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2006年10月

北朝鮮が核実験しましたな。それで、政治的なことはとりあえずおいておいて、

アジア株価急落、北朝鮮核実験の影響

というわけ。で、思うんだけど、

将軍様、空売りとかしてないですか?

だって、安倍首相の中国訪問に韓国訪問でしょ。好感して株価が上がる可能性があるじゃん。そこへナイスタイミングで核実験。これは小学生でも下がると分かるわけですな。

もしそうだとしたら、さすが将軍様、インサイダーもスケールが違います。

で、明日はなんぼもうけるつもりでっか?
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やた管ブログになつかしの「NHK時計」を付けてみた。なかなかいい感じである。

欲しい人は上のリンクを参照のこと。

この時計、NHKのブログによると、昭和43年ごろから平成3年ごろまで使われていたそうだ。いつの間にかなくなっちゃったと思ったら、平成3年か。子どもはしらないのね。でも、公式サイトなのに「ごろ」って何よ。はっきりせんか。

この時計、なにしろ0分ちょうどしか見たことないから、アニメーションだとばっかり思っていたのだが、愛宕山のNHK放送博物館に本物があるんだそうだ。動いてるのかな。大きさは名刺よりふたまわり大きいくらいということで、思いのほか小さい。

それにしても、Flash付けすぎだな。邪魔だったらすみません。

ところで、僕、NHK受信料を払っていません。ごめんなさい。続きを読む
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前に、紹介した説話文学会10月例会 シンポジウム「『九相詩絵巻』をめぐって」を聞いてきた。いや、見てきたか?『九相詩絵巻』については、上のリンクを参照のこと。

昨日の荒天がウソのような秋晴れの中、パネラー三名のうち二名がパワーポイント(MSのプレゼンテーションソフト)を使い、大きな画面で見事なグロ画像(初公開多数含む)をしこたま披露してくれた。

国文の学会でパワーポイントとは(いやみじゃなく)ずいぶん進歩したなと思った。おかげで、腐乱死体の絵が迫力ある大画面で・・・それにしても、終わったあと懇親会があったのだが、ぶくぶくに膨れて蛆がわいた女の死体の絵とか、犬が女の内臓食っている絵をしこたま見たあとの夕食は格別だったろう。

『九相詩絵巻』は中央公論社の「日本絵巻大成」に入っているもの(中村家本という)が有名で、恥ずかしながら僕はこれしか知らなかったが、他にもいろいろなのがあるそうだ。普通絵巻の場合、「いろいろなのがある」と言ったら、何か元になるものがあって、それを模写したものをいうのだが、『九相詩絵巻』の場合、九相を描いているというだけで、中身は別物である。

以前から中村家本が『九相詩絵巻』というくせに、詩が入っていないからおかしいなとは思っていた。他のものには、空海作・蘇軾作の漢詩(どっちも仮託だろう)や、和歌が付いているものまであるのだという。この和歌というのが、なんともいえないいい味をだした(ようするにヘンな)和歌で面白かった。

もう一つ面白かったのは、某家本として紹介された慶安四年(1651)に狩野派の絵師によって描かれたもの。どういうわけか、必ず死体を見ている野郎がいる。九相すべてに出てきて、服が違っているので、おそらく別人だろうが、こいつは一体何者なんだろう。悲しんでいるふうではないなので、女の恋人なんかではない。死体マニアか?坊さんだったらまだわかるけど。

知らないことが多くて、すごく面白かったんだけど、ちょっと考えすぎなんじゃないかと思ったことがあった。例えば、なぜ女かということ。

こういうものがたくさん作られた(近代まで作り続けられた)のは、それだけ、これを見たいという人がいたからだ。そこにはもちろん、仏教的な観想である不浄観とか無常観というのもあるが、それ以上に「グロ画像が見たい」という、「怖いもの見たさ」があったはずだ。前にも書いたが、僕みたいなオッサンの死体じゃインパクトが少ないのだ。なぜ女の死体なのかなんて、そのぐらいで片付けちゃっていいんじゃないだろうか。

司会の先生が「こんなテーマのシンポジウムだと人が来ないんじゃないかと心配したが、盛況でした」とおっしゃっていたが、それは違う。このテーマだから盛況だったのである。みんな怖いもの見たさなのだ。

そういえばタイ人は死体好きだと聞いたことがある。死体の映像を流す番組(今日の死体!)があったり、自動車事故で女優が亡くなったときの追悼写真集の最後のページが、ぐちゃぐちゃの死体写真だったりするそうだ(複数の証言を得た)。
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芸術の秋である。今度は、東京国立博物館の仏像 一木(いちぼく)にこめられた祈りに行ってこようと思っている。

仏像なんてわかんねぇよという人は、まず「怖い仏像」からはじめたらどうか。「美しい」という感覚は人によって基準が違うので、なかなか理解できなくても、「怖い」というのは共通だからである。

そんなわけで、まず、今回出品されるものの中から。

西住寺蔵・宝誌和尚立像
宝誌和尚の顔が割れて、中から菩薩の顔が現れているという珍しい像。ちょっとウルトラマンに似ている。
梁代の高僧、宝誌和尚をモデルにして三人の絵師が絵を描こうとしたところ、和尚が「わしの真の姿を見て書き写せ」といって、親指の爪で額を掻いたら、そこが裂けて金色の菩薩の顔が現れたという説話に基づく。
たしか、京都国立博物館に常設してあったと思う。ちくま学芸文庫版 表徴の帝国の表紙にも使われている。

向源寺(渡岸寺)蔵・国宝十一面観音菩薩立像
十一面観音の傑作。十面がやたらと大きいというだけで、それほど怖くはないが、後頭部に付いている「暴悪大笑面」と呼ばれる顔が笑っているんだけど怖い。これを怖く感じるのは、僕が悪だからか。

今回の展覧会には出ないけど、怖いのを二つほど。

高野山霊宝館の深沙大将
深沙大将ってのは、玄奘三蔵が砂漠で死に掛けたときに救ったという神様で、『西遊記』の沙悟浄のモデル。
沙悟浄もドクロのネックレスしてるけど、こいつもしている。ネックレスしているのでも分かるが、深沙大将はかなりオシャレさん(でも、ちょっとセンスがちょっとアレ)。象さんの頭の膝あて、腕には大蛇がまとわり付く・・・しかし、極めつけはおなかの人面瘡。深沙大将自身の顔も怖いが、妙におすまし顔の人面瘡はマジで怖い。
三蔵法師ってすごいな。僕だったら、こんなのが来たら、いくら死にかけていても逃げちゃうよ。

正妙寺の千手千足観音立像
実は現物を見ていないのだが、名前を聞いただけで怖い千手千足観音。観音さまだから、衆生を救いに来てくれたりするんだろうけど、この足でわしゃわしゃこられても困る。顔も怖いし、ストックみたいに二本も錫杖持ってるし。上の国宝十一面観音がある海岸寺から近いので、セットでどうぞ。

ヒンズー教由来の天部や明王なんかだと怖いのばっかりなので、今回はそれ以外(観音ばっかりだけど)挙げてみた。こういうのを、薄暗い寺でみるのもなかなかいいものである。
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「男児の靴でストレス解消」 靴盗んだ疑いで巡査を逮捕

世の中にはすごい人(変態さん)がいるもんだ。採点してみた。

彼は巡査。法の番人なのに、法を犯してまで自分の欲望を満たさずにはいられない。+30ポイント(法を犯す20ポイント+職業が巡査10ポイント)。

臭いでストレス解消。アロマ療法とかあるんで、ポイントは低い。+5ポイント。

その臭いが靴の臭い。+20ポイント(臭いフェチ10ポイント+対象が靴10ポイント)。

対象が男児ということで、+20ポイント(同性10ポイント+子ども10ポイント)。

75ポイントの変態さんです。

ポイントが高すぎます。変態さんのコングロマリットといっていいでしょう。今後は人様に迷惑をかけないように注意しながら、さらなる精進を期待します。
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江戸東京博物館で開催中の驚異の地下帝国 始皇帝と彩色兵馬俑展−司馬遷『史記』の世界に行ってきた。

平日の昼間だったので、予想よりすいていた。といっても、展示物が兵馬俑と分かりやすいものなので、それなりに覚悟した方がいい。「入るまで並ばなきゃいけないほどではなかった」ぐらいの意味である。

実は、兵馬俑の現物を見たのは初めてである。顔が一体一体違うとか、やたらリアルだとか、頭では分かっていても、実際に見てみると、これはもうため息がでる。西安で兵馬俑になりすまして立って逮捕されたドイツ人学生の気持ちが分かるというものだ。

まあ、そういう目玉商品のことはいくらでも書いている人がいると思うし、シロートの僕がウンチクを語ってもしょうがないので、それ以外で心に残った展示物を紹介する。なお、題目からすると秦代のものしかないように見えるが、むしろ漢代のものの方が多いので注意。副題の「司馬遷『史記』の世界」の方がメインテーマにふさわしい。商業上の問題だろう。

1.青銅の水鳥
始皇帝の副葬品で、青銅製1/1スケール。もともとは水鳥が川にいる様子を再現したものらしいが、これが実にリアルでバードウォチャーしか知らないようなところまで再現されている。鶴、雁、白鳥があって、雁がうまそうだった。

2.家畜俑
漢代の副葬品(だったと思う)。それほど大きくなく、床の間の置物に最適。野犬・犬・馬・羊・山羊・親豚・子豚で親豚・子豚がかわいい。羊は、中国でよく食べたアレだった。

3.全裸俑
全裸俑は僕が勝手に付けた名前である。これも漢代の副葬品で、身長40cmくらいか。10体ぐらいあったが、全部全裸である。なんで全裸かというと、埋葬された人物が、理想のヌーディストビーチを再現したかった・・・からではなく、もともとホンモノの布で出来た服を着ていたのだが、土中で腐ってしまって、陶製の本体だけが残ったもの。
服を着せるのなら、そんなにリアルに作らなくてもよさそうなものだが、ちゃんとしろまるしろまる(男女共)まである。宦官のチしろまるポの実態が見られる、数少ない資料である。
それにしても、モデルになった人は、よもや2000年も後にチしろまるポを衆目にさらすはめにあうとは思わなかったろうな。

番外.青銅器のチしろまる
あ、そうそう、3.で思い出した。こんなの何に使ったんだろう。日本では、性器信仰といって神社なんかでよく見るんだけど、漢代にもあったんだろうか?青銅の薄い板で出来ているので、はめようと思えばはめられそうだが・・・

始皇帝と彩色兵馬俑展は10月9日まで。まだ見ていない人は急いで行きましょう。
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学会で発表するってことは、一般の人にとっては大変難しいことだと思われるが、発表するだけならたいしたことではない。会員になって申し込めばいいだけである。断られることはまずない。

僕が知っているのは国文系の学会だが、理系でも同じらしい。

日本物理学会2006年度秋季大会で、ステキな発表があったそうだ。講演プログラム(分野・領域別)実験核物理領域にある「言葉が水の氷結状態と水中元素濃度に及ぼす影響」である。

この題目で検索してみると、発表者のレジュメ(要約)らしきものが引っかかった。

ようするに、水を入れた四つの容器に、日本語の「ありがとう」と「ばかやろう」、英語の「Thank you」と「You fool」をセロテープで貼り付けておいておくと、「ありがとう」と「Thank you」はカルシウムが増えて、「ばかやろう」と「You fool」では増えた後次第に減っていってなくなってしまうんだそうだ。すばらしい。そんなこと、普通やろうとも思わない。

自然科学は専門でないので、この際カルシウムが増えようが減ろうがどうでもいいのだが(でも、カルシウムはどっから来たの?という疑問もないではない)、面白いなと思ったのは、紙に書いた言葉が水に通じるという感覚である。

こういう感覚を持つってのは、日本人特有なんじゃないだろうか。僕が思うに、日本人ほど「言葉が通じない慣れ」していない民族はない。方言があってもそれなりに言葉が通じちゃうからである。外国語でも言葉だけで通じさせようとするから、逆にうまく話せなくなる。

