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2008年07月

サンデージャポンを見ていたら、霊媒師の何某とかいう巫女の装束を着た女性が、心霊スポットをめぐるという企画をやっていた。このとき、何某が霊?に対して言った言葉が面白かった。

天国成仏してください。

天国はキリスト教の概念で、仏教では使わない。仏教だと、浄土があてはまるだろうが、ニュアンスとしてはかなり違う。言葉の違いは宗教ばかりではなく死生観の違いを表している。霊と交信できるというこの霊媒師は一体どんな死生観をもっているのだろうか。

「天国」は言葉もキリスト教のものだが、一般の人が思い浮かべる「なにやら楽しいところ」というイメージも、キリスト教のものに近いだろう。本来は、神が支配する国という意味である。つまり、神様は王様みたいなものなので、当然キリスト教徒でないと天国へは行けない。

それに対し、仏教の浄土は、分かりやすく言えば設備の整った学校のようなものである。指導するいい先生(仏)がいて、修行に適したいい環境があり、そこで仏になるための勉強をする。いい環境で勉強するのが東大への近道みたいなものだ。死んでまで学校に行きたくないよという人は、そもそも浄土にはいけないだろうから、無用の心配である。

浄土の対義語は穢土で、これは私たちの住む世界を指している。先ほどの学校でいうと、不良ばかりで設備も悪く、先生もろくなやつがいない学校をイメージすればよい。こういう学校では勉強するのが難しく、なかなか東大には進学できない。ただし、絶対に入れない・・・つまり仏になれないというわけではない。

ついでに、地獄のことも書いておくと、地獄という言葉は仏教でもキリスト教でも使うが、キリスト教ではあまりはっきりした定義がなく、神様のいないつまらんところらしい。

仏教では、現世の罪にしたがって、舌を引っこ抜かれたり、溶けた鉄を飲まされたり、いろいろ楽しい罰を受けるところである。もちろん、こんな状態で仏になるのは不可能だ。なお、地獄のありさまに関しては、源信の『往生要集』にやたらと詳しく書いてある。

最初の霊媒師の言葉に戻る。成仏という言葉は、読んで字の如く悟りを開いて仏に成ることである。当然、仏教でしか使わない。悟りを開いて、仏になることなので、うさんくさい霊媒師が祈ったぐらいでは成仏できない。

なお、神道では天国とか地獄という概念はなく、死者は全員黄泉(よみ)の国へ行く。黄泉は地下にあってこの世と地続きである。死者はそこでこの世とたいして変わりのない生活をしているるらしい。

この霊媒師がインチキだというつもりはない(インチキだと思っているけど)。ただ、霊媒師にかぎらずこの「天国に成仏してください」式の言い方がすごく多いように思うのである。これは、あまりにも宗教を軽視した言い方だし、その人がどんな死生観を持っているのかが疑われる。

たとえば、先ごろ川内康範が亡くなったときも、やたらと天国という言葉が目に付いた。月光菩薩をモデルにした月光仮面や、インドの山奥で修行するレインボーマン作者の川内康範が天国に行くわけはない。

川内康範も草葉の陰でないているぞ・・・って、草葉の陰ってどこだよ。
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#死生観

あえてリンクしないが、論文・レポートを購入できるサイトがある。仕組みはこうだ。

まず、論文・レポート(以下論文とする)などの筆者が、データをアップロードする。その論文を必要とする人がダウンロードするのだが、このとき、筆者にお金を支払う。

論文の値段は100円〜500円ぐらい。amazonのようにコメントが付けられるようになっているので、読まなくてもどんな論文なのかはだいたい見当がつくようになっている。

題名と資料の一部から察するに、書かれているもののほとんどが大学生のレポートレベルのものだ。

これをダウンロードして、コピー&ペースト(場合によっては執筆者名を書き直すだけでよい)してしまえば、論文、レポートが完成してしまう。

まず、書かれている論文のレベルが低いから、コピペだとばれにくい。もし、指導教授が気づいたとしても、有料のサイトなのでGoogleなどの検索にはひっかかってこない。何の苦労もなく、論文・レポートを提出することができ、下手をすればまじめに書いた人よりもいい点数をもらうことになる。

