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【阪神 火の玉ルーキーズ】ドラ5・佐野大陽 自力で踏み出した野球人生第一歩、虎党を照らす存在に

[ 2024年12月11日 05:15 ]

幼少期の阪神・佐野(提供写真)
Photo By 提供写真

阪神が今秋ドラフト会議で指名した9選手のこれまでの足跡を、「火の玉ルーキーズ」と題して振り返る。5位の佐野大陽内野手(22=日本海富山)は、小学校時代に所属していたリトルリーグチーム「富士宮リトルイースト」で、今も大事にしている遊撃手としての基礎を習得。そこには恩師との運命的な出会いがあった。

大陽は幼少期から、自ら野球人生を切り開いてきた。その道がプロへと延びていた。

5人きょうだいの長男として誕生。もともとは「虎之介」と名づけられる予定だったという。母・梓さんが05年放送の長瀬智也主演のテレビドラマ「タイガー&ドラゴン」が好きだったのが理由。生まれる前からタイガースと縁があった。ただ、誕生直後に梓さんは「"太陽"という顔をして生まれてきたんですよ」と顔を真っ赤にして泣いた姿を見て名前を即決。漢字は「病気にならない」字画を考慮して、「太」から「大」になった。

富士宮市立東小1年時、富士宮リトルイーストに入団した。自宅から徒歩1分のグラウンドで野球をしている姿にひかれ「俺も入りたい!」と何度も梓さんに頼むと、そんな息子を試すように「そんなに入りたいんだったら、自分で監督やコーチに"入れてください"って言いにいけたら入れてあげる」と提案された。すると翌日、自らがグラウンドに足を運びその日のうちにキャッチボールまで体験。夕方に入団届の書類を持って帰宅した。普段からおとなしかった大陽の性格からは考えられなかった。

自力で野球人生の一歩を踏み出した大陽は、ここで前島雅樹監督と運命の出会いを果たし、遊撃手としての基礎を叩き込まれた。投手、捕手、遊撃、三塁と複数ポジションを練習。その中でも楽しかったと話す内野守備練習では、早くもランダウンプレーの指導を受けた。小学生にとっては頭を使う高度なプレーだが、上のレベルを目指す上では欠かせないものだった。

「僕は小学校の野球が原点。今の僕があるのは、その(小学校での)6年間あったおかげ」

前島監督に学んだ技術や考え方が土台になり、高橋遥人(阪神)らがOBの強豪・常葉大橘(静岡)へ進学後も大きな支えとなった。「自分の想定内だった」と全国から集まってくる精鋭たちと肩を並べてプレーし、「高校や大学での当たり前のプレーを小学校にできていたのが強かった」と回想した。

中部大時代には、プロの世界で目標とする"大先輩"の背中を追った。大学1年時。大陽は試合に出て結果を残したい気持ちが先走ってしまい、送球イップスに陥った。「あの時は本当に野球を辞めたかった」。自分一人での練習では悪いイメージが払拭できないと、阪神OB・鳥谷敬氏(当時ロッテ)の動画をYouTubeでチェック。試合のイニング間でも欠かさずイメージトレーニングを続け、1939試合連続出場を果たした"虎の鉄人"の技術を盗んで壁を乗り越えた。

次男・陽空(はるく=19)さん、長女・心陽(こひな=17)さん、次女・陽凜(ひまり=14)さん、三男・陽(ひいろ=9)さんと、全員に「陽」の漢字が入る。けんかは一切なく、みんなお兄ちゃんが大好きだ。自らの努力でつかんだ夢の舞台。大陽が、聖地での全力プレーで家族や虎党を照らしていく。(杉原 瑠夏)

◇佐野 大陽(さの・たいよう)2002年(平14)2月14日生まれ、静岡県富士宮市出身の22歳。6歳で野球を始め、富士宮リトルイースト、富士宮第一中でプレー。常葉大橘では甲子園経験なし。中部大では4年時に全日本大学野球選手権に出場した。今年から日本海リーグの富山でプレーし、39試合で打率・333、19打点をマークして出塁率・462はリーグトップ。1メートル78、81キロ。右投げ右打ち。

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