「古文暗唱」小学国語に 中教審検討、漢文指導も
実は僕も、国語の教師という仕事をする以前は、意味も理解しないで、古典の暗唱なんてばかばかしい話だと思っていた。もっとも「意味も理解しないで」なんていうのは後付けで、本音は僕のノーミソが暗記向きではないというだけなのだが。
ところが、授業で古典を教えるようになり、だんだん暗唱も大事なんだなと思うようになった。理由はいくつかある。
まずひとつは、古典の世界と現代人の世界がだんだん離れてきたことである。例えば、かつては小学校で文語の歌が歌われていた。ひな祭りには平安時代の風俗に近い雛人形が飾られていたし、一万円札には聖徳太子の肖像が描かれていた。正月には百人一首をやっていた。
そういうものが少しずつ失われていくうちに、現代人にとっての古典世界は、なんだか現代の日本とはまったく別のものになってきてしまった。だから、古典を国語の授業で扱う「とっかかり」がなくなってしまったのである。
もうひとつは、僕が中国へ行くようになって、中国人の多くが漢詩を暗唱できることを知ったことである。彼らは小学校時代に100首以上の漢詩を暗唱させられるそうである。その中には僕たちも知っている漢詩がたくさん入っている。
小学生が漢詩の世界を理解できるとは思えない。だが、暗唱することによって、文化の継承ができ、国民としての自覚ができるのではないだろうか。それを僕たちのような外国人に示すことができるのも素晴らしいことではないか。
意味が分かるようになるのは後でもいい。子どものころに古典の世界に触れることが大事なのだ。
上のリンクで示した、東京新聞の記事によると「復古調」であるという批判があるという。たしかに復古調ではあるが、これは文化の問題である。
他国の文化を尊重するには、自国の文化を尊重できなくてはならない。自国の文化に自信がもてないから、意味のないインチキなアイデンティティーを求めるようになるのである。日本だけが特別優れているというような、狂ったナショナリズムを防ぐのにはむしろ有効であると僕は思う。 (追記) (追記ここまで)
実は僕も、国語の教師という仕事をする以前は、意味も理解しないで、古典の暗唱なんてばかばかしい話だと思っていた。もっとも「意味も理解しないで」なんていうのは後付けで、本音は僕のノーミソが暗記向きではないというだけなのだが。
ところが、授業で古典を教えるようになり、だんだん暗唱も大事なんだなと思うようになった。理由はいくつかある。
まずひとつは、古典の世界と現代人の世界がだんだん離れてきたことである。例えば、かつては小学校で文語の歌が歌われていた。ひな祭りには平安時代の風俗に近い雛人形が飾られていたし、一万円札には聖徳太子の肖像が描かれていた。正月には百人一首をやっていた。
そういうものが少しずつ失われていくうちに、現代人にとっての古典世界は、なんだか現代の日本とはまったく別のものになってきてしまった。だから、古典を国語の授業で扱う「とっかかり」がなくなってしまったのである。
もうひとつは、僕が中国へ行くようになって、中国人の多くが漢詩を暗唱できることを知ったことである。彼らは小学校時代に100首以上の漢詩を暗唱させられるそうである。その中には僕たちも知っている漢詩がたくさん入っている。
小学生が漢詩の世界を理解できるとは思えない。だが、暗唱することによって、文化の継承ができ、国民としての自覚ができるのではないだろうか。それを僕たちのような外国人に示すことができるのも素晴らしいことではないか。
意味が分かるようになるのは後でもいい。子どものころに古典の世界に触れることが大事なのだ。
上のリンクで示した、東京新聞の記事によると「復古調」であるという批判があるという。たしかに復古調ではあるが、これは文化の問題である。
他国の文化を尊重するには、自国の文化を尊重できなくてはならない。自国の文化に自信がもてないから、意味のないインチキなアイデンティティーを求めるようになるのである。日本だけが特別優れているというような、狂ったナショナリズムを防ぐのにはむしろ有効であると僕は思う。 (追記) (追記ここまで)
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コメント
コメント一覧 (6)
ぼくも、暗記は大嫌いでした。というより拒絶していました。
中学校の時、徒然草の冒頭を覚える、という課題があって、最後まで覚えなかったのはクラス内で2人だけ、その内の1人はぼくでした。もう1人は本当に覚えられなかったようですが、ぼくはまさに「意味も理解しないで・・・」という理由。覚える気がないんだから、覚えられるはずがありません。
暗唱が大事だ、と気づき始めたのは、大学3年生くらいでしょうね。無駄に長い学生生活を送った我々にはそういうことに気づく機会があったわけですが、そうじゃない大多数の人は、なかなかそうは行きません。だから、多くの人が反対するかもしれません(復古=悪というプロパガンダは魅力的だ)が、それでもその方針は貫いて欲しいですね。
日本の文章語の底流には、漢文訓読語があります。その端的な例が、土左日記や竹取物語ですね。だから、しっかりした文章を書くためには、漢文(訓読)の素養が必要です。明治の文豪の書く文章が名文なのは、彼等が漢文に膾炙していたという言語生活に大きな要因があると思しい。逆に、現代の文章が痩せているのは、そういう骨格が存在しないからでしょう。
そんな時、近世文学の老大家A博士のように、堂々と「そんなことはどうでもいい!」と言い切れる力量が欲しい。
>意味が分かるようになるのは後でもいい。
「読書百遍意自ずから通ず」です。そのうちわかるようになります。もちろん、単語の意味なんか、わかるわけがありませんが、「意=こころ」が通じるようになります。なまじ、意味を理解してしまうと、大切なことがわからなくなってしまいます。
気がつくのが早いですね。
ただ、研究者として二世代ぐらい前の人たちとの実力差を感じたときに、暗唱していない弱さを感じたことはあります。
>生徒からその意味を問われてしまった時。
意味だけじゃなく、暗唱自体途絶えてしまった物を復活させなきゃいけないんですから、小学校の先生も大変です。
基本的なことばかりとはいえ、英語もやらにゃいかん、コンピュータもやらにゃいかんでちょっと気の毒だな。
個人的には古典>コンピュータ>英語なんですけどね。
>「意=こころ」が通じるようになります。
これは、古典にかぎらず語学全体の問題だと思います。
厳密に言うと、最初に気づいたのは、「暗唱」というより「音読」ですね。高校の時、やたらに音読させられたんです。そして、読み間違えると減点される・・・。
きちんと音読できない奴ほど理解できていない。でも、その頃は、理解できていないから音読できない、と思っていたのですが、むしろ逆だろう、ということを薄々気づいて来た、という感じです。そうしたら、当然、「暗唱」も大事だな、と。
例えば、「いとをかしけれ」と書いてあるのを、「いと、をかしけれ」と読めば古典の知識なんかなくても何となくわかりますが、「いとを、かしけれ」と読んだら絶対理解できません。「いと、をかしけれ」と読めるようになることの方が、「いと」とか「をかし」の意味より重要です。
>個人的には古典>コンピュータ>英語なんですけどね。
「算数」も入れといてください。「読み書き算盤」は物事の考え方の基本です。
それが多いんですよ。
実は、僕もそれで評価することがあります。
音読を繰り返すと、初めての単語でも、なんとなくどこで区切ればいいかわかるようになりますね。
>「算数」も入れといてください。
昔から小学校にある教科は古典の前にあるものとして除外しました。