一、 東京市ニ於テ該土地買収ノ協議ニ対シテハ住民極力共同一致ノ行動ヲ採リ各人別ニ応セサル事となって、その団結を誓いあった。
二、 買収セラルヘキ土地ノ価額移転料地上物件移転中人々ノ手当及社寺堂宇其ノ他共有物等総テ一定ノ標準ヲ以テ起業者ト協議スル事ヲ各部委員ニ嘱託スル為メ移転民一同署名捺印スルモノトス右決議スル
承諾書調印拒絶書(8) こうした行動にもかかわらず、東京市は強引に土地取得を始めた。交渉は個々の地主と市との間の個別交渉という形で進められた。全体として次々に交渉に応じ、応じない人が8人となった。この人達は結束して上申書をもって、市へ陳情したり、弁護士と相談したり、粘り強く交渉したが、大正8年、国の強制収用により、全戸が立ち退くに至った。貯水池計画が提出されてから8年で土地取得補償は完了した。
東京市水道第二拡張ニ付高木村外五か村組合各村移住民及地主一同ハ昨大正三年九月市当局ノ意志トシテ貯水池敷地買収価格ノ二六新聞ニ顕ルルヤ当時売買格ノ半額ニ達セス其ノ低廉ナルニ驚キ市役所ニ向テ陳情セシモ要領ヲ得ス故ニ同月二十二日移住民約弐百名地主四百名余会同シ買収価格ハ不当ノ甚シキモノナルヲ以テ之ニ応セサルハ勿論該用地ハ他へ変更ヲ期セント決議シ直ニ市長へ上申シタル旧臘埼玉県入間郡山口村地内測量セシヲ目撃シ我々ハ稍先祖伝来ノ土地ニ離ルルノ悲惨ニ遭遇セサルニ至レリト稍ニ安堵セシニ今回上水道用地トシテ各所有者ニ配布セシメ之カ調印ヲ要請セラル此ノ算出ニヨレハ曩ニ低廉ナリトシ陳情セシ価格ヲ尚低減セシモノニシテ吃驚又吃驚如何ニ市当局ハ我々地主ヲ愚弄セラル、カ将ニ市ハ公共ノ為ナルヲ口実ニ我々世襲ノ財産ヲ奪取セラルルカ酷ハナ夕ハダ判断ニ苦メリ是ニ於テ承諾書ヲ拒絶候也
大正四年二月二十八日 以上
安い土地価格に抵抗した。
中島悦治先生は、本邦衛生工学の泰斗にして東京市水道の恩人なり。殊に嘱を受けて宮城東京御所の水道をはじめ東京市その他我国都市の大半に亘りて上下水道を計画施工。水道鉄管の基準の如きも先生が調査創定したる不朽の典型なり。宣なるかな先生の勲積はいやしくも天聴に達して、大正十三年五月特に旭日重光章を授与せらる先生栄与や大なりというべし。而して我学界並びに水道事業界はなお先生に倚頼する所多かりしに不幸に大正十四年二月十七日齢六十八を以ってなくなられる。先生の記念事業として日本水道史の編纂刊行を企図し、今又、先生と因縁浅からぬ此地に碑を建て先生の功徳を刻して景迎の意を昭にす。中島博士らの尽力によって、3貯水池が築造されたが、大正9年東京の人口は369.9万人から、さらに、昭和14年人口は735.4万人にのぼり、多摩川上流における小河内ダム建設が進められ、戦後昭和32年小河内ダムが完成する。しかし、なお都市膨張した東京都は、現在、その水源を利根川上流ダム群によって図られている。