「阿武隈川は、東北地方の南東部に位置する福島県白河郡西郷村大字鶴生の1,835mの標高を持つ旭岳にその源を発し、これより渓流は東に向かって流れ、白河市を経てから北に向きを変え、阿武隈高地および奥羽山脈から発する社川、釈迦堂川、大滝根川、五百川、移川、荒川、摺上川等の支川をあわせて、福島県のほぼ中央である中通り地方の安積、信夫盆地を北上し、狭窄部を経て、宮城県に入り、さらに白石川等の支川をあわせて仙南平野を東流し、岩沼市において太平洋に注いでいる。その幹川239?q、総延長1,931.10?qで、その流域は福島・宮城・山形の3県にまたがり、流域面積は5,400km2を有する大河川である。流域人口は約126万人を擁し、福島・宮城両県における社会、経済、文化の基盤を成し、本水系の利水と治水について果すその意義は極めて大きい。」七ヶ宿ダムが建設されたのは、この阿武隈川水系左支川白石川である。白石川は流路延長60.2?q、流域面積813.6km2という阿武隈川最大の支流である。白石川は奥羽山脈蔵王山系の山形・宮城県境の金山峠(標高806m)を水源とし、苅田郡一帯の山間の渓流を集めて東流し、蔵王山系の南東麓を流下して白石市塩倉にて北折し、同市福岡蔵本付近で北東に向かい、白石市北西部を流下、平地部に入り、斉川、児捨川、松川などを合わせ阿武隈川に合流する。
「昭和54年6月29日 午前10時、七ヶ宿町立関中学校、七ヶ宿ダム建設に伴う損失補償基準発表会場。着任早々の小暮用地部長から大山渡瀬ダム対策委員長、岩松小原地権者会委員長に基準書を提示し、山川用地第二課長から内容の説明に入った。説明が建物移転料の項に入った時と記憶している。「−−−−−!」突然、渡瀬ダム対協の役員の一人が叫び声をあげた。それを合図に全員がパンフレットを天井目がけて放り投げ、総退場してしまった。それをみた小原地権者の会員も退場を始める。 地建職員及び県、町の関係者を残して地権者全員が退場するまで3分程度を要しただろうか。当時調査立入等で地権者と第一線で接していた小生は、当日、受付係として出入口でこの様子を目撃したが、付き合っていた役員が噛み付くようにして、抗議しながら出て行ったあの日を、いつまでも忘れないだろう。このことがあってから、事務所と対協の関係が正常化するのに、富沢町長のあっせんにもかかわらず、数ヵ月を要した」このことについて、斉藤賢一七ヶ宿ダム工事事務所長(在職期間 昭和53年4月〜58年6月)も、次のように述べている。
「七ヶ宿ダムのこれまでの歩みは、正に用地の歩みであり、生みの苦しみから誕生の喜びへの歳月であったかと思われます。私は、その後半をたずさわらせて頂きましたが、苦労が多いほど、思い出も深いとかで、過ぎし日のさまざまのことが、昨日のことのように想い出されてなりません。図らずも、小野寺用地係長と斉藤所長は、昭和54年6月29日の補償基準提示日を忘れえぬ一日と意義付けている。結果的にはこの日を境として、起業者と地権者とが真の信頼関係を築く契機となったのではなかろうか。そして昭和55年8月27日「七ヶ宿ダム建設に伴う一般補償協定」が締結された。
忘れもしない悪夢のような出来事−それは昭和54年6月29日の基準発表会での一斉退場です。罵声と怒号で騒然とする中で、呆然と立ちつくし、最後に重い足どりで去って行った大山委員長の後姿、その時の様子は今でも忘れられません。そこには自分の姿も重なって見たように思えてならないのです。このハプニング以来の半年間はお互いに相手の出方待ちのにらみ合いが続きましたが、結果的にはこの冷却期間が地権者内部に自浄作用が働いたことになったと思っています。
補償基準の発表は、従来から地権者全員を集めた発表会の場で公表する形式がとられてきましたが、それを逆手にとられるようでは、むしろ考え直さなければとの教訓になった苦い経験でした。
そして補償協議が再開され、緊迫した交渉を経て、補償額の詰めが最終的に合意した時は、本当に感慨無量なものがあり、ほっとした思いでした。私のみならず苦労に苦労を重ねてきた関係職員の一人一人が同じ心境であったと思います。宿願かなって晴れて迎えた妥結調印式、その日のことは生涯忘れえぬ思い出です。協定書調印に先立ち、経過報告をさせて貰いましたが、報告の途中から押さえていた感情が段々昂ぶるのをどうすることも出来ず、絶句すまいと懸命に努力したものでした。」