまつりし、前九年の役に源義家公、頼義公が戦勝祈願をし、奥州藤原氏の征伐に際しては、源頼朝公が戦勝祈願をしたと伝えられる源氏ゆかりの神社です。

「鼠に助けられて、難を逃れた大国主命」というのは有名である。「子の神」もここから来ている。しかし、面白い話がある。子は十二支のことだが方角をいうものでもある。北である。

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2017年05月10日

下北沢X物語(3275)〜「ダイダクボ」・「代田窪」考〜

DSCN0050(一)荏原域内に「代田窪」、「ダイタクボ」と呼称する地名があった。意味としては「ダイダラボッチがつけた窪み(足跡)」だと考えてよい。個別野沢にあった窪みだけをいうのでなく汎用的だった。碑衾村谷畑の、千束村の狸窪は、ダイタクボの一つではなかったか。窪みが都市化によって見えなくなり自然に消失した。もう一つは地名に対する都会的センスが生じてきて、音韻的には不細工だとして退けられたのではないか?

「ダイダクボ」は、その地固有の地名ではなく汎用的なものであった。恐らくは荏原各所で言われていた。が、これは伝承されなかったことで消滅した。が、今もこの地名が残っているところがある。それは埼玉県浦和市、いまのさいたま市だ。ここに太田窪が残っている。

角川日本地名辞典(11) 「埼玉県」で調べるとこうある。

だいたくぼ 太田窪 <浦和市>

太田窪(郡村誌・新編武蔵)・大多窪とも書いた。県東南部、芝川右岸の大宮台地上に位置する。地名はダイダラボッチ(伝説上の巨人)に由来するという。地内には縄文前期の太田窪貝塚、縄文中期・後期の大在家遺跡・善前北遺跡がある。


まず第一点、興味深いことは、「だいたくぼ」を「太田窪」と表記していることだ。
つぎに第二点、「ダイタクボ」の名称の起こりだ。これはダイダラボッチに由来するという。窪はそのダイダラボッチによってつけられたへこみをいうのであろう。つまりは巨人の足跡だ。
そして第三点だ、ダイダラボッチに対する考察を行ってきたが「古蹟」は重要なポイントだ。つまり古くからの遺跡の存在だ。当地には縄文時代からの貝塚などが存在するという。

「ダイタクボ」は、「ダイダラボッチがつけた窪み」、窪みゆえに水が湧出する。この水は生活にとって欠かせないものだった。それでダイダラボッチに湧出する水源を古代人はとても大事にした。
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2017年05月08日

下北沢X物語(3274)〜近傍の民俗学:代田窪考III〜

DSCN0049(一)昭和の初期頃まで、今の鶴ヶ久保公園は「ダイダクボ(代田窪)」と呼ばれていたようだ。この言葉はかなり古くからあったものだと考えてよい。意味としてはダイダラボッチが刻んだ窪地・足跡という意味だろう。この土地、典型的なダイダラボッチである、三つのKを見事に満たしている。まず、くぼんだ地形(巨人の足跡とされる)であること、次に神が祀られていること(湧水を護る鶴ヶ窪弁財天)、そして付近に古蹟があることだ。

先に、雑誌『武蔵野』、第二巻第二号(大正八年七月発行)の「駒澤行」を紹介した。ここに「明治大学運動場側の坂道附近には石斧が散見された包含層がある。」とある。明大の運動場は明薬大に譲渡されたようでここの遺跡は「明治薬科大遺跡」とされている。ところが東京都教育委員会の遺跡地図によるとここは、「鶴ヶ久保遺跡」とされている。時代は、[旧石器時代][縄文時代(中期〜後期)]で数多くの出土品があると。

距離がやや離れているのになぜ「鶴ヶ久保遺跡」としたのか。住居跡が発見されているころからここの水源が鶴ヶ久保だったのではないかとも想像される。考古学的には代田窪という名称の方が価値があるように思えるが「鶴ヶ久保」の名をかぶせている。

昭和十一年四月、鶴ヶ久保公園は開園した。名称論議というのはあったはずだ。公園に関わったのは土地区画整理組合だ。土地の持ち主が中心ゆえに構成員は土地の名をよく知っているはずだ。

