五十三年二月のことである。木曽最上流部の味噌川ダム=長野県木曽郡木祖村の実地調査をしていた水資源開発公団に、地元・木祖村の日野文平村長が、たまりたまったうっぷんをぶちまけた。
〔村長の一言で愛知県動く〕
「水をもらう愛知県は、地主にあいさつもせんで大工を送り込むのか」
怒りを伝え聞いて愛知県の幹部が、初めて現場にすっ飛んできた。体育館の落成の日でもあったが、村長はモーニングに威儀を正して(?)愛知県との初交渉に臨んだ。
「名古屋の衆は、木曽の水を持ってって水洗便所を使う。しかし、木曽に水洗便所はほとんどないんですぞ」
「昔、尾張藩は、木曽のヒノキを守る私らに年間一万石の米をくれていたことを知ってなさるか」
ダム建設に伴う上流部と下流部の宿命的な利害の対立は、数え切れない。が、きわめて複雑な状況といわれた味噌川ダムの場合は、この村長の一言から劇的な展開を繰り広げていった。
木祖村の中心・薮原から山道をジープで三十分。村の名前の通り「木曽の祖」ともいえる木曽川の源流点近くがダム現場である。周辺の民有林、村有林約百五十haが湖底に沈む計画を知らされた当初、村人たちの心には複雑なキ裂が走った。
まず、補償の実態を調べていた関係者は、現行法規をみてガク然とした。水源地域対策特別措置法では「水没農家三十戸以上または水没農地三十ha以上」が補償の基準で、家屋も農地もない味噌川ダムは適用外だったのである。
法の基準に達しない地域を救う「水源基金制度」(東海三県と名古屋市で設置)でも、長野県が加盟していないため、木祖村への補償・援助はダメ。「そんなバカな」「先祖代々守り育ててきた森林を、むざむざ沈められてたまるか」
が、どんなに調べても、公団からの直接補償以外、木祖村への見返りは制度的に何もないのが実情だった。愛知県が「地主にあいさつもせんで大工を送り込んだ」のはまさにこの理由からだったが、村の人たちからは当然のように不満がわき上がった。
「こんな状態で名古屋がそんなに水がほしけりゃ、濃尾平野に池を掘れ」とまで言い切ってうやむやな法や制度に率先して挑みかかったのは、元陸軍少尉の熱血漢、日野村長自身だった。
郷土史を調べる。信州・木曽地方は江戸時代、ずーっと尾張藩に属した。明治になって一時、名古屋県の所管になっている。なぜか。理由は木である。御岳のすそ野に広がる広大なヒノキの天然材は、木曽川を下って熱田・白鳥(名古屋市)貯水場に集められ、江戸城、名古屋城とその城下町、伊勢神宮など中世・近世日本の重要な拠点を造り続けてきたのだ。
尾張藩はここを直轄地とし「木一本、首ひとつ」の過酷な林政をしいた。が、古文書はまた、その見返りとして尾張が木曽に年一万石の米を与えていたことも示していた。その米の一部は尾張藩の命で伊那地方から送り込まれたとか。だから伊那節の中にも、木曽へ木曽へとくり出す米は、伊那や高遠のなみだ米〈余り米ともいう〉とある。
「これだ!」。こぶしを握りしめた村長は冒頭に紹介した愛知県との最初の交渉から、この歴史的事実をぶつけていった。
「三百年も昔に、上流と下流はギブ・アンド・テークの関係を持っていたんですぞ」「木が水に代わっただけ。法や制度を乗り越えてこそ、真の交流が出来るんじゃないか」
村長が提出した木と水の膨大な古文書は、愛知県の仲谷知事の手元に届き、難航していたダム問題は一気に解決の糸口を見出した。昨年五月、同県は木祖村への制度外援助を歴史的事実に基づいて了承、仲谷知事と西沢長野県知事とのトップ会談で最終的合意に達した。
「ダムが建設された地点は、標高1,100mと日本の多目的ダムの中では最も高い位置にあり、最低気温が−20°C以下まで下がる厳しい気象条件下にあります。また、ダムサイト付近は、複雑な地質構造を示し、地質は砂岩、粘板岩とその互層よりなり、全体に割れ目が多く風化が深部におよび、決して良好ではありませんでした。このように厳しい施工環境や恵まれない地質条件のなかで堤体積890万m3の中央土質しゃ水壁型のロックフィルダム築造と付替林道、工事用道路等の付帯施設の施工を行ったものであります。」