値段設定も秀逸だ。100円200円なら、多少自分の希望した中身と違っても、損害が少ない。売るほうにしてみると、自分が書いたものが、お金になるのだから、とりあえずアップしておけということになる。だから、論文の方は潤沢にある。

ダウンロード数を見ると100を越えるものもざらにある。100円だとして、学生の書いた稚拙なレポートが、1万円もの利益を生むのである。しかも、稚拙であることに意義があるのだから困ったものだ。

対策は、論文だけで評価するのではなく、筆記試験や口頭試問とあわせて評価することだろう。教授の負担は大きくなるが、それ以外には方法がないだろう。教授が手を抜けば、学生も手を抜くのは今にはじまったことではない。
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輸入食材店に行ったら、木徳神糧タイ香り米を売っていたので、炒飯でも作ろうと思って購入した。香り米は中国で何度も食べたことがあるが、自分で炊いたのは初めてだ。

香り米は、いわゆるインディカ種の細長いコメである。1993年の米不足のときに、タイ米をまぜたブレンド米なるものが出回ったが、あのブレンドされていたものと基本的には同じ。

日本の米同様、普通の炊飯器で炊ける。説明書には米と同量の水で炊けばいいとあるので、そのとおりにした。なお、研ぐ必要はない。研ぐと香りが落ちるらしい。

さすが香り米というだけあって、炊いている最中に強い匂いがする。この匂いを表現するのは難しいが、普通のごはんの匂いを100倍ぐらい濃くした感じといえば分かってもらえるだろうか。餅を焼いたときの香ばしい匂いにも似ている。あくまで、米の匂いで、ぬかの匂いではない。

炊き上がりは、思った以上にふっくらしている。十分おにぎりにできるレベルである。タイ米はぱさぱさしているというイメージがあるので、これは予想外だった。炒飯にするときは、水をやや少なめにした方がいいかもしれない。

食べてみると、これがなかなかうまい。細長いせいか、噛んでいると日本の米より甘みが強いように感じた。この匂いが嫌いでなければ、おいしく感じるだろう。まだやっていないが、案外お茶漬けなんかにしたらおいしいんじゃないだろうか。

ちなみに3合で400円。ストロングバイ。
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むじんさんからのお題

「世も末」という言葉は「末世」という仏教の末法思想に由来している。なお、末法の世なので末世という。

末法思想とは、仏教の時代観の一つである。一般的に三つの時代区分に分け、釈迦入滅後、釈迦の教えが生きている時期を正法、教えが形骸化した時代を像法、教えが忘れ去られようとしている時代を末法と呼び、これを三時思想という。またさらに、完全に忘れ去られた時代を滅法というが、これは未来の話。

この時代区分の具体的な数字(年数)は、典拠によって違いがあるが、釈迦の入滅後1000年後までを正法、さらにその1000年後までを像法、10000年後までを末法とするのが一般的だ。

日本では平安時代末から末世に入ったと考えられているので、中世には末法思想が広く信じられた。もちろん、そこには中世の不安定な社会背景が影を落していることはいうまでもない。

ところで、最初に書いた「世も末(=世の末・・・世の中の終わり)」だが、漢文法からすると間違っている。

普通に読めば「末の世」で、ある時代の終りか、人生の終えるまでという意味になる。もちろん仏教的に「末法の世」の略としてみても、末法の世の次には滅法の世があり、それも一万年もあとのことなのだから、世の中の終わりという意味にはならない。

そもそも、仏教では世の始まりという概念がないので、終りという概念もない。なにしろ弥勒菩薩が下生するのが56億7000万年も後のことなのだ。

末世がいつから世の末ということになったのか。キリスト教の終末論と関係がありそうな気がするけど、よくわからん。
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クローズアップ2008:不正採用、大分県教委方針 先生、本当にクビ?

大分の教員採用試験汚職事件で、不正に合格した教員をクビにしようとしているらしい。思えば気の毒なことだ。

なにしろ、彼らは数百万円払ってでも教員になりたいという、奇特な人々なのである。現代は教員というだけでいじめられる時代だ。仕事もハードだし、正直言って僕にはそれほどの意欲はない。

それほどの意欲がある先生を、クビにするのはもったいないことだ。中には不正をしなくても合格点に達していた人もいるらしいし、それ以前に不正をどこまで遡れるかを考えたら、完全な処分など不可能だろう。

不正の片棒を担いだ教育委員会が、不正した教員を裁くというのも妙な話だ。トカゲの尻尾切りとはまさにこのことである。

ところで、この採用試験がどのように行なわれるか、あまり報道されていないようなので、教員採用試験不合格歴5回の僕が、かいつまんで説明しよう。

まず、試験は一次試験と二次試験がある。内容は、自治体によっても違うが、おおむね一次が筆記と論文、二次が面接である。これ以外に模擬授業や、適性検査なるものがある県も多い。

一次試験の試験日は隣接した県(例えば、関東地方だと東京・埼玉・千葉・神奈川・茨城・栃木・群馬・横浜市・さいたま市・川崎市・千葉市)は同じ日になっており、同じ地方で別の自治体を受けることはできない。

一次試験に合格すると二次試験を受けることができ、それに合格すると、合格者名簿に載る。

これで晴れて公立学校の教員になれる・・・わけではない。これは名簿に載っただけで、新学期に欠員の出た学校からお声がかからないと、教員にはなれないのだ。

補欠合格以外でそういう例を聞いたことはないが、もし、合格してもどこからも声がかからないと、次年度にもう一度採用試験を受けることになる。

今回の件では一次試験から不正があったらしいので、事態は深刻だ。もっとも受験生の方で、採用試験がフェアに行なわれていると思っている人など一人もいない。

そもそも、教師の適正なんて、試験なんかで計れるものではない。だったら、賄賂でもなんでも、意欲があって身元が確かな人ということになるのだろう。採用の方法がすでにトンチンカンなんだからしょうがない。
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国語学者の大野晋氏が亡くなられた。まずは、ご冥福をお祈りします。

大野晋氏といえば、日本語のタミル語起源説である。

別に大野氏の研究をくさすつもりはないが、僕はこの分野にあまり興味がない。それは僕が特殊なのではなく、国文学とか国語学とかの学問に一度でも携わったことのある人の多くがそうなんじゃないだろうか。

自分たちの母国語である日本語がどこから来たのかという問題は、日本人なら誰しも興味をもつものである。それ以外にも、日本人のルーツとか文化的なルーツとか、そういうことに興味を持つのは当然のことだ。

そういうわけだから、国語学という学問は、言葉のルーツを探求するのが目的だと思っている人がけっこういる。僕も国語学が専門ではないものの、一応国語教師なので「しろまるしろまる×ばつなんですよね」なんていわれたりすることがある。明らかに語源が分かる場合はいいが、そうでないときは、「さあそうなんですかね」なんて答えるが、いかにも勉強不足のように思われるのは心外だ。

もちろんそういう研究もあるのだが、国語学にかぎらず、学問の世界で起源がどうとかというのは、メインストリームとはなりえないと思っている。

なぜそうなるのか。大野氏の研究を例に引くと、日本語の起源がタミル語だったとしても、それが他の分野につながっていかないからである。日本語の起源が、タミル語だったら、万葉集の解釈が変わってくるとかいうなら、意味もあるだろう。しかし、今のところ、タミル語起源だろうと、英語起源だろうと、万葉集の解釈にはつながらない。

ほかの分野につながらないものは、学問ではなくトリビアに過ぎない。もちろん、今後日本語の起源が国文学や国語学と違う分野につながる可能性がないとはいえない。もし、そこでつながってくれば、そこで初めて学問になる。

大野晋氏のタミル語起源説がすごいのは、大野氏ほどの国語学の碩学が普通はやらないことをやったことである。やらない理由はすでに述べたとおり。普通の学者は、トリビアになるリスクの高い研究はしないのである。
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そろそろ夏休みが近くなって、日本縦断徒歩旅行とか、お遍路だとか、計画している人もいることだろう。そこで、今回は野宿の作法を伝授する。

