2:
以下、新鯖からお送りいたします:2013年09月14日(土) 23:57:47.22 :
jhWkmBz3o
PERSONAL DATA
渋谷凛 RIN SHIBUYA
AGE
――17 years old
BIRTHDAY
――10 Aug.
HEIGHT
――166cm
WEIGHT
――45kg
VITAL STATISTICS
――82-57-83
IDOL RANK
――B:super idol
3:
以下、新鯖からお送りいたします:2013年09月14日(土) 23:58:31.83 :
jhWkmBz3o
――彼女は、落ち着いた美声と佇まいを持っていた。
――彼女は、類稀なる美貌とオーラを持っていた。
――彼女は、すらりと伸びた脚、絹のように輝く長い黒髪を持っていた。
――彼女は、女としての武器が特定部分に偏っていない、バランスの良いプロポーションを持っていた。
――彼女は、輝く世界に魔法をかける素質と、努力の才能を持っていた。
彼女は――まさにアイドルとなる運命を背負って生を授けられた人間のようだった。
4:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月15日(日) 00:00:18.40 :
dTdgwxAZo
・・・・・・・・・・・・
2013年 三月某日
振り返らず前を向くよ――――
凛の目の前で蒼いサイリウムがたくさん揺れている。彼女の刻み付けるビートに乗って、規則的に、統率的に。
ラストのサビを歌い上げ、縦ノリの曲はアウトロへ。彼女の身体が一段と躍動し、最後の輝きを放つ。
Never say never、彼女のデビュー作は、アンコールとして応えた曲だった。
"諦めるなんて言わない"――最後の曲としてなんと相応しいことだろう。
シンセリードが入ってくれば、もうじき全てのプログラムは終わりだ。
5:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月15日(日) 00:02:17.75 :
dTdgwxAZo
曲がFadd9のオケヒで締められると同時に、その場を支配していた偶像は右に半身の構えでポーズを決め、
自身を照らす正面のスポットライトに向けて左手のマイクを突き出した。
地鳴りのように沸き上がる歓声。横浜アリーナを埋め尽くす観衆が、
ステージの上に立つ華奢な少女へ、最大の拍手を贈った。
――しーぶーりん!
――しーぶーりん!
偶像を呼ぶ声が聞こえる。
偶像を讃える声が聞こえる。
6:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月15日(日) 00:03:44.57 :
dTdgwxAZo
「みんな! 今日は私のためにありがとう!」
全身から汗が噴き出ていた。それこそが壮快だ。
額や頬をつたうもの、顎の先からしたたり落ちるもの。白い腕の表面へ珠のように浮かび、光を乱反射しているもの。
全て、彼女が放散させた意力の形態―カタチ―だから。
全身が悲鳴を上げていた。それさえも心地よい。
首筋を流れる汗に張り付いた髪、激しく上下する胸と肩。蒼いブーツに隠されたところで、密かに痙攣する脚。
全て、彼女が全力で駆け抜けた証左―アカシ―だから。
凛が発する、有らむ限りの感謝を示した叫びに、観客はより一層の歓声を返した。
その喝采に見送られながら、彼女は少しだけ名残惜しそうに舞台の上手へと下がっていった。
7:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月15日(日) 00:05:46.82 :
dTdgwxAZo
・・・・・・・・・・・・
「よぉし、よし! 凛、最高だったぞ!」
無事役目を勤め上げ、
上手袖へ戻ってきた少女を一番最初に迎えたのは、他でもない凛の担当プロデューサー、Pだった。
ガッツポーズをした腕をぶんぶんと上下させ、まるで我がことのように喜ぶその姿を見て、凛は苦笑した。
「プロデューサー、はしゃぎすぎだよ」
しかしPは意に介さない。
「二人三脚でやってきたアイドルがソロで横浜アリーナ3DAYSを埋めて成功させたんだぞ、嬉しくないわけがないだろう」
そう、今をときめくアイドル業界、破竹の勢いで進撃する渋谷凛の横浜アリーナ単独ライブ、今日はその千秋楽。
デビューから僅か二年しか経っていない若偶像が、三日間で延べ四万人を動員したこの公演は
大成功と云って差し支えなかった。
8:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月15日(日) 00:07:23.71 :
dTdgwxAZo
「特にお前は事務所が初めて抱えた......いや、俺が初めて担当したアイドルだからな、感慨もひとしおだ」
Pは黒いレース手套がはめられた凛の手を取って、同じく上下に振る。
激しいダンスで上気した彼女の頬が、さらに赤くなるように見えた。
「ちょ、ちょっとプロデューサー、終わったばかりなんだから落ち着かせてってば」
「あ、すまんすまん。つい、な」
「んもう、どっちが保護者なんだかわからないじゃない」
軽く非難するように見えて、しかし満更でもなさそうな言い種ではあった。
「はは、面目ない。ほら、タオルとOS-1だ」
水色のクロスと経口補水液を寄越しながら破顔するPにつられて、凛も笑顔になる。
ほっと、安堵の色も混じっているように見え、そこにはクールなBランクアイドルの面影はなく、あるのは年相応の少女のあどけない顔。
9:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月15日(日) 00:08:51.33 :
dTdgwxAZo
Pは額の辺りの汗を拭っている彼女に訊ねた。
「凛、今日のステージから見た客席はどうだった?」
「うん、今日は特に一体感があったと思う。みんなどうやったらそこまで揃うの? っていうくらいサイリウムの動きも相の手も同じだったし」
「まったくだ、俺もアイドルファンの人たちの団結力には目を見張るものがあるよ」
「ふふっ、そうだね。......ねえ、プロデューサー、この三日間、お客さんみんな楽しんでくれたかな?」
タオルで今度は首の周りを拭きながら、凛は視線だけPに向けて訊ねた。
「そりゃあお前、今も止まないあの歓声を聞けば答えは火を見るより明らかだろ?」
そう言いながらPは袖から観客席の方に親指を向ける。
凛が退場してからというもの、会場の熱気は鎮まることがなかった。
――しぶりーん! ブヒブヒィイイイィィイ!!
――凛ちゃああああん! サイッコオオオオオオ!!