「あそこは代田窪と言われているから代田窪公園ではどうか?」
「いやあ、それはあまりに土臭いですよ。近隣に師範学校もでき、先生たちの家なんか赤い屋根瓦でかっこいいじゃあありませんか。これからこの土地は発展しますよ」
「そうそうそういえば今年の正月に大井町線の蛇窪駅が、戸越公園駅に変わったじゃないですか、人気が出て土地の値段もあがったそうですよ......」
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2017年05月07日

下北沢X物語(3273)〜近傍の民俗学:代田窪考II〜

DSCN0042(一)「いやあ、全く聞いたことはありませんね」と。鶴ヶ久保公園のベンチに座っていた二人のお婆さんに聞いてみた。「ダイダクボ?。それも聞きません」と。だいぶ前から近隣の人に尋ねているが色よい返事はない。しかし、文献から二例、ここを「ダイダクボ」、「代田窪」と呼称していることを知っている。


かつて「鶴ヶ久保」は代田窪として呼ばれていた、ダイダラボッチの窪みという意味だろうと思う。このことが知られていたことから当時の人々はここを「ダイタクボ」と呼んでいたものだろう。

柳田国男の『ダイダラ坊の足跡』ではダイダラボッチの痕跡を訪ねたことを記している。まずは代田のダイダラボッチを訪ね、そして、次に駒沢村にあるこの痕跡に向かった。このときのことを回想して書いている。

足跡の一つは玉川電車から一町ほど東の、たしか小学校と村社との中程にあつた。道路のすぐ左に接してこれも道路のすぐ左に接して、ほぼ同じくらゐの窪みであったが、草生の斜面を畠などに拓いて、もう足形を見ることは困難であった。しかし踵のあたりに清水が出て居り、その末は小流をなして一町歩ばかりの水田に漑がれてゐる。それから第三のものはもう小字の名も道も忘れたが、なんでもこれから東南へなほ七八町も隔てた雑木林のあひだであった。附近にはいはゆる文化住宅が建とうとして、盛んに土工をしてゐたから、或ひはすでに湮滅したかも知れぬ。
「柳田国男集」現代日本文学大系 20 筑摩書房 昭和四十四年


まずこの場所を特定するのに時間がかかった。「玉川電車から一町ほど東」に惑わされた。しかし分かってみると何のことはない。「小学校と村社との中程」とあるが、前者は旭小学校であり、後者は野沢稲荷神社である。玉川電車の通っていた大山街道から南に向かっていくと学校を右に見ていくと、野沢神社への坂へかかる左手に沢がえぐれた窪地がある。現在の世田谷区野沢二丁目四番の区立鶴ヶ公園である。

柳田が訪ねた時期は、「七年前に役人を罷めて気楽になったとき」とあるから、貴族院書記官長を辞した大正八年(1912)十二月以後のことだ。しかし、記述からも分かるとおり公園にはなっていなかった。「草生の斜面を畑に切り拓いて」いた。畑や野っ原があって窪みには湧水が湧き出ていた。古老の記憶によるとそこには幹の太い藤の木があったという。
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2017年05月05日

下北沢X物語(3272)〜近傍の民俗学:代田窪考〜

DSCN0041(一)世田谷代田の語源はダイダラボッチである。巨人の足跡が残っていたことからこの名がついた。地名の起こりとしては極めて珍しいものだ。当地には今もこの伝説が色濃く残っている。代田のダイダラボッチを広く世に知らしめたのは柳田国男である。彼は、代田のダイダラボッチを実際にフィールドワークした。そしてその足で駒沢のダイダラボッチを調べた。ここで彼は、ゲホッ!と驚いた。代田と駒沢とでは足跡の向きが違っていたのだった。ダイダラボッチは一人ではない、複数の巨人がいて東京の空を縦横に闊歩していた。ある日、どっしんという音が響いた、その瞬間大地が震えた。そして次に上空でバビュンと空気を切る音がした。間をおかず屋根にバラバラと音がした。「巨人が通っていったぞ!」、村人はびっくりして空を見上げた。これらの現象を柳田国男は「巨人来往の衝」と述べた。

世田谷代田では巨人の足跡はよく知られている。地下化した世田谷代田駅は駅前広場の整備をしていく。この整備コンセプトは、「富士山が見えるダイダラボッチの駅前広場」だ。素晴らしい、地上駅に出たとたん、眼の前にでっかい巨人の像「そうだったか、ここは巨人伝説のふるさとだったのだ」と下車した人々が感動する。イメージにあるのは茨城県水戸市にある「大串貝塚ふれあい公園」のダイダラボウ像であった。ところが像を造る予算はない。残念、が、それでも広場に「ダイダラボッチの足跡」が刻まれると。