なんといっても、一番大事なことは、地元の人に迷惑をかけないことだ。とにかくこれが原則。

これは倫理的な理由だけではない。自分の身を守るために必要なのである。

たとえば、野宿はなるべく人目に付かない場所でする。これは当然だが、散歩している人などに出くわすことがある。こういうときにどうするか。

無視したり、隠れたりするのは得策ではない。怪しまれて通報されたりしたら面倒なことになるからだ。場合によっては、野宿のつもりが、三食昼寝つきの地下ホテルに連れて行かれる可能性だってないわけではない。

こういうときには、積極的に声をかけるようにすべきだ。だいたい、そんなところを歩いている人は、暇な人が多いから、いろいろな情報を教えてくれるだろう。

話は、まず、自分はどこから来て、なぜ野宿しているかから始める。これでだいたい警戒心を解いてくれる。次に、ここで野宿しても大丈夫か聞いてみる。たいがい大丈夫だが(ただし、その人の言葉に責任はないから注意すること。あとで怒られても「だれだれが言いといった」などといわないように)、ダメな場合はすぐに移動しよう。

さて、順番が逆になったが、一番大事なのはどこに野宿するかだ。

探し方は、まず、地図上で泊まれそうなところにあたりをつけておく。夕方、目的地をめざし、途中の泊まれそうなところをチェックしながら歩く(走る)。この方法だと、目的地が野宿不可だったときや、たどりつけなかったときに、最後にチェックした地点まで戻ればいいので、かなり気が楽になる。

泊まる場所のポイントは、トイレが近くにあることだ。野グソをしなくてすむし、トイレには確実に水場もある。その条件で、地図上であたりを付ける場所は、僕の場合、

1.キャンプ場(オートキャンプ場は高いので除外する)
2.道の駅
3.公園
4.河原

である。

1のキャンプ場は当然合法。田舎だと無料のところもあるので、あればそこに泊まることを優先する。

2はどう考えても野宿できないところから、堂々とテントを張れるところ、24時間エアコンが付いた休憩所がある所までさまざまなので、臨機応変に対応してほしい。

3も合法のところと、非合法のところがある。
足摺岬の公園などは、「ここでキャンプをする方は・・・」という立て札があったから、ダメかと思ったら、「奥でするように」と書いてあった。
とりあえず、「キャンプ禁止」と書いていない場合はしてもいいと解釈しているが、なにしろ公の園なので、長居は禁物。遅寝、早起きを厳守しよう。
また、東屋などがある場合は、なるべくそこで泊まるようにしよう。

4は完全に合法である。が、条例で禁止している場所もあるかもしれない。そういうところは必ず立て札がしてあるはずだ。また、トイレがないことも多いので注意。

河原で気をつけなければいけないのが、増水と暴走族だ。まず、川から近いところと、中州にはテントを張ってはいけない。もちろん、雨の日も避けるべきだ。そのへんは地元民から情報を収集しよう。

これは公園もそうだが、暴走族はなぜか河原と公園を好む。落書きが多かったり、妙にゴミが落ちていたりする場合は避けたほうがいい。

このほか、よく無人駅や停留所などが野宿の候補地として挙げられる。しかし、どうしても他にはないという場合以外は避けるべきだろう。今まで、無人駅や停留所に泊まってよかったという話を聞いたことがない。

野宿生活をすると、プロの方(と書いてホームレスと読む)と遭遇することもしばしばある。プロの方はなにしろプロなので、尊敬しなくてはいけない。味方にすればこれほど心強い人は他にはいないだろう。食料の調達法とか、どうでもいいことをレクチャーされることもあるが・・・。
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#キャンプ
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教科書.netが面白い。

教科書に出ていた肖像画に落書きをした人は多いはず。いや、していない人はほとんどいないんじゃないか。僕なんか、いまだに・・・。

このサイトは、教科書に載っている「あの顔」にいたずら書きして、それを公開できるサイトである。「試してみた」じゃないのは、まだ描いていないから。

もちろん、気になるのは国語の教科書。落書きした人数のベストファイブは・・・

あ、そうだ「続きを読む」にするので、TOPから読んでいる人は、予想してから続きを読むをクリックすると楽しめるかも。続きを読む
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中世日本のメディアおよびコミュニケーション(その1)
中世日本のメディアおよびコミュニケーション(その2)

