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2011年11月

昨日、秋留台公園でおこなわれたフリーマーケットに行ってきた。行ってきたと言っても、買う方ではなく、売る方である。

祖母の家でやっている文房具屋が店をやめることになり、在庫を売りさばくためである。フリーマーケットで買ったことはあるが売ったのは初体験だ。

実のところ、そんなに売れるもんじゃないだろうと思っていた。8時搬入で10時から開始である。秋留台公園から近いところに住んでいる叔父と二人でやることになっていたので、会場まで二時間近くかかる僕は8時半ごろいって、ゆっくり店開きしようと思っていた。

ところが8時半に会場についてびっくり。開始までまだ1時間半もあるのに、もう商いが始まっている。商品はまだ箱に入ったまま、まるで弱った動物に襲い掛かるハイエナのように客が群がっている。値札も用意していったのだが、そんなのつけている暇がない。僕以上に物を売ることに慣れない叔父が必死に対応していた。

適当に「なつかし文具」の写真でも撮りながら売ろうと思っていたのだが、全然休む暇がない。

そりゃ、三菱ユニ(鉛筆)1ダース100円(小売価格1000円ぐらい)とか、祝儀袋10円(200円ぐらい)とかで売っているのだから、お買い得には違いない。しかし、よくこんなほこりまみれの小汚いもの買うな〜というようなものまで売れる。

10時から始めろという運営からの放送が再三入る。客はそんなの聞き入れない。こちらとしては売ってくれと言われて、時間前だから売らないというわけにもいかない。軍人将棋だの、古い花札だの、製図用具だの、貯金箱だの、撮ろうと思ってたものがどんどん無くなっていった。開始前に全売上の3分の1程度は売れてしまったようだ。

その後も次々と売れ、午後になって少し余裕ができたが、それでも客はコンスタントにくる。もう今さら値札も付けられない。その時の写真がこれ。写真では、まだだいぶ残っているように見えるが、持ってきた半分以上は売れている。

フリーマーケット


結局、3時の終了まで昼食を摂る暇もない始末。終わったときにはもうクタクタだった。

かなり売れたので、ほとんど無くなったかと思いきや、段ボール3箱ぶんぐらい売れ残った。細かい物ばかりなので、売り買いの回数に比べて物が減っていかないのである。店にはまだまだ商品がある。

だいたい、6H の鉛筆なんか、いくら安くても売れないよな〜。

自転車の車道走行(その1)のつづき

僕が「自転車の車道走行(その1)」で述べた「原則」そのものに異論がある人はほとんどいないはずだ。だが、それは実際の交通事情を考えれば、机上の空論なんじゃないかという意見も多い。とりわけ、「先に自転車が走りやすいように整備し、それから自転車を車道におろすべきだ」という意見が多いようだ。

たしかに、自転車にとって車道は走りやすくはない。都内の道路は明らかに自動車のために作られているし、地方は自転車など走らないのが前提に思えるところもある。これを整備して走りやすくしてからというのは確かに理想的である。

しかし、道路の整備というものはすぐにできるものではない。いくらそういう方針を決めたからと言って、完全に自転車が走りやすくなるには少なくとも10年はかかるだろう。これは現実的ではない。

それに対して、人間の考え方を改めるのはそれほど難しくない。考え方として、一番大事なのは「自転車は車両である」というただ一件である。ドライバーも自転車乗りもこの意識をもてばすべて解決するのである。

自動車の幅寄せ、路上駐車、自転車による車道の逆走や信号無視、歩道での暴走、ほとんどの問題はこれに起因している。それならば、自動車と自転車にそれを自覚させるために、自転車を車道に戻すのが一番手っ取り早い。

さて、ここで僕はあることに気が付いた。

ドライバーは車道の自転車が邪魔だという。自転車乗りは自動車が怖いから、歩道を走りたいという。いずれも、自分は現在の地位・やり方に安住することだけ考え、最弱者の歩行者が犠牲になることを厭わない。そして、現在の地位に安住するためには、原則でさえも無視する。

これ、何かに似てないだろうか。TPP・原発問題・雇用問題・・・いろいろ出てくるが、あらゆる日本の行きづまりに通じている。

自分は変わりたくないが、人には変わってもらいたい。いくらなんでも、そりゃちょっとずうずうしいんじゃないか。

警察庁が自転車の車道走行が徹底させる方針を打ち出した。大変喜ばしいことである。車道を走行していて、歩道を走れという警察と一悶着おこしたことがある(正しいことをしていて警察に怒られる国 :2006年10月19日参照)僕としては、溜飲が下がる思いだ。

