コンテンツにスキップ
Wikipedia

管区 (ローマ帝国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
テトラルキア体制下の管区

管区(かんく、古典ラテン語:dioecesis ディオエケーシス、ギリシア語:διοίκησις, dioikēsis)とは、帝政後期のローマ帝国における行政区画である。テトラルキア体制の始まりとともに創設された。複数の属州を束ねる中位の行政府を形成し、の下位に置かれた。

歴史

[編集 ]

「管区」という言葉が行政単位として初めて使われたのは、ギリシア語圏の東方である。キリキアアパメア、シュンナダの3つの「管区」がキリキア属州に併合されたと、キケロが『縁者・友人宛書簡集』の中で書いている[1] 。当時、「管区」という語は徴税の管轄区域と同義であったが、その地域そのものを指すようになった。

テトラルキアとして知られる帝国の再編は、ディオクレティアヌスによって290年代に始まった。属州を分割・縮小し、巨大な官僚制の下で、より管理しやすい単位へと変えたのである。属州は12の管区にグループ分けされ、最大の管区であるオリエンス管区 (Diocese of the East) は16属州、最小の管区であるブリタンニア管区 (Diocese of Britain) は4属州で構成された。各管区には管区代官(vices agens praefectorum praetorio, プラエフェクトゥス・プラエトリオ〈道長官〉代理)が置かれ、その統治に当ったが、オリエンス管区のみ代官ではなく総監 (comes) が置かれた。テトラルキア体制下では、2人の正帝は、それぞれ1人のプラエフェクトゥス・プラエトリオを従えていた。

4世紀半ばに道が確立された後は、管区は4つの巨大なに束ねられ、各道は道長官へと職務が変質したプラエフェクトゥス・プラエトリオが治めるようになる。その頃の管区は道と属州の中間に位置する行政単位として機能を果たしたが、その序列は厳格ではなかった。属州総督は道長官あるいは皇帝に直訴できたし、逆に道長官や皇帝が属州総督に直接命令を下すこともできた。

西ローマ帝国では、ローマの勢力衰退とともに管区は解体された。東ローマ帝国では存続したが、あまり機能してはいなかった。ユスティニアヌス1世が530年代の改革で管区のほとんどを廃し、属州総督の権限を強化することを好んだからである。この慣例は奪回したイタリアとアフリカにも及んだ。ユスティニアヌスはイタリア道とアフリカ道の道長官を任命し、各属州を直接監視させた。

管区の一覧

[編集 ]
4道確立後の管区
  • ガリア道
    • ブリタンニア管区
    • ガリア管区
    • ウィエンネンシス管区
    • ヒスパニア管区
  • イタリア道
    • イタリア管区
    • アフリカ管区
    • イリュリクム管区 - 379年に「パンノニア管区」から改称・移管
  • イリュリクム道
    • (パンノニア管区)
    • モエシア管区 - 327年頃に分割
      • ダキア管区
      • マケドニア管区

脚注

[編集 ]
  1. ^ Cic.Fam.3,8,4.

参考文献

[編集 ]

関連項目

[編集 ]
前期ローマ帝国の属州(3世紀以前)
本土
元老院属州
皇帝属州
皇帝私領
東方属州(115年 - 117年)
117年以前に存在した属州
上記は、ローマ帝国の領土が最大となった117年の属州。「東方属州」はトラヤヌス帝期にのみ存在した属州。
後期ローマ帝国の属州(4 - 7世紀)
歴史的背景

293年、ディオクレティアヌスによって属州の統治体制が再編され、新たに管区が制定された。は337年のコンスタンティヌス1世の死後、確立された。

ガリア道 (英語版)
ガリア管区 (英語版)
ウィエンヌ管区 (英語版)
ヒスパニア管区 (英語版)
ブリタンニア管区
イタリア道 (英語版)
イタリア郊外区
イタリア穀物区
アフリカ管区 (英語版)
パンノニア管区 (英語版)
イリュリクム道 (英語版)
ダキア管区 (英語版)
マケドニア管区 (英語版)
オリエンス道
トラキア管区 (英語版)
アシア管区 (英語版)
ポントゥス管区 (英語版)
オリエンス管区
アエギュプトゥス管区 (英語版)
その他

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /