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普段、高校生の字を見ていると、活字の影響が強いことに気づく。活字体と筆写体(活字体と筆写体:2012年02月16日参照)という単純な字形の違いだけではない。

例えば、彼らには行書が美しく見えない。活字の明朝体やゴシック体には筆脈(筆脈を読む・書く:2011年10月24日参照)の概念がないからである。だから、なぐり書きと行書、草書の区別が付かない。

漢字の方はカッチリと楷書で書けばごまかせるが、ひらがなは元が草書だけに、ごまかしが効かない。ひどい生徒だと、まるで外国人が見様見真似で書いたような字を書く。

さて、僕はここで、高校生の字の批評をしたいのではない。読むという点でいえば、現代人はみな活字の影響を強く受けているといいたいのである。

たしかに、今の高校生は、僕達の世代よりも手書きの字をあまり見なくなっている。しかし、手書きの文字よりも活字の文字の方が見慣れているというのは、決して今に始まったことではない。活字が普及しだした明治以降、ずっとそうだったのではないだろうか。ワープロが普及するまでは、まだ手書きの字は健在だったから、書く方は手書きの字が書ける。だが読むのはやはり活字の方が中心だったはずだ。

仮名で書かれた文学テキストは、近代以前は、連綿(数文字つなげて書くこと)で書かれていた。嵯峨本のような木活字で印刷されたものでさえ、わざわざ数文字まとめて作られている。近代以前の人たちにとって、平仮名を読むということは、つながっている連続した文字を読むものだったのである。

鉛活字が普及して以降、平仮名はバラバラに切り離され、文字単位で読むものになった。現代人はこの感覚だから、一文字一文字の正確性にこだわるが、近代以前の文書を相手にするかぎり、それはあまり意味のあることではない。

活字登場以前の文書を読めるようになりたい人は、一文字づつ、「これは〈い〉で、これは〈ろ〉で・・・」と学ぶべきではない。イメージとしては、つながっていて一つの字と考え、活字本と照らしあわせて、なるべく沢山の文章を読むことが肝要である。できれば、筆を持って実際に書くとより早く読めるようになる。

僕はいくら書いてもさっぱり仮名が上手くならなかったが、おかげで読むことはできるようになった。
(追記) (追記ここまで)
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#写本
#仮名

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