◆だいやまーく 4. 森吉山ダム建設の歩み
昭和47年7月における大水害をきっかけとして、森吉山ダムは米代川水系阿仁川右支川小又川に、平成23年に完成の予定である。その森吉山ダムの建設をおってみる。その過程には、水没者及びその関係者、秋田県・北秋田市・国土交通省等の関係者の並々ならぬ苦労が伴ったことであろう。
昭和47年7月 米代川戦後最大の大洪水が発生
48年4月 阿仁川ダム調査事務所開設、実施計画調査に着手
49年7月 米代川改修計画策定
61年4月 阿仁川ダム工事事務所に改称、建設採択
62年4月 建設省所管事業に係わる環境影響評価を実施
63年2月 「森吉山ダムの建設に関する基本計画」告示
3月 水源地域対策特別措置法・ダム指定
4月 森吉山ダム工事事務所に改称
平成元年3月 下流工事用道路基本協定締結、工事着手
3年6月 森吉山ダム建設事業に伴う一般補償に関する協定の締結及び基準の妥結調印
4年1月 水源地域対策特別措置法・水源地域に指定
8年7月 全戸移転完了(貯水池・付替道路・貯水池上流 合計200戸)
12年6月 「森吉山ダムの建設に関する基本計画(変更)」告示
14年3月 ダム本体工事に着手
4月 米代川水系河川整備基本方針策定
5月 「森吉山ダム本体工事監理試行業務」を契約
9月 森吉山ダム広報館開所
15年11月 小又川を仮排水トンネルへ切替(転流)
17年3月 米代川水系河川整備計画の策定
5月 広報館来館者10万人達成
6月 森吉山ダム定礎式
18年10月 洪水吐きコンクリート打設完了
19年8月 堤体盛立完了
9月 S47年洪水から35年後、再び大洪水発生
11月 広報館来館者20万人達成
20年5月 付替道路全線開通
21年10月 ダム湖の名称・森吉四季美湖に決定
22年1月 試験湛水開始
(2) 桐内沢(きりないさわ)
棚田が山の斜面に整然と配置されていた桐内沢は、かつては森吉山への登山口として各地から登山者が訪れた。森吉小学校桐内沢分校(昭和55年閉校)での運動会は、住民がひとつになって大いに盛り上がった。集落の祭神は天照大神(桐内沢神明社)。移転時の戸数は17戸。
(3) 姫ケ岱(ひめがたい)
姫ヶ岱の地名は、「小さな台地」を意味する。小又川対岸に森林軌道が敷設されると、ガソリン車に乗るため、人々はワイヤーでできた吊り橋を渡って往来した。小さな集落だったので、農作業や行事・祭りごとは、様田集落と共同で行った。移転時の戸数は7戸。
(4) 様田(さまだ)
古くから岳詣り(森吉山登山)の登山口として知られ、小又川はここで大角(おおかど)、小角(こかど)と呼ばれる流域随一の美しい渓谷をつくっていた。隣接する向様田の住民とは、冠婚葬祭やさまざまな行事で互いに協力しあい、強い結びつきがあった。集落の祭神は薬師如来(様田薬師堂)。移転時の戸数は19戸。
(5) 向様田(むかいさまだ)
集落の背後には、かつて森吉地区が馬産地であったことから、草競馬を行なった「馬の運動場」があった。さらにその一段上に台地があり、そこで森吉小学校と地区青年団合同の運動会も行なわれた。集落の祭神は様田と同じ薬師如来(向様田薬師堂)。移転時の戸数は11戸。
(6) 惣瀬(そうせ)
開村当時は惣瀬沢の奥にあり、後に川岸近くに移ったといわれている。かつて森吉方面との往来には、小又川の浅瀬「羽子の渡り」を通ったものという。応神天皇を祭神とする惣瀬八幡神社境内にそびえる大イチョウは、集落のシンボルとなっていた。移転時の戸数は17戸。
(7) 森吉(もりよし)・天津場(あまつば)
移転集落の中でもっとも規模の大きい森吉は、藩政時代の開村当時から地域全体の要として中心的な役割を果たしてきた。正確には天津場集落と森吉集落からなり、戸数も人口も多い地域だけあって、森林軌道(ガソリン車)は上り下がりは必ず停車し、学校、保育所、郵便局、駐在所、診療所などの公共施設がそろっていた。不動明王を祭神とする森吉今木神社の祭典(4月28日)は、集落あげて盛大に行われた。移転時の戸数54戸。
(8) 鷲ノ瀬(わしのせ)
鷲ノ瀬の「鷲」は、小又川流域では表層雪崩を意味する。この地域一帯がワシの常襲地帯であったことが地名の由来といわれている。鷲ノ瀬橋上流の千畳敷は、景勝地としてしられていた。集落の背後の小高い丘に鷲ノ瀬神社があった。移転時の戸数は8戸。
(9) 砕渕(じゃきぶち)
砕渕の地名は、川が出尾根に当たって砕ける様子に由来したものとされている。その名の通り弧を描いて蛇行する小又川は、この附近の随所で水流が砕け散る峡谷となって流れていた。集落の祭神は応神天皇(砕渕八幡神社)。移転時の戸数は4戸。
(10) 深渡(ふかわたり)
川向に小又川第一発電所があったことから、発電所に勤務する住民が多く、他地区からやってきた発電所勤務者との交流も生まれた。深渡から先はダム湛水区域外となるため、集落のあったあたりはダム完成後も水没しない。集落の祭神は稲荷大明神(深渡稲荷神社)。移転時戸数は10戸。
(11) 小滝(こたき)
本校の森吉小学校から5.5キロ離れた小滝分校(昭和52年閉校)は、小滝のほか上流の女木内などを学区としていた。校庭が狭かったため、村をあげてのお祭りのような運動会は1キロ離れた新平衛岱(しんべえたい)で行なわれた。薬師如来を祀る小滝薬師堂(稲荷神社)があった。移転時の戸数は17戸。
(12) 湯ノ岱(ゆのたい)
昭和初期から奥羽無煙炭鉱と東北無煙炭鉱の2つの炭鉱が操業し、最盛期の昭和30年代には、鉱夫の住宅、小中学校、映画館、商店などが立ち並び、大変な賑わいをみせたこともあった。集落移転後も国民宿舎森吉山荘と杣(そま)温泉旅館が残っている。集落の祭神は少名ひ古那(すくなひこな)湯ノ岱神社。移転時の戸数は7戸。
(13) 平田(へいだ)
湯ノ岱のさらに上流にあり、昭和28年に完成した森吉ダムと太平湖に近く、森吉山ダム建設による移転時には、小又川流域でもっとも奥にある集落であった。集落の手前の高台に応神天皇を祀る平田八幡神社があった。移転時の戸数は6戸。
(14) 女木内(おなぎない)
集落附近を流れる小又川は、新緑や紅葉が美しい女木内渓谷となっていた。だが、いったん雪が降ると雪崩の危険を避けるため、夏の道と異なった冬道を作って通行するなど、住民は大変な苦労を強いられたものであった。集落の祭神は稲荷大明神(女木内稲荷神社)。移転時の戸数は5戸。
森吉山ダムによって、14の集落の人々は、故郷をあとにせざるを得なかった。どの集落も神を祀り、そして生活を営み、有一の楽しみの行事は、春祭り、秋祭り、運動会であった。これらの行事は集落の人々の強い絆を創ってきたといえる。
◆だいやまーく 7. おわりに
前掲書『ダムに沈む「むら」森吉町森吉』を読みながら、水没者の望郷の念は尽きない。
「ダム建設とはいえ、古里がなくなってしまうのは本当に寂しい。おれたちはここで生まれ、育った。思い出がいっぱいあるんだから。」「先祖からもらった土地をダムに沈めるのは並大抵のつらさではない。」これらの心情には心が打たれる。「年も年だし、これからは何にも楽しいことはないと思っていた。でも考えようによっては、ダムができることで新しい一歩が踏み出せるかもしれない。」この姫ケ岱集落の庄司与次郎さんの前向きな生き方に救われる。
平成21年10月27日ダム湖名称選定委員会が開かれ、ダム湖の名称を「森吉四季美湖(もりよししきみこ)」に決定した。地名である「森吉」と四季折々の美しい湖をイメージとされたからである。森吉四季美湖周辺は、森吉山県立自然公園など手つかずの自然が多く残され、新緑や紅葉などの時季には、湖と調和した新たな安らぎの憩いの場を与えてくれることとなる。
最後に、米代川、森吉山ダムに関する書を掲げる。森吉山ダム工事事務所では、森吉山ダム建設にあたって、森吉町の暮らしや歴史、自然、文化などを記録し、保存するために次のような書を刊行した。
・能代工事事務所編・発行『米代川ガイドブック』(平成12年)
・川村公一著『米代川−その治水・利水の歴史』(森吉山ダム工事事務所・平成6年)
・宮腰喜久治・絵『母と子の絵本ものがたり 阿仁川のたび』 (森吉山ダム工事事務所・平成7年)
・森吉山ダム工事事務所発行『阿仁川流域の手しごと』(平成9年)
・同発行『阿仁川流域の郷土料理』(平成10年)
・川村公一編・著『森吉路−過去から未来へ』(森吉山ダム工事事務所・平成5年)
・藤原優太郎編著『森吉山麓風土記−ブナとモロビの里』(森吉山ダム工事事務所・平成5年)
・無明舎出版編『写真記録 森吉山麓の生活誌』(森吉山ダム工事事務所・平成6年)
・森吉山ダム工事事務所発行『森吉山麓 菅江真澄の旅』(平成11年)