一方である、駒沢のダイダラボッチは知られていない。理由としては地名として生きていないという点はあるだろう。ところが地形形状は今もそっくり残っている。絵になるほどだ。昨年、某新聞社の記者がダイダラボッチ伝説を調べにきた。世田谷代田では絵になるところはない。それで絵が写せるところの野沢までそのために歩いて行ったことだ。

ここには絵がある、くぼんだ池があって、湧水がこんこんと湧き出ている(今は循環水だ)そして池のそばには弁財天が祀ってある。ダイダラボッチのお約束が三つそろっている。すなわち3Kだ。Kubomi Kami Kosekiである。窪み、守り神の弁財天、そして古蹟だ。このすぐ北に旭小学校がある。北丸遺跡といって縄文時代中期の土器や石器が出土している。

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2017年05月04日

下北沢X物語(3271)〜近傍地域の民族学を訪ねるII〜

DSCN0036(一) 「名前は土地に 波動をあたえる」(詩「地名論」)と言ったのは大岡信である。「この坂は何というのですか?」と聞いたら、「テコテン坂というのです」と返ってくる。とたん、「ゲホッ!」と叫ぶ。地名の波動だ、「テコテン」、聞いたとたんに手が動き出しそうになる。「月夜の晩にタヌキが出てきてテコテンと踊っていたそうなんですよ」と聞くと、「やはりなあ」と笑みがこぼれる。しかし、テコテン坂で、何度も人に聞いたが反応は全くない。地名は波動力を失っている。

テコテン坂の南は深く沢が切れ込んでいる。今はそこに鶴ヶ久保公園がある。この地名には由来がある。

鶴ヶ久保は、八代将軍徳川吉宗が狩りに来て傷ついた鶴を追ってくると、湧水池で鶴がきずをいやしていたことからいうようになったとされます。
『ふるさと世田谷を語る』(上馬・下馬...編)


よくある話である。地名の波動をうまく使った例だ。しかし、どうもこの逸話は牽強付会だと思われる。このような創作地名が、本質をはぐらかす。

『武蔵野』という雑誌がある。その第二巻第二号(大正八年七月発行)に「駒澤行」(武蔵野会遠足記)という記事がある。一行は、駒繋神社から西澄寺を経てさらに西に向かったところで蛇崩川を渡り、坂道に掛かる。

その箇所の見出しは、「包含屬ダイダラボッチと檢知碑」だ。

明治大学運動場側の坂道附近には石斧が散見された包含層がある。鳥居、大野、村高の諸先輩の詳細説示されてゐる場所である。その先にダイダクボといふ凹地がある。三四段の地域で最も深い所に池があり古来灌漑用にの水源となつてゐる。伝説に曰く、此処はダイダラボッチの足跡でこの凹地に入り土地を堀り木を伐ると罰が当たると、蓋し水源保護のためだろうと。

大正時代の話だからこの説明ではちんぷんかんぷんだ。この「坂道」は今もある。西に向かって坂を上ると左手が「アクティ三軒茶屋」という大きなマンションだ。ここがかつての「明治大学運動場」だった。ここは「明治薬科大遺跡」でもある。ダイダラボッチのあるところに遺跡がある、これはこの当時のお約束だった。

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2017年05月02日

下北沢X物語(3270)〜近傍地域の民族学を訪ねる〜

DSCN0040[1](一)荏原逍遙では、ダイダラボッチ跡をよく回る。南に行っても北に行ってもぶつかる。この頃思うのは伝承の濃度である。この濃淡が大きい。前にダイダラボッチ伝説のある洗足池そばの児童公園を通り掛かった。と、男児が「ダイダラボッチ!」と唱えて飛び跳ねた。「オヒョウ!」、心底驚いた。しかし、これは伝承性は薄い、偶然唱えたところに自分が行き会わせただけだ。やはり濃度が濃いのは代田である。多くの文献に記録され、また古老が覚えてもいる。一方、濃度は薄いのだが間違いなくダイダラボッチ跡だというのは野沢である。その鶴ヶ久保公園はよく通る。昨日も通った。古老に出会うと聞くことにしている。「あそこはダイダラボッチか?」と。その答えはいつもノンである。