センター席では熱心なファンが、公式ライブタオルを振り回しながら凛に声援を送り続けている。
10:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月15日(日) 00:09:45.15 :
dTdgwxAZo
彼女はそれを裏からちらりと眺めながら、
あ、あれはローンソで限定販売された私のタオルホルダーじゃん
などと細かいところに気付く。
それは、終わった・成功した実感が湧いてきたこと、
心に多少の余裕が生まれたことの顕れであろう。
私はやり切ったんだ。胸の辺りから、ゆっくりと、しかし確実に、達成感が全身へと拡がっていく。
知らず知らずのうちに、笑みが零れていくのを禁じ得ない。
Pの方を振り返った彼女の顔は、晴れ晴れとしたスマイルに満ち溢れていた。
「さ、控室へ戻ろうか」
そう促され、凛はPの横に並んで、控室に続く廊下へと消えていった。
18:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:31:03.73 :
Csght9Kio
・・・・・・・・・・・・
「お〜しぶりん! さっすが、最高だったよぉ〜♪」
「凛ちゃん! よかったよー! 私、もう感動しちゃった!」
控室へ戻ると、同じ事務所のアイドル仲間、本田未央と島村卯月が凛を出迎えた。
二人は興奮冷めやらぬ様子で、
「凛ちゃん、こんな大きな会場を埋め尽くすなんて本当にすごいよ!」
「ホントホント! 横アリのキャパでも、三日分を一瞬で完売にしちゃうんだもんね〜。
この三人の中では、しぶりんがずっと先に走って行っちゃって、
同世代の置いてかれる側としては淋しいですなぁ、しまむーさんよ」
目を輝かせる卯月と、大袈裟に肩を落とす未央。
勿論、未央の仕草はあくまでも冗談なのだが、
「わ、私は未央のことも卯月のことも置いていく気はないよ、ね?」
凛は二人の手をはっしと掴み、それぞれの目を真っ直ぐと見て言った。
「あっはっは、マジメだねぇ〜しぶりん。冗談だよ冗談♪ わかってるくせに〜」
そう言って未央は空いている方の手で凛の肩を叩きながら笑う。卯月も柔和な笑みを浮かべている。
そもそもこの三人は同期。今更気兼ねなど必要ない間柄なのだ。
19:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:31:49.47 :
Csght9Kio
「そりゃわかってるけどさ......。でも、私だけじゃここまで到底来られなかったよ」
「おっ、しぶりんの恒例、Pさんへのオノロケが早速くるか〜?」
「ちょ、ちょっと未央、そんなんじゃないってば!」
「凛ちゃん、もっと素直になってもいいんだよ?」
「ちょっと! 卯月まで〜〜! もう......」
凛は形のよい眉を少しだけ上げた。しかしそれはすぐに戻り、二人の手を改めて取り直す。
20:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:32:27.82 :
Csght9Kio
「......二人のおかげ、なんだよ? 切磋琢磨してゆける環境に私を置いてくれた。二人がいなければ、私もここにいない」
「しぶりん......」
「凛ちゃん......」
凛は眼を閉じて、ゆっくりと、反芻するように言葉を続けた。
「きっと私は、巡り合わせが多少良かっただけ。未央も、卯月も、すぐ、この会場を溢れさせるくらいになる。私はそう確信してる」
二人とも、凛がユニットを組んでいる相手だ。
そのユニット『ニュージェネレーション』は、名の通り"新世代"アイドルトリオとして活躍している、CGプロ事務所のパイオニア。
勿論、それぞれがソロとしても活動していることは云うまでもない。
ただし単独で横浜アリーナ3DAYS公演をこなせるのは、現時点のCGプロ所属アイドルでは凛のみであった。
凛の言葉のように、未央や卯月がこの箱を埋められるようになるのはそう遠くないのだが、それはまた別の話――――
21:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:33:06.31 :
Csght9Kio
言い終えて眼を開けた凛は、照れ隠しなのか、不自然にハキハキとした言い回しで言葉を遺す。
「じゃあ私はシャワー浴びてくる。二人の相手はプロデューサー、よろしくね」
そして彼女は、Pの返答も待たずシャワー室へと小走りで向かっていった。
おそらくその顔は、朱が差しているに違いない。
22:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:33:59.69 :
Csght9Kio
「......しぶりん、ずっと先を走ってるけど、常にニュージェネのことも考えてくれてるんだよね」
「そうだね未央ちゃん。凛ちゃんはいつもニュージェネレーション......ううん、それだけじゃない、事務所の後輩たちのことを考えてる。すごいよね」
凛の背中に目をやりながら、二人はぽつりと、そう漏らした。
卯月は、あはは、と苦笑いしながら付け足す。
「本来なら私がリーダーとして頑張らないといけないんだけど、凛ちゃんに引っ張ってもらって、ラクしちゃってるかもなぁ」
一般論として、ユニットの中で誰かが一つ頭抜ければ、大抵は嫉妬の嵐が襲うものだが、
この三人にはそういった兆候は全く見られなかった。
麗しき女同士の友情――いや、その程度の言葉では生温いかもしれない。
彼女たちは、芸能界と云う戦場で命を預け合った戦友同士なのだ。
23:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:34:38.77 :
Csght9Kio
Pは、そんな彼女たちの絆を、一種の羨望を以て眺めていた。
「凛の言う通り、あいつが成長できたのは君たちのおかげだ。三人を組ませて正解だったよ」
そう声をかけると二人は、意外、という顔をしながらPを振り返った。
「でも、凛ちゃんの原動力の一番はPプロデューサーさんでしょう?」
「だよねー、しぶりんってPさんが絡む事案だと瞬発力すごいもん」
......女の子はよく見ている。
プロデューサーという立場の人間からすれば、その言葉を首肯するわけにはいかないのだが。
「まあ百歩譲って仮にそうだとしてもだ、一人で背負うにしては重すぎるものをあいつは担ごうとしている。
なのに何故潰れないかと云えば、それは卯月ちゃん、未央ちゃん、君たちがさりげなくサポートしてくれているからだよ」
女の子がこちらをよく見ているのと同様、プロデューサーも彼女たちのことをよく見ているつもりだ。
二人は、Pのその言葉に、僅かだがピクッと反応した。バレてたか、と眼が語っている。
24:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:35:17.09 :
Csght9Kio
アイドルたちを輝かせるために、芸能界の裏の黒い部分はPたちスタッフが受け持つ。
その点ではアイドルたちは気兼ねなく活動できるのだが、芸能界と云うのは、光り輝く白い部分だけでも、相当な重圧があるものだ。
凛のBランクの現状ですらこうなのだから、世の中のAランクアイドルたちはどんな世界を見、どんな重さに耐えているのだろう。
「これからは、凛だけでなく、卯月ちゃんと未央ちゃんにも、輝く重圧がかかってくると思う。
そのときは、きっと、三人で助け合って歩んでくれよ」
Pの言外に、"より一層覚悟しろ"と感じるものがあったのだろう、彼女らは力強く頷いた。
「島村卯月、もっと頑張らなきゃ!」
「不肖、本田未央も頑張りますぞぉ〜♪」
強い意思の込められた笑顔。
さすがアイドル、こういう顔が"様"になる。
25:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:36:08.06 :
Csght9Kio
ニュージェネレーションの二人に気合が充填されたところで、
ノックの音と共に迎えの馬車――と形容するには些かむさ苦しいが――がやってきた。
「それじゃあアタシらももっと仕事を獲ってこんとねェ、鏷プロデューサーさん」
「まったくだ、Pにばかり美味しい思いをさせてたまるかよな、銅プロデューサーさん」
それぞれ、卯月を担当する、矢鱈とムチムチでガタイのよい『銅―あかがね―プロデューサー』と
未央を担当する、黒スーツにスキンヘッドにサングラスという出で立ちの『鏷―あらがね―プロデューサー』だ。
このタイミングの良さ......扉の外で待ち構えてやがったな。Pは内心で苦笑いした。
26:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:37:04.06 :
Csght9Kio
CGプロの企画制作部には三つの部署があり、
クールを担当する第一課、
キュートを担当する第二課、
パッションを担当する第三課――
となっている。Pを含めたこの三人はそれぞれの部署のプロデューサーというわけだ。
27:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:37:45.13 :
Csght9Kio
「お姫様がた、お迎えの馬車ですよ」
肩を竦めながらPが卯月と未央に促すと、
「どっちかっていうと"ソッチ系"のシークレットサービスみたいだけどね〜♪」
未央が、けたけたと笑いながら担当、鏷の許へ歩んでいった。
鏷は、未央に彼女の鞄を渡しながら言ってくる。
「見てたよ、P。凛ちゃんサイッコーだったな。あそこまで一体感を覚えるライブはなかなかない」
彼にしては珍しい、手放しの賞賛だった。
「そりゃそうだ、俺の秘密兵器だからな」
Pが腕を組んで応えると、鏷も未央の肩を抱き寄せながら
「秘密兵器っぷりで言ったらウチの未央も負けてねーけどな」
と、ニカッと笑って言った。その隣では未央が顔を赤くしてもじもじしていた。
......わかりやすい、とPは思った。
28:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:38:26.68 :
Csght9Kio
他方、銅はマイペースに手帖を捲りながら卯月の身支度を整えている。
「ほい卯月、そろそろスタジオに向かう時間だ。行くよ」
「はい! 卯月、今日の収録も頑張ります!」
「んじゃアタシらは先に出てるわ、Pはこのあと直帰か?」
銅がドアノブに手をかけながら問う。
「いや、ボックス席へ社長の様子を見に行ってから事務所に戻るよ」
29:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:39:03.62 :
Csght9Kio
今回のライブは半ば社運を賭けたものだった。この規模を開催するのは初めての経験だったのである。
来賓も多いし、当然、社長は顔を出してきている。
総指揮者としてPは挨拶へ行かねばなるまい。事務所での残務処理もある。
銅、鏷両プロデューサーは、その答えに頷きながら出て行った。
去り際、卯月と未央が手を振ってきたので右手を軽く挙げて返す。
――パタン。
ドアの静かに閉まる音と同時に、静寂が訪れた。
空調の微かな音だけが耳に届いてくる。
今回のライブ光景を反芻したいところだが、まだやることは山積だ。
Pは凛に書き置きを残してから控室を出た。
30:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:40:03.30 :
Csght9Kio
・・・・・・・・・・・・
「いやぁ〜P君、今日のライブはよかったよォ〜! ティンときた!」
ボックス席につながる通路へ通りかかると、社長と来賓が退場してくるところに出くわした。
そしてPの存在を認めるや否や、真っ黒いシルエットの人物が笑いながら握手をしてくる。
765プロの高木社長だ。
所属アイドルの全員がAランクと云う化け物じみた事務所。
特に、天海春香、如月千早、星井美希と云った面々は、
テレビを点ければどんな時間でもどこかしらの局に映っていると言っても過言ではないほどである。
それをたった二人のプロデューサーで廻していると云うのだから恐れ入る話だ。
31:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:40:38.79 :
Csght9Kio
Pも一人で同じくらいのアイドルを抱えてはいるが、それはFからBまでまちまちだ。
十人以上がAランクの職場の多忙さを想像すると、他人事ながら、それだけで頭が痛くなった。
「君のところの社長に是非ともP君と渋谷君を欲しいと常々言っているんだがねェ〜〜!」
リップサービスなのか本気なのかよくわからないテンションで、高木は言う。
その後ろでは、うちの社長が顔を引きつらせていた。
「ははは......光栄です」
こめかみに一筋の汗を垂らしながらPは高木へと頭を下げた。
32:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:41:51.63 :
Csght9Kio
「フンッ! その程度で浮かれていては近いうちに足元を掬われるぞ」
高圧的な声が、さらに後ろの方から聞こえてきた。
高木と同じく真っ黒いシルエットの人物、業界最大手の961プロ、黒井社長だ。
まさか961プロの社長が、新興事務所であるCGプロのライブの招待に応じるとは、
開催直前に知らされたときのPは腰が抜けそうになったものだ。
どうも、うちの社長はかつてプロデューサー時代、
黒井と高木――当時は共にプロデューサーであったが――と懇意にしていたらしい。
「君ィ、確かにイイ線は行っているかも知れんね。だがまだまだケツの青さが抜けとらんな」
34:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:42:27.87 :
Csght9Kio
黒井は自らの額をとんとんと叩きながら続ける。
「彼女の素材としてのポテンシャルは評価しよう。
だが961プロではあんなものは候補生クラス。貴様の魅せ方もまだまだなっとらん。
まあ、我、が、社、で、徹底的に鍛え上げればジュピターにも比肩しうる存在になるかもしれんがね!
ハァーハッハッハッ!」
端から見れば散々な言い草だったが――
961のジュピターは765のナムコエンジェルと並び、男性アイドルのトップに君臨しているグループだ。
これは黒井なりに、発破をかけてくれているのだろう。
黒井は765プロに対しては悪辣な部分もあるが、
本心ではアイドル業界全体の底上げを願っていると聞いたことがある。
「......ご指導ご鞭撻、宜しくお願い申し上げます」
Pは、深く頭を下げた。
35:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:43:14.08 :
Csght9Kio
・・・・・・・・・・・・
凛はひとり、シャワー室で汗を流していた。
ぬるめの湯が、艶やかな髪から、ふくよかな双丘、そして白い大腿と、火照った全身を撫でてゆく。
耳に入るのは、優しい水音のみ。
しかし彼女の頭の中には、ステージ去り際の歓声が、ずっと、こだましていた。
これまで、同じようなキャパシティの会場で演ったことは何度もある。
しかし、三日間ぶっ通しで行なうと云うのは初めての経験であった。
36:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:43:47.92 :
Csght9Kio
観客動員数のプレッシャーもさることながら、
数日に渡ってライブパフォーマンスをするのは、体力を保てるのか不安に思ってもいた。
でも、プロデューサーは、お前なら出来る、と常に支えてくれた。
あの人がそう言ってくれると、
いつの間にか自分もやれる気になってしまっている。
不思議なものだ。
「プロデューサー、私、あなたの期待に応えられたかな......」
37:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:44:22.51 :
Csght9Kio
私は、偶像。
あの人が"渋谷凛"を形作り、
私は"渋谷凛"という存在を表現し、
観客はそんな私に熱狂する。
存在を表現すると云うのは、実に――楽しい。
眼を瞑ると、たくさんのファンが応援してくれた、先ほどの光景が浮かぶ。
揺れるサイリウム、飛び交う声援、観客と共に踊る振り付け。
数万もの人が、一点に、私に、視線を送る。
ああ......いまでもゾクゾクするよ。
38:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:44:59.01 :
Csght9Kio
人間には誰しも、自己顕示欲と云うものがある。
ねえ、もっと私を見て?
ねえ、もっと私を聞いて?
ねえ、もっと私を――感じて?
この快感、クセになる。
......でも、ヒトが見る私は、渋谷凛というアイドル。
ただの、偶像。
ただの、容れ物。
さて、それは本当の私?
39:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:45:27.48 :
Csght9Kio
ただの容れ物だとはいえ、大勢が見てくれるのは嬉しいこと。
頑張れば頑張るだけ、ニュージェネレーションの露出も増えるし、未央たちの手助けにもなる。
だけど、いつも偶像を演じていると、時には疲れてしまう。
偶像を解き放ちたい、そう思う刻が、確かにある。
そんな刻、決まってあの人は支えてくれる。
そんな刻、あの人がとても頼もしく見える。
40:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:46:15.08 :
Csght9Kio
勿論、あの人はプロデューサーで、私はアイドル。
この仄かな憧れを、これ以上昇華させるわけにはいかない。
でも......そっと、心の中に持つことくらいなら、赦されてもいいでしょう?
