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2006年05月10日

下北沢X物語(584)〜「北沢川文学の小路物語」ができるまで(2)〜

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武蔵野の丘がフラットだったらきっと日本の歴史も変わっていただろう。数千キロの荏原自転車巡行からそう思うようになった。

去年、馬込文士村を訪ねた。萩原朔太郎もここに住んでいた。その旧居跡にはそれを示す碑が建っていた。そのすぐ近くには宇治川の先陣で活躍した名馬摺墨の立派な石碑があった。この馬と対になる名馬の碑もひょんなことから見つけた。摺墨碑からさほど遠くないところにあることを知った。

代田に住んでいた三好達治は心筋梗塞で危篤に陥る。それで田園調布中央病院に運び込まれてそこで亡くなる。その病院を確認しに行ったことがある。その帰りにたまたま駒沢線高圧鉄塔にぶつかった。思いがけず鉄塔の番号が少ない、確かNO15番だったように覚えている。NO1は近いと思って高圧線に沿って南下した。すると池上線洗足池駅にたどり着いてしまった。近くには洗足池がある。池畔に千束八幡神社があって、名馬池月の碑があった。一帯は荏原馬の産地であった。この摺墨と池月が宇治川の先陣をつかさどったことはよく知られていることである。それによって、源義経軍は雪崩を打って京洛へ侵入していく、東国の馬が先鞭を切り開いた。平家は劣勢に陥って滅びてしまう。

自転車で荏原の里を走ると鍛えられる。丘の上り下りが筋肉を作る。馬も同じだったろう。武蔵野の丘陵を存分に走ることによってこの近辺の馬は脚力が鍛えられた。東国軍武士団の強さの一端はこういうところに表れている。丘での脚力鍛錬、それが頼朝側の勝因ともなったのではなかろうか。

駒場の丘陵地に、明治24年(1891年)に陸軍騎兵第一連隊の兵営ができた。その翌年に25年には近衛輜重兵大隊の兵営も設営された。そういった陸軍の施設ができたのも坂と無関係でないだろう。馬を訓練するのに丘陵は最適である。その点では摺墨、池月が鍛えられたのと同じである。詳しく調べてはいないが駒場近辺には坂馬場があって、そこで騎兵の馬、また、輜重を牽く六頭立ての馬の訓練が行われたと思われる。

それらのことは谷谷のフィールドワークによって分かったことである。武蔵野、荏原の谷には近代戦争の物語も数多く転がっている。世田谷の広大な諸軍事施設、その回りには色街があった。中里のカフェー街、渋谷円山花街などである。



軍人居住区としての北沢(現、代沢)地区は東條英機邸、杉山元帥邸など陸軍関係の要人が多く住んだようだ。軍人は沢筋に住む。海軍は奥沢に住んだ。北沢、奥沢ともに世田谷区になっているが距離的には離れている。けれどもこの二つの沢を繋ぐものはある。北澤八幡宮である。この社は「七澤八社随一 正八幡宮」と言う。七沢は奥沢をも含んだものである。

奥沢と北沢の距離が日本の軍隊の距離だったのだろうか。そんな途方もない考えが浮かんできた。それで、ふと「奥沢 海軍村」とネットで検索してみた。するとトップに「私たちの街、奥沢二丁目・土とみどりのミニ変遷史」というPDFに記録された文書が現れた。早速そこをクリックすると「昭和10年当時の海軍村家屋位置図」が載っていた。当時の詳細な軍人居住地図である、その一軒一軒に階級までが記されている。

奥沢二丁目は家からさして遠くない。何度も通ったことがある地域だった。けれどもこの資料で初めて知ったことがある。「海軍村の石碑」というのが建っているということだ。それを見たとたん、もう椅子を立って部屋を出ていた。そして三十秒後には自転車にまたがっていた。自宅からペダルを漕いで十数分で行ける距離というのも自分の気をはやらせた。行って実際に確かめて来るというのが自分のこれまでのやり方であった。

道は既に知っている。呑川支流の久品仏川に面する丘の上である。いっさんに走ってたちまちに着いてしまった。奥沢二丁目三十三番地は緑が今も多く残っている地域だ。「西野定正氏提供」という地図をパソコンの印刷機で打ち出して持ってきていた。それと見比べる。すると昭和10年当時の苗字が今も門柱に多く残っていた。行くうちに三毛猫が一匹いて、「にゃあ」と鳴く。静かな邸宅街である。果たして、「海軍村」という碑は今もあるのだろうか。

記事を書いているうちに、過去回想が現実になってしまった。リアルタイムで進行しているブログの面白さでもある。(写真は今日の海軍村の緑である。奥沢二丁目)



rail777 at 20:50│Comments(0)TrackBack(0)││学術&芸術 | 地域文化

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