下馬や野沢は面白い、が、まだまだ分からないことが多い。これは上馬の話だが、一丁目に「うなり石」があったという。これも心惹かれる。記憶にあることは二つ、年老いた母親を大山方面へ捨てにいこうとしたところうなり石が唸った、「やばい!」と息子は母を連れ帰ったと。もう一つ、旭小学校に通っていた子が途中にこれがあったので避けて通ったと。味のあるいい話だ。が、このうなり石はみつからない。

「『うなり石』は知らないけれど、二二六事件の首謀者安藤大尉の家のあったところは知っている」
石探訪中真中で聞いた。文化探訪はイレギュラーバウンドである、本命はわからなくても筋違いの真実に行き会うことはよくある。

筋違いといえば鉄塔とダイダラボッチだ。この頃は街歩きは案内する方は降りて、企画に専念している。九月行事の調整をしている。先に品川用水を歩いたとき、「取水口へ行こう」との声があった。それで渡部一二先生に連絡したら体調不良とのこと。さてどうするか?そんなときにふと新企画を思いついた。

「駒沢・代田のダイダラボッチを歩く」である、荏原二大ダイダラボッチ訪ねるというものだ。ところが間が持たない。野沢から代田へ、ダラダラダイダラボッチをしても気合いが入らない。
「が、待てよ、この二つを結んでいるのは線ではないか!」
すばらしい思いつきだ。二つのダイダラボッチを駒沢線沿いに歩く。
「皆さん見てください、新型火力特急が走っています。原発事故を契機に新しい火力発電所ができて、それが今どんどん駒沢線に走るようになったのです」
この冗談は通じるか?野沢は駒沢線、39号、代田は70号である。

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2017年05月01日

下北沢X物語(3269)〜会報第130号:北沢川文化遺産保存の会〜

戦争経験を聴く会、語る会
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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第130号
2017年5月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 長井 邦雄(信濃屋)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、5月は戦争月間・催しを二つ開催

昭和二十年(1945)五月二十四日、二十五日、当地一帯は重爆撃機B29による空襲で大きな被害を受けた。いわゆる山の手大空襲と呼ばれるものだ。三月十日の東京大空襲はよく知られている。これは279機のB29が飛来してきて、1665トンの焼夷弾を落とした、一方山の手大空襲の場合は、「両日で6,900トンの焼夷弾に見舞われ、約30平方キロの市街地が焼かれた。そして東京は焼夷弾攻撃のリストから外された」と。東京大空襲の倍の爆弾が落とされた。これがどれだけ戦略的な価値があるのか、飛来機数と爆弾投下トン数が如実にそれを端的に証明している。この狙いは、東京の中枢を徹底的にたたくことだった。これが成功したことで、東京は焼夷弾攻撃のリストから外された。いえば日本軍はこてんぱんにやられてしまったということだ。
ところが、戦争は終わらなかった。八月六日に広島に、八月九日に長崎に原爆が投下されてようやっと日本は降伏をした。もっと早くに戦争を終わらせていれば、多くの悲劇は生まれなかった。はり戦争指導者の責任は問われるべきものだ。
当地でも被害はあった、代田や大原は焼け野原となった。代田在住の知り合いの一人は、「私の祖母も、この山手大空襲の犠牲者。享年47。世田谷だけで、88名もの命が失われました。3月10日の東京大空襲の莫大な数がため、光があたっておりませんが、忘れてはいけない世田谷の歴史です。」と。
昨今は、日本近海での国際的な緊張の高まりで場合によっては戦争になるかもしれないとの報が行き交っている。しかし一旦綻んだ平和は、なかなか繕えない。戦争が始まると憎しみは増幅するばりで、その間市民の犠牲が増えていく。それを知る戦争体験者はこう語ってきた。「どうあっても戦争はするな」と。
戦争をすることよりも、しない方の選択肢を選び、粘り強く平和を求めていくべきである。これを伝えることは大事だ。今年は戦後七十二年目を迎える、改めて平和のありがたさを見直すために二つの戦争関連の催しを開くものだ。

1世田谷の戦跡を歩く

ここ数年、駒澤練兵場を中心に街歩きを続けてきた。当地一帯、三宿、下馬、三軒茶屋そして駒場には広大な軍事施設が存在した。しかしこのことはすっかりすっかり忘れ去られている。現在の昭和女子大は、かつては近衛野砲兵の兵舎と馬屋とがあった。
例えば、「近衛陸軍砲兵二等兵」門屋 古寿 昭和五十三年刊)があって近衛野砲兵営でのエピソードが書き綴られている。

