北上川の治水は、藩政時代からも大きな課題であったが、洪水対策が岩手県議会で論議されるようになったのは、市町村制が確立した明治22年からであった。明治44年から下流部、昭和初期には上流部でも改修工事が行なわれた。しかし、目だった効果は上がらなかった。北上川は一関狐禅寺から宮城県境までの間に、約28?qにもおよぶ狭窄部を持つ。そのため洪水時に、流水を速やかに下流に流すことができず狭窄部上流部の一関周辺に流水が滞留し、大きな被害を出していた。盛岡から一関間の改修計画がまとめられたのは、昭和16年に至ってからであった。昭和10年頃から東北振興熱が高揚し、岩手県から改修促進運動が展開され、また軍需面から電源が必要となり、河水統制思想と相まって、昭和16年多目的ダム群による洪水調節をもつ北上川改修計画が樹立した。
「わが故郷は、御所ダムの建設によって千古の歴史を秘めながら永久に湖底に没し去った。私達つなぎ地区の水没関係者一同は永久に往時を偲びつつ絶ちがたい望郷の念をこの碑に刻み新しい町づくりに努力することを誓いあうものである。」御所ダムにおける水没520世帯という多くの地権者に係わる用地補償の特色について、次のことがあげられる。
「われわれが全く予想もしなかった中東戦争勃発、日本経済も根底から揺るがす歴史的事件であるオイルショックが起こりました。高度経済成長をつづけてきたさしもの日本経済も、一転して低成長経済時代に突入への翳りをみせ、国の予算も果たして49年度から強力な総事業抑制策がとられ、ダム事業を含む建設事業が殆んど沈滞の方向へと向かっていったのです。?A 笹川栄志所長
丁度この時起こった痛恨この上ない石幡所長の殉職事故は、苦難の時代を迎えて呻吟するあの頃の象徴的な出来事として無念な憶いにかられるものでした。
事実ダムもこれから最盛期を向えようとしていた本体工事や道路付替工事の遅延はもとより、残されていた公共補償や環境問題のからみがあった原石山採掘の地元の合意も容易に得られず、充たされぬ日々を送っていたことを思い出します。
困難を極めた用地問題や環境保全の問題をめぐっては、「生活再建等連絡会」の設立と"御所ダム方式"による水特法第1号ダムの指定とか、このことを記録した映画"用地交渉の記録"の作成、また「御所湖汚染防止対策調査委員会」の成果と「御所湖開発協会」による水没予定地内の砂利販売資金を活用した「貯水池周辺の環境保全事業」の推進、そして原石採掘後の緑化を目的とした「見手が森原石山緑化懇談会」の設立等、幾つかの特筆すべき試みがなされましたし、また技術的な問題としてもロックフィル堤体の基礎処理をめぐって他に類例を見ない地質的悪条件を如何に克服するか、心血を注ぐ調査が繰り返し行われ、ありとあらゆる検討を昼も夜も続けてきたことが、今となっては忘れえぬまま脳裏に深く刻まれています。
こうした苦闘が次々と引き継がれ、ともに"生まれ出ずる悩み"を味わいつつ遂に御所ダムの完成を見たとき、そこに互いに世代を超えて建設に携わった者達の"生きた証し"を見る思いがいたします。ダムの竣工の日、広い湖面を白い航跡を残して走り去る一隻のボートを見て、ついこの間まで、この湖面に古い歴史と伝統をもった沢山の人々が生活し、またダムを造るために如何なる努力も惜しまなかった多くの人達がいたことを思い、深い感慨に誘われるのでした。」
「私が御所ダム勤務を命じられたのは、昭和51年8月で、オイルショクによる影響も終わり、ダム本体工事も、コンクリート部が約半分の10万m3まで打設が進みいよいよフィル堤体部の着手に向けて、実施設計を確定すべき時にあった。
このダムには、技術的に解決しなければならない2つの大きな問題があった。その1は右岸越流をコンクリート重力式堤体とし、中央から左岸にかけて非越流部を、中央コア型ロックフィル堤体とする複合ダムであるため、この接合部をどのようにするかであり、その2は河床部から左岸部を厚く覆っている、火山泥流堆積物の処理である。
1の接合部については、本省土研の指導と協力を得て、各種の解析と検討の結果、ダム軸方向の勾配を1:0.65とし、やや上流に傾ける事で解決されていた。
2の火山泥流堆積物の処理については、河床部の火山泥流堆積物を掘削するかどうか、決定しなければならないが、この火山泥流堆積物の性状、その下の基礎岩盤である角礫凝灰岩の岩質、更にこの間に挟在する旧河床堆積物の分布と性関等これまでの調査ボーリングを主体とした調査では確かめ得られない点があった。このため、調査ボーリングに加え、竪坑によって直接観察することとした。
一方、昭和51年6月米国のティートンダムの決壊があって、フィルダムについても監査廊の必要性が再認識され、本省、土研その他の方々の指導を得て、河床部の火山泥流堆積物を掘削し、基礎岩盤に監査廊を設計、更に左岸部について、この境界部の処理を兼ねて100mのトンネル監査廊として終端からシャフトを立ち上げて、管理所へと接続させることとした。このため、セパレートウォールの一部変更、監査廊の設計、ボーリンググラウトによる岩盤基礎処理等、技術上の問題で悩まされたが、関係の皆さんの努力で一つ一つ解決されていったものであります。」