しかし、まーーーったく分かっていない人がいる。分かっていない人代表の読売新聞社様にご登場願おう。

歩道ガラガラでも自転車は車道...困惑の車王国:YOMIURI ONLINE
警察庁が自転車の車道通行を徹底させる通達を出したことを受け、群馬県警は、県内全域の道路で実態調査を始めた。
東京など大都市部では、歩行者が多い歩道で危険走行を繰り返す自転車が問題視されているが、車社会の群馬では、人が歩いていない歩道も多く、全国一律でのルール徹底の号令に不安の声も上がっている。 同庁の通達「自転車交通総合対策」は10月25日付。自転車ブームを背景に急増する自転車と歩行者の事故を防ごうと、道交法の原則に戻り、自転車を車両として扱うことを徹底するよう全国の警察本部に求めた。

群馬県では人が歩いていない歩道が多いから、歩道を走らせろといいたいらしい。読売新聞は全くわかっていないようなので論理的に説明する。

まず、原則として、道路を通行する者は弱者である順に、

歩行者<自転車<自動車

となる。優先順位は全く逆になり

歩行者>自転車>自動車

となる。ここに異存のある人はいないだろう。

つまり、自転車は歩行者を妨げてはならず、自動車は自転車の走行を妨げてはならないのである。本来、最も弱くかつ優先されるべき歩行者を、自転車や自動車から守るために歩道は存在する。

ところが、自転車を歩道に追いやったため、もっとも優先されるべき歩行者が自転車の脅威におののき、逆に自転車がいなくなり、車道を安心して走れる自動車が優先されることになった。優先順位が逆転してしまったのだ。

自転車はどんなにゆっくり走っても歩行者の脅威であることに変わりはない。時速3キロ(ゆっくり歩くぐらいの速さ)程度で自転車が歩行者にぶつかったとして、自転車に乗っている人が傷つくことはまずないが、生身の歩行者は多かれ少なかれ怪我をする可能性が高い。自転車が歩道を走ることが危険なのは、スピードやマナーとは全く無関係なのである。

これを解決する方法はただ一つ。自転車を本来走るべき場所に戻すことである。これは「地域の実情」も「歩道ガラガラ」もまったく関係ない。

「自転車が車道を走るのは危なっかしい」というのはドライバーのエゴである。「車道は怖いから走りたくない」というのも自転車に乗る人のエゴである。自動車は自転車と歩行者に気を使って走行し、自転車は歩行者に気を使って走行する。ただ、歩行者だけが安心して歩道を歩ける。交通弱者優先の原則を考えればそれが当たり前だ。

本来、もっとも優先されるべきだった歩行者の安全を取りもどすために、自転車が車道を走るのは必然なのである。(つづく)
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小松英雄氏『古典再入門―『土左日記』を入りぐちにして―』(笠間書院)を読んだ。

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このブログで小松氏の著書を紹介するのは三度目。

小松英雄『いろはうた』を読んだ:2009年03月22日
小松英雄『平安古筆を読み解く』を読んだ:2011年06月14日

この三冊の中では、最初に読むべきはこれだろう。読者のターゲットを「古典に興味のある社会人のみなさん、高校や大学で古典文学作品を教えているみなさん、短大から大学院までの学生のみなさん、など、たいへん広い方々を読者として想定」しているので、読みやすく誰にでも勧められる。

本書は、誰でも一度は見た(あえて読んだと書かない)ことがある『土左日記』(本書の表記による)を俎上に、文献学的方法により正確な「読み」を追求するものである。その過程で、文法に縛られた解釈の問題点を論じたり、『平安古筆を読み解く』に通じる表記と解釈の関係を論じたりする幅の広さが特徴である。

小松氏の著作はいつも刺激的なのだが、この本はいろんな意味で刺激的。もっというと面白い。この「面白い」というのは「趣がある」というような面白さではなく、エンターテイメント的な面白さである。

国文学の著作にはこういう面白さのあるものが少ない。せっかく新しい説を出しているのに、モゴモゴ口ごもっていて、どこが新しいのかよく分からない、そういうものが多いのである。「従来の説はこうだが、ここが間違っている」そういうはっきりとした批判がないと、その道の専門家以外はよくわからないものになる。

これが国文学研究が内向きになる原因だろう。僕は学問なんてもっと殺伐としていていいし、そっちの方がよほど面白いと思う。

しかし、はっきりした批判をすると、批判した相手に個人的な恨みを買いやすい。小松氏は本書の最後にこう付け加えている。

筆写の言説を唯我独尊と感じて反撥を感じた読者がいるとしたら、それは、論と人とを一体に捉えているからです。筆者が批判したのは、甲氏や乙氏の提示した考え方であって、人身攻撃ではありません。この場合に罪とか憎むとかいう語は当たりませんが、罪を憎んで人を憎まずと同じ姿勢です。(中略)唯我独尊どころか、筆者の解釈も千慮の一失ならぬ浅慮の逸失だらけに相違ありません。そういう逸失をみんなで補正してゆくことが研究の進歩に他なりません

こういうアタリマエのことをわざわざつけ付けなきゃならないのは、学問としてナサケナイことである。ともあれ、文学研究の面白さが分かる本として、万人にストロングバイ。
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今日のはコレ。

チョークホルダー


「懐かし文具」というタイトルにしたが、実は懐かしくない。僕はこれが何だか分からなかったのである。僕は文房具屋生まれで、学校の先生である。いままで文房具に囲まれた生活を送ってきた。だから、見たことがない文房具はほとんどないつもりだったが、これはさっぱりわからなかった。

一つ一つバラバラになってクリップみたいに開くことができる。

開いたところ


女性が使う髪留めにも似ているが、それにしてはデザインがそっけない。断面は円形で、あまり何かを挟む用途には向いていないように見える。

在庫整理に来ていた教員歴40年の叔父に見せると、一発で分かった。これは、チョークを挟む物だった。チョークホルダーというらしい。

チョークをホールドしたところ


これなら知っている。しかし、僕が知っているのはプラスチック製で、挟むタイプではない。小学生のときからプラスチック製だった。学校にごろごろあるが、径が太くなるのが嫌で使ったことはない。これなら使いやすそうなので、自分で使うことにした。

よく見ると、手彫り風のカッコイイ銘が入っている。いつ仕入れたか分からないが、かなり古いものじゃないだろうか。天神とあるので日本白墨工業製であることが分かる。

銘入り


この記事を書いている最中、日本白墨工業のサイトをみてびっくりした。これ、「懐かし」じゃない。一本368円。現役じゃないか!

ステンレスホルダー:天神白墨
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祖母がやっている文房具屋を畳むことになり、古い商品の処分をしている。何しろ、昭和30年代からの老舗で、祖母も高齢で店を開けておくだけという状態が続いたので、懐かしい文具がたくさん新品で出てくる。

今回紹介するのはテープライター。といっても、音声を文字に起こす仕事のことではない。細いテープに文字を印字する道具である。このテープは書類などのラベルや、持ち物の名札に使われたりした。今でいうとキングジムのテプラに相当する。

テープライター


これがテープライター。円盤を回して文字を選び、レバーを握るとプラスチックのテープに文字が打てる。プラスチックのテープに活字を押しつけ、盛り上がったところが白くなって文字に見えるという仕組。この独特の白い文字に見覚えがある人も多いだろう。ちなみにこれは三菱鉛筆製。

IMGP3985


円盤を差し替えて、文字種を変えることができるのだが、途中で変えることはできないので、平仮名ならすべて平仮名、ローマ字ならすべてローマ字になる。テープは6mm、9mm、12mmの三種類の幅があって、よく使われたのは9mm。色も何色かある。

テープライター文字盤


強く握ると印字され同時に一文字分送られる。軽く握ると、送りだけ。左のレバーを押しながら握ると、印字だけ。この印字だけというのは濁点や半濁点を打つときに使う。

一つ大きな欠点があることが使ってみてわかった。機械式だから当たり前だが、打った言葉を記憶できないのである。

同じ言葉でも一文字ごとに文字盤をくるくる回さなければならない。例えば、自分の名前「なかがわ」(濁点含む5文字)を10枚つくるためには、文字盤を60回(切るために1回多くなる)回し、60回レバーを握らなければならないのである。

終わったころには、手がしびれて何も握れなくなる。昔、持ち物すべてにこれで名前を付けているやつがいたが、彼のお父さんの苦労が初めて分かった。

その他、テープライターの写真はこちら。

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