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【阪神大震災29年】オリックス球団職員の松本正志さん 95年に感じた「人間の力って凄い」

[ 2024年1月17日 06:00 ]

オリックスの球団職員の松本正志さん
Photo By スポニチ

1995年1月17日に発生した阪神大震災から、きょう17日で29年になる。オリックスの球団職員・松本正志さん(64)は阪神大震災当時、神戸市で被災した。

あの日、松本さんは春季キャンプ地の宮古島へ練習用具を運ぶ予定日だった。神戸市垂水区の自宅で被災し、「家の窓を開けたら、朝やのに火事の煙で真っ黒。西の方を見たら明るくて。地球の終わりみたいな感じだった」。倒れた信号機やガラス片が道路を覆う中、迂回して当時神戸市西区にあった選手寮・青濤館へ。先に宮古島にいた上司からは「荷物だけは出してこい」と指示されるも、コンテナは不通で「もう、キャンプなんてできないだろうな」と打ちひしがれた。

当時の宮内義彦オーナーが「こういうときこそ、プロ野球選手はやらないといけない」と号令を出し、春季キャンプは決行。「みんな被災しているから。家族が心配な人は残ってもいいと言われたけど、結局みんな(宮古島に)行った」。キャンプ後は震災直後にもかかわらず、オープン戦が開催される球場に地元ファンが詰めかけた光景を目の当たりにし、チームは勇気づけられた。

「3月に(神戸に)帰ってきたときも、こんなんで野球できるのかなと。でも、オープン戦に見に来る人がおった。(チームの)みんな感激していたね。体育館とかで避難している人が楽しみにしていたんやろうね」

神戸のために――。当時のイチローや田口壮の姿勢が、松本さんの目に焼き付いている。「お客さんへのサービス旺盛な2人やったからね。外野(席)で小さい子がグラブ持っていたら、キャッチボールしたり。それで(ファンは)喜んで盛り上がって、楽しいひとときを過ごせる。選手は僕ら以上に(神戸のためにと)思っていたと思う」。シーズン開幕前には、上層部からユニホームの回収を指示された。「"がんばろう、KOBE"(のワッペンを)貼るから」。合言葉を胸に選手・裏方が一丸となり、悲願は成就された。

「勢いに乗って、周りは応援してくれて。人間の力ってすごいなと、95年の時は感じた」

毎年震災の日は神戸市中央区で催される追悼行事に参加。元日の能登半島地震には「被害者の数は大なり小なり違うかもしれないけども、被災者としては一緒」と胸を痛めた。77年の夏の甲子園優勝投手で、同年にドラフト1位で阪急に入団。現役引退した翌年の88年から用具担当一筋36年で、今年2月の春季キャンプを最後に退職する。「ここまでお世話になった球団に対して、感謝の気持ちで何ができるかなと思ったときに、ズルズルおるんじゃなくて、若い子に引き継ぐのが球団に対しての恩返しじゃないかなと」。違う役職を球団から提案されたこともあったが、「この仕事が楽しいし、これ1本でやりたい」と職への誇りを胸に、裏方としてチームを支え続けた。

「(最後の3年は日本シリーズで)本拠地のほっともっと(神戸)と京セラ、大学野球の聖地・神宮、みんなが憧れる甲子園でできた。こんな巡り合わせはない」

選手1年目の78年に優勝し、退職前最後のシーズンとなった昨季もチームは3連覇。妻と娘、孫を連れた念願の優勝旅行で中嶋監督と家族一同で写真を撮り「もう思い残すことない」と、満面の笑みを浮かべた。自らの誇りと意志を最後に春季キャンプで後継に伝え切り、グラウンドを去る。(阪井 日向)

◇松本 正志(まつもと・しょうじ)1959年(昭34)4月2日生まれ、兵庫県出身の64歳。東洋大姫路(兵庫)では甲子園に2度出場し、2年春は4強、エースの3年夏は優勝。77年ドラフト1位で阪急に入団して87年に引退。通算32試合1勝3敗、防御率6・83。88年から阪急、オリックスで球団職員として用具担当を務める。現役時は1メートル78、80キロ。左投げ左打ち。

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