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東海寺大山墓地に行ってきた(その1)の続き。

まず墓地に入って目に付くのは沢庵宗彭。さすがにでかい。

沢庵宗彭墓

さすがは漬物の名前の由来になった人物だ。墓石が巨大漬物石になっている・・・と思いきや、我らが県居大人の墓も巨大漬物石だった。

その県居大人、賀茂真淵の墓はこれ。沢庵に勝るとも劣らない広さ。

賀茂真淵墓1

賀茂真淵墓2

県居大人の墓をお参りしたあと、ちょっと雰囲気の違う墓を見つけた。本居内遠奥都伎。こんなの入り口の案内になかったぞ。

ちなみに、この墓石の形式は神道式で、「奥都伎」ってのは「おくつき」と読む。「墓」の意味である。

本居内遠墓

本居っていうぐらいだから、宣長の何かだろうと思って撮ったのだが、この人、本居宣長の養子、本居大平の養子で、豊穎の父である。失礼ながら、大平と豊穎は知っていたが、内遠は知らなかった。

本居内遠(モトオリ・ウチトオ):ようこそ宣長ワールドへ

さらに、墓地を回っていると、今度は小さいながらやたらと迫力のある墓石にあった。これまでのような庭付き一戸建てではなく、他の墓と同じように無造作に建っているのだが、隷書の陽刻はなかなか目立つ。

南郭先生墓・・・江戸中期の儒者にして文人服部南郭先生じゃないか。これも書いてなかったぞ。

服部南郭墓

右の少し小さいのは、奥さんの墓である。この墓地には同じ形式の墓が密集してあり、服しろまるしろまるとか、しろまるしろまる服とか書いてある。服部南郭の流れの人なのだろう。

服部家墓

その3に続く。
(追記) (追記ここまで)
タグ :
#東海寺
#賀茂真淵
#本居内遠
#服部南郭
#沢庵宗彭

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