「馬は利口だぞ。きさまらが、こわがっていると馬になめられる。きさまらに馬をわりあてるから、可愛がってやれ。朝、昼、夕方、夜と、一日四回対面するんだから、そのうち可愛くなるよ。(馬の「たてがみに」や尾に、白い布をつけたのがいるが、何の印かと質問したところ「たてがみ」はかみつく、尾は、けとばすくせの馬だ。馬は、おく病だからけっして、だまって近づいてはいけない。まして、こんな印のある馬においてはなおさらだ、とのことである。)」

馬と人とがともに生活をしていた。ここには多くの苦労があった。日々訓練に明け暮れ、そしてここから前線に兵士たちは出ていった。世田谷下馬には野砲兵聯隊が三つあった。そのうち、野砲兵第一連隊は、フィリピンレイテで玉砕している。
そういう忘れられた歴史を追悼するためにこの行事をずっと続けてきた。それがいつの間にか十年も経ってしまった。 開催期日は5月20日だ。午後1時に田園都市線中央改札口に集まって、出発する。詳細はこの後に出てくる街歩きの案内で確認されたし。

2第10回戦争経験を聴く会語る会「疎開学童ゆかりの特攻隊」

私たちは下北沢一帯の文化を掘り起こしてきた。ところが一つのことに気づいた。すべてのことが戦争に関わっていたことだ。この街は戦争を契機に大きく変わった。その原点が太平洋戦争である。このことからやはり当地の文化を知るには戦争経験を聞く会を開くべきではないかと思ってこれを始めた。最初は気軽なもので特に続けるつもりはなかった。が、思えば、この会が眠っていた近代戦争史を掘り起こしたと言える。
大きなトピックで言えば、「鉛筆部隊」である。戦争中、世田谷の代沢国民学校は浅間温泉に疎開した。ここで分宿して生活をするがその一つの旅館の引率担当の先生がいた、その柳井達雄先生は受け持った学童を「鉛筆部隊」となずけ、ひたすらに鉛筆で文章を書かせた。そんな彼らのところに特攻隊がやってくる。思いがけないふれあいだ。
これらのことは地元でも知られるようになり、2015年10月に松本市の護国神社に建った「特攻勇士の像」には次のように碑に刻まれている。

松本市内には、出撃を待つ多くの特攻兵が滞在し、陸軍松本飛行場から前線へと飛び立っていきました。又、当時浅間温泉に疎開していた東京世田谷の学童たちと暖かい交流もありました。

これは我らの会の戦争エピソードの掘り起こしに端を発したものである。これは誇ってよいことである。
今回十回目は十年目ということである。節目でもある。「疎開学童ゆかりの特攻隊」とした。この話も近代戦争史の中にひっそりと埋もれていたものだ。いわゆる疎開学童と特攻隊のふれあいは「鉛筆部隊」代表される。この場合は代沢国民学校の疎開学童と彼らとの物語だ。が、今回のは違う。学校は東大原国民学校である。浅間温泉ではやはり複数の旅館に分宿していた。そのうちの一つが富貴之湯である。浅間一の大旅館で東大原小の女児が宿泊していた。ここにやってきたのは武揚隊である。やはり代沢国民学校の学童と接した武剋隊と同様、満州第二航空師団で編成された兄弟隊である。
この隊の歴史の全貌が最近になってようやっと分かった。たぐいまれな特攻を行っていることが分かった。彼らの乗機は当初15機だった、ところが遠距離特攻へ旅立つ過程においてつぎつぎに機数が銃撃を受けたり、事故に遭ったり、壊れたりしてついには三機となってしまった。が、三次にわたって最後の最後まで出撃していった。この歴史が明らかになったのは東大原小機縁である。

1武揚隊は浅間温泉富貴之湯に滞在していた。ここには東大原国民学校が疎開していた。
2東大原小の疎開学童を探したところ当時五年生だった人が二人見つかった。彼女らの証言から分かったことは武揚隊の長谷川少尉と深い接触があることが分かった。この彼は『きけ わたつみのこえ』に手記を残している学徒出陣した長谷川信であった。
3ネットで長谷川信のことを調べて載せていたところ、「武揚隊 信州」で当ブログを 探し宛てた人がいた。安曇野の丸山修さんである。彼はかかりつけの歯科医に自宅にある資料の調べを頼まれていた。何とこの人は武揚隊の遺墨持っていた。
4四国在住の武揚隊隊長の遺族が資料を上京して持参された。「山本君の霊前に捧ぐ」という菱沼敏雄氏の手記ほか手紙である。新資料である。


これらのことを通してこの隊の悲劇的な全貌が分かった。波乱万丈特攻三千里である。まずは苦難の旅だ、新京、各務原、松本、各務原、新田原、済州島、上海、杭州、そして台湾海峡を越えて八塊へ。この間につぎつぎに機を失っていく。しかし、残存部隊の九名は八塊飛行場から三次にわたって出撃をしていく。第三次は終戦間際の七月十九日だ。これは陸軍最後の特攻であった。
彼らを指揮する第八航空師団は、六月に入って特攻作戦が効果を上げてないことからこの総括に掛かった。しかし、それでもは七月十九日に敢行した。戦史叢書は記録している。「第八航空師団では牽制等の目的」でこの日に行ったとする。言ってみればデモンストレーションである。見方によってはみせしめ特攻と言えないか。
当日、藤井清美少尉と飯沼芳雄伍長の二名が出撃した。が、前者は特攻戦死が認められたが、後者は戦果確認ができずに陸軍特攻戦死者名簿には載っていない。いわゆる陸軍特攻戦死者にもくわえられていない。言えば、武揚隊の苦闘は「波乱万丈特攻三千里」だ。

期日 5月27日(土) 午後1時半から(開場1時)
会場 下北沢東京都民教会 下北沢駅西口から徒歩四分
会費・定員 無料、先着順70名


2、都市物語を旅する会
私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第128回 5月20日(土) 午後1時 田園都市線三軒茶屋駅改札前
第10回 世田谷の戦跡歩く 案内人 世田谷道楽会 上田暁さん
駅→下馬残存兵営(韓国会館)→下馬馬魂碑→近衛野砲兵記念碑(昭和女子大構内)→円泉寺→第二陸軍病院跡→陸軍獣医学校跡→旧第一師団騎兵第一連隊跡→駒場天覧台→輜重兵跡→騎兵学校跡など 池尻大橋まで


第129回 6月24日(土) 午後1時 午後1時 恵比寿ガーデンプレイス 北西端「時計広場」(旧大日本麦酒第2貯水池跡)集合 山手線恵比寿駅南口近く
恒例 三田用水跡を歩く(第2期第4回) キュレーター きむらたかしさん
コース:同タワー38or39階無料展望スペース→大日本麦酒田道取水路+目黒火薬庫軍用線跡→ 銭甕窪左岸分水口跡(日の丸自動車教習所前モニュメント)→ 旧三田用水普通水利組合事務所跡→ 山手線目黒驛南水路橋跡 →鳥久保口分水口跡→鳥久保分水跡 → 旧上大崎村溜井新田跡 →日本鐡道品川線〔現・山手線〕初代目黒駅跡 → 午後5時 JR五反田駅解散
第130回 7月15日(土) 午後1時 東京メトロ千代田線日比谷駅
地下道を辿ってお江戸東京を 暑いので地下通路を巡って江戸東京の昔を訪ねる
案内人 木村康伸さん 江戸城、東京駅周辺
日比谷駅→二重橋前駅→東京駅→大手町駅

にじゅうまる申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498
しかく 編集後記
さんかく×ばつ33文字、20ページ。二段組み
さんかく第三回北沢川文化遺産保存の会研究大会。2017年8月5日(土)、テーマは「世田谷代田の『帝音』歴史を語る」である。この音楽学校を長年研究してきた久保 絵里麻氏(芸術学博士)に講演をしていただき、研究協議を行う。場所は、北沢タウンホールスカイサロンで、午後一時半から。終わった後懇親会を兼ねた納涼会を開催する。
さんかく図書の寄贈 大阪市北区に住まわれる猪伏 昌三氏から本が送られてきた。
平和の空よ 永遠に 〜東満の地に果てた幾万同胞と現地の人々に捧ぐ〜
さんかく会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
さんかく当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
さんかく原稿募集。原稿用紙二三枚。身の回りの文化探訪で発見したことなど。
にじゅうまる当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。




rail777 at 00:00|PermalinkComments(0)││学術&芸術 | 都市文化

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