僕が自転車で中国を旅行して思ったのは、中国人(特に田舎の人で方言しかしゃべれない人)は言葉が通じないのに慣れているということだ。

中国のド田舎をツーリングしていたとき、僕たちのところに爺さんが話しかけてきた。「パッポンペッポン?(と聞こえた)」何言っているかさっぱり分からない。これは僕の中国語が二歳児程度だからではない。一緒にいた留学経験のあるIさんも分からんと言っていた。とりあえず僕は笑顔を作り自転車を指差して「パッポン」と答えてみたら、爺さん「パッポンピー」と言ってニコニコした帰っていった。よく分からないけど、コミュニケーションが成立したのである。

考えてみると、爺さんは僕の語調で敵意があるかないかぐらいは分かったはずだ。初歩的なコミュニケーションに言葉なんてそれほど大事ではないのである。言葉なんて、パローレ、パローレパローレ・・・

上の水の発表も、ラベルにワープロ文字の言葉を書いて貼ったって、通じるわけはない。これで通じると思うのは、いかにも「言葉が通じない慣れ」をしていない日本人的な発想じゃないだろうか。「ありがとう」ならちゃんと感謝を込めて言え。「ばかやろう」なら怒りを露わにして怒鳴りつけろ。それなら、どこの国の人にも通じるのである。もしかしたら水にも通じるかもしれない。

僕は、どんなに心を込めても水相手に言葉が通じるとは思わないけどね。水には耳ついてないから。
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Google Earthは分かりやすく言えば、電子地球儀である。Google Mapの衛星写真を専用のアプリケーションにしたもので、ビヨーンと空を飛んで目的地へ行ったりできるので、距離感がつかめて面白い。ウルトラマンかなんかになった気分である。

最初は、お約束、自分の家を探してみたり、平壌やら北京やら見て喜んでいた。都市だとパリが面白かった。あんなところに住んだら、絶対に自分の家に帰れなくなるな。

山などの地形はポリゴンで示されるので、斜めから見ると、起伏が分かる。実写からポリゴンへ自然と移るので、地図と地形の関係がよく分かるのがすばらしい。

ビヨーン、ビヨーンとGoogle Earthで遊んでいるうちに、ちょっと面白い使い方を思いついた。

古典で飛ぶといえば、国宝『信貴山縁起絵巻』の飛び倉である。ご存知ない方のために、あらすじを紹介しておく。

信貴山の命蓮(みょうれん)は、いつも長者のもとへ、自分の鉢をピューッと飛ばして、お布施をもらっていた。ある日、長者が倉をあけていると、例の鉢が飛んできた。長者は「いつもいつもウザい鉢だ」と思って、この鉢を倉にしまってしまった。ところが、しばらくして、倉はぐらぐらとゆらぎ、空へ飛んでいってしまった。
びっくりしたのは長者様。あわてて飛んでいく倉を追いかける。ついたところが命蓮が修行していた信貴山である。
長者様、命蓮に「かくかくしかじかで鉢をしまったら倉が飛んでしまった。倉を返してくれ」と頼む。命蓮は「倉は飛んできたものだから返せない。それに、ここには倉もないので便利だ。だが、中身はいらないので返しましょう」という。「倉の中身は千石あります。どうやって持って帰りましょう」というと、命蓮は一俵だけ鉢に乗せて飛ばすと、残りの俵も、まるで雁が連なって飛ぶように飛んでいってしまった。

ということで、Google Earthを使えば、飛んだ倉(または鉢)の目線が味わえるわけだ。

『信貴山縁起絵巻』の巻1は「山崎長者の巻(飛び倉の巻とも)」といわれ、長者の家はサントリーの工場で有名な大山崎である。大山崎のどこかは分からないが、どこでも大して変わらないので駅をスタート地点にする。飛んでいった先は、信貴山の朝護孫子寺。ほぼ山頂だから、「信貴山」でOK。みなさんもやってみましょう。ピューッ。ちょっと高すぎるか・・・。

この飛び倉目線、なかなか爽快なのだが、長者が馬で追いかけて行ったにしてはちょっと遠すぎやしませんか?Google Earthは距離も測れる。測ってみると、直線距離で約31キロだった。

倉がどのくらいのスピードで飛んでいたのか分からないが、長者は馬で走っても最高で時速30キロぐらいだろう。走りっぱなしで1時間はかかる。ただし、当時の馬は、今のポニーくらいのサイズだから、とてもじゃないが走りっぱなしで信貴山まではいけない。休ませたりして平均時速にしたらせいぜい平均時速5〜10キロぐらいじゃないだろうか。

倉は飛んでいるので障害物はない。しかし、長者は道を行かなきゃいけないから、距離はもっと長くなる。淀川を渡し舟かなんかで渡らなくてはいけないし、信貴山は標高437メートルだから、登るのもちょっとした登山である。倉はご丁寧に長者を待っていてくれたのだろうか。それとも、ものすごくゆっくり飛んでいったんだろうか。

『信貴山縁起絵巻』の説話は『古本説話集』65話と『宇治拾遺物語』101話に入っているのだが、実はどちらにも「山崎」という地名は出てこない。『古本説話集』では「やまさとに下衆人とて、いみじき徳人ありけり」、『宇治拾遺物語』では「此山のふもとに、いみじき下す徳人ありけり」となっている。

絵巻の方はというと、最初の詞書が失われている。では、なぜ山崎かというと、『諸寺略記』に山崎とあること、絵巻に当時の山崎の産業だった油を絞る道具が描かれていることと、淀川(らしき大河)が描かれていることからである。

これは『古本説話集』で「やまさと(山里)」となっているのがカギである。信貴山の山里(どこかわからないけど)から飛んでいったのなら、十分追いかけられる。「と」と「き」はよく似ているので間違えやすい。おそらく、『古本説話集』そのものか、その元になったものを参照して絵巻が作られたのだろう。

というわけで、Google Earthの飛び倉気分も、あんまり意味がなかったというお話。
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10月に入った。夏休みに遊びほうけていた学生さんは「やばい、そろそろ卒論書かなきゃ」とか言ってるんじゃないだろうか。大学によっても違うが、あと二月ちょっとしかない。諦めなさい。まだ来年があるよ。

以前テレビを見ていたら、「南京大虐殺がなかったことは証明されているのに・・・」と、櫻井よしこ氏が血相を変えて叫んでいた。ああ、この人、ずいぶん頭がおかしくなっちゃったんだな、気の毒にな、と思った。(ちゃんと卒論の話にもどりますよ。ご心配なく)

僕がそう思ったのは、櫻井よしこ氏が「南京大虐殺がなかった」と主張したからではない。「なかったことは証明されている」と言ったからである。なかったことは証明できない。悪魔の証明という。

歴史的にあったことを証明するのは、一つでも証拠があればできる。それは、今あるものがすべてではない。見つかっていない証拠があるかもしれないのだ。だから、「ない」ことを証明することはできない。

南京大虐殺の例でいうと、たとえ、今あるすべての「あった」という証拠が、信用おけないものだとしても、将来的に信用のおける証拠がでてこないとは言い切れない。だから、なかったことは証明できないのである。

しかし、論文を書く場合、どうしても「なかったことを証明」しなくてはならないことがある。「しろまるしろまるは鎌倉時代以前にはなかった」の類である。だが、そういい切ってしまうと、櫻井よしこ氏と同じく「頭がおかしくなっちゃった認定」されてしまう。

そういう場合に論文でよく使われる、便利な言葉がある。それが「管見に入らない」だ。「しろまるしろまるが鎌倉時代以前にあったという証拠は管見に入らない」などと使う。

管見とは、細い管を通して見ることで「管を通してみたような自分の狭い視野では見つからなかった」という意味である。「管を通してみたような狭い視野」というのはもちろん謙譲だから、実際には「絶対にない」と言い切れるぐらい完璧に「ない」ことを探さなくてはいけない。これなら、万一なかったはずのことがどこからか出てきても、管の外だったので仕方がないということになる。

「南京大虐殺はなかった」のオバハンも、せめて「南京大虐殺があったという確実な証拠は管見に入らない」ぐらいにしておけばいいのである。「なかったことが証明された」では話を聞く気にもならない。
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