アイドルである以上、結ばれることはない。
しかし、アイドルになったからこそ、あの人と出会えたのだ。
そう、それでいい。
今は――それでいい。
41:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:46:46.34 :
Csght9Kio
凛はこれまでに何度も繰り返してきた自問と自答を終えると、ふぅ、と軽く一息吐き、シャワーを止めた。
あまり長居をしてはいけない。撤収の準備は間もなく始まる。
彼女は手早く身なりを整え、シャワー室を後にした。
42:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:47:13.14 :
Csght9Kio
・・・・・・・・・・・・
控室でPの書き置きを読んだ凛は、Pを捜して裏廊下を歩いていた。
階段を上がると、遠くに人影、そして微かにあの人の話し声が聞こえる。
彼は、あそこにいるのだろう。そう思って少し歩を早めると、
――あんなものは候補生クラス。
貴様の魅せ方もまだまだなっとらん――
Pとは違う声。
声自体は爽やかなタイプなのに、その声が紡ぐ爽やかではない言葉が聞こえてしまった。
この特徴的な声、どこかで......
43:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:47:55.79 :
Csght9Kio
......ああ、業界最大手の961プロ、その社長じゃない。
凛は立ち止まって、唇を噛んだ。
この世界では批判や誹謗など日常茶飯事。
それでも自分の耳ではっきり聞くと、心にぐさりと来るものがあった。
ゴシップ記事のようなただの文字情報と、実際に人から発せられる生の声では、全然違うのだ。
特に業界の大物の発言とあらば、一笑に付すことはできない。
それに、自分のことよりも、プロデューサーを悪く言われたのが、想像以上にショックだった。
プロデューサーはとても頑張ってくれているのに。
44:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:48:29.98 :
Csght9Kio
......いや、ショックを受けている暇などない。これを成長の糧としなければならないのだ。
961ほどの大手からすれば、まだまだ私はひよっこ。
凛は自分にそう言い聞かせ、彼ら来賓の前で偶像を演じるため、さらに歩を進めた。
45:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:49:11.51 :
Csght9Kio
・・・・・・
Pと共に控室へ戻った凛は、心なしか不機嫌のように見えた。
ついさっき、来賓に挨拶を済ませたときとはだいぶ違う。
――皆様、この度は私のコンサートにご足労くださいまして、ありがとうございました――
――若輩者にも拘わらず、おかげさまで公演は無事成功裡に終えることが出来ました。皆様のご支援に深く感謝申し上げます――
澄ました笑顔でこんなことを言っていたのに。
もし控室へ戻ってくるこの数分の間で機嫌を悪くしたのでなければ、猫かぶりが巧いものだ。
Pはそんなことを思いながら彼女に尋ねた。
「どうした? 機嫌が悪そうじゃないか」
「うん、ちょっとね」
凛は椅子の上で、器用に体育座りをしながら視線を動かしている。
46:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:49:50.51 :
Csght9Kio
「俺が何かヘマやらかしたか? 気を損ねたなら謝るが」
「ううん、違うよ。そうじゃない」
その言葉とは裏腹に、唇はへの字に曲がっていた。
出会った頃のようで懐かしいな......
Pはおよそ二年前の凛に思いを馳せ、入口近くに立ったまま腕を組んで、次の言葉を待った。
彼女は意を決したように口を開く。
「......何て言うのかな......さっきさ、黒井社長の話が聞こえちゃって」
Pは、あぁ......あれか、と小さく漏らしてから凛に訊ねた。
「......こき下ろされてムカついたか?」
「むかついた、って言うよりは......」
凛は体育座りをしたまま床に視線を落とす。
47:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:50:19.99 :
Csght9Kio
しばらくの後、Pの方に顔を向けて続けた。
「......私がどうこう云われるのは構わないよ。自分自身まだまだだって自覚しているし。
......でも、プロデューサーのことを悪く云われたのが......悔しくて......」
凛は拳をぐっと握ってから立ち上がって、Pの許へと近づく。
「ごめんね、私が未熟なせいで......プロデューサーの腕を悪く言われちゃって」
そう、ぽつりと、呟いた。
そんな凛の肩に、Pは優しく手を乗せて、微笑んだ。
「凛、少し誤解している節がありそうだ」
「誤解......って?」
凛は訝りながら、Pの顔を仰ぎ見た。
「俺は、あれは黒井社長なりの発破だと思ってる」
「......あんな意地悪な言い方なのに?」
48:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 03:51:01.64 :
Csght9Kio
「そう。黒井社長もああ見えて根は悪い人じゃないよ。
むしろ誰よりもアイドル業界のことを考えてるからこそ、厳しい言葉を浴びせるのさ」
凛は目を閉じて、Pの言葉を消化する。
「アイドル業界に......誰よりも......本気......」
「黒井社長にああ言われるということは、逆に俺たちは期待されていると捉えることもできるのさ」
「期待......されてる......」
凛はゆっくり目を開けて、微かに笑った。
業界最大手の社長に期待されている――そう聞いて何も思わないほど感情の乏しい凛ではない。
「つまり、立ち止まっている暇はないってことだね」
「そうさ、トップアイドルになるまでな」
トップアイドル――その言葉を出した刹那、凛の瞳孔の奥に力が宿る。
「プロデューサー、私、全力で、駆け抜けてみせるから」
Pはその碧い瞳に、吸い込まれていきそうな感触を覚えた。
――これからも隣で私のこと、見ててね――
55:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 21:17:54.04 :
Csght9Kio
・・・・・・・・・・・・
四月、新学期の季節。
横浜アリーナでのコンサートを無事終えた凛は、音楽雑誌の事後インタビューなど残務を終えて久々の休みを貰っていた。
たったの数日のみではあるが、年明けからずっとライブの準備に勤しんでいたから......およそ三箇月振りか。
高校三年生になった凛は、だからといって劇的に何かが変わるわけでもない日常を過ごしている。
普通の学生生活に於ける新年度特有のクラス替えは、
凛の通っている、芸能科のクラスがひとつしかない学校には、およそ関係のない出来事であったし、
強いて挙げるとすれば、先輩がいなくなって、自分たちが最高学年になったと云うくらいのものであった。
それでも、大きな規模の興行をこなした直後だけあって、先日昼休みに校庭のテラスで昼食をしていたときは、
ライブを見に来ていた同級生や後輩からもてはやされ、多少こそばゆい思いをした。
56:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 21:21:45.71 :
Csght9Kio
一般的には、高三ともなると、否が応でも進路のことを考えなければならない時期だ。
当然今は、このままアイドルでトップを目指すというのが目標。それはデビュー以来変わっていない。
でも......
ふと、二年前を思い返して、もし自分がアイドルになっていなかったら、と〈IF〉に思い巡らす。
ふつーに通学路を歩いて、
ふつーにJK生活を満喫して、
ふつーに憂鬱な考査を消化して、
ふつーに部活とかやって、
ふつーに街で遊んで、
ふつーに受験勉強して。
......たぶん、実家の手伝いに活かせるよう、一橋大の商学部あたりを目指していたんじゃないかな。
57:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 21:28:57.89 :
Csght9Kio
そんな他愛もない、パラレルワールドの自分を想像して、凛は惜春に少しだけ胸が締め付けられる感覚を持った。
私に、普通の青春時代は存在しない。
その代わり、私には、アイドルとしての眩い青春時代が存在する。
どちらの方がいいとか、どちらの方が優れているとか、そんなのを云うつもりはないけれど。
私が味わったことのない、普通の青春時代を過ごしている人を、ふと、羨ましく思うときがある。
勿論、そんな"普通"を過ごしている人は、アイドル生活を羨望したり夢想したりするのだろう。
本当に、人間って、ないものねだりをする生き物だ。
58:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 21:32:21.84 :
Csght9Kio
............なぜこのような一種哲学的なことを考えているのか。
凛の待ち人がこないからであった。
現在、日曜日の昼前。
オフが重なった未央と渋谷へ遊びにいこうと云う話に、先日なったのだが。
――寝坊でもしたのかな。
駅に着いた時点で一度電話を入れた際は、呼び出し音が十回ほど鳴った後、留守電に切り替わってしまった。
電車に乗っていて取れないのかと判断し、メールを入れておいたものの......
