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マウレタニア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 この項目では、古代マグレブに存在した国家について説明しています。現代の西アフリカの国家については「モーリタニア」をご覧ください。
マウレタニア
紀元前3世紀 - 44年
マウレタニアの位置
マウレタニアの領域(黄色の枠線内)
首都 不明
紀元前110年 - 紀元前80年 ボックス1世 (英語版)
紀元前25年 - 23年ユバ2世 (英語版)
23年 - 40年プトレマイオス (英語版)
変遷
成立 紀元前3世紀
プトレマイオス王の死40年
ローマ帝国の属州になる44年

マウレタニア(Mauretania)は、古代の北アフリカの地中海沿岸に独立したベルベル人のマウリ部族の王国。西アルジェリア、北モロッコジブラルタルを含む広大な地域を支配。その後はローマ帝国の支配下に入って、王国の歴史は閉じることとなる。この国に因み、ムーア人の呼称が生まれ、ムーア人が支配するモーリタニアはマウレタニアの後継を称して国号が付けられたが、ムーア人支配層以外には民族的な繋がりがなく、地理的には何の関係もない。マウリ人はギリシャ語の黒 mauros に由来すると示唆されている[1]

初期の記録にはフェニキアカルタゴの植民地リクサスヴォルビリスモガドールシェラとの関連が記されている[2]

ローマ領マウレタニア

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マウレタニア・ティンギタナ属州 (116年)
マウレタニア・カエサリエンシス属州 (116年)
ヌミディア及びマウレタニア王ユバ2世

カルタゴがローマ帝国に敗れるとマウレタニアはローマの属国とされ、ヌミディアユバ2世が属王とされた。23年にユバが死ぬと、ローマで教育された息子のマウレタニアのプトレマイオスが後を継いだ。プトレマイオスは40年カリグラに殺された。クラウディウス44年に勅令でマウレタニアを勅任総督によるローマ属州とした。

マウリ人の王統も維持され、忠誠や秩序の維持に利用された。キプリアヌス247年に「マウリ人は実際に王を崇拝し、偽装して名前を隠そうともしない」と記した[3]

クラウディウスはマウレタニアを現代のオランの西60kmのムルヤ川マウレタニア・カエサリエンシスマウレタニア・ティンギタナに分けた。

マウレタニアからはエクィテス出身の一人の皇帝マクリヌスが出た。マクリヌスは217年カラカラを暗殺して権力を掌握し、翌年ヘリオガバルスに敗れ処刑された。ディオクレティアヌステトラルキアの時代の293年にはカエサリエンシス東部がシティファを首都とするシティフェンシスに分割された。

ノティティア・ディグニタートゥム (400年頃)にはアフリカ管区のウィカリウスに2つ、ヒスパニア管区のウィカリウスにいくつかの記述がある。

ティパサ (アルジェリア) にあるジュバ2世の墓

関連項目

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脚註

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参考文献

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  • Westermann, Großer Atlas zur Weltgeschichte

外部リンク

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前期ローマ帝国の属州(3世紀以前)
本土
元老院属州
皇帝属州
皇帝私領
東方属州(115年 - 117年)
117年以前に存在した属州
上記は、ローマ帝国の領土が最大となった117年の属州。「東方属州」はトラヤヌス帝期にのみ存在した属州。
後期ローマ帝国の属州(4 - 7世紀)
歴史的背景

293年、ディオクレティアヌスによって属州の統治体制が再編され、新たに管区が制定された。は337年のコンスタンティヌス1世の死後、確立された。

ガリア道 (英語版)
ガリア管区 (英語版)
ウィエンヌ管区 (英語版)
ヒスパニア管区 (英語版)
ブリタンニア管区
イタリア道 (英語版)
イタリア郊外区
イタリア穀物区
アフリカ管区 (英語版)
パンノニア管区 (英語版)
イリュリクム道 (英語版)
ダキア管区 (英語版)
マケドニア管区 (英語版)
オリエンス道
トラキア管区 (英語版)
アシア管区 (英語版)
ポントゥス管区 (英語版)
オリエンス管区
アエギュプトゥス管区 (英語版)
その他

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