中世日本のメディアおよびコミュニケーション(その2)で、説話は事実として読まれるものだということを述べたが、説話を事実として読むと、説話と現代のニュースは非常に性格が似ていると言える。

6月8日の秋葉原連続通り魔事件は、ショッキングなニュースだった。あれだけの事件だから、話題なるのは当然だが、ニュースの価値としてはどうか。ここでいう価値とは、教訓と考えていい。ニュースを実生活にどう生かすかということである。

こんな事件は年に何回も起こるものではない。いわば、特殊なニュースである。だから対策をしても意味のある対策にはなりにくい。

秋葉原の歩行者天国は、あれ以来中止になっている。しかし、歩行者天国をやめれば、あのような犯罪が起きないというわけではなかろう。ほかにも、オタクだとか、インターネットだとか、犯罪予告だとか、派遣社員だとか、マスコミはいろいろキーワードを設定し、象徴化しようとしたが、どうもばらばらだ。唯一、納得できるのは、犯行に使われたダガーナイフの規制ぐらいなものだ。

教訓にするということからいえば、いくら犠牲者が多かったとはいえ、めったにおこらない連続通り魔事件(特殊なニュース)よりも、毎日の交通事故者件数とか詐欺被害の手口と件数なんか(普通のニュース)の方がよほど価値がある。通り魔に遭う可能性よりも、交通事故や詐欺に遭う可能性の方がはるかに高いからだ。しかし、そんなものを毎日載せている新聞は聞いたことがない。

仮にそういう新聞があったとすると、それは競馬新聞か、株価欄みたいなものになるはずだ。競馬新聞や株価欄は、それがお金にかかわるから見られるのであって、事件の件数などをまとめたものなど、誰が読むだろうか。つまり、人は自分に身近な「普通のニュース」よりも、身近でない「特殊なニュース」の方に興味をもつのである。このことは、「犬が人を噛んでもニュースにはならないが、人が犬を噛むとニュースになる」という言葉にも象徴されている。

ここで分かることは、

1.人は「普通のニュース」よりも「特殊なニュース」に興味がある。
2.人は「特殊なニュース」を「普通のニュース」の象徴としてとらえようとする。

ということである。

これは、史実と説話の関係によく似ている。普通のニュースと特殊なニュースを史実と説話に入れ替えてみるとよく分かる。

1.人は「史実」よりも「説話」に興味がある。
2.人は「説話」を「史実」の象徴としてとらえようとする。

もちろん、史実のなかにも興味をひき、人口に膾炙しているものはある。だが、その史実はたいてい説話的な史実である。

説話にしても、まったくのウソでは、象徴にならないらしい。だから、少々はそら物語もありなのである。

『今昔物語集』では、「今は昔、しろいしかくしろいしかくの比、しろいしかくしろいしかくのと云ふ近衛の舎人ありけり」などとわからない部分を空白にしている。一般的に後から調べて挿れるためだという解釈がされているが、どう考えても挿れられそうにないものまで空白になっている。僕はこの空白は、ニュースを構成するのに必要な要素5W1Hと同じで、より実話性を増すためにされたものだと思っている。

中世という不安定な時代に、人々は説話を求めた。しかし、その根本にあるのは、ニュースを必要とする現代人とまったく同じ心理なのである。
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camranyさんからお題いただきました。

狛犬撮影をしていて、最大の敵は雨である。もともと薄暗いところにあることが多いのに、より暗くなってしまうし、なんといっても移動がしにくいからである。だから、狛犬目当てで行くときは、晴れの日を選ぶ。

しかし、雨が似合う狛犬というのもある。もちろん雨を狙ったものではなく、旅先でたまたま雨が降ってしまったものだ。
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たとえばこれ。つい最近撮ったもので、箱根神社の狛犬(6月23日のエントリ参照)である。

箱根神社の狛犬1

箱根神社の狛犬2(後姿)

箱根神社の狛犬3(アップ)

全身苔むしていて、なにやら哲学者のようだ。

いつ作られたものか、苔で全く読めなかったが(おそらく、幕末か明治だろう)、こいつにはそんなことは関係ないんだろうな。
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