ハチ公前の『アオガエル』に寄り掛かりながら左手首を見ると、既に約束の時刻から15分が過ぎている。
59:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 21:37:19.62 :
Csght9Kio
これ以上ここにいるのは好ましくないな――
凛は時計の長針を見ながら、心の中で呟いた。
一応、変装はしている。
髪をアップに結ったり、アイドル仲間の上条春菜からもらった伊達眼鏡をかけたり、瀬名詩織に薦められた帽子を被ったり。
ただ流石にこの場に留まったままでは、見破られるのも時間の問題だろう。
大抵の人は、街の雑踏の中で"まさに今"、"まさにすぐそこ"に、芸能人がいるとは思わないもの。
一瞬気付かれそうになっても「まさか、ね」で終わってしまう。
だから多少の街歩き程度なら、そこまで神経質になる必要はない。
しかし、待ち合わせなど、動かず一箇所に留まっていると、気付かれる可能性は飛躍的に高まる。
そしてそのとき独り、かつ何もしていない状態でいると、十中八九、声を掛けられる。
現に、ハチ公像の隣に立っている中高生らしき女の子が、ちらちらとこっちを窺っている様子だ。
......場所を移さないと。
そう判断した瞬間、凛のiPhoneに着信があった。
未央からだ。ひとまず歩きながら話そう。
60:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 21:40:39.99 :
Csght9Kio
「――もしもし未央? どうしたの、もう15分待ってるよ。寝坊?」
『ごめーんしぶりん! 寝坊もそうなんだけど、いま鏷プロデューサーからの電話で起こされて、緊急の仕事が入っちゃった!』
「うわ、急なヘルプか」
『うん、第三課―パッション―で他に空いてる子がいないらしくて、今からブーブーエスに行かなきゃ〜〜あわわ』
「まあ、それじゃ仕方ないね。けど......起き抜けでしょ? そんな状態で局行って大丈夫なの?」
『鏷プロデューサーが車を廻してくれるから、その中で何とかするよ〜〜うわうわメイクどうしよー』
目が蚊取線香のように渦巻いて、デフォルメされた汗が飛んでいる光景が容易に想像できそうな雰囲気だ。
声の向こうからは、バタバタと駆け回る足音が聞こえてくる。
「それじゃこっちのことは気にしないで、準備と仕事に専念して」
『ありがとーしぶりん、ごめんね、この埋め合わせは今度するからぁー!』
そう言い残して電話は切れた。
61:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 21:43:43.57 :
Csght9Kio
急遽仕事がブッキングされることはままあるし、自分もよくそれで友達に迷惑をかけている。
だから今回の未央のドタキャンについて怒ることはない。
寝坊も......まあ一つの可能性として頭の片隅にはあったので、これもあまり気にしない。
未央らしいといえばらしいし、ね。
......さて、どうしよう。
オフの日に出かけるときは、たいてい誰かしらと一緒だった。
独り街中へ出るのは久しぶりだから、調子が少し狂う。
アイドル一人でぶらぶら、っていうのは避けるべきだし......
今日は帰った方がいいかな。
62:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 21:47:41.31 :
Csght9Kio
――でもせっかく渋谷へ来たんだし、楽器屋でベースの新しい弦を買いたいな。
デビューシングルを出した際、ベースに興味が湧いた私を見て、プロデューサーがコンコードと云うベースを譲ってくれた。
第三課の木村夏樹にその話をしたら目を丸くしていたっけ。
ロックに詳しい彼女曰く「かなりイイモノ」だそうなので、大切に使っている。
今では、そこそこ上達したと思う。夏樹とセッションすることもあるよ。
――あーあとマルキューを覗いたり、アップルストアにも行きたいな......
うーん、マルキューあたりは独りで行くと万一バレたときに少し面倒かも......
そんなことを考えながら、楽器屋のある西口の方へ向かおうと、井の頭線下の横断歩道に差し掛かったとき。
青信号を渡ってきた女性が、凛の目の前で「どんがらがっしゃーん!」と派手に転んだ。
つまづくようなものは何一つないのに見事な転倒っぷりで、身につけていたハンチング帽と黒縁眼鏡が、凛の足元へ飛んでくる。
63:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 21:49:30.66 :
Csght9Kio
「......大丈夫ですか?」
凛はそれらを拾うと、転けた人を覗き込んで尋ねた。
その人は、いたた......また転んじゃった......今日二回目だよ......、とつぶやきながら立ち上がり、凛の差し出したものを受け取る。
「すみません、ありがとうございます」
その人が顔を挙げた瞬間、凛の片眉がぴくっと上がった。
業界人は勿論のこと、一般の人間でも知らぬ者はいないであろう人物だったからだ。
「天海......春香さん?」
今をときめく24歳のAランクアイドルその人は、あちゃーという顔を見せた。
64:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 21:51:37.54 :
Csght9Kio
・・・・・・・・・・・・
「これからは転んでも解けないような変装が必要ですね......」
春香はソイラテを一口飲んでから、たはは......と苦笑した。
ここは桜丘にあるカフェ。
近傍には大学やオフィスビルがあるため、渋谷駅から玉川通りを一本隔てただけなのに、静かで落ち着ける場所となっている。
さきほど転倒した際の衝撃で彼女の眼鏡が曲がってしまったので、凛は伊達眼鏡を貸すと申し出た。
凛は髪型を変えて帽子も被っているから、眼鏡を外しても、"まだ"、なんとかなる。
そうしたら、もののついでと云うことでお茶に誘われたのだ。
65:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 21:54:25.20 :
Csght9Kio
凛は茉莉花茶で喉を濡らしてから問う。
「あの......天海さんほどの人が、どこの馬の骨だか知れない人間とお茶しちゃって大丈夫なんですか?」
それを聞いた春香は目尻を下げながら、
「そりゃあ、一般の方と二人きりでお茶するのは避けますけど、同業の方なら特に問題ありませんし」
「えっ?」
凛は素っ頓狂な声を上げた。
その様子を見た春香は、不思議そうな顔をしながら「あなた、渋谷凛さんでしょう?」と笑った。
まさか。
まさか八年もの間Aランクを独走している天海春香が、新興の私を知っているなんて。
66:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 21:57:34.49 :
Csght9Kio
「そんな驚かないでくださいよ。CGプロさんの方々はそれなりに存じてますから」
「そうだったんですか......」
「......さすがに全員は無理ですけど」
「......私でも把握し切れていませんのでそれは仕方ないと思います」
凛は瞼を閉じ、こめかみを抑えながら正直に言った。
春香は口元に手を当ててくつくつと笑っている。
「でもまさかトップアイドルたる天海さんが私なんかのことをご存知なんて、とにかくびっくりで......」
「そんなに謙遜なさらないで。渋谷さんはいま最も勢いあるアイドルとして有名なんですから」
「きょ、恐縮です......」
凛は顔を少し赤らめて、寄り目のようにして手許のカップへとフォーカスを落とした。
67:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 21:59:12.03 :
Csght9Kio
「あと、私のことは天海じゃなくて春香、って呼んでください」
「えっ、そ、それは」
動揺して反射的に視線を上げた凛に、春香はウインクして「その方が慣れてますから」と人差し指を立てながら言った。
「......わかりました、春香さん。私のことも凛と呼んでください」
そして、カップを口元へ近づけながら、春香の様子を窺うように言葉を付け足す。
「あと......こそばゆいので、可能でしたら普通に話して頂ければ......」
「おっけー。それじゃ凛ちゃんで! ふ〜、他所往きの言葉は疲れちゃうから助かったよー」
春香は安堵の表情でそう漏らした。
それは、生っすか!?サンデーでよく見る、自然体の彼女であった。
68:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 22:03:28.55 :
Csght9Kio
「でもごめんね、わざわざ眼鏡を貸してもらっちゃって。
私、眼鏡かけないとすぐバレちゃうから、転んで眼鏡が壊れたとき正直ちょっと焦ったんだ」
春香は、凛が貸した眼鏡の縁を、くいくいと動かしながら感謝した。
「早いうちに今度そちらの事務所まで返しに往くね」
凛はあわてて両手を振りながら答えた。
「あ、いえいえお構いなく。見ての通り伊達ですし、それにうちにはメガキch......」
コホン、と一度咳払いし、
「眼鏡をたくさん抱えている、妙に詳しい者がおりますので」
「あはは、面白い子がいるんだね」
「ズレにくかったり、壊れにくかったり、変装用眼鏡の選ぶコツを訊いておきますね」
「あ、それ助かるー。私さっきみたいに転んでばかりだから、眼鏡すぐ取れちゃうんだ」
私の変装には眼鏡が必須なのにねと言葉を付け足し、春香は首をやや傾げながら右手で自らの後頭部を叩いた。
69:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 22:05:54.94 :
Csght9Kio
「私は髪型を変えて帽子を被れば眼鏡がなくてもまだなんとかなりますけど、
春香さんくらいの髪の長さだと中々そういうわけにはいきませんよね」
「そうなんだよー。
うーやっぱり髪の長い子って、それだけでも判別要素になるよね。
千早ちゃんや美希も髪をアップにすると雰囲気だいぶ変わるしー......」
ソファの背もたれに体重を預けながら春香は独り言つ。
その言葉で、凛はふと気付いた。
「逆に言えば......春香さんは今の私を見て、よく渋谷凛だとすぐにわかりましたね?」
さっき一般の人とは喫茶しないと云っていた。
つまり凛をお茶に誘った時点で春香は気付いていたはずだ。
70:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 22:08:36.45 :
Csght9Kio
「あーそれは、プロデューサーさん、
......あ、うちの赤羽根プロデューサーね――が凛ちゃんのバレンタインのSRを持ってるところを見たからだね」
「えっ、あれって市井には出ていないはずじゃ......」
予期せぬ返答に、凛は軽く狼狽えた。
あのカードは、事務一帯を取り持つ千川ちひろが、内部向けの特典として用意したものだったからだ。
「ああうん、一般には出回ってないけど、業界の人間なら、ね。
あれには765―うち―からも何人か参加しているし」
そういえばそうだった。
当時、CGプロの企画に765プロが乗ったと話題になっていたっけ。
「特にバレンタインの凛ちゃんSRは、プロデューサー職の人はこぞって狙ってたみたい。死屍累々だったんだよ?」
赤羽根さん、一箇月もやし生活だったしねー、と、しれっと恐ろしいことを春香は言った。
自分の影響力って、予想以上に拡がっているのかも知れない......
凛は茉莉花の香りを鼻にくすぐらせながら思った。
71:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 22:11:41.99 :
Csght9Kio
その後、他愛のない話を色々お喋りして、短針がそろそろ真上を向こうかという頃。
二人のカップはほぼ同時に空となり、お茶会はこれにてお開き。
早朝に収録のあった春香は、これから二時間かけて帰るそうだ。
売れっ子になってもそれは変えてないと言う。
そのガッツに凛は舌を巻いた。
凛の実家は東京西部にある花屋。毎日通えない距離ではない。
しかし、――人が殺到して商売にならなくなるのを避けようとした意図があるとはいえ――
凛自身は、笹塚にある、通学・通勤に便利なCGプロの第一女子寮へ入っている。
春香のような始発列車での長時間通勤は、到底真似できないものであった。
72:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 22:14:09.80 :
Csght9Kio
二人、ピークを過ぎた桜の花弁が舞う坂道を、駅へと向かって下りていく。
「今日は楽しかった。他の事務所の子とお話しする機会って中々ないからさ」
「はい、私も先輩にたくさん伺えて楽しかったです」
先輩と云う言葉がくすぐったかったのか、春香は少し照れた風を見せた。
「凛ちゃんさえよければ、また、お茶しようね」
「はい、喜んで」
「あっそうだ忘れてた! 凛ちゃんアドレス交換しよう!」
両手をぱん、と拍手―たた―いてから出された春香の提案。それは凛にとって願ってもないことだった。
「ありがとうございます。是非、お願いします」
よもや天海春香とホットラインを築けるとは、連絡先を交換するのにこれほどドキドキすることが、かつてあっただろうか。
73:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 22:17:03.15 :
Csght9Kio
染井吉野の樹の下、二人はiPhone同士をbumpすると――
harukakka@i.hardhage.jp
「春......閣下......?」
「そうそう、ファンの人たちからそういうネタがあるって教わってね、面白いからアドレスにしちゃった」
『てへぺろ』と云う形容がよく似合う仕草で春香は語る。
なんと貪欲な取り入れ方。
こう云う姿勢が私にも必要なのだろうか......考え込みながら歩いていると、玉川通りにすぐ着いてしまった。
春香は駅へ、凛は近くにあるベース専門店へ。通りを渡る歩道橋のたもとで二人は別れる。
「いつでも気軽に連絡してね、それじゃ!」
75:
以下、新鯖からお送りいたします:2013年09月16日(月) 22:22:22.94 :TSdTryz3o
ハード禿wwwwww
74:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 22:20:01.71 :
Csght9Kio
春香は、頭を軽く下げて見送る凛にひらひらと手を振りながら、雑踏へ紛れていった。
その後ろ姿を眺める。
テレビの中とまったく変わらない天海春香。
その裏表のなさが、彼女をトップアイドルたらしめているのかも知れない。
アイドル天海春香としての味――
凛は、ヒントを垣間見た気がした。
しかし......それをただトレースすればよいのかと云われれば、答は違うだろう。
「私自身の味って......なんだろう......」
この二年間、プロデューサーに導かれるまま我武者羅に走ってきて、考えもしなかったこと。
凛の心の中に、未知の謎が芽生えようとしていた。
76:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 22:24:28.53 :
Csght9Kio
・・・・・・・・・・・・
「おはようございまーす」
フロストガラスの扉を開けながら挨拶をすると、ちょうど千川ちひろがコピー用紙を持って通り掛かるところだった。
「あらおはよう、凛ちゃん。今日はオフのはずじゃなかった?」
「うん、そうなんだけど足が自然とこっちに向いちゃって......」
あの後、別れた場所すぐそばの店でベースの弦を買ったものの、手持ち無沙汰になってしまって、
結局、通い慣れた事務所へとやってきたのだ。
「あらあら。ワーカホリックなプロデューサーさんが伝染ったかしら」
そう笑いながら、ちひろはコピー機へと歩いていった。
「プロデューサーさんは休憩室にいるわ」
「あ、ありがとう、ちひろさん」
凛が訊いてもいないのに、ちひろは背中越しにPの居場所を宣った。
なんだかまるで私がプロデューサーへ逢いに来たみたいじゃない。
凛はつんつんと心の中で微かな抵抗をしたが、
「......あながち外れてはいないけれど」
その抵抗はあっさり霧散した。
77:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 22:28:43.79 :
Csght9Kio
休憩室に入ると、果たしてPはそこにいた。
入口に背を向け、アコースティックギターを抱えてTommy EmmanuelのLuttrellを爪弾きながら。
斜向かいでは、凛と同じ第一課―クール―に所属する高峯のあが、
それを聴きつつ何故か科学雑誌――それもアンドロイド特集――のページを捲っている。
ふと凛の存在を認めたのあだったが、凛が片目を閉じて唇の前に人差し指を立てたので、そのまま雑誌に目を通し続けてくれた。
心なしか、普段感情を表に出さない、下を向いた彼女の口角が上がっているように見える。
「また新曲に詰まったの、プロデューサー?」
凛が気配を出さないようにして後ろから声をかけると、当のギター奏者は驚きのあまり座ったままの体勢で飛び上がった。
「うおっ!? ......凛か、おはよう。びっくりさせるなよ」
心臓に手を当てながらPは声の主を振り返る。
「おはよ。ギターに没頭しすぎて勝手に驚いただけでしょ」
くすっと多少意地悪く笑いながら、凛はPを回り込んで対面のカウチにすとんと腰を下ろした。
78:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 22:32:09.96 :
Csght9Kio
「今度のお前の新曲をどんな方向にしようか考えていたんだけどな、今日はあまり"降りて"こないから気分転換していたのさ」
Pはプロデューサーという立場上、売り出し方、音楽の方向性、予算・進行管理、つまり凛の全てを管轄する。
――いや、凛だけでなくクールアイドルの全てと云うべきか。
CGプロの他課のプロデューサー、銅や鏷と違い、Pは音のラフスケッチを描いてそれを作曲家/編曲家に渡すことが多い。
低予算の場合は、昔取った何とやら、と云いつつ自ら曲を書いてしまうこともある。
だからインスピレーションが湧かないときは、こうやって適当に楽器を鳴らしているのだ。
それはギターだったりベースだったり、はたまたウーリーであったりドラムであったり。
そうすると、不意にアイデアやフレーズが浮かんでくるのだそうだ。
結構よくあることなのだとか。
凛がベースに興味を持ったのも、そんなPを間近で見ていたからであった。
第三課の夏樹が度々「うちの鏷プロデューサーと交換してくれよ」とからかうように言ってくる。
あながち冗談に聞こえないから性質が悪い。
79:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 22:34:09.64 :
Csght9Kio
そこへ安部菜々がひょっこりと顔を出した。第二課―キュート―に所属しているアイドル。
......の大御所。
その昭和生まれは、私服の凛を見て、至極真っ当な疑問をぶつけてきた。
「あれー? 凛ちゃん、今日はお休みじゃありませんでしたっけ? なんで事務所へ?」
「あー、うん。プロデューサーに逢いたくなったから」
彼女の問いに凛が真顔で回答すると、当のPは「???」と心底不思議そうな目をしてきた。
ま、思った通りの反応だけどね。
菜々は口を大きく開けて「キャハっ! ダイタンですね凛ちゃん!」と笑みを浮かべているのに。
曲がりなりにもアイドルにあんなこと言われたんなら、もう少し照れたり喜んだりしてくれてもいいと思うんだけどな。
......まあ菜々ほどの反応はしなくてもいいけど。
80:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 22:36:54.41 :
Csght9Kio
「冗談だよ。今日は未央と渋谷を街ブラする予定だったんだけど、あの子、急に仕事入っちゃったからさ」
帽子を脱いで、アップにした髪を解きながら答えると、その黒い絹糸の上を、照明の白い反射光が流れていった。
Pは合点がいったようで、「そういえば鏷がだいぶ焦ってたな朝」と
スケジュールの書かれた電子黒板を横目に見ながら言った。
「そうね......他所の部署とはいえ......少々心配になるくらいだったわ」
のあも頷く。
「そんなに大変だったんだ? 結局あれ以降、未央から連絡ないし、大丈夫だったのかな......」
「まあ連絡がないってことは大丈夫なんだろうよ、きっと」
確かに、問題があれば何らかの報せがきているはず。
それがないなら、順調と云うことだ。
81:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 22:39:32.65 :
Csght9Kio
凛は話を続けた。
「それで、ベース弦を手に入れたらやることがなくなったから来ちゃった」
「ん、弦? あのコンコードの? どれにしたんだ?」
凛は楽器屋の黒い袋から、買ったばかりのブラックナイロン弦を取り出してPに渡した。
「お、LA BELLA 760Nじゃないか。凛もこれにしたのか」
「うん、こないだプロデューサーが渋くて好きって言ってたでしょ。だから試してみようと思って」
Pが以前、編曲家とオールドスクールな出音が気に入っていると云う話をしていた際、その言葉を凛は憶えていたのだ。
この弦でスラップすると、アタック音が独特の触感になって心地よいのだとか。
「まだ三連プルさえ巧くいかないひよっこだけどね」
最近までツーフィンガーしかやっておらず、スラップを始めて間もない雛鳥な私。
だけど、新しい音の世界を見るのは楽しみだ。
凛がそう言って目を輝かせるとPも笑みを浮かべた。
82:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 22:41:29.70 :
Csght9Kio
「凛はリズム感がいいからスラップはすぐに上達するさ」
「音感じゃなくてリズム感? 確かにテンポを保つのは重要だけどリズム感ってそんなに関係なくない?」
顎に人差し指を添えながら首を傾げると、Pはチッチッと手を振った。
「大アリさ。スラップベースは打楽器ともいえるからな」
打音の強弱リズムのつけ方ひとつ取っても、奏者によるセンスがモロに出る。
その点、ダンスのセンスとリズム感に定評ある凛なら飲み込みは早いだろう、とPは力説した。
「ふーん、まあ今度個人レッスンでもしてよ、プロデューサー」
凛は前屈みになり、Pを下から覗き込むようにして云った。
「時間が合えば、な」
83:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 22:43:40.45 :
Csght9Kio
Pがすっくと立ち上がり、ギターをスタンドに戻しつつ答えると、それまで寡黙であったのあが口を開いた。
「Pの......"個人授業(My Tutor)"......? 羨ましいわね......」
「おいのあ、言葉に何やら厭らしいニュアンスを感じるんだが」
「ふふ......Pは......厭らしいと感じたのね......? 一体何にかしら......」
言葉だけ聞けばPをからかっているようにしか思えないが、当ののあは科学雑誌から一時も目を離さずに話している。
「のあさんいつも通りだね」
凛が半ば呆れるように言っても、のあは動じない。
「さぁ......私の言葉に意味があるか、それとも気まぐれなのか......其処に意味を見出すのはP、貴方次第よ」
84:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 22:45:16.98 :
Csght9Kio
「善処するよ」
Pは観念したかのように両手を軽く挙げて、降参のポーズを取った。
そのまま凛へ向き直り、弦の入ったパッケージを顔の横でひらひらと振った。
「ま、こいつなら、ジャズ、RnB、ソウル、フュージョンによく合う......
渋さはピカイチだが、その良さが判るには、凛はまだ少し早いかもしれんな」
少しだけ苦笑気味にそう漏らす。
「むっ、ちょっと、私を子供扱いする気?」
凛が口を尖らせると、Pは「滅相もございません」と首を振った。
絶対子供扱いだよね、それ。
85:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 22:46:40.89 :
Csght9Kio
「まあいづれにしろ、感触がスチールとは少し違うから最初は戸惑うかもしれん。
わからなかったら訊きにくればいい」
言葉の後半でPは表情を緩め、凛に弦を返した。
――おちゃらけた雰囲気からの、この包容力ある笑み。
ほら、プロデューサー、そういうのが女の子キラーなんだよ?
「......うん、ありがと」
凛は弦の入った袋で口元を軽く覆い、心の中の言葉は噯にも出さず、感謝のみ述べた。
86:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 22:48:22.61 :
Csght9Kio
そこへ菜々が、ぬっと顔を突き出して問う。
「凛ちゃんがベース弾くのは知ってましたけど、フュージョンやるんですか?」
「え、ううん、別にフュージョンって決まってるわけじゃない......けれど......」
「フュージョン演りませんか!?」
菜々の目はどこか憧れに光っているようにみえる。
「え、ま、まあ......シンデレラガールズのみんなでバンドみたいなことをやってみたい......とは思うけど......」
それを聞いたPは「シンデレラガールズバンドか......アリだな......」と考え込み始めた。
いつでもどこでもそのモードに入るんだから......と凛が思っていると、菜々が鼻息粗く迫ってきた。
87:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 22:49:52.98 :
Csght9Kio
「やりましょう、カシオペアやりましょう! ナナ頑張ってキーボード覚えますから――
ギターは夏樹ちゃんや李衣菜ちゃん呼んで、ドラムは......伊吹ちゃんあたり出来そうだから引っ張ってきて、カシオペアイドル演りましょう!
ナナ、ずーっと司会屋実ポジションやってみたかったんです!」
菜々のあまりの勢いに凛は思わずたじろぐ。
「な、菜々......カシオペアって......なに? 星座のこと......じゃないんだよね?」
「凛ちゃん! 知らないんですか! カシオペアを! 知らないんですか!!」
菜々はその甲高い声で詰め寄った。
菜々の目は憧れに光っているのではなかった。猛禽類のそれなのだということに凛は気づいてしまった。
「80年代に一世を風靡したフュージョンバンドですよ! 野呂一生のチョッパーギター! 櫻井哲夫のグルーブ満ち溢れるベース!
司会屋もとい向谷実のKX88から紡がれるコードの魔術! 神保彰のド安定なリズム隊と華麗なタムさばき......!
当時ナナがどハマリするくらい凄かったんですから!」
「と、当時ハマッた......?」
凛は半歩ほど後退って冷や汗を垂らしながら思わず言葉を漏らした。
88:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 22:51:06.69 :
Csght9Kio
すると血気で紅かった菜々の顔は瞬時に青くなり、「と、ととと当時のビデオを見たんです!」と弁明したが、
「だからってなんでそんな詳しいメンバー構成や向谷実の通り名まで知ってるんですかねぇ菜々さん」
Pがやれやれといった様相で菜々に問い掛ける。
「な、なんで他の子は呼び捨てやちゃん付けなのにナナにはさん付けのうえ敬語で話すんですかPプロデューサー!!
85年伝説の国技館ライブをベータにダビングしてテープが擦り切れるほど見たからですよ!」
「あ、その映像俺も欲しいですね」
その言葉に菜々は笑みを輝かせたが、そこへPは間髪入れずに突っ込んだ。
「でも菜々さん、今や一般家庭でテープデッキがあるかどうかすら怪しいというのにベータってのは――ちょっと」
「ハッ! ウ、ウ、ウサミン星ではベータがVHSに勝ったので現役なんです! キャハっ!」
「うわぁ......」
Pはさすがに目尻の痙攣を抑えきれなかった。
銅はどうやってこれを捌いているのか心底不思議になる。
89:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 22:52:14.68 :
Csght9Kio
その様子を見ていた凛は、Pが引くなんてよっぽどなんだろうなと諦観した。
相変わらず科学雑誌へ目を落としているのあに、声を小さく抑えて訊ねる。
「ねぇ、のあさん、ベータ......ってなに?」
「たしか......昔の......ビデオテープの規格ね......」
「ビデオテープって、一種類だけじゃなかったんだ......」
ぽつりと呟くと、のあはその独言を拾って話を続ける。
「そうね、今で云うSDカードとメモリースティックの違い......
みたいなものかしら......私も詳しくは......知らないのだけど」
90:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 22:53:13.62 :
Csght9Kio
凛は少し考え込んだのち、眉をひそめて再度問う。
「......のあさんですら、知らないものなの?」
ついにのあは雑誌から目を離して凛の方を向いた。
「流石に......私もバブルは未経験よ?」
そういえばそうだった。
妙に落ち着いた趣を持っているとはいえ、のあは丁度バブル経済が崩壊し始めた時期に産まれたはずだった。
――しかしどうしてか凛がそのことを信じられないのは、どこか心の奥底で、のあが実は人間じゃないのでは、と思っているからなのかもしれない。
91:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 22:54:15.74 :
Csght9Kio
なにやらベースの話題から始まったドタバタに小さな溜め息を吐くことしばし。
奇妙なやり取りをする間に弦をバッグの中へしまっていた凛は、立ち上がってPの横までいくと、彼の左肘を引き寄せた。
「まあガールズバンドのことはひとまず置いとこうよ。これ以上菜々......さんに突っ込みを入れても仕方ないし」
「凛ちゃんもしれっと非道いこと言いますね!?」
凛は菜々のささやかな異議申し立てを華麗にやり過ごして、Pの肘をさらに引っ張る。
「ねえプロデューサー、お昼まだでしょ? 私おなか空いちゃった。ご飯どこか連れてって」
「ん? なんだ凛お前まだ食ってないの? ......じゃあそこらへんのイタ飯にでも往くか。
のあや菜々......さんはどうする?」
92:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 22:55:15.10 :
Csght9Kio
「ちょっと、P......こう云う刻にそんな野暮なことを訊くものかしら? ねぇ......菜々"さん"?」
のあは意味深な視線を菜々へ向けた。そんなのあに、菜々は脂汗を流しながら同調する。
「あ、あはは......そうですね、ナナはお腹空いてませんから、凛ちゃんと二人で食べてくればいいと思いますよ〜......」
「? そうか。じゃあ出るか、凛」
「うん、いこ、プロデューサー」
帽子を頭に載せ、心なしか凛の声は弾んでいる。その片手はPの腕を掴んだままだ。
そして、パタンと扉が閉まる音と共に訪れる静寂。
休憩室には、必要以上に疲れた様子の菜々と、無表情で雑誌を読み進めるのあが残されたのだった。
93:
◆だいやまーくSHIBURINzgLf:2013年09月16日(月) 23:01:14.12 :
Csght9Kio
ふう、ちょっと小休憩します
息抜きに作中で挙げた曲貼っておきますね
Tommy Emmanuel "Luttrell"
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フレーム]
菜々さんがベータのテープを擦り切るほど見た、カシオペア85年国技館ライブの様子
Casiopea - Looking Up
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Casiopea - Galactic Funk
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