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2006年05月21日

下北沢X物語(595)〜下北沢野屋敷小路を訪ねて(中)〜

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地図を眺めるのは楽しい。またその地図を比較するのも楽しい。手元にあるのは三葉である。1「北澤三丁目町會」(昭和九年)、2「北澤三丁目詳細図」(昭和三十二年度版)、3「北町会詳細図」(昭和三十六年)のものである。(13は大村昭夫氏、2は東盛太郎氏から手にいれたもの)

話だけで聞いていたものが地図の中で具体的に見つかると、想像都市物語がまた鮮明によみがえってくる。1の地図にあった東北沢5号踏切脇の「長栄稲荷」もその一つだ。美空ひばり映画「大当たり三人娘」に過去の下北沢風景の一シーンが出てくる。小さな社があってその向こうにはチョコレート色の小田急線が走っていた。

一時この区域一帯のお稲荷さん探しに駆け回っていたこともある。それだけに興味があった。が、その地図にはさりげなく載っている。そこには「岸田」とあった。これは同家の屋敷稲荷である。今は北澤八幡宮の裏手に祀られている。

「下北沢の北口市場の向こうに映画会社の社員寮があってね、そこは大部屋俳優の寮でしたよ」
「邪宗門」の貴久枝さんからそう聞いていた。3の地図を見ていたら現在の北沢丁目31番地に「下北沢東宝寮」があった。映画文化を下支えしてきた地区がこの下北沢であるようだ。代田二丁目にも日活俳優の寮があった。また、代田六丁目のだいだらぼっち川沿いのアパートには映画関係者大勢住んでいたとも聞いたことがある。鉄道交点の周辺丘上には映画監督や男優女優も居住していた。映画文化もこの地域に吹きだまっていた。

地図は物語の宝庫である。そこ記された家々の居住人の苗字、店の名前、通りの名前から様々な想像ができる。産業の変遷も窺える。1の地図には「ポンプ屋」、「土管屋」などの職種も記されている。時代が透けて見えてくるようだ。

昭和九年の地図、これで見ると下北沢の駅に近い方の区画、新屋敷の通りはみな「通」になっている。萩原朔太郎が一時住んでいた家の前の通りは「みたけ通」となっている。この新屋敷は商業地区だったのだろう。それに対して一番街を挟んだ野屋敷は住宅地区だった。ここの南北の縦の道に「小路」という名がつけられている。



が、一つだけ例外がある。下北沢北口のピーコックの裏手に北に延びている道路がある。スターバックスなどがある道だ。昭和九年の地図ではこれが「南中通」りと称される。これを北に行くと一番街にぶつかる。ややゆがんでいるが「十字路」となっている。「南中通」はここで終わりだ。が、道は繋がっていて、そのまま野屋敷を突き抜ける。これを「北中通」と名づけている。野屋敷を南北に貫く道で「通」となっているのはここだけだ。

「通」はもうワンランク上の「広い通り」という意味だろう。新屋敷野屋敷を南北に貫通する一本の通り、それと交差する東西の通りは現在の一番街本通りである。二つの道は「かどや」で交差する。角にある煙草屋だからそう呼ばれてきた。四つ角の「かど」に当たる。十字路である。それを古風に言えば「四つ辻」となる。

この「四つ辻」は萩原朔太郎の小説「猫町」に描かれている。大通りがモデルとなっている。その「四つ辻」は地図上から実地見聞上からここであると判断できる。

昭和九年の地図はガリ版刷りのものだ。手書きである。この「四つ辻」を見ると堂々としたものである。固有の名がついた道同士がぶつかっているのはここだけである。「猫町四つ辻考」という小さな物語が書けそうだ。

書くということは発見である。「小路」のことを話題にしているうちに「四つ辻」の話になってしまった。が、これは「小路」があったことによる発見である。なお、地図は昭和九年作製であるが、小説「猫町」は昭和十年に書かれたものだ。(写真は下北沢一番街の四つ辻、今日の昼撮ったものだ)



rail777 at 20:38│Comments(0)TrackBack(0)││学術&芸術